はてなキーワード: イオとは
コンビニでバイトしてんだけどノーマスクばあさんがズカズカ入ってくるなり店員の俺に一直線で向かってきて
「ごめんね!マスク忘れちゃったの!大丈夫!?」てクソデカ大声で喋ってきてオイオイマジかよと思ったけど断って長々文句言われんのも喋んのも嫌だし
他に客居なかったし一人で来てたからまあ喋んねえだろうなと思ってはいはいどうぞ〜つってすぐレジ戻ったんだけど
買い物カゴをレジに持ってきた婆さんは「マスク忘れちゃったのよ」「忘れないよう玄関に置いてるんだけどね」「最近暑いからマスクやんなっちゃうわ」など
俺がレジ打ってる間ずっと怒涛の勢いでお喋り始めてもうなんか怒るとかいうより面白かったよな
その婆さん、レジに家の鍵置き忘れて帰ったんだけど暫くして戻ってきて自動ドアくぐるなり「鍵忘れてないかしら!?」って大声上げるし
俺が持ってってやると「私どこに忘れてた?」「最近多いのよね」とまた怒涛のお喋り
何だこれ
という作者のキッツイ怨念が詰められた話をわざわざ白雪姫パロでやるのか…
結局のところ「女性に若さを求める男が全部悪い」という結論に帰結してるけど、この場合男性に若さを求める女は意図的に透明化してるのか?
若くて一番容姿が良い頃はチヤホヤしてもらえてそうでなくなったら冷たくなるのは当たり前というか、そもそも容姿でチヤホヤしてもらった経験がない人も男なら多いと思うけど
しかも他の作品読んだら「お前若くて顔の良い男大好きじゃねーか!」ってなるのが、男が女にやる事は大半差別だけど女が男にやる事は何も問題ないってこの手の人らの思想まんますぎてオイオイオイ
みかんの花咲く丘公園前の商店街のお肉屋のヒロコさんの名言なんだけど、
「肉は腐りかけが美味い」って、
こんなことお肉屋さんが言っていいのかしら?
って思うけど、
実際自分で試してみようにも、
どの程度の腐りかけの肉がいいのか?
皆目見当がつかないし、
私はまだそんなミラクルで奇跡的な腐りかけの肉に出会えたことないけど、
ヒロコさんの名言は忘れられないわ。
つどつどヒロコさんの名言を思い出すのよ。
これをもうちょっと越えたら超絶美味しいお肉になるのかしら?って
流石に試す勇気がなくって、
見るからに食べる前に食べてはいけない肉なのかも知れない!って私の中の野生の勘が働いて
とてもじゃないけど
うーん、
ヒロコさんの名言本当なのかしら?って思うけど、
あんまりお肉屋さんの店頭でそう言う話をするのもなんだか眉唾ものなので、
しないんだけどお店番がヒロコさんだけのときにこっそり尋ねてみようかしら?って思うけどね。
これは取り返しがつかないわ鶏肉だけにって言いたいわけではないけど
抜群に傷みの早さでは断トツなんだけど、
母曰く、
ちょっと傷んだぐらいの鶏肉は料理酒で洗え!ってライフハックを教わって以来、
救えないはずだった鶏肉は洗ってとりあえず火を通せば何とかなるって
美味しい鶏鍋にしてべからずなのよ。
そもそもとして
買った食材はきちんと食べる計画的に計画を立てないとって未計画な部分な私が悪いのよ。
ステーキの焼き方にやたらこだわるアメリカの人やオーストラリアの人たちは
本当に焼き方にはこだわるのよね。
私たちが知っている
レア、ミディアム、ウエルカムの3種類だと思ったら大間違いで、
まあバリカタとんこつラーメンの麺のゆで加減も日本人は変態的な段階があるのと同じように、
「針金」ってのがあるその上の「粉落とし」ってのがあるぐらいだから
実際そのブルーな焼き方を
傷んでいる青みがかったなんとも言えない肉は焼き加減ブルーにはよした方が賢明かもしれないし、
しっかり焼いた方が良いかもしれないし、
青みがかった肉にで会ったときに、
それを思い出してしまいそうよ。
なんでも知ってるつもりでも、
ほんとは知らないことが、
たくさんあるんだよって。
そう思ったわ。
あんまり本当の本心は青い肉になんて出会いたくないんだけどね。
うふふ。
今日も忙しそうなので、
朝は昼逃したときのためにもしっかり食べておきたいところだし、
味わって食べたいものよ。
あんまり美味しいとは思えないトマト臭さがまたたまらないけど、
トマトの類いはやっぱり直に直接食べた方が
美味しいと思うってことを
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ソース:https://www.animefeminist.com/history-not-with-a-bang-but-a-letter-violet-evergarden-rewrites-traditional-world-war-i-narratives/
暁佳奈のライトノベルを原作とする京都アニメーションの名作、ヴァイオレット・エヴァーガーデンがネットフリックスで公開されたとき、初見の私が想像していたのは、Foreignerのヒット曲さながら、愛というものを知ってみたい少女の無邪気な物語だった。まさか号泣することになるとは。
ものの数分でその予想は裏切られた。
この作品は涙なしには観られない戦争ドラマであり、スチームパンクな歴史改変モノだったのだ。しかし、何よりもトラウマにまつわる物語だとわかった。
PTSDの歴史、1900年代初頭の文学作品における定形表現、そして人気ジャンルである「戦争物語」を、本作は、少女兵士を主人公とした上で見つめ直している。第一次世界大戦の歴史、とりわけ女性の歴史を振り返り、再解釈することで、かつての物語に対してフェミニスト的なテーマを根底に据えた新たな息吹をもたらしているといえる。
戦争物語という切り口からヴァイオレット・エヴァーガーデンを解説している人は珍しくない。例えば「Mother’s Basement」というYoutubeチャンネルでは、人情味を持って共感を表現し、ヴァイオレットの成長を描ききったシナリオの妙について見事な考察動画がアップされている。だが、トラウマや障害を抱えた少女が自信を持って活躍できるようになっていく様子や、いかにPTSDがリアルに描かれているかという点については、あまり取り上げられてこなかったように思う。
この点を踏まえた上で、テルシス大陸における戦争のモデルとなった、第一次世界大戦の基本事項を整理するところから始めようと思う。ざっくりと言えば、この大戦は1914年から1918年の間に起こったもので、何がきっかけとなったかは諸説ある。開戦とともに急速に戦火が拡大したけれど、1914年の冬までには終結するだろうというのが大方の見方だった。
その目算が外れたのは言うまでもない。戦争は4年も長引き、フランス、ドイツ、イギリスを中心とした各軍のインフラは、塹壕戦と呼ばれる、この時期に流行した新しい兵器や戦法に対応するための装備が圧倒的に不足していた。
兵士の多くが若く経験不足だったこともあり、戦いは想像以上に過酷なものになっていった。戦争から帰還した兵士たちの間には、「新しい」病気が蔓延した。俗に「シェルショック」と呼ばれ、後に「PTSD」や「PTSS」 (心的外傷後ストレス障害、外傷後ストレス状態)として診断されることになる、「男性ヒステリー」という病だ。
「ヒステリー」とは、当時、性別役割分担に厳格だったヴィクトリア朝時代に用いられた医学用語で、今で言うところの鬱病、不安神経症、心的外傷後ストレスといった精神疾患全般を表すものだったが、適用対象はシス女性がほとんどだった。そのため、「ヒステリー」扱いされた兵士たちは周囲から男失格のレッテルを貼られ、つまはじきにされる結果となった。
兵士だけではない。第一次世界大戦に参加した国々とその植民地は、集団的なトラウマに苦しんでいた。とりわけ顕著なのはドイツで、戦争への参戦とその後の経済低迷の影響から、ナチスの台頭を許すほどだった。フランス、イギリス、ドイツのメディアでは、この大戦は未だ主要なテーマであるし、世界各国の兵士とその家族が残した手紙は今なお読むことができる。
この大戦が世界に与えた影響は計り知れず、文学や歴史、そして現代の戦争にも様々な影響を及ぼしている。だが、ここで重要になってくるのは、戦争にまつわる有名な物語や歴史で描かれるのは男性ばかりなのに対し、本作の主人公であるヴァイオレット・エヴァーガーデンは女性兵士ということだ。
男性ばかりなのは当然、当時の軍隊で中心的な役割を担うことができたのは男性だけだったからだ。例外としては、第一次世界大戦において戦闘に参加した唯一の女性イギリス兵、フローラ・サンデス(セルビア軍所属)や、マリア・ボチカリョーワという若い女性が隊長を務めた、「ロシア婦人決死隊」と呼ばれるロシア軍の小隊などが挙げられる。
だが、第一次世界大戦で軍隊に従事した女性の多くは、戦場で看護師として働くか、工場で働くなどが一般的だった。例えば、アメリカの「ヨーマネッツ」や「ハローガール」と呼ばれる女性たちは、銃こそ持たなかったが、電信技師やカモフラージュデザイナー、魚雷組立工など、幅広い仕事によって戦争を支えた。
軍に従事した女性たちにも多くの物語があったにもかかわらず、戦争物語のフィクション作品はほとんどが男性中心となっている。女性はもっぱら脇役として登場し、戦死した兵士を嘆き悲しんだり、恋人役だったり、あるいは…良からぬことをされる。言ってしまえば、男性キャラクターを成長させるための舞台装置であり、そのためだけに殺されてしまうことも少なくない。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの世界においても、戦闘や戦争は男の仕事であり、女性はもっぱら「受動的」な役割に追いやられている。だが、ヴァイオレットは他とは異なり、女性であるだけでなく、兄ディートフリートから弟ギルバートへ「プレゼント」として押し付けられた「道具」という扱いであることから、注目すべき例外と言える。ヴァイオレットはモノ化されているのだ。殺人こそがヴァイオレットの生かされる理由であり、ギルバートの命令に従うことが唯一の生きる意味なのだ。
こうした虐待と、戦争でギルバートを失ったトラウマ、そして戦場で目にした暴力が相まって、ヴァイオレットは明確なPTSDを抱えることになる。作品を通して、ヴァイオレットは次のようなPTSD特有の症状をいくつも示している。
これらの症状は、娘を亡くして嘆き悲しんでいる作家、オスカーのために手紙を書いた後、はっきりと立ち現れてくる。戦いの中で自分がしてきたことを理解し始めたヴァイオレットは、戦場のフラッシュバックに苛まれ始める。
最終的に、ヴァイオレットはギルバートを探すために戦地を訪れる。ギルバートを見つけられなかったことで深い絶望に陥ったヴァイオレットは、自殺を試みる。退役軍人の自殺リスクは現在も高く、自殺者数は戦死者数を上回っている。
第一次世界大戦の歴史を描いた物語の多くがそうであるように、ヴァイオレットが抱えるテーマも、いかにして心的外傷後ストレスに立ち向かうかという点に重点が置かれている。このことは、作品の構成にも反映されている。
ストーリー序盤におけるヴァイオレットは、戦地での負傷から立ち直ろうとする、感情を失った少女だった。しかし、第7話でホッジンズが警告したように、ヴァイオレットの記憶は「(自身を)燃え上がらせる火」であり、いつか「たくさん火傷している事に気付く」ことになるものだった。そして、ヴァイオレットはそれに気づいてしまう。戦場で過ごした日々を思い出すたび、ヴァイオレットだけでなく、視聴者までもがフラッシュバックを体験することになる。
しかし、「女々しさ」とか「弱さ」といったPTSDに対する従来の見方とは異なり、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはヴァイオレットのシェルショックを丁寧に扱っている。ヴァイオレットが自動手記人形の仕事を通して他人に共感してきたのと同じように、この作品は視聴者にもヴァイオレットへの共感を求めているのだ。
ギルバートの死を否定するのをやめ、自身のトラウマを受け止めたヴァイオレットには、PTSDから立ち直るための長く険しいプロセスが待ち構えていた。トラウマ研究では、これを「心的外傷後成長」と呼び、ネガティブなもの(停滞、衝動的な行動、否定)と、ポジティブなもの(前進、対処法の獲得など)の2種類に分けられる。
ヴァイオレット自身にとっても視聴者にとっても幸運なことに、ヴァイオレットの心的外傷後成長はおおむねポジティブなものだった。自動手記人形として人と一緒に働くうちに、自分の感情を受け入れ、なぜそのような気持ちになるのかを考えて納得できるようになったことで、ヴァイオレットは回復の道を歩み始める。
さて、本作のいわゆる「今週のお客様」エピソードの中には、「戦争で失った恋人を恋しがる女性たち」というお約束的展開をそっくりそのまま踏襲しているものがあるが(OVAがその好例)、一応付け加えると、この展開自体が本質的に悪であると言いたいわけではない。OVAでは、第一次世界大戦中に多くの女性が体験した出来事がリアルに描かれており、膨大な量の手紙が世界各地に送られたという点も史実に忠実となっている(手紙の多くは歴史的資料として残存している)。
しかし、ヴァイオレット自身は、作品を通して、そのような歴史的・文学的な流れに逆らっている。
ヴァイオレットは家に帰ってきたが、想い人は帰ってこなかった。
兵士は、新たな傷を負って帰ってきたのだ。
そして、ヴァイオレットはその生い立ち故に、想い人を亡くしたクライアントと、亡くなった想い人の両者に共感することができる、いわば、境界的な立ち位置の人物といえる。「民間人」と「軍人」、「女性の世界」と「男性の世界」、「家庭」と「軍隊」、そういった境界の中でこそ、ヴァイオレットは真に花開くことができるのだ。
ヴァイオレットの境界的な立場は、自動手記人形の仕事においてユニークな強みとなっている。作中の時代設定と同時期に当たるヴィクトリア朝時代や第一次世界大戦期は、タイピストやゴーストライターになる女性が急増した時期であり、ヴァイオレットも当時の女性たちと同じく、この波に乗っていると言える。
こうした女性たちは、「媒体としての女性」というお約束的表現として文学に登場するようになった。彼女らは、タイプライターや電信機、さらには速記法を用いて、人々の思いを目に見える形にし、様々なメッセージを伝えるという役割を担っていた。哲学者で文学理論研究者のマーサ・ヌスバウムの言葉を借りれば、「目的のために使われる道具」としてモノ化されることも多かったが、家父長制の世界を生きる多くの女性にとって、この種の仕事は、生まれてはじめて主体性を獲得できる場でもあった。
ヴァイオレットの当初の動機は、初めて手にした主体性を社会で活かそうとしたヴィクトリアン朝の女性たちとは若干異なっている。自動手記人形を志したのは、他者を理解したい、そして何よりも、少佐の最期の言葉を理解したいという目標を叶えるためだった。そして、人々の思考や感情の「媒体」としての立場を通じて、自分の感情をよく理解し、虐待やトラウマを乗り越え、主体性を獲得することができるようになっていく。
第一次世界大戦や、そこに至るまでの過程を題材とした文学作品によく見られる、「媒体としての女性」という定形表現とは異なり、ヴァイオレットが主体性を持つことができたのは、その境界的な立場ゆえである。戦争に巻き込まれる家庭の立場、戦争を戦う軍隊の立場、その両者に対して共感、理解できるという強力な武器を生かすことで、戦争をテーマにしたアリアの歌詞を書くために戦死した兵士の手紙を研究したり、嘆き悲しむ父親のために文字通りの意味で媒体となったり、兄弟の絆を取り戻す手助けをしたりと、ヴァイオレットは単に人の気持ちを左から右に渡す中継役ではなく、自らの手で変化をもたらす主体となっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンと史実の違いは、これまでメディア等で描かれてきたタイピストや媒体役の職業人たちが受け身の存在と見なされてきた一方で、ヴァイオレットは周囲の人々の物語に積極的に関わっているという点にある。こうした活動を通じて人々の成長を助けていく中で、ヴァイオレット自身にも成長が見られるようになっていく。
第11話では、その成長がはっきりと見て取れる。過激派の部隊を立ち退け、銃弾に倒れ死に瀕している兵士、エイダンの最期の言葉を記録し、訃報の知らせと最期の言葉を家族の元へ届けに行くという、物悲しいエピソードだ。戦争の両側面への共感を要するこの仕事を全うしたことで、ヴァイオレットはようやく自分や他人に対して素直に悲しむことができるようになる。ギルベルト少佐の死をきちんと悼むことができるようになったのも、ここからである。
単なる道具でしかなかったヴァイオレットが、今や積極的に自らの心的外傷後成長を促進しようとしている。これは、従来の戦争物語や、シェルショックや女性タイピストにまつわる歴史に対する新鮮かつ現代的なアプローチといえるのではないだろうか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは第一次世界大戦に大きく影響を受けており、史実によるものから、文学から引用されたものまで多岐にわたる。PTSDに対する思いやりあふれる描写然り、「媒体としての女性」という定形表現に対する批判然り、この作品は、歴史上の極めて重要な時代—最後の退役軍人が亡くなり、徐々に記憶から忘れ去られつつある時代—との対話の上に成り立っている。
だが、家庭内の物語と戦争の物語をブレンドし、両ジャンルに共通する定番の展開を巧みにひっくり返したという点で、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのファンタジー世界は、オマージュ元の戦争物語と趣を異にしている。スチームパンクなファンタジー世界という舞台の上で、使い古された展開を別な角度から見つめ直すことで、進歩的な物語を紡ぎ出しているのだ。
退役軍人の描かれ方、精神疾患、女性の物語、こうした事柄を尊敬の念を込めて丁寧に扱うことで、戦争やトラウマにまつわる従来の物語をいかに語り直すか、その基準点をこの作品は確立したと言える。戦争やトラウマにまつわる物語も、より包括的で、健全で、私たちに活力を与えてくれる存在たりえるのだ。それが、従軍した兵士や亡くなられた方々に対する、せめてもの追悼でもある。
「戦争は決して変わらない」とよく言われる。だが、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが示してくれたように、その語り方を変えることができるのは確かだ。
炭素:彗星を捕まえたり、土星の衛星タイタン、天王星まで足を延ばせばメタンから確保できそう
水:こちらも彗星とっつかまえるか、木星の衛星にあるか。木星の放射線帯との兼ね合いで重水しか取れないかもしれないが。月面にもイオンの形であるとかないとか
鉄:火星には豊富にあるが、ほかにはないかもしれない。そもそもその星で水があった歴史がないと地球上で利用されているような金属鉱石が採取できない可能性
シリコン:多分太陽系で一番普遍的に存在する金属かも?単結晶つくるのは大変そうだけど
イオウ:金星か木星の衛星イオにしかないかも。イオから噴出した溶岩を浴びた衛星で採取したほうが経済性があるやもしれないけど
つーか炭素と水以外碌な資源が太陽系になさそうだから、地球近辺では金属で作ってたモバイルスーツとか全部セラミックでつくるほかなかったりしねーかな。セラミックなら細かく砕いた適当な岩石を太陽の熱で焼成したらなんとかなりそうだし。でも火星以遠だと太陽光も頼りないから戦争とか無理じゃね?
他も超適当
あおぎり高校
勢い ★★
安定感★★★
将来性★★
元々ゲーム部の派生で生まれた人達で、実はゲーム部騒動の煽りを一番受けてたとも言える。
その環境下をASMR配信を行うなどして生き残ってきた音霊魂子の根強い人気でVTuberチップスになったりしている
そして元々ゲーム部の3Dなので所属している子達は3Dで可愛く動く。
一つ難点を言うなら、生き残る為に2.5次元状態も解放してある為結構な頻度で演者のリアルの素手が出てくるところだ。超美麗3D…超美麗3D…
だが、元々CTuber構想などがある事務所だった為そこら辺は演者もキャラクターも一緒になってこの事業に向き合おうとしているからかもしれない。そこら辺は、表現者の自由だ。
筆者が勝手に音霊魂子に比重を大きくしているため、他の演者の様子などは不明である。
しかし、音霊魂子自身があおぎり高校にちゃんと愛着があるのでそういう意味合いでもあおぎり高校の安定性と将来性は今ひとつな部分がある。
あの子が抜けたらガッタガタみたいなのは事務所として健全とはいえない。
神椿
勢い ★★★
安定感★★★★
将来性★★★★★
主な演者:花譜、
VTuberの音楽事務所といえばここ、にじさんじやホロライブにも負けないぐらい濃度の高い表現力で圧倒してくるのがこの事務所。
しかしVTuberだけでなく、カンザキイオリやGuianoなどのアーティストも所属しており、VTuberと表現した彼らは実際のところVTuberと名乗ってはおらずバーチャルアーティストである。
まぁ、にじさんじやホロライブもVTuberとは名乗らずにバーチャルライバーと名乗ってたりする。誤差だよ誤差。
バーチャルアーティストでいうなら花譜以外にもなんでもラップにしちゃう春猿火や、名前だけわかるヰ世界情緒も所属している。因みにDUST CELLはアーティストの方です。因みにね。
そんなこんなで定期的に歌系の動画やカバーの動画を投稿してるのが彼らで、たまにTwitterのトレンドでライブしてる時のタグが上がってるのも彼ら。俺はまだライブ見たことない。
そういう意味合いで勢いも安定感もあるし、将来性なんかとてもある方、だと思う。
難点を言うならアーティストである部分で、VTuberやVライバーで言うところの質感が掴みづらいところだ。
まぁそこは好きになった各々が適切な距離感でもって処理する部分だと思う。
V-clan
勢い ★★★
安定感★★★
将来性★★★
と思ったけど全くそうじゃなくて、にじさんじが前やろうとしてたにじさんじネットワークみたいなのをもっと大枠かつ多数のアーティストが参加できるような
…あれ…
これ…upd8…?…お前…もしかして…upd8なのか?
まぁそういう大規模なネットワークらしく、全然違うみたいです。よくわからんけれど。
いろんな事務所のVTuberを呼んでコラボしたりSPWNというアプリでバーチャルライブを開催したりしてるので
先述のにじさんじやホロライブ、あにまーれもライブや番組に参加しております。
またV-clanネットワークの方ではあおぎり高校や個人勢と呼ばれる方々からも朝ノ姉妹や天開司も参加されるなど、そういう意味では今アツい事務所?ネットワーク?みたいなものかもしれませんね。
そういうネットワークが潰れてきたところは見てきたけれど、一応日テレなので安定性と将来性を★★★、今調べてやっと「あのライブか!」と思えたので勢いも★★★です。
勢い ★★
安定感★★★
将来性★★★
主な演者:えのぐ
馬越健太郎を知ってる?知らない?そっか…
あんたまって知ってる?
2017年のコミケに突然現れて『コミケの期間中Twitterのフォロワー数一万人行かなかったらアイドルデビュー出来ない』っていう謎で無茶な目標を掲げて見事にデビュー出来なかった子達のことさ
それからまた別のレコード会社に見つけてもらって、今度こそ一万人超えてデビューできるようになって大泣きをした人達の事さ。
その後女優部とか作ったり、結局そこと合体して五人組になったり
そう、それがえのぐなんだよな。
彼女達は今でも苦難の中を走り抜けていて、それでも定期的に自分たちのファンに向かってライブをしている。
それが多いとは言えなくても、少ないとも言えないから。
あの夏の日、無茶だと言われた数よりも彼女たちはとても多い数の存在に認識されている。
認識されていた、なのかもしれないけれど。
それで、今でも活動されている。この前十日間連続ライブやったらしいよ。
あと岩本町芸能社でいうならMarprilってのもホットですね。
○ご飯
朝:しましまうまうまバー。昼:おにぎり。夜:トマト、ナス、ピーマン、ウインナー、炒り卵の味噌炒め。納豆。豆腐。
○調子
むきゅーはややー。お仕事は、それなりー。
寝ぼけ眼で引いたので夢かと思い二度寝したぐらいにはビビった。
いやああああ、強い。シャトラ、イオ、クリスマスネモネ、ポセイドン辺りの多段アビダメや多段通常攻撃持ちがいる属性ではもう手放せないよ。HP減少も全然大したことないし、完全に入れ得。
これは末長く使えそうなので、これからもグラブル遊んでいこう。
とはいえ、今回みたいなわかりやすい強化はヒヒイロカネドロップを狙わないと起きないので、地道に毎日つよバハとアルバハの自発をして行こう。
トレースは技法なので基本的に写真などからのトレースはノーカウントにしたい。同業者の創作物からトレースはちょっとオイオイってなる。
重要な立場のもの、たとえば主人公だとかが「これまんまアレですよね?」ってなるとさすがに痛いんだけど、本筋でやられない限りはオマージュとかパロディとかリスペクトとかインスパイアと受け止めてる。
歌詞とメインメロディ以外は不問にしないと音楽が成り立たない。ドラムの4つ打ち、エイトビートなどの基本パターン、ギターやベースのリフなどをパクリじゃあああって言い始めたら音楽を作ることのハードルがやばいくらい高くなってしまう。っていうか俺はリミックスとかバージョン違いとかセルフカバーとかセルフじゃないカバーとか大好きなので歌詞とメロ以外は…ってなる。
8,674
岸田 奈美
2021/07/22 15:29
※身近な読者さんに聞いてほしいだけなので、気が済んだらマガジンに入れて、そのあと消します。
21:26追記
過去ラーメンズを紹介する記事を読んでくださった読者さん、彼らのファンの方々に届いてほしいと書いた文章でしたが、わたしの説明の至らなさ、思考の未熟さゆえに、どんどん違う捉え方が広がっており、傷つく人を無闇に増やしてしまっているやもしれないので、22時で非公開にします。すみません!
ラーメンズが好きだ。
小林賢太郎氏が好きだ。
父を亡くし、友人を失くし、誰とも笑えない鬱屈とした子どもであったわたしに、笑いという光をくれたのが彼らのコントだった。絶妙にわかりづらく、複雑に絡みあう、壮大な世界観のもとに成り立つそのコントは、誰かと語りたくなる衝動をくれた。天才なんよ。これはわたしの圧なので、異論は認める。
父が「お前の友人はこの箱の向こうにもおる」と残してくれたmacのキーボードを叩き、ラーメンズの、小林賢太郎氏のコントについて語り合うとき、わたしは孤独であったけれども、孤独でよかったと思えた。
その小林賢太氏郎が、東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式のショーディレクターに着任したとき、わたしの頭では「マジか小林賢太郎…」と「マジか小林賢太郎!」が同時に鳴り響いた。
こう、なんか、ものすんごく無責任なオタクとして言うと、彼らのコントはもともと知る人ぞ知る、当時のお笑い界のメインストリームを堂々と外れて宣戦布告しながら飄々と笑い転げるという位置にあったと思うので、一抹の不安があった。しかしその不安をコーナー鋭角でまくってくるのは「オイオイ、これでみんな小林賢太郎の魅力に気づいちまうんじゃねえの〜?まっ、わたしは芸能界引退前に舞台で見たけど〜?」というオタク特有の愚かなドヤりである。
わたしはドヤりドヤりしながら、孫の七五三を見るような迷惑かつ気色悪い心地で、彼が手がける開閉会式を心から楽しみにしていた。ここまでの前置きがすでに早口気味なのはお察しの通りである。とても気色悪い。
実はさっきまでテレビ局での生配信に参加していたので、解任にいたる経緯も、解任された結果も、成り行きを見守ることなくひとまとめにして見知った。
情報の石つぶてに襲われ、小林賢太郎氏の謝罪文の最後「先ほど、組織委員会から、ショーディレクター解任のご連絡をいただきました。ここまで、この式典に関わらせていただけたことに感謝いたします」まで読み終え、涙が出た。
京都に向かう新幹線でなければ嗚咽していた。頼む、車掌さん、止めてくれ。三河安城でこの新幹線を止めてくれ。しかしのぞみ163号は止まってはくれないので、静かに泣きながらこれを書いている。
解任の理由は1998年に彼が演じたコントのなかで、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というセリフがあり、肯定する文脈でなくとも、笑いの演出に使われていたからだ。これが人権を著しく侵害しているとされた。
その決定に、わたしは反対しない。
五輪憲章ではあらゆる差別への反対が定められているし、たくさんの人々の命を不当に奪った歴史を、今もなお魂を傷つけられている人々がいる事実は侮辱されてはならない。
なのでこの文章は、オタクのわたしがわたしに宛てた、ただの戒めである。
というかもう、ここ最近、責任をとる人が多すぎてなにがなんだかわからん。責任をとっては去り、責任をとっては潜り、責任をとってはキングギドラに車一台で爆走して挑む。
シンプルすぎる。
シンプルすぎて二度聞きしたくなるようなこの結論にいたるまで、内田樹氏は懇切丁寧に筆を尽くしておられるので、ここではわたしの雑なあらすじで勘弁していただきたいのだが、
要は
「ごめん、で済む話はない」
ということだ。
人が傷つけたり、人が大切にしているものを傷つけた場合、それを元どおりに復元するということは不可能だ。医学がド発達したとして「いったん殺したけど、きれいに元通りにしといたから、これでチャラね」と殺人犯から言われても、きっと誰も許せん。
あってはならないことだけど、学校でいじめにあった子どもが自殺して「一億円の損害賠償を請求した」とニュースで報じられたとしてそれは「一億円払ったら許してやる」というわけではない。相手の一生を台無しにできるくらいの金額を求めて、「わたしはお前らを絶対に許さない」と告げている。
責任をとれという言葉は、「なぜなら、お前には責任をとることはできない」という意味を常に伴っている。めっちゃわかる。
ここまであらすじですけど、このド下手なアレで間違ってないですかね、内田先生。こんなところで引用してごめんなさい。
まさに今。
ここからも内田樹先生がね、答えをくれるんですけど。その答えはどうも、ひとつだけらしくて。
「我々が考えることができるのは、ただひとつ。どうすれば責任をとることを求められるような立場に立たないか」
これは、わたしは知らん、わたしは関係ない、わたしには責任がない、と言い訳をしスタコラサッサするわけではない。そんな言い訳が平気でまかり通ったら、なんか起きたらすぐさま電気は消えるわ、水道は止まるわの大惨事だ。
なんかまずいことが起こったときの責任を他人になすりつける社会と、自分の手が届く範囲のことでみんなが「あ、じゃあ責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会なら、後者の方が「誰かが責任をとらんとあかんようなヤバイこと」が起こりにくい。
「誰の責任だ、誰の責任だ!」と犯人探しをしてる間に、最悪の状況に陥るのを、わたしたちは何度もこの目で見てきた。もちろん、例外はあれど。
責任は、誰もとれない。
誰もとれないから、人に押しつけられるものでもない。だが、最初から自分で引き受けることができる。引き受ける人が多いほど、人間は幸福に、豊かに、安全に生き延びることができる。
だって大切なのは、同じことを未来で二度起こさないためには、どうしたらいいかだから。
さて。
小林賢太郎氏が過去の発言で解任されたのであれば、その責任は、気持ち悪いオタクのわたしにもある。今をもってわたしが引き受ける。
「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」の発言がなされたコントは、わたしも見たことがある。記憶は定かではないが、中学生になったばかりの頃だったと思う。
「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」の意味を深く考えることなく「なんか真面目そうな教育番組のMC役なのに、やばいこと言ってんのがシュールだな」というふわっとした文脈だけで笑った。未熟なわたしは、笑ってしまったのだ。
小林賢太郎氏がそれを「浅はかに人の気を惹こうとしていた」のであれば、わたしも「浅はかに彼らの笑いを受け取っていた」に過ぎない。
今では、その文脈で笑っていたことが、どれほど罪深く、どれほど愚かなことであったか、わたしはわかる。
それは、中学生の後半で、ホロコーストについて学んだから。中学生の授業の範囲なんて、教科書での字面だけなので、そこまで深く知ることはできない。本格的に背筋が凍るほどの恐怖がわきあがったのは高校生で世界史の授業を受け、終戦のローレライを観て、アンネの日記を読み、作家になって編集者から勧められた「夜と霧」を読んでからである。
教えてくれる人がいて、咎めてくれる人がいて、対話をしてくれる人がいたからだ。
道徳観が歴史の積み重ねであるならば、わたしたちもまた、人生という歴史を積み重ねながら、ここに生きる人としてあるべき姿を学んでいく。大人になればなるほど、聡くなればなるほど、わたしたちは過去の行いを恥じ、己を正すことができる。
小林賢太郎氏は、彼の頭のなかをのぞける自著「僕がコントや演劇のために考えていること」で語る内容をみれば一目瞭然だが、ストイックな創作家である。ストイックすぎて芸能界を引退したようなもんだとわたしは思う。
年々、彼の思考と作品は、目を見張るようなアップデートを重ねていた。
世間でまだ誰も言葉にしていない「時代感」を読み、言葉やパントマイムに落として、笑いに変えるやんごとなき天才であった。近年は特に、誰も傷つけない笑いなんてあるわけがないことを悟りながら、その状態になるべくして茨の道を歩みながら近こうと試行錯誤する、戯曲に取り憑かれた化け物であった。その背中に憧れて、わたしもここへ来た。
そういう男であるからこそ、こんな時が迫るまでに、ファンのわたしたちは話さなければならなかった。
彼に直接言うのは叶わなくても、ラーメンズについて語るたびに、記事を書くたびに、言葉にするチャンスはどこにでもあった。あれはアカンのやと。
今もさ、たぶん「いやあれってそこまでダメかな?」って思うファンもいると思う。わかるよ。わかる。でもね、ダメなんだ。気づかないといけなかったんだよ、わたしたちは。彼をいつか、日本の大舞台に送り出すつもりでいるならば。
20数年前のコントをいまさら、なのではない。20数年間、いままで、なにも言わなかっただけなのだ。
そして小林賢太郎氏は、そういう社会の奥底に埋もれてしまいそうなわたしたちの言葉を、目ざとく掘り出し、両手ですくいとって、なんらかの形で応えてくれる、いい戯曲のためなら見栄も地位も何を犠牲にしても厭わない、そういう男だと、わたしたちは、知っていた。知っていたのに何もしなかった。
むしろ、批判されているコント「できるかな」は、DVDには収録されていない。ラーメンズがあれだけ太っ腹に公開している動画の中にもない。VHS以降、公式の手で誰にも見せないという選択をとっていた小林賢太郎氏は、わたしたちより先に、気づいていたかもしれない。
時代が未熟すぎるがゆえに許してしまった、愚かな笑いというのは、どこにでもある。
だからこそ、今さらなんてなかった。遅すぎることなんてなかった。彼が責任をとれと言われる前に、彼に存分笑わせてもらったわたしたちが、責任をとらなければならなかった。
そうしていれば、明日には、小林賢太郎氏の舞台を、わたしたちは、テレビで、観れたはずなのに。なんでいまわたしは、テレビの前じゃなくて、新幹線で、どこの誰ともわからんサラリーマンが首を65度に曲げなから爆睡している前方座席を見ながら、泣いてるんだ。もうすぐ新幹線はわが京都に着く。
つらい。こんな形で、小林賢太郎氏の名が知れ渡っていくのがつらい。彼のコントを、世界を、観たことがない人も彼のことをボコボコに言うのがつらい。おもしろおかしく揶揄されるのがつらい。
しかし、それもまた、気色悪いわたしの責任なのである。彼らより、彼女らより、先に、先に語りたかった。
誰が作ったかわからんが、至言だと思う。推せるときに推せ。いいから推せ。ともかく推せ。しかし、時代は変わった。怒りや悲しみが容易に世界へ届くようになった。誰かの笑いは、誰かの悲しみになる。
行き過ぎた悲しみに気づいたとき、わたしたちは、立ち止まり、振り返り、それを受け止めなければならない。そして語る。
「その世界を作ってしまったのには、わたしたちにも、責任がある」
推しの世界に魅了され、推しの世界に生きてきたわたしは、いまここで誓う。気色悪いと言われようとも、恩着せがましいと言われようとも、その世界を終わらせないために、人知れず責任をとっていく。
そして、なにかが燃えて、燃えて、燃えて、燃え過ぎた焼け野原で、責任をとりながら両足をつける。そこからなにかを芽吹かせていく。作家という仕事に就いたなら、その責任も伴う。
10年、企業で広報を務めた立場からえらそうに語ると、重役や有名になればなるほど、謝罪文はすぐに出せない。すぐに書くことはできる。でも関わる人が多すぎて、ありとあらゆるチェックが必要になる。「チェックするための事前チェックに回す前の念のためチェック」みたいなバグった概念が普通に存在する。
しかし小林賢太郎氏は、解任の連絡があって、すぐにコメントを自分で出した。前述のとおり、彼と彼の発言をかばう余地はないが、なかなかできることではない。
ついていくぞ、どこまでも。
(当初ここに、オリンピック・パラリンピックについての表記がありましたが、本文の趣旨には関係ないのと、開催についてはいろんな思いで受け止められている方がいるので、削除しました)