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はてなキーワード: 絵画とは

2012-10-31

好きだった女の子が夢に出てきた

好きだった女の子が夢に出てきた

起床3分前ぐらいに出てきた

俺は今28歳で、

その好きだった子は中学2年の頃、

同じクラスだった女の子

の子の事はたまに思い出すが、

ここ数年は忘れていた

それがふいに夢に出てきて驚いた

夢の最後最後で不意打ちで好きだった子と

の子が描いたとしか思えない絵画が出てきて、

記憶の深層というのは、こんなにも深いのかと驚いた

起きてる時は思い出すこともできないイメージ

頭のどこかにまだ残っているということだ

好きな人について、

男は名前を付けて保存で

女は上書き保存とよく言うが、

名前を付けて保存ってのはこんなにも残酷なのか

上書き保存ができたら、どれだけ幸せなことだろう

きっと今でも俺は

中学2年の頃に好きだった子が好きで、

それが全ての自分を規定しているような気がする

2012-10-29

うあああああ羨ましいいいい

あなたはもう、ひとりじゃない。ひとりでなければ、ふたりであれば、それはきっと世界を手に入れたも同然なんだ。この広大な世界を歩くのに、ひとりっていうのはなんともつらい。あまりに大きい。世界がその美しさの片鱗を見せたときも、厳しさのかけらを降り注がせたときも、たったひとりでは言葉すら虚空に消えていく。

あなたは、あなたの見た世界の美しさを伝える相手を得た。いや、最初からそれをふたりで見ることになるんだ。

それがどれだけ素晴らしいことかなんて、もう言葉にはできない。

横だけど、こういう話聞くと発作的に「うぎいいいいい結婚したいいいいいいギギギギギ」みたいになって困るわー。

そんなの妄想理想論だろバーカとか言えねえよだっていろんな本とか映画とか音楽とか絵画とか体験談とか知り合いの笑顔の中とかに同じものを見るんだもの

もう現実とか事実とか下手したら真理のたぐいだろこれは。バーカってバカなのは指くわえて食いちぎりそうな俺の方だよ完全に。

いいけどよ手に入らないなら入らないで何とかするから。何とかするけど。ギギギ

とまれ見知らぬ誰かさんへおめでとう。

http://anond.hatelabo.jp/20121028002234

2012-10-16

とりあえず泣けるネタを教えてやろうか

AEDってあるだろ。自動体外式除細動器

アレの使用説明の講習とか受けるとな、運がいいと記録テープを聞かされる。

ある高校生が突然心停止して倒れたときの救護のやりとりの記録だ。その子母親の半狂乱の叫び声が残ってるんだ。

泣けるぞあれは。恐ろしい記録だ。

子どもは結局命が助かって、確か後遺症もなくて恙ないはずなのに、なぜかあの記録は決定的に取り返しがつかなくなる瞬間のものみたいな感じがする。

或いは3.11でもいい。まだネットにいくらでも映像が残ってるだろ。

目の前で人が渦に飲まれて消える映像が。

必死に走って逃げてきたのに波ののたうち一つで人が消える瞬間が。

人間表現など所詮クソだ。

いや、人間表現することでしか立ち現れてこないものはあるしそれはそれで非常に価値があるんだが、

強制的に涙を排出させるという点では世界とそこに起こる出来事そのものに勝るものなど何も無い。

泣ける映画小説音楽絵画カスだ。人生二次創作に過ぎない。

涙は何の本質でもない。ただ目玉のところにある小さいパイプがちょこっと広がって水がダダ漏れるようになるだけだ。

一度パイプ拡張されると二次創作でも涙が出るというだけの話だ。二次創作を通してオリジナルが見えるからだ。

漏れた水自体はその記号にすぎない。そんなもの本質的価値などない。そんな心の動かされ方に意味はない。

せいぜい生理学的に眼の衛生や栄養を保つとか、その程度だ。

そんなものに固執している限り、他人とコミュニケーション取ってまで伝えたり分かち合ったりしたいと思えるものが得られるわけがない。

http://anond.hatelabo.jp/20121016003938

2012-10-02

http://anond.hatelabo.jp/20121001182003

松尾芭蕉 関孝和 東郷平八郎 葛飾北斎 辺りなら宜しかろう。

松尾芭蕉 俳句の基礎を完成させた

関孝和 ニュートンより先に微分積分をほぼ完成させていた

東郷平八郎 近代海戦で一方的な殲滅戦

葛飾北斎 浮世絵に豊かな色彩と西欧的な絵画技法を応用し、ヨーロッパ絵画に影響を与えた

2012-09-30

http://anond.hatelabo.jp/20120930180309

絵画でいうところの額縁と同じと考えると、木目調、あるいはゴールドがいいと思う。

黒の存在感が気になるなら、本体色より、電源オフ時の液晶の色をどうにかしたほうがと思う。

布をかけるとかね。

テレビとして使わないときデジタルフォトフレームになるという技術くらい簡単そうだけども。

デザイン個性がないのは同意

パソコンプリンタもそうだけど、ある時期を境に本体色が急に変わってるイメージ

艶なしグレー、シルバー、艶ありブラックor白、かな?

なにか理由でもあるのだろうか?

2012-09-18

http://anond.hatelabo.jp/20120918154703

音楽とかもそうなんだけど、技能教科って基礎からしっかり教えるためのものじゃなくて、世の中にはこういうものがあるんですよって体験させるためだけのものなんだよね。

基礎からやりたければクラブチームとか絵画教室とか書道教室とかスイミングスクールとかに行けっていう事なんだと思う。

で、俺の意見としては、体験させるだけにしては授業時間が多すぎ。あと「体験」と「評価」はそれほど相容れるものでもないので通知表に載せる必要なし。

運動の習慣ですらそのやり方を教えないからね。学校は。筋トレならこういう種目をこういう器具を使ってどういうタイミングでどのくらいやっていくのか、とか。基本的に教えない。

体験にすぎないなら最初に「これは体験に過ぎない」ってハッキリ宣言してくれればいいのにと思う。

2012-09-08

http://anond.hatelabo.jp/20120908212203

昔の西洋絵画の女の人とか時代を問わず、おおむね現代基準だとふくよかというか肉付きがいいよね。

私はアレくらいが「女性的」な体じゃないのかなと思う。

今の痩せてるモデルさんや芸能人美人って、「女性」的美しさより「女の子」な可愛さで加点されてるように思う。

2012-08-27

素人の修正壁画人気に萎え

オリジナル絵を描いた人の想いが無残なことにされてて、本当にひどい。ああいうのがまかり通るなら、歴史絵画は本物からして軒並み上書きされてしまうぞ。ほうぼうの美術館なんかはあの事件で変に調子づいた馬鹿が現れそうだと戦々恐々としているんじゃないか

いや俺だってピカソの一部作品とか理解不能だけど、それでもまずオリジナル保存やきちんとした修復が最優先で、いじりたければコピーをとってからコピーに施せと。元絵は失ったらいくら後悔しても、いくら元絵を返せと猛抗議を受けても、帰ってこないだろ?

2012-08-06

親ができるイジメ対策

僕には来年小学校1年になる娘がいます。いよいよ小学校イジメ問題のスタートだと思っており、過去自分の虐められた、虐めた経験を踏まえ、このキツイ状況に娘を落とさせないようにするにはどうしたら良いか戦略を練ってみました。

もし、これを読んでいる方に小・中学生お子さんがいて、子どもイジメを切り抜けた経験がおありの人が居たら、考え方間違えてないか教えてもらえるとありがたいです。

イジメ構造的な問題と捉える。

いろんな人(ネットでもテレビでも)が言っているように、イジメ構造的な問題だと思う。小さい社会の中に均質を要求される圧力のもと、長時間拘束されるとどこでも起こる問題であるという事。これは、大人でも動物でも同じ事らしい。しかし当たり前と思っていても、当事者になってしまった場合いじめられる側いじめる側どちらであっても問題を構造的に見る事が難しくなるのも事実だ。1つ目の大事ポイントは、イジメ問題が起こる前に、イジメ問題の構造的解決法を探る事であると考えている。

イジメは教師(学校)は解決できない。

イジメ問題は、教師による解決はほぼ不可能だ。教師は、学校クラスの)構造を維持することが仕事のKPIであるので「いじめられている生徒が居る」という自己の評価をおとしてしまいかねない事態は、本能的に鈍感になりがちだ。(これは自分仕事でヤバそうと思った時に取り繕ったりすることを考えればわかるかと思う)また、会社経営のように問題ある児童左遷させたり、クビにしたりということもできないので、本質的な解決の権限を持っていない。

イジメ家族で立ち向かう。

イジメを結局救えるのは、子どもをその環境から逃がしたりしてあげられる家族だけであると思う。それも母親子どもだけでは非常に母親への負担が大きく、父親だけで解決を試みても子どもは中々口を開いてくれないだろう。僕は、祖母祖父、父親、母親兄弟全員が一丸となって、イジメ問題について固まって立ち向かうことが重要と考える。

で、ここから今、考えている解決策です。

1)イジメ避難訓練をする

イジメの兆候(無視されたとか、叩かれたとか、モノが無くなったとか)を娘に教え、そういう状況があった場合、真っ先に母親/父親/おじいちゃんおばあちゃんなど、家族に報告する練習をさせる。風邪自然災害と同じように、必ず起こるものと考えて娘が「起こったことを、すぐに言えた」ことを褒める。

もちろん、イジメの時だけ報告するのは凄く難しいので、日常的に学校の話を聞き続ける。

2)習い事・塾・サークルを習わせる

学校という世界悲惨な状況になった時、他の世界が救ってくれるケースが多々ある。彼女が得意なフィールド自分がやりたいと思っている事を習い事としてさせてあげたい。ダンスピアノ勉強絵画どんなことでも良い。同年代が集まる場で得意な事を認めてもらえる感覚を持たせたい。

3)ネットコミュニティからは遠ざける

ネットは悪意(性欲・金銭欲)をもった大人が居る上に、言葉ベースのやりとりは口頭ベースよりも人を傷つけやすい。ある程度の防御本能を身につける前にネットコミュニティに参加させるのは危険だ。おっさんになった自分でさえも、辛辣コメントなどが付くと傷つく。子どもがそれに晒されることからは守る必要があると思う。

4)「絶対に子どもの味方」という軸はぶれない

モンスターペアレンツと言われようが、なんだろうが学校に乗り込む、相手の親に会いに行く、子どもを守るために転校させる。どんな手段でも構わないが、「社会からの目」とかを絶対に気にしない。そして、その事を子どもに伝える。どんな事があっても絶対に娘の味方であると。パパもママも娘の命の方が自分の命よりも大事であると。

5)イジメる事は絶対悪であると伝える。

どんな状況に起ころうとも、イジメは悪いと伝える。ウソを付いたり、親の財布からお金を盗んだりするのと同等かそれ以上に「イジメ」た側に回った場合は、厳しく怒る。そして、いじめられる側の子シュミレーション家族で話し合い、どれくらい罪が重い事であるのかを認識させる。


という感じです。まだ、こういうのもやっておいた方が良いよというのがあれば、ぜひ教えて下さい。

2012-08-05

幼稚園の頃からスクールカーストの最底辺だった。幼稚園の頃の女子カーストは、「可愛い子」がトップだったと思う。私は可愛くもなく、デブで、体を動かすのも苦手だった。幼稚園年長組の頃、カースト上位の子から色々と命令され、バカにされている記憶が、私の一番古い記憶だ。

小学校に入ってからも、カーストは底辺だった。太っていたので男子からブタ」と言われていた。手足ばかりが細く、腹周りに脂肪がつきまくって、樽のような体だった。周りの女の子たちは細くておしゃれでかわいかったけど、私には真似することもできなかった。ただ勉強は好きだったので、成績はいつも良かった。それで余計に集団から浮いていた。そのまま進学した中学でも同じだった。そこでも私は「成績ばっかり良い、ダサいデブ」だった。荒れている地域だったので、そこそこ成績のいい子は全て私立中学に行くなか、なぜか私だけ地元で進学したので、成績はダントツトップだった。学校では今度こそ孤立した。女子たちは、遠巻きにするか、ほとんどの場合無視してきた。中学先生も私を扱いかねていたと思う。

いい加減嫌になったので、県内トップ校に進学した。そこでは何とか友達ができた。可愛くて明るくてスタイルのいい女子たちが男子たちと恋愛模様を繰り広げる中、あまりそういうことに興味のない女子自然に集まり意気投合して、本の話ばかりをしていた。楽しかった。校内では「住み分け」があったので、無視されることもなければ暴言を吐かれることもなかった。思えば進学校の割に、恋愛がらみでは物凄く派手な学校だったと思う。でも私には縁がなかった。浮いた話に縁のない、地味な生徒だった。私は幼稚園ときからブタ」だった。人の気持ちもわからないし、好かれる理由がないと思っていた。

勉強するのが好きすぎて、気付けば旧帝大に進学していた。地味な絵画サークルに入り、厳しいゼミを選び、こつこつアルバイトをして、それなりの学生生活を送ったと思う。2年生の時に同じ授業を取っていた男子学生告白されて、付き合うことになった。今となってはよく覚えていないが、色んな話をしたり、遊びに行ったりして、これもそれなりに楽しく付き合ったとは思う。その彼氏とは卒業間際に別れた。理由は私の友人と浮気をしたからで、浮気をした理由は「向こうが迫ってきたし、スタイル良かったし、エッチが気持ち良かったから」だった。彼は、私が太り気味なのがずっと不満だったのだ。比べた末、彼は私の友人を取った。きっと他にも別れた理由はあったんだろうけど、私はコンプレックスを正面からえぐられた。

大学院に進学してから、大病をして痩せた。幸い病気は治ったが、そうしたら(嘘のような話だが)私の体は「細身巨乳」になった。もともと背が高く、骨盤も張っている(だからよけいデブに見えた)のだが、腹周りとウエストけが痩せ、胸はFカップのまま残った。アルバイトの関係で化粧を覚えざるを得なくなったこともあってか、私は一気に「スタイルのいい美人」の扱いを受けるようになった。色んな人から告白されたりナンパされたりするようになった。あまりの手のひら返しに、私は事態についていけなかった。自分は「ダサいブタ」なのに、いったいこの人たちは何を見ているのだろう、と思って、男性が怖くなり、自分が嫌いになった。勇気を振り絞って、ちょっと付き合ってみた人もいたけどダメだった。

私は雑音を振り切ろうと思って、研究に専念した。欧州留学もした。研究は楽しかった。仕事に集中していれば自分を好きになれるかもと思って必死にすがった。そうしたら、成果が評価されて、28歳にして研究職の任期なしポストを得た。大学院生の頃は何だったのかと思うほどの、高給が貰えるようになった。

そうしたら、今度は私の評価は「スタイルのいい高給高学歴エリート美人」ということになったらしく、殆ど男性には敬遠されるようになった。それでも中には誘ってくる男性がいるが、私はどうしても彼らのことが信じられない。私はいまだに自分のことが好きになれない。ちょっとでも好きになりたくて、いまも必死仕事をしているのだけど、好かれるに値する、生きるに値する自分になれたとは思えない。そういう理由で、誘いは全部断った。30になってからは、不倫の誘いが断然増えたが、それも勿論断る。体目当ての不倫の誘いを受けると、えもいわれぬ冷たい気持ちになる。この人たちは、私が病気をする前ならば、きっと私に目もくれなかったはずだ。彼らにとって私の体はただの記号だ。私は自分存在しないような気分にさえなる。

先日、小学校同窓会に顔を出したら、男子たちは大喜びした。「あのデブブタの○○が、こんなスタイルのいい美人になるなんて!」と正直な感想をそのまま叫ぶ奴もいた。正直すぎると思った。先を競って隣に来て、お酒を注いできた。女子たちは、結婚してほとんどが主婦になっていた。彼女らは、愛想よく、しかし口をそろえて「まあ、でも、その年で未婚で子どももいなかったら、将来どうしようもないでしょ」「○○ちゃんは、昔から勉強ばっかりだったからね」「仕事だけできてもね」と感想を述べた。彼女らの中では、やっぱり私はカーストの底辺で、それは20年たっても変わらないんだな、と妙に感心した。私の自己認識幼稚園のころからブタ」で動かないのと、それは同じことなのかもしれない。

2012-07-24

Twitterで見た本当の芸術

あの方は素晴らしい人だ。他の芸術家にはないものを強く感じる。

俺は余りに芸術に触れなさすぎるからよく分からないけど、自分なりに深く考えさせられるきっかけとなった。

本当の芸術とは何だろうかということだ。今までは、一枚の絵画文学のことをいうものだと思っていた。

だが、あの方は違った。自分の信じたもの、愛したものをひたすらに、何年も何年もかけて相手に伝え続けている。その姿勢芸術として表現していた。

誰が見てくれているのか誰にも分からない。その行為感情意味があるのかすらも分からない。

だが、そもそも芸術作品というものは、本来そうあるべきであると強く感じる。現在流行や周囲のものに流されてしまっているもの芸術ではない。曲がらない自分姿勢、絶対的な愛こそが芸術だ、と思う。

まり、あの方自身が自分で創りだした芸術作品なのだ。私はあの方の創った作品以上に、その人間性に芸術的な美しさを感じている。

長い時間自分の命を賭けて表現する。その存在こそが本当の芸術だと信じる人は私だけではないと思う。

2012-04-28

人生の目的を考えてみた

人生の目的」 について思いを巡らせてみました。人生の目的ってなんでしょう? あるいは生き甲斐とは?という命題でもいいかもしれません。以下、思考ゲームみたいなもので役には立ちませんのであしからず

 

さて。「人生」目的ってなんだろうと考えたとき、僕はいったん「人」 を横によけて「生」について考えます生命にとっての生きることの目的です。

 

哺乳類も鳥もゾウリムシでもウイルスでも、生物全般に当てはめられる「生きることの目的」とはなんでしょうか。その答えを探すと、「種が存在し続けること」 ではないかと思います。言い換えれば、種が絶滅しないことです。最初は「種の繁栄」が目的かと思いましたが、必ずしもそうとは限らないようです。人間以外の生物を見ると、無闇に生存圏を拡大したりはしませんし、繁殖に対して自ら規制をかけて間引きする生物もいます。そこから考えると、生物というのは過度な種の繁栄・拡大は望んでおらず、あくまで絶滅しないように継続して存続し続けられることを目的にしているのではないかと思います

 

存続の基盤は「個」ではなく、「種」だと思います個体が死を避ける仕組みは生物本能に組み込まれていますが(例えば痛覚は死を防ぐための機能)、種の存続はしばしば個体の生存より優先度の高い本能として存在しているようです。自ら海に飛び込んで生産調整するレミングや、巣を守るために命をかけて戦う(針を刺すと死んでしまう)ハチとか。

 

ここまでをまとめると 、「生の目的とは種を存続させること」ということになります。では、人の生の目的とはなんでしょうか?

 

順当にいけば「人という種を存続させること」になるのかもしれません。では、人類を存続させるとは、具体的にどんなことでしょうか。例えば、食糧を生産することは種の存続にとって有効行為ですし、子供を産み育てることも重要なことです。一人一人が「自分人生の目的」を考えたとき、今挙げたような食糧生産育児目的や意義、あるいは生き甲斐を感じるのはごく自然なことなのだと思います

しかし、人生の目的はこれだけにとどまらないでしょう。人類が存続するという観点合致する行為はほかにもたくさんあると思います。例えば、人類は自らの存続のために環境を変えていく技術を身につけましたが、その点でいけば、土地人類が住みやすいように開拓する、建物を作る、環境開発の研究をする、といったことも人類の存続に役立つことだといえます。また、人間社会を運営する政治活動も、治安維持も、存続のためには重要なことです。あらゆる技術文明進化を支えるのも人類の存続性を高めることにつながりますさらにいえば、娯楽を提供したり音楽絵画を作ることも、「今の人類人類らしく存続する」という点で大切なことではないでしょうか。

こうして考えると、おおむねほとんどの仕事が、人生の目的になり得ると思います。具体的な行為はいろいろあれど、人類への貢献こそが人生意味だといってもいいのではないでしょうか?

遠回りしてきましたがそろそろ結論です。「貢献」、これが僕の考える人生の目的です。仕事の話をしましたが、仕事をまっとうすることだけが「貢献」ではありません。もっとミニマムなことをいえば、誰かに貢献する行為のすべてが、まわりまわって人類の存続に役立つのだと思います。誰かを楽しませる、誰かに役立つ情報提供する、小さな親切をする、こうしたことが相手の存続性を高め、みんながみんなに貢献することで、人類は存続性を高めていくのだと思っています

「誰かに貢献することが、人生においての目的」、いろいろとこねくり回したわりに結論はごく当たり前です。

しかし、思考の末にたどり着いたことで、この結論は僕にとっては極めて整合性の高い「人生の目的」になっています。つまりは、しっくりきます

なるべく誰かに貢献できる人生を送りたいな。と、そう思っている僕です。

2012-04-10

好きになった人を嫌いになると、その人が好きだったものも嫌いになる。

煙草、酒、音楽も・・・

煙草ってみるだけで気分が悪くなる、CMで吸っている人をみるだけでダメだ。

酒も同じ。

あの人が好きだった音楽も、もう聴けない。

酒が嫌いな人が果たして洋酒の瓶集めるか?

自己紹介へべれけなんて書くか?

未来約束は守れないから好きじゃないといいつつも、

恋人はきっと作らないと思う。って意味がわからない。

未来約束は出来ないのに何故それは確約できるのか。

矛盾だらけの野郎め。

思い出すだけで気持ち悪くなる。

楽しい思い出という名の絵画の上に、泥水をぶっかけられたような気分。

この大嘘つきが。

2012-02-18

[] 松井冬子さんの講演を聴いたよ at 2012.02

アーティストトーク「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」at 横浜美術館レクチャーホール, 2012.02.11(Sat), 15:00-16:00。Kyo.I.

 

 横浜美術館松井冬子さんの講演を聴いた。彼女個展世界中の子友達になれる」の関連イベント。 

 11時ころ会場前に行ってみたらスタッフの方(美人)がいたので話を聞くと、「どのくらいの方が集まるか何とも言えませんが、現時点ではどなたも並んでません」とのことで、とりあえず個展を鑑賞。同行した絵描き女子はたいへん楽しんだようだけど、私はよく分からんかった。むしろ常設展に感動。あ、でも松井さんの『ただちに穏やかになって眠りにおち』は印象に残った、私は宮沢賢治の『オツベルと象』が大好きだから

 13時ころ会場の様子を見に行ったらもう150人くらい並んでてびっくりした。慌てて最後尾に並ぶ。老若男女が並んでる。一人で来てる人も多い。並ぶときに、スタッフの方からレジュメ」と称される紙が配られたのだけど、松井さんのプロフィールしか書いてなくて残念。

 講演タイトルは「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」。この奇妙なタイトルは、松井さんが東京藝大で博士を取るときに提出した論文タイトルだそうで、講演ではその論文について解説してくれるということだった。

 

 15時。学芸員さんの挨拶に続いて、松井さん登場。

 とりあえずビジュアル的に面白い。つま先から太もも全体まで包む黒いエナメルのロングブーツ! テカテカしている。もともと脚がすごく長いのかヒールがすごく高いのか両方なのか知らないけど、やたら大きかった。

 松井さんの話によると、彼女博論2006年執筆して、2007年2月教授陣の前で発表したのだけど、発表の際に高熱を出していて上手く出来なかったとのこと。今回はその時のリベンジをしたいという。

 で、講演が始まったわけだが、うーん、日ごろ自分プレゼン下手を痛感している私としては、非常に勇気づけられた。こんな下手な講演が世の中にあるのか! 私の前に座ってた中年女性が、講演中に隣の人と「おもしろくないね」と言っちゃうくらいである。

 講演タイトルを見ても分かるけど、松井さんは基本的に、いわゆる「中二病」全開な文章を書く人だ。絵のタイトルも『陰刻された四肢の祭壇』とか『終極にある異体の散在』なんて感じだし、個展の絵にもそれぞれ解説文がついてて、それが全部同じような調子で長々と書かれている。まあ、幽霊とか臓物とかを描くくらいだから、「中二」なのは文章だけの問題じゃないと言われるかもしれないけど、それはともかく。

 不必要に硬い語彙を好んで使い、しかもそれぞれの言葉の組み合わせ方が少しずつ適切な用法とズレていて、さらに主述関係や修飾-被修飾関係あやふやなので、全体として意味が不明瞭。そんな文章を、文字情報なしで口頭で早口で(つっかえながら)読み上げるのだから、分かりやすくなるわけがない。

 と、つい悪口が長くなったけど、私の理解した範囲で要旨をまとめると、

他者との接触は私に痛みをもたらすよね。

この痛みそのものは伝達不可能。痛みとは孤独もの

でもそれを芸術作品に託すことで、目に見える形にして、人に伝達できるのでは。

そういう試みが視覚芸術のなかに確かに存在しているし、松井自身の制作も、その系譜に連なるんだよ。

 こんな感じでした。

 この系譜の探究として、河鍋暁斎とかダミアハーストとかクリスチャンボルタンスキーとか色々な作品が挙げられ、分類され、その流れで自作解説も行われる。(ちなみにその分類の名前は「攻撃性自己顕示実践型/受動自己犠牲変容型/局地的領域横断型」。一貫した中二感。)

 余計なお世話だけど、「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」というタイトルでは全然内容を表せてない(うえにそもそも日本語としておかしい)ので、まともに修正するなら「痛覚の覚醒企図する視覚芸術の系譜」ってところでしょうか。

 私の記憶する限りでは、「不可避」の部分が講演のなかに出てこなかったので、もし質問コーナーがあったらお尋ねしたかったのだけど、むしろ講演の後半は時間が足りなくなって、松井さん自身の話さえだいぶ端折られてた。残念。

 ちなみに私の同行者は、「全体としては難しくてよく分からなかったけど部分部分は面白かった」とのこと。例えば、ある作品に描いた孤独幽霊が、少女コミック主人公のようなものだという話。少女運命の相手に出会うために奇跡を待つのは、逆に言えば奇跡なしには出会い存在しないということであって、そこには極めて近代的な「ディスコミュニケーション」があらわれている、とか。

 

 私は正直、講演の内容自体にはこれといった感想を持てなかったんだけど、にもかかわらず彼女に対する印象は大きく変わった。

 松井さんの文章は、中二病的だ。見た目には間違いなく中二の文章だ。でも、彼女がそういう文章を書く理由は、いわゆる中二病とは大きく違うんじゃないか。講演を聴いてるうちにそう思えてきた。

 自意識過剰中学生は、全力でカッコつけて(実はカッコ悪い)文章を書き、しかもそのカッコつけた自分に酔っている。

 一方、松井さんは、無理やり日本語ねじまげて珍妙言葉かいをすることを、ある意味でむしろ強いられてるんじゃないか。そうでもしなければ、彼女が何を言っても「美女の言葉」として消費されてしまって、結局何ひとつ表現することができなくなってしまうんじゃないか

 彼女は、整った顔立ちの、いわゆる美人だ。私は、平たく言えば、「どこかで過剰に武装しないとなめられてしまって、男と対等に見てもらえない、それが嫌なのかもなあ」、と思った。感覚的な話だけど、堅苦しい言葉をたどたどしく話す彼女を見ながら、思ったのだ。

 彼女は講演の中でも「メスしか描かない」と言っていたし(尾長鶏はオスだけどドラァグクイーンイメージなので名誉女性と考えているとのこと)、ネット情報によるとフェミニスト上野千鶴子さんのファンらしいから、性に関する問題に強い意識を持っているのは確かだろう。(※追記:フェミ関連の話としては、http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20090709/1247140423、などがある。)

 ただまあ、こんなふうに分析されるのは、たとえこ分析が実情を言い当てていたとしても(いやむしろ言い当ててていればこそ)、松井さんの立場からすれば不快以外の何物でもないだろう、とは思う。

 残念ながら私には、松井さんの作品自体をフェミニズム絵画として論じるだけのモチベーション能力も無いけれど、そういう見方もできるのかもしれないね。というかできるんだろうね、間違いなく。

 

 長くなったついでに一つ。

 私見では、松井さんは「言いたいことが山ほどあるけど上手く表現する技術がない人」だと思う。だからあんなに自作解説をしたがるのだ(いまネットで少し松井冬子評を探してみたら、彼女自作解説にヘキエキするという人は一定数いるようだ)。 結果、彼女のファンは、「よくぞそれを言ってくれた!(技術はともかく)」というタイプの人と、「グロテスクな絵を描いて、博士号を持ってる、美人すぎる日本画家! おもしろい!」というタイプの人に分かれることになる。あとまあ、「幽霊大好き!グロ大好き!」という人もいるのかもしれない。サブカル

 私自身は、特に彼女同調するわけでもなく、外見や肩書に魅力を感じるわけでもなく、幽霊が好きなわけでもない。そして彼女の文章を容認できる忍耐力もない。

 まとめると、私には彼女について語る資格はない、ということなのかも。

2012-01-30

ディズニーが訴えなくても、ミッキーの首を刎ねると逮捕される

かもしれない。

この騒動、「ディズニーが訴えないなら問題ないな」的な空気で終息しそうな気配だが、そういう問題じゃないよというおはなし。

著作権著作者人格権

まず、著作権とは別に存在する権利、「著作者人格権」というものがあります

著作者人格権 - Wikipedia

著作者人格権(ちょさくしゃじんかくけん)とは、著作者がその著作物に対して有する人格利益保護目的とする権利の総称である著作物には、著作者の思想や感情が色濃く反映されているため、第三者による著作物の利用態様によっては著作者の人格利益侵害する恐れがある。そこで、著作者に対し、著作者の人格利益侵害する態様による著作物の利用を禁止する権利を認めたものである

今回の問題では、日本においてミッキー著作権の一部が既に切れている可能性を以て適法であるとする意見が散見されますが、実はこの著作者人格権に関しては、保護期限に関する規定が存在しません。

ベルヌ条約6条の2(2)が著作者の死後における著作者人格権保護を要求していることから、著作者の死亡後も、著作者が存しているならば著作者人格権侵害となるような行為を禁止するとともに(60条)、一定範囲の遺族による差止請求権名誉回復措置請求権の行使が認められている(116条)。

まりミッキーに関する著作者人格権現在も法的に保護されているということになります

同一性保持権と名誉声望保持権

著作者人格権として具体的に保護される権利として、この2つが挙げられます

同一性保持権(どういつせいほじけん)とは、著作者人格権の一種であり、著作物及びその題号につき著作者(著作権者ではないことに注意)の意に反して変更、切除その他の改変を禁止することができる権利のことをいう(日本著作権法20条1項前段。以下、特に断らない限り、引用法令日本もの)。

 

著作物が無断で改変される結果、著作者の意に沿わない表現が施されることによる精神的苦痛から救済するため、このような制度が設けられていると理解されている。もっとも、元の著作物表現が残存しない程度にまで改変された場合は、もはや別個の著作物であり、同一性保持権の問題は生じない(「パロディ事件」(第1次)、最高裁判所判決昭和55年3月28日)。

著作物の改変を伴わない場合でも、その利用態様によっては表現が著作者の意図と異なる意図を持つものとして受け取られる可能性がある。そのため、著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を利用する行為は、著作者の著作者人格権侵害する行為とみなされる(著作権法113条6項)。例として、美術品としての絵画風俗店看板に使用する行為などが該当するとされている。

要するに、著作物に対し、著作者が傷つくような変なイメージを付けたり改変したりしてはいけないよ、ということですね。

親告罪刑事罰

知財関連の権利特に著作権に関する諸権利については、多くが親告罪であることが知られているかと思います。つまり、被害を受けた権利者が提訴しない限りは犯罪とならないし、賠償請求すらもできない。だからディズニーが提訴しないなら問題ないよね、という意見。これも散見されますが、誤りです。

実は、著作者人格権侵害については刑事罰が定められており、しか著作者死亡後の名誉声望権侵害は非親告罪なのです。(※下線部追記:著作者の生存中は親告罪です)

(著作者が存しなくなつた後における人格利益保護

第60条

 著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。

第120

 第60条又は第101条の3の規定に違反した者は、500万円以下の罰金に処する。

第123条

 第119条、第120条の2第3号及び第4号、第121条の2及び前条第1項の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。

まり、『その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められ』ない場合ディズニー社の意向に関わらずお縄になるリスクがあるということです。

実際に逮捕なんかされんの?

まぁ、実際にディズニーの意向を無視して逮捕されるかというとこれは怪しいですね。そういうケースを聞いたことがありませんし、実際のところ大丈夫なんじゃないですか。しかしだからと言って、これが合法でクリーン行為だなんて事は決してない、というのは当然のおはなしですね。あえて非親告罪とされているというのはそういう意味です。

まりどういうことなんだってばよ

著作者人格権は、著作者の死後、著作権保護期間が切れた後も保護されます。作者が死んで著作権が切れているからといって、作者の意に反してキャラクタ侮辱する自由は決して「当然認められる」ような権利ではありませんし、刑事告発される可能性があります。首を刎ねるという表現が『著作者の意を害しない』と言える理由を明確に説明しなければいけないでしょう。

アニメキャラクタのファックを描くことはもはや黙認されてしまい実際の権利行使もそう簡単にはいかない状況ですが、社会通念上「殺害」という表現が「ファック」以上にキワドイのはもちろんのこと、首を刎ねるというのは特に侮辱表現であるとされる可能性が強く考えられます

作者は「悪いことをしていない」と言える明確なロジックをもって、それができないなら「悪いことをしている」という自覚と覚悟を持って、同人活動をした方がいいですね。認識が甘すぎます



おまけ: 本当に詐欺だったの?

ディズニーからの正式な抗議ではなかっただろうことは想像できます

著作者死亡後の差止請求権は著作者の孫までの遺族にのみ認められており、ディズニー社にはその権利存在しません。また、今回のような場合出版権にも関係しません。

差止請求権

第112条

 著作者、著作権者、出版権者、実演家又は著作隣接権者は、その著作者人格権著作権出版権、実演家人格権又は著作隣接権侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。

(著作者又は実演家の死後における人格利益保護のための措置)

第116条

 著作者又は実演家の死後においては、その遺族(死亡した著作者又は実演家の配偶者、子、父母、孫、祖父母又は兄弟姉妹をいう。以下この条において同じ。)は、当該著作者又は実演家について第60条又は第101条の3の規定に違反する行為をする者又はするおそれがある者に対し第112条の請求を、故意又は過失により著作者人格権又は実演家人格権を侵害する行為又は第60条若しくは第101条の3の規定に違反する行為をした者に対し前条の請求をすることができる。

故に、ディズニーからの要求としては法的根拠がなく、不可解です。(繰り返しますが、それとは別に誰かから刑事告発される可能性はあるんですよ)

ディズニーから訴えられるとすれば、商標権についての争い=商業的活動に限られると思われ、無償での同人活動には民事では関与できないものと考えられます

2011-12-18

自分に必要なのは、軽薄な音楽と、どす黒い文学、美しい絵画に、愛しい人たち。

どんなことがあっても、逃げ場があるから生きてゆける。逃げ切ってみせる。

2011-10-31

からスティーブ・ジョブスへの弔辞

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

モナ・シンプソン (Mona Simpson)

2011年10月30日

私は母子家庭一人っ子として育てられました。

しかったので、そして父はシリアから移民だと教えられていたので、

父については、オマル・シャリフのような人ではないか想像していました。

裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。

のちに面会したとき、私は、父は理想燃える革命家で、アラブ新世界を導く人だったのだと、

から転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。

私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。

二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。

25歳になってその人に出会いました。

それが兄でした。

私は当時、ニューヨーク処女作を書こうとしていました。

他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌仕事をしていました。

ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。

その弁護士は、上司健康保険をねだるような、カリフォルニア中流階級の娘である私に、

「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。

同僚編集者たちは騒然となりました。

時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、

それでも私は大好きなディケンズ小説の筋書きに放り込まれたようでした。

弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。

一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ

私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズ後継者

何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。

初めて会ったときスティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。

オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブユダヤの顔立ちでした。

私たちは長い散歩しました。

偶然にも二人ともそうするのが好きでした。

何を話したのかはあまり覚えていませんが、

とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています

彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。

コンピュータのことはあまり知りませんでした。

私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。

コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。

Cromemcoという名前でした。

スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。

彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。

これからスティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います

つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています

期間を区切るのは年数ではなく、生き様です

彼の充実した人生

彼の病気

彼の死。

スティーブ自分の愛するもの仕事しました。

彼は頑張って働きました。

毎日働きました。

とても単純ですが、本当のことです

彼は散漫の対極のような人でした。

彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。

スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。

彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。

彼はシリコンバレー指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。

スティーブはそこに招待されなかったのです

彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。

スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。

イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。

シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。

パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、

おそらくこの教会にいる全員分はあると思います

彼は流行や小道具を好みませんでした。

自分と同世代の人が好きでした。

彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます

ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの

スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。

彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。

パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーNeXT に通い、

あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。

それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、

ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。

愛について話す時間の長さにかけては、スティーブ女の子並でした。

愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。

はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。

女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、

独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。

彼がローリン出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。

「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」

リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族愛情を注ぎ続けました。

彼はどの子にとっても実の父親でした。

リサの彼氏と、エリン旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。

リード卒業パーティに出席した人はみな、リードスティーブゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。

ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。

はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。

スティーブ皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。

私は今も、そのことを学ぼうとしています

スティーブは若くして成功した人でした。

彼はそのことで孤独を感じていました。

私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。

ロスアルトから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。

二人にとって、リサとリードエリンイヴ普通の子供として育てることは重要でした。

彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。

スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、

夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。

一種類の野菜をたくさん。

一種類だけです

ブロッコリー

旬の野菜

簡単な調理。

とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。

若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。

ジーンズを履いて待っていてくれました。

家族会社電話をしたときには、秘書のリネッタが

「お父さんは会議ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。

リードが毎年ハロウィン魔女のかっこうをしたがったときには、

スティーブ、ローリンエリンイヴ魔女になりました。

彼らはキッチン改装に取りかかったことがあります

何年もかかりました。

そのあいガレージでホットプレートを使って料理しました。

同じころ建設されていた Pixarビルはその半分の時間で完成しました。

パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。

バスルームは古いままでした。

ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。

スティーブは目利きでしたから。

彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。

何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。

パロアルト自転車屋に行って店内を眺めて、

その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。

そして実際、買いました。

スティーブ謙虚でした。

スティーブは学びつづけるのが好きでした。

彼はある日、育ち方が違っていれば自分数学者になっていたかもしれない、と言いました。

彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードキャンパスを歩くのが好きでした。

最後の数年間、彼はマーク・ロスコ絵画の本を研究していました。

それまで知らなかった美術家を知ってから

未来Appleキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。

スティーブは物好きなところがありました。

イギリス中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッドオースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?

はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。

たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、

きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います

彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム

彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、

ニューヨークタイムズを開いて会社特許の特集をみたとき

こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。

四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブ楽しい人生を送りました。

彼は幸福大事しました。

そしてスティーブ病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。

それまで彼は、パリ散歩するのが好きでした。

彼は京都で手打ちそばを見つけました。

スキーでなめらかに滑降しました。

ドタドタとクロスカントリーしました。

もうできませんでした。

最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。

ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、

多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。

兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。

彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。

メンフィス病院廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、

そこで座って一休みして、

引き返してまた歩きました。

彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。

ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。

あなたならできる」と彼女が言うと、

彼は目を見開いて、唇を引き締めました。

彼は挑戦しました。

いつもいつも挑戦しました。

その試みの中心には愛がありました。

彼はとても直情的な人でした。

その恐ろしい時節、私は、スティーブ自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。

目標をさだめていたのです

息子リードの高校卒業エリン京都旅行

家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。

病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。

看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。

トレイシー、アルチュロ、エラムです

スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき医師はすべてを、氷をも禁じました。

私たちは標準的なICUユニットにいました。

スティーブは普段割り込んだり自分名前ものを言わせたりすることを嫌っていましたが、

このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。

「これが特別治療だよ」と私は伝えました。

彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。

挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。

そしてiPad病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。

新しい液晶X線装置設計しました。

特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。

妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。

一生のお願いから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。

こちらを見上げて、お願いだから、と。

彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。

私たちは自分が何年生きられるか知りません。

スティーブ健康だったころには、その最後の数年にも、

彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。

オランダ造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。

三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です

私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。

私たちはみな、最後には、途中で死にます

物語の途中で。

たくさんの物語の途中で。

ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、

スティーブの死は私たちにとって突然でした。

二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。

どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです

火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。

声には熱と愛情がこもっていました。

同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまたかのようでした。

申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、

私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。

彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。

「待って。行きます空港タクシーで行くから。きっと着くから

「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」

着いたとき、彼はローリン冗談を言い合っていました。

毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。

視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。

昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。

そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。

呼吸が変わりました。

つらそうに、やっとの思いで息をしていました。

彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。

これが私が学んだことです

彼はこのときにも努力していたのです

死がスティーブに訪れたのではありません。

彼が死を成し遂げたのです

彼はさよならを言い、すまないと言いました。

約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。

そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。

フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。

彼はその夜を越しました。

ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。

彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。

やらなければならないことでした。

はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。

絶対主義ロマンチストの顔立ちをしていました。

その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。

山を登っているようでした。

その意志、その使命感、その強さと同時に、

そこにはスティーブ不思議を求める心、

美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。

その数時間前に出た言葉が、スティーブ最期言葉になりました。

それは三度繰り返す単音節言葉でした。

船出の前、

彼は妹のパティを見て、

子供たちをゆっくり見て、

人生の伴侶ローリンを見て、

そして皆の肩の向こうを見ました。

スティーブ最期言葉は次の通りです

OH WOW. OH WOW. OH WOW.

2011-09-19

法律で、男は30歳になったら、結婚しないといけないことにする

どんなキモいデブでも童貞でも犯罪者でも強制的に結婚させる

ただし、結婚相手は人間の女とは限らない

犬とかヤギとか、絵画とか、ルーレットで決める

既婚者には(相手が人間じゃなくても)、税金の控除とか、メリットも用意する

意外と、喪男でも、女の方が同情して30前に結婚してくれたり、婚活ビジネスが活気づいたりして、人間以外との結婚者はわずかだと予想される

でもこれくらいやらないと結婚なんてしないだろ

2011-09-17

文化文明の違い

よく論じられていてそれでもよくわからなくていろいろ考えてみて、自分なりの結論を出した。

それを使ってお金(一般的等価物)を稼げるのが文明

お金(一般的等価物)を使って生み出した結果が文化

たとえば筆を使って絵を描いたとしたら、

筆はそれを使って生み出した絵を他人に見せることでお金や名声を得られる。

絵はそれ自体が一般的等価物として社会で商取引に使われるものではないが、

芸術的な価値があると認められれば、芸術品に対する対価としてお金をもらえる。

から筆は文明絵画文化


パソコンを使って文章を作成する。

文章によって仕事が成立し給料をもらえる。

パソコンを使って作った生産物は一般的等価物として機能しないが、

その情報を必要とする人にとって価値あるものなので、

作成者はお金をもらえる。

からパソコン文明。生み出された文章は文化

その集団が文明を持っているか否かを判断する指標として最も重要ものが文字の有無だというのは、

情報が一般的等価物としての性質を持つ=商取引が成立するからなんだと思う。


箸は文化だろうか。文明だろうか。

箸それ自体はお金を生み出すための手段にはなりえない。

ただ生物にとって食事は必須だからある意味貨幣と同じく一般的等価物としての役割を持つかもしれない。

と考えると文明と言えるかもしれないけど、

別にわざわざ道具を使わなくたって手づかみで食べることだってできる。

手づかみか道具を使うかは結構文明化しているか未開かどうかを判断する指標として重要だ。


こういうことを言うと無文字文化を持つ民族や手づかみで食べる民族に対する差別だという意見が出るけど、

そもそも文明化していないことが野蛮だ悪だという発想を持っている時点で、

その人自身が差別思想を持っているといえる。

文化を持つけど文明を持たない集団はいるという話は聞くが逆は聞いたことがない。

2011-08-22

http://anond.hatelabo.jp/20110818155831

子供とき読書感想文というのがあって、あれが実にくだらないと、子供心に感じた。だから、絶対に本当のことなど書かなかった。いい加減に書いて、つまり先生が喜ぶようなことを書けば褒められた。実際に、それで賞状をもらったこともある。ああ、くだらない思い出。

本を読んで、その感想を文章にすることは、自分の考えをまとめる、という訓練としては、そこそこの価値がある。気持ちというのは、なかなか他人に伝達できないものから、その局所的なものを一般的にする行為価値がある。しかし、そもそも、人に伝えたい、という気持ちがまず大切であって、「わかってもらいたい」という動機がなければ、文章はけっして良くはならない。その気持ちがない状態で書けば、ようするに入試小論文に見られる、おきまりの構成、テーマ常套句の嵐になって、読めるけれど、意味のない文になる。そういったものをいくら書いたところで、それは文章を書けることにはならない。

それよりは、この頃の流行ブログの方が、少しはましだと思う。誰ともわからない相手に(そんな者はいいかもしれないのに)、気持ちを伝えようと前向きになってアウトプットする素直さは、非常に平和的で、社会的で、そして善良である

自慢したいことや、同情してほしいことや、知ってほしい気持ち、褒めてもらいたい行動、そういうものが誰にもあって、それをこれほど公的かつ私的に(つまり遠いけれど身近で)書けるシステムは今までなかっただろう。この際だから読書感想文なんかやめて、ブログ学校先生が読めば良いのではないか

まず、小説フィクション)の感想文というのは、小学生にやらせるやらせない以前に、そもそも馬鹿馬鹿しいものなので、これは、教育どうこうの問題ではない。もし、国語時間に文章を書くことの訓練をさせるつもりならば、小説ではなく、絵画であるとか、古建築であるとか、まったく別分野の芸術に対する感想を文章にさせてはどうか。文章になっているもの感想を書かせると、単に8割はその内容をピックアップするだけで、創造力、文章力の訓練には適さない。出版社に勤めて、本のあらすじを書く仕事を将来するのならば、多少は役に立つだろうか。それ以外に、小説のあらすじを把握する意味価値もまったくないと思われる。そもそも、本の裏表紙にある「あらすじ」が僕には無意味だ。

 一方、ノンフィクションに対する感想文というのは、ある程度、論理的な思考を養う意味では、効果があるかもしれない。受験小論文で試される学力もここに近い。つまり、求められているものは、論理性、着眼などである

 おそらく最初目的は、子供に本を読ませること、だったと思われる。僕は、子供に本を読ませる必要は感じない。読みたいものがあれば、必ず自分から読むだろう。それが人間だ。

 繰り返しになるが、文章を書くときに必要なことは、読む相手を想定すること。その人に伝わるように書く、という訓練が重要だ。読書感想文は、誰に宛てた文章なのだろうか? いったい何のために書くのだろうか?

2011-08-15

http://anond.hatelabo.jp/20110815131501

仕事とはどんなものかとかもっとひろくどう生きるかという問題を,ある個人に限定的でない考え方ができる社会的・公的な部分と個人的な部分をごっちゃにしている感じが若いなあという感じがする.

結局、仕事というのは、誰かが儲けるはずの金を、

いかにして自分の金にするかということが根底にある。

から、「仕事楽しい」とは、「誰かを潰して、且つ金を手にするのが楽しい」ということになる。

前文はマクロ的な視点なのだけれど,次文はごくミクロな個人の価値観あなたが認定している.仕事自体が楽しい場合存在するんだよ.音楽絵画文芸ゲームアニメ・鉃道・・・といったホビーを楽しむように仕事を楽しむことも可能だろうよ.あたりまえのことだけれど,趣味でも仕事でもそれぞれでそれぞれのようすで社会的に制約される.収入少ない民間の研究職で仕事楽しいな,僕は.この仕事はやや儲けるはずの金を研究開発によってひっぱってくるというところがあるけれど,より基礎的な研究職なんかならあまり組織の金のことは仕事の主眼にはならない.

2011-08-05

http://anond.hatelabo.jp/20110805173217

いやーほんとはねー

言葉は通じてるんだよ。

オタクにもそれがわかるからこそ怒りを買うわけで。


現代アートって元からオタク業界より脆弱もので、

オタク的なものに対してコンプレックス持ってるんだよ。

だってオタク的なものの方が多くの人に受け入れられてるし

ビジネスもいくらでもあるし。


昔、絵画芸術が担ってたものって今はオタク業界が担ってるからね。これはマジだよ。

から現代って、芸術家なんてものは浮かばれない世の中なのよ。

「だから商業ベースの上で月ごとのお給料もらうデザイナーになりなさい」

って美大生なんかは何度も言われてる筈なのにそれでも芸術家を選ぶ以上、

自己責任だけどね。



彼等はー、

自分だけで耳目を集めるようなパワーもイメージも持たない。

からオタク界のものをちょろまかしたい。

そう思ってるって言うだけなら別にカオスラウンジだけじゃないんだよ。

カオスラウンジたまたまうまくいって、調子こいてやりすぎてただけで、ああいうのがあいつらだけなわけじゃない。


でもコンプレックスが捩れた変なプライドがあるから

「我々はお前らより上層である

 我々のやってることに不満や嫌悪を抱くならそれはお前らが高尚な芸術を理解できていないからであり

 お前らが我々を理解できるレベルになれば解決する。」

みたいな態度しか取れない。


オタクと同じ言葉でしゃべって普通に疎通しちゃったら

「何でお前人の描いた絵持ってくの、自分で描けよ」

「いや俺あんま絵上手くないし、全部自力で描いた絵が注目されなかったんだよ」

なんて会話をしないといけなくなる。

からオタクと同じ言葉を喋れても、アート語だけを喋るわけ。

言葉通じるのがばれるほうがよっぽど命取りだから


通じてしまったら

オタクから盗んだものオタク界のルールに従って返さなきゃいけないし

「たいした絵がかけない〇沢君」として、オタク階層に(それも中間より下のほうに)組み込まれて終わりになってしまう。

それじゃ嫌なんだよ、

芸術家やろうなんていう自己顕示欲旺盛な人は。

2011-08-04

turimotonaoki

どうして私を好きだと言いながら何ヶ月も仕事が忙しいって理由で

わずにいられるのか、どうして友達がいないことを寂しいと思わないのか

どうして酒も煙草ギャンブルもやらない、特に趣味もない状態で

息苦しくならないのか、どうして異常なまでに人見知りするのか、

どうしてどうでもいいことに妙にこだわったりするのか、どうして

自分の好きなことには一生懸命なのに私が薦める映画絵画読書

マンガなんかに一切の興味を示さないのか、どうしてものごとに感動しないのか、

どうして私の気持ちをわかってくれないのか、わからなかったんだ。

でもさ、その大部分は「症状」だったのかもしれないって

ちょっとホっとした感じさえあったりする。

実際に彼氏がどうなのかは知らないけど、率直に言ってあなた只のバカ女じゃん。

自分の理解できない対象について、自分に理解力が足りないから理解できないのだとは思わず、その対象が異常だから理解できないだ、という自己を中心に据えた傲慢な結論を出してしまっている。

あなたは「彼氏くしゃみの後咳をする!これは私に理解できないから異常!彼氏肺炎に違いない!それでも、わたしは彼氏と別れないで愛してあげる」って言っているのと同じ。

2ちゃんねるの既婚女性板にもあなたみたいに素人診断で誰々はアスペルガーだと騒ぐ人達がよくいるよ。

仕事が忙しければ会えないのは言うまでもないし、友達がいないことを寂しいと思わないのは男だから、酒も煙草ギャンブルもやらないのは育ちが悪くないから、仕事が忙しければ趣味は持てないし、自分の好きなことに一生懸命になるのはそんなの当たり前。こんな何でも無い点を分かる事ができないなんて、人を見る目が驚く程狭量だ。

アスペルガーらしい特徴と言えるのは「どうでもいい事に拘る」という点ぐらいだ。また彼氏の特徴とは逆にアスペルガーは人見知りをしないのが特徴な筈。

彼氏自分の薦める趣味に興味を持ち、自分の気持ちをわかってくれる、という考えはバカ女らしい思い上がりだ。彼氏あなたの為に存在している人間ではない。あなただってそれを薦めてきた相手が彼氏という理由だけで盆栽に興味を持ったりはしないでしょう。

それでも私は彼を大切にしてあげたいと、今は思ってるさ

この行が一番気持ち悪い。はっきり言ってあなたみたいな人間彼女じゃ彼氏が可哀想。「それでも」って何だよ。なんで上から目線だよ。

彼氏アスペルガーだったけど見捨てないであげるワタクシ」という自分を愛しているだけに見える。病気なのは一体どっちだ。

http://anond.hatelabo.jp/20110803212102

http://anond.hatelabo.jp/20110803212102

どうして

自分の好きなことには一生懸命なのに私が薦める映画絵画読書

マンガなんかに一切の興味を示さないのか、

うわあ...俺モロにそうだわ。

あとプレゼントを貰っても全く嬉しくない。

仮に自分が欲しいかったものでもダメ

自分で入手するという形じゃないと満足できない。

横で申し訳ないね、スマン。

2011-08-03

彼氏アスペルガー症候群っぽいことがわかった

彼氏アスペっぽいことを友人から指摘されて

色々調べてみたら特徴にガチまりしてたんだ。

遠まわしに診断っぽいことしてみたらほんと違わずアスペで笑った。

本人は気づいてない。ただちょっと変わった人間だという自覚があるくらい。

それっぽかったわーって指摘してきた友人に言ったら別れるんだよね?

って同情顔で言われたけど、すぐに決断は出せなかった。

私は彼のことがわからなかったんだ。

どうして私を好きだと言いながら何ヶ月も仕事が忙しいって理由で

わずにいられるのか、どうして友達がいないことを寂しいと思わないのか

どうして酒も煙草ギャンブルもやらない、特に趣味もない状態で

息苦しくならないのか、どうして異常なまでに人見知りするのか、

どうしてどうでもいいことに妙にこだわったりするのか、どうして

自分の好きなことには一生懸命なのに私が薦める映画絵画読書

マンガなんかに一切の興味を示さないのか、どうしてものごとに感動しないのか、

どうして私の気持ちをわかってくれないのか、わからなかったんだ。

でもさ、その大部分は「症状」だったのかもしれないって

ちょっとホっとした感じさえあったりする。

わかってるけど◯◯しなかったとかじゃなくて

ああ、ほんとうにわかんなかったんだなって。

うまいこと言えないけど。

それってある意味で強烈な個性よなあ。

それを全て受け入れることができるかは私次第だと思うし

このままずっとうまくやってけるかなんてわからないし。

きっと色々難しいこともあるだろうさ。

それでも私は彼を大切にしてあげたいと、今は思ってるさ。

アスペっぽい人と付き合ってる人の苦労とか、逆に面白いとことか知りたいなあ。

あと、アスペっぽい人が付き合いやすい人間ってどんなんなんだろ。

感情的になりやすい典型的文系のいわゆるサブカル女(笑)だけど向こうはやっぱ似たような理系人がいいんだろうか

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増田だけどね、彼氏に言ってみたよ。

「たぶんっていうか高確率でこれだと思う、ごめんね」みたいな感じだった。病院行ってみるって。

アスペっていってもいろんな型というか種類があるみたいだけど、受動型ってのが近いと思う。

暴言とかはないなあ…むしろあんまり気持ちとかを外に出さない感じ。内向的というか天然っぽいっていうか。

もう、性格アスペって名前がついてるのかなあって思った。難しいな。

彼氏アスペからどうこうってわけでなくて、自分の中で彼氏カテゴライズできないタイプ人間

戸惑う面とかもあったのが、納得いったって感じ。お互いそれで若干肩の荷が下りた感じだなあ。

彼は美しいコードを書く。私の知らないことをたくさん知ってる。優しい人だと思う。

できないこともできることもあって、それは私にもたくさんあって、補い合えたらいいと思う。

結婚とか子供とかはまだまだ先だろうけど、色々一緒に考えてみようと思うよ。反応とかありがとう

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