はてなキーワード: 絵画とは
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
今回はアニメ・エキスポ関連サイト、INSIDE AXに載っていたエントリーを紹介する。サイトがサイトだけにミクノポリスだけでなくアニメ・エキスポ全体に目配りしている、というかむしろミクノポリスよりその前に開かれた2つのパネル、「ミク・キーノート」と「ミク・カンファレンス」に関する記述の方がずっと長い。パネルの内容に関心がある人には参考となるだろう。また、コンサートで席の位置が残念だった人の感想という意味でも興味深い。
urlは以下の通り。
http://inside.anime-expo.org/ax-scoop/2011-07/ax11-mikunopolis-impressions/
ヴァーチャル・アイドル初音ミクは今年、ロサンゼルスのアニメ・エキスポ[AX]2011で米国デビューを果たした。私たちAX関係者も多くの皆さん同様、彼女がノキア・シアターで演奏を行い、彼女の製作者であるクリプトン・フューチャー・メディアとボーカロイド楽曲Pの小林オニキスがパネルを主催するという話に興奮した。私は前に初音ミクの歌う曲を少しだけ聴いたことがあったが、決して特別な印象は受けなかった。でも、ミク・キーノートとカンファレンスを聞いた結果、当初考えていたよりも多くのものをこのヴァーチャル・アイドルに見いだしたことに私は心地よい驚きを覚えた。
[アニメ・エキスポ]初日、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長と福岡俊弘(Tokyo Kawaii Magazine編集長)が主催するミク・キーノートが開かれた。伊藤はまずクリプトン・フューチャー・メディアの簡単な概要を説明し、Tokyo Kawaii Magazineが作った初音ミクとハローキティのコラボレーション(ミクキティ)を含むミクに関する少しばかりの告知を行った。ボーカロイド作品の歴史も簡単に論じられ、なぜソフトウエアのためにキャラが導入されたかも説明された。おそらくパネルで最も面白かったのは、ボーカロイド曲制作者の公式コミュニティーであるウェブサイト・ピアプロを巡る議論だろう。利用者は音楽をアップロードでき、しばしば音楽業界外部の様々な企業、例えばファッションブランドなどとコラボレートしている。伊藤は、ミクの人気がボーカロイド曲の作り手及び絵画や音楽ビデオなどの制作を助ける献身的なアーティストによって駆り立てられていると明かした。感染力のあるミク曲のビデオは、ミク人気の中心的役割を果たしている。初音ミクの製作者[伊藤社長]は多大な努力を払ってファンが何を必要としているかに耳を傾けており、ボーカロイド曲をリコメンドするMikubook(7月1日から始まったが、現時点ではベータ版である)という新たなサービスの開始も発表した。利用者はフェイスブックやツイッターからログインできる(ざっとサイトを見たけどとても素晴らしい! 今も文章をタイプしながらそのサイトの曲を聞いている)。伊藤はまた同じ声優[歌手の間違いか]を使った多数のデータベースを持つKaitoアペンドの計画も明らかにした。最後に、ボーカロイド・ソフト初音ミクを使いたいと望んでいる人のため、クリプトン・メディアの素晴らしい人々が英語版作成に力を注いでいる。伊藤はクリプトンの将来の目標は他の言語へ拡大することだと指摘した。
ボーカロイドのファンはアニメ・エキスポ2011で、1つではなく2つのパネルを味わうことができた! 2日目に開かれた2番目のパネルは、小林オニキスとクリプトン・フューチャー・メディアのマーケティング・ディレクター佐々木渉が参加したミク・カンファレンスだった。2人は小林がどうやって彼のヒットソング、サイハテを制作したのかと、初音ミク英語版に対する人々の関心度合いについて話した。佐々木は、ミク英語版で英語ボーカロイドソフトの品質を高めるためより多くの音素パターンを録音していること、及びもし販売が好調なら将来はアペンドソフトの追加も考慮することを明らかにした。一つ明らかになった特に興味深い事実は、ボーカロイドソフトには性別の設定はなく、企業の作ったキャラが女性だと認識されているに過ぎない点だ[つまり初音ミクは実は男の娘かもしれないってことですね、わかりたくないです]。
2日目はまたミク・コンサートの日でもあった。言うまでもなくノキア・シアターは取り囲む長蛇の列でいっぱいになり、ダニー・チューの紹介が始まってもなお人々は入場中だった。わけてもケミカルライトはあらゆる場所で見かけた。ミクノポリスのセットリストは、その大半が日本の39sコンサートと同じだった。ただリンとレンのペアは1曲だけ。残念ながら私は遥か左側、巨大なスクリーンの真下にある一階席に座ることになった。ミクが見えたのは彼女がずっと左に寄った時だけで、彼女が右側へ行くと姿が消えてしまった。中央か、おそらくはそこから少し外れたところに座った人は、ミクを見る最高の視点を得られただろう。私はミクを見るためテレビスクリーンに頼らざるを得なかった(おかげで首が痛くなった)。テレビスクリーンが常に100%、ミクに焦点を合わせられた訳ではなかったのは残念だった(でも映像に焦点を合わせるのがとても難しかったのは理解できる)。ありがたいことに弦楽器とバンドによる素晴らしいライブの眺めは堪能できた。音楽は最高で、演奏もよかった。ミクに遅れずについていった演奏家たちには当然ながら拍手を送りたい。端的に言えば、1時間15分のコンサートはファンとイベント主催者の協力によって活力と興奮に満ちたものになった。簡単には忘れられないコンサートになったのは間違いない。
ボーカロイドに満ち溢れた2日間の体験を終え、バーチャル・アイドルのミクについての認識と理解をもたらした祝宴の後、私は午前3時にベッドに倒れ伏した。驚くべき量のコンサート計画、及びボーカロイド作品と連携したクリプトン・フューチャー・メディアと他の企業による多大な努力が、ミクの米国デビューを成功に導いた。ミクがまたいつか訪れることを期待しよう!
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初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。
共通言語っていろいろなパターンがあるんだよね。音声や効果音、文章表現にも絵にも現れてる。
そういった共通言語を、人はいつ覚えていくんだろう。他社との交流がないと、それって学べないよね。
そういう意味において、テレビってすごく啓蒙的というかコモンセンスを育むための重要なツールになってると思う。
ただ最近のテレビの何が深いかって、無闇矢鱈と言語での反応を聞かせてくるところにあるんじゃないかな。
笑い声とかならまだいいんだけど、タレントが結果として解説を挟んでくる様式になっているのがうるさいんだろうな。
昔やってた珍プレー好プレーとか、めちゃイケなんかだと、視聴覚的記号表現をうまく使ってると思う。
ああいう番組編成のほうが個人的には好きだなー。結局そんなに見ないわけだけど。
まあテレビの表現はさておき。漫画とか小説とか絵画とか、それを消費する対象が個人である場合、どのようにコモンセンスは育まれるんだろう。
だってその消費を同時期に一緒に体験する他者がいないわけでしょう。それでも大体分かることがある。
いや違うなあ。これは厳密に共通言語を対象にしているわけじゃない。というか、テレビの時に上げた共通言語とは別物のことを意識してる。
もちろん、テレビと似たような共通言語もある。でも、それとは別に、その表現物と消費者との間に接触を重ねるごとに生まれる共通言語というものもあるんじゃないかな。
いわば、個人と表現物との間に生まれた共通言語だ。個人と他者という横の広がりではなく、個人と対象物という縦のつながり。
むろん、そう言ったつながりが様々な表現者の間に広がって横に広がることもあると思う。ガンダムや東方などに見られる同人活動における解釈の共通性みたいなものだ。
共通言語の閉鎖性。言葉や解釈って閉じていれば閉じているほど面白いものになるんじゃないかなあ。傍から見れば腐臭を放っていたり理解出来ないものになるんだろうけど。
むやみに共通化しなくてもいい気がするなあ。
一貫性もクソもないな。終わり方がわかんない。
アメリカでは、母が転落死した子供が、人形でその様子を再現した。
子どもたちはときに、大人が考えつかないほど残酷な行動をとる。
だがけっして、子どもたちがおかしくなったとだけは思ってはいけない。
非言語的なコミュニケーションを中心としたプレイセラピー(遊戯療法)やアートセラピー(芸術療法)では、人形遊び・粘土細工・絵画・ゲームを用いた創作行為(表現活動)によってカタルシス(感情浄化)の効果を引き出し、虐待状況を遊びの中で再現することによって自己洞察(アウェアネス)を深めていきます。トラウマの問題を解決する為に実施される遊戯療法(プレイセラピー)を、「トラウマを受けた後に適用する遊戯療法」という意味でポストトラウマティック・プレイセラピーと呼ぶこともあります。その場合には、室内の安全性と玩具の選択が十分に配慮されたプレイルームで遊戯療法を実施し、子どもの内面的な感情や虐待的な家族関係を『遊びの内容』で象徴的に表現させるように工夫します。
どちらの事例も照らし合わせると、奇妙でおぞましい遊びではなく、子供たちが、トラウマを克服しようとしていることがわかる。
肉親を失う、たくさんの人が死んでいく、そういった過酷な状況は、大人ですら平静でいられない。
精神の平衡を乱し、一時はふさぎこむだろうし、そのまま立ち直れない可能性もある。
子どもなら、なおのことだろう。
同じトラウマに対し、ある人は泣き叫び、ある人は怒り狂い、ある人はふさぎこむ、というように、人は実に多様な関係を築く。
今回の地震では、多くの人の日常が、命が、はかなくも崩れ去った。
受け止め方は、さまざまある。
いや、言ってることは正しいと思うし、博士号取得者は教養人であり文化人であり専門家であれ、という考え方はおおむね賛成。
というか俺もそうなりたいと思って専門の研究以外に文化活動も趣味でしている。
文化人って希少価値だーステータスだー、って感じで、貧乳みたいなもんなんだよ。
優れた絵画と一緒なわけ。
それを国家として量産してどうするの? と思う。
国家として余裕があればそれも一興だよ。
科学技術で押し切らなければ日本は国家として成りゆかないわけで、いやウソ、ごめん、本音いうとやっぱどうでもいい。
それが一番のポイント。
だから、ポスドク問題だろうが、就職できなかろうが、がんがん博士を増やして競争させたらいいんだよ。
そして一握り残るバリバリの研究者は、その十倍屍を作ったって国家として価値があるわけ。
そしたら日本は国力を保つし、研究の一線から脱落しないし、そしたら我々研究者は失職しないわけ。
だから、元増田が言うような、「屍を作らず文化人を作ろう政策賛成」案は、はっきり言って自分が当事者の博士課程の学生だから言ってるように映る。
自分のなりたい文化人像と政策の大義名分がたまたま近かったってだけ。
そんな文化人なんて、なりたいやつはほっといても勝手になるんだよ。
政策で芸術品ばっか作ってどうするのよ。
結論:
世間が求めているのはCカップの美乳。
昔情報系の専門学校にいたとき、先生から「ループの書き方」を教わった。
ほとんどの人は、「ループの書き方」を覚え、「ループを書け」と言う問いでは点を取ったが、
「1~100の数字を合計する」問題でループを使用した生徒は少なかった。
もちろん、これはレベルの低い話ではあるが、しかし「天才性」のような話をするには向いている。
「天才性」のような要素は、評価の範囲が狭いときには余り目に見えないのだ。
ループを教わったものがループを書ける様に、狭い範囲では隠蔽されている。
テニス・ピアノ・絵画なんでもいいが、「天才性」というのは、才能への評価の幅が広がったときに、次々に評価されていく。
周りは対応できたが、自分は対応できなかった、と言うだけの話を、「すごい奴の中に入ったから相対的にダメに見える」と評価すると、見誤るように思う。
育った時代を共有していることでの仲間意識を軽視していない?
同じ作家が好きであるとか、似た政治思想を持っているとか、同じ種類の音楽を好んでいるとかと同じくらい、
もしくはそれよりずっと強い繋がりの可能性を、「同じ世代である」という共通項は持っているよ。
同じ年齢でインターネットに出会った、同じ年齢で携帯電話を持った、同じ年齢で動画サイトやソーシャルゲームと出会った。
あるいは同じ年齢で地下鉄サリン、9.11、リーマンショックを感じたわけで、「就職氷河期」という同じ問題まで共有している。
年齢は、出会い厨的な感覚を除いたうえでも、かなり重要な要素。
年金の話なんかを父親としても、「勝ち逃げできるかできないかギリギリの世代」としてのポジショントークしか聴けず、
「負け確定世代」の私とは話が成立しない。
世代が違う人と価値観を共有することについて、私は絶望している。
よい絵画、映画、小説などの古典作品について語る上では世代は関係ないが、自分の人生や生活に関わる部分では同世代と話したい。
中年や老人の人も、体力的な衰えや病気の話は同年代としかできないでしょう。
なるほど、ショーペンハウアーはためになりますね。っていうか、武者小路実篤が「ためになる」ってのもスゲーけどな。
男が男にチンコをぶっこみ、サディズムマゾヒズム趣味全開で突き抜け、当時発禁処分を食らって有害図書認定された
アポリネールが「健全でためになる」んですか。いやすげー、意味がわかんねぇ。
ホモのおっさんが書いた処女への憧れを「健全でためになる」と読むわけですか。
「お膝に女の子乗せててたら射精しちゃった。でも聞いてよ、その子ビッチだったんだよ?」で有名な
芸術とゲームの間に線引きとかムリですって。アートとエロ本の区別くらいムリ。
まぁ、つまるところ芸術なんて社会がそれを芸術とみなすかどうかだけで線引きされてるし、
まずは読んでみてください。
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『とんねるずの、もじもじくんっていうのが
ありますよね。
つるんとした服着てるじゃないですか。
みんなが、あの服なんですよ。
なんか、未来社会みたいなんですよ。
だけど、よく見ると、同じじゃないんですよね。
服のカタチは同じなんだけど、素材がちがうんですよ。
銀色のやつと、
あと、毛のやつと、二種類あるんですよ。
YとIさんと、あとAは、銀なんですよ。
そいで、ASさんとか、Oさんとか、イトイさんとかは、
毛なんですよ』
なに言ってるか、わかりますよね。
早い話が、夢の中の未来人は、おんなじように
もじもじくんみたいな服を着てるけれど、
銀のやつと、毛のやつがいる、と。
ドクターペッパーが好きだったり、
ゲームがすごく好きだったりする人が多いわけ。
一方、毛のやつは、8ビート系というか、
けっこう、この「トダの夢」ってやつは、
ぼくらの周辺ではうけていましてね。
銀と毛、という対比は、
けっこういろんなシチュエーションで、活用できるんです。
銀と毛のちがいはあるわけですよ。
椎名林檎は、銀を飾りにつけた毛、でしょう。
宇多田ヒカルは、毛がついた銀かなぁ。
北島三郎は毛ですね。
藤あや子は、うすい毛。
パンチョ伊東さんは、これはなんと毛なんですねぇ。
イチローはけっこう銀系ですね。
飲み物でも、ビールは毛だけれど、
ごはんはもちろん毛だけれど、パンもけっこう毛。
スナック菓子は、銀です。
この銀と毛の分類というのは、
なんとなく誰でも理解できるような気がするのがおかしい。
なんで、こんなにわかるんだろう。
なにか法則でもあるのだろうか。
もともと、なにか別のスカッとした分類があったのを、
ただ、銀と毛に置き換えただけなのだろうか。
エンゲル係数が、毛係数なのかなぁと思ってもみたが、
どうやら、それもちがう。
そういうと身も蓋ももないが、
毛というのはある種、野生度と言えるのではないか。
毛だから、毛そのもの、として考えるのだ。
すね毛を生やしていたら、毛度は高い。
すね毛を剃っていたら、毛度は低い。
すね毛とは何か?毛とは何か?
それは、「毛もの=獣」度のバロメーターである。
(ほぼ日から抜粋)
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ひっきーへ。
もしホンモノの毛を手に入れた日には、
アメリカでも成功できるかもしれないね。
何が成功か私はしらんけども。
(私は何様だろうね)
毛ふさふさのひっきーの歌、
こりゃあ、聞いてみたいわいな。
ところで、毛を生やすには何をしたらいいんだろうね。
おもいきし誤解されるもんなあ。
なんせ、馬鹿な世間様は見た目からしか判断できないもので・・・。
もし旅にでられるなら、
そう言う意味で、ひっきーの言うとおりつぶやきながらするのもいいかもよん。
生えるといいねえ。
じゃのん♪
???より。
http://www.cric.or.jp/db/article/a1.html
第五款 著作権の制限
(私的使用のための複製)
第三十条 著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
一 公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器(複製の機能を有し、これに関する装置の全部又は主要な部分が自動化されている機器をいう。)を用いて複製する場合
二 技術的保護手段の回避(技術的保護手段に用いられている信号の除去又は改変(記録又は送信の方式の変換に伴う技術的な制約による除去又は改変を除く。)を行うことにより、当該技術的保護手段によつて防止される行為を可能とし、又は当該技術的保護手段によつて抑止される行為の結果に障害を生じないようにすることをいう。第百二十条の二第一号及び第二号において同じ。)により可能となり、又はその結果に障害が生じないようになつた複製を、その事実を知りながら行う場合
三 著作権を侵害する自動公衆送信(国外で行われる自動公衆送信であつて、国内で行われたとしたならば著作権の侵害となるべきものを含む。)を受信して行うデジタル方式の録音又は録画を、その事実を知りながら行う場合
2 私的使用を目的として、デジタル方式の録音又は録画の機能を有する機器(放送の業務のための特別の性能その他の私的使用に通常供されない特別の性能を有するもの及び録音機能付きの電話機その他の本来の機能に附属する機能として録音又は録画の機能を有するものを除く。)であつて政令で定めるものにより、当該機器によるデジタル方式の録音又は録画の用に供される記録媒体であつて政令で定めるものに録音又は録画を行う者は、相当な額の補償金を著作権者に支払わなければならない。
私的複製については絵画も同じように可能では?
自分は評価に値しないと思ったものが、多くの他者にとって評価されるものだったという作品に対してと、
他者が共有できる何かを自分が持っていない疎外感に対する嫉妬や苛つきだろうが、
語りえないものって、ただの妄想だろ?
それが全て。
他のツリーで色々並べてるのもいるが、音楽や絵画や文学といった「感性」から出力されるものは、
それを受け取る側次第のものだと認識していればいい。
共感だとか連想だとか、それによって反応させられた個々人の中のものが重要なのであって、
発信する側の「発信するもの」はただのきっかけでしかない。
言ってみれば彼らのそれは、人に何かを想起させるだけの要素を込める技術みたいなもの。
当然ながら、そのための基礎技術は必要。
どういう手段をもって表そうとしているかによって必要なものは違う。
純粋に技術面での評価がされる部分と合わせ、そういうものとは別に評価されるのが、
それが多くの人にとって何かを想起させるスイッチたりえたかという部分。
ただ単にストレートなキーワードを発すればいいというものでもない。
特定の方向性を持って想像できる余地がある、誘導されるというのが重要だから。
曖昧、抽象的、婉曲的に表現される部分こそ、一番のポイントと言っていい。
勿論反応しない人だっている。
その人のスイッチたりえなかったというだけ。
趣味、嗜好、思想、理念、感性、経験、反応しない理由もまた人次第。
何も感じなかったものだったからといって、
その作品に落ち度はないし、その人にも落ち度はないのだから、噛み付くことはない。
いや、言葉にできないなら言葉にする必要はないよ。どうせ他人には正確に分かってもらえないんだし。
印象的な言葉は無理に言おうとすると途端にくだらない価値観しか語れなくなったり、意味不明になったりする。
だからそういう感情は自分の胸の中にひっそりと秘めておけばいいよ。出してはいけない。
それと蛇足ながら例に追って反論するけど
演奏の感じって何?音響だとかリズムだとか、観測できる事実以外の「何か」を抱くの?有り得ない。
絵画のそれぞれの色の美しさや、それがまとまったときの色彩感は?
すばらしさとは?色の美しさとは?
うわ、なんでも言語化できる人がここにいるよ! しかも勉強不足とな。すげえやwww
思考を全部言葉にできる特殊な才能を持っているか、言語化できるような思考しかできない硬直クンか。
前者だとしたら今すぐ売れっ子文筆業になれるよ。増田に書いてる場合じゃない。
後者だったら……育ち方を間違っちゃったのか、育て方がまずかったのか。あるいはまだ経験がなく若いのか。
あなたのやっている「お勉強」はすべて言語化できるものなのかもしれないけど、
(小学1年生の教科書はたしかに言葉にできることしかないよね)
世の中には言語化できないことなんて山のようにあるんです。
音楽の演奏の、技術が優れているとか音色がいいとか一丸となっているとかのほかに、
絵画のそれぞれの色の美しさや、それがまとまったときの色彩感は?
評論家は一部を切り取って見せることはできるけれど、決してそれが全部ではない。
大手企業に勤める両親、一軒家に住み、そこそこいい車に乗り、犬も飼ってみる。
子供2人は幼い頃にピアノから絵画、スポーツまで習わせ、中学は有名私学。
絵に描いたような幸せな家庭。
今はそんなの送りたくても送れない時代だけどなー
奨学金と言っても利子のつくもので、合計480万の借金と考えて良い。
そんなに借りてると結婚相手がいないぞ、と。
自分1人で暮らすのであれば、多少辛いかもしれないが
なるほど、確かに多額の借金を抱えている男と結婚したがる女など一握りだろう。
だが俺はそもそも結婚願望が無い。
大手企業に勤める両親、一軒家に住み、そこそこいい車に乗り、犬も飼ってみる。
子供2人は幼い頃にピアノから絵画、スポーツまで習わせ、中学は有名私学。
絵に描いたような幸せな家庭。
昔から俺はそんな理想的な両親みたいな人生は、絶対に送りたくなかったのだ。
俺は毎日深夜にランニングして、休日は音楽を爆音で聴きながらマンガを読む。
それだけで十分に幸せなのだ。
結婚も子育ても嫌だ。母親みたいな女と一生過ごすのも、俺や姉みたいなガキを育てるのも嫌だ。
なにより俺が親父みたいになるのが嫌なのだ。
老後に寂しいかもしれない?
そんなに長生きしたくねーよ。
明日から煙草でも吸ってみようかなあ