はてなキーワード: 「じじ」とは
タイトルを見た段階で「ゾッ」とした人は多いと思う。すみません。
しかしながら、わたしも文言を打ち込んで、改めて「ゾッ」とした。
この「ゾッ」という感覚にどうしようもなく支配され、打ちのめされていた時期を、わたしは忘れることができない。
「ゾッ」とした感覚を忘れることはできないが、今、わたしは精神的に健康に、明るく過ごせている。
今、わたしが精神的に健康で、明るく過ごすことができているのは九分九厘、飼い猫が元気に過ごしてくれているおかげである。
「飼い猫の断脚」から約四か月が経過し、現在の猫の様子も加味して、ようやく「飼い猫の断脚」に対する重圧が軽くなってきた。
そこで、「飼い猫の断脚」についてのあれこれ(事の顛末、断脚前後の猫の様子、それに伴う人間の情動の変化、現在の猫の様子など)を、ここに記しておく。
このような活動は、とてもじゃないが精神的な負荷が軽くなければできない。現在とても健康的に暮らしている飼い猫に感謝しながら、この日記を書きたいと思う。
今年十五歳になる飼い猫を、仮に「じじ」と呼ぶことにしよう。
じじは約三年前、様々な理由から実家で面倒を見る人間がいなくなった猫だった。そこで、引き取り手として名乗りを上げたのがわたしの家庭だった。
同居している家族や先住猫は、じじとは殆ど面識がなかった。だが、幸いにも我が家の住人とじじは打ち解けるのが早かった。
じじは我が家にやってきてすぐ、他の猫に交わってリビングの中央に横たわり、堂々と眠るようになった。その眠っている横を通りすがるとき、じじの頭をひと撫ですると、尻尾をぱたん、と床に打ち付けて返事をする。
人間に対しての愛想は良い。人間とのコミュニケーションを恐れず、友好的に人間に接する紳士的な態度は客人から気に入られることも多かった。
じじは十歳を過ぎたおじいちゃん、且つニューフェイスにして、瞬く間に我が家のアイドルとなった。
だが昨年、十年以上病気知らずのじじに変化が訪れた。
ある日、わたしがじじの歩く後姿を眺めているとき、気がついた。左後脚の関節が、コブができたように腫れ上がっていたのである。
町の動物病院へ連れて行ったところ、「うちでは原因を究明できません」と断言され、腫瘍科のある医療センターに紹介状を書いてもらった。
じじの体を蝕んでいる病は、悪性リンパ腫だった。所謂、リンパ腺のガンである。この病気に罹患して一年以上生存するケースは稀らしく、脚の関節に腫瘍ができるケースは更に稀だという。
獣医療の中でもケースが稀ということは、適切な対処がまだ正確に確立されていないということだ。
脚の関節にできている腫瘍は関節を取り囲むようにして癒着しているため、腫瘍のみを切除することは難しいという。
対処としては薬物療法か、放射線治療か、断脚か。前者二つの治療法を実行したとしても、副作用は重い。
いずれにせよ、肥大化した腫瘍を完全に消滅させる見込みはなく、そのままではいずれ歩けなくなることは明らかである。断脚を行うなら早めに。
※かなり要約したが、主治医は徹頭徹尾、いずれかの治療法を強く勧めるようなことは言わなかった。どの治療法にもメリットとデメリットがあることをわたしたちにきちんと説明した上で、飼い主がどの治療法を選択するか、丁寧に寄り添い、真摯に向き合ってくれた。
つらい時期だった。
こういった、重い決断が目先に迫った場合に採りがちな「様子見」という選択が、このときばかりはできなかった。
猫の脚を切るか、重い副作用がある治療を猫に受けさせるか、病に蝕まれるままに猫の命が尽きるのを待つか。
いずれも、人間のエゴイズムによる選択であることには変わりない。
結局、タイトルにも記した通りの選択をした。断脚を選んだのだ。
主治医から「猫ちゃんは三本脚になっても元気な場合が多いです。じじちゃんの場合年齢の割に元気ですし、手術を乗り越えれば生存する確率は高いと思います」と告げられたのも、救いの光のように感じられたからだ。
「残りの命を少しでも健康に、楽しく生きてくれるなら」という祈りのような、賭けのような思いで、断脚手術を決断した。
断脚手術を経て、変わり果てたじじが我が家へ戻ってきた。
以前からやせ細っていたじじが、脚が無くなって更に軽くなった3kgの体重を、三本脚で支えながらよぼよぼと歩いている。
便意や尿意を催すと真っ直ぐ猫用トイレに行く。とても賢い。だが、ぎこちなく動かすしかない一本の後脚をトイレの中に入れられず、トイレの外で何度も粗相をした。
泣かずには、落ち込まずにはおれなかった。ああ、自分は選択を誤ったのかもしれないと、粗相の後片付けをする度に思った。
もちろん、家族も泣いていた。一緒に泣いて、悲しんだ。じじの脚を、自分たちの意志でひとつ無くしてしまったことを、心の底から後悔した。
人間のエゴイズムで、愛する猫を不幸にしてしまったかもしれないという現実に「ゾッ」として、それがどうしようもなく全身にこびりついたまま、しばらく剥がれなかった。
じじが、二階にある寝室まで階段を駆け上がってきたのだ。しかも、ジャンプしてベッドの上に乗ってきた。
ニャン!と啼いてベッドに乗り、喉から轟音を鳴らして甘えてきたとき、感動でわたしの体は震えた。
更に、喜ばしいことは日に日に増えていった。
これまで使っていたトイレを、より広く、段差が小さいものに変えたところ、トイレが使いやすくなったらしく粗相の回数が激減した。
痩せたじじの体重を増やすために朝晩猫缶を与えるようになったのだが、味を占めたのか昼夜問わず催促し、三本脚でチョコチョコと人間の後ろを着いて回るようになった。
そして、まんまと体重も増えた。手術前よりもふくふくとしたボディラインになり、猫缶をモリモリ食べる姿が様になってきている。
じじが個体として凄かったのか、そもそも猫が凄いのか分からないが、ともあれ、途轍もない適応能力に感心しきりだ。
三本脚にする選択を採り、今までよりも不便な生活にしてしまった後悔や、「断脚」という野蛮な言葉が齎す「ゾッ」という感覚はまだ存在する。
だが、じじは健康に生き延びてくれた。
猫缶をモリモリ食べ、うんちもおしっこも毎日ジャンジャンして、家中を駆け回り、ごはんを催促してニャンニャン大声を出し、寝る前は寝室まで甘えにきて喉をゴロゴロ鳴らす。
じじは十五年間生き延びて、現在でも毎日毎日、元気で健康的な姿を人間に見せてくれている。
その姿は美しく、勇敢で、立派だ。そんな猫の姿を見られていることに、わたしは心から感動している。
今はただ、こんなに嬉しいことはないと、切に思う。