はてなキーワード: 絵画とは
あなたはもう、ひとりじゃない。ひとりでなければ、ふたりであれば、それはきっと世界を手に入れたも同然なんだ。この広大な世界を歩くのに、ひとりっていうのはなんともつらい。あまりに大きい。世界がその美しさの片鱗を見せたときも、厳しさのかけらを降り注がせたときも、たったひとりでは言葉すら虚空に消えていく。
あなたは、あなたの見た世界の美しさを伝える相手を得た。いや、最初からそれをふたりで見ることになるんだ。
それがどれだけ素晴らしいことかなんて、もう言葉にはできない。
横だけど、こういう話聞くと発作的に「うぎいいいいい結婚したいいいいいいギギギギギ」みたいになって困るわー。
そんなの妄想か理想論だろバーカとか言えねえよだっていろんな本とか映画とか音楽とか絵画とか体験談とか知り合いの笑顔の中とかに同じものを見るんだもの。
もう現実とか事実とか下手したら真理のたぐいだろこれは。バーカってバカなのは指くわえて食いちぎりそうな俺の方だよ完全に。
いいけどよ手に入らないなら入らないで何とかするから。何とかするけど。ギギギ
とまれ見知らぬ誰かさんへおめでとう。
アレの使用説明の講習とか受けるとな、運がいいと記録テープを聞かされる。
ある高校生が突然心停止して倒れたときの救護のやりとりの記録だ。その子の母親の半狂乱の叫び声が残ってるんだ。
泣けるぞあれは。恐ろしい記録だ。
子どもは結局命が助かって、確か後遺症もなくて恙ないはずなのに、なぜかあの記録は決定的に取り返しがつかなくなる瞬間のものみたいな感じがする。
或いは3.11でもいい。まだネットにいくらでも映像が残ってるだろ。
目の前で人が渦に飲まれて消える映像が。
必死に走って逃げてきたのに波ののたうち一つで人が消える瞬間が。
いや、人間が表現することでしか立ち現れてこないものはあるしそれはそれで非常に価値があるんだが、
強制的に涙を排出させるという点では世界とそこに起こる出来事そのものに勝るものなど何も無い。
泣ける映画?小説?音楽?絵画?カスだ。人生の二次創作に過ぎない。
涙は何の本質でもない。ただ目玉のところにある小さいパイプがちょこっと広がって水がダダ漏れるようになるだけだ。
一度パイプが拡張されると二次創作でも涙が出るというだけの話だ。二次創作を通してオリジナルが見えるからだ。
漏れた水自体はその記号にすぎない。そんなものに本質的な価値などない。そんな心の動かされ方に意味はない。
そんなものに固執している限り、他人とコミュニケーション取ってまで伝えたり分かち合ったりしたいと思えるものが得られるわけがない。
音楽とかもそうなんだけど、技能教科って基礎からしっかり教えるためのものじゃなくて、世の中にはこういうものがあるんですよって体験させるためだけのものなんだよね。
基礎からやりたければクラブチームとか絵画教室とか書道教室とかスイミングスクールとかに行けっていう事なんだと思う。
で、俺の意見としては、体験させるだけにしては授業時間が多すぎ。あと「体験」と「評価」はそれほど相容れるものでもないので通知表に載せる必要なし。
運動の習慣ですらそのやり方を教えないからね。学校は。筋トレならこういう種目をこういう器具を使ってどういうタイミングでどのくらいやっていくのか、とか。基本的に教えない。
僕には来年、小学校1年になる娘がいます。いよいよ小学校はイジメ問題のスタートだと思っており、過去の自分の虐められた、虐めた経験を踏まえ、このキツイ状況に娘を落とさせないようにするにはどうしたら良いか戦略を練ってみました。
もし、これを読んでいる方に小・中学生お子さんがいて、子どものイジメを切り抜けた経験がおありの人が居たら、考え方間違えてないか教えてもらえるとありがたいです。
いろんな人(ネットでもテレビでも)が言っているように、イジメは構造的な問題だと思う。小さい社会の中に均質を要求される圧力のもと、長時間拘束されるとどこでも起こる問題であるという事。これは、大人でも動物でも同じ事らしい。しかし当たり前と思っていても、当事者になってしまった場合、いじめられる側、いじめる側どちらであっても問題を構造的に見る事が難しくなるのも事実だ。1つ目の大事なポイントは、イジメ問題が起こる前に、イジメ問題の構造的解決法を探る事であると考えている。
イジメ問題は、教師による解決はほぼ不可能だ。教師は、学校(クラスの)構造を維持することが仕事のKPIであるので「いじめられている生徒が居る」という自己の評価をおとしてしまいかねない事態は、本能的に鈍感になりがちだ。(これは自分が仕事でヤバそうと思った時に取り繕ったりすることを考えればわかるかと思う)また、会社経営のように問題ある児童を左遷させたり、クビにしたりということもできないので、本質的な解決の権限を持っていない。
イジメを結局救えるのは、子どもをその環境から逃がしたりしてあげられる家族だけであると思う。それも母親と子どもだけでは非常に母親への負担が大きく、父親だけで解決を試みても子どもは中々口を開いてくれないだろう。僕は、祖母祖父、父親、母親、兄弟全員が一丸となって、イジメ問題について固まって立ち向かうことが重要と考える。
で、ここから今、考えている解決策です。
イジメの兆候(無視されたとか、叩かれたとか、モノが無くなったとか)を娘に教え、そういう状況があった場合、真っ先に母親/父親/おじいちゃんおばあちゃんなど、家族に報告する練習をさせる。風邪や自然災害と同じように、必ず起こるものと考えて娘が「起こったことを、すぐに言えた」ことを褒める。
もちろん、イジメの時だけ報告するのは凄く難しいので、日常的に学校の話を聞き続ける。
学校という世界で悲惨な状況になった時、他の世界が救ってくれるケースが多々ある。彼女が得意なフィールドで自分がやりたいと思っている事を習い事としてさせてあげたい。ダンス、ピアノ、勉強、絵画どんなことでも良い。同年代が集まる場で得意な事を認めてもらえる感覚を持たせたい。
ネットは悪意(性欲・金銭欲)をもった大人が居る上に、言葉ベースのやりとりは口頭ベースよりも人を傷つけやすい。ある程度の防御本能を身につける前にネットのコミュニティに参加させるのは危険だ。おっさんになった自分でさえも、辛辣なコメントなどが付くと傷つく。子どもがそれに晒されることからは守る必要があると思う。
4)「絶対に子どもの味方」という軸はぶれない
モンスターペアレンツと言われようが、なんだろうが学校に乗り込む、相手の親に会いに行く、子どもを守るために転校させる。どんな手段でも構わないが、「社会からの目」とかを絶対に気にしない。そして、その事を子どもに伝える。どんな事があっても絶対に娘の味方であると。パパもママも娘の命の方が自分の命よりも大事であると。
どんな状況に起ころうとも、イジメは悪いと伝える。ウソを付いたり、親の財布からお金を盗んだりするのと同等かそれ以上に「イジメ」た側に回った場合は、厳しく怒る。そして、いじめられる側の子のシュミレーションを家族で話し合い、どれくらい罪が重い事であるのかを認識させる。
という感じです。まだ、こういうのもやっておいた方が良いよというのがあれば、ぜひ教えて下さい。
幼稚園の頃からスクールカーストの最底辺だった。幼稚園の頃の女子カーストは、「可愛い子」がトップだったと思う。私は可愛くもなく、デブで、体を動かすのも苦手だった。幼稚園年長組の頃、カースト上位の子から色々と命令され、バカにされている記憶が、私の一番古い記憶だ。
小学校に入ってからも、カーストは底辺だった。太っていたので男子から「ブタ」と言われていた。手足ばかりが細く、腹周りに脂肪がつきまくって、樽のような体だった。周りの女の子たちは細くておしゃれでかわいかったけど、私には真似することもできなかった。ただ勉強は好きだったので、成績はいつも良かった。それで余計に集団から浮いていた。そのまま進学した中学でも同じだった。そこでも私は「成績ばっかり良い、ダサいデブ」だった。荒れている地域だったので、そこそこ成績のいい子は全て私立中学に行くなか、なぜか私だけ地元で進学したので、成績はダントツトップだった。学校では今度こそ孤立した。女子たちは、遠巻きにするか、ほとんどの場合は無視してきた。中学の先生も私を扱いかねていたと思う。
いい加減嫌になったので、県内トップ校に進学した。そこでは何とか友達ができた。可愛くて明るくてスタイルのいい女子たちが男子たちと恋愛模様を繰り広げる中、あまりそういうことに興味のない女子が自然に集まり意気投合して、本の話ばかりをしていた。楽しかった。校内では「住み分け」があったので、無視されることもなければ暴言を吐かれることもなかった。思えば進学校の割に、恋愛がらみでは物凄く派手な学校だったと思う。でも私には縁がなかった。浮いた話に縁のない、地味な生徒だった。私は幼稚園のときから「ブタ」だった。人の気持ちもわからないし、好かれる理由がないと思っていた。
勉強するのが好きすぎて、気付けば旧帝大に進学していた。地味な絵画サークルに入り、厳しいゼミを選び、こつこつアルバイトをして、それなりの学生生活を送ったと思う。2年生の時に同じ授業を取っていた男子学生に告白されて、付き合うことになった。今となってはよく覚えていないが、色んな話をしたり、遊びに行ったりして、これもそれなりに楽しく付き合ったとは思う。その彼氏とは卒業間際に別れた。理由は私の友人と浮気をしたからで、浮気をした理由は「向こうが迫ってきたし、スタイル良かったし、エッチが気持ち良かったから」だった。彼は、私が太り気味なのがずっと不満だったのだ。比べた末、彼は私の友人を取った。きっと他にも別れた理由はあったんだろうけど、私はコンプレックスを正面からえぐられた。
大学院に進学してから、大病をして痩せた。幸い病気は治ったが、そうしたら(嘘のような話だが)私の体は「細身巨乳」になった。もともと背が高く、骨盤も張っている(だからよけいデブに見えた)のだが、腹周りとウエストだけが痩せ、胸はFカップのまま残った。アルバイトの関係で化粧を覚えざるを得なくなったこともあってか、私は一気に「スタイルのいい美人」の扱いを受けるようになった。色んな人から告白されたりナンパされたりするようになった。あまりの手のひら返しに、私は事態についていけなかった。自分は「ダサいブタ」なのに、いったいこの人たちは何を見ているのだろう、と思って、男性が怖くなり、自分が嫌いになった。勇気を振り絞って、ちょっと付き合ってみた人もいたけどダメだった。
私は雑音を振り切ろうと思って、研究に専念した。欧州に留学もした。研究は楽しかった。仕事に集中していれば自分を好きになれるかもと思って必死にすがった。そうしたら、成果が評価されて、28歳にして研究職の任期なしポストを得た。大学院生の頃は何だったのかと思うほどの、高給が貰えるようになった。
そうしたら、今度は私の評価は「スタイルのいい高給高学歴エリート美人」ということになったらしく、殆どの男性には敬遠されるようになった。それでも中には誘ってくる男性がいるが、私はどうしても彼らのことが信じられない。私はいまだに自分のことが好きになれない。ちょっとでも好きになりたくて、いまも必死に仕事をしているのだけど、好かれるに値する、生きるに値する自分になれたとは思えない。そういう理由で、誘いは全部断った。30になってからは、不倫の誘いが断然増えたが、それも勿論断る。体目当ての不倫の誘いを受けると、えもいわれぬ冷たい気持ちになる。この人たちは、私が病気をする前ならば、きっと私に目もくれなかったはずだ。彼らにとって私の体はただの記号だ。私は自分が存在しないような気分にさえなる。
先日、小学校の同窓会に顔を出したら、男子たちは大喜びした。「あのデブでブタの○○が、こんなスタイルのいい美人になるなんて!」と正直な感想をそのまま叫ぶ奴もいた。正直すぎると思った。先を競って隣に来て、お酒を注いできた。女子たちは、結婚してほとんどが主婦になっていた。彼女らは、愛想よく、しかし口をそろえて「まあ、でも、その年で未婚で子どももいなかったら、将来どうしようもないでしょ」「○○ちゃんは、昔から勉強ばっかりだったからね」「仕事だけできてもね」と感想を述べた。彼女らの中では、やっぱり私はカーストの底辺で、それは20年たっても変わらないんだな、と妙に感心した。私の自己認識が幼稚園のころから「ブタ」で動かないのと、それは同じことなのかもしれない。
あの方は素晴らしい人だ。他の芸術家にはないものを強く感じる。
俺は余りに芸術に触れなさすぎるからよく分からないけど、自分なりに深く考えさせられるきっかけとなった。
本当の芸術とは何だろうかということだ。今までは、一枚の絵画や文学のことをいうものだと思っていた。
だが、あの方は違った。自分の信じたもの、愛したものをひたすらに、何年も何年もかけて相手に伝え続けている。その姿勢を芸術として表現していた。
誰が見てくれているのか誰にも分からない。その行為、感情に意味があるのかすらも分からない。
だが、そもそも芸術作品というものは、本来そうあるべきであると強く感じる。現在の流行や周囲のものに流されてしまっているものは芸術ではない。曲がらない自分の姿勢、絶対的な愛こそが芸術だ、と思う。
つまり、あの方自身が自分で創りだした芸術作品なのだ。私はあの方の創った作品以上に、その人間性に芸術的な美しさを感じている。
「人生の目的」 について思いを巡らせてみました。人生の目的ってなんでしょう? あるいは生き甲斐とは?という命題でもいいかもしれません。以下、思考ゲームみたいなもので役には立ちませんのであしからず。
さて。「人生」の目的ってなんだろうと考えたとき、僕はいったん「人」 を横によけて「生」について考えます。生命にとっての生きることの目的です。
哺乳類も鳥もゾウリムシでもウイルスでも、生物全般に当てはめられる「生きることの目的」とはなんでしょうか。その答えを探すと、「種が存在し続けること」 ではないかと思います。言い換えれば、種が絶滅しないことです。最初は「種の繁栄」が目的かと思いましたが、必ずしもそうとは限らないようです。人間以外の生物を見ると、無闇に生存圏を拡大したりはしませんし、繁殖に対して自ら規制をかけて間引きする生物もいます。そこから考えると、生物というのは過度な種の繁栄・拡大は望んでおらず、あくまで絶滅しないように継続して存続し続けられることを目的にしているのではないかと思います。
存続の基盤は「個」ではなく、「種」だと思います。個体が死を避ける仕組みは生物の本能に組み込まれていますが(例えば痛覚は死を防ぐための機能)、種の存続はしばしば個体の生存より優先度の高い本能として存在しているようです。自ら海に飛び込んで生産調整するレミングや、巣を守るために命をかけて戦う(針を刺すと死んでしまう)ハチとか。
ここまでをまとめると 、「生の目的とは種を存続させること」ということになります。では、人の生の目的とはなんでしょうか?
順当にいけば「人という種を存続させること」になるのかもしれません。では、人類を存続させるとは、具体的にどんなことでしょうか。例えば、食糧を生産することは種の存続にとって有効な行為ですし、子供を産み育てることも重要なことです。一人一人が「自分の人生の目的」を考えたとき、今挙げたような食糧生産や育児に目的や意義、あるいは生き甲斐を感じるのはごく自然なことなのだと思います。
しかし、人生の目的はこれだけにとどまらないでしょう。人類が存続するという観点に合致する行為はほかにもたくさんあると思います。例えば、人類は自らの存続のために環境を変えていく技術を身につけましたが、その点でいけば、土地を人類が住みやすいように開拓する、建物を作る、環境開発の研究をする、といったことも人類の存続に役立つことだといえます。また、人間社会を運営する政治活動も、治安維持も、存続のためには重要なことです。あらゆる技術、文明の進化を支えるのも人類の存続性を高めることにつながります。さらにいえば、娯楽を提供したり音楽や絵画を作ることも、「今の人類が人類らしく存続する」という点で大切なことではないでしょうか。
こうして考えると、おおむねほとんどの仕事が、人生の目的になり得ると思います。具体的な行為はいろいろあれど、人類への貢献こそが人生の意味だといってもいいのではないでしょうか?
遠回りしてきましたがそろそろ結論です。「貢献」、これが僕の考える人生の目的です。仕事の話をしましたが、仕事をまっとうすることだけが「貢献」ではありません。もっとミニマムなことをいえば、誰かに貢献する行為のすべてが、まわりまわって人類の存続に役立つのだと思います。誰かを楽しませる、誰かに役立つ情報を提供する、小さな親切をする、こうしたことが相手の存続性を高め、みんながみんなに貢献することで、人類は存続性を高めていくのだと思っています。
「誰かに貢献することが、人生においての目的」、いろいろとこねくり回したわりに結論はごく当たり前です。
しかし、思考の末にたどり着いたことで、この結論は僕にとっては極めて整合性の高い「人生の目的」になっています。つまりは、しっくりきます。
なるべく誰かに貢献できる人生を送りたいな。と、そう思っている僕です。
☆アーティストトーク「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」at 横浜美術館レクチャー・ホール, 2012.02.11(Sat), 15:00-16:00。Kyo.I.
横浜美術館で松井冬子さんの講演を聴いた。彼女の個展「世界中の子と友達になれる」の関連イベント。
11時ころ会場前に行ってみたらスタッフの方(美人)がいたので話を聞くと、「どのくらいの方が集まるか何とも言えませんが、現時点ではどなたも並んでません」とのことで、とりあえず個展を鑑賞。同行した絵描き女子はたいへん楽しんだようだけど、私はよく分からんかった。むしろ常設展に感動。あ、でも松井さんの『ただちに穏やかになって眠りにおち』は印象に残った、私は宮沢賢治の『オツベルと象』が大好きだから。
13時ころ会場の様子を見に行ったらもう150人くらい並んでてびっくりした。慌てて最後尾に並ぶ。老若男女が並んでる。一人で来てる人も多い。並ぶときに、スタッフの方から「レジュメ」と称される紙が配られたのだけど、松井さんのプロフィールしか書いてなくて残念。
講演タイトルは「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」。この奇妙なタイトルは、松井さんが東京藝大で博士を取るときに提出した論文のタイトルだそうで、講演ではその論文について解説してくれるということだった。
とりあえずビジュアル的に面白い。つま先から太もも全体まで包む黒いエナメルのロングブーツ! テカテカしている。もともと脚がすごく長いのかヒールがすごく高いのか両方なのか知らないけど、やたら大きかった。
松井さんの話によると、彼女は博論を2006年に執筆して、2007年2月に教授陣の前で発表したのだけど、発表の際に高熱を出していて上手く出来なかったとのこと。今回はその時のリベンジをしたいという。
で、講演が始まったわけだが、うーん、日ごろ自分のプレゼン下手を痛感している私としては、非常に勇気づけられた。こんな下手な講演が世の中にあるのか! 私の前に座ってた中年女性が、講演中に隣の人と「おもしろくないね」と言っちゃうくらいである。
講演タイトルを見ても分かるけど、松井さんは基本的に、いわゆる「中二病」全開な文章を書く人だ。絵のタイトルも『陰刻された四肢の祭壇』とか『終極にある異体の散在』なんて感じだし、個展の絵にもそれぞれ解説文がついてて、それが全部同じような調子で長々と書かれている。まあ、幽霊とか臓物とかを描くくらいだから、「中二」なのは文章だけの問題じゃないと言われるかもしれないけど、それはともかく。
不必要に硬い語彙を好んで使い、しかもそれぞれの言葉の組み合わせ方が少しずつ適切な用法とズレていて、さらに主述関係や修飾-被修飾関係があやふやなので、全体として意味が不明瞭。そんな文章を、文字情報なしで口頭で早口で(つっかえながら)読み上げるのだから、分かりやすくなるわけがない。
と、つい悪口が長くなったけど、私の理解した範囲で要旨をまとめると、
~
他者との接触は私に痛みをもたらすよね。
でもそれを芸術作品に託すことで、目に見える形にして、人に伝達できるのでは。
そういう試みが視覚芸術のなかに確かに存在しているし、松井自身の制作も、その系譜に連なるんだよ。
~
こんな感じでした。
この系譜の探究として、河鍋暁斎とかダミアンハーストとかクリスチャンボルタンスキーとか色々な作品が挙げられ、分類され、その流れで自作解説も行われる。(ちなみにその分類の名前は「攻撃性自己顕示実践型/受動性自己犠牲変容型/局地的領域横断型」。一貫した中二感。)
余計なお世話だけど、「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」というタイトルでは全然内容を表せてない(うえにそもそも日本語としておかしい)ので、まともに修正するなら「痛覚の覚醒を企図する視覚芸術の系譜」ってところでしょうか。
私の記憶する限りでは、「不可避」の部分が講演のなかに出てこなかったので、もし質問コーナーがあったらお尋ねしたかったのだけど、むしろ講演の後半は時間が足りなくなって、松井さん自身の話さえだいぶ端折られてた。残念。
ちなみに私の同行者は、「全体としては難しくてよく分からなかったけど部分部分は面白かった」とのこと。例えば、ある作品に描いた孤独な幽霊が、少女コミックの主人公のようなものだという話。少女が運命の相手に出会うために奇跡を待つのは、逆に言えば奇跡なしには出会いが存在しないということであって、そこには極めて近代的な「ディスコミュニケーション」があらわれている、とか。
私は正直、講演の内容自体にはこれといった感想を持てなかったんだけど、にもかかわらず彼女に対する印象は大きく変わった。
松井さんの文章は、中二病的だ。見た目には間違いなく中二の文章だ。でも、彼女がそういう文章を書く理由は、いわゆる中二病とは大きく違うんじゃないか。講演を聴いてるうちにそう思えてきた。
自意識過剰の中学生は、全力でカッコつけて(実はカッコ悪い)文章を書き、しかもそのカッコつけた自分に酔っている。
一方、松井さんは、無理やり日本語をねじまげて珍妙な言葉づかいをすることを、ある意味でむしろ強いられてるんじゃないか。そうでもしなければ、彼女が何を言っても「美女の言葉」として消費されてしまって、結局何ひとつ表現することができなくなってしまうんじゃないか。
彼女は、整った顔立ちの、いわゆる美人だ。私は、平たく言えば、「どこかで過剰に武装しないとなめられてしまって、男と対等に見てもらえない、それが嫌なのかもなあ」、と思った。感覚的な話だけど、堅苦しい言葉をたどたどしく話す彼女を見ながら、思ったのだ。
彼女は講演の中でも「メスしか描かない」と言っていたし(尾長鶏はオスだけどドラァグクイーンのイメージなので名誉女性と考えているとのこと)、ネット情報によるとフェミニストの上野千鶴子さんのファンらしいから、性に関する問題に強い意識を持っているのは確かだろう。(※追記:フェミ関連の話としては、http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20090709/1247140423、などがある。)
ただまあ、こんなふうに分析されるのは、たとえこの分析が実情を言い当てていたとしても(いやむしろ言い当ててていればこそ)、松井さんの立場からすれば不快以外の何物でもないだろう、とは思う。
残念ながら私には、松井さんの作品自体をフェミニズム絵画として論じるだけのモチベーションも能力も無いけれど、そういう見方もできるのかもしれないね。というかできるんだろうね、間違いなく。
長くなったついでに一つ。
私見では、松井さんは「言いたいことが山ほどあるけど上手く表現する技術がない人」だと思う。だからあんなに自作解説をしたがるのだ(いまネットで少し松井冬子評を探してみたら、彼女の自作解説にヘキエキするという人は一定数いるようだ)。 結果、彼女のファンは、「よくぞそれを言ってくれた!(技術はともかく)」というタイプの人と、「グロテスクな絵を描いて、博士号を持ってる、美人すぎる日本画家! おもしろい!」というタイプの人に分かれることになる。あとまあ、「幽霊大好き!グロ大好き!」という人もいるのかもしれない。サブカル?
私自身は、特に彼女に同調するわけでもなく、外見や肩書に魅力を感じるわけでもなく、幽霊が好きなわけでもない。そして彼女の文章を容認できる忍耐力もない。
かもしれない。
この騒動、「ディズニーが訴えないなら問題ないな」的な空気で終息しそうな気配だが、そういう問題じゃないよというおはなし。
まず、著作権とは別に存在する権利、「著作者人格権」というものがあります。
著作者人格権(ちょさくしゃじんかくけん)とは、著作者がその著作物に対して有する人格的利益の保護を目的とする権利の総称である。著作物には、著作者の思想や感情が色濃く反映されているため、第三者による著作物の利用態様によっては著作者の人格的利益を侵害する恐れがある。そこで、著作者に対し、著作者の人格的利益を侵害する態様による著作物の利用を禁止する権利を認めたものである。
今回の問題では、日本においてミッキーの著作権の一部が既に切れている可能性を以て適法であるとする意見が散見されますが、実はこの著作者人格権に関しては、保護期限に関する規定が存在しません。
ベルヌ条約6条の2(2)が著作者の死後における著作者人格権の保護を要求していることから、著作者の死亡後も、著作者が存しているならば著作者人格権の侵害となるような行為を禁止するとともに(60条)、一定範囲の遺族による差止請求権や名誉回復措置請求権の行使が認められている(116条)。
つまり、ミッキーに関する著作者人格権は現在も法的に保護されているということになります。
著作者人格権として具体的に保護される権利として、この2つが挙げられます。
同一性保持権(どういつせいほじけん)とは、著作者人格権の一種であり、著作物及びその題号につき著作者(著作権者ではないことに注意)の意に反して変更、切除その他の改変を禁止することができる権利のことをいう(日本の著作権法20条1項前段。以下、特に断らない限り、引用法令は日本のもの)。
著作物が無断で改変される結果、著作者の意に沿わない表現が施されることによる精神的苦痛から救済するため、このような制度が設けられていると理解されている。もっとも、元の著作物の表現が残存しない程度にまで改変された場合は、もはや別個の著作物であり、同一性保持権の問題は生じない(「パロディ事件」(第1次)、最高裁判所判決昭和55年3月28日)。
著作物の改変を伴わない場合でも、その利用態様によっては表現が著作者の意図と異なる意図を持つものとして受け取られる可能性がある。そのため、著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を利用する行為は、著作者の著作者人格権を侵害する行為とみなされる(著作権法113条6項)。例として、美術品としての絵画を風俗店の看板に使用する行為などが該当するとされている。
要するに、著作物に対し、著作者が傷つくような変なイメージを付けたり改変したりしてはいけないよ、ということですね。
知財関連の権利、特に著作権に関する諸権利については、多くが親告罪であることが知られているかと思います。つまり、被害を受けた権利者が提訴しない限りは犯罪とならないし、賠償請求すらもできない。だから、ディズニーが提訴しないなら問題ないよね、という意見。これも散見されますが、誤りです。
実は、著作者人格権の侵害については刑事罰が定められており、しかも著作者死亡後の名誉声望権侵害は非親告罪なのです。(※下線部追記:著作者の生存中は親告罪です)
第60条
著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。
第120条
第123条
第119条、第120条の2第3号及び第4号、第121条の2及び前条第1項の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
つまり、『その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められ』ない場合、ディズニー社の意向に関わらずお縄になるリスクがあるということです。
まぁ、実際にディズニーの意向を無視して逮捕されるかというとこれは怪しいですね。そういうケースを聞いたことがありませんし、実際のところ大丈夫なんじゃないですか。しかしだからと言って、これが合法でクリーンな行為だなんて事は決してない、というのは当然のおはなしですね。あえて非親告罪とされているというのはそういう意味です。
著作者人格権は、著作者の死後、著作権保護期間が切れた後も保護されます。作者が死んで著作権が切れているからといって、作者の意に反してキャラクタを侮辱する自由は決して「当然認められる」ような権利ではありませんし、刑事告発される可能性があります。首を刎ねるという表現が『著作者の意を害しない』と言える理由を明確に説明しなければいけないでしょう。
アニメキャラクタのファックを描くことはもはや黙認されてしまい実際の権利行使もそう簡単にはいかない状況ですが、社会通念上「殺害」という表現が「ファック」以上にキワドイのはもちろんのこと、首を刎ねるというのは特に侮辱的表現であるとされる可能性が強く考えられます。
作者は「悪いことをしていない」と言える明確なロジックをもって、それができないなら「悪いことをしている」という自覚と覚悟を持って、同人活動をした方がいいですね。認識が甘すぎます。
ディズニーからの正式な抗議ではなかっただろうことは想像できます。
著作者死亡後の差止請求権は著作者の孫までの遺族にのみ認められており、ディズニー社にはその権利が存在しません。また、今回のような場合は出版権にも関係しません。
(差止請求権)
第112条
著作者、著作権者、出版権者、実演家又は著作隣接権者は、その著作者人格権、著作権、出版権、実演家人格権又は著作隣接権を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。
(著作者又は実演家の死後における人格的利益の保護のための措置)
第116条
著作者又は実演家の死後においては、その遺族(死亡した著作者又は実演家の配偶者、子、父母、孫、祖父母又は兄弟姉妹をいう。以下この条において同じ。)は、当該著作者又は実演家について第60条又は第101条の3の規定に違反する行為をする者又はするおそれがある者に対し第112条の請求を、故意又は過失により著作者人格権又は実演家人格権を侵害する行為又は第60条若しくは第101条の3の規定に違反する行為をした者に対し前条の請求をすることができる。
故に、ディズニー社からの要求としては法的根拠がなく、不可解です。(繰り返しますが、それとは別に誰かから刑事告発される可能性はあるんですよ)
ディズニーから訴えられるとすれば、商標権についての争い=商業的活動に限られると思われ、無償での同人活動には民事では関与できないものと考えられます。
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
旬の野菜。
簡単な調理。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
何年もかかりました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。
よく論じられていてそれでもよくわからなくていろいろ考えてみて、自分なりの結論を出した。
たとえば筆を使って絵を描いたとしたら、
筆はそれを使って生み出した絵を他人に見せることでお金や名声を得られる。
絵はそれ自体が一般的等価物として社会で商取引に使われるものではないが、
芸術的な価値があると認められれば、芸術品に対する対価としてお金をもらえる。
パソコンを使って作った生産物は一般的等価物として機能しないが、
その集団が文明を持っているか否かを判断する指標として最も重要なものが文字の有無だというのは、
情報が一般的等価物としての性質を持つ=商取引が成立するからなんだと思う。
箸それ自体はお金を生み出すための手段にはなりえない。
ただ生物にとって食事は必須だからある意味貨幣と同じく一般的等価物としての役割を持つかもしれない。
と考えると文明と言えるかもしれないけど、
別にわざわざ道具を使わなくたって手づかみで食べることだってできる。
手づかみか道具を使うかは結構、文明化しているか未開かどうかを判断する指標として重要だ。
こういうことを言うと無文字文化を持つ民族や手づかみで食べる民族に対する差別だという意見が出るけど、
そもそも文明化していないことが野蛮だ悪だという発想を持っている時点で、
その人自身が差別思想を持っているといえる。
子供のときに読書感想文というのがあって、あれが実にくだらないと、子供心に感じた。だから、絶対に本当のことなど書かなかった。いい加減に書いて、つまり、先生が喜ぶようなことを書けば褒められた。実際に、それで賞状をもらったこともある。ああ、くだらない思い出。
本を読んで、その感想を文章にすることは、自分の考えをまとめる、という訓練としては、そこそこの価値がある。気持ちというのは、なかなか他人に伝達できないものだから、その局所的なものを一般的にする行為は価値がある。しかし、そもそも、人に伝えたい、という気持ちがまず大切であって、「わかってもらいたい」という動機がなければ、文章はけっして良くはならない。その気持ちがない状態で書けば、ようするに入試の小論文に見られる、おきまりの構成、テーマ、常套句の嵐になって、読めるけれど、意味のない文になる。そういったものをいくら書いたところで、それは文章を書けることにはならない。
それよりは、この頃の流行のブログの方が、少しはましだと思う。誰ともわからない相手に(そんな者はいないかもしれないのに)、気持ちを伝えようと前向きになってアウトプットする素直さは、非常に平和的で、社会的で、そして善良である。
自慢したいことや、同情してほしいことや、知ってほしい気持ち、褒めてもらいたい行動、そういうものが誰にもあって、それをこれほど公的かつ私的に(つまり遠いけれど身近で)書けるシステムは今までなかっただろう。この際だから、読書感想文なんかやめて、ブログを学校の先生が読めば良いのではないか。
まず、小説(フィクション)の感想文というのは、小学生にやらせるやらせない以前に、そもそも馬鹿馬鹿しいものなので、これは、教育どうこうの問題ではない。もし、国語の時間に文章を書くことの訓練をさせるつもりならば、小説ではなく、絵画であるとか、古建築であるとか、まったく別分野の芸術に対する感想を文章にさせてはどうか。文章になっているものの感想を書かせると、単に8割はその内容をピックアップするだけで、創造力、文章力の訓練には適さない。出版社に勤めて、本のあらすじを書く仕事を将来するのならば、多少は役に立つだろうか。それ以外に、小説のあらすじを把握する意味も価値もまったくないと思われる。そもそも、本の裏表紙にある「あらすじ」が僕には無意味だ。
一方、ノンフィクションに対する感想文というのは、ある程度、論理的な思考を養う意味では、効果があるかもしれない。受験の小論文で試される学力もここに近い。つまり、求められているものは、論理性、着眼などである。
おそらく最初の目的は、子供に本を読ませること、だったと思われる。僕は、子供に本を読ませる必要は感じない。読みたいものがあれば、必ず自分から読むだろう。それが人間だ。
繰り返しになるが、文章を書くときに必要なことは、読む相手を想定すること。その人に伝わるように書く、という訓練が重要だ。読書感想文は、誰に宛てた文章なのだろうか? いったい何のために書くのだろうか?
仕事とはどんなものかとかもっとひろくどう生きるかという問題を,ある個人に限定的でない考え方ができる社会的・公的な部分と個人的な部分をごっちゃにしている感じが若いなあという感じがする.
結局、仕事というのは、誰かが儲けるはずの金を、
前文はマクロ的な視点なのだけれど,次文はごくミクロな個人の価値観をあなたが認定している.仕事自体が楽しい場合が存在するんだよ.音楽・絵画・文芸・ゲーム・アニメ・鉃道・・・といったホビーを楽しむように仕事を楽しむことも可能だろうよ.あたりまえのことだけれど,趣味でも仕事でもそれぞれでそれぞれのようすで社会的に制約される.収入少ない民間の研究職で仕事が楽しいな,僕は.この仕事はやや儲けるはずの金を研究開発によってひっぱってくるというところがあるけれど,より基礎的な研究職なんかならあまり組織の金のことは仕事の主眼にはならない.
いやーほんとはねー
言葉は通じてるんだよ。
ビジネスもいくらでもあるし。
昔、絵画や芸術が担ってたものって今はオタク業界が担ってるからね。これはマジだよ。
だから現代って、芸術家なんてものは浮かばれない世の中なのよ。
「だから商業ベースの上で月ごとのお給料もらうデザイナーになりなさい」
って美大生なんかは何度も言われてる筈なのにそれでも芸術家を選ぶ以上、
自己責任だけどね。
彼等はー、
そう思ってるって言うだけなら別にカオスラウンジだけじゃないんだよ。
カオスラウンジはたまたまうまくいって、調子こいてやりすぎてただけで、ああいうのがあいつらだけなわけじゃない。
「我々はお前らより上層である。
我々のやってることに不満や嫌悪を抱くならそれはお前らが高尚な芸術を理解できていないからであり
お前らが我々を理解できるレベルになれば解決する。」
みたいな態度しか取れない。
「何でお前人の描いた絵持ってくの、自分で描けよ」
「いや俺あんま絵上手くないし、全部自力で描いた絵が注目されなかったんだよ」
なんて会話をしないといけなくなる。
だから、オタクと同じ言葉を喋れても、アート語だけを喋るわけ。
通じてしまったら
オタク界から盗んだものはオタク界のルールに従って返さなきゃいけないし
「たいした絵がかけない〇沢君」として、オタクの階層に(それも中間より下のほうに)組み込まれて終わりになってしまう。
それじゃ嫌なんだよ、
どうして私を好きだと言いながら何ヶ月も仕事が忙しいって理由で
会わずにいられるのか、どうして友達がいないことを寂しいと思わないのか
どうして酒も煙草もギャンブルもやらない、特に趣味もない状態で
息苦しくならないのか、どうして異常なまでに人見知りするのか、
どうしてどうでもいいことに妙にこだわったりするのか、どうして
自分の好きなことには一生懸命なのに私が薦める映画や絵画や読書
やマンガなんかに一切の興味を示さないのか、どうしてものごとに感動しないのか、
どうして私の気持ちをわかってくれないのか、わからなかったんだ。
でもさ、その大部分は「症状」だったのかもしれないって
ちょっとホっとした感じさえあったりする。
実際に彼氏がどうなのかは知らないけど、率直に言ってあなた只のバカ女じゃん。
自分の理解できない対象について、自分に理解力が足りないから理解できないのだとは思わず、その対象が異常だから理解できないだ、という自己を中心に据えた傲慢な結論を出してしまっている。
あなたは「彼氏はくしゃみの後咳をする!これは私に理解できないから異常!彼氏は肺炎に違いない!それでも、わたしは彼氏と別れないで愛してあげる」って言っているのと同じ。
2ちゃんねるの既婚女性板にもあなたみたいに素人診断で誰々はアスペルガーだと騒ぐ人達がよくいるよ。
仕事が忙しければ会えないのは言うまでもないし、友達がいないことを寂しいと思わないのは男だから、酒も煙草もギャンブルもやらないのは育ちが悪くないから、仕事が忙しければ趣味は持てないし、自分の好きなことに一生懸命になるのはそんなの当たり前。こんな何でも無い点を分かる事ができないなんて、人を見る目が驚く程狭量だ。
アスペルガーらしい特徴と言えるのは「どうでもいい事に拘る」という点ぐらいだ。また彼氏の特徴とは逆にアスペルガーは人見知りをしないのが特徴な筈。
彼氏は自分の薦める趣味に興味を持ち、自分の気持ちをわかってくれる、という考えはバカ女らしい思い上がりだ。彼氏はあなたの為に存在している人間ではない。あなただってそれを薦めてきた相手が彼氏という理由だけで盆栽に興味を持ったりはしないでしょう。
それでも私は彼を大切にしてあげたいと、今は思ってるさ
この行が一番気持ち悪い。はっきり言ってあなたみたいな人間が彼女じゃ彼氏が可哀想。「それでも」って何だよ。なんで上から目線だよ。
遠まわしに診断っぽいことしてみたらほんと違わずアスペで笑った。
本人は気づいてない。ただちょっと変わった人間だという自覚があるくらい。
それっぽかったわーって指摘してきた友人に言ったら別れるんだよね?
って同情顔で言われたけど、すぐに決断は出せなかった。
私は彼のことがわからなかったんだ。
どうして私を好きだと言いながら何ヶ月も仕事が忙しいって理由で
会わずにいられるのか、どうして友達がいないことを寂しいと思わないのか
どうして酒も煙草もギャンブルもやらない、特に趣味もない状態で
息苦しくならないのか、どうして異常なまでに人見知りするのか、
どうしてどうでもいいことに妙にこだわったりするのか、どうして
自分の好きなことには一生懸命なのに私が薦める映画や絵画や読書
やマンガなんかに一切の興味を示さないのか、どうしてものごとに感動しないのか、
どうして私の気持ちをわかってくれないのか、わからなかったんだ。
でもさ、その大部分は「症状」だったのかもしれないって
ちょっとホっとした感じさえあったりする。
わかってるけど◯◯しなかったとかじゃなくて
ああ、ほんとうにわかんなかったんだなって。
うまいこと言えないけど。
それを全て受け入れることができるかは私次第だと思うし
このままずっとうまくやってけるかなんてわからないし。
きっと色々難しいこともあるだろうさ。
それでも私は彼を大切にしてあげたいと、今は思ってるさ。
アスペっぽい人と付き合ってる人の苦労とか、逆に面白いとことか知りたいなあ。
あと、アスペっぽい人が付き合いやすい人間ってどんなんなんだろ。
私感情的になりやすい典型的文系のいわゆるサブカル女(笑)だけど向こうはやっぱ似たような理系人がいいんだろうか
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「たぶんっていうか高確率でこれだと思う、ごめんね」みたいな感じだった。病院行ってみるって。
アスペっていってもいろんな型というか種類があるみたいだけど、受動型ってのが近いと思う。
暴言とかはないなあ…むしろあんまり気持ちとかを外に出さない感じ。内向的というか天然っぽいっていうか。
もう、性格にアスペって名前がついてるのかなあって思った。難しいな。
彼氏がアスペだからどうこうってわけでなくて、自分の中で彼氏がカテゴライズできないタイプの人間で
戸惑う面とかもあったのが、納得いったって感じ。お互いそれで若干肩の荷が下りた感じだなあ。
彼は美しいコードを書く。私の知らないことをたくさん知ってる。優しい人だと思う。
できないこともできることもあって、それは私にもたくさんあって、補い合えたらいいと思う。