はてなキーワード: ラクとは
病気でも育休でもサボりでも人が抜けた分の穴を気にするのは管理職の仕事であって、末端の労働者が考える事ではないと思う。じゃなきゃ管理職って何をすんのって話だし。
誰かが休んで迷惑だってんなら、その程度で回らなくなる環境にしてる管理職に文句を言ったらいいと思うけど、そんな勇気はない。
いくら正論であっても、感謝や助け合いが絶対だ。それが常識だ。みたいな宗教の前には無力。あるいは別の正論をぶつけられるかもしれない。
そんな弱虫達の会社での処世術が積み重なって、社会人の常識とやらになっていく。
そんなもんなのかもしれない。
強くなりたいぜ。
でも労働如きのために動くのも怖いし、同僚を責め立ててその時を凌げるならそれで良いかもしれない。
労働者達よ立ち上がれ!と声を上げてただただヤバい奴と認識されるよりは、その方がラクかもしれない。
でもせめてもの抵抗として、対等な立場にある同僚を非難しないようにはしている。
さりとて、私が欠勤する事は事前に想定されるべきものであり、業務に多大なしわ寄せが生じようとも私の責任ではありません。あなた方が私を責めるのは全くもって見当違いです。
と面と向かって言われて、そうだその通りだと思えるだろうかとも思う。
なんか二重投稿になったから消したら跡が残ってやがる。めったに書かねえから増田よく分からん。
本当にそれが校正者としての正しい姿勢だろうか。校正者は「間違いを正す」存在ではなく、「間違いの可能性がある部分を指摘する」だけの存在じゃなかろうか。
当該部分を直すかどうかは筆者が決める。デスクが決める。編集部が決める。その判断を校正者は担わない、自分はそう考えながら校正の仕事をしている。
もちろん「俺の赤は絶対正義!」なんて思っちゃいないけどよ。
俺は社員じゃなく孫請けの弱小フリーだからさ(ブコメで大手の正社員様だと勘違いされてるのは笑った)、そもそも信頼されてねえんだ。「明らかな誤脱以外は極力入れるな」ってな。
決定権を持ってるのは大前提として、著者や編集が言いたいのは「余計な仕事を作るな」って訳だよ。
別にそいつらが傲慢な訳じゃねえ。ちょいと特殊な現場で、俺も校正者の指摘を採用するかどうかの判断を任せられたことがあるけど、ありゃあ結構精神的にクるぜ。
決断には脳のリソースが必要って話だが、それをずーーっと一日中、どっちでもいい言い回しの変更やクソどうでもいい指摘を見せられては赤字で消してると、イライライライラしてくる。
そうそう。「指摘を入れない美学」と「入れる美学」はベテランの間でも結構対立しててよ。酒の席で喧嘩になってんのを見たことがあるぜ。
俺か? 俺は……怒られなきゃどっちでもいいな。ただ、「自分はこんな細かいことに気づけたぜ」ってオナニーにはならないようにはしてえな。
この仕事はいつだって、誰のためにやってるのか分かりゃしねえ。著者の側に立つのか、読者の側に立つのか、作品の側に立つのか……人が嫌いでこの仕事を始めたのに、どうしてこんな三つ巴の中間管理職みたいなことしなきゃなんねえんだ。
指摘される=自分自身を否定される、ではないはずなのに、それを担う校正者は何かと悪者にされがちだ。
そうかな。俺はアホだから、意見の否定を人間性の否定だと受け取りがちだぜ。
そうでなくたって、魂込めて書かれたものに「こうするともっと良くなりませんか?」って鉛筆入れるのは結構怖いことだし、そこは肝に銘じなきゃいけないと思う。
ただこれは、俺がその昔あるライターに「お前、その指摘本気で書いたのか?」って詰められたのをまだ引きずってるだけかもな。この文章は口が悪いが、よく吠える犬はビビってるだけなんだよ。情けない話だな。
ああそうだ、指摘はバンバンやってくれ、多けりゃ多いほど助かるって現場ももちろんあるけどな。どっちが良いって話じゃねえが、こっちの方が気はラクだ。
校正・校閲は、今日知ったこと、ずっと前に少し聞いただけのこと、何の役にも立たないと思っていたこと、それらのすべてが無駄にならない仕事だと思う。
それは本当に俺もそう思う。生涯勉強だよな。テニスプレイヤーの話も良かったぜ、聞かせてくれてありがとな。
俺がこの仕事に就こうとした理由のひとつに、「一生勉強せざるを得ないから」ってのがある。別に勉強が嫌いって訳じゃねえんだが、俺は怠惰な人間だから、学ばなきゃ飯が食えない状況したかったんだ。
でも結局、今も休みの日はずっと布団から起き上がれねえ。脳が腐っていく音がする。そのうち飯も食えなくなるんだろうさ。
わからないことでも「これって本当に正しいのかな?」と検索するだけでも違ってくる。
公式で「徒歩10分」の表記を見ても、GoogleMapできちんと確認する元増田は絶対に良い校正者だ。
自分もYouTubeで鳥の鳴き声を調べたり、何十年前のその日が本当に雨だったかどうかを気象庁のHPで調べたりしてる。
「冥福をお祈りする」との表記があれば、その故人が仏教を信仰していたかどうか、できる限り確かめたり……
まあこういうのは、校閲の“楽しい部分”なんだろうけどさ。あとのほとんどは元増田の言うように“シャーペンの先っぽで一字一字ゲラの文字をぷちぷち押さえたりするだけの仕事”だったりするけど。
GoogleMapの件はたまたまだ。近くにある別の店の情報を調べてたら、前の店は調べ済みだけどどうにも食い違ってそうだぞ、って気づけただけだ。いちいち調べるほど、俺は殊勝な人間じゃない。
「こんな単価で真面目に調べしてるんじゃねえ」「時間かけていいなら良い仕事なんて誰でもできるんだ」、よく言われたよ。
増田のとこは、校正に金と人をかけられる、いいとこなんだろうな。
この仕事の質は、自分の時間と気力や、会社の金とトレードオフだ。まあ、どんな仕事でもそうなのかもしれんが、あいにく俺は校正しか知らねえ。
雨の話で思い出したが、あったじゃねえか。「小説のウン年前のその日は月が出ていたか」って指摘がネットでバズったこと。
業界入ったばかりの俺はキャッキャ喜びながら「この指摘すごいっすね!」って先輩に言ったんだよ。そしたら難しい顔されてな。先輩に言わせりゃよ、「こんなの、たまたまOKだったから美談になってるだけだ」ってさ。
もしその日が大雨だったとしたら? 新月だったら? そんな指摘を著者に入れてどうなるんだ。
「俺の世界じゃその日は月が出ているんだ」って突き返されるか、その美しい描写がまるまる消えるか。いったいこの指摘、誰が得するんだ?
増田さんアンタは、ニュースやノンフィクションの現場なのかい? だったら細かい指摘は大事だ、厳密であれば厳密であるほど良い。
俺は一応どっちもやるけど、文芸は何が地雷になるか分からん。分からん程度の腕しかないから、俺にはあんまり依頼が来ねえ。憧れの作家うんぬんは、本当にたまたまだ。
冥福と仏教信仰の話はまるで発想になかった。毎回調べることは俺にはできないが、覚えとけばいつか役に立ちそうな視点だ。ありがとう、勉強になった。
とにかく、AIに取って代わられるその日が来るまで、このへんてこな仕事を楽しみたいよ。誰にも求められてないと感じる日があっても、意味のない仕事だと嘲笑されることがあっても、校正の仕事がこの世界にずっとあるといいな。
そうだな。
別に俺もこの仕事が嫌いじゃねえ、というかこの仕事以外で食える気がしねえ。賎業とは書いたし実際本気でそう思ってるが、校正がなければ俺は野垂れ死んでる。
お互い、何とかやってこうぜ。
(追記)
ありがとう、助かる。
どっか落としてるだろうとは思ってたが、仕事終わりに自分の文章なんかマトモに読めねえんだよな。
句点イレル。そういや同じ現場だった校正者もよくやらかしてたな。元気してるだろうか。
「一番最後」はママで。副詞的用法だと「ぶっちぎり」みたいなニュアンスを感じるから、おっしゃる通り強調表現の範囲内として個人的には違和感ないかな。もちろん要指摘事項だが。
“?”の後ろに文章が続けばスペースあり、後ろが “」”の記号ならスペースなし、“これはいったい何年前の学説なんだ?って” と促音でもスペースなし、が校正ルールってことかなーと思いながら読んだ。
だいたいそう。最後の場合はスペース入れる表記ルールも多いけど、俺は一文としてつながりがあるならアキなしの方が好き。
校正って、文章の体裁を整えるだけじゃなくて、内容のチェックも求められるじゃん。
そこまで求めるのかって思うわ。
この前もゲームの歴史みたいな本が、事実と違うって炎上して回収騒ぎになって、校正は何をしてるんだって出版社が文句言われてたけど、こそまで調べられるなら著者に書かせないで出版社が自分で書くだろっていつも思うわ。
文章の体裁を整えるのは校正で、事実関係の確認や内容に踏み込んだ指摘をするのが校閲であり、それぞれ別の仕事である……ってのは大昔の話。
写植がなくなり、ネットが普及した今じゃどっちもやるのが当たり前になった。
校正しろって言われても最低限の事実確認はするし、校閲しろって言われても行頭二分アキ折り返し天ツキー、だ。
現代じゃ校正も校閲も業務自体はラクになったんだろうが、そのぶん求められることが増えた。どっちの方がマシなんだろうな。
ゲームの歴史も、あんだけミスがありゃ業界素人の校正者でも1個や2個ぐらいは事実との齟齬を見つけてたかもな。でも「校閲は何をしているのか」って増田にも書かれてるように、校閲者のひと声で進行がストップするなんてまずありえない。
「じゃあAIでいいじゃん」ってブコメがあったが、全くその通りだと思うぜ。
(本文)
なんか一瞬だけ校正が話題になったらしいがな、あんなんロクな仕事じゃねえ。
俺はこの業界に入った直後の飲み会で「この仕事、20年くらいで頭おかしくなって失踪しちゃう人多いから気をつけてね」って笑いながら言われたぞ。
俺はあと何年もつんだろうな。もう壊れてるかもな。
だいたい、どこのどいつがしょーもない誤字脱字を見つけられて感謝するんだ。
「いやいや、自分は感謝している」ってか? 嘘つけ、とんちんかんな指摘が来たら逆上してSNSにアップするんだろどうせ。指摘がとんちんかんかどうかも出版社や著者によって変わってくるんだからな、まったくやってられねえ。
ある案件で鉛筆を入れれば烈火のごとく怒られ、ある案件では鉛筆を入れなかったことにねちねち詰められた。
あの時の判断はどっちも間違ってなかったって、俺は今でも思ってるけどな。
一番クソなのは表記統一だな。あんなの気にする奴なんかいるか?
「つながる」だろーと「繋がる」だろーと、混在してようがどっちでもいいだろ。
一文中の漢字と仮名のバランスガーとかそんな高尚なもんじゃなく、単純に気にして読んでる奴なんて誰もいねえんだよ。
「繋」は俗字だから直せだと? うるせーな、てめえは校正者か?
今どき「繫」を使ってるメディアなんかねえだろ、たぶん。
著者をキレさせて、読者にそっぽを向いて、出版の奴らしか気にしないようなエセルールを厳守して満足してるわけだ。
ダーシや3点リーダがひとつだろうとふたつだろうと、どうでもいいんだよ。
誤脱拾わせるのなんてWordにでも任せとけ。
「非常に複雑な判断が求められるからAIには無理」とか言う奴も多いから聞かせてもらうけどよ、人間の脳みそって本当にAIより出来がいいのか?
俺にはとてもそうとは思えねえ。あと5年か10年もすりゃ余裕で超えるだろ。
うさんくせえアフィ記事の段落ひとつをまるまるコピペして、ちょろっと表現変えただけでファクトチェックは全部ぶん投げるクソライター。
専門分野より先に日本語を学べってレベルで主述関係がメチャクチャで、挙げ句の果てに自分とこの専門用語さえ間違えてるクソ学者。
そんなものにセコセコ鉛筆入れてるこの仕事も、ロクなもんじゃないに決まってる。
AIはファクトチェックができないって? なるほど、どうなんだろうな。
だが、専門家でもない俺らのファクトチェックなんざ、たかが知れてるだろ。
どうせパソコンかたかたやって、ネットのマトモっぽいサイト見つけて「うーん……これはたぶん公式!」って適当な認定して、そこから情報がきちんとコピペされてるかチラッと見る……やっぱもう5年か10年もありゃ、普通にAIでもできそうじゃねえか?
「××駅から徒歩10分!」とか書いといて、GoogleMap見たら30分はかかりやがる。
俺ら御用達のコトバンクだって、これはいったい何年前の学説なんだ?ってのがザラにあるじゃねえか。
だが校正ってのはとにかく時間がねえ。出版ルートにおける一番最後、要するに下水道だ。
著者がなかなか書きやがらねえ。編集がなかなか回してこねえ。そのくせ締め切りは動かねえ。ならどうするか? 校正の時間を削るんだよ。
つまり一番どうでもいい工程なんだってことは、出版業界の共通認識なんだろ?
ブルシット・ジョブよりタチが悪い。
若者の台詞なのに「これはら抜き! い抜き!」とか鉛筆入れてる初校を見ると「バカかテメェは?」とか言いたくなるんだよ。
そんときばかしは著者に同情するな。「あの校正者をクビにしろ!」とかクレーム電話の1本や2本入れるかもしれねえ。
仕方ねえから初校にフィードバックすると、すげえ不満そうな顔されんだよな。
正しい日本語ってなんだ? それは著者の表現したいものより大切なのか?
著者の頭の中にある世界を、誤字脱字なんか余計なノイズなしに、そのまま100%伝えるんだって。
気づけば俺は、「十年と一〇年で表記がユレてます」なんてクソどうでもいいことばかり憧れの作家に抜かしてるわけだ。
でも仕方ねえじゃねえか。
木っ葉校正者の地位なんてカスみたいなもんだから、身を守るには野暮な指摘を入れるしかねえんだよ。
「私はちゃんとここに気付いてますけど、あえてママにしているんですよね?」ってアピールをしとくんだ。
誰だって入れたくねえよ、こんな鉛筆。でもそうしなきゃ、いつ契約を切られるか分かりやしねえ。
正直な話、俺は小説より漫画が好きだからよ、いつもジャンプのことを考えてるんだ。
暗殺教室知ってるか。あれに有名な誤字があるんだ。
「転んだ」が「殺んだ」になってるってやつな。
俺は今でも、あの41話をチェックした人のことを思っている。
そんなクソ盛り上がるシーンなんだから、松井先生もそりゃお得意の言葉遊びをするだろうさ。
俺がもし「(念)この『殺んだ』は『転んだ』の誤表記ではありませんね?」なんてお伺いを立ててる奴を見かけたら、もう絶叫しちまうよ。
当たり前だろ。マジで冷めるから鉛筆だろうと死んでも入れるなよ、そんな指摘。
ところがどうだ、実際はマジの誤植で、編集部からお詫びまで出た。
いったいどうするのが正しかったんだろうな。
やっぱり指摘をしとけば、防げるミスだったんだろうよ。
でもな、答えを知っちまった今でも、俺はやっぱり「殺んだ」をスルーするのが一番だと思うんだ。
たとえ校正者として間違った態度だとしても。
「私はあなたとあなたの作品を信頼しています。だからこの表現には何も指摘を入れません」
そういう仕事をしてえよな。
ただまあ、もう一つだけ欲を言えば、俺が恐縮しながら入れた鉛筆が、作品の世界をちょっとだけ広げることにつなげられたなら……。
いいや、それは下心がありすぎだ。何様だよ、お前は。
だから俺は明日も結局、ホームページ代わりにインスタを使ってるオシャレ飯屋に悪態をついたり、聞いたこともねえ企業が前株なのか後株なのかを必死こいて調べたり、シャーペンの先っぽで一字一字ゲラの文字をぷちぷち押さえたりするだけなんだ。
誰にも求められてない仕事のためにな。
ああ、クソッタレ。
それは、真夏なのにエアコンなんてものはなく巨大扇風機が生ぬるい風をだらだらと放出し続ける倉庫で、全員時給1000円で集められた日雇いの現場で、女性にはビールの段ボールにベルトコンベアの上で景品を貼り付ける仕事があてがわれ、男性にはびろんびろんに伸びきったまさに言い訳程度のコルセットと安全靴を装着させた上で、ビール350mlが2ダース入った段ボールを上げ下げする仕事があてがわれる事だと思う。
弱者男性が救われる日は…多分来ない
https://note.com/shota_hatakeyama/n/n0ce13f6c297b
そのブコメ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/shota_hatakeyama/n/n0ce13f6c297b
まずもって、当該記事は【アメリカの】落ちこぼれ層を取り扱っている
多分、「Of Boys and Men:書評」とかだったらホッテントリ入りしてない
自分から、ホッテントリ入りするのにキャッチーな「弱者男性」というラベルをあえて使っておきながら
いわゆる弱者男性と言われると定義が曖昧な感じになりますが、本を読むと低学歴・低収入・未婚という層が弱者男性になるのかなと思います。
その上で
機械(ICT)や途上国の労働力を活用できる高スキル層と、ウーバーの配達員のような低スキル層への労働需要は高まるものの、一般的なホワイトカラーやブルーカラーへの労働需要は弱まり賃金も低下していく、というものです。
(gendai)
男女間の賃金格差は、子供が生まれてから小学校に入る迄ぐらいの間の出産・育児格差に由来している感じ。
(wezzy)
あと、黒人×男性のintersectionalityが特にマズい。
(gendai)
あ、いい解決策を思いついた!沢山ベンチプレスをやって、食事に気を付けて、朝倉未来さんの「強者の流儀」でも読めば、弱者男性も強者男性に変身するんじゃないかな。以前書いたベンチプレスの記事(ドラミングというイノベーション)と、食事の記事(元気に国際教育協力を頑張るためのラクに痩せられる食事術)のリンク置いときますね。
…違う、そうじゃない…。。。
で〆てるから、これもう確信犯的に、捕捉されやすいキャッチーなタイトルで日本と全然関係ない書評書いて
リベラル勢が
みたいに言うの面白いよね
「女性の苦境を火に油を注ぐ形で政治的主張のために搾取している」とは言わんのにさ
炎上上等の活動だって、議論が深まっ太郎ってばかりに正当な闘争とするのに
男の場合は「そう言ってしまう」のはなんでかを自分の胸に問うた方が良いよね
どうしてそうラベリングしたいのか
こんなん(あなたの活動は苦境の搾取)を、フェミニズム活動や障碍者の活動、LGBTの活動辺りにぶつけたら差別だとトンデモ炎上しそうだけど
男相手だと許されるのよ
近年、日本における生涯未婚率は上昇しており、男性の生涯未婚率は2022年で28.3%となったそうだ。これは50歳時点で婚姻歴のない人の割合を示したものなので、現在の20代が50歳になる頃にはこの数値が更に上昇していることが予想される。
さて、私は23歳で、今年度末で大学を卒業する大学生の男である。結婚について考え始める事はまだ早計だとは思うが、今まで女性との交際経験はないほか、性格面でも容姿面でもいわゆる「非モテ」に分類されるような人間である事、他にも、食べ物の偏食が激しい、就職後も実家暮らしの予定であり一人暮らしの人と比較して自立した生活力が低いなど、総合的に考えて結婚に向かない要素が多く、約3割の人が生涯未婚となる社会において自分が7割の結婚できる側の人間だとは到底思えない。
そのため、生涯独身で生きていく覚悟をする必要があると考えたが、それに対して漠然とした不安もある。そこで今回は、その不安を言語化してまとめるため、この記事を執筆した。
生涯独身で生きていくにあたって、大きく分けて3つの不安がある事に気づいた。
まず一つ目は、年齢を重ねてから後悔する可能性があるという事である。
結婚には「適齢期」があり、歳を取ると結婚する事は難しくなる。そのため、若い間は独身である事を気にしていなくても、一般に結婚が難しくなるとされる30代後半以降になってから、「若い頃に結婚しておけばよかった」と感じ、後悔してしまう可能性がある。
生涯未婚で過ごした場合、仮に自分が結婚していたら幸福になっていたかどうかというのは全く分からない。そのため、隣の芝は青く見えるという言葉のように、結婚している人が羨ましくなったり、結婚しなかった事を後悔する可能性が高いと危惧している。
結婚した場合、新婚旅行や結婚式、子育てといったライフイベントを経験する事になるが、結婚しない場合にはそういったイベントがなく、非常に平坦な人生となる事が想定される。もちろんその方がラクという見方もできるのだが、少々つまらない人生となってしまう事は否めない。
もちろん一人で趣味を楽しんで過ごすということもできるが、趣味には飽きがくるだろう。
また、人間は、年齢を重ねるにつれて、自分が楽しむよりも他者を楽しませる事に充足を感じるようになるように思う。そのため、家族を持って、配偶者や子どもを楽しませるような人生を送った方が、充実した人生になる事が予想される。
私には母方の祖母と父方の祖母がいるが、いずれも子に非常に頼っており、高齢者が家族の支援無しに生きていくのは非常に難しいのではないかと感じている。
高齢者が家族の勧め等無しで自ら老人ホーム等に入居するというのはあまり想像ができない。かといって、一人で暮らしていれば、加齢による生活力の低下でいずれは限界が来るし、突然倒れても誰にも気づかれないといった危険性もある。
あいにく、私には兄弟どころか従兄弟もおらず、老後に頼れる親戚が存在しないため、生涯独身で過ごした場合の老後に対する不安が大きい。
私はこの記事を執筆する事で、生涯独身に対して漠然と不安に思っている事を言語化する事ができ、少しスッキリした反面、これらの不安と付き合っていかなければいけない今後の人生に対して憂鬱に感じてしまった。
昔は三高とかいって男性に背の高さを求める女が多かったらしいけど。
マッチングアプリやってみたり、婚活パーティーとか調べたりと恋愛についてちょっと活動してみると男の低身長がハンデになるのがごく当たり前の考えになっていると感じる。
本当に? いまや令和の世の中で?
高身長を条件にしてる女性って、ネッシーとかツチノコみたいな未確認生物じゃないの。
少なくとも私は見たことないわ。
まあ絶滅してる絶滅してないに関わらず、過去実在してたのは事実か。
でも信じられないんだよな。
身長が高いってキリンさんじゃないんだから生活の役に立ったりはしない。
パートナーの男の背が高いと、何が嬉しいんだろう。
IQが高いとかコミュ力があるとかの方が、ずっとずーーっと生存の役に立つ。
でも背が高いって、何の意味もないように思える。
せいぜい吊り革をラクに掴めるから電車事故で死ににくいくらいじゃない?
立ってキスするときとかやり難いでしょ。対等っぽさも薄れるし。
背の高い男を求めてた女たちの気持ちがわからん、理屈の通った説明が存在しないのが怖い。
「好きになるのに理由なんて要るかい?」って理屈で誤魔化せるほどには身長を求める傾向は少数派じゃなかった。
男でも母親とか姉とか伝聞で知ってる人がいたらば。
Flashでサイト作れるようになったらキャリアの半分くらいとか下手すると全部とかそれで食える業界いくらもあるんだよな
そんなの勉強のうちに入らなくて廃れたらすぐ他のを覚えられるということ自体がスキルなのと
アルゴリズムやらデータストラクチャやらAIモデルやらプログラミングパラダイムやらデザインパターンやらの実際の勉強とトレーニングもいるのとでまあいろんな職種のなかでトップレベルに覚えること訓練することは多い職
ワードプレスでサイト作れますレベルの「ITエンジニア」も確かにいるけどそれだと数年で全く通用しなくなって他のをやり直す羽目になることが多いので勉強云々になるんだろう
そんな数年で変わらない業界のが多いわけで
例えばフロントならReactなどのフレームワーク 10年前はJQueryあたりで法改正どころではないくらい違う
そもそもフロント自体がテンプレートエンジンからSPAへと大きくかわっている
スマホも10年前なら普及率1/4くらいでサイトのターゲット自体がPCからスマホに
2013だとJava7だけどJava7と8も大幅にちがうので8やった事ない人が今の俺のコード読んでも読めない
いまはクラウド当たり前だけど10年前ならまだまだオンプレでこれも法改正どころではないくらい違う
AIも全然話題じゃなかったしこれは線形代数や微分からやり直したけど何ヶ月もかかった
これにからんでPythonの興盛 まあ新言語1からやるのが大きな法改正くらいだろうか
C++がRustになんてのも俺はまだ手を出してないけどある
開発手法で言うとこの10年のウォーターフォールからアジャイルへの移行で仕事の進め方が他業種に転職以上に変わってる
このほか変わったことではないけれどアルゴリズムやデータストラクチャーデザインパターンなんかは本ちょっと読むだけじゃなくて実際に手を動かして体に身につくまでやる必要がある
普通に大量にあるな
子供が生まれたので早起きの習慣ができたことをきっかけに、日曜の特撮を見るようになった
10年以上ぶりに見たドンブラは確かにそこそこ面白かったが、あれはあれでなんか違う別個体のような印象なので感想はスルーしていた
ストーリー自体は5人の王様が登場し、それぞれの国を治めつつ強敵と立ち向かうという単純明快なもの。一人一人が自分の国と国民を最重視しているために目的が「敵の排除」ではないってのがいい感じだ。目的に合致しているのならば敵すら利用するし、その流れも悪くないと思う。今のところはギラが王権を奪うまでの第一章という感じだろうか。ここから王座を奪われたり新たな敵がでたり2000年前の真実が明らかになったりと、舞台設定が単純なゆえに何でもできそうでワクワクする。
登場人物もいい。なにより悪役が主人公サイドにいるのが斬新かつ楽しい。
物語的にはラクレスの暴虐ぶりが際立つけど、彼はむしろ不器用な面ばかりが目立っていているし、自分の欲求に素直すぎるというだけなのかもしれない。
逆にトウフの国王の方があっちについたりこっちについたりと浮気癖があって、ある種のヴィランだなって感じ。有能で策謀に秀でているが明確な利益を提示しないと敵に回る厄介な人間。だからといって排除も無理。いいキャラだよね。
しかし、一押しは断然総長。断然せりふ回しと行動が最高にかっこよい。
毎回かっこいいのに、今回の話では、まさかのシュゴッド達を科学ではなく精神面で奮い立たせるという立ち回りをしたのはぐっときた。彼の持ち味のテクノロジーの分野はそのままシュゴッドに通ずる部分であり、だれよりもシュゴッドを理解しているはずなのにだ。自身の武器を一時的にでも捨て去り、まさに神頼みでもするかのように言葉でシュゴッドを起こしたのは、総長のキャラがないと成立しない。彼がずっと「シュゴッドは機械だ」と言ってこなければこの場面は薄い話になっていただろう。
というか、ほんとそれ以外でも総長はかっこよすぎる。主人公のよき相棒であり理解者でありライバルでもあるってだけでも凄いのに、一人でも全部持って行っちゃうんだから
凄いのは王様たちだけじゃない。その従者や脇役がいい。
普通、従者が活躍する作品って本当に珍しくて、わかりやすいのはブリーチみたいなのだろう。あそこまでキャラ数多いが全員成立しているのは珍しいのだが、ニチアサでそれをやっているのがキングオージャーでもある。
一人一人の王様をサポートする側がきちんと仕事をこなしている。外観としても、ヒメノは執事で、リタは補佐官、カグラギは黒子などわかりやすい。そして彼らだけで登場してもきちんと物語が生める程度には個性がしっかりしている。一人一人が国にとって重要な立場であることが示唆されているからなんだよね。
あと、シュゴッダムにいる例のうるさいモブ男。彼は徹底的なモブで風見鶏だが、どっちを向いてしゃべっているかで物語を誰にでもわかるように整理している超重要なキャラでもある。
彼がいるおかげで緩急がつくし、視聴者にいまどうなっているかを端的に印象付けられている。なにより子供もわかる野次馬という存在はほんと大事だと思う。イラっとするかしないかの絶妙な塩梅も素晴らしい。
自分のお気持ちや感想を述べるのが非論理的だ、というのはちょっと間違っている。そもそも論理的というのは文章がつながっている状態を指していて、米国型の文章構造はピラミッドストラクチャーを持つ(ミントのピラミッド原則)。これは科学技術論文で広く採用されている方法だ。ちなみに日本風、フランス風の論理は違うということが示されており、論理的とは単に慣れであり、文化に依存する(*1)。構造さえできてれいば、その内容がお気持ちだろうが、料理の手順だろうが、交渉だろうが、論理的な文章になる。
感想を述べるにしても論理構造を作ることができるし、それを通じて論理的文章を書くことができる。たとえばアメリカの教育で用いられている4square writingは、中央に例えば「おばあちゃんが大好き」と書いて、その理由となる事柄を3つのマス目に書く。「話が面白い」「お菓子をくれる」「においが好き」とか。そして最後のマス目に「だからおばあちゃんが好きです」と結論を書く。話題が一貫しており、列挙された情報に基づいて結論が誘導されており、論理的となる。
これはハンバーガー構造や5段落エッセイとも呼ばれていて、主張、根拠1、根拠2、根拠3、言い換えた結論、という段落構成を学ぶことにステップアップしていく。高校生のころにはこの構造を極めて小論文(エッセイ)を書くのが卒業要件だったりもする。イシューに対する議論だったり、ディベートを通じて強い根拠を上げる訓練をしたり、モノポリーで遊びながら交渉術を学ぶことになる。口述でも文章でも、5段落構造がしっかりと植え付けられる。
なので、大学に入った段階で構造的な文章を書く経験が豊富である。そこで初めて感想(感情)から切り離して情報を伝えるテクニカルライティングによる訓練がはじまる。事実などの根拠の提示、一般常識や前提条件を論拠ととして組み合わせて新たな意見を述べる(トゥールミンモデルなど)、自己批判で主張のリミテーションを掛ける、といった論述の基礎も覚える。
なので感情から切り離すことや事実と意見を分けるというのは、論理的な文章のうち研ぎ澄まされた金字塔ではあるものの、最初から取り組むべき課題ではない。取り組むべきは、話題がつながって構造を作る文章を書くことにある。
最初の話題の読書感想文テンプレも、段落内では「なぜなら」でつながりを持たせてはいるものの、全体をつなぐ構造がないことが問題だと思う。3つの段落の情報がバラバラのままである。そこが問題なのであって、感想文を書くこと自体に問題があるわけではない。論理的な構造を作る訓練になっていないことが心配である。
私は卒論修論博論を指導する立場の人だけど、増田の言う通り悲惨な文章ばかりを目にして実質リライトすることになる。その問題はお気持ち文章だからではなく、論理的な構造がないことに原因があると感じている。といつつ自分は人一倍文章を書くのが苦手で、いまだに多くの本を読んで訓練を続けているし、これまでの指導者に苦労を掛けてきたと思うので、恩返しのつもりで学生さんたちに指導をしているよ。
https://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/fea_watanabe_01.html