分解して考える。
A.よいはずである。
なぜならば、トランスジェンダーの方々にとって、「〇性らしさ」は自己同一性の一部となっている。
ジェンダーレスという文脈で「らしさ」という言葉を排除しようと考える向きがいるが、それは違う。
「〇性らしさ」を押し付けるのが悪であって、「〇性らしさ」が存在することは悪ではない。
「〇性らしさ」が悪であるならば、「〇性らしさ」を根拠に自身の性別を判断することができなくなってしまう。
しかしそれをしたいと考えている人がいて、それを認めようという世の中である。
故に、「女性らしさ」という言葉そのものを有害とするのは現時点では間違っている。
A.不明。
1.の通り、「〇性らしさ」を否定するのは間違っている。
女性らしい人とは?男性らしい人とは?という定義が聖書に書かれているわけではない(たぶん。書いてあったらごめんなさい)。
つまり「〇性らしさ」とは存在するが、これと規定することができないものになっている。現実として。
その上に立って考えると、その人が「〇性らしい」という状態は存在するはずだが、しかしそれを確定的に規定することはできない。そのため判断はできない。
自分の中の「〇性らしさ」と照らし合わせるしかなく、それが正しいことなのか誰も分からない。
この問題は、「私は女性だ」という人に対して「いや君は男性だ」「無性だ」という議論が出る余地を示唆している。そしてそれは実際に起きている。
A.ナシ寄りかと思う。セクハラと判断する人間もいるかもしれない。
2.で述べた通り、その人が「〇性らしさ」を持つかどうかは個別の認識により解釈の余地が出てくる。
そのため、自身の認識とほかの人間の認識は違う可能性があり、それはいくらアップデートしようが統一できるものではない。(それが多様性でもある)
しかし1.で述べた通り、「〇性らしさ」というのは存在する。少なくとも現代では存在するとコンセンサス形成をしないと少なくともTQの自認を否定することになる。それは望むことではない。
ではなぜ「ナシ」「寄り」かというと、2つ観点がある。
その人が「カミングアウト」するのは構わない。それは公開範囲を意識することになる。
しかし他人が「アウティング」をすることは認められない。本人の意識する公開範囲を逸脱するからである。
そのため、他人の予想を本人の意図しない範囲に勝手に議論されるのも「ナシ」であろうと思われる。
2つ目は「扱い」に関する部分である。
ある人物に対して、どうしても〇性として扱わなければならない場面が出てくる。
それは銭湯に行くときであり、スポーツをするときであり、つまり性差を意識しなければならない場面である。
また、その人が〇性として「扱われたい」という願いを持っている可能性もある。
例えば重いものを持って、と言われて傷つく人もいるかもしれないのである。(この問題は複雑で、言った側が性役割を基に言っているのか言われた側が性役割を過度に意識してしまうのかということがある。基本的に相手を悪意を持っていると見ようと思えば多くの場合見ることができるので、ここはそもそも人間の他者とのかかわり・受忍限度・社会と個人など属性関係なくすべての人間が考えるべき問題である。ここで「私女なんだけど」「女だからなに?」みたいなケンカになった場合にどちらが悪なのか?という話だ。まあどちらが悪というのがそもそもナンセンスで、他罰的にならず原理主義にならずそれこそ人の考えを尊重する態度が互いに必要だろう。禁句を言ったから悪いやつだ!という考えは不毛に思う。)
つまり自身の性を意識してもらいたいという人がいる可能性があって、それを正しく扱うなら集団の中でコンセンサスを取っておく必要はあるわけである。
その場合、どうしても「あの人は〇性らしいから」という言い方がでてくる。これは相手を慮った上でである。そのうえでセクハラだと判断される危険性も考慮する必要がある。これは個別の認識に基づいて対応を変える必要がある。
そういう事情も鑑み、ナシでなくナシ「寄り」と表現した。(ナシみたいなリンゴ、「きおう」の話ではないhttps://www.ooyufarm.com/c/kiou)
こういったことを考えて話をしていくことになるが、実際のところ認知負荷が高く、5名を超えるグループでその考慮をしようというならそれはもう人知を超えているかと思う。
(いやもっと多くてもできるよと思っている人は、実際は相手を支配した気になっている可能性もあるので、努々注意されたし。もちろんできる人はいるだろう。)
(例外として、教師と生徒のような割と一方的な「管理関係」が成り立つなら、もう少し人数は増やせるだろう。しかしそれでも40人は多すぎる)
世の中が良くなっていくに際して、「これこそ正義、これこそ悪」という規定は難しい。
やはり隣人を大切にすべきであって、ネット上で属性間の断絶と憎悪を膨らませるのはほどほどにしないといけないと、私は思うのである。
「あの人は女々しい人だ」 「あの人は雄々しい人だ」 についてもよろ