はてなキーワード: ヴィランとは
ローン・レンジャーって冒頭のシークエンスで蒸気機関車に本編のラスボスの一人である極悪犯とその極悪犯を殺害したいジョニデ演じるインディアンが一緒に移送されていて、極悪犯が脱走を試みるのね。で、そこに主人公の検事がやってきて凶悪犯を殺害しようとするインディアンを「法で裁くべきだ」とか言って阻止して、逆に極悪犯にやられて逃がしてしまう。
その結果、クソほど人が死ぬんだけど、こういう「主人公がクソみたいな信念でなすべきことをやらなかった結果、冒頭数分で終わっていたはずが多大な被害をもたらしてそれを主人公が解決する」みたいなマッチポンプ映画ホンマ嫌い。お前が殺されとけ、バカがよ!ってなっちゃう。
そういう意味では名作とされているスパイダーマン・ノー・ウェイ・ホームも俺はあんま好きじゃなくて、結局あんな事態になっちゃったのってピーターがストレンジに思い付きで次々術式を足させたからじゃん。素直に全部消します!終わり!にしてれば別次元のヴィラン大暴れもなかった。つーかマーベル映画ってマッチポンプ多すぎるんだよな。
細かいところに読みにくさは感じるけど確実に読ませる面白さはあるので5巻まで一気に読めた。ただ本筋が「主人公の成長」な以上ヒーローvsヴィランに話を絞るわけにもいかないのは分かるが、学園生活といずれ再来する強敵への懸念の両立で心が忙しなかったのが残念。これは私が群像劇でない限りは大きな話だけを進めて欲しいと思ってるだけで、気にならない人はまったく気にならない、むしろそこが良いってなる箇所ではある。
主人公・緑谷出久は使命感や焦りのあまり無茶な闘い方をし続けてしまう未熟な少年。がむしゃらに頑張る姿は話を引っ張るけれど、その場を乗り切ることだけを考えて全力を出して治療される流れにフラストレーションが溜まる。ただこれは作中でも否定的に見られている部分、いわゆる主人公が乗り越えるべき壁であり、オールマイトも不的確な指導を注意されている。デクの戦い方はこの先もっと変化して面白くなっていくんだろう。師匠ポジのオールマイトも完全無欠ではないのが泥臭さを出していて良い。
早くも登場した手強いヴィラン・死柄木弔は、明らかにデクと対比されて描かれていたのが面白かった。ヒーロー(もしくは強い者?)に憧れ、ややオタク的で、そして後継者を探す大人に「(ある意味で)利用されている子供」という点で共通しているのかと予想している。思想が浅すぎると思ったら楽しみたいだけ、というのも単純明快で良い。本当の気持ちや真の目的はまだ隠れていそうだけど。
戦闘描写について、アクション漫画はあまり読まないのでその方面の感想は書きづらい。読みにくいということはなかったが、心熱くなる動きがあったわけでもない。麗日お茶子vs爆豪勝己はとっても燃えたのでベストバウトに挙げたい。
「アメコミ」リスペクトの面はどうだったかと言うと、良いところもあれば好みじゃないなーとなるところもあった。
個性=固有の能力は、かっこいいものもチープなものも何でもあり!なところはワクワクするし、有象無象がてんやわんやする雰囲気は楽しい。みんなのヒーロースーツも個性に合わせたギミック・特色たくさんで読み応えがある。酔い止め防止とか出力コントロールとか、そういう細かい技巧と設定は燃える。
扉絵がかっこいい。
一方、擬音が中途半端に英語表記だったり、「画風」や「シルバーエイジ」などの用語は(少なくとも5巻まででは)何を指しているのか分かりづらく、アメコミっぽい用語を使ってみただけになってるのが没頭の邪魔をした。
特に気になったのは重要な「ヒーロー」の扱い。舞台の現代日本における「ヒーロー」の定義や立ち位置が少し汲み取りにくかったので、多くのキャラクターが掲げる「ヒーローになりたい!」にあまり乗れなかった。商売っ気が絡み、育成や資格の壁があり、(当然ではあるが)アメコミヒーローとは違う。ヒーローなのに学歴・経歴関係あるの夢がないなあ。仲間同士ギスギスしているのはアメコミも割とそうだけど皆そんなに喧嘩腰じゃなくても……と思ってしまう。ただこれは私がアメコミのイメージに引っ張られすぎていることが原因だろう。いっそアメコミのことを頭から取り出して読めばすんなり理解できるのかもしれない。あと喧嘩腰なのは学生だからというのもありそうだ。プロヒーローはそういった様子があまり見られなかったから。
お気持ち表明なので、内容がかなりドライブするので注意。かつ長い。結論は3行目にある
わからない単語は各自ググれ。天下のディズニー作品だ。ネット上に説明がないモノなんてない。
マジいらねぇ!
てかなんで「ノートルダムの鐘(The Hunchback of Notre Dame)」をプッシュすんの?
あれ興行成績的に大ゴケだったよね?
ディズニールネサンスをリアルタイムで追いかけてきたDヲタです。当時のことは良く覚えてますともさ!
あれはTDLに次ぐ海外ディズニーランドということでいろいろ気合いが入っていたディズニーランド・パリのテコ入れもあり
アダルティな要素を入れたということが、公開時点でプレスに告知されてた作品でしたね。
そのアダルト部分を担当していたのは、すべてフロロー判事でした。
つまり自分の子供を妊娠したカシモド母を口封じに殺したという裏設定がある。
「罪の炎(Hellfire)]では自慰を象徴した映像が出てくる』と
日本での公開前に、製作陣のインタビュー記事に載ってました。ぴあだったかな?
それを読んだ自分は「へー、思い切ったもんだなぁ」程度にしか思っていなかった記憶があります。
この頃のディズニーアニメ作品は、本国公開からタイムラグがあるのは当たり前で
自分はまず本国で発売された輸入盤のサントラをタワレコで手に入れて、公開を待つのが常でした。
カシモドの「天使が僕に(Heaven's Lights)」とまとめて同じトラックになってるから
「ああ、カシモドの純粋な愛に対しての不純な愛憎系なんだな」程度で。
ヴィラン(悪役)のヒロインへの横恋慕も別に奇異とも思わなかった。
アラジンのジェファーはジャスミンにちょっかい出してる(出されてる?)し、
ライオン・キングでも
「成長したナラがシンバの元に現れたのはスカーに迫られて逃げ出したからという裏設定がある」というのも
日本で大ヒットした時点で、ライオン・キングこぼれ話として伝わってたと思う。
そもそも「ライオン・キング」がハムレット=お母さん寝取られ物語だしね。
’(ものすごーく余談ですが、アラジンで、ジニーの魔法で操られてジェファーに惚れてしまった(振りをする)ジャスミンが
「あなたのヒゲはとっても……ねじれてる(Twisted)」と言うセリフがあって
当時の自分は「「twisted」ってセクシーとかそういう意味があるの?褒め言葉なの?」と首をひねりまくった記憶がある。
あのセリフの意味はいまだにわからないというか、ツイステのおかげでさらに混乱が加速してる感があるなぁ)
で、日本でも公開されたわけですよ。
賛美歌を思わせる荘厳なコーラスに載せて、あんなにヌルヌル動き回るとは思わなかった。
そもそもなんでこんな、社会ヒエラルキー下位の女性が一方的に暴力振るわれてるシーンをこんなに執拗に事細かに描くこの?
それに一体なんの意味が?
大人の鑑賞に耐える作品って、弱い者への一方的な暴力描写がある作品のことですか?
大人の鑑賞に耐えるディズニーの割には、いつものディズニーみたいにしゃべる動物(ガーゴイル)出てくるし
エスメラルダのハンカチ使った目くらまし魔法は微妙だし、そもそも魔法かコレ?
(なお、「ノートルダム」世界に魔法があるかどうかは、公開時には明らかにされなかった。
本当にガーゴイルはしゃべっているのかあるいはカシモドの幻影なのか、どちらとも取れる描写だったし、
これもツイステのおかげで十数年越しに壮大なネタバレ(ハンカチは手品:今では土産物として売られている)くらいました。
ありがたいことだよホント!)
イライラが募る間にもストーリーは展開してゆき、「Heaven's Light]が始まった。
浮かれてるのはわかるけど歌ってるだけじゃイケメン隊長に負けるぞカシモドわかってるか?
てかもしかしてフラれる流れだったりせんかコレ?
いやいや人魚姫をハッピーエンドにしたディズニーだぞ主人公がフラれるワケがない信じるんだ。
体の前で両腕を上下にストロークする様子がなーんとなくアレだなぁと思った瞬間にフロローが画面に出てきた。
暖炉だけ点った誰もいない暗い部屋でブチブツ言ってるシーンから始まったと思う。
あの女が私を誘惑したんだ私は悪くない的なことをぐだぐた並べる内容なわけだが
映像がキモい。女のスカーフにほおずりすんな!てか後生大事に持ってたんかソレ!
あの歌詞にこの映像が付いたら完全に変質者の言い訳ソングじゃんか!
もうこのあたりでうんざりし始めたわけだが、曲は始まったばかりだ。
賛美歌っぽい壮大なコーラスをバックに自分勝手なことを延々歌うフロロー。いい加減にしろ。
そもそもなんで聖歌隊背負ってんだよてめぇ(答え:ユゴー原作ではフロローは聖職者だから)
コーラスも盛り上がりフロローの言い訳のキモっぷりも盛り上がりでこっちはいい加減にしやがれ感。
ようやく外部からのノックで曲は中断されるありがとう見知らぬ人。
それにしてもこのノックで我に返る感いかにも自慰を邪魔された雰囲気だなぁキモい!
てかそのどろどろ溶ける赤い人たちは何の暗喩なんすかね?
蝋燭ーが次々屹立して白い蝋を流してドロドロ溶けてゆく映像があったような気がするのだが
フロローはパリの検事のくせにロマという身分の低い女性フェチで
「あの女が俺を誘惑したんだ俺は悪くない」を繰り返すキモキャラだった。
さらに、エスメラルダを犯罪者として捕縛させておきながら「自分の恋人になれば見逃してやる」という
歴代のディズニーがそれなりに壮大な野望を抱いた巨悪であったのに対して
無礼講のお祭りでショーの一環としてスカーフもらっただけでのぼせ上がって
上映時間の行動中、エスメラルダを追いかけ回す以外ほとんど何もしない。
ガーゴイルたち(の幻影)に発破かけられまくって,最後にはそのガーゴイルが動かなくなって
ようやく行動を起こす始末。そらエスメラルダも隊長さんに走るだろ。
サントラが素晴らしい出来だけに、内容が実にグダグダな作品だった。
(なおユゴーの原作では、エスメラルダは火あぶりになり隊長さんは同じ白人の恋人がちゃんといるので
そういう意味では、ある意味ディズニーらしいハッピーエンドにはなっている)
――ともかく、21世紀の感覚でフロローの存在自体が許されざるというか
「南部の唄」をなかったことにする前にこっちをなんとかしやがれ感にあふれまくり。
あの「アトランティス」と並んで、見なかったことにしたいディズニー作品の極北、それが「ノートルダムの鐘(The Hunchback of Notre Dame)
なのにディズニーさんは何を思ったか突然この作品を掘り起こして、しかもフロロをイケメンに仕立て直しちまった。
プレイヤーはほぼ女性のアプリゲー「ツイステッド・ワンダーランド」の攻略キャラ『ロロ・フランム』として!
フロローデザインをきっちりと踏襲し、口元にハンカチを当てるという仕草まで入れるそのご様子は
どんだけ本家に忠実なんだよ!
そんなにフロローが大事か!興行収入大ゴケ作品のセクハラ&パワハラ野郎が!
ディズニー作品は数多とあるだろうに、なんでよりによってコレをプッシュすんの?
てか日本発ディズニーコンテンツとしてプッシュすんのがコレなの?
yellow cabは枢やなイラストと神谷浩史ボイスさえあれば
元がセクハラ&パワハラキャラだろうがご褒美ですって受け入れてキャーキャー言うだろうってことにしたいの?
残念ながらその通りになったけどね!
――本当にさぁ、なんで今、日本からセクハラ野郎フロローを再評価する流れを作ろうとしてるのマジで。
何がしたいのディズニーさん。
米国の基準で受け入れられないものを、なんで日本なら許されるとか思っちゃうの。
確かに我が国は人権後進国です。そいつをどうにかするのは我々の責任です。that IS our business。
日本女は頭空っぽだから尊厳を気遣う必要はない、米国女性と同じ扱いしなくてもいいとか考えないでよ……
ああ書いてて何が言いたいのかだんだんわからなくなってきたなぁ。
あ、あと「ズートピア2」も要らない。
ライオンハートがメリーウェザーに行ったパワハラの数々は許されるものではないのに、なんで最後に「俺は無実」みたいに返り咲いてんのアレ。
子供が生まれたので早起きの習慣ができたことをきっかけに、日曜の特撮を見るようになった
10年以上ぶりに見たドンブラは確かにそこそこ面白かったが、あれはあれでなんか違う別個体のような印象なので感想はスルーしていた
ストーリー自体は5人の王様が登場し、それぞれの国を治めつつ強敵と立ち向かうという単純明快なもの。一人一人が自分の国と国民を最重視しているために目的が「敵の排除」ではないってのがいい感じだ。目的に合致しているのならば敵すら利用するし、その流れも悪くないと思う。今のところはギラが王権を奪うまでの第一章という感じだろうか。ここから王座を奪われたり新たな敵がでたり2000年前の真実が明らかになったりと、舞台設定が単純なゆえに何でもできそうでワクワクする。
登場人物もいい。なにより悪役が主人公サイドにいるのが斬新かつ楽しい。
物語的にはラクレスの暴虐ぶりが際立つけど、彼はむしろ不器用な面ばかりが目立っていているし、自分の欲求に素直すぎるというだけなのかもしれない。
逆にトウフの国王の方があっちについたりこっちについたりと浮気癖があって、ある種のヴィランだなって感じ。有能で策謀に秀でているが明確な利益を提示しないと敵に回る厄介な人間。だからといって排除も無理。いいキャラだよね。
しかし、一押しは断然総長。断然せりふ回しと行動が最高にかっこよい。
毎回かっこいいのに、今回の話では、まさかのシュゴッド達を科学ではなく精神面で奮い立たせるという立ち回りをしたのはぐっときた。彼の持ち味のテクノロジーの分野はそのままシュゴッドに通ずる部分であり、だれよりもシュゴッドを理解しているはずなのにだ。自身の武器を一時的にでも捨て去り、まさに神頼みでもするかのように言葉でシュゴッドを起こしたのは、総長のキャラがないと成立しない。彼がずっと「シュゴッドは機械だ」と言ってこなければこの場面は薄い話になっていただろう。
というか、ほんとそれ以外でも総長はかっこよすぎる。主人公のよき相棒であり理解者でありライバルでもあるってだけでも凄いのに、一人でも全部持って行っちゃうんだから
凄いのは王様たちだけじゃない。その従者や脇役がいい。
普通、従者が活躍する作品って本当に珍しくて、わかりやすいのはブリーチみたいなのだろう。あそこまでキャラ数多いが全員成立しているのは珍しいのだが、ニチアサでそれをやっているのがキングオージャーでもある。
一人一人の王様をサポートする側がきちんと仕事をこなしている。外観としても、ヒメノは執事で、リタは補佐官、カグラギは黒子などわかりやすい。そして彼らだけで登場してもきちんと物語が生める程度には個性がしっかりしている。一人一人が国にとって重要な立場であることが示唆されているからなんだよね。
あと、シュゴッダムにいる例のうるさいモブ男。彼は徹底的なモブで風見鶏だが、どっちを向いてしゃべっているかで物語を誰にでもわかるように整理している超重要なキャラでもある。
彼がいるおかげで緩急がつくし、視聴者にいまどうなっているかを端的に印象付けられている。なにより子供もわかる野次馬という存在はほんと大事だと思う。イラっとするかしないかの絶妙な塩梅も素晴らしい。
釜爺と銭婆の関係ってなにか生かされた?
なぜハクは冷たくなるの?なんで豚になるの?
■謎展開
ハク→カオナシ
なんで千尋はハクを助けたいの?
■ヴィランの不在
カオナシ?湯婆婆?
現実世界に帰れるかどうかの最後の試験、なんで当てられたのか何も説明がないってどういうこと?なんでみんな千尋を応援してるの?
■結論
ここで書かれてる疑問はぜーんぶぜーんぶ「見てる側の理解力が低いから分からなかった」だよ。
目ん玉かっぽじってよーく見ろよ。
→宮崎駿のアニメーターとしてのルーツの一つとして兵器に対しての憧れがある。風立ちぬ見てるなら分かるよな?あーそもそも主人公が宮崎駿のメタファーであるって話をそもそもいちいちやらないと駄目なの?マジで?
・いいとこの子供
→自分が掴んだ成功は単に天運に恵まれていただけの部分があるって話を、生まれつきの金持ちって設定で表現してる。
→ジブリにおいて宮崎駿が置かれている立場のメタファーだよ。なんか持ち上げられて隅っこに押し込められてますっていう。
→ずーっと言ってるじゃん。「僕はマザコンだから母さんを探してます。どっちの母さんもマザコンの心をくすぐって尊いので、僕はどっちも探してます」って。あそこまで露骨にやられて分からんのか?ジブリの主人公がマザコンなわけないだろって勝手な思い込みをしてない?まあこの辺はマザコンというのが「幼少期から刷り込まれた謎の憧れ→アニメーターとしての執念」みたいなメタファー構造であるんかも知れぬし、単にマジでパヤオがマザコンでロリコンなのかもだが。
・後妻による拒否
→危ないからこっち来んな!でしかないのでは?一見拒絶に見えるものが実際には愛情だったという物語を描こうとした理由については深く掘り下げんよ流石に俺は。
・弓矢を作る話
→長い時間を掛けてアニメーターとしての牙を研いできたって話だよ結局は。ナウシカの段階で40越えとるしな。
・ヴィランの不在
→インコこそがどう見ても悪役だろ。塔の中で勝手に権力構造を作り出して、その塔の支配者である宮崎駿に対して脅しをかけようとしてくる不届き者だよ。アレこそパヤオにとっての最大のヴィランであり、今まさに直面している最大の敵。老い・後継者問題・内政に立ち向かうのが大叔父パート宮崎駿の物語だからな。
→セオリーを守らなきゃ駄目だよってことに対して過剰に気にかけて縮こまるなって話なんじゃねえかな。愛情を持って丁寧に扱う分には触っても大丈夫。雑に扱って蹴っ飛ばすなら災いが起きてたかも知れないけどって話。自分の経験としてそういうのがあるんだと思う。インコ共聞いてるか?ルールの実態を捉えず形だけ守ることに固執するのが王国を守ることちゃうんやぞ?って話だよ。宮崎駿目線で見たら、インコ共はマジでここちゃんと聞いてないと感じてるんだと思う。ぶっちゃけこの映画の核の一つじゃねココ?見落とすなよ。
→それがババアこけしやインコの話につながるんすよ。その絶望がこの映画を宮崎駿に作らせた。アオサギとの騙し合いみたいな協力関係だけが物語を完成へと導くんだよ。インコ王国との対立構造じゃ塔は滅びに向かうばかりさ。って話がしたいんだろうな。だからなんだってんだよまともな映画見せろバーカバーカって気持ちはわかる。でもそれ言う前にもっとちゃんと見てやれよ。死にかけのジジイの遺言だぞ?
主人公が宮崎駿(親が飛行機工場経営)の少年期をモデルとしていることを表しているが、普通しらんわな
意味がない設定ではない
旧家の立派な入り口から入って洋館の方まで延々と歩く場面は圧巻だった
あの演出だけで見応えがあるので意味がない設定にはなっていない
■謎展開
母親と妹と父親の間には複雑な関係性が隠されていて、あえてわかりにくく描かれていると思う
それに対する主人公の複雑すぎる心情も、わかりやすく描写されてはいない
ここは非常に読み解き甲斐のあるところだ
妹が主人公の助けを拒絶したのは、好きな男を取った姉の子である主人公への憎しみを隠していたからだ
姉が死んで好きな男が自分のものになり、自分が子を身籠ったことにも喜びと罪悪感両方抱えている
主人公は葛藤を乗り越えナツコお母さんと呼ぶ。その心の変化の過程もわかりやすく描かれていない。
着替えや弓矢のシーンもそれ単体で見応えがあり、主人公の複雑な人格を表現する演出になっている。
わかりやすさを求めると失われる複雑さがある。
■ヴィランの不在
わかりやすい役どころを排除しようという意思はここ数作で明確なので、今更そんなこと言われてもって感じ
この程度の認識で失敗作だと断ずるのは乱暴すぎるのでマジでやめてほしい
理解できなかったでいいじゃん
ちなみに「君たちはどう生きるか」の小説は未読、過去のジブリは金ローで流し見(ハウル・ぽにょ・風立ちは映画館で観た)、宮崎駿の生い立ちも知らんしインタビュー等全く見てない。
他の人の考察も見ていない。この考察が正しいかどうかは分からない。
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→主人公=宮崎アニメを見て育ってきた(もしくはこれから見る)この映画の観客である我々だと思う。
なので主人公の原風景や心内風景と我々が宮崎アニメで見覚えのある風景を重ねることで主人公=我々を強調する意味がある。
■謎展開
そのたび
→アオサギは主人公が感じている自分の中の嫌いな部分。だから主人公は出会ってすぐ敵対したし、主人公を心理世界に誘った。
自分に誘われて冒険してるんだから主体的と言える。キリコもヒミも自分が作り出した像なので主体的と言えるのではなかろうか。
→「父が好きな人」というのが正に動機を説明していて、主人公は自分の中にある夏子への複雑な気持ちと対峙するために夏子を助けに行く。
複雑な自分の心境に触れることには痛みが伴うので禁忌となっている。
→夏子は主人公を守るためにわざと厳しく接して追い出そうとしている。
厳しくされた事によって主人公は夏子を夏子母さんだと認められるようになり、心の禁忌領域が晴れて夏子も救われた。
→異世界に来たくて来たわけじゃないって劇中で言ってた気がする(記憶曖昧)。呼ばれたんだと思う。
→映画の演出のことは全く分からんが、着替えシーンによってリアリティ出すことで、その後火事の中に飛び込んでいく視界が歪んでるシーンの非現実感が増している気がする(小並感)。
アオサギが主人公自身であることから弓矢にも意味があると思われるがその辺はまだ言語化できてない。
■ヴィランの不在
→アオサギは主人公自身なので主人公を心内世界に誘うし主人公の助けにもなるし主人公と和解する。
で、なにか代償が起きるかというと「なにも起きない」。えーーーーー!?じゃあなんで「触るな」って言ったの?
→これは根拠のない妄想だが、ばあや人形を触って倒れちゃうと、現実世界のばあやになんか悪影響でも出るんじゃないだろうか。知らんけど。
さっき主人公=我々と書いたが、大叔父は宮崎駿を表していると思う。
彼はこれまでの自身の監督作品を通して我々に「積み木」を伝えたかったようだ。
たぶん、「(ジブリ作品を通して)観客それぞれが自分にとって価値ある大事なものを見つけてそれを自分で組み立てろ。」と言いたいんだろう。
即ち「君たちはどう生きるか」と言っている。
インコは何を表しているのか。物語の力を信じないリアリストなのかな?とは思うが、禁忌を口実にヒミを使って何を取引しようとしていたか分からない。なんか大叔父と会話してたかもしれんけど忘れた。
全く何の比喩なのか分からない。インコとペリカンが分かってないということは映画の中の結構な部分が分かってないことになりそうだ。悲しい。
分からない
そんなこんなでまだ分かってないことが多い。記憶から抜け落ちてるとこもありそう。このあと他の人の考察読んで分かったことがあったら追記するかも。
(吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」は未読なので、そこからの引用があったらごめんなさい)
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いやね、まったくダメってわけじゃないのよ?最終的には得意の異世界冒険活劇に着地させるし。そこは熟練の技。
ただ、セルフオマージュをしたいがための意味不明な設定や展開が多すぎて、全然ストーリーに乗れないの。
父親が(多分)軍用機のキャノピーを作る工場を経営してて、主人公はいいとこの子、って設定、なにかに生かされた?
あ〜「風立ちぬ」っぽい!ってシーン以外、ストーリーに絡んでなくない?
主人公が引っ越す旧家も延々歩く描写があるわりに、結局主人公が暮らすのは離れの洋館だし、舞台はほぼ塔の建物と異世界。
結果、和の旧家はばあやがたくさんいる、という描写のためだけにでてきた形。
■謎展開
そのたび
「ついてこい」「わかった。ついていく」で状況説明するもんだから主人公の主体性isどこ?ってなる
最近会ったばかりの父の再婚相手(しかも距離感微妙)を救うために冒険しなくない?
助けるモチベーションを問われて、何度も「父が好きな人だ」って説明する羽目になってる。謎動機。
あれ、いつの間にか救われてる。じゃああの描写いらないじゃん。
そもそも後妻はなんで異世界で子供産もうとしたのかも語られない。
ほかにも「母親の病院が火事だと聞いて家を飛び出すも、一旦家に帰って着替えるシークエンス」「弓矢を作るシークエンス」など
無駄なシーンが多い。その時間で主人公の動機をもっと作ってあげればいいのに。
■ヴィランの不在
宮崎アニメの魅力はやっぱり悪役だと思うんですよ。カリオストロ伯爵しかり、ムスカしかり、カーチスしかり。
インコ大王は悪役ってほどもなかったし。アオサギ?彼は何がしたかったの?
で、なにか代償が起きるかというと「なにも起きない」。えーーーーー!?じゃあなんで「触るな」って言ったの?
にも関わらず「産屋に入ったのが禁忌だった」ってまさかの後出しタブー!聞いたことねえよそんな作劇!
■結論
「塔状の建物を上に逃げる悪役を追う展開はカリオストロ!」「森のトンネルはトトロ!」「崩壊シーンはラピュタ!」「幻の船団は紅の豚!」
みたいな楽しみ方はできるけど、それだけなんだよなあ。
まるでシナリオ第1稿をそのまま映像化してしまったような、すごくもったいない作品。
出したけど聞き入れなかったのかは分からないが、
これが宮崎駿の遺作になるとしたら残念でならない。
ジョジョって3部の評判が高くて、3部ダメじゃんと言いにくかったのですが、
https://anond.hatelabo.jp/20230419004737
で平均順位が2部>3部だったのを見て、自分みたいな人ってけっこういたんじゃないの? と思って書いてみます。『ビーティー』や『バオー』で荒木先生にはまって、その流れで1部・2部はめっちゃ好きでした(リアタイで本誌連載を読んでいた当時中学生の50台おっさんです、念のため)。で、待望の3部だったわけですが、最初っから違うんじゃねーの感がなかったわけではありませんでした。ジョースターじゃなくって空条でジョジョは勘弁だとか、波紋はどこ行ったの? 代わりが修行もせずに身につくスタンドって納得いかない(リアルロボット路線がスーパーロボット路線に変わったような感じ)とか、前のラスボスを使いまわすならカーズが隕石として落ちてくる方がいいだろうとか。でもまあロードムービー的な面白さもあって、それなりに楽しんで読んではいました。クラスメイトとジョジョ話で盛り上がることもあったし。
しかしラストがまったくもって受け入れられず、ジョジョシリーズから離脱しました。4部以降は読んでません。何がダメだったか、大きく2つあります。
1つは、承太郎の勝ち方です。スタープラチナがザ・ワールドより強いスタンドだったから勝ちました、ってそれはないでしょう。1部にせよ2部にせよ、ラスボスは最後までジョジョに地力で勝り、それを最後まであきらめない気持ちでジョジョが奇跡的な勝ち筋を引き寄せるからこその感動なわけですよ、わたくしにとっては。それが能力差で順当勝ちだなんて、イギーやアブドゥルは無駄死にじゃないですか。
もう1つは、1部の価値が貶められたことです。上記のように、どう考えても勝てそうにないラスボスに奇跡的に勝つからこその感動で、1部は悪くて強いヴィランであるディオの存在意義が大きかったわけですよ、わたくしにとっては。そのディオが3部では、新たな能力スタンドを身につけた=さらに強くなったはずなのに、舐めプしたあげく主人公にその実力を見せつけられて敗れ去るなんていう、小物臭い悪役になってしまったわけです。ディオの魅力が暴落すれば、それに伴って1部の魅力も引き下げられざるを得ません。1部を読み返してかっこいいディオを見ても、「でもこいつは、しょせんは承太郎の咬ませ犬だしw」と自分の脳内で突っ込みが入っちゃうんですよ、3部を読んだ後では。
完全な悪役ではなく、善と悪ふたつの要素を持つグレーな性格のキャラクターには、なぜだか陰湿で思い込みの激しい粘着質な女性ファンが多くつく。
平成の時代はそのようなキャラクターの代表がハリー・ポッターのセブルス・スネイプだった。私のハリポタにおける推しである。
JKRは「スネイプはまったくのグレーな人間。聖人ではなく、復讐に燃えていじめをしたが、悪人でもなく、魔法界を救うために死んでいった」とたびたび説明しているが、それでも「スネイプは英雄で聖人だ。スネイプを悪だというやつはおかしい」とSNSで主張しまくり、原作者にすら説教をするほどの熱心なスネイプファンは跡をたたない。
原作ファンや、「グレーなスネイプ」をそのまんま愛しているスネイプファンは、このようなスネイプファンを煙たがり、原作者もこ過激なスネイプファンの行動をマンスプレイニングとかけて「スネイプ・スプレイニング」と呼んでネタにしてきた。
で、話は令和に移る。ここ数年、ao3を席巻するほど世界規模で流行っている中国発のBL小説「魔道祖師」にも、江澄というスネイプのようなキャラクターがいる。魔道祖師にハマって、案の定スネイプの時と同じように江澄にハマったのだけど、江澄はまさにスネイプのポジションであり、スネイプについていたような「厄介で粘着質で思い込みの激しい女性ファン」が多くついているのを見てパブサするたびにうんざりしている。
江澄は確かに不憫でかわいそうな経験が多い。若くして家族と門下生たちを惨殺され、師兄にも出奔された。が、それも自分の怒りと妬みにそまりやすい歪んだ性格と能力的な至らなさが招いた愚かな結果であるともいえる。そのもっともたる例が鬼道術者に対する拷問で、鬼道を行っていないと判明しても拷問して殺しており、江家管轄領の住人たちから恐れられている。
江澄は原作者の墨香铜臭にも「性格が悪い」と言われている。窮地に陥った魏無羨を辛辣な言葉で追い詰め、宗主という権力者の立場でありながら魏無羨と協力し合わず彼を助けなかった。この物語のヴィランで(であり被害者でも)ある金光瑤に、「あのころの江宗主が魏無羨と連携をとれていたら魏無羨は死なずに済んだ」と指摘されているほどだ。ほかにも自身の性格の悪さが原因で、実の父親にはうとまれて愛されず、恋愛関係になった複数人の女性にも愛想を尽かされて破局しているというエピソードもある。(後者は原作完結後インタビューより)
アニメ3期の最終話にて、江澄は魏無羨をさらに辛辣に罵倒し、怒った藍忘機に髷を落とされた。それにより江澄は己を省みるための閉関修行に入る。
これらは原作にないアニメオリジナルの展開なのだが、アニメ制作陣により刑罰の意図をもって明確に描かれている。無論、江澄が愚かな性格を直してこなかったことに対する罰だ。
本国放送時に初めてこのシーンを見たとき、「ああ、これで江澄は反省するだろうし、自分の性格のせいで損ばかりする人生じゃなくなるな」と、江澄ファンとしてかなりほっとした。
他作品を読んで感じていたが、原作者の墨香銅臭は主人公カップルの結末以外にはとくに注力しないタイプの作家である。なので原作の江澄は何も自身の性格を省みることなく、魏無羨とも完全に断絶して終わった。
原作を読み終えた時、江澄はこのままで大丈夫なの?という漠然とした不安あった。
三大世家の中で雲夢江氏は孤立しているという設定なため、この先何者かに陥れられるか、間違って拷問した相手の関係者から恨まれて攻め込まれでもしたら、雲夢江氏は今度こそ本当に危ないだろうという心配もあった。
だからアニメ3期にて、江澄が己を省みる展開を入れてくれて猛烈に感謝しているのだ。江澄が自分の愚かな性格のせいでこれ以上不幸にならないようにしてくれてありがとう、と。
そう思っていたので、パブサしたときに、アニメ公式に対して烈火のごとく怒り狂っている江澄ファンたちの姿を目にして驚かされた。
「江澄が罰せられたことを自業自得だという人は人間性がおかしい。正直、引く」
「江澄を悪く言う人はブロック!」
「私のTLはアニメ3期への罵詈雑言が溢れている。私はTL構築に成行した!」
えっ、本気で言ってるの?と思った。
それから彼女たちの発する粘着質でじめっとした熱気を浴びているうちに気が付いた。「平成の間にさんざん見てきた厄介なスネイプのファンと一緒だ」と。
厄介な江澄オタクたちはひたすら「かわいそうな被害者」としての江澄のことしか語らず、原作ファンに江澄の至らなさを指摘されると烈火のごとく怒り出す。
彼女たちが話す江澄とは、「父親に愛されなかったせいで自分に自信が持てない性格で、日陰者の秀才、師兄に裏切られた被害者」であって、決して江澄の愚かで醜悪な部分を見つめようとはしない。
鬼道術者ではなかった人まで拷問していたことに対しては、「それは本人発信の情報ではないから嘘に決まってる。魔道祖師って噂が独り歩きすることの悪さを書いた作品だから」「拷問したあとは必ず医者を呼んで手当してるはずだから問題ない」という主張である。身内である甥の口からも拷問の話はでているため、この情報を嘘だと疑うのは正確な読み方だとは言えないだろう。
他にも彼女たちの中には「江澄は20歳ちょっとの若さで生まれたばかりの甥(金凌)を子育てをした。金凌には乳母はいない」という通説もある。金家ほどの大家が乳母を雇わず、宗主業務で忙しい江澄が自ら金凌を育て上げたというのはいささか考えにくい。
推しと自分を同一化する傾向もあるのだろうか。「乳母を雇わずに自ら金凌を子育てした」というのも、実際に小さいお子さんがいる女性によって主張されている。推しに自分と同じことをしてほしいという願望があるのだろうが、そのせいで推しの姿が歪んでしまっている。
オタク女の中でも特に腐女子には推しを「共有」する文化がある。
推しが自分たちが推すにたりうるほどの品性と人格を備えていないというのは、彼女たちにとって受け入れがたく、思わず目をそむけたくなる事象なのかもしれない。
だからといって、そのものの推しの姿を見つめようとはせず、自分たちが盛り上がるために都合よく推しを美化して愛でるやり方は、本当に良い推し方なのだろうか?
一部の江澄ファンの異常に熱心な姿を見ていろいろ考え、疲れたとき、ふと脳内に晋江掲載時の魔道祖師初版の、墨香铜臭によるあとがきが思い出された。
「まさか江澄がコメント欄の人気者になるとは思いませんでした」というものだ。
墨香铜臭もJKRの発言を追っていると、スネイプと江澄のファンにはかなり困らされているのが伝わってくる。まさかこれほど厄介で熱心なファンがつくなんて、原作者として想定外だったのだろうな。
こちらとしても、何故このようなタイプのキャラクターには、粘着質で厄介で異常な熱気のある女性オタクがファンにつきやすいのか、いつもかなり不思議に思っている。