はてなキーワード: 絵画とは
九州国立博物館の展示名が「盗作」と訴えられている件について http://mainichi.jp/select/news/20130917k0000e040212000c.html
はてぶコメントを読む限りでは、ロンドン大の教授がやり過ぎではというコメントが多い。イギリスの大学で勉強をしている身としては、何を「盗作」とするのかについて、日本とイギリスで感覚にずれがあるように感じる。
イギリスのアカデミアでは「剽窃」についてとても厳しい。これは大学教育の最初の段階でとても厳しく教えられる。レポートや論文を書く際、「他の人の文献」を引用をしたら必ず出典を明記する、というのは当然だが、「他の人の考え」を引用した場合にも必ず引用元を明記しなければならない。学会や授業の講義で得られたアイデアはもちろん、親しい友人のアイデアであっても、原則として引用元を記せ、と私の大学では教えられた。そして、自分のアイデアが盗まれないように、誰に何を話したかはメモを取っておくように、と。
今回の一件について、ロンドン大学のスクリーチ教授が所属するアジア・アフリカ研究学院(SOAS)にももちろん剽窃について決まりがあり、「他者の考えや言葉を自分のもののように表現する事は避けなければいけない」と記載されている。http://www.soas.ac.uk/languagecultures/studentinfo/plagiarism/
日本人の感覚からすると、「視覚革命」と「江戸絵画」が一緒に使われる事ぐらいあるでしょ、と思うかもしれない。しかしイギリスにいる感覚では、あまり一般的でない言葉をくっつけて(「視覚革命」なんて日常生活で使わないでしょ)、しかも本と同じような内容の展示のタイトルとして使っちゃったら、剽窃を疑われても仕方ない。
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223
特定を恐れずに、その経験談を書いておこうと思う。
400文字詰原稿用紙のレポートを何度も書かされた。学校までの道案内や入学式の報告といった、無味乾燥としたレポートだ。
その400文字は、先生の厳しい添削で真っ赤になるのが常だった。
まともな文章をたった400文字すら書けない。その現実の中で僕らはもがいた。
本を読んだ。
プラトンから「神々の指紋」まである推薦図書のリストがあって、半分は読んだと思う。(神々の指紋は残念ながら読んでいない)
村上春樹や吉本ばななや江國香織が好きな人が仲間内では多かった。一方で、ラノベばかり読むグループもいた。
その時期いちばん読んで良かったと思うのは、佐藤信夫の「レトリック感覚」「レトリック認識」だった。
ただ、読んで良かった、という気持ちだけが残っていて、内容は詳しく覚えていない。
50枚書くことは難しくなかった。
夏にはもう初稿が提出できて、先生にはそれなりに褒めてもらえた。
しかし、自作が何となく気に入らなくて、勝手に最初から書き直してしまった。
書き直した作品は、生徒みんなの前で罵倒された。(トラウマだ)
合計で7回は書き直したと思うけれど、何度やっても評価はされなかった。
そちらも同じように失敗した。
レポートなども合計すると、2年間で2000枚は書いたと思う。
授業では色々な人から話を聴いた。
某有名ゲームのプランニングをしていた人・女性雑誌の編集長・とある古参ハッカー・ラノベの大御所・今ではずいぶん有名になってしまった当時の新人作家……。
映画や演劇もたくさん見せてもらった。レポートの宿題が必ず付いていたけれど。
民俗学で古事記を読んだり、美術学で有名絵画から聖書のシンボルを読み解いたり、構造主義を応用して物語のプロットを組み立てる授業もあった。
教えてくれる人はみんな(出来る範囲で)熱心で、青臭い自分の言葉もちゃんと聞いてくれた。
ちなみに、小説の先生は往年の一太郎ユーザーで、ESCから始めるショートカットばかり使っていた。
キーシーケンスの組み合わせを暗記していたようで、VimやEmacsに通じるところがある。
日本語IMEについて、ATOKは使い物になるが一番良いのはWnnだ、と言っていた。その真意は定かではない。
提出ファイルにはShift-JISのプレーン・テキストを指定し、タイトルや名前の入れ方も詳しく指示していた。おそらくマクロで処理したのだろう。
ただ、提出メディアがフロッピー・ディスクだった。もう10年以上前の話で、テレホーダイの記憶が鮮やかだった頃だ。
僕が通っていた学校に限れば、環境としてそんなに悪いところだとは思わない。
当初は周囲を見回して傲慢になっていたけれど、その鼻柱は見事に折られてしまった。
客観的に言って、使おうと思えばいくらでも使える環境だったと思う。
ただ、進路が難しい。学校を出た後でどう生活を立てていくかが難しい。
卒業生の進路はそれぞれだった。
定職に就いていない人間もきっと多いだろう。
頭の良い同期は大学に転入した。
プロとして活動していると言えるのは、50人の同期の中で3〜5人だと思う。
おそらく最良の選択は、大学に転入し、標準ルートに戻ることだ。
標準ルートを知ることも大事だし、それから生活を安定させてデビューを目指せば良いと思う。
(ただし金が掛かりそうだが……)
何も知らない自分に大きなトラウマを与えてくれたのは、本当にありがたい事だ。
ただ、自我の捨て方は教えてもらえなかった。
こればかりは、学校の外で年齢を重ねてから、知るほかなかった。
某純文学系の新人賞に一度だけ送って落選した実績しかまだない。
そして、日本語よりJavaを書く時間の方が長く、それよりもD言語を書きたいと思う毎日を、無為に過ごしているのだ。
トラバでも言われてしまったけど、「学んだこと」と言いながら、学んだ技術的な内容をあまり書いていなかった。
多少参考になる部分があるかもしれないので、追記してみたい。
ストーリー構成の教科書としては、シド・フィールドが使われていたようだ。
ただ、当時はろくな翻訳が無かったらしく、教師オリジナルのテキストを使っていた。
ハリウッド流の伝統的な4分割構成が基本で、自分のアイディアをとにかくそれに落とし込み、内的整合性を保って読者に提示する技術を教えられた。
たとえば下記のような点をチェックするよう繰り返し言われた。
他にも色々と細かいテクニックについて教えられた。書くときの気構えであったり、推敲や添削の方法であったり。
今はストーリー構成の良書も多いだろうし、自分で教科書を集めて勉強できる環境も整っているかもしれない。
だから、自分で体系的な資料を集め、先生になってくれる人や切磋琢磨できる仲間を見つけ、継続的に書く環境を整えられれば、わざわざ専門学校に行く必要は無いだろう。
専門学校などという人生を浪費する施設より、週末の教室+Webでの作品発表・添削という形の方が適しているかもしれない。今の時代はきっとそうだろう。
レベルの高い卒業生の作品を見ると、内的整合性の点では下手なラノベよりしっかりしているものが多かった。
しかし、
「全体的に整合性が取れていて、ちゃんとした盛り上がりがあり、伝統的な構成に従って無駄なく構成できているか?」
という問題と、
「それが商業的に売れるか?」
というのはまったく別の問題だ。
商業的消費はたぶん非体系的な世界で、体系的技術がそれにどこまで寄与できるかは分からない。
とあるデビューした卒業生の処女作は、内的整合性など何も考えていない、次々と新しい要素がひたすら出現する怪作だった。
その一方で、しっかりした技術のある人が、なかなかデビューの糸口を見つけられないでいる。
ちゃんとした構成や一貫性よりも、変に魅力的な脇役が愛されたりするのが商業の世界だ。
特に日本において、消費者は全体よりも部分を好む傾向が強いと思う。
そして、部分で受けることを狙うのはかなり難しい。
部分を愛する文化というのはきわめてハイコンテクストな文化で、普遍的・一般的な技術が原理的に存在できない気がする。
それは様式美に満ちた世界で、日本の文化はそういった様式美の継ぎ足し・連続で出来上がっているようにも思う。
こういった事は加藤修一の「日本文学史序説」に素晴らしくまとまっていて、とても面白かったので、創作に関わる人は序章だけでも全員読んだ方が良いと思う。
マンガもゲームもアニメもラノベも全部これで説明できるし、将来的にどんなものが日本で流行するか判別する目安にもできそう。
以上を要約すると、ちくま学芸文庫から上下巻で出ている加藤修一「日本文学史序説」を3000円で思い切って買おう、それを読めば専門学校に行かなくても大丈夫、場合によってはラノベを書かないで済ませられるかもしれない、ということだ。
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
話題になっているので読んでみたが、いろいろと衝撃だった。
http://anond.hatelabo.jp/20130813213536
それからこれを読んで、ああ、なんか近いなと思った。
この手の話題は、こどもを持った今、ますます考えさせられる。自分がこどもに与えている環境は、一体どういったものなのか。
家庭で話題になること、親のすること、家にあるもの、すべてがこどもに対する環境である。こどもの世界はとても狭く、そこから受ける影響は計り知れない。それを気にしているかいないか、というのはとても重要なことだと、今本当に思う。
私 自身は、超とは言わないがまぁ高学歴一家に産まれた。いつからか知らないが、医者の家系だ。父の兄弟はみんな医者もしくは医者の妻であり、妻たちはたいて い薬剤師だ。母も大卒の高校教員だった(結婚するまでの数年だけ)。父方のいとこたちは当然、みんな医者で、女であれば医者との見合い話が転がり込んでく る。医者にならず医者の妻にもならなかったのは私と兄だけだ。
母方のいとこたちは医者プレッシャーは特にないが、大学を出て一流企業に勤めたり公務員になったりする人から、引きこもりまで様々だが、親の世代はみんな女でも大卒だ。当時にしたら高学歴ファミリーだと思う。
こんな家系に産まれたので、当然私と兄にも医者になれプレッシャーはあった。プレッシャーというより、医者以外の職業をほとんど知らなかった。だから『なり たい』という気持ち以前に「大きくなったらお医者さんになるんだろう」くらいに思っていた。親戚のおじさんおばさんにも「何科がいいのかな? 皮膚科なん て楽って言うわよ」とか「お医者さんの奥さんになるのね」とか、もうそれ以外の選択肢は全くみんな頭の中になかった。
私の産まれた街は田舎 なので、私がこどもだった30年くらい前には自営業以外はほとんどいなかった。そもそも、いまでいうサラリーマン的な人が働く職場はなかった(と思う。少 なくとも当時の私には見えていなかった)。何屋さんのなんとかちゃん、みたいな感じで、家業とその家の人が結びついていた。街中の友人の実家はみんな何か 家業をしているし、ちょっと離れたところはみんな農家だ。たまにお父さんが外国にいて帰ってこない家があったが、それが「商社の駐在員」である、というと は、これっぽっちも知らなかったし、知っていたとしてもきっと「しょうしゃのちゅうざいいん」のしごとが具体的にはわからなかっただろうと思う。お父さんがテキ屋さんで「こようそくしんじゅうたく」に住んでいる友達もいたが、その子と遊ぶなと言われる意味が分からなかった(のでもうしょっちゅう遊んでいた)。
今 大人といわれる年齢になって、いろんな人と出会い、ようやく世界にはいろんな仕事があり、いろんなルートでそうなれる、ということがわかってきたが、こど もの頃の私には「医学部にいって医者になる」「法学部へいって弁護士になる」「薬学部へいって薬剤師になる」「家を継いで○○屋になる」ほかは、あまりピ ンと来なかった。それ以外の世界との接点があまりにも少なかった。
今話題の「低学歴の世界」と同じく、おそらくは「高学歴の世界」の住人だったが、それ以外の世界について知る機会もなければ教えてくれる人もいなかった。
人 生の転機は小学校のとき。父が死んだ。父は開業医だった。残された母は、親業も家事もとことん 苦手だった。家の掃除も出来ないので、父の死後もずっとお手伝いさんがいた。私の世話もお手伝いさんの仕事だった。ゴミの分別も出来ないので、全部まとめ てゴミ袋にいれ、ずっと自宅に清掃業者がゴミをとりにきていた(有料)。道ばたにあるゴミ収集所が無料で使える市のサービスだと知ったのは高校生くらいの ことじゃないかと思う。
それでも私は自分の家は超貧乏だと思っていた。なぜならお金を稼いでくる人が死んでしまったのに、母が無職のままだ からだ。公立の学校もお金がかかっていると思っていた。保険金とか、遺族年金とか、寡婦年金とか、全然知らなかった。学校ではうちが母子家庭だと知った先生に「生活保護を受けたらどうか」と言われて(そのあと「お父さんはなにしてたの」「医者です」「あ、それは失礼した」というやり取りがあった。)そ れを母に言うと、うちは生活保護は受けられない、と言われた。中学から新聞配達のバイトをしようと、新聞屋を回ったが、何処もやらせてくれなかった。高校 に入ってすぐバイトをはじめた。いつも飲食店で働き、食費を浮かせた。そして、父の残したわずかばかりのお金を食い尽くすだけのニート母にものすごい嫌悪 感を抱いていた。あるいは借金もあるかもしれないと思ってびくびくしていたし。家族旅行は父が生きていた頃もお正月に近場の温泉に一泊するくらいだったし(開業医だったので学会などの出張時に代理の先生が頼めるときしか家から離れられなかったらしい)、父が死んでからはそんなことはしたことがない。仲の良い友人たちから家族旅行の話を聞いたり、留学した友人たちを見て、いいなぁ、お金がある家は、と思っていた。
私自身は、高校は田舎なりの公立の進学校に進学したものの(田舎なので公立のほうがレベルが高く、私立は滑り止めという扱 いだった)、大学には行かなかった。家は超貧乏だと信じ込んでいたので、国公立で年間80万円くらい、4年で300万円以上の学費、それに生活費。そんな お金なんてひねり出せないと思っていた。当時は、今だって毎日バイトしたって月に数万円しか稼げないのに、学費生活費を全部自分で稼ぐのは到底無理だと思ってい た。今となればなんと視野が狭かったんだろう、自分でリミットを決めてもったいない、と思うが、当時はそういう風には考えられなかった。母には「医者か弁 護士になるなら投資するがそうでないなら大学へ行く必要はない」と言われた。投資する気はない、と。「あんたはどうせ医者にはなれない」。母はよくそう いっていた。
投資ととらえるととてももっともなのだが、当事者かつ思春期の娘としては、これはとてもやる気を削がれた。彼女はこどもを投資物件ととらえており、さらに医者か弁護士以外は価値のない人間だと言っている。そして娘は投資対象として適切ではない、つまり価値がない。
こ どもが育つ上で一番大切なのは『無償の愛』を感じられるということらしいが、そういえば私に注がれる愛情はいつも有償だったなと、今になって思う。プロセ スをほめられることはなく、絵画で賞をもらっても、賞をもらった絵ではなく賞状をあがめられた。賞状だけ集めていれるファイルはあったが、その肝腎の絵を とっておく仕組みがなかった。学校の成績で上位何番以内に入るといくら、というのもあった。勉強はお金をもらう為のものだった。
こういうのも、環境の一部だ。
私はこういう環境から、自分は価値がない、というメッセージを受け取り続けてきたのだろうと思う。これは自分のこどもには絶対にしたくない。
と、話はずれてきたけれど。
まぁ、そんなわけで、私は高学歴一家の中の落ちこぼれである。ただ、落ちこぼれたと言っても、やはり「低学歴の世界」の話をブログで読むと衝撃だったけど。落ちこぼれたおかげでかどうか、いろんな人たちに会い、いろんな世界を知り、選択肢は沢山あるのだなぁ、というのを今になって感じで来た。高学歴の世界の住人たちとも付き合いがあるけれど、最初から高学歴の世界の住人だったひともいれば、そうでないひともいる。全くの低学歴ででも、高学歴の世界にすっとなじんでいる人もいる。本当にいろんな世界で育って、いろんなルートで、今そうなっている人がたくさんいる。
あのままあの世界にいたら、親戚友人知人は医者だらけで、自分も医者になっていたか医者と結婚していたのだろうと思う。そちらがよかったかどうかと言うと、どうもそうとは思えない。それは高学歴の世界が嫌だというのではなく、あまりにも選択肢が狭いためだ。
こ どもの頃は世界が本当に狭かった。職業は医者弁護士以外にも選択肢がたくさんあったし、医者弁護士になれないからと言って人生終わったわけで はない。高校は基本学区内で一番偏差値の高いところに行かないと行けないと思っていたし、学校の成績で平均値をとると馬鹿だと思っていた。大学はあんな親にお金を出してもらっていくなんて胸くそ悪すぎ る、そもそもそんなお金ないし、と思っていた。でも、本当は高校なんていくらでもあるし、世界には大学まで無料で行ける国も沢山あるんだ。世界は広く、選 択肢はとても多い。
選択肢が沢山あるのだということを、こどものうちにもっと知っていたかったと思う。本当に。高学歴の世界の住人たちのなかにもほかにもきっと他の選択肢を現実的に受け止められなくて、自分の世界に適応できずに苦しんでいる人もいるに違いない。私みたいに落ちこぼれてしまえばあきらめもつくけれど、そう出来ないと自分で命を落としたりする。
高学歴であれ低学歴であれ、選択肢があることを知っているか否かは大きいと思う。こどもにとっては親とその親の作り出す環境がすべてなんだ。私は高学歴の世界の住人じゃなくなっちゃったけど、いろんな選択肢があることは伝えたい。そういうことも含めて、大人たちはもっとその環境に気を配るべきなんだろうな、自戒を込めて。
っていう人、この時期よくいるけどさ。
なんか選挙協力頼まれた人って、よく人にさも迷惑そうに話してくるけどほんとは内心嬉しいみたいな感じがするんだよね。
会社にあれやれこれやれって頼まれちゃってさーみたいなのと同じような。
旧友が久しぶりに連絡来てくれて嬉しい→実は相手には目的がありました→ガッカリ
っていうパターンなんだろうけど、普通は疎遠になってた旧友から連絡きた時点で嫌な予感しかしねぇよ!
というか絵画売るとかの俗っぽいアレと違って、ちょっと頭が足りないお人好しが世界平和や俺の幸せとかを願って薦めてくるという時点でちょっとほっこりしちゃうんだけど?
俺が今までであったアレな人がたまたまお人好しばかりだったからなのか?
でも利用されて悲しいと思うより、あぁこの人はちょっとアレだけど俺の幸せの為を思っていってくれてるんだなと思うほうが健康的じゃん。(失礼)
先に、海外ではどういった状況なのかといったことはあまり存じないことを謝っておく。
演奏会情報を見ると軒並み18C中期から19C初期の曲目ばかりが並んでいる。
同じ曲目ばかり演奏し続け、「この曲いいだろ?良い曲だから何度でも聴きたいよな?」とドヤ顔で言い張っているが、クラシック人口が減り続けているという事実は大きい。
オリンピックにおけるレスリングは、今まで鼻高々に自分の地位を主張していたが、変革を迫られている。
業界内だけで自己満足しているだけでは、オリンピックの様な大衆的な場所にはいられない、ということだ。
クラシック業界も、新しいかたちを取り入れていかなければ大衆に受け入れられ、生き残っていくことは出来ない。
絵画の世界では、大家の作品の展覧会と並んで新鋭作家の展覧会がおこなわれている。現代美術の美術館も多く存在する。
映画の世界では、先に目に入るのは最近の作品ばかりである。古典の作品は名画座など手軽に鑑賞できる施設がある。
著作権の問題も大きいのかも知れない。
最近では、2004年に著作権が切れたラフマニノフなどは、ここ数年で一気に人気を増した。
今朝、この記事↓を読んで、
http://anond.hatelabo.jp/20130518053040
なるほどな、って思ったんだけど、、、
「どれだけ金を積んでも手に入らない」ものと
「金さえ積めば手に入る」ものを比べれば、
そりゃ、確かにな、と思ったよ。
「その金額をそもそも出せない」わたしみたいな貧乏人は、
そもそも少ないんだよな。。。
(だから上記記事を読むまで、深く考えたことなかった。)
「そもそも出そうとも(稼ごうとも)思わない」っていってるが、
そこに共感するかどうかは、もう、価値観の問題でしかないんだろうな。。。
大元増田さんは値段(労力)に見合うだけのメリットが感じられない、
だからこそ、
元増田さん(http://anond.hatelabo.jp/20130518181104の)みたいに、
そこを一度通り抜けた(経験した)ひとの意見って、結構興味ある。
景色を知ってるひとの話が聞きたい。
とても素晴らしい才能を持ち、複数のコミュニティから声を掛けられている方と話した。
話の端々に自身の才能から他人を見下す発言があり、期待していた分暗い気持ちになった。
その才能から実際に利益を上げて、コネクションを多く持っているので、彼が正義なのだとも思った。
社会で求められているのは人間性ではなく、需要を満たせる才能なのだと思った。
熟々思うんだけど、「才能に惚れ込んだら、人格には惚れるな」。最っ高に素晴らしい音楽や絵画やエンタメを体現できる人は、大概頭おかしいんだよ。人格者だなんてことを勝手に期待して勝手に失望するくらいなら、才能を認めた相手の人格には最初から近付くな、と思う。
この方の言う通りだった。
人格者にはなれないし、人間関係を捨てきれないほどに才能も無い自分は
ここに今日の気持ちを書くだけなんだろう。
どちらとも伸ばすことができない、誰にも興味を持たれない人でも
思いを書き捨てられるのはグズグズとした安心感がある。
最初に、このまとめは私が実際に見学に行ったり、公園などで他ママから聞いた事をまとめたものです。
あくまで参考なので、気になる幼稚園があるのであればぜひ見学に行ってください。
また、すべての情報において2013年3月15日時点での情報となります。
周辺の小学校もほぼ同じメンバーで上がる事ができるため、友達作りを優先する方におすすめ。
人気の園なので、願書提出には2日前から並ばないといけないほど。
http://www12.ocn.ne.jp/~kinuyou/
預かり保育が月2000円と安いので兄弟居たり、仕事している方には助かります。
美術大出の先生による絵画教室、外国人教師による英会話教室もありますが、週1なので、そこをどう取るかですね。
自宅でも継続的にお絵かきや英語を教えているご家庭ならオススメかもしれません。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-shiomi/sub2-12.html
今はわかりませんが、一時は入園試験がかなり厳しく、倍率も高かったとか。
やはりマナーやお淑やかさなどに重点を置いているよう。
遊ぶのが大好きな男の子の場合、ちょっと物足りないかもしれません。
http://www.youchien.or.jp/search/01utsu/01-032.html
※Webサイトが見つからなかったので、紹介ページへのリンクとなります。
ここの園バスはSLのペイントがされていて、通園が子供には楽しくなるかもしれません。
また、制服が無いので楽と言えば楽。
ただ、園庭が比較的狭いのと、駐車場が無いのがちょっと不便かもしれません。
(農園や近所の公園などで遊んでいるみたいなので、狭いという点のデメリットはある程度解消している様子)
教育方針は運動に力を入れており、体を動かし、元気に健康に育つ事を重視しています。
お友達作りや、体を動かす事が好き・得意な子にはオススメかもしれません。
満3歳(場合によっては3歳前から)クラスあり。(年少クラスに含む)
http://www.kiyohara-midori-you.com/
園庭も広いし、体育館、アスレチックもあれば、なんと温水プールまで。
しかし、園庭とアスレチックはもう経ってから大分経過しているせいか、ちょっと危ない箇所もあり。
卒園までに自分の名前を漢字で書ける、簡単な英単語習得、九九習得が行われるようです。
あとは平出むつみ幼稚園などがあると思いますが、私が調べたうちでは他ママさんの話含め、上記の園が話によくでてきて、他の園は出てこなく、情報収集できませんでしたので割愛します。
もし間違った所などありましたら、随時変更していきますのでご指摘ください。
各未就園児親子教室ですが、有料の所もあったと思うので各自問い合わせてから参加してください。
しかし、未就園児親子教室は、その園の様子がとてもわかるので、ぜひ参加してほしい所です。
彼らの攻撃性と攻撃対象の話
http://anond.hatelabo.jp/20130131090532
法的な話
http://anond.hatelabo.jp/20130131142500
どうも、法的な話をした途端、面白いように食いついてきたようだ。そしていつも通りの「ブーメラン」「詭弁」「藁人形論法」の三種の神器である。
そして、未だに「無断転載を行っていない人間を攻撃対象にする事」については、何一つとしてコメントがない。答えたくないのか、答えられないのかは定かではない。
だが、彼らの最大の問題は、あくまで「無断転載を行っていない人間」であり、「彼らに肯定的ではない遵法主義者」を攻撃対象にし続けている事、ただ一点である。
http://anond.hatelabo.jp/20130131090532でも書かれている事だが、イラストや絵画などの「画像ファイル」の無断転載撲滅が目的であれば、テキストのエゴサーチなど必要はない。
活動の動機があくまで「無断転載の撲滅」であり、「承認欲求の充足」ではないのなら、そもそも「彼らの活動に対する評価」そのものを、定期的に検索する必要性すらないわけだ。
なぜ「法律の話」には即座に食いつくのに(もっとも、その法律知識も穴だらけなのだが)、自身の攻撃性の問題に対しては、何一つとして反応をしないのか?
「ブーメラン」だの「詭弁」だの「藁人形論法」だの「ありえない法律論」だのといった印象操作・論点外し(の事実上の逃げ)をする前に、一度でいいから真摯に答えて頂きたいものだ。
http://anond.hatelabo.jp/20130130173142
http://anond.hatelabo.jp/20130130213537
http://anond.hatelabo.jp/20130130220223
「彼らの最大の問題点は、無断転載を行っていない「彼ら自身への批判者」を攻撃対象にしている事である。」論点は、ただこの一点である。
私も(それを目指すことに、どれだけの効果があるのかは別としても)それ自体は否定はしない。
http://anond.hatelabo.jp/20130128213337
上記の日記について、「無断転載批判クラスタ」側から、度々「単なる被害妄想だ」という声が上がっている。彼らとしては「自分たちを批判する人間は、無断転載をしている当人、もしくは無断転載をした人間を擁護したい人間のみだ。「無断転載批判クラスタ」という言葉自体、そんな違法行為を行う人間の被害妄想だ!」という立場だけは、どうしても崩したくはないのだろう。(その点が、度々「単なる論点外しの逃げだ」と批判される理由でもあるのだが)
今回は、そこを重点的に、かつ手短に述べたいと思う。
「テキスト検索によるエゴサーチ」は、「無断転載の撲滅」の為に、必要な行為なのだろうか?
イラストや絵画を無断転載した人間が、わざわざ「これは無断転載してきた作品です。」と、自ら自慢をするわけがない。「無断転載という行為」そのものが、(あらゆる違法行為に共通することでもあるが)「バレなきゃオッケー」という前提の上で成立している行為だからだ。(たまにネット上では、飲酒運転や無免許運転を自慢して炎上する人間がいるが、それはまた別の問題である)
度々増田で問題視されるように、「彼らへの批判行為を行った者」を攻撃対象としているのも事実である。
それは、彼ら「無断転載批判クラスタ」が、「自らの活動に対する反応を、エゴサーチしている」何よりの証明であるとも言える。
「無断転載行為を撲滅する為」に効果的な行為だと錯覚しているのかも知れないし、単純に自分たちの承認欲求を満たしたいだけなのかも知れない。
たが「自らの活動に対する反応を、エゴサーチすること」自体、「イラストや絵画を対象とした、無断転載を撲滅する活動」には、なんら意味をなさない行為である事は、言うまでもない。
2原やらなきゃいけないのにぶっちぎってしまった。
特に私がやらなければいけないという類のものではないのだが、自分から引き受けておいて未だに手をつけていない。
前にいたスタジオからそうだ。いや、もっともっと、小学校に上がる前から私にはサボり癖がある。
自分なんていなくてもいい、自分はだめだ、なにも感じずにふと消えてしまいたい。
思えば私の夢は早く若くにかっこいい旦那様と結婚したいだとか、素敵な彼氏が欲しいだとか、そんな事が根底にあったように思う。
アニメーターの仕事などは、落書きを会社に送ったら採用されて、たまたま運良く原画になっただけの事だ。
いつもいつも片思いが実らない。腕を磨くためとの言い訳に、恋人探しに絵画塾に入塾したものの
焦らされてばかり。
あの人が私のものになってくれない。本当に欲しいものが手に入らない。
本当に、心も、体も、磨り減ってしまった。
これ以上は文章としてここに残したくない。今はこれで良しとしておこうと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20121113224421
いよいよ日本の経済史を変える大イベント、「紙幣・硬貨廃止法」が施行される。
「SUICA」に入金しなければならない。
製造が停止され、その法定通用力が失効する。
例えば、預金や株等を除いて、現金が157万3,467円ある人は、
1名1枚しかないと不便なので、最大10枚まで発行される。
受け付けられる。
さらに、公衆電話ならぬ、「公衆SUICA」なるものも、全国の
街角にお目見えする。
「じゃあ1名当たり5,000円集めますね」というシーンにおいて、
なので、そういうときのために、公衆SUICAで清算するのである。
結婚式場、葬儀場に公衆SUICAが設けられたのは言うまでもない。
全国の全事業所、及び個人で商売をする人に、SUICA端末が配布された。
八百屋で買い物してもSUICA支払、肩こりマッサージ受けても
SUICA支払、ソープランドの支払すらSUICA支払になる。
なので、
「国民は税務申告手続が一切不要になり、国税庁も職員を大幅カットできます」が
導入推進の最大理由だが、国税庁のリストラには疑問視の声も大きい。
なお、SUICAによる資金移動には、「対価情報」が必要になる。
八百屋で買い物した場合、「50円 白菜」という情報が国税庁へ。
「350円 女子大生禁断の部屋 1泊2日レンタル」の情報が国税庁へ。
国税庁は「物価調査機能も兼ねることになるので、経済運営上も非常にプラス」と
説明しているが、市民グループは「購入履歴情報というプライバシーを国家が握るのか?」と
猛反発している。
明細情報を入力しなくても有効は有効だが、それは「贈与」の扱いになる。
「甥の●●ちゃんへお年玉 1万円」も贈与。
で、贈与税が課されるのは言うまでもない。
実はウラでSUICA導入に反対したのは政治家だ、とも言われる。
「政治献金、ましてワイロがガラス貼りになっては、とても政治活動ができない」
まあ頭のいい政治家のことだ、献金じゃなくて、「対価を付けて」渡すように
なるのかもしれない。
「SUICA履歴 A建設会社からB代議士へ3,000万円 絵画購入費として」
その絵画というのは、A建設会社の社長の孫が、幼稚園で書いた絵だったりする。
このシステムのプラットフォームは「SUICA」「エディ」「ID」「デビットカード」
結局勝ち残ったのはSUICAであった。
ケータイのようなアイテムが要らない、SUICAカードだけがあればいい、というのが
勝ち残った理由、とされているが、ウラの理由は様々に憶測されている。
SUICAシステム採用と引き換えに、2037年に大事故を起こし瀕死の日本航空を
「SUICA共同体」として子会社化して引き取るように、SUICAの盟主、
JR東日本に交換条件として呑ませた、というのが真相とされるが、本当なのかどうか。
やあ。分かるやつには分かると思うが、俺だ。ネット見てると一見真面目でマトモな空間にも2ch的な低俗で野卑た対立煽りがぎょうさんひしめいていて現実から乖離した事実認識が続々と形成されているのが観察できる。
さらに問題なのはその事態を2chと同等の低俗さだと気付いて「いねえ」人が結構というか殆どだということなんだな。いま何が起きているのか、世の中や人の心の仕組みはどうなっているか、その実際の姿が見えているか、
それとも見えて「いねえ」か、その違いは凄まじく大きい。真実を洞察できる慧眼が求められている時代。冬の時代。いま、言葉の究極的な意味で「実際的」な人間が貴重。
さて。
記憶術の話なのだが、そもそも世の中のテクニック本の類は二重にワンパターン化されてしまっていると思っている。1つ目は受け手すなわち読者の問題で勝手にパクリ認定したりそうでなくともあの方法の改変か
といった形でしか物事を理解できない人間が多いこと。理解は単なる既存のフレームワークへの当てはめとする創発のカケラもない受動的な認知モデルはとっくに古くなっているのに。2つ目は書き手の問題で読者と同じくワンパターンにしか
考えられないから世の中の本はしょせんパクリだらけと「ガチで」思っているから自分もそういうパクリ本の量産に加担せんとて書くという輩である。
つまりはワンパターンじゃないミュータントもかなり混入しているのに関わらず二重のワンパターン化の力が強力過ぎて業界全体が完全なるワンパターンのマンネリの泥沼に陥っているかのように大半の人が錯覚してしまうのである。
で。
具体例を言ったところで上記のワンパターン脳には効き目が無いので具体例をあえて挙げないのが俺の習性なのだが、ここではあえて具体例を挙げる。
そうだなイメージが苦手な人もいるだろうからこうしよう。方眼紙タイプの小さなメモ帳を携帯し、そこに罫線にそってテキトーな図形を描き、その内部のマスに記憶したい事項を入れていくってのはどうだ?
ここまで聞いてなんだ「場所法」か等と思った記憶術マニアだとか別に新しくないじゃんと思った一般人だとかはこのエントリを読んでも意味がないことを保証する。
あえてこの方法について突っ込んだ説明はしない。どこが新しいのか、どこが強力なのか、など。何か新しさを感じた人だけやってみたらいい。
で。
なんでこんな話をわざわざしているかというと、新しさってそもそも思い込みを外して見れるってことなんだよな。とくにネット漬けの人。記憶術そのものはどうでもよろしい。
と言ってもネット漬けの人を俺が治せるとは思わないし、せいぜい出来るのはネットから距離がとれている人を呼びかけてネット漬けの人について何か働きかけるキッカケを与えるくらいだな。
そのくらい彼らは思い込みで支配されているしこの世界もまた思い込みで埋め尽くされてしまっているんだ。すごい音楽や絵画ってすごいのは伝わるけど何故すごいかは伝わらないんだよな。
何故が分かると言葉による思い込みが働いて新しさが欠如する。元電気グルーヴの砂原良徳もそういうコンセプトで「take off and landing」を制作したんだ。
ニュースを見て実際の有り様、つまり<実態>だな、それを確認することなく鵜呑みにするのは危険だろう?だがその罠を回避しようとしようとするフリはしつつも結局<実態>から逃げてるんだよな。
そんな時代だからこそ、自分の足で歩いて自分の目で見たことだけ信じている人間の脳のつくりはまるで異次元だよ。たとえば、大前研一氏はそういうタイプの人間だよな。