2023-08-19

イケメンという観念破綻具合

美人についても同じだが、同一人物のなかでその判定に容易に矛盾が生じるのがこの観念の脆さ危うさだと思う。

たとえば同じ人間にAとB、BとC、AとC、CとDについて立て続けにどちらの方がイケメンに思うか判断してもらってA>B、B<C、A>C、C>Dという結果が得られたとする。この時点で論理的にはA>C>B>Dであることが確定する。しかしその後さらに間髪入れずにBとDどっちがイケメンであるか聞いたら果たして必ずしもDよりBの方がイケメンであるという答えが得られるだろうか?本人が自分の答えとその論理的関係記憶しているなら、確かにそう答えるかもしれない。しかし逆の答えであったとしても、その立て続けの質問のごく数分の間に本人の中の美醜に関する価値基準が変化したとは考えにくい。

AからDという四つの中での比較では、数が少ないので論理的に一貫した答えになる可能性が高いと思う人も多いので、もっとたくさんの中から比較でもいい。美醜に関する価値基準が変化を起こさない程度の長さで、比較作業完了する範囲ならいくらでも比較させる人数を増やしてよい。人数が多いほど、その人数間の美醜の優劣の判定により全ての間での順序が確定するのに必要比較数と、順列組み合わせとしての考えうる比較数との間の差は大きくなるだろう。考えうる比較から順序の確定に必要比較数を引いた残りの比較数分の比較において、それ以前の比較に対して矛盾した答えが得られそうなことは、人数が多ければ多いほどそうなりそうなことは想像に難くないだろう。

またAとB、BとCみたいに二人ずつ提示して比較させるのと、最初から比較対象を全て提示してこれらをイケメンである順に並べ替えてもらうのでも、同日人物なのに結果は違ってくるかもしれない。

そう考えると「美醜に関する価値基準」なるもの自体存在しないという仮定が浮上する。これは一瞬一瞬その基準が変化するという意味存在しないと言っているという次元のものではなく、そんな基準なるものは一個人の中にある一時点においても論理的記述可能な形でなど存在していないのではないかということを言っている。

もちろん一つずつ提示して、こいつはイケメンブサイクかと聞いていくやり方でならどっちかの答えを得られるのだろうから定性的観念としてのイケメンとか言うのは破綻なく存在しているのだろう。そこもまた奇妙なわけだが。

だけども二者比較をさせれば全体の順序関係がわかる、その人の美醜に関する基準がそこから論理的に推測できるような。半定量的観念としてはそのような観念存在していないのではないかと思う。

余談だが、顔面偏差値という言葉があるだろう。

もし多数派にとって今現在顔面偏差値トップクラスの顔の割合が全体の99.9%でも占めるようになったらどうなるだろう?そういえばテスト場合だと満点の人数がそれ以外の点数を取った人数の合計よりも多い時の満点の偏差値はいくつ以下となるのだったか。多分一般に高偏差値と言われるような数字ではなかったはず。

まり顔面偏差値という言葉自体使われてなくなるかもしれない。

またイケメン価値も下がるかもしれない。

ただし0.01%ブサメン恋愛市場における価値がその希少性によって上がるかといえば、これは生理的に受け付けないという要素によるものも大きい可能性があるので、無関係かもしれない。

同じ理屈で、99.9%が今でいう超ブサメンになっても、相対的にその低い価値普遍性によって押し上げれられるかといえばそんなことはないように思われる

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