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☆アーティストトーク「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」at 横浜美術館レクチャー・ホール, 2012.02.11(Sat), 15:00-16:00。Kyo.I.
横浜美術館で松井冬子さんの講演を聴いた。彼女の個展「世界中の子と友達になれる」の関連イベント。
11時ころ会場前に行ってみたらスタッフの方(美人)がいたので話を聞くと、「どのくらいの方が集まるか何とも言えませんが、現時点ではどなたも並んでません」とのことで、とりあえず個展を鑑賞。同行した絵描き女子はたいへん楽しんだようだけど、私はよく分からんかった。むしろ常設展に感動。あ、でも松井さんの『ただちに穏やかになって眠りにおち』は印象に残った、私は宮沢賢治の『オツベルと象』が大好きだから。
13時ころ会場の様子を見に行ったらもう150人くらい並んでてびっくりした。慌てて最後尾に並ぶ。老若男女が並んでる。一人で来てる人も多い。並ぶときに、スタッフの方から「レジュメ」と称される紙が配られたのだけど、松井さんのプロフィールしか書いてなくて残念。
講演タイトルは「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」。この奇妙なタイトルは、松井さんが東京藝大で博士を取るときに提出した論文のタイトルだそうで、講演ではその論文について解説してくれるということだった。
とりあえずビジュアル的に面白い。つま先から太もも全体まで包む黒いエナメルのロングブーツ! テカテカしている。もともと脚がすごく長いのかヒールがすごく高いのか両方なのか知らないけど、やたら大きかった。
松井さんの話によると、彼女は博論を2006年に執筆して、2007年2月に教授陣の前で発表したのだけど、発表の際に高熱を出していて上手く出来なかったとのこと。今回はその時のリベンジをしたいという。
で、講演が始まったわけだが、うーん、日ごろ自分のプレゼン下手を痛感している私としては、非常に勇気づけられた。こんな下手な講演が世の中にあるのか! 私の前に座ってた中年女性が、講演中に隣の人と「おもしろくないね」と言っちゃうくらいである。
講演タイトルを見ても分かるけど、松井さんは基本的に、いわゆる「中二病」全開な文章を書く人だ。絵のタイトルも『陰刻された四肢の祭壇』とか『終極にある異体の散在』なんて感じだし、個展の絵にもそれぞれ解説文がついてて、それが全部同じような調子で長々と書かれている。まあ、幽霊とか臓物とかを描くくらいだから、「中二」なのは文章だけの問題じゃないと言われるかもしれないけど、それはともかく。
不必要に硬い語彙を好んで使い、しかもそれぞれの言葉の組み合わせ方が少しずつ適切な用法とズレていて、さらに主述関係や修飾-被修飾関係があやふやなので、全体として意味が不明瞭。そんな文章を、文字情報なしで口頭で早口で(つっかえながら)読み上げるのだから、分かりやすくなるわけがない。
と、つい悪口が長くなったけど、私の理解した範囲で要旨をまとめると、
~
他者との接触は私に痛みをもたらすよね。
でもそれを芸術作品に託すことで、目に見える形にして、人に伝達できるのでは。
そういう試みが視覚芸術のなかに確かに存在しているし、松井自身の制作も、その系譜に連なるんだよ。
~
こんな感じでした。
この系譜の探究として、河鍋暁斎とかダミアンハーストとかクリスチャンボルタンスキーとか色々な作品が挙げられ、分類され、その流れで自作解説も行われる。(ちなみにその分類の名前は「攻撃性自己顕示実践型/受動性自己犠牲変容型/局地的領域横断型」。一貫した中二感。)
余計なお世話だけど、「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」というタイトルでは全然内容を表せてない(うえにそもそも日本語としておかしい)ので、まともに修正するなら「痛覚の覚醒を企図する視覚芸術の系譜」ってところでしょうか。
私の記憶する限りでは、「不可避」の部分が講演のなかに出てこなかったので、もし質問コーナーがあったらお尋ねしたかったのだけど、むしろ講演の後半は時間が足りなくなって、松井さん自身の話さえだいぶ端折られてた。残念。
ちなみに私の同行者は、「全体としては難しくてよく分からなかったけど部分部分は面白かった」とのこと。例えば、ある作品に描いた孤独な幽霊が、少女コミックの主人公のようなものだという話。少女が運命の相手に出会うために奇跡を待つのは、逆に言えば奇跡なしには出会いが存在しないということであって、そこには極めて近代的な「ディスコミュニケーション」があらわれている、とか。
私は正直、講演の内容自体にはこれといった感想を持てなかったんだけど、にもかかわらず彼女に対する印象は大きく変わった。
松井さんの文章は、中二病的だ。見た目には間違いなく中二の文章だ。でも、彼女がそういう文章を書く理由は、いわゆる中二病とは大きく違うんじゃないか。講演を聴いてるうちにそう思えてきた。
自意識過剰の中学生は、全力でカッコつけて(実はカッコ悪い)文章を書き、しかもそのカッコつけた自分に酔っている。
一方、松井さんは、無理やり日本語をねじまげて珍妙な言葉づかいをすることを、ある意味でむしろ強いられてるんじゃないか。そうでもしなければ、彼女が何を言っても「美女の言葉」として消費されてしまって、結局何ひとつ表現することができなくなってしまうんじゃないか。
彼女は、整った顔立ちの、いわゆる美人だ。私は、平たく言えば、「どこかで過剰に武装しないとなめられてしまって、男と対等に見てもらえない、それが嫌なのかもなあ」、と思った。感覚的な話だけど、堅苦しい言葉をたどたどしく話す彼女を見ながら、思ったのだ。
彼女は講演の中でも「メスしか描かない」と言っていたし(尾長鶏はオスだけどドラァグクイーンのイメージなので名誉女性と考えているとのこと)、ネット情報によるとフェミニストの上野千鶴子さんのファンらしいから、性に関する問題に強い意識を持っているのは確かだろう。(※追記:フェミ関連の話としては、http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20090709/1247140423、などがある。)
ただまあ、こんなふうに分析されるのは、たとえこの分析が実情を言い当てていたとしても(いやむしろ言い当ててていればこそ)、松井さんの立場からすれば不快以外の何物でもないだろう、とは思う。
残念ながら私には、松井さんの作品自体をフェミニズム絵画として論じるだけのモチベーションも能力も無いけれど、そういう見方もできるのかもしれないね。というかできるんだろうね、間違いなく。
長くなったついでに一つ。
私見では、松井さんは「言いたいことが山ほどあるけど上手く表現する技術がない人」だと思う。だからあんなに自作解説をしたがるのだ(いまネットで少し松井冬子評を探してみたら、彼女の自作解説にヘキエキするという人は一定数いるようだ)。 結果、彼女のファンは、「よくぞそれを言ってくれた!(技術はともかく)」というタイプの人と、「グロテスクな絵を描いて、博士号を持ってる、美人すぎる日本画家! おもしろい!」というタイプの人に分かれることになる。あとまあ、「幽霊大好き!グロ大好き!」という人もいるのかもしれない。サブカル?
私自身は、特に彼女に同調するわけでもなく、外見や肩書に魅力を感じるわけでもなく、幽霊が好きなわけでもない。そして彼女の文章を容認できる忍耐力もない。
だいぶ前にあるテレビ番組で取り上げられていた女性画家について思ったことを書いてみる。
以前民放でも取材されており、それを見たときは、「暗い絵だな。」「タイトルが思わせぶりだな。」という程度であった。たださらに前に、週刊誌で注目の美女とかいうテーマの各界で活躍している若い女性を取り上げている中に、女優然とした雰囲気でたたずむ女性がひときわ印象的で名前は知っていた。
一般に容姿が重要視される職業以外に就く女性が、通常レベルと思われているものよりやや上だと途端に「美人何々」と評されることがよくある。これは、褒め言葉というより、女性を貶めているように感じるのだが、それはひとまずおいておく。
この「美人画家」は、そこそこ売れているらしい。女性画家といえば、片岡珠子、小倉遊亀、マリー・ローランサンなどが浮かぶし、彫刻家ではカミーユ・クロディーユが浮かぶのだから、まあ絶対的な数は少ないが存在しないわけではない。特に絵画、彫刻について学んだことがあるわけでもないごくごく素人なので、今回取り上げられていた画家の作品についての良し悪しについて語る資格はない。
驚いたのは、彼女の衣装である。
どれもファッション誌から抜け出たようなのである。上背もある方らしく、着こなせるということもあるのだろうが、どれもが一枚の写真に収められることを考えていることが見て取れる。ああ、洋服とは身体で着るものなのだと思わせるにはあまりある。
番組全般で見られることを完全に前提とした洋服選びと言っても過言ではないだろう。生活感を感じさせない。当然、テレビカメラが入っているのだから、万人に見られるという意識はあるだろうから、当然と言えば当然だ。
最初にのトリエでの姿は、ヴォリュームのある濃いグレーのローゲージニットに黒のハイソックスに黒のミニスカート。髪はポニーテール?というのだろうか、トップでまとめている。
自分について語るときは、長い髪をおろし、巻いているのだろうか、タレントとして活動している某姉妹の姉のように、ゴージャスでアイメイクが強い。
教授の研究室を訪れる際は、髪はまとめているが、くっきりと濃いメイクに、黒いミニスカート。
この時、気になったのは、入室にあたり、随分とへりくだるのだなということ。何度も小さくお辞儀をするのはエレガントには見えない。緊張していたのだろうか。
またアトリエでは、チャコールグレーとベージュの中間のようなミニスカートに太めの網タイツ、シルバーのパーカ。
彼女が学生時代から感銘を受けているという絵を観にいくときは、訪問着。とても素敵でよく似合っているのだが、勿論、年齢もあるのだろうが迫力がある。お嬢さんという雰囲気でも若奥様という雰囲気でもなく、銀座のクラブ(行ったことないけど)のママのような貫禄がある。
またアトリエでは、ロイヤルブルーを薄くした色の膝上ワンピースに黒いタイツ。
髪は緩く巻いている。しかし、なんというか体格がでかい。決して太ってはいないが、肉感的にみえるのはテレビだからだろうか。
またアトリエに教授が来訪した際に身につけているのはドレス・・・・・?ワンピース・・・?ラベンダー色のノースリーブ。昼だか夜だかはわからないが、何故またネグリジェみたいな服なんだろうと思った。大変失礼ながら、それでは高級娼婦に見えてしまわないだろうか。しかも何故アトリエで・・・。緩く巻いた髪に、濃いメイク。お顔立ちがくっきりした方。
最後は、某大学院教授との対談。白いワンピースに黒いベルト。髪はストレート、昼間の外だからかメイクは若干薄め。この教授の話し方は、さすが対話慣れしており聞きやすいスピードと明確な言葉を用いており、なるほど頭の良い方なのだろうと伝わってきた。著作を何冊か読んだことがあるが、いつも『強者の理論』の方。教授は、昼間の外には、残念ながら不釣り合いな光沢のあるジャケット。夜に演奏会にでも出かけるのだろうか。もう少し軽めのニットなどにしておけば洗練さをアピールできたのに。
画家にはちょっとがっかりした。自分の言葉で語るには充分な年齢のはずなのに上っ面をなぞっているかのようで、響いてこない。使う言葉が、下品にもとられるものだから、どうなんだろう。
画家なのだから、センスが悪かったりすればファンをがっかりさせるのだろうし、存在をアートにしたいのだろうか、番組全体を通して、いつでも寸分の隙も見せてはいけないかのような印象を受けた。
一枚の絵があって、それが世に出るには様々な方法があるのだろう。
絵はそれを鑑賞する者に言葉以上の力で迫ってくることが出来る。
しかしそれを生み出す側にどのような苦悩があるのかは鑑賞者には関係のないことだ。
なので、生み出す側が自らの作品について語る姿を見ると、私は少々げんなりしてしまう。
言葉を介在しない表現方法を以て世に出ているのだから、必要ないのではないだろうかと思うのだ。
けれど、ファンならば私生活が垣間見られるような語り口に興味を持つだろうし、より人気がある人ならば番組も作られるだろう。大衆の欲望には限りがない。
おそろしいのは、話し方や身のこなし、仕草すべてがカメラを通して、見られてしまうことだ。
人間とは、こうも無防備に己をさらしてしまうのだ。
低い声と落ち着きがなさそうな口調。カメラを前にして平静を保つことは難しいだろうが、何か少し腺病質なのかなと思わせる。また暴力的な体験もあるらしく、平坦な生活ではなかったのかもしれない。
この番組を観て、彼女の個展に行ってみようとは皮肉なことに思わなくなった。書店の画集で良いかなと。
それより彼女が影響を受けたと公言していた作品群を今後は観ていきたい。
ひとりの人間が世に出るにはさまざまな方法があるのだろう。凡人ですら日々のあれこれに思い悩みまどうのだから才あって生きる人の苦悩たるやいかに。