はてなキーワード: ガルシアマルケスとは
関西は、文化的な趣味(美術や音楽、古伝を基礎にした先端の感性に触れる)機会があって、けっこう楽しかった。
大阪、京都、神戸。どこも自分の住んでいた古い町よりも深くて大きくて驚いた。驚くことで調べて地元の深さ広さ高さ長さも知った。「大阪」や「東京」という一語にくくれない。どんな都市の文化だってそうだ。自分の街も関西についても0.4%だって知らなかったなってイキり散らした間抜けな自分にダメージ。
最先端のものを追いかけて、日本初上陸のサムシングに群がる有象無象のクルクルパー・ムーブって虚しいなと思った。彼/彼女らは、たいてい東京に3店舗くらい来て3年待たず撤退する不良債権みたいな事業ばかりを追いかけてる。殺虫灯に走っていく夏の夜の虫みたい。
もちろん、東京にしかないものもあるだろう。人口が多いから成立する商売だ。たしかに5%くらいは東京のものかもしれない。でも5%なら、その他の市町村にも固有性はあるんじゃないだろうか。語彙「文化」は、まさに、そういった普遍性と固有性を汲み上げるための教養であり、それを支え、そこに参与していく主体性と不可分ではないだろうか。
だから、東京に住んでいることだけで、自分たちを文化の中心にいると勘違いしてる人を見ると哀れだなと、としみじみ思った。
出張に行くことも増えてきた。
そうすると、福岡だったり、仙台だったり、札幌だったり、熊本だったりと、それなりに栄えた地方都市の豊かさに心打たれるようになった。
ここには、東京でやった展覧会の巡回展も来てくれない。海外アーティストのライブだってやらない。でも国会図書館にはアクセスできる。
こういう場所に暮らしている人々もまた、それぞれに趣味を楽しみ文化をつくっている。自分のいる場所が中心じゃない。
大人になると誰でも、この程度は判る話だ。
辛くならないんだろうか。東京に住んでるだけ、海外文化の消費者の第一人者を自称することで、文化つくってる気になるなんて。
まあ、地方だって展覧会には行列ができる。でも東京で数時間ならんで観るくらいなら、その時間で、もっと文化的で豊かなことできそうだけど。
なんか、悲しくなってきた。
【追記】
地方の文化なんて単なる消費じゃないか!みたいな意見が大きな釣り針で垂らされていて、すこし驚いている。
聞いてみたいんだけど。
いい?
「海外から東京地方の人たちのところまで降りてきた"文化"が、最初から"文化"として存在していたと思ってるの?」
まだ評価が定まっていない、新しいモノ・若いモノの中から、未来にコンテクストとなるような本物を自分の目で見つける。
自分と同世代の人たちのあふれる才能にビビりながらも影響を受けていく。
もしくは深く長く高く広い伝統文化と、そこから湧出する人類普遍の文化的性質との邂逅。
そのスリリングさ。
そんな文化の創出を支えていくのが人間の醍醐味だし、現場にいないと、感じとれない大切なモノってあるでしょ?
「文化」は東京に住んでるだけでつくれるモノじゃ、ないんです。
評価の定まったもの、枯れた文化の上であぐらをかける人々にも出会えない程度の人脈と教養しかなかった君のどこが文化的なの?
まあ東京に4世代前から住んでいて、かつての東京の深みのようなものを、ある程度まで理解してるなら別だけど、住んでるだけなら、もはや首都神話や観光業界が生み出したファンタジーだって分かると思うけど。
東京はサロン文化だなんて言うけど、どこでももサロン文化あるからね。明治維新の頃に、日本が近代化したの知ってるかな。
東京の文化なんて単なる流行りモノじゃないか!みたいな意見が多くて、すこし驚いている。
聞いてみたいんだけど。
いい?
「地方の人たちのところまで降りてきた"文化"が、最初から"文化"として存在していたと思ってるの?」
まだ評価が定まっていない、新しいモノ・若いモノの中から、未来にコンテクストとなるような本物を自分の目で見つける。
自分と同世代の人たちのあふれる才能にビビりながらも影響を受けていく。
そのスリリングさ。
そんな文化の創出を支えていくのが都市生活の醍醐味だし、現場にいないと、感じとれない大切なモノってあるでしょ?
美術は美術館だけで見るモノじゃ、ないんです。(巡回展の例えは皆にわかりやすく書いただけだよ)
評価の定まったもの、枯れた文化の上であぐらをかくことの、どこか文化的なの?
まあ京都に4年住んでみて、かつての京都の深みのようなものが、ある程度までは現存していても、あとはもはや観光業界が生み出したファンタジーだって分かったよ。
関西でも、文化的な趣味(美術や音楽、最先端の海外文化など)って、けっこうキツかった。
最先端のものはほぼないし、日本初上陸のサムシングも、たいていは東京に3店舗くらい出来てから、関西に来る。
もちろん、趣味の95%はカバーできるんだと思うけど、上澄みの5%は東京にしかない。
言ってみれば、京都が首都だった頃の一級品は京都にしかないのと同じだ。
だから、東京に戻ってきたときは、ああこんなに恵まれてるんだな、としみじみ思った。
そうすると、福岡だったり、仙台だったり、札幌だったり、熊本だったりと、それなりに栄えた地方都市に行くわけだ。
ここには、東京でやった展覧会の巡回展も来てくれない。海外アーティストのライブだってやらない。国会図書館だってない。
そういう場所に暮らしている人って、どうやって趣味を楽しんでいるんだろうか。
辛くならないんだろうか。
なんか、悲しくなってきた。
【追記】
東京の文化なんて単なる流行りモノじゃないか!みたいな意見が多くて、すこし驚いている。
聞いてみたいんだけど。
いい?
「地方の人たちのところまで降りてきた"文化"が、最初から"文化"として存在していたと思ってるの?」
まだ評価が定まっていない、新しいモノ・若いモノの中から、未来にコンテクストとなるような本物を自分の目で見つける。
自分と同世代の人たちのあふれる才能にビビりながらも影響を受けていく。
そのスリリングさ。
そんな文化の創出を支えていくのが都市生活の醍醐味だし、現場にいないと、感じとれない大切なモノってあるでしょ?
美術は美術館だけで見るモノじゃ、ないんです。(巡回展の例えは皆にわかりやすく書いただけだよ)
評価の定まったもの、枯れた文化の上であぐらをかくことの、どこか文化的なの?
まあ京都に4年住んでみて、かつての京都の深みのようなものが、ある程度までは現存していても、あとはもはや観光業界が生み出したファンタジーだって分かったよ。
いやどうかなあ。
言わんとしたいことはわからんでもないが。
でも、拒否している側に歴史文化的背景があるばあいもあって、そういうのを「文化側が一般人に立ってない」とか呼ぶのが正しいのか?
反萌え絵派っていうのが、「ガルシアマルケスも踏まえてない、ラノベはクソ」と言っている奴ら、かもしれん。
というか俺の認識はそうなんだが。
能とかが顕著
洗練され過ぎた伝統芸能は、普通の人はよくわからないし、気軽に能見に行く人は現在は少ない
歌舞伎なんかはもうちょっと大衆に浸透しているけど、それでもやっぱり格式が高くて難しいイメージがある
文学もそう
大衆小説やラノベなら読めても、ガルシアマルケス読むのは苦痛だった
現代アートなんかもそう
部屋中にスプーンが散乱してる様を見せられても頭抱えるし、ホールをマラソンランナーが走り抜ける、とかを展示と言われても反応すらできない
これらの現象が生じる理由は、芸術表現の技術の継承や習得の過程で、それなりの作法や慣習、お約束事を学ぶ必要がまずあるからだ
その結果、技術的歴史的背景への理解が深まり、一般人の知り得ない見え方感じ方の習得も行われている
そして、芸術作品というのは過去にあった作品の発展形や、過去の芸術家に対する解釈をさらに新たな作品として世に出すこともある
そのため、目の前のものだけでは理解に必要な材料が揃っておらず、理解には前提となる膨大な知識を要求するようになっているのだ
で
ポップアート、いわゆる美少女イラストなんかも当然そうなっている
親しみやすく感じ取りやすいがため、一般人もポップアートを理解できている気がしているから、批判も起きやすい
が、本当は能がわからないのと同様、ポップアートも全然わかっていない
歴史的には春画から始まり、戦前はノラクロ三等兵、そしてひみつのあっこちゃんにキューティーハニー、そしてミンキーモモやあんみつ姫を経て、スレイヤーズなどの時代から萌え絵という概念が誕生する
そしてスレーヤーズ的な絵柄から、ハルヒ的な絵柄へと変遷があり、さらに今はラブライブ的な絵柄がイラストやアニメに携わるイラストレーター、アニメーターたちの、”お作法”となっている
これはまさに時代の中の芸術の変遷であり、我々がラブライブ風イラストを街で普通に見るのは、いわゆる同時代性と呼ぶべきものであろう
イラストレーターの技術の継承や絵柄の流行り廃りがあるからこそ、岸田メルやさいとうなおきなどのような、現代の優れたイラストレーターがこの時代に優れたイラストを描ける
しかし、それらを「不快な萌え絵」と呼び嫌悪する方が存在する、というのはつまり、他の芸術と同様、ポップアートに対する背景を共有できない者が存在する、ということだろう
イラストに関連する現代の文化そのものが、洗練されすぎ、先鋭化していっているがために、イラスト文化アニメ文化を共有できない者の理解が追い付かなくなっているのだ
この現象を軽く考え、反萌え絵派をただ批判するというのは、「ガルシアマルケスすらわからないやつがラノベ面白い、とか言ってて笑う」とか「高師直も塩冶判官も知らないやつが忠臣蔵のドラマ見てて笑う」みたいな態度と言えるだろう
歴史的文化的背景の継承者のみしか理解できない芸術は必ず尻すぼみになる
絵や文字は、わかっていると勘違いしやすいものであるため、この認識を持ちづらいのも問題であろう
「一般の場に出す実用作品に、背景を要求するものは相応しくない」というのも、萌え絵に関する議論で考えるべきひとつの側面だろう