はてなキーワード: 普遍性とは
すべての始まりはイーロン・マスク。人を騒がせることしか考えないあの男は「おねショタこそが至高!」と言い放ち、旧Twitterをざわつかせた。しかし、事態はそれだけに留まらなかった。
イーロン・マスクはおねショタを推奨するため、旧Twitterであらゆるおねショタに特別報奨金を支払うことを宣言した。そして、有言実行のイーロン・マスクは実際に金を支払い始めた。旧TwitterBlueのインプレッションがおねショタだけ特別報奨金のため極めて高く設定され、およそ旧100ReTweet、つまりちょっとバズるだけ、一ヶ月の給料分ぐらい稼げてしまった。
おねショタ時代到来である。すべてのジャンルはおねショタに支配される。気骨のある者を除き、あらゆる者がおねショタの大海へ向けて漕ぎ出した。
イラスト、マンガ、小説、アニメーション、ゲーム、メタバース、写真、ショートムービー、創作のジャンルだけにとどまらず、ネタツイまでおねショタに染まった。普段のツイートさえもおねショタが徐々に侵食し始めた。旧TwitterはXではなく、おねXショタと呼ばれるようになった。
ここで少し冷静に立ち止まって考えてみてほしい。金のない旧Twitterにそこまでの報酬が支払えるだろうか? 否、払えるはずもない。
では何が起こっていたのだろう。イーロン・マスクがおねショタ宣言をする三ヶ月前、新しい仮想通貨がICOした。その名もONESHOTA COIN。開発したのは中東の企業。バックには大富豪がいると噂されている。公開当時は中東の富豪が世界にネタを提供してくれた、程度の認識でしかなく、ONESHOTA COINが活発に取引されることもなく忘れられようとしていた。
事態を動かしたのは、イーロン・マスクである。彼はおねショタ宣言と同時にONESHOTA COINを買い占めた。ONESHOTA COINはイーロン・マスクの買い占めだけで23倍暴騰し、そして、二日後にはその半値まで暴落した。しかしイーロン・マスクは動じなかった。おねショタ宣言以降、宣言通りに特別報奨金を支払い続け、おねショタの普及を推進し続けた。
世間の風向きがだんだんと変わってくる。おねショタいけるんじゃね? そういう意見が増えるに連れ、ONESHOTA COINは暴騰をしてイーロンマスクの買値から数千倍の価格がついた。おねショタ特別報奨金はONESHOTA COINの売却益から賄われるようになった。
世界的おねショタ人気を決定付ける作品がインドから出現する。「OOOXSSS」インドの近未来おねショタSFである。十三歳少年と二十八歳の美女がインドはおろか世界の命運をかけて戦い、愛し合い、歌い、踊る感動の超大作。全世界で大ヒットし、世界中の興行収入記録を更新しまくった。
ONESHOTAは世界の合言葉になった。ハリウッドでも大量のおねショタ映画が作られた。世界中でショタ俳優が発掘された。日本の古いおねショタ小説が世界中で翻訳され、ついにノーベル賞候補に上りつめた。おねショタホテルが作られ、おねショタリゾートもできた。おねショタバスが地を駆け、おねショタ飛行機が空を舞う。おねショタコラボ食品が大量生産され人々は日々おねショタを食べる。
おねショタは一つのジャンルを超え、普遍性を獲得していった。おねショタがあることが普通になった。飽きるという概念さえ超越したかに思われた。全ては順調、かに思われた。
かつて、おねショタバブルは遠くない未来に崩壊すると警告する経済学者が話題になった。同じようなことを言う専門家は山のようにいた。しかし、おねショタ作品は作られ続け、世界中で愛され続け、経済を回し続けた。そこには実体があった。バブルではなかった。そう思われていた。
終わりの始まりは、「OOOXSSS」の主演俳優が十五歳の時だった。主演の彼は世界で引っ張りだこの俳優になっていて、パパラッチから追いかけられるようになっていた。彼は同級生の女の子と付き合っているのをスクープされた。記者が「二十八歳の女性とは付き合わないの?」と聞くと、彼は笑いながら答えた。
「やだよ。そんなオバさん」
この言葉が世界中を駆け巡った時、何かが壊れたのだ。それはおねショタという幻想かもしれないし、パンパンに膨らみ切ったバブルかもしれない。世界中の人々に冷や水をぶっかけ、おねショタという夢からの目覚めをもたらした。
終わったのだ。
ONESHOTA COINは2日で63%暴落した。暴落は止まらず売りが売りを呼び、誰もその恐怖を制御できず、最終的に8日間で99.58%下落した。
ONESHOTA COINはビットコインに並ぶほどの規模になっており、それだけの資産が消え去ると何が起きるか? 連鎖的に仮想通貨が大暴落する。それは恐怖から生まれた売りと、システム化されたロスカットと、ONESHOTA COINの損失を埋めるための換金と、暴落による強制ロスカットの連鎖によってもたらされる。仮想通貨市場は完全に焼け野原になり、多数の個人投資家の人生を破滅させ、いくつかの投資ファンドが消えていった。
さらに、地獄と業火は株式市場にも飛び火し、仮想通貨取引所の株が叩き売られ、ONESHOTA COINを保有していた会社の株も投げられ、ビットコイン保有の会社も売られ、連想ゲームと恐怖と噂とロスカットと追証とさまざまな思惑と無謀と強欲と狂気を巻き込んで株式市場は全世界で壮大にクラッシュして、バカの人生もクラッシュさせ、為替や商品市場も巻き込んでめちゃくちゃな騒ぎになり、最終的に日本では「おねショタショック」というありきたりな名前で落ち着くことになった。
ONESHOTA COINの下落がピークに達した時、イーロン・マスクはおねショタの特別報奨金の停止を宣言する。
こうして、おねショタをめぐる熱狂はイーロン・マスクで始まり、イーロン・マスクで終わった。しかし、作品が残ったことは確かで、それは紛れもない事実であったが、冷静になった人々はこれらの作品群の何が面白いのか理解できなくなっていた。それはきっと数百年後アーカイブを漁る人類の子孫たちを困惑させることになるだろう。
ところで、私は近々はてサの金玉の仮想通貨を作って一儲けしようと企んでいる。HKCという名前で売り出すので、私がイーロン・マスクに話を持ちかける前に買っておくといい。
美人についても同じだが、同一人物のなかでその判定に容易に矛盾が生じるのがこの観念の脆さ危うさだと思う。
たとえば同じ人間にAとB、BとC、AとC、CとDについて立て続けにどちらの方がイケメンに思うか判断してもらってA>B、B<C、A>C、C>Dという結果が得られたとする。この時点で論理的にはA>C>B>Dであることが確定する。しかしその後さらに間髪入れずにBとDどっちがイケメンであるか聞いたら果たして必ずしもDよりBの方がイケメンであるという答えが得られるだろうか?本人が自分の答えとその論理的関係を記憶しているなら、確かにそう答えるかもしれない。しかし逆の答えであったとしても、その立て続けの質問のごく数分の間に本人の中の美醜に関する価値基準が変化したとは考えにくい。
AからDという四つの中での比較では、数が少ないので論理的に一貫した答えになる可能性が高いと思う人も多いので、もっとたくさんの中からの比較でもいい。美醜に関する価値基準が変化を起こさない程度の長さで、比較作業が完了する範囲でならいくらでも比較させる人数を増やしてよい。人数が多いほど、その人数間の美醜の優劣の判定により全ての間での順序が確定するのに必要な比較数と、順列組み合わせとしての考えうる比較数との間の差は大きくなるだろう。考えうる比較数から順序の確定に必要な比較数を引いた残りの比較数分の比較において、それ以前の比較に対して矛盾した答えが得られそうなことは、人数が多ければ多いほどそうなりそうなことは想像に難くないだろう。
またAとB、BとCみたいに二人ずつ提示して比較させるのと、最初から比較対象を全て提示してこれらをイケメンである順に並べ替えてもらうのでも、同日人物なのに結果は違ってくるかもしれない。
そう考えると「美醜に関する価値基準」なるもの自体存在しないという仮定が浮上する。これは一瞬一瞬その基準が変化するという意味で存在しないと言っているという次元のものではなく、そんな基準なるものは一個人の中にある一時点においても論理的に記述可能な形でなど存在していないのではないかということを言っている。
もちろん一つずつ提示して、こいつはイケメンかブサイクかと聞いていくやり方でならどっちかの答えを得られるのだろうから、定性的観念としてのイケメンとか言うのは破綻なく存在しているのだろう。そこもまた奇妙なわけだが。
だけども二者比較をさせれば全体の順序関係がわかる、その人の美醜に関する基準がそこから論理的に推測できるような。半定量的観念としてはそのような観念は存在していないのではないかと思う。
もし多数派にとって今現在顔面偏差値がトップクラスの顔の割合が全体の99.9%でも占めるようになったらどうなるだろう?そういえばテストの場合だと満点の人数がそれ以外の点数を取った人数の合計よりも多い時の満点の偏差値はいくつ以下となるのだったか。多分一般に高偏差値と言われるような数字ではなかったはず。
つまり顔面偏差値という言葉自体使われてなくなるかもしれない。
ただし0.01%のブサメンの恋愛市場における価値がその希少性によって上がるかといえば、これは生理的に受け付けないという要素によるものも大きい可能性があるので、無関係かもしれない。
同じ理屈で、99.9%が今でいう超ブサメンになっても、相対的にその低い価値が普遍性によって押し上げれられるかといえばそんなことはないように思われる
ホラー、3部作の2作目、洋画と敷居の高い三重苦背負ってるが、傑作、いや大傑作
ホラー部分は鋭利な凶器が人体に刺さるとこ隠さず見せるのでキツい人にはキツい、が殊更にどぎつく強調する演出はなく、むしろサラッとしてる
3部作となっているが時系列でいうと1作目の前日譚、しかも遡ること50年前の話なので1本の完結した話として楽しめる
そして、洋画だがむしろ日本人にこそ合うというか、日本の意識高い層を自認するはてな民にブッ刺さる内容
ジャパニーズはてな民に刺さる要素その1、ミッドサマーを製作したスタジオが作ってる。お前らミッドサマー大好き民だろ
要素その2、田舎怖いネタである。都会に憧れ田舎をディスるヒロインの田舎っペ度がはてな民の優越感を刺激する
要素その3、介護ネタである。田舎ヒロインは親の介護で家を離れられないのが日本人特に高齢化はてな民に刺さる
要素その4、アイドル物である。クライマックスシーンではマクロスFかってぐらいカラフルな戦闘シーンをバックにヒロインがめっちゃ踊る。男の子ってこういうの好きでしょ? 好きです(即答
全世界誰でも共感する普遍性を獲得した傑作だから誰が見ても楽しめる、とも言えるが、
おそらく、はてな民が今このタイミングで見るのがいちばん刺さる
ミア・ゴス最高
関西は、文化的な趣味(美術や音楽、古伝を基礎にした先端の感性に触れる)機会があって、けっこう楽しかった。
大阪、京都、神戸。どこも自分の住んでいた古い町よりも深くて大きくて驚いた。驚くことで調べて地元の深さ広さ高さ長さも知った。「大阪」や「東京」という一語にくくれない。どんな都市の文化だってそうだ。自分の街も関西についても0.4%だって知らなかったなってイキり散らした間抜けな自分にダメージ。
最先端のものを追いかけて、日本初上陸のサムシングに群がる有象無象のクルクルパー・ムーブって虚しいなと思った。彼/彼女らは、たいてい東京に3店舗くらい来て3年待たず撤退する不良債権みたいな事業ばかりを追いかけてる。殺虫灯に走っていく夏の夜の虫みたい。
もちろん、東京にしかないものもあるだろう。人口が多いから成立する商売だ。たしかに5%くらいは東京のものかもしれない。でも5%なら、その他の市町村にも固有性はあるんじゃないだろうか。語彙「文化」は、まさに、そういった普遍性と固有性を汲み上げるための教養であり、それを支え、そこに参与していく主体性と不可分ではないだろうか。
だから、東京に住んでいることだけで、自分たちを文化の中心にいると勘違いしてる人を見ると哀れだなと、としみじみ思った。
出張に行くことも増えてきた。
そうすると、福岡だったり、仙台だったり、札幌だったり、熊本だったりと、それなりに栄えた地方都市の豊かさに心打たれるようになった。
ここには、東京でやった展覧会の巡回展も来てくれない。海外アーティストのライブだってやらない。でも国会図書館にはアクセスできる。
こういう場所に暮らしている人々もまた、それぞれに趣味を楽しみ文化をつくっている。自分のいる場所が中心じゃない。
大人になると誰でも、この程度は判る話だ。
辛くならないんだろうか。東京に住んでるだけ、海外文化の消費者の第一人者を自称することで、文化つくってる気になるなんて。
まあ、地方だって展覧会には行列ができる。でも東京で数時間ならんで観るくらいなら、その時間で、もっと文化的で豊かなことできそうだけど。
なんか、悲しくなってきた。
【追記】
地方の文化なんて単なる消費じゃないか!みたいな意見が大きな釣り針で垂らされていて、すこし驚いている。
聞いてみたいんだけど。
いい?
「海外から東京地方の人たちのところまで降りてきた"文化"が、最初から"文化"として存在していたと思ってるの?」
まだ評価が定まっていない、新しいモノ・若いモノの中から、未来にコンテクストとなるような本物を自分の目で見つける。
自分と同世代の人たちのあふれる才能にビビりながらも影響を受けていく。
もしくは深く長く高く広い伝統文化と、そこから湧出する人類普遍の文化的性質との邂逅。
そのスリリングさ。
そんな文化の創出を支えていくのが人間の醍醐味だし、現場にいないと、感じとれない大切なモノってあるでしょ?
「文化」は東京に住んでるだけでつくれるモノじゃ、ないんです。
評価の定まったもの、枯れた文化の上であぐらをかける人々にも出会えない程度の人脈と教養しかなかった君のどこが文化的なの?
まあ東京に4世代前から住んでいて、かつての東京の深みのようなものを、ある程度まで理解してるなら別だけど、住んでるだけなら、もはや首都神話や観光業界が生み出したファンタジーだって分かると思うけど。
東京はサロン文化だなんて言うけど、どこでももサロン文化あるからね。明治維新の頃に、日本が近代化したの知ってるかな。
これ読んでの感想(書きたいことが100字でおさまらなかったので)
政権取る前の旧民主党は熱心に集合知や熟議を推していたんだが、
下野後はすっかり集合知や熟議に興味を失ってしまったなあ。熟議カケアイはどうなったんだよ。
それどころか、衆知を衆愚やポピュリズムと同一視して敵視するようになったとすら感じる。
今のコミュニティノートの仕組みはベストでないし、間違ったノートが付くこともあるけれど、
それを差し引いてもエコチェンバーへの強烈な牽制としては機能はしている。
なら、長所を残して短所をマシにしたよりよい改善案を考えればいいだけでは?
ノート付けられて恥かいてる人たちは、ここ10年くらいの煽って身内の共感を得ることが有利な環境に過剰適応して劣化していただけだろう。
今は急に環境が変わったから意識がアップデートできていないだけで、過半はそのうち適応できるのでは。
その過程でちらりとでもノートをつけられる隙がないか見直す癖がつけば、発言の普遍性や説得力は却って増すはず。
この機会にエコチェンバーの外を意識できないインフルエンサーが沈んで世代交代が促進されるなら長期的にはリベラルにも益になるんじゃないか。
いわゆるクラシック音楽は他人の書いた曲を演るけど、コピバンも同じ事なのにバカにされがちというか、お遊びとして片付けられがちなのって何なんだろうね。
カバー歌手とかもちょいちょい流行るけど、どうにも一過性のブームになりがちに見える。
答え出ちゃったな。
ベートーベンやバッハに原曲もへったくれもないし、曲を書く事とプレーヤーがそれをやる価値が分かれてるのか。
あんまり知らんけど、古典落語や歌舞伎の「型」の話もそういう事を言ってるんだろうか。
クラシックは誰に向けて書いたのでもない曲をプレーヤーが各々解釈するけど、バンドは自分らで書いた曲を自分らでやる事に重きが置かれて、人の曲の演奏だけやるのは片手落ちみたいな扱いになるのかな。
バンドメンバーが自分たちの音を考えた上でフルオーダーした曲を他人がやってもね、みたいな。
おれの場合は単に慣れが大きい気がする。初めて聴いた音源を親だと思う習性があるから。
その辺の話だけで説明のつく事でも無いような気がする。
じゃあいわゆるシンガーソングライターではない、歌うだけの歌手はただのカラオケ野郎なのかよ?って事にもなるし。
自分もそう思ってる節が無い訳でもないが……
もっと突っ込んだ話をしていくと、メインカルチャー、サブカルチャーと差をつける理由って何よ?みたいな所に行き着きそうな気がする。
クラシックとかいう雑な括りをするけど、管弦楽(等)と言い換えれば別に古い事がアイデンティではないのだし、今だっていくらでも曲は書かれてる。
ロキノンの内省的な歌詞とかだって、100年後の10代も 同じ事考えてそうなもんだけどね。
時流だけで決まらないのなら、それぞれを分かつ要素が何かある?
まあなんにしても、他人の曲に乗っかるだけのやる気ない奴は本家の劣化コピーにしかならない。
バンド名は伏せるが、思った事をつづらせて頂く。
そして最近若い子のファンも新たに獲得しているあの有名バンドだ。
増田ですまん。
もしここで
・そんな事を読んだ私とファンと彼らが傷つく
・老甲斐〇ね
という思いを若干でもしたなら今すぐにこのウィンドウを閉じて欲しい。
見ないのも権利だ。
上記のように「彼らはエゴサしまくっているからバレたら傷つく」
・ファンから見ればコロナ禍での動きがなかったのが良いとも思えたが、
他のバンドは音楽を守る為に無料配信したりインスタライブをやったり、
色々していた。彼らは何もしなかった。
いや、影で曲を作っていたのはわかる。
けれどもファンに知るすべはなかった。それが歌を作る彼なりの美学的なものなのかもしれない
自分も一ミリも見なかった。人は変わっていくものだから仕方のないことだ。
・ファンクラブをつくらない主義なのは理解したし、それが好きだった。
だが席代の爆値上げ。仕方ないのかもしれないが、そういう区別・差別をしない人なのだと思っていた。
何故なら「音楽が全ての人に届くように」という意志のもと、近くの席とか遠くの席とか分け隔てなくやってくれていたと思っていたから。
自分の意思を通さないんだなあと、今回の席料の変化で改めて思った。
マスコットキャラクターがいるのだが、そのキャラを玩具にして絵をかいたりモノをつくったりするのはギリセーフとして、
・さらに完全に模造品を作り、ばらまいている。
オリジナルのイラストだったりであれば問題ないとは思うが、それも運営にファン層の遊び心を許されている範囲。
ロゴをそのままコピペしたりしたグッズを友達以外に配布するのは駄目。
ただ、そういう「めんどくさいことはわかんないし自分がたのしいからいい」という人がすごく多い。
・ファンは離れたり、入れ替わったり、新しくついたり、色々いる。
それはどのアーティストでも同じこと。
ファン内の謎のルールがあったり、世間一般から見れば異様だったり、もっと言えば宗教じみていたりする。
蜜六と〇〇交換しませんか?なんて平気で連絡がくる世界。最低。
・一方で80%はまともなファン。問題はのこり20%くらいの人たち。
・心に傷を抱えた人が多く、優しく、繊細で、脆い。
だからこそ、感情的な人が多い。感情的なのは良いが、匿名で人を攻撃する攻撃性の高さは圧巻。
こういう方はこういう事を、ターゲットを探しながら永遠に繰り返すのだろう。
80%はまともなファンだ。
・上記に書いた通り、ファン思いに感じさせているのはすごく上手なのだが
・・・・・・いうのは野暮なのでやめておこう、(と思ったら何か動きをしてたらしい)
(インスタとかやってませんでしたっけ…まああの人達らに向いてないんでしょうね……)
・グッズ。もういうことない。
・いい意味でもわるい意味でも、商業バンドなんだな、という感想を最後に感じた。
何かアプリを出したらしい。内容知らないけど。チラっとなんか見えた気がしたけど。
課金制あるんですかそうですか。
アプリ作るのに金かかるのもアップデートやら申請やら莫大な費用かかるのはわかるよ。
あのキャラは「お母さんが100点をくれた時」に描いてくれた子だったような。
みんながぬいぐるみをぶらさげて歩く光景すら違和感があったのに、
もうそれでいいんだと思った。
・ファンクラブは作らない宣言は何だったんだろう。(ぼんやり)(FCじゃないって言ってる人がいるからいいのか)
・ある一人がやらかしたのだが、ファンもほぼ受け入れているし、
メンバー仲良く(見えるよね、そりゃファンからしたらね)音楽をやっていることに、
この一件で、私はメンバーを受け入れられなくなった。
・彼が神だ、聖人だ、と言われているのはわかる。
じゃああとのメンバーは?と思う。メリットと言えば仲良しバンドだと言えることであろう。
それだけで充分に人気を保てるし、バンド名で安心するだろうし。
それでも非常に感謝している。
勇気も元気も楽しい想いでも素晴らしい友人も離れてもそばにいてくれる友達もいる。
今ももちろんいる。いまの色々な事の糧になっている。
矛盾しているように感じるかもしれないが、本当にありがとう。と思っている。
ファン層はがらりと変わり、昔から風物詩だったグッズ交換会やら何やら色々あったみたいだが、そこはもはやよく知らないので割愛する。
もちろん昔のグッズを身に着けているひともいるが、20代前半くらいの人の姿も目立つ。
楽しそうで羨ましかった。
自分も楽しんでいる中の一人だった。
さいたま新都心駅を降りた時、ピアノの演奏をしている人がいて、
「なんの曲だっけ」と思いつつ素通りしたが、上手だった。
けやき広場は久々だ。
彼らで言えば〇年ぶりか。
コロナ禍もすっかり終わり?なのかアルコールも売っていてあの頃と変わらない新緑の広場。
あの空間でいろんな友達と待ち合わせしてあったりしたなあ、と思い出す。
綺麗な想い出は綺麗なままだ。
今でも仲良くしてくれている子とあったのもあそこだ。
人は変わる。
彼らも変わる。
想いも変わるし、ルールも変わる。
知らないうちにいろいろ変わっている。
この数年間のうちに誰かを亡くしたり、誰かが結婚したり、誰かに子が生まれたり、沢山あっただろう。
アーティスト歴の長い彼らは「普遍性」を求められる一方で「変わらなければいけない」こともたくさんあるだろう。
全て理解した上で、自分はその「普遍性」をとても高潔なものだと感じていたことに気付き、
「普遍性」って良いようで悪いし、悪いようで良いし、一見宗教じみでるし、本人たちも大変だろうし、
大変じゃないように意識しないようにしているのかもしれないし、運営がうまいことやってるんだろうし、
でも、ず-っと、仲良しでやっていかなければいけないのって大変だろうなあと思った。
もう大人だから大丈夫だろうけど、20代の時とか凄かったよね。
まあそんなふうに人は変わっていくものなのだ。それは、忘れないで欲しい。
今でいえば推し活だったのだろう、色々なこと。
今では全くやる気にならない。
ちなみに誰の意見も読んでいないし、これを投稿したところで、コメントを見るも見ないも決めていない。
冷めたことをわざわざ記事にする必要はないのではないかという批判は来るだろうことはわかっている。
だが、そういう風な思いをしたり、或いは他の理由で去っていった人が、
自分の知っている限りで物凄く沢山いる。
そして、その人たちは別のところで音楽を楽しんでいる。
色々思うことはあった。
はっきり言って、マナーは悪かった。
「〇〇しないでください」と言ってることをするのは、小学生でも理解できるだろう。
あとは個人的な意見ではあるが、少なくとも、弦の響きが消える瞬間まで拍手しないか、
ただ、最後に独特のソロフレーズがある曲の一瞬終わりだと思わせる空白の時間に拍手するのは
そういう細かいところを気にするのも良くないんだろうし、自分が間違っている可能性もあるのだが、
でも。せめて曲を大事に聞いて欲しい。曲を大事に聞かせて欲しい。
ああ、いや、違うか。
彼は「自由に楽しんで」と言っていたので、あっているのか。
自分は重要なソロフレーズの直前に拍手されるのは違和感を感じるが、彼らがいいならもういいか。
ライブの詳細は伏せる。
今更ネタバレも何もないが。
彼に最後に言われた。
「また絶対会おうな」
曲にもたくさん言われた。
でもな。
タオルすら持ってなかったのは失敗だった。
凄く好きだった。
xx年間、大好きだった。
〇にたいと思った日に、いつも支えてくれた。
怖い時に隣にいれくれた音楽がたくさんあった。
言われた言葉も暗記している。
こんなに大好きだったのに、彼がしたかったらしい「約束」がもはや
本当に本当に真っすぐ綺麗な純粋なものなのかどうか信じられなくなっていたし、
もうこんな気持ちに変わった自分は来る必要性はないのだと改めて感じた。
好きだった音をまた聞く機会があるのかないのか、と言ったら
現時点ではないと言い切れるが、
大地震がおこるかもしれない。
噴火がおきるかもしれない。
誰かがなくなるかもしれない。
その時にまたあの音が、自分を幸せにしてくれたり、強くしてくれたり、弱くしてくれたり、
自由奔放にさせてくれたり、色々な経験を積ませてくれたり、友達を全国に作らせてくれたりした、
あの優しい音と歌詞が頭の中に聞こえてくるのかもしれない。
もっと言いたいことは沢山ある。
おひとりおひとりと対面で話して、あの時何故。と言いたい人もいる。
あれは何を思って。
彼らの音楽の何を聞いて、何を思って、そうなったんだ?と言いたい人もいる。
さよなら。
ずっと、ありがとう。
オタクを含めて、何か特定の対象に肩入れする人たちが、外野である第三者の批判などに対して激怒するのかが分かった。
まず、外野の第三者じゃない人というのは、たとえばファン(消費者)とか、制作に関わるスタッフなど。こういう人たちの、批判については、内容にもよるけど、激怒して炎上とか、批判殺到とか、Colabo騒ぎみたいなことにはあまりならない。
対して、特別な関係が無い第三者、たとえばフェミニズム団体がコンテンツを批判した場合などは、大炎上騒ぎになったり、激烈な対立が社会的な影響を及ぼすことがある。
これは何が違うのか。
ファン(消費者)や制作スタッフ(労働者)の要求というのは、基本的に、単なる要求に過ぎないのであって、せいぜい交渉の材料であり、基本的に相対化できる。どんなに状況が悪くても、関係を断つ(ファンをやめるとか、仕事をやめるとか)で解決できる。法律上、使用者と労働者、制作・製造・販売者と消費者、こういった関係はあくまで対等であって、その要求はどっちが偉いとか、正しいというものではない。
これに対して、第三者による要求は、労使関係や売買関係のようなものは無いのだから、その要求は普遍的な道徳や倫理に基づくものとなる。例えば、吉野家役員の「生娘シャブ漬け」発言に対する批判は、商品の値段や味、賃金や労働環境の話のような交渉材料の話ではなく、普遍的な道徳や倫理に反するから問題視され、批判が殺到した。
しかし、この普遍的な道徳や倫理は重大な欠陥がある。それは、真に普遍的で万人に共有されているのかということは証明が不可能であり、普遍性の担保の為には逆らう者に強制をするしかないということである。
たとえば、月曜日のたわわの日経の広告問題を見てみよう。そもそも、月曜日のたわわという作品は、未成年を含む胸の大きい女性を性的にまなざすということを主題に据えた作品である。この作品のファンは、恐らく、「未成年を含む胸の大きい女性を性的にまなざすということ」に対して問題意識を感じていない。現実の街中で他人の胸をジロジロ見るのはマナー違反である、と思う人は少なくないとしても、フィクションの作中で面白おかしくネタにしたり、エロスを感じたりすることに対して、全く問題視をしていないだろう。対して、この広告の批判側は、そのように未成年を性的にまなざすこと、身体的特徴を面白おかしくネタにすること、そういったことを肯定する作品が社会に出回ることで社会のステレオタイプが助長されるかもしれないことに対して強い憤りと、普遍的な道徳や倫理への挑戦として考えてい居るだろう。
そして、先ほどから言う通り、第三者が口を出すということは、「普遍的」であることを意味する。月曜日のたわわの青色版の価格が不当に高い、と不満を持つ消費者がいたとしても、その問題意識は基本的に普遍的な物ではない。嫌なら買わなければいいだけである。しかし、第三者が未成年を性的にまなざすことを問題視するのは、「普遍的」な問題だからこそである。
この問題が「普遍的」であるならば、これを問題視しない制作者やファンの思想は矯正されなければならない。ジェノサイドが許されない、人種差別が許されない、といった考えと同様に、それは普遍的な価値観として強制されるべきであるということを必然的に含意することになる。
そして、だからこそ、ファンは徹底的な反発をする。おそらく、ファンは反対に「フィクションの中は自由であり、何をやってもよい」といった思想を普遍的な倫理・道徳として内面化しており、それは双方とも「普遍的」であるからこそ、両立不可能である。
道徳や倫理という概念は、具体的に正しさを証明することが不可能なタイプの主張である。これを理由に、直接的な関係のない相手に対して主張する場合、その主張が「普遍的」であると主張することになる。もし、普遍的ではない、個人のお気持ちだとすれば他人に対して主張することはできない。人を殺してはいけないという主張が普遍的であると信じているからこそ、加害者でも被害者でもない第三者が、人殺しに対して批判をすることができる。これが、共有できていないときに、人はその普遍性を担保するために、政治的、経済的ないし物理的力により強制するしかなくなるのであり、であるからこそ対立は無限にエスカレートするのである。