はてなキーワード: 恩恵とは
「女はキラキラコーティングに騙されて男と結婚している」「結婚・出産が幸福と思うのは認知の歪み」「結婚は女にとって奴隷制度」とか言ってるタイプばかりで違和感しかない
いや、結婚出産が幸福かどうかは個人の主観なのでともかくとして、優遇されているのは認知の歪みじゃなくて制度上の事実でしょ…
男女の賃金格差がある以上は女は男と結婚する事で経済的な恩恵を受けられるし
扶養控除や産休・育休・子ども手当といった制度上の優遇がある事実を何故無視するか
女が男と番うのは、キラキラコーティングとかの意味不明なものが理由でなくて実体上の優遇制度を取った合理的な選択でしょ
だから反出生主義者ならば現実として「女は結婚した方が得」「結婚・出産が女の幸せ」になっている事実を認識し
それを変えていこうと叫ぶべきなのに
既婚や経産婦をかわいそうがる反出生主義者ばかりでほんとだめ
どうも、普段から増田とか見ていて、非正規労働者を見下す風潮があるのがいまいち疑問なんだ。
だってさ、非正規労働者の労働のおかげで社会が成り立っているんだよ?
俺らお前らがスーパーやコンビニで買い物ができるのも、スーパーやコンビニで働く人、品物を生産する人、品物を運搬する人、正規非正規ふくめた労働者のおかげだよ?
ネット通販で物が買えるのも、通販会社で働く人、配達してくれる人のおかげだよ?
というかネットを使えること自体も、通信事業者、ネットワークインフラ事業者、各種サービス事業者等の、正規非正規ふくめた労働者のおかげだよ?
役所に行ったって今どき公務員だって非正規いっぱいいるでしょ?
今どき非正規労働者が関わっていないモノやサービスなんてめったにないんじゃかいかな。
日本中の労働者が全員正規雇用だったら、モノもサービスも何倍も高い値段になってる、あるいは存在できないサービスもあると思うよ?
地球平面説者たちを宇宙に送って、彼らに地球の形を見せることはできないのですか? - Quora
やっぱ近代以降のインテリが神を殺しちゃったのが良くないと思うんだよね。
科学は正しいし多くの恩恵をもたらしているのはそうなんだけど、救われてない人にとっては科学は救いを与えてくれていた神を殺した論理でしかないわけで、
俺もたまに思うもん、学者は神を殺す前にちゃんと代替物つくっといてくれよって。科学の恩恵が神仏の恩寵を上回るまでは庶民には科学を科学として見せずに神秘だと胡麻化しといてほしかったって。
自身の死を前にして南無阿弥陀仏で救われる時代か救われる必要なんてないほど飽きるまで生きれる時代に生まれたかったのに、前者は過去の歴史になってしまい、後者はまだSFの妄想っていう損な時代だよ。
この世に神秘が無いように見えるのならば、それはインテリが隠してるに違いないって思ってしまいたい人もいるんじゃねえのかなあ。
でも科学を捨てきれないから似非科学っぽくなっちゃうあたりが限界なんだろうけど。
俺が現世に神世のファンタジーが帰ってくる系のローファンタジー好きなのと陰謀論者の根っこって同じな気がするんだよなあ。
すげー伸びててビビった。
そうなると俺の上記の論はいろいろ間違ってる気がするし冷静に考えると自分が満たされてないだけで科学の発展に尽力してきた人達と宗教の両方に失礼な物言いになってしまってる気がするのでお詫びします。
そのうち消しておきます。
多分、周囲に感染を広めても、具体的に誰が感染させたかまでは分からない訳で、
仮にオリンピック関係で老人だけでなく、持病があるとか、変異株で子供が死ぬような事態があっても、
具体的に誰が感染させたかなんて分からないから、責任問題にしづらいわけで、
そんな感じでなし崩し的にオリンピックを推し進めたいんだろうなあ、というのはよく分かるんだけど、
つまり、数字とか統計的な結果として感染拡大は観察できるけど、
具体的に誰がというのは分からない、だから、自民党の政治家さんたちは、
だったら無理矢理やっても構わないんじゃねーの?俺たちは医療従事者よりワクチン先に打ってるんだし、みたいな感じだし、
昨今の単なるゲスで外道な露悪趣味地味た政府や世の中にウンザリですわ
マキャベリズムというか君主論というかだって、圧政で民を蔑ろにしていいとは言ってないというか、
露悪はリアリストじゃねーんだよ、
それは単に下品で、育ちが悪いことを自慢するようなものだ、ヤンキーのヤンチャという前科犯罪自慢と同じ
ナチス・ドイツだって、特に最初は労働党という名前の通り、社会主義とか共産主義的にも思える、
「労働者の味方」として与党の地位を確立したはずだし、実際の給与とか国産車が買えるとか恩恵があったわけで、
アソウとかヒトラーを見習うべきといいながら、全然駄目だと思うのは、
ヒトラーやナチスは、少なくとも最初の段階では庶民の給与を増やしたし、インフラ整備とか、
周辺諸国に苦しめられているドイツの救世主として期待されもしただろうし、
庶民に10万を一度配るのさえ、くどくど愚痴って渋るケチなアソウはまったくヒトラーを見習えてないというか、
あれも息子のギレンはそういう器ではない、というのをデギンは見抜いてたから言ったと思われる
それが今のオリンピック強行派によく現れている気がする
一部の国民の生命を犠牲にしてでもオリンピックがやりたい、なんて中国っぽい発想だと思う
ただ、中国はそうやって一部の人たちを犠牲にしてでも経済発展したから、日本を抜いて二位になれたんであって、
中国と同じように人の命を犠牲にしてオリンピックをやっても三位にしかなれない日本は格下ってことになるだろうに
どこまで、今の日本の中心に居座ってる輩は、この国を貶めるんだろう
美しい国とかほざいてた連中が、実際は日本という国の品位を、品格を損ねている
アベシンゾウは戦後の間違った教育を煮詰めたようなヤツだったか、そんな表現をしていたと思うが、
…
ウイグルとかユダヤ人を犠牲にして、安い国産車、EVを買えるようにして、貧しい層でもクルマが買えるようにして、
その代償として天津大爆発があっても列車事故があっても埋めちゃったり、
それでも民草の生活を豊かにして、人心を掌握しておかないと、中国は革命の繰り返しの歴史だからね、
今の中国共産党政府だって、天○門とかやっぱり気にしてるから情報統制に神経を尖らせるんで、
怖いから粛清もするし、怖いから民の生活を豊かにしようともする
これってマキャベリズムとしてすごく正しいと思う
アメとムチをちゃんと使い分けてる
今は資本主義とグローバル経済やりたい放題したらイケナイ、ってことは薄々感じてる人たちが多くなってきているので、
きちんと理論武装した論客が前に出ればついていく人たちは多い下地があると思う。
弱者男性について「何が差別かわからない」という無知者が多いので、とりあえず金銭面の例だけ記載しておく。
あと働くことが苦手な男は女性と同じようにケア能力高めて家庭で生きればいい(例:専業主夫)みたいなことを、
日本の社会福祉制度を知らずに話す頭お花畑フェミニストも多いので、知ることによって日本の社会制度の改善につながることを期待する。
差別が残るものとして代表的なのが税金の寡婦(夫)控除と遺族厚生年金がある。
後者については
https://financial-field.com/pension/2020/06/09/entry-79101
とか参考にして欲しいが、ざっくりいうと男は遺族厚生年金を女性より受け取りづらく
受け取っても額が少ない
前者については、やっと2020年にひとり親控除として改善されたけど、
女性に対しては「夫と死別した後婚姻をしていない人」については寡婦控除が以前のまま残っていて、
男に対しては妻と死別しただけで、税金上控除があるという話にはならない。
で、もっと重要なのが寡婦控除がつくと、住民税が非課税となる所得の水準が上がる。
自治体にもよるけど、ざっくりいうと額面収入で100万ぐらいまでが一般的な住民税非課税となる収入の水準だが、
寡婦控除がつくだけで凡そ額面収入200万まで非課税となる水準が上がる。
日本の福祉は住民税非課税となると非常に恩恵が増えるように作られているが、これだけで男は適用されにくく女は適用されやすくなる。
その上遺族厚生年金は非課税所得だから、これだけならいくら収入があっても住民税非課税になる。
なので高齢者の女性一人暮らしで割と余裕があるのはこのタイプの可能性が高い。
もちろん住民税非課税なので、国保や他の公的サービスも住民税非課税者として金額が算定される。
一方男の場合は死別では寡夫控除なんてつかないから、まずこれらの恩恵にあたることはない。
同じ金を100万もらっていたとしても、税金を負担する者と非課税世帯として福祉の恩恵に預かる者がいるのが日本である
(「住民税非課税」であることを金銭給付の基準にすることがいかにおかしいかもこれでわかるだろう
社会福祉協議会のコロナの特例貸付は住民税非課税だと返済免除になるが、男は収入100万あったら免除にならないが
すごい間違っている。
マクガフィンとはドラゴンボールでいうとドラゴンボールのような存在だ。
ドラゴンボールとはなにか?
七個集めれば願いが叶うもの。
それを集めて願いを叶える。
マクガフィンとはこのように最低限度の説明で物語を転がす存在でなければならない。
その神様がなぜそんな物を作れるかと言えばその神様ナメック星というところから来た異星人で……、
「えっ?異星人?神様の話じゃないの?」
具体的にはジャンプを捨ててファミコンで遊ぶことになるわけだ。
ドラゴンボールとは何かということをしっかりと説明してもらっていて
むしろ、その世界観に魅力を感じているのだがそれとこれとは別の話だ。
多分増田が物語を作ったらひたすら設定語りが始まるタイプの物語になるのではないかな。
まあそういうもののほうが受ける世の中なのかもしれないが、
小説でも漫画でも、物語の作家とそれを目指す人に対して「文章力とか画力以前に、これらについて気をつけておいて欲しい」と読者の立場で願っていることが有る。以下にいくつかを記す。
基本的に読者とは「物語の中で、何かが起きて、それに対して登場人物が反応(行動)し、物語の中で時間が経過して、登場人物が『上昇』または『下降』いずれかの変化を遂げる」姿を見届けるために物語を読む。何も起きない、何もしない物語を読みたがる読者は、滅多にいない。
したがって、物語を作る者は最低限、以下のような『構造』を物語が持つように努めるべきである。
= = =
(1)昔の主人公:充足した状態にある。もしくは、主人公自身は「満ち足りている」と思っている。
(2)少し昔の主人公:何か事件が起きて「欠落」が生じる。例えば、宝物や恋人を奪われるなど。或いは、主人公自身が「何かが足りない」と考えるようになる。
(3)現在の主人公:修行して能力を得たり、協力してくれる仲間を募ったり、旅をしたり、戦ったりして、欠落した何か、奪われた何かを取り戻そうと行動する。
(4)未来の主人公:欠落したものを取り戻す。あるいは、欠落していなかったことに気づく。あるいは、欠落をしたものを取り戻せない代わりに、他の何かを手に入れるなどして、欠落を受け入れる。
= = =
もちろん、これは構造の要件としては最低限のものにすぎない。連載途中で完結していない作品の場合には「目的を遂げようとする中で、登場人物が変化をするのであろう」と読者に『予感』させねばならない。その『予感』を持たせられず「本当に目的を遂げるのか?」とか「その目的を主人公が遂げたからといって、それが何なの?」と読者が感じたら、もう物語を読む動機を失ってしまう。
とはいえ、上のような「物語の世界で起きた出来事(1)〜(4)」を、時間経過の順番どおりに並べただけでは、読者の興味を惹いてページをめくらせることはできない。「何故、どうして事件は起こったのか?」という物語の中の『過去』と、「この後、登場人物はどうする、どうなるのか?」という物語の中の『未来』に対して、読者が興味を持つように仕向けければならない。
そのために、事件の発生原因や経緯、それに対する登場人物の反応・行動を「どのように読者に見せるか」という見せ方、見せる順序の構成、視点を考える。それが『構成』である。
最もわかり易い例は、密室殺人などのミステリ作品。単に時間経過どおりに出来事を並べただけでは、読者の興味を惹き続けることはできない。分かってみれば謎でも何でもないことも、見せ方によって「謎」に変化する。それが『構成』の力である。
もっとも、ミステリで言えば刑事コロンボのように犯人の視点で「動機となる出来事」や「アリバイ工作の様子」などを、最初から出来事を見せるという手法もあるにはある。しかし、これとて「効果的な見せ方」として選択した結果なのであって、単に出来事を順番どおりに見せているわけではない。
作家志望者ならば、一日にストーリー(上の1で述べた出来事の羅列)一つと構成一つを作るぐらい訓練をして欲しい。
【3:読者が物語(の登場人物)に『感情移入』できるような『動機』を】
読者を登場人物に『感情移入』させられれば、物語を読む『動機』が生まれる。以下でいくつか例を示すが、感情移入とは親近感や変身願望のことであると考えれば理解し易いと思う。
= = =
ケース1:スポーツやゲームなど、現実の愛好家が存在する物事をモチーフにして、主人公たちが戦う物語を作ると、その愛好家たちを読者として感情移入させ易いといえる。例えば、高校野球で甲子園を目指す物語、サッカーでワールドカップを目指す物語、囲碁の名人を目指す物語、ポーカーの世界大会での優勝を目指す物語など。ただし、そのネタに関心が無い人間を、門前払いしてしまうというリスクは有る。
ケース2:現実世界の読者の立場では様々な制約(物理的なもの、法律など)から実行できないことを、作品の登場人物たちがやっている姿を見て、読者がカタルシスを得る。例:ヤンキーやヤクザが、学校や地域で覇権を争う物語。厳重な警戒を掻い潜る、大ドロボウの物語。報酬を受け取って殺しの依頼を引き受ける物語。詐欺師がコンゲームをする物語。犯罪プランナーの物語など。
ケース3:主人公が闘って勝利することで、脇役も利益を得るような物語。読者は、脇役に感情移入して主人公を応援したくなる。核戦争で荒廃した世界で、無法者によって弱い人たちの生存が脅かされているが、無法者たちを倒すために主人公は闘う。人間を食い殺したり操ったりする怪物が跋扈して、人間社会を脅かしているので、その怪物を倒すために主人公は闘う。大半の読者は一般庶民なので、このように「弱者を救うために闘う登場人物」には感情移入し易い。
呪いのビデオを観てしまった!何とかして呪いを解かなければ主人公は死んでしまう!そのタイムリミットが(a)1週間以内、(b)五十年以内のどちらかだとしたら、物語を読む意欲をそそるのはどちらか?
子供が生命の危機!手術をしないと死ぬ!そのために主人公は(a)有り余る財力と人脈を駆使して世界一の名医に手術を依頼する、(b)金も地位も人脈も持たない主人公が何とかして子供を助けるために苦闘するのどちらかならば、物語を読む意欲をそそるのはどちらか?
何も制限を課されていない登場人物は、読者にとって応援する甲斐が無い。貴方に腕前が有るのでない限りは「パンが無いならケーキを食べれば済む」といった恵まれた境遇の人間を主人公に据えて物語を書くことは避けた方が良い。
特にファンタジー系作品を書く場合、この種の落とし穴に嵌まり易いので作家志望者は注意した方が良い。一度「結局は、作者の匙加減一つじゃねえか」と思われたら最後、読者は興醒めして離れると思え。
【5:補足】
昔、海外のチェス初心者用指南書に『How not to play Chess』という本があった。「『やってはいけない駒の動き』をしないように心掛けるだけで、まともな対局が可能になる」という内容であった。今でも「悪い指し方」「他山の石」の例を見せて教えるのは、チェス・将棋・囲碁などの訓練では常套手段である。
したがって、物語についても「悪い例」を示すのが効果的である。例えば「『海賊王』に俺はなる!」という某漫画は、多くの人が知る有名な大衆的な商品なので、その駄目な所を指摘するのは、物語作家やそれを目指す人にとっては格好の「他山の石」と言える。そこで、この商品の駄目なところをいくつか指摘して終わる。
= = =
定義が不明瞭なのに「海賊王になる」と言われても読者にとっては「パンピレホニョンに俺はなる!」と言われるのに等しい。意味不明。
主人公が海賊王になるのを、脇役や読者が応援するべき理由や動機が有るの?
もしも主人公が海賊王になったら、脇役にとっては何か恩恵が有るの?
いつ迄に主人公は海賊王になるつもり?一週間後?一ヶ月後?半年後?一年後?十年後?
海賊漫画なのに海賊行為(襲撃、略奪、誘拐、密輸)をしていないよね?
どうせ戦っても「ハァ…ハァ…」と言うだけでダメージを負ったり死んだりしないから、単なるプロレスごっこになってるよね?
現在リアルに少年・少女のジャンプ読者は、連載中の海賊王漫画のことを「今、誰が、何のために、何をしているのかがサッパリ分からない」と思ってるよ。その読者の率直な現状を、編集者は把握してる?
= = =
冗談抜きで今現在、漫画なり小説なりの作家を目指している人は、某海賊王漫画を反面教師にして欲しい。
健闘を祈る。
以下に嘘だと考えられる設定とその理由を述べる。
嘘。本当はレジャー目的で温泉に行っただけなのに、ゴールデンウィーク中に温泉へ出かけるなと批判を受けるから妻を病弱ということにして療養目的にした。しかし、皮膚炎だったら自宅でシャワーを浴びるだけでも苦痛なのに、家族以外の雑菌・ウイルスに触れる公衆浴場へ行くなどあり得ない。その上、温泉はもっとありえない。温泉のpHは酸性またはアルカリ性で皮膚に対する負担が大きいからだ。
皮膚炎の話は抜きにしてもおかしな箇所がある。最初に行った温泉がいつも行ってる温泉のはずなのに、その後行ったのが「地元の人しかいないようなこぢんまりした温泉」で「妻の皮膚炎を気遣ってくれてる顔なじみの受付のおばさん」がいるという箇所だ。貸切風呂のある大きな温泉に人だかりがいて、人だかりは地元の小さな温泉にまで及んでいるという話にしたかったのが見え見えだ。本当の話なら最初から地元の小さな温泉に行くべきだが、そう書いたらその温泉がたまたま混雑していただけだろと批判されてしまうので、最初に貸切風呂のある大きな温泉に行ったという話にしたのだろう。
9割・8割という具体的な数字を出して話に説得力を持たせたのだろうが、すれ違う車のナンバーを注視してメモを取らない限りこんな具体的な数字は出るはずない。そのくせ、緊急事態宣言の発令されている、東京都・大阪府・京都府・兵庫県のいずれも具体的な都道府県名が出てこないのもおかしい。そこを具体的に書いたら、それらの都府県からわざわざ長野県の温泉まで行くわけないだろうと批判されるから、都道府県と抽象的な表記にしたことが容易に推測できる。
2度も温泉に行くのを混雑によって断念したのだから、同様に混雑しているだろう道の駅に立ち寄るのはおかしい。そもそも田舎の道の駅っていうのは、観光客相手にぼったくり価格で金儲けをするための場所であって地元民が買い物する場所ではない。温泉以外の場所も観光客で混雑していたという話を作りたいがために、道の駅に立ち寄ったという話にしたのが見え見えだ。
昨年の緊急事態宣言が発令された時ならその理屈も成り立つだろう。実際にそのような思想の人も多く、他の都道府県民を排斥する動きも多くみられたからだ。しかし、そのせいで観光業が不況になったこととその後のGoToキャンペーンで恩恵を受けたことは都合が悪い(あるいは知らない)から全く書いてないのだろう。本当に観光を主産業にしている田舎に住んでいるなら、コロナ対策による多少の不便や不利益があったとしても、営業を継続すべきだと考えるはずだ。仮に営業を停止すべきと本心から考えているのだとしたら、支援金等の保障の話が出てこないのはおかしい。観光業で生きている田舎は生活がかかっているのだから。
これもできすぎた設定だ。他人が観光で楽しそうにしているのと混雑を形成しているのが気に食わないという増田自身の個人的な感情に過ぎないのに、その感情に社会的な正当性を持たせたいが為に子供と老人を設定したのが見え見えだ。祖父母のうち一人が存命で一人がコロナ禍中に死亡してひ孫に会えなかったというのも出来すぎている。「この田舎も御多分に漏れず高齢者が多い」、「無症状の感染した我が子が高齢者に移すことだってあるんでしょ?」という自身の文章から、大衆に幅広く賛同を受けるであろう、子供と老人が被害者となる設定を盛り込んでしまったことが容易に想像できる。
仮に本当に増田の体験と思想が事実だとしたら、こんな穏当なタイトルを付けるはずも無いし、観光客に対する非難の言葉が文章中に全く無いのもおかしい。タイトル名と最後の段落ではクエスチョンマーク(?)を多用して自身の感情(お気持ち)を書くだけにとどめて、他者・社会に対する要望や意見の表明を徹頭徹尾排除したことから、手練れのお気持ち増田(創作増田)であることは間違いないだろう。おそらく、本当の部分は温泉と道の駅へ行ったことだけだろう。その体験からここまでのお気持ち増田を創作するとは、嘘とは言え感嘆の意を表明せざるを得ない。
おお、元増田が追記している。追記するタイミングも反応内容も、熟練のお気持ち増田職人そのものだな。
元増田の追記内容だったり、元増田や俺に対するトラバ・ブコメに思うこともあるが、そんなことよりはてブのカテゴリが気に食わん。なんで元増田が「世の中」で俺が「おもしろ」なんだよ!?
まるで元増田が「世の中」の不条理を問いただすジャーナリスティックな文章みたいな扱いじゃないか。それに対して、俺はくだらないいちゃもんを付けて道化を演じている「おもしろ」人間みたいじゃないか。
逆だろ!嘘増田で道化を演じているのが元増田で、それに対してジャーナリスティックな視点で追及しているのが俺だろうがよ。
自分みたいな30代の人間からすると「自民党ありえねえ全然恩恵ねえ」なんて思っちゃうけど、
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ec1d495b848a971128aff7c5fc0dedf1a2c92ee
共同通信社は30日、憲法記念日の5月3日を前に憲法に関する郵送方式の世論調査結果をまとめた。新型コロナウイルスなどの感染症や大規模災害に対応するため、緊急事態条項を新設する憲法改正が「必要だ」とした人が57%、「必要ない」は42%だった。内閣権限強化や私権制限が想定される緊急事態条項新設を容認する声が反対意見を上回った。長引くコロナ禍が影響したとみられる。
改憲なくとも法を生かせば緊急時に行政権限をフル活用できるはず、と思ってきたが、過去の公害の教訓を思い起こしてみると立法・行政の不作為が目立つ。
憲法の制約で権限がないのではなく、あっても使わないのが問題だった。そこにメスを入れるには、行政立法を指導する上位の規律が必要で、「今まさに緊急時だシフトチェンジしろ」
と行政や立法に促す仕組みが必要なのでは。それはひょっとすると憲法の役割なのかもしれない。
という趣旨。
+++++++
「内閣権限強化」、これは橋本行革の結果、小泉政権が内閣官房の強化の恩恵を受け、その後、安倍がめちゃくちゃにした経緯から
公害立法の歴史を振り返っても、現行の規制権限は決して弱くはない。立法の余地もある。
実際60年代から70年代にかけて、深刻化した公害に山ほど立法を制定、70年はとりわけ公害国会などと呼ばれた時代もあった。
そうやって公害を克服しようとしてきた歴史の教訓をみても、現在の感染症コントロールの問題が、憲法改正でしか解決しえないとは思えない。
だから、問題はできることをしない、立法不作為・行政権限の不行使のほうで、それを改憲論議にすり替えるのはおかしい、という意見も納得できる。
しかし。
改憲の世論が盛り上がるのは、だからこそ逆に、一理あるのかもしれない、とも思う。
もちろん、行政・立法の性善説に立てば。。という留保はつくが。
というのも、水俣病を例にとって、公害の被害を振り返ってみると。
なぜ今日に至るまで長年、放置されてきたか。長年の放置もさることながら、振り返ると、初期の対応のまずさが際立つ。
漁業法による禁止措置と漁民への補償、食品安全法による有機水銀に汚染された可能性のある魚類の販売禁止、
すべて見送られた。つまりすでに対応可能な法的ツールがあったにも関わらず、被害が拡大した。
こうした行政権限の不行使が最終的に裁判で争われ、最終的に結審したのは2004年。
国は高度経済成長をとめたくないがゆえに、規制権限を行使しなかった、というのが結論。
1970年代、公害の社会問題の深刻化を受けて山のように公害立法が制定されたが、それ以前の問題として
そもそも1950年代、すでにある水質二法等で権限行使できただろが、という。
法の不備ではなく、繰り返すが、すでにある法を使いこなせなかった行政の責任が厳しく断罪されたわけだ。
ここから導き出される本当の教訓というのは、規制権限があったにもかかわらず
なぜ初期の対応がこれほどまでに、被害者をないがしろにしたものになったか、という問題。
そこには、何か異常な事態が発生したときに、立ち止まって物事を考え直す、
シフトチェンジの仕組みが欠落していたともいえるのではないか。
かつて辺見庸は、地下鉄サリン事件の際に、丸ノ内線の駅構内で、人々がバタバタと倒れているなか、
通勤している乗客が枕木でもまたぐかのように出口へ向かった光景について
非日常的なことを目の前にしても、脳が適切に処理できず、
惰性で日常の論理で動こうとする「慣性(イナーシャ)」が働いているといったが、
ここ一年を振り返ってみると、そういう政治的な意思決定がかなりよくみられた気がする。
この問題が解決されない限り、改憲による緊急事態条項の検討など、全く意味をなさない。
日本は、意思決定の仕方、会議の仕方を根本から見直したほうがいい。
いや、だけど一方で、
緊急事態条項のようなシフトチェンジのトリガーがないからこそ、漫然と経済優先で動いてしまうのか?という疑問も頭をもたげる。
どっちなのだろう。
そんなことを思い出したのは、さっき、尾身会長のインタビュー記事を目にしたからだ。
尾身茂氏が語った「マスクを外せる日」「3回目の緊急事態宣言なんて聞く気になれねぇ」への意見 | 文春オンライン
――東京都墨田区や長野県の松本医療圏など、基幹病院と支援に回る地域の病院や医師の連携が回っている地域の取り組みも報じられているが、厚労省は、こうした体制づくりのため各地の医師や民間病院に強い指示が出せないものか。
尾身 医師や病院に対して国が強い指導力を発揮する英国のような仕組みとは違い、日本の厚労省というのは公立や民間などさまざまなステークホルダーの意向を尊重する必要があって、上から目線ではいわない。平時はそれも大切ですが、危機の局面ではどうなのか。この機会に考えてみる必要はあります。
――医療提供体制の拡充やワクチン接種準備で、国民が納得するだけの結果を示せないことに国民は苛立ちを感じている。強権的なイメージが強い菅義偉首相だが、結果を示せない理由は?
尾身 それは政治のことだから、私にはわかりません。ただ、総理大臣は、いろいろなことを今、四方のことを考えなければいけない立場にあるんでしょう。そう思います。
これが明確な意思決定メカニズムとして組み込まれていないことが、水俣病の初期対応の問題ともつながっているように思えた。
それを可能にするのは、規制権限の強化と行使、という既存の立法・行政機構のあり方の、もうひとつ上段の制度として構築する必要があるのかもしれないといえなくもない。
改憲への渇望というのは、案外、そういった視点で考えることも可能ではないかとふと思った。
危機対応専門の省庁を創設する、というのもひとつの方法。非常時のガバナンス体制を整備する。
米国のFEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)のように。
そうすれば、現在の河野太郎のような感染症の素人が新型コロナウイルスワクチン接種推進担当大臣として奮闘する、といった話もなくなるはず。
彼はおそらく、急に任命されて困っただろうが、実質やれることを模索した結果、
ロジ担当となり下がってしまっているように見受けられる。住民の心配に答えるのは基礎自治体の役割だ。
危機管理のプラットフォームができれば、アメリカのファウチ博士のように、
集団免疫獲得に向けた仮説を立て、何%の接種があればOKで、ワクチンの効果が切れる前の接種完了を逆算してスケジューリングする。
目的とロードマップを国民に示したうえで協力を仰ぐという、専門家による意思決定がベースとなったリーダーシップが重要だ。
ガバナンスの基本は、法、規則基準、科学的な予測を明示した意思決定を行うことだ。
これは世界銀行の借用だが、世銀では途上国の行政改革支援の際に、ガバナンスを以下の4要素で因数分解して
説明責任(財政とリソース)、予測可能性(法的枠組み)、透明性(情報公開)、参加(連携)の4つ。
テーマ出しした瞬間、近年の日本がどの分野でもガタガタになっていることがわかる。
いずれにしても、緊急時のガバナンスの訓練を積んでゆくことが大切で、こうした組織を立ち上げることには意義があるだろう。
現在の菅政権は、こうしたガバナナンスの観点から落第点であり、
首相が何を考えているかわからず、結局、リーダーの一挙手一投足に注目が集まる意思決定となっている。
急に決心して、緊急事態宣言を発出したりやめたりする。このように国民から予測可能性を奪うやり方は国民から自由を奪うのも同然だ。
国民からすれば、知らず知らずに国のリーダーシップに注視せざるを得なくなり、いつの間にかリーダーシップの問題に錯覚してしまうが
本当は危機管理はリーダーシップの欠如の問題ではなくて、ガバナンスの問題だ。リーダーが誰であれ、ある程度、やるべきこと、基準が決まっていて
どのように対応するかが決まっていること、この予測可能性が確保されることが大切。
国民にとって予測可能でなければ、国民自身が計画を立てられず、急に決断されても、ついていけいけない。
(水木しげるの漫画で、上官が急に玉砕を決心したので部下の大半が付いていけず、結果として敗残兵として生き残った兵士に、すでに全員立派に玉砕したことになっているのだ、として、ラバウルの本部が改めて玉砕を命じる、という話がある。日本人のリーダーシップを象徴する話だと思う。)
緊急時へのシフトというのは、なにかしらリーダーとして発動するトリガーが必要なのではないか。
そこに非常時へのシフトチェンジが記載されることにも意義があるのかもしれない、という考えに傾いてゆく、そういう世論の動きもわかる。
もちろん、そんな非常時に平和ボケして判断の鈍いおっさんが首相だったらなんの意味もなさないが、誰かがシフトチェンジを発動しなければならない、
それが立法や危機管理のプラットフォームづくりだけでうまく機能しないのであれば、ある意味、大統領的な権限を期待する傾向が出てくるのは自然なことのように思う。大統領の権限というと、合衆国建国当時まで振り返ると、当時の議論のなかで、リーダーの聡明さ(アリストクラシー)というのは、欠かせない条件だったように思う。
日本の政治社会にそんなことを期待できるのか、と考え始めた瞬間、改憲には激しく首を横に振らざるを得ないのだが。
そんなことをインタビューの印象として持った。