人による分配の結果如何で生き死にが決まる現代、「人以外のものが人の生き死にを決定している」と考えられていた時代と比べて、マシなのか?どうなんだろうか。
治療のための医療費が安く済む病や怪我と、そうで無いものがあるわな。
多くの人が罹る病や怪我に対する医療は、研究されやすく量産化されて安価になりやすい。だから「多くの人が安価に生き延びられる」が実現し、人口が爆増したわけだ。
でも多くの人が罹るが高額になっちゃうというウィークポイントな性質の病が癌なので、そこで死ぬ人が多いんだなー。でも研究が進んでるので「カネがあれば生き延びられる化」と「安価化」がどんどん進んでるのだけども。
統計の読み取り方の話だけど、人口が爆増したということは、それは、今までの時代では生き伸びられなかったはずの人が生きてるわけであって、生きるオーパーツみたいな存在だよね。「高いカネ払えなくてこれ以上を生きられない嘆き」なんかよりも「安価に生き延びられて儲けたわ」という喜びのほうが大きいはずなんですけどね・・
現代って、科学と経済によって人の生き死にが左右される時代になった。
医療って、病や怪我によって死んだりQoL下がったりすることの捉え方、価値観を変えたのだよなーって思う。
昔は祟りだの呪いだのと位置づけられ、それが信仰につながった。いまは医療(科学)の信用が大きくなった。
「人の力が及ばないので仕方ない」
だったのが
みたいになった。
なんていうか、科学にも限界があるし、それも「人の力が及ばない」領域なんだけど、「科学ならなんでもできるんでしょ」みたいな認識の人が多いように見えて、それが人に対して過剰に責任追及をするのが問題の根源なのかなぁ。
それもこれも信仰が薄くなってしまったからなんだなぁ。あるいは、科学というものの性質を正しく理解しておらず、なんでもできるものと曲解して信仰しているのかも知れないが。
科学とは、信仰ではなく、態度・姿勢なんですよね。哲学と言っても良い。「検証できて再現性があるものがすべて」という姿勢。その成果物の恩恵にあずかってる。
誠実な医師は、「生存率は○○%です」といったように、科学的事実を述べるに留める。科学的事実はそれ以上でもそれ以下でもない。それに賭けるか否かだけ。「絶対治る」「絶対死ぬ」などと過剰に宣伝することもない。科学では絶対という言葉をあまり使わない。100%のものは滅多に無いからね、科学的には。
医療によって、病や怪我を天災から人災へと価値観を転換させたという副作用。
それは人が人の生き死にを扱うため、過剰に重く取り扱われることになる。安易に産んだり死んだりできなくなった。それは人権の考え方ともリンクする。
子は授かりものではなく、デザイン可能なものになるのは目前に迫ってるわけだし。
日本は経済的になんだかんだ落ちぶれてはいるものの、世界的にはまだぜんぜん上位なわけで。
でも日本よりも精神的に豊かな国のほうが多い。つまり精神的豊かさ系のランキングは日本はだいたい下位。
全てを捨てて経済に全振りしてる日本は、何かがおかしいよな・・と。何年も感じてる。
高度経済成長期に"歯車"やってりゃ幸せになれただろうに、それを敢えてやらずにロックしてた人の杞憂は、当たっていたということなのか?
年功序列と年金というニンジンをぶら下げて、「今は苦しいけど歳をとったらラクができる」と若い労働力を搾取してきた。
そのツケを実際に支払っているのは、べつに約束を守るためなんかじゃなく、単に「その年齢層に政治力があるから」でしかなくて、本当は払いたくなんかないんだよな・・。それが搾取だもんな。
漁師のコピペのアメリカ人と重なって見えるんだよね、その年功序列と年金というニンジンって。
若いうちにしかできない、やりたいことをやったほうがオトクだよなーって思う。
ていうか、「年金もらい得世代」ですら「もうトシだからできないことが増えた。若いころにやっておけばよかった」言ってるくらいだからね。
一度経済的な豊かさを味わってしまえば、その水準を落とそうという決断はしずらいだろう。 経済的に貧しくなることへの恐怖心もそうとうなものだ。だから経済的な追求を、経済の維...