はてなキーワード: 天災とは
チンピラが行なった悪行に対してその都度処罰が必要だというのはわかるが、社会問題として捉えてチンピラの存在を無くしていこう、社会を浄化していこうというのはとても賛同できない。頭悪くて話が通じないどうしようもないクズなんてのはどの社会にも必ず一定数存在する。
なんつーか、左翼のみなさんは潔癖症なんじゃないですかね。そいつらの存在を否定してどうするよ。そいつらは天災あるいはゾンビみたいなものだ(バイオ2のリメイクすごそう)。天災に対して意味を与えすぎだ。天災に遭遇したら「やれやれ災難だったナ」と思うだけ。「このような天災が今後生じないように社会全体の意識を変えていきましょう」とか言ってる左翼のみなさんは頭がどうかしちゃってると思う。
これは男女の問題ではない。チンピラ男というゾンビ、自然災害の問題だ。日本社会において女性蔑視というものを完全に消滅させたところでチンピラは文明人を襲いつづけるだろう、永遠に。なぜかって? 彼らがチンピラだからさ。
あの頃、私は大阪の大学の研究室で、毎日ひぃひぃ言いながら研究に明け暮れる日々だった……とか書くと、何自慢してるんだ、とか言われそうなのだけど、なかなか良い結果が出ずにひぃひぃ言っていただけの話で、色々辛い思い出ばかりの時期だったのだ。
そんなときに来たのがあの地震だった。私は深夜に戻って寝ていた下宿であの地震に遭遇したのだが、幸いそこは大した被害はなかった(室内はぐちゃぐちゃになったけれど)。しかし大学は、あちこちで建物の窓が割れていたり、ある建物の最上階ではボヤになったり、実験に使っていた装置のアラインメントが狂っていたり……と、色々と問題が出て、その後も何か月もの間尾を引いた。友達の一人は、家の壁が抜けてしまい半壊認定、そして転居することになったのだが、もともとが貧乏人(馬鹿にしているのではなく、私も同様の貧乏人だった)だったので、見舞金で一種の焼け太りとでもいうような状態だった……いや、でもあの忙しい時期に引っ越すのはそれはそれで大変だったと思うけど。後輩のひとりは家が全壊し、しばらく研究室に住み着いていた。よく研究室のシンクで、湯沸器で行水していたっけ(後で考えるに、体育館にでも行けばシャワー位ありそうなものなのだが)。
そして……ここからがこの文章の本題である。あの日から一週間程過ぎた頃、隣の学科の教授が亡くなったという話が聞こえてきたのだ。その教授はある分野ではかなりのビッグネームで、私も概論のような授業でその教授の授業を受けたことがあったのだが、私の専門分野とは微妙にずれたものだったので、それ以上の関係というのはなかった。ただ、そのときの状況は、そんな位置にある私から見ても何やら奇妙なものであった。普通、教授が亡くなったら、それはそれなりに騒ぎになる。病気療養中のところ、とかいうならまだ準備ができているかもしれないが、聞いてみると、やはりあの震災で亡くなられたのだというのだ。だったら尚更、騒ぎになってもよさそうなものではないか。しかも一週間過ぎてから……どういうことなのだろうか。
友達に一人だけ、その学科の学生がいたので、学内で見かけたときに思い切って聞いてみたのだ。彼は言葉少なく、
「ちょっとな……」
「ちょっと、って、何よ」
「色々あるんや。言われへんこともあるんや」
言われへんこと……そのときは、ちょっと想像がつかなかった。まあ、周囲の目もある学内だから、話そうにも話せないことでもあるかもしれないんだが……でも、殺されたとかいうならまた別だけど、そういうわけでもなさそうだ。一体、何が問題なのだろうか。
共通の知人の家で遊ぶことがあったので、思い切ってもう一度聞いてみると、ようやく彼は事の経緯を教えてくれたのだった。
その教授は、最初行方不明という話になったのだった。確かに震災があったわけだが、その教授の家があったのは大阪である。大阪も、場所によっては確かに酷いことになっていたのだけど、その教授の家はそういうこともなかったらしい。しかし、教授と連絡が取れない。そうなって三日が過ぎたとき、思いもよらぬ報せがきた。神戸市内のある倒壊家屋で、その教授の遺体が発見されたというのである。
「……何故そんなことに」
「で?」
教授の遺体と共に、一人の女性の遺体も発見された。そして判明したのだが、この女性は教授の愛人だったのだ。つまり、この教授は神戸市内に妾宅があり、そこに滞在していたときにあの地震に遭遇、倒壊した家屋の中で亡くなったということらしい。
「……そんなことって」
「あるのか、って思うやろ? 俺もそう思ったけど、事実そういうことらしい」
恋人でなく愛人と書いたことからもお分かりかと思うが、教授には家庭があり、夫人がおられた。その夫人が、教授の遺体の引き取りを拒絶し、その後の説得に対してもなかなか翻意しなかったのだという。まあ、この夫人の心中を思えば、むべなるかなとも思うわけだ。三日間、消息を心配していたその矢先に、思いもかけぬ場所で思いもかけぬ経緯で命を失い、しかもそれが自分への裏切りとセットになって報されたというのだから。
こういう学界のビッグネームが亡くなったときには、その弟子や同じ分野の研究者達が「追悼論文集」をまとめ、出版するのが通例である。一年近くの後、この教授の追悼論文集が出版され、私の研究室にも回ってきた。教授をしのぶコメントに目を通してみたけれど、「不幸な事故に遭われ……」としか書かれていない。私もいくつかこの手の論文集を目にしたことがあるけれど、何々という病気で闘病され、とか、これこれの事故に遭われ、とか、少々リアルな話が書かれていることが多いものである。しかし、そりゃあ弟子も業界関係者も、今回ばかりは書きようがない。論文集を読むだけでは、何かその教授がすっと消えうせたかのようにしか思われない。そんな印象が今も強く残っている。
私はこのことから何を学んだか。いかに天災であったとしても、この教授は、自分が死んでしまえば後のことは知らない……などとはとても言えない程に、残された人を深く、多く傷付けることになってしまったわけだ。家族だけでなく、自分の育てた弟子と言ってよい研究者達も、師匠を突然失った喪失感を抱えつつ、その師匠のこんなことをどう扱ったらいいものか、と困惑し、悩みながら後始末をするはめになったわけだ。どれ程高潔に、後々の準備をして死んでいく人であったとしても、そういうものを完全に残さずに逝くことはできないだろうけど、やはりあれはまずかった。自分がある日この世から消えて、その後に残される近しい人達のためにも、誠実に生きていかなければならない。いや、それ以前に、自分がそういうことに対して誠実になりたいと思えるような、そんな生き方をしなければならないんじゃないか。そう思ったのである。
https://www.kanken.or.jp/project/edification/years_kanji/2004.html
記録的な天災
台風:大型台風が毎週のように日本列島上陸。その数、観測史上最多の10個。
地震:「新潟中越地震」発生。中小の地震も多く、浅間山は21年ぶり爆発噴火。
猛暑:夏は記録的な猛暑に。農作物が被害を蒙り、餌を求めて熊が人里に出没。
目を覆う人災
殺害:イラクでの残虐な人質殺害。国内では幼児虐待や、子供の殺人事件多発。
今年とかなり被っている感じがする。
歴史は繰り返すか。
・・・ (・ω・`)
公正世界仮説
この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などの存在を暗示する。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、
あるいは「努力すれば(自分は)報われる」
「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。一方、公正世界信念の保持者が「自らの公正世界信念に反して、一見何の罪もない人々が苦しむ」という不合理な現実に出会った場合、「現実は非情である」とは考えず、自らの公正世界信念に即して現実を合理的に解釈して「実は犠牲者本人に何らかの苦しむだけの理由があるのだ」という結論に達する非形式的誤謬をおこし、「暴漢に襲われたのは夜中に出歩いていた自分が悪い」「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災よりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する犠牲者非難をしがちである。
(中略)人々が明白な原因も無しに苦しむなど、我々は世界が公正でない証拠に毎日直面している。
(中略)不公正な出来事を、公正世界信念に適合するように作り変える再解釈の方法がいくつかある。一つは、結果や原因を再解釈したり、犠牲者の人格を再解釈することである。例えば、罪のない人々が苦しんでいるという不公正な現実を再解釈して、実は彼らは苦しむに値するだけのことをしたのだとする[1]。具体的には、第三者が、犠牲者の格好や行為に基づいて、犠牲となったことに関して犠牲者を非難する[6]。公正世界信念に関する多くの心理学的研究は、犠牲者非難や犠牲者の名誉棄損と言った、これらの負の社会現象にも焦点を当てている[2]。
とても久しぶりに、「ああ、この人の生歌を聴いてみたいなぁ」と純粋に思えるボーカリストに出会って、
運良くチケットが取れたので行ってきました。
「来年は彼のツアーはないだろうし、数年後にあったとして、その時自分が行きたいと思うかはわからない。
でも今は、聴けるなら聴きたいなぁ」くらいの軽い気持ちでした。
ずいぶん昔に同じ場所で、今回よりもずっとずっと前の席で別のミュージシャンを見た事があったのだけれど、
それはとても遠く感じて、でも、今日のライブはとてもとても近く感じた。
それは単純に音響が良かったり、コンタクトレンズの度数強めだったりという物理的な理由もたぶんあるのだけれど、
それよりもきっと、彼の「伝えようとする力」が強かったのだと思う。
彼のライブは、今年の度重なる天災で合計3公演、中止になっている。初めてのソロライブツアーなのに。
その事も含めて
「このステージが最後になるかもしれないと思ってここに立っています。
今日来てくれた人も、これが最初で最後の俺のライブかもしれない」
私はそれがとても嬉しかった。
私は「明日自分が死ぬかもしれない、次の瞬間も、自分は死ぬかもしれない、でも、それでいい」
とずっと思って生きてきたのだけれど、
「明日大好きな人が死ぬかもしれない、次の瞬間も、二度と会えなくなるかもしれない」
という事にはとても鈍感で、とても大切な人がいなくなってしまった時も、
世界一好きなミュージシャンが死んでしまった時も、そして今も、
どうしてもそれを覚悟する事が出来ない。
未だに、受け入れられずにいる。
だから、「覚悟している」という気持ちを持ちながら今このステージに立っている、
と伝えてくれた事が嬉しかった。
私には無理だけれど、同じ言葉を聴いていた彼の事を本当に大好きな人には、
私の様に後悔してもらいたくないから。
目の前の人が当たり前に、来年も、明日も、歌ってくれるとは限らない。
与えられる側の人間として、後悔の無いように。
会いに行きたいと思ったときに、会いに行ってね。
ではなかった。
「めんどくさいな」、「いやだな」、「理不尽だな」、「早く終わらないかな」
だった。
怒られている最中、泣きもした。泣くのは罪悪感の表明ではなかった。
むしろ相手に罪悪感をなすりつけ、叱られを早めに打ち切るためのテクニックであり、
効果の如何にかかわらずよく使った。頭ではっきりそこまで打算してはいなかったが、意識化ではぬけめなく計算していたはずだ。
ずるかった。ずるい子どもだった。でも当時はずるいのは高所大所から反撃の余地なく子どもを詰められる大人のほうだと感じていた。
現在の己をかんがみるに、最低でも九割くらいは自分に非があったのではないかと思う。
上は政治家から下は会社の同僚に至るまで、やらかし事例をそれなりに見聞きした。日本の近現代史、特に旧日本軍の「失敗」をつまみ読んだりもした。
それでなんとなく感得したことがある。
謝っているときも謝っていない。
謝り方を知らない。
ネットとかでよく見かける文言だ。ネットでよく見かける主語の大きい言葉はうそだったり不正確だったりするものが大半だけれど、これに関してだけは肌で真実だとわかる。なぜなら自分もそうだから。おそらく、人生を通じて本当に心底相手に対してお詫び申し上げたことがないから。謝るにしろ謝らないにしろ、我が身のかわいさしか考えたことがないから。
日本人は、謝れないとして、責任を取りたがらないとして、なぜそうなのか。
人災には因果があり、理由がある、ということをしんじつ認識できていない。
百万歩ゆずって因果があったとしても、それは前世の業めいたもので、自分の手では届かないどうしようもないことであり、どうしようもなかったのだから、私個人は悪くない。そういう責任逃れの前提があらかじめ内面化されている。
私は関係ない。
私は意図していない。
機序は知らないがその面倒ごととしての「結果」は私とは関係ないところで発生した災害なのだから、私を怒らないでくれ、叱らないでくれ。
そういう意識がある。
そういう意識が怒られの前触れを察知したときに怒られ者にどういう感情を引き起こすか。
「めんどくさい」だ。
だから避けようとするし、早く打ち切ろうとする。それが空虚な謝罪や姑息な謝罪逃れにつながる。
そうすることで失敗を原因を直視しないままうやむやに過ぎ、次なる大災害の種を育んでしまう。人災だったものを天災に変えてしまう。
新潮45の件もそれなんだろうな、と思う。
最悪なのは、謝られる側も「ちゃんと謝れなさ」に最適化されてしまっている風土だ。
原因やプロセスに向き合わないままうやむやに終わらせることに慣れてしまっている。
口では「原因究明を」「まだ終わっていない」「説明責任」などと欧米から輸入したような言葉を吐くが、結局一歩も進めず忘れてしまう。
ちゃんと謝れないでいい空気を保存しておいたほうが後々自分も謝る立場になったときに都合がいいのだ。
そうやって多分、日本人はこれからも同じ小規模な失敗を積み重ねていき、いくらか貯まったところで大惨事を引き起こすのだろう。
そういうことをえんえんと繰り返すのだろう。
こうも田舎で天災がつづくとさすがに可哀想と思う気持ちも失せてきて、ああまた私達が背負わされる負担が増えるなあという苦々しい気持ちしかわかない。
先祖代々の家だか知らないけれど、地方のみなさんが今お住まいの地域にしがみつくことは、生産性の高い国民にとってコストであるということはわかってほしい
実際もう北海道とか元に戻ることはないでしょう。そこまでお金をかけることが不可能だもの。
いい加減集まってきてくれないかなあ。
天譴論
読み方:てんけんろん
2011年の東日本大震災のときはさんざん「民主党政権に対する天譴だ!!」てなこと言う奴が出てきて、遡って1995年の阪神大震災まで「社会党政権に対する天譴だ!!」てなこと言う奴がおったよな、石原慎太郎とか。
なのに昨今の近畿地方台風被害、北海道地震被害に対して「自民党安倍政権に対する天譴だ!!」と言い出す奴がおらんのは何故???