はてなキーワード: 天災とは
駅に張り紙あって電話していってみたの。私が行ったのは、もうずいぶん前、大震災の直後でした。
大震災直後に、お見舞い電話を装って、心療内科通ってるメンヘラ女性が神奈川から電話してきて、
(当時はそんな人とは知らなかったので純粋に地震の心配をしてくれたと思い電話に出たの)
凄い意地悪言われて、話題を選んで欲しいと言ったのに「私が喋りたいんです、イヒヒ」って言われ。
震災直後で、ただでさえ疲れちゃったので、どこか相談したかったの。カウンセラーは元高校の先生だったよ。
カウンセリングも安かった。その時だけだなぁ。震災なければ、そのメンヘラ女性がかけてこなければ、行かなかったと思う。
天災と人間関係(しかもよく知らないWebの知人)Wだったので。
このへんまとまってる。
保証期間内だからEarPodsの無償修理を頼んだら断られたって話。
外ではBeats Xがあるから、もっぱら室内で音ゲー用に使ってた。
読むのめんどくさいだろうから3行でまとめると
ってこと
いかんせんAppleの(というかiPhoneの)ケーブルはゴムの材質がひどい。
最初はデザインも恰好よくて満足感あるけど、使っていくうちにゴムが紫外線で
劣化して変色するわ、一部の表面が粉吹き状になるわ、ボロボロとゴムの粉が落ちるわ…。
しまいにはやぶれたり、穴が開いたりしてまともに使えなくなる。
数年前にLightningケーブルでも同じようなことがあって、その時もUSBの付け根のゴムが
今回も同じかと思って連絡したら驚いたわ。
このゴムすぐ劣化してY字あたりのつなぎ目はずれるやん?(今回もなんだが)
まあまあ、わからんでもないですよ。
ふいに力入れて引っ張っちゃった結果、破れるケースとかもあるだろうしさ。
でもさあ、Y字の片方だけがポロリしちゃってるんですけど、これは俺が普段から片方しか
使ってないってことなの?
下記のリンクの「1.8 故障の原因が事故、不適切な取り扱い、液体の接触または侵入、不注意、
誤用 (Apple または Apple 正規サービスプロバイダ以外の手による不適切なインストール、修理、
メンテナンスを含む)、不正改造、過酷な環境 (異常な高温または高湿度など)、過度の物理的または
で、だ。
Appleいわく「今回のケースは「その他の外的要因」であると考えられる」んだって。
じゃあそれ教えてくれたらもういいよ、って言っても全然教えてくれないのね。
そこはハッキリさせとこうよ、こっちも聞きたがってるんだしさ。
いろいろ思うところもあるけど
・EarPodsにしろLightningケーブルにしろゴムがクソすぎる
・クソ材質起因の破損をユーザーに責任転嫁すんな(←これマジでなんとかしろ)
ってこと。
書き忘れてたけど、
よく考えて送ってきてね?
って「とっても親切」なアドバイスもありましたね。
https://note.mu/yoppymodel/n/n9f2c3a80f092
ヨッピーの「お金の話について」がバズっている。だが、そもそもお金の話をする前に、どういう生き方をしていくかについての前提を共有しておく必要があるのではないだろうか。
すでに大企業や中堅企業に在籍し、業界を見渡せる強ポジを確保した勝ち組ならともかく、装備も満足に整っていない状態でフィールドに放り出された我々が目指すべき方向性は、経済的自立の実現だ。
近い将来、人口減少や天災、治安の悪化、それらに起因した労働環境のブラック化が予想される中、何の取り柄もない一般人にとって資格も免許もいらない最も現実的なワークスタイルが個人事業主であり、つまりは一億総ヨッピーを目指すということだ。
ヨッピーとは、すなわちPCが1台あれば世界のどこにいても価値を生み出せるスキル、そのスキルを効率良く現金化できるブランディングと営業力、そのサイクルを回していく気力を銭湯やFANZAなどで養えるマインドセットを兼ね備えた存在である。
理想的なヨッピー状態に達すればたとえ核戦争が起きても金を稼げることになり、節約も投資も理論的には不要ということになるが、現実的には我々が生身の人間である以上、休暇の確保や健康面などのリスクに備える必要が出てくる。ここでようやくお金の話に入れるというわけだ。
ここでヨッピーが挙げたトピックを見ていくと、まず格安SIMはスマホの利用スタイルによるため必ずしも万人向けとは言えない。ふるさと納税は、世間体を気にするなら表向きはやらないと公言するか、黙って利用するのが良さそうである。キャッシュレスはポイント還元よりも現金の管理や記帳の手間を節約できる点を重視すべきだ。
NISAとiDeCoは庶民のための制度であり、そもそも富裕層にとっては節約できる金額が誤差の範囲のため意味をなさない。ただし庶民たる我々は本業や余暇に時間を忙しいため、運用は自動化し、リバランスや日々の値動きに気を取られないような仕組みを作るのが良い。
どんな金融商品を買うべきかは結論が出ており、素人が悩む余地はほとんどない。株式市場全体を低コストで保有できるインデックスファンドに大半をあて、残りは債券や定期預金で保有する。ウォーレン・バフェットの有名な助言としてS&P500に9割、残り1割を米国債にあてるというものがあり、これに従えば投資の勉強にかける時間すら節約できる。
S&P500企業は世界を支配しており、世界の株価はS&P500に連動するので、ヨッピーが購入した全世界インデックスも基本的な方向性は変わらない。最初の一歩を踏み出すならヨッピーの言う楽天証券と楽天カードは最適で、1%のポイントバックを得て再投資できる。
メディアは世界の悲惨なニュースばかり見つけては報じているが、大半の地域と大部分の人間はまともな暮らしを営んでおり、少しずつではあるが着実に成長を遂げている。この世界観を信じるならば、毎月1000円でもいいから世界の株価に連動するインデックスに投資しておくべきだ。
税金について必要なマインドは、「払うべき税金は絶対に払う」。言い換えれば払うべきではない税金を1円たりとも払う必要はない。そのためにはiDeCoや小規模企業共済への積み立てを徐々に増やしていく。満額まで到達し、これ以上の節税ができないポイントにまで到達したら、おめでとう。そこが本格的な資産形成に向けたスタート地点だ。
ここまで来たら余剰資金で超低コストの海外ETFを機関投資家のように買いまくるもよし、宇宙旅行を目指すもよし。一度しかない人生の選択肢を経済的な理由で狭められたくないと思う人なら、目指してみる価値のあるゴールではないだろうか。
人による分配の結果如何で生き死にが決まる現代、「人以外のものが人の生き死にを決定している」と考えられていた時代と比べて、マシなのか?どうなんだろうか。
治療のための医療費が安く済む病や怪我と、そうで無いものがあるわな。
多くの人が罹る病や怪我に対する医療は、研究されやすく量産化されて安価になりやすい。だから「多くの人が安価に生き延びられる」が実現し、人口が爆増したわけだ。
でも多くの人が罹るが高額になっちゃうというウィークポイントな性質の病が癌なので、そこで死ぬ人が多いんだなー。でも研究が進んでるので「カネがあれば生き延びられる化」と「安価化」がどんどん進んでるのだけども。
統計の読み取り方の話だけど、人口が爆増したということは、それは、今までの時代では生き伸びられなかったはずの人が生きてるわけであって、生きるオーパーツみたいな存在だよね。「高いカネ払えなくてこれ以上を生きられない嘆き」なんかよりも「安価に生き延びられて儲けたわ」という喜びのほうが大きいはずなんですけどね・・
現代って、科学と経済によって人の生き死にが左右される時代になった。
医療って、病や怪我によって死んだりQoL下がったりすることの捉え方、価値観を変えたのだよなーって思う。
昔は祟りだの呪いだのと位置づけられ、それが信仰につながった。いまは医療(科学)の信用が大きくなった。
「人の力が及ばないので仕方ない」
だったのが
みたいになった。
なんていうか、科学にも限界があるし、それも「人の力が及ばない」領域なんだけど、「科学ならなんでもできるんでしょ」みたいな認識の人が多いように見えて、それが人に対して過剰に責任追及をするのが問題の根源なのかなぁ。
それもこれも信仰が薄くなってしまったからなんだなぁ。あるいは、科学というものの性質を正しく理解しておらず、なんでもできるものと曲解して信仰しているのかも知れないが。
科学とは、信仰ではなく、態度・姿勢なんですよね。哲学と言っても良い。「検証できて再現性があるものがすべて」という姿勢。その成果物の恩恵にあずかってる。
誠実な医師は、「生存率は○○%です」といったように、科学的事実を述べるに留める。科学的事実はそれ以上でもそれ以下でもない。それに賭けるか否かだけ。「絶対治る」「絶対死ぬ」などと過剰に宣伝することもない。科学では絶対という言葉をあまり使わない。100%のものは滅多に無いからね、科学的には。
医療によって、病や怪我を天災から人災へと価値観を転換させたという副作用。
それは人が人の生き死にを扱うため、過剰に重く取り扱われることになる。安易に産んだり死んだりできなくなった。それは人権の考え方ともリンクする。
子は授かりものではなく、デザイン可能なものになるのは目前に迫ってるわけだし。
日本は経済的になんだかんだ落ちぶれてはいるものの、世界的にはまだぜんぜん上位なわけで。
でも日本よりも精神的に豊かな国のほうが多い。つまり精神的豊かさ系のランキングは日本はだいたい下位。
全てを捨てて経済に全振りしてる日本は、何かがおかしいよな・・と。何年も感じてる。
高度経済成長期に"歯車"やってりゃ幸せになれただろうに、それを敢えてやらずにロックしてた人の杞憂は、当たっていたということなのか?
年功序列と年金というニンジンをぶら下げて、「今は苦しいけど歳をとったらラクができる」と若い労働力を搾取してきた。
そのツケを実際に支払っているのは、べつに約束を守るためなんかじゃなく、単に「その年齢層に政治力があるから」でしかなくて、本当は払いたくなんかないんだよな・・。それが搾取だもんな。
漁師のコピペのアメリカ人と重なって見えるんだよね、その年功序列と年金というニンジンって。
若いうちにしかできない、やりたいことをやったほうがオトクだよなーって思う。
ていうか、「年金もらい得世代」ですら「もうトシだからできないことが増えた。若いころにやっておけばよかった」言ってるくらいだからね。
かれこれ十年以上、腐女子として生きてきたが、その間にジャンルやCPをいくつも移動している。
大小さまざまなジャンル・CPを通ってきたし、特に熱を上げた時には本を出すこともある。
そして有り難いことに、ネットやSNSで投稿した作品や頒布した本に感想をいただくことも少なくない。
創作活動や交流を楽しむうちに「このジャンル・CPにハマってよかった」と実感するし、いつも巡り合わせに感謝する。
だがどれだけ大好きであっても、三年以上熱が続いた試しがない。長くても一年程度で一気に冷めてしまう。
ある日突然、何の前触れもなく、愛が消える。冷めた理由のわかる時もあれば、全くわからない時もある。
ジャンルを移動すること自体は、別に珍しいことじゃないと思う。
人間、生きていれば好きなものは増えるし、好きだったものが嫌いになることもある。
ただ、私の場合はその周期が人よりも短いように思えてならない。
下手すれば、一ヶ月くらいでそのジャンルやCPに飽きることもある。
あまりにも飽きっぽいから、たまに「私は頭がどこかおかしいのかもしれない」と疑いたくなる。
それでも根本的に何をどうすればいいのかわからないから、結局またジャンルなりCPなりを移動してしまう。
仕方のないことだと理解していても、以前好きだったジャンルの作品に少しも興味が持てなくなるのは、本当につらい。
その時好きで買った本やグッズを見ても何も感じなくなるのは、大切なものを失ったかのように感じる。
楽しく会話できていた方々と、話が合わなくなったり興味が持てなくなったりするのもこたえる。最悪、縁が切れることもある。
繊細すぎるんじゃないか、と自分で自分を笑いたくなるが、かつて在ったものが跡形もなくなる喪失感はいつまで経っても慣れない。
私もいつか、残りの一生を懸けるくらい、一つのジャンルを愛し抜いてみたい。
きっと叶わないであろう願望を抱きながら、いつか今のジャンルやCPも冷めてしまうのだろうかと日々怯えながら、それでも私は今いる場所が「好きだ」と言うしかないのだ。
再開したのはある炎上事件でブログより増田のほうがリアクションついてから。
システムが穴だらけで不均衡サービスにより炎上起こしているのなら
「システムを」叩くべきところを
それを指摘した個人だけをお気持ちだとかいって叩いてお祭り状態。あたまわるい。
ゆめみりおん?然り
ブラック企業然り
vチューバー然り
個人同士で「おまえが炎上者だ認定」ごっこばっかりしてて地獄っぽい。
責任をとるべきシステム(運営とか企業とか政府とか)は天災おこしてても
「天の声」であるかのように責められないで安穏。
妄想ばっかり書いてる固定がいたり単発もあるけどな。
2chより総じて頭悪そうだけどノージャンルだし昼間過疎ってるし
一応追記しとくけど
増田にまともな人がきててまともな改善案もってるならchange.orgかパブコメでやれだぜ
昼間にこんなとこいるの1クラス以下
俺は日本史大好き人間だが、普段日本史で得た知識が即座に役立つことはめったにない。
……のだが、このニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20190617/k10011954891000.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190617/k10011954891000.html
「出挙」、日本史Bの古代で出てきたと思います。普通覚えてねーと思うけど。あと、進学校じゃないと触れないかも。
「すいこ」って読む。
農民に春に種子を貸し付けて、収穫の際に利子をつけて返済させる仕組みだ。
ここから中世には貨幣経済の進展とともに私たちのイメージしやすい貸借が一般化していく。
古代から中世にかけて、農民たちは生活が不安定ゆえに、種を借り受けなくてはならない。あるいは、身分ゆえに、半強制的に貸付を受けなくてはならない。
その分、秋には利息付けて返さなくてはならない。富む者は益々富む。
冷害などがあったらどうなるか。借金が膨らむばかりだ。そうして農村は天災だけでなく人的要因により疲弊したりする。
話を現代に戻そう。ブクマ諸賢は「手数料」が実質的な利息であると見抜いているし、さらには私がこのあと述べたい隷属状態に陥りやすい構造に触れているブコメもある。
「手数料」はペイミーに支払われる。この実質的な利息にまず目が行きがちだが、前述の通りもう一つ隷属の問題があるのだ。このあたり突っ込んで考えてみよう。
それは、先に支払われた分、ちゃんと働かなければならないと言うことだ。先にカネをもらうと言うことはそういうこと。
二つのパターンが想定される。まずは労働者の側が困窮に喘ぎこのシステムを頼らざるを得ないパターン。
もう一つは、ひとつめのパターンと連動して、上から半強制的にこの仕組みを利用せざるをえなくするパターン。
給与であるにもかかわらず、前払いは借金の性質を帯びる。前払いは前借りに他ならない。
一回だけと思っても、どこかで金銭的な窮地があり前払いが当たり前になってしまうかもしれない。
そうして、雇い主に対する隷属が強まる。
具体的にどうなるのかというと、無理なシフトや出勤を頼まれた時、断りにくくなることが想定できるだろう。「借り」があるからだ。
ペイミーと企業なんか連動しているに決まっている。アルバイトを前払いで支配しうる(賃金を少なく抑えて支配しうる)構造にあるのだ。
出挙は国家も私人も行なった。古代国家も、有力な田堵なんかも。人に課す税金のようなものだ。そして、その人を雁字搦めにして隷属し支配する。
人が動物の上に立つモチーフ、イルカ・アシカやイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキは絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います。しかしけもフレ1でカフェを訪れるフレンズは別の鳥でも良かったわけで、トキが選択されたのは何らかの意図があるでしょう。以前に書いたような「テーマとして昇華していない程度の示唆」でとどめても善いのではと思います。不快になるまで強調されるならドラマに絡めて決着を付けるべきだということですね。ならばイルカ・アシカやイエイヌでそこまで不快になるということ自体が製作者の想定外なのではないでしょうか。俺もグロテスクさは感じましたが話が入ってこないほどは気にならなかったです。「そこに居心地の悪さを感じるのは当たり前」とおっしゃいましたが、監督交代のいざこざ抜きでもそう言えると断言できますか。
「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからない
これまでそういう表現が主流だったというだけです。戦闘のときに技名を叫ぶのはフィクション的です。攻撃のタイミングがバレてしまうし、叫びに使うエネルギーを拳の乗せろよ、です。詳しくないのですがハリウッドのヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアルな表現を模索したのでしょう。「サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、『同じ系統のパワー』に見えるんですよね。」とのことですが、同じ系統でよいと思います。常時強制的に野生部分が開放されているのがビーストだと俺は捉えてます。
私の意見は「内面世界の外への進出」自体は、多くの作品に共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界内現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。
俺はケムリクサの最終話での細かいつじつま合わせに納得していません。「盛り上がり」とはリンが赤い木に対峙するシーンからですよね。ケムリクサでは草周りが特に緻密に組んであるので引っかかっているのかもしれませんが、矛盾していてノリで処理するの範疇に入っています。けもフレ2でのキュルルちゃんの葛藤は「盛り上がる」部分ということでいいですね。とすると問題はフウチョウよりむしろ吹っ切れた後にタイミングよく飛んでくるビーストのような気がしますが… ただそこに至るまでに作品の評価は決してしまっていたし、葛藤をフウチョウという便利な舞台装置で処理したところで全体がファンタジーということにはならないのでは。むしろケムリクサは柔軟性のあるギミックやしがらみのないプレーンな舞台を用意していることで矛盾をでなくしているように思います。まあファンタジーが蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話的世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います。
1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。
しかし、たつき監督がけもフレ2をやっていたらそのカットは問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています。
「視聴者の視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。...(中略)...「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます。
この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。批評の文脈でそのようなものを論じるのは意味がないのでは。作品制作において(俺は関係ないですが)、優しい世界を目指すというのは単に売れるよう頑張る以上のものであって、今のところは曖昧ですが、これから更に研究していく必要があるほど奥の深い領域だと考えています。けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。そこはメリットだったのですが他方優しい世界性は減じてしまったということです。スピリットは二作品に継承されましたが、休日にリピートして癒やされるのはやっぱり一期ですよね。
なるほどこれまで俺は不備を、設定の矛盾のようなものに絞っていましたが、重く捉えてらっしゃるのはプロット上の未消化や演出上の目論見の失敗、などですね。この方面は完全に素人なのですが、胸をお借りするつもりで議論に足を踏み込ませていただきます。
「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットにします。そうしたほうが「自分の意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。
論理に同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由のときにのみ現れるものです。事実上その選択肢しかないのにそれを選ぶのを決心するのは意思ではなくて屈服ですよ。敗北したのではなく自分で選んだと言い聞かせるために自分に発破をかけているわけでしょう。けもフレ2のキュルルちゃんは諦める必要がないときに諦めの決断をしているので、そこに確かに彼女の自由意志があると判るはずです。響くか響かないかは決意の重さを事前に示しているかでしょう。リリの「会えないのはもっと嫌だ!」は赤い木を生み出した(観念的な)責任は彼女にあるし、あそこで「好きに生きて」などいわれて逃されて、わかりました楽しく生きますは納得感が全く無いので、戦線復帰が可能だとわかった時点で行動は一択なわけです。でもワカバとの日々でお化けになることを怖がったり、ワカバが倒れるのを心配したりしていたので、彼女自身が消えることの怖ろしさは十分に示されてる。それでも積極的に行くところに決意の強さが見て取れるわけですよね。キュルルちゃんはそれまで三人でおうちを探して旅をしてきて最後に、それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので、諦めるということがそれなりに重い決定であることは判っているわけです。それで充分だとは思いますが、まあ死ぬほどの重みではない。先々週にリリの決断をみているのでそこからすると見劣るのは否定できないです。
増田さんのプロット案は面白いですね… そっちのバリエーションも観たかったかも(実はプロの人なの?)。
最初、イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。
でもそうするとセンちゃんやアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。このときのキュルルちゃんが横暴に見える、とまでは俺は思っていませんが、視聴者の多くはそう捉えたようです。おかしいと思わない人はサイコパスとまで言われていました。素人考えなんですけど、あそこでキュルルちゃんが(観点的な)非道を働いてしまうことには狙いがあったのではと思います。お話の上でキャラクターが何らかのミスや悪事を働いて被害を作ってしまった場合、それに悪意がなくても、天災的な事故で観念的な罰を受ける。視聴者の溜飲を下ろすためなのか、そういう処遇はよくあると思います。でないと消えざるを得なかったリリ・ワカバがただひたすら不遇ということになってしまう。キュルルちゃんをホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります。
肩すかしなのは、キュルルちゃんの出自と、最終話に至るドラマ、キャラの動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります。
キュルルちゃん疑似不老不死説は俺の自説で、そこまでの確証はないことは一応留意してください。むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブックの最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマがスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテルの海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌは彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。
一般的エンタメの作劇上のセオリーで評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。不勉強ながら俺はそれを知らなかったし、多くのファンも同じではないでしょうか。視聴者には考察班的に楽しむ人もいるし、癒やし目的でカジュアルに流し見る人もいるでしょう。教科書的な表現から逸脱することで芸術は進歩してきたのではないですか。
個人の編集者ではどうにもならんよ~ってのは増田も平林も言ってるけど、じゃあ業界全体を左右できるパワーのある人は何やってんの?ってのがこっちの疑問なのよ。
この辺、業界的になんとかならんかったんかと現場としては思うが、木っ端編集者としては何もできないので置かれた場所でやりくりするしかない。
問題意識はあるのだが、目の前の本を作って飯を喰うので精一杯、業界的に旗振れるような立場があるわけでなし、独創的なアイディアがあるわけでなし……
とか並べてるけど、偉い経営者は別に天災でも自然現象でも神でもないんだから意図もあるし考える頭もあるでしょうよ。
それがどうなってるのかってのを誰も説明しないんだよなこの手の話題。
だから読者は全くすっきりしないし納得もしないでイライラを溜めるだけになり、我慢の限界をこえて「じゃあ出版業界滅びれば?」みたいな極論を言い出すようになる。
https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20190104/1546561548
このコメントを書いた論者はなぜこんなにも経済に無知なのに、想像だけでこんなにも自信を持って経済を語れるのだろうか。まったく恐れを知らないとは恐ろしいことだ。
"ここ数年比較的景気が良かったのは,単に好調な世界経済の「おこぼれ」に日本経済も多少は与れたというだけのこと"
本当に飽き飽きとするのだが、外需の変動で国内経済の変動を説明しようとするのはマスコミによく登場する「俗流経済論者」の典型である。
国内経済の総供給よりも総需要が少ないとき、それが過剰在庫や失業という形で表れる。それを「景気が悪い」という。
たとえば外需が増えても、それ以上に内需が減少すれば景気は悪くなる
したがって時の政権が、外需の増加以上に内需を「減らさなかった」のなら、その経済運営は一定評価すべきことである。
たとえば外需が減ればその分内需を増やして「国全体の需給のバランス」をつり合わせるのが「正しい経済運営」である。
この手の論者はおそらく「世界経済は日本経済よりも遥かに大きいから、日本経済は世界経済に従属する」とでも思っているのだろう。
しかし、世界経済の取引のほとんどは日本経済と無関係であるというごく簡単な事実をわかっていない。
世界経済の中で、日本経済に関係あるのは、日本と外国の間の取引だけである。
"そして,世界経済がひとたび傾けば,日本経済は真っ先に奈落の底に突き落とされる運命にある。アジア通貨危機やリーマンショックの時と同じように。"
明確な根拠もなくいきなり日本経済の「運命」が名言されるとは驚くばかり。この経済予言者は自分の知能にずいぶんと自信があるようだ。是非論文を書いてノーベル経済学賞を取ってもらいたいものだ。
どうして経済については空想でものを決めつけることが許されるのだろうか。
"これだけグローバル化が進んだ世界経済に,日本経済もがっちりと組み込まれている以上,日本一国限定の経済政策で出来ることなど高が知れているし,世界経済の荒波に翻弄されるのは仕方のないこと。
今更グローバル化と訣別する訳にもゆくまい。「ソ連は大恐慌の影響を受けずに順調に経済成長した」とはよく言われるが,当時のソ連のような国になりたいと誰が思うだろうか。"
外需はコントロールしにくいが内需は政策的にある程度コントロールできる。
そして、金融政策の変更によって為替レートが変化すれば外需も変化する。
「グローバル化と決別」などと、相手が言ってもいないことを捏造しなければ、自説を正当化できないのか。
金融政策、財政政策を「適正」にして、国内経済の全需要と全供給のバランスを取れと言っているだけの話だ。
経済政策的「無作為」か、「グローバル化と決別」するかというのは「偽の二択」である。猛暑か極寒か選べというのに等しい。騙しのテクニックだ。
だいたいソ連を持ちだして論敵を貶めるのは冷戦時代の赤狩りのやり口ではないか。
"松尾匡など典型的で(マルクス経済学者だから当然だが),主著のタイトルが『不況は人災です!』だもの。"
この論者の無知が端的に表れている。
松尾がマルクス経済学者であるのはその通りだが、リフレ政策がケインズ経済学的政策であることは、経済学をある程度知っている人間であれば常識である。松尾が"不況は人災です"と言いだすのは松尾が"マルクス経済学者だから"などと言いだすのはこの論者が批判相手の主張さえ政策に理解していない証拠だ。 そもそもこの文章全体にケインズ経済学の「ケ」の字も出てこない。総需要管理政策を批判するなら「敵」はケインズ経済学だ。この文章を書いた人間は経済学を知っているのだろうか。だいたいこの論者はマルクス経済学をなんだと考えているのか。マルクス経済学は不況を人災とは言っていない。マルクス経済学では不況は「資本主義の矛盾」によるものであり、資本主義を続けている限り避けられないとされる、その点ではむしろこの論者に近い。上記の「ソ連」といい反共意識でお手軽に論敵を否定しようという安易さが見える。
"現実主義的な「リベラル」なら,『不況は天災,けれども「不況で人が死ぬ」のは人災です!』と唱えるべきだ。"
ろくに問題を学ばないで、ある政策が実行不可能であると決めつけるような知的に不誠実な人間が自称「現実主義的なリベラル」という人間なのだろう。ここだけはこの論者が全く正しいといえるだろう。
"経済無策と嘲笑された民主党政権下でも,金融円滑化法と地道な自殺対策が奏功して,高止まりしていた自殺者数を減少に転じさせた実績がある。
外的制約にがんじがらめで自由が利かない経済政策と違い,社会政策は国内政治の「やる気」次第で充分可能なはずだ。"
社会政策の問題は、経済政策の是非を論じているときに持ち出す話題ではない。
なおこのコメントはひどいものだが、それを理由にリフレが正しいとは言えない。もっと知的にも倫理的にも不誠実なリフレ派は沢山いる。リフレを賛成するにも反対するにも最低限の知識が要るというだけのことである。