はてなキーワード: 垣間見とは
ブルアカの今イベが、なろう系によって滅びたはずの青春と精神的な成長を描いた物語りで老害としてはテンションがあがった。ざっくりいえば、中二病から高二病に移った少女が、中二病も高二病も同じだと気づく話である。
そういう大人に近づくこと。少し言い換えると、自分本位さに気づいて他人を受入れられるようになること。冗談と侮辱との違いを感じとれること。自分を信じてくれる仲間とそうではない人たちがいることに気づくこと。分別がつく、ということだけど、実際それはまだらで、一人の中に分別のつかない子供っぽい一面があれば、分別のついた大人っぽい一面もある。そんなところが今イベの物語りには詰め込まれていた。
まあ、こういう大人になる物語りは旧世代の王道ではある。でも、ある事柄だと自分は分別が付いていないという性格の欠点に気づき、それで分別がつくようになるというのは、他人の人生を垣間見れるという面白さと同時に欠点を突きつけられる苦痛がある。苦みのある面白さは、なろう系の性格を全肯定することで苦痛を排して、自己を承認される快楽を楽しめる物語りによって滅ぼされたのだと思っていた。海の向こうだから生き残っていたのか、それとも過去の王道を目指しているのかはちょっと分からないところである。
数年前に彼が外部で書いた記事を見た時(確か安倍政権が若者に支持されてるみたいなのだったかな)は「ふむふむ。まあ割とそういうところはあるかものね」という感じで、そんなに印象悪くなかったんだ。
一方で、はてなブックマークで「白饅頭のいうことだから」という陰口が横行してるのを見て正直不思議だった。
課金記事でも見れば理由わかるかもと数ヶ月くらい購読してたんだけど、一言でいうと「これはひどい」
的な「男は皆つらいよ」論を手を変え品を変え、時事ネタをもとに言い直してるだけ。いわゆる「非モテ」界隈の問題は色々思うところがあるけど、その辺の議論ってのは結構複雑なはずんだけど、進化心理学やらを都合よく使って、自分の論を正当化してくのよね。
男女関係の話題に触れた記事だと、まあ大抵の場合女性を貶める方向の結論にもってくんだけど、毎度のように女性憎悪のコメントをする人がいて、それが放置状態。
特に「やっぱり女性に教育なんて与えちゃ駄目だったんですよ」てコメントが嫌悪感マックスだったかな。確か、女性に教育を与えると出生率が下がる的な記事だったと思うんだけど、そういうやばいコメントを咎めるでもない。
それでいて当人は自称「中庸」で、人情も理解するところが垣間見えるエピソードなんかも挟むせいか、コメント欄やマシュマロで「尊師」だの呼ぶ、マジモンの「信者」がそれなりに出来上がっちゃってる。
詭弁もてんこ盛りなんだけど、語り口は一見穏当なせいかコロっ取り込まれる人が増えてるのが宗教ぽい感じがしてやだなあと感じた次第。
大学生の頃、俺は人が好きだったはずだったのになあ。
なんで数年でこんなにも違いが出ているのか正直分からない。
話すと楽しくて一晩中酒を飲んで語り明かした友人は今はもういない。
皆ちいさなことから疎遠になり、今は各地で仕事や家庭や不倫や実らない復縁に必死になっているそうだ。
なぜあの頃はあんなに他者とのコミュニケーションが面白く感じたのだろう?なぜ今は面白くない?
多分それは自分が見たくない人間の負の側面を山ほど見てきてしまったからであるように思う。
人の持つ負の側面、それは自らの欠点を自認できない矮小な愚鈍さだと、俺は思う。
俺は鏡だと言われた。人間の鑑ではなく、鏡だ。
相手の目標と行動の間に自己矛盾がある時、それを友人には可能な限り角を立てず、伝えるのが俺の定義する優しさだった。
学生時代はそれに同意してくれる奴らだけが、親友として身の回りに残っていた。
彼らは喜んで言ってくれた。
俺という鏡に自分の姿が映り、自らを省みることができるのだと。
そんな言葉をかけてくれる親友が、片手に収まる程度の人数はいたものだった。
だが、今はどうだ。
友人を数えていた俺の指はもう一本しか残っていない。
皆、居なくなった。
いなくなった元友人の最後は皆同じだった。
鏡に映る自分の醜さに悲鳴をあげ、みっともなく逃げ出すしか無かったのだ。
何者にもなれそうにない自分に恐怖し、その姿を映す俺に恐怖した。
さも俺が怪物であるかのように、糾弾し、人間関係を遮断して居なくなってしまった。
その結果、大したことねえ給料を稼ぎ、訳のわからねぇ無職やら家庭持ちやらに手を出して、今ではどこぞで自暴自棄の生活を送っていると風の噂は聞いても居ない話を伝えてくる。
クソだ。
お前たちの不幸はお前たちの身から出た鯖だ。
そうなることはバカでもわかったはずなのに。
俺があの時、言った通りになっただろうに。
お前たちが自分のちっぽけさを受容し、繕うなり愛するなりすればよかったのに。
それができないほど愚かだったから、醜くなれ果ててしまったのだろう。
俺は悲しいよ。
こんなものを身過ぎてきた。
英語の小説を挫折せずに読む方法というエントリをこの前書いた増田だよ。その後『月と六ペンス』を英語で読み続けて、とうとう今日読み終わったよ。めちゃくちゃ面白かったよ。
サマセット・モームの小説はテンポがよくて、英語も簡潔で読みやすいよ。エンタメ要素が多くて普通に楽しいよ。人物描写がとにかく上手いよ。
ロンドンで株式ブローカーとして40歳までわりと平凡に暮らしていたストリックランドという奴が、絵を描きたいとか言ってパリに失踪して、その後タヒチに渡って絵を描き続けて、死後になって美術の世界に革命をもたらした偉人扱いされる話だよ。このストリックランドという画家はポール・ゴーガンがモデルになっているらしいよ。
バルガス=リョサもゴーガンを題材にした『楽園への道』という長編小説を書いていて、そっちの方を先に読んでいたから、『月と六ペンス』を読んだらなにかしら既視感があったよ。こっちの方が時代的にはもちろん先の作品だね。バルガス=リョサはモームの作品についてどう思っていたんだろうね。
それはともかく、『月と六ペンス』の前半はストリックランドという男がどれほど周りの意見を気にしない自己中心的な男で、どれほど他人を残酷に扱ってきたか、嫌というほど読ませられて、強烈な印象を受けるよ。それで小説の後半はストリックランドの死後に周りの人間の傍証をたどる形で、色々な人の声が挟まれていく文体になっているよ。いわゆるポリフォニー小説だね。
ストリックランドは最後はタヒチでハンセン病になって、まったく治療を受けず壮絶な最期を遂げるんだけど、この描写がかなり強烈だったよ。ストリックランドが追求し続けた世界を作者は垣間見させようとして、けっきょくよくわからないので、読んでいてもどかしい感じがするよ。
小説の始めの方で、ストリックランドの(最初の)妻は、ストリックランドが他に女を作ってパリに駆け落ちしたと思っていたんだけど、じつはそうではなく、恋愛絡みではない理由で自分が捨てられたと知ると、この女はストリックランドを激しく憎むよ。
小説のラストシーンは、それから20年ぐらい経って、語り手がロンドンでこの妻に、ストリックランドの最期を告げるシーンだよ。この時になったら妻の態度はガラリと変わっていて、すっかり有名人になったストリックランドと自分との関係性を周りに触れまわりたそうにして、馴れ馴れしくストリックランドのことをチャーリーとか呼んで、家にきたストリックランドの研究者からノリノリでインタビューを受けているよ。この妻の俗物ぶりがとにかく胸糞悪いよ。この胸糞悪さは、それだけモームによる小説の構成がうまく行っている証だと思うけど、それにしても胸糞悪いよ。
最後の最後にストリックランドの家族が聖書を引用して何か言って、語り手がそれをうけて自分の思いを語って終わるんだけど、これはぜんぜん意味がわからなかったよ。
たぶんこの小説はまたいつか読むと思うよ。
はじめてiPhoneのBooksアプリだけで英語の長編小説を読んだら、まずまず快適だったよ。英語のわからないところはその場で辞書を引けるから楽だったし、新しい語彙をけっこう覚えたよ。
たとえば、
という人間関係の葛藤が書かれた文章に「要はそいつがウザいってことを長ったらしく書きやがって」と口汚く罵る人はきっと共感能力に欠けてるんだろう。あるいは他人にすぐ毒づく人なんだろう。
にいつもゲスパーする人はきっと周りの人をいつも不信の目で見てるんだろうと感じる。
に、キモいだの中傷を書く人は人の幸せに嫉妬せずにいられない狭量な人だろうと思う。
にやたら上から目線だの説教臭いだの言う人は下から目線でコンプレックスの固まりなんだろう
逆に、文意がわかりにくい文章でも言いたいことを極力言いたいことを汲み取ろうとする人、同意できなくても口汚く罵ったりしない人とかは普段から捻くれてないんだろうね。
匿名で好き勝手書けるだけに逆にその人の人間性やコミュニケーション能力、共感力とかが垣間見られる気がする。
じゃあお前はどうなんだと言われそうだけど、少なくとも匿名の場でも受け取り手がいて、その人は血の通った人間であるというのを忘れないようにしたいとは常々思ってる。
実践倫理宏正会と似ている倫理法人会に一時期入っていた事がある。
こちらは一応経営者を中心とした会で、経済同友会・異業種交流会的な感覚で入っている人が多いので、経営者や政治家が「朝起き会に出てきました」みたいなことを言っている時はこちらに参加している可能性もある(地域性はあるらしい)。
自身は2年ほど入会していたけれど、訳合って(理由は後述)支部の幹部をしていたのでややコア目の行事なども参加している。
ざっくりいうと教祖的な扱いの丸山氏が提唱する経営17箇条を元に会社を経営していきましょう的な会。
この17箇条がいわゆる実践倫理を元にして作られているらしく、
・家庭を大切にしよう
・早起きをしよう
・すぐやろう
・自分を信じよう
毎週経営者モーニングセミナーがあり、他の経済同友会よりも頻繁に顔を合わせるので自然と会員の仲が良くなりやすい。
朝6時くらいから行われるセミナーで、まあ仏教のおつとめみたいなニュアンスがある
会の流れは支部等によって多少違うけれど
・朝の挨拶 ※笑顔で大声で叫ぶので高い宗教性を感じる一瞬である
・17箇条の中の1話を全員で回し読み ※非常に宗教性を感じる一瞬である
・講話 ※会員が自分の体験を「実践報告」として話す事が多く宗教性を感じる一瞬である
という感じ。
講話は様々な人が講師としてくるけれど、結構ガチ目の人からゆるい人まで様々。
日本を甦らせる!的な人も話に来たりする。
業種などは偏りは無いけれども建築・建設は少ないような気がする(現場も朝が早いから被るのだと思う)。
入っている人の属性に関しては
・年配が多め
というのが多い傾向を感じた。
基本的に中小企業の社長はイカれた人が多いんだけど、この会に入って矯正された(自称)という人も多い。
ただ膝を突き合わせて話をしてみると、倫理の教えで強制的に丸くなった薄皮の下に昔のどす黒い人格が透けて見える人も多く「おめーもっとそれきちんと隠しとけや」ってなる。
いろいろなルートがあるけれど主に
・他の異業種交流会で「こっちもいいよ」と誘われる
・自堕落な生活をしていて会社が傾きかけた際に先輩経営者から「お前は生活をもっと見直さないといけない」と誘われる
などがある。
これは県などによって違うらしい。
会員を増やすために会費や会費の無料期間などを年1の幹部会で決めている。
特典として有名な「職場の教養」が毎月30冊位もらえる(いらねー)。
他の会合と比べるとやや高いほうなのだが、後述のとおり幹部などになって会に貢献することでプラ転することもある。
幹部などは1年位モーニングセミナーに顔を出していると「熱心な人」とみなされ誘われる。
・朝が更に早くなる
モーニングセミナーは朝6時位からなのだが、このセミナーをセッティングしているのは支部の幹部で、セッティング終了後に幹部用朝礼を行うしきたりとなっているので、朝5時集合となる。
当然朝4時半起きである。
・様々なイベントに誘われる
幹部になると教祖である丸山氏の生誕地を訪問したり、合同合宿(滝行オプション付き)に誘われたりする。 ※非常に宗教性を感じる一瞬である
基本昼間に行われることが多く、一般的に夜に行われる他の経済同友会などと並行で頑張ることができる(断りにくい)。
幹部会は昼に行われることが多く、こちらの昼食は皆様が収める会費から支払われるだけでなく「自分の仕事を置いて幹部会に出てきている」という理由から交通費まで出る。
年に何回か大きめ目の幹部会などは、その後の懇親会までタダ。
・仕事が回ってくる
県の倫理法人会への仕事があったりするのだけど、これらは幹部などをしていると回してもらえることが多い。
経営者が会費を払っている会なので、基本羽振りがよい。※ホテルなどは定期的な会合を貰えるので入っているところもある
僕は仕事を回してもらえるのと、飲み会タダ(実際異業種交流界の飲み会は多いので費用無しで飲めるのは助かる)で迷わず幹部になりプラ転しました。
・まあ、宗教です。
・宗教として入っている人は少ない気はする(そこがカルト的というのであればそうかも知れないが)
・朝から大声で叫ぶのはとても気持ちがよい ※非常に宗教性を感じる一瞬である
・自分がいた支部には県議・市議・国会議員いずれも参加していて、自民・野党系どちらも参加していた(幹部クラス)
・政治家ではないけれども「人を集めるためにこの会に参加しましたが、僕がこの会に参加したことは公表しないで下さい」というあからさまな人がいてワロタ
・会の仕事が面倒臭すぎてウザってなった
そんな感じでした。
ちなみに早起きは苦でない方でしたが、やめたら何であんなに早起きしていたのかまったくの謎。
あの頃のビレバンは、地方都市の少年たるワシにサブカルなるものを届けてくれる、大変ありがたい場所だったんじゃ。放課後、仲間たちと連れ立ってビレバンに行けば、煙たい(煙たくない)店内には、これまた怪しげな音楽が大音量で(そんなに大きくない)かかっていて、「お前らの知らない世界を教えてやるぜ」というランプの精が見えるようじゃった…。
そこで聴いた小島麻由美の音楽は、女性の危うさや若さゆえの爛れた人間関係を垣間見せてくれたし、初期perfumeの曲は、まだ足を踏み入れることができないクラブの情景を感じさせてくれたものじゃ。お金がないから、CDを買わずにオノ・ヨーコのグレープフルーツジュースみたいな手頃な値段の本を買ってお茶を濁しておったが。
LOMOとかHOLGAみたいなトイカメラが並んだガラスケースがあって、それを羨ましそうに眺めておった。あの頃の記憶が、後にカメラ趣味のキッカケになったのかもしれないのぉ…。
差別を肯定するもの、加速するもの、反するもの、そういう思想の人が作ったもの、が、実際迷惑に耐えかねて戦ってる最中の人の目に触れれば、そりゃ怒られるでしょ
これをここだけ読むなら、まあ個人的には賛成するし、反対する人でも理解はできるぜ対話しようかって人がいっぱいいると思うよ。(もちろん突っ撥ねる人もいる。人によってはそこに生活やQoLが懸かってるから)
ただ揉めてる理由の半分以上は、以下の辺りにある。無能な味方が、無駄に敵を増やしている。(これに関しては逆側もそう。それこそ言葉のチョイスがガバガバなレドマツも、無能な味方の役割をしている)
私はジャンルを複数掛け持ちしているが、ものぐさな人間なので、趣味垢は3つ……今は実質2つしか持っていない。
1つ目は表垢。普段のつぶやきや作品公開、他者との交流はここでする。
2つ目は特殊ジャンル垢。R指定ではないがかなり特殊なジャンルのため、垢分けをおこなった(現在はほぼ稼働していない)。
3つ目は裏垢。鍵をかけている。表では言えないR指定作品、センシティブ作品を発表したり、愚痴を言ったりする。
この裏垢は8年ほど前から稼働しているが、滅多に人には教えていない。全員ほぼ相互フォローで20人もいないくらいだ。そして大抵鍵垢同士だ。自分の性癖は人にバレたらかなりアレだと自覚しているので、複数回通話したり、己の弱みを握り合った状態でないと相互にならない。
そして去年の秋頃、そこに新たな相互を数人、加えることとなった。どの方も複数回通話し、お互いにアレな性癖があるのを晒し合い、全員成人済で社会人の確認が取れたので相互となった。きちんと人から見えないところで、思い切り性癖の話が出来るんだろうなと私はワクワクしていた。
最初の頃までは。
新たに相互になった数人の中に中心的な人物がいた。名前をAさんとする。私は最初、Aさんと表垢同士で繋がり、次に裏垢同士でも繋がった。Aさんの表垢からも私の裏垢にフォロリクが来たので、それも許可した。彼女は、表垢でン万人のフォロワーを抱える神絵師だ。そんな人でもアレ性癖があるのが意外だったが、裏でこっそり楽しいお話が出来るならそんなことは関係ない。表垢での発言も良識がある(ように見えた)し、通話でもちょっと押しが強かったが、明るく積極的な性格の方で、楽しい話題を提供してくれた。大抵の人間を『悪さをしてなければいい人』と捉える大雑把マンの私の中では、彼女は『いい人』だった。
繋がってから、改めてAさんの裏垢を見た。彼女の裏垢は、彼女が表で見せないような攻撃的な発言が多く溢れていた。少し驚いたが嫌悪感は感じなかった。誰だって嫌なことはあるし、愚痴を全く言わない人間なんていない。私自身や私の相互鍵垢フォロワーも、表垢より過激なことを言ってるし。あの明るい性格からはちょっと考えられないくらい意外だったが、まあこんなものだろう。あと愚痴まみれじゃなくて、普通にアレ性癖語りもしてて面白いし。おっこれ面白い。ファボろ。
こんな感じで、しばらくは平和に過ごしていた。
Aさんの発言には表垢と裏垢とで、矛盾が多いことに気づいた。たとえば、裏垢では「女体化地雷!嫌い!」と言っているのに、表垢では女体化を描いていたりしたのだ。表と裏での行動と発言が一貫していなかったことに、私はいつも首をひねっていた。でもまあ、人間表では言えないこともあるだろうし……私はその程度の認識だった。
それからほどなくして、Aさんの(裏垢での)不可解な行動はさらに目に見えて激しくなった。
Aさんは、ある絵師を執拗に敵視していた。裏垢ではその絵師……Bさんのことを鍵垢引リツし、Bさんみたいなイナゴ絵師は最悪!という内容のことを叫んでいた。また、ある動画投稿者……Cさんもまた、Aさんは嫌っていた。Bさんほどではないが、動画が面白くないとか、承認欲求強すぎて嫌だとか言っていた。
私は、裏垢に顔を出しづらくなっていった。
何故なら、BさんもCさんも、表垢での私の好きなクリエイターだったからだ。
確かに、BさんとCさんは私から見ても調子に乗りやすいタイプだったり、承認欲求の強さが垣間見えるところがあった。しかし、彼らの作品が自分の好みだったのも事実だ。なので、Bさん、Cさんを私は表垢でフォローはせず、しかし定期的にチェックして楽しく作品だけを見させてもらっていた。
Bさん、Cさんの作品を見ているような人は信じられない、モラルに欠ける。そのようなことを、Aさんは裏垢で発言していた。
今まさに、裏垢にBさん、Cさんの作品を見ている私がいるのにだ。
私は表垢でB、Cの作品を普通にRTしていた。表垢同士で繋がっているAさんにもまた、私のRTが流れてくるはずだ。つまり私は、Aさんに地雷を垂れ流していることになる。自分だったら、こういう風に後から相互さんが地雷だと判明したら、申し訳ないがミュート、ブロ解する。しかしAさんは私を(おそらく)ミュートしていない。私のツイートにも爆速で反応して、(フリだとしても)友好的なリプを送ってくるのだ。
私はAさんの地雷を目の前で踏んづけているのに、私のことが嫌いじゃないのか?どうしてミュート、ブロ解しないんだ?わからなかった。
私は雑多垢の人間だ。好きにツイートするのが信条だった。しかしいつしか、私は『Aさんの好み』を気にするようになってしまった。
次第に私は、Bさんの作品を追わなくなっていった。
Cさんの作品に、私は「面白いです!これからも頑張ってください!」といつか言おうと思っていたが、言えぬままCさんは消えた。病んで垢消ししたのだ。
他にも、私が最近いいなと思った絵師、フォローしたアカウントを、Aさんは裏垢でことごとく晒しあげ、否定した。しかし何故か、私に直接文句は一言も言わずに、だ。私は新たに好きなクリエイターを探すことすら億劫になっていった。
Aさんは、私が表垢で気に入ってRTしたものを、嫌いだと当てこするような発言をするようになった。
私が表垢でメイドコス絵をRTすると、「メイドコス絵とか、好きでもないのに大量に流れてくるから嫌いなんだよね」
私が表垢で大胆な構図の絵をRTすると、「こういう大胆な構図の絵は正直面白みにかけるよね」
(内容にフェイクは入れてますが、マジでこういう感じの発言です)
……一度だけなら偶然と思えたかもしれない。しかしAさんは、私が表垢でRTしてから必ず数分後にこういった内容の発言を裏垢でした。何度もだ。Aさんは神絵師で、私は絵が下手だ。絵についての知識ならば向こうが圧倒的にあるだろう。彼女の言葉が有識者からの意見に思えた。私がRTした作品を好きになるような人は、目が曇っていると言われているような気持ちになった。自分の「好き」という気持ちが、どんどんしぼんでいった。
また、Aさんはジャンルの愚痴も言っていた。私は現在、大まかに分けてα、β、γというジャンルで活動している。このうちαでは本を出し、βでは来月本を出す予定で、γはROM専だ。Aさんとはαジャンルで繋がっていた。
Aさんは、裏垢であろうことかβジャンルの悪口を言っていたのだ。今まさにβジャンルのドスケベ原稿真っ最中の私と繋がっているのに、だ。
βジャンルのファンを……その、「キッズ」とか「ガイジ」とかかなりヤバい言葉で罵っていた。もう愚痴ではない。悪口だこれは。あなたの言ってる「キッズ」で「ガイジ」が、今目の前にいますけど?!裏垢を眺めながら私は宇宙猫フェイスになっていた。私はAさんがますますわからなくなっていった。
さらに、これは完全に自分の落ち度だが、Aさんはフォロー許可した表垢から私の裏垢にリプを飛ばしてきた。やめてくれ!バレたくないんだ、裏垢同士で話すだろう、普通は!そう思っても、フォロー許可したのは自分なので後の祭りだ。これはマジで私が悪い。
それでももう限界だった。仕方ない、私がAさんをミュートかブロ解しよう!そう思い立って、はたと手が止まった。
こんな攻撃的な人をブロ解とかしちゃったら、私どうなっちゃうの?
どっと汗が出た。今私は、裏垢同士で繋がってAさんのアレ性癖を知っているが、翻せば私のアレ性癖も知られているということだ。互いのタマを握り合っているに等しい。その上、Aさんつながりで相互になった鍵垢仲間の人は全員Aさんとの方が親交が深い。私はαジャンルで一番の新参者だった。今までの裏垢の発言とかスクショ撮られたとしたらどうしよう?もしAさんが被害者っぽく振る舞ったら、孤立無援の新参者と、万バズ神絵師。世間はどっちの言い分を信じるだろう?脳内で阿部寛と例のBGMがぐるぐる回りだし、私は指を動かせなくなった。
Aさんは、全てが非常識な人ではなかった。たとえば私が裏垢で「nmmnを検索避けしない人ってヤバくない?」みたいな発言をすれば、「本当にそうですよね!」と同意リプを飛ばしてきた。アレ性癖は決して表垢で漏らさず、愚痴も表垢では言わなかった。私は表垢のAさんと裏垢のAさんが同一人物だと思えなかった。もういっそ千年アイテム持っててくれと願ったほどだ。
ほとほと困り果てた私は……別ジャンルフォロワーに相談することにした。この時ばかりは、ジャンルを掛け持ちしていて良かったと痛感した。
αジャンルではAさんは有名人なので何も話せない。そこで、βジャンルの人に今まであったことを通話で掻い摘んで話した。すると、彼らは「それはおかしい!」と言ってくれて、彼女の不可解な行動をこう推測してくれた。
「Aさんは、あなたを自分の都合のいいような存在にしたい、自分のコントロール下に置きたいと思ってるんじゃないの?」
目から鱗だった。そういう人もいるんだ、という驚きと、今までのAさんの行動に納得がいった。行動の矛盾の多さも、自分の都合のいいことしか見えていない、自分のやることは例外だけど他者のやることはダメ、そういう彼女の思い込みによるものなんだろうと思った。(それでも、万バズ神絵師のAさんが、私みたいなろくに作品も作らない、表垢でも吹けば飛ぶようなフォロワー数の底辺ツイッタラーをどうしてコントロールしようとしていたのかは、最後まで分からなかったが……)
Aさんはすごくまともそうな人だったんだけど……と話すと、βジャンルフォロワーは苦笑いしながら答えた。「世の中には、めちゃくちゃ擬態の上手い人間がいるんだよ」
Aさんは自分の年齢を裏垢で公開していた。芸能人の〇〇と同じ、と言っていたので、おそらく4X歳だろう。その年齢で、他者を自分のコントロール下に置くためにこんな行動をする人がいるのか。今まで、誰にも「そういうことしたら人が離れていくよ」と言われなかったのだろうか。それが一番の恐怖だった。
βジャンルフォロワーには相談に乗ってもらった上で、さすがにあなたが迂闊だよと叱られた。その通りだと思う。私は自分の軽率な行動を反省した。そうして、私はかたちだけでも円満に離れるために、8年慣れ親しんだ裏垢を捨てて、今は新天地へと向かっている。
①垢消しやブロ解などはせず、旧裏垢へのログインをやめる
③センシティブ垢は表で言えない『性癖』を話す垢。旧鍵垢のフォロワーは誰も選ばず、好みのクリエイターだけフォローする
④愚痴垢は表で言えない『愚痴』を話す垢。こちらは完全壁打ち。誰もフォローしない
⑤表垢でのAさんとの交流を徐々に疎遠にし、しばらくしたらミュートする
Aさんに悟られず、私が徐々に消えていくためのプロセスはこんな感じだ。さらば、8年間の性癖を詰め込んだ裏垢よ。不甲斐ない主を許しておくれ。
でも、せめての感謝の気持ちを込めて、最後に裏垢でセンシティブ作品を発表した。何も知らない鍵垢仲間のフォロワーは、私の久々の作品投稿を褒めてくれた。その中にはAさんもいた。それ自体は、本当にありがたいことだと思う。作品や性癖語りは、誰かに見てもらうだけで奇跡みたいなものだし、それで互いの好みが一致するなんて本当に素晴らしいことのはずなのだ。その上で他者をコントロールしようとするなんて考えても詮無いことであると、Aさんがいつか気づいてくれれば良いのだが。私にはもう、彼女に何も出来ない。
ウルトラマンというものに元々なんの感慨も理解も持たない女性の感覚からすると、浅見の行動や思考、反応は「恋愛感情を持っているからあのような反応、行動を取るのだ」(そうでなければあのような反応をすることはおかしい、あのような行動を取るはずがない)という解釈になるのだろうか。
リピアと神永を理解し、それを体現しようとした斎藤工に比べると、長澤まさみは固定観念で凝り固まった女性性を体現するに留まっていたように感じる。それが監督や脚本に求められた事なのか、女優としての力量のせいなのかまで判断は出来ないが。「これが私の言うべきセリフであり、このキャラはそういう反応を取るものだから」という解釈の枠を超えないのであれば、あの浅見を演じるのが長澤まさみである必然性は無く、他の顔やスタイルのいい女性なら誰が演じてもあのようになったのだろう。
生まれついて顔やスタイルがいい女性が、その見目に相応しい中身であろうとしてきた結果、「周囲から求められる様々な水準」の枠内から逸脱しないよう、周囲の期待を裏切らないよう自身を抑圧しながら生きてきた結果がそうなったのだとしたらそれは残念で悲しい事であり、彼女を責める事は出来ないとも思う。
恋愛的要素を完全に排し、外星人と生命体としてコンタクトを行うのであれば、まず警戒と畏怖がそこに来るのが自然なのではないだろうか。(過特対とザラブとのファーストコンタクトではそれは見られた)ウルトラマンに対してはそういうものを完全に超越してビンタしたり「馬鹿にしている」と感情的になったり出来るのがそもそも不思議だ。感情的になり相手に危害を加える。相手に対して敬意を払わず馬鹿にしているのはどっちなのだろう?そもそも女性をステレオタイプに認識していなければそのような行動や反応を取らせようとしないはず、とするならば、やはり女優ではなくあの脚本とその演技を求めた監督に原因はあるのだろう。
追記1
あくまで「女性」としてではなく、一存在、ひとりの人間として浅見の感情や行動を設定した上で、それを女性に置き換えたほうが自然だったのではないだろうか。巨大な異星人のフォルムを初見で恐怖も持たず(麻痺していたのかもしれないが)きれいだと言い切れるその感性が何に由来しているのか。放って置くと書庫に籠もり文献を漁る神永、リピアの個性の表現に比べると、浅見の個性が垣間見える瞬間というのがほぼ無かった(神永、リピアに対する反応だけが個性の発露のような描かれ方)だったのも、自分にとってはやや不満なのかもしれない。もちろんウルトラマンの映画なので、監督と脚本にとって、ウルトラマン以外は付属品でしか無いのかもしれないが。
欄外でこういう書き込みがあったんよね
まさに死んだ回
多分、なろうという場で、主人公が無双せず死ぬことによる反発へ予防的に対応しときたかったんだろうと思うんだけどさ
そういう場外を作品に持ち込むなよって思うんサ
それまで★5だったのを、この話読んで、★1にして、読むの止めたんだ
これを見た瞬間に、「あぁおれはこういうのがきらいなんだな」とビビッと来てしまったというか
そりゃさ、物語は全部作者都合だよ
生きるも死ぬも
ハッピーもビターも
だけどさ、読んでる私は、そういう風に作品に接したいわけじゃないのよ
作者さんの作り出す「世界」に浸りたいのよ
そういうのがフッと醒めちゃうんだ
こうまであからさまでなくてもさ
そういう「都合」がメタ的に垣間見えた時、そういえば醒めてたなぁと認識したというか
黄金の経験値は、さほど悪くなく、死の描写を読んだ時も、作為性は感じてなかったのに
その数行後、欄外で、「決めていました」とか書かれて、すぅーっと冷めるのが分かった
■性暴力してきた人がロッキンに出る
しかも私の子供の頃から大好きなアイドルグループの出番のひとつ後に。
相手は自分の好きな人で、一度認めたにも関わらず私が許さないと知ると
「レイプされたと嘘の告発を暴露系YouTuber(コレコレ)にされると思ったから、録音するつもりで録画ボタンを押して適当に置いていただけ」
と、誰が信じるんだという狂った言い訳で逃げた。
相手は証拠を消し、私は罰を受けてもらうために誰にも見られたくないデータの復元をお願いしたけど警察も精神が狂った女にそこまで手間を割けなかったんだろうし、
相手も警察にデータの復元を提案されたが理由をつけて拒否し、警察はそれを受け入れた。
結果、スマホやパソコンの中身を確認しただけで立件できないと送致した。
検察にも再度お願いしたが、相手はその時にはスマホをの機種変更をして当時のものを破棄しているので出来ないと。
勇気を出して好きだから許したいから大ごとにしないから謝って認めて嘘をやめてくれと頼んだ。
どれひとつも自分の思い通りにはいかなかったから、心が疲れきってしまった。
一時は痩せ細って、疲れて動けなくなる、パニックを起こす、自殺未遂すると絵に描いたようにメンタルがダメダメになったけど
このままではダメだと、事件があった前の自分より良い自分になるよう治療してる。
でもテレビが見れなくなった。
特にニュース、ある日突然悪意のある第三者に当たり前の日常を壊されてしまうことに
自分より遥かに辛く、想像も出来ないくらい苦しんでる人が沢山いることに
一時期、音楽も聴けなくなった。
だけど、聴けるようになったのがそのアイドルグループの曲だった。
つんくさんの曲と歌詞は世の中の女の子を応援してくれて、時には厳しくも優しい言葉をくれる。
日々頑張ってパフォーマンスを磨いている彼女たちを見るだけで元気が貰える。若さやそれ故の悩みや葛藤が垣間見えることさえもキラキラ輝いて見える。
もっと出来るはずと己を鼓舞したり、今はちょっと無理せんでいいかなとか…生まれ変わってモー娘。になりたいな…妄想したり考えを巡らせるだけで幸せを感じることができたから
心が少しずつ良くなる手助けをしてくれたと、勝手に一方的に感謝している。
先日タイムテーブルが発表されて、大好きなモーニングの後にその人のいるバンドがいた。
許せない気持ちがまた湧き上がってきた。
ロッキン観に行くわけでもないけどさ。
そんなのが罷り通るんです。
このへんまでは、ふんふんなるほどと読んでいたが、
ここでずっこけた。
物的証拠がなきゃだめだろ。
ここに書かれたことが全て本当としても、猪なんとかさんが逃げ回ってできた獣道の境目に、あなたがつまずいただけのような。
撮影されたのが行為中のものか着替えか何かは分からないけれど、
相手も(仮に復元できるとしても)そんなケチのついた動画を持っていたくないだろうし、
もう、なかったことと同じなんだ。
いずれにしても、忘れた方がいいよ、そんなやつのことは。
あれだね、大学の頃からすでにもうおかしなレベルのものつくっててビックリしてしまいました。
例の庵野監督が素顔でウルトラマンの役を演じている作品とかって
たしかにこんなものつくってたら大学に行く暇なんてなくなるな、と納得。
それを読むと、そのコンテを全く再現できていなかったりもして
なるほど、こういうところがプロの仕事では無いとも言えるのだな、と思った。
ああこれCGがない時代に描いたエフェクトなんだよね?って信じられない思いがする圧巻のものばかりだった。
ただ疑問を感じたのは、これほどのものが描けるのにどうして人間は下手、というと言葉が過ぎるかもしれないけど
あと今更ながらアニメとか映画、って色んな人が参加して出来上がっているプロダクトワークなんだな、って実感できた。
もともとの庵野監督のイメージがあって、それがどんどんと膨らんでいって完成度を増していく過程を一部垣間見える部分があって興奮しました。