はてなキーワード: 好きだ、とは
「かなわぬ恋なんて言うに及ばぬ
途方にくれるような片思い」
ああそうだ。
推しのことが本当に大好きで、一人の人間として好きで、この感情は恋愛だと思っている。
大好きなんだ!
そう、思っていた。
叶う妄想なんかもしていた。
でも、思い知らされた。
叶わぬ恋など言うには及ばないのだ、私のこの想いは。
届く・届かない、叶う・叶わない。
そんな次元の話ではない。
言うに及ばぬ恋だ。
どうしようもないのだ。
最後に出てくる「○○町のみなさん」と同じ。
その一員でしかないのだ、私は。
どんなに会いに行っても、
どんなに好きだと伝えても、
どんなにお金を積んでも、
思い上がってはいけないのだ。
恋人役にも、恋敵にも、仲間にも、何にもなれない。
ただのエキストラ。
同じ画面に映ったとしても、その瞳に映ることは、無い。
かなわぬ恋なんて言うに及ばない、
途方にくれるような片思いだ。
今でも好きなことには変わりない。
いつか、叶うときが来たら。
そう夢見ることもある。
ただ、その度にこの曲を思い出すようになった。
そして打ちひしがれるのだ。
現実を突きつけられて、とんでもなくしんどくなる。
しんどくてしんどくて、吐き出すためにこのブログを書いている。
好きです。
決して届かなくても大好きです。
それだけ、とは言えないけど。
大好きなんです。
村人Aでいい。
欲にまみれた私をどうか許してください。
大好きです。
あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手は応援したい、というジレンマ。
全国的に感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。
wikipediaによると以下。
認知的不協和とは、人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。
オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手を軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和の典型例なんじゃないだろうか。
しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。
例としては、うなぎは大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみは規制すべき等も思いつく。
自分の欲求と社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分のなかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。
うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。
うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共的判断は成立しない。
うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法のひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的な制度設計だ。
そう考えると、現代の民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。
個人的には好きではないけど自分が社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。
そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。
近代の民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカの建国者のひとりジェファーソンは、
公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共的課題を自分の欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政に必要な市民の資質だと考え、他方、代表者(議員)に必要な資質をアリストクラシー(自然的貴族)と呼んだ。
しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。
社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき、
ふつうの人々は、自分の内面を整理するために、どちらかの認知に一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知を修正してゆくことになる。
今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。
オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。
社会の規範に合わせて自分に対して一貫性を要求しがちな日本人は特に、自分の欲求を我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。
別の例を挙げれば、60年代にセクト化が加速したサヨクの動きが典型例。
また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知の一貫性を他人に求める一例。
サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。
自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。
党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、
それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。
ますます両極化が進んでいき、相手方の一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやすい立場の人とと
そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。
コロナ対策では人流の抑制が課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。
しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、
次第に言葉の力は失われ、今では行政も政治家も口にしなくなってしまった。
もっとも同時に、自粛警察もあんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。
ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。
思い出すのはベトナム反戦運動。ベトナム反戦真っ盛りの60年代のアメリカでブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たちに
反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全な場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。
コロナ禍でのステイホームのムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。
自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしまう業界。
それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。
オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会の安全と自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。
以上の話は、人々のジレンマを構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、
自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在の自分の社会的立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、
知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性がアピールされているに過ぎない。
しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。
重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、
オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、
そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。
飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。
タレコミも減ってきたという声もきかれる。
こうした寛容さは、行政の飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。
人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。
こうして考えてみると、自粛要請をベースとした日本流の政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすいタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。
自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人のメンタリティと、同じ社会の構成員にも同じ一貫性を要求したがる相互監視のムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルールや判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。
などと、都合のいい解釈で認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、
人々は、ルールへ従うことの意味が不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視は機能せず、自分の生活を変えることなくコロナへの懸念も自分の認知のなかで両立させてゆくだけだ。
しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢の限界をとっくに超えているしで、
人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当な自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。
自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナは心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。
本来の政策というのは、そんな人々の認知(世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。
例えば、自分の考えと相反していても、オリンピックは応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、
あるいは、オリンピックは懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。
「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元で政策を決めるべきではない。
むしろ「個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民の判断を見極めたほうがいい。
しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。
いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。
将来シナリオを示さない。予測や分析を共有しないから、いつも唐突に首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。
わたし:
相手:
3年前に付き合ってた元彼の知り合い
男にふられて自暴自棄になったタイミングと相手が恋人にふられたタイミングがちょうど同じだった。
一晩通話して、お互い一人ぼっちだからとりあえず孤独をごまかすために一緒にいてみようか(≠付き合う)という話になった。
その後ほぼほぼ毎晩寝落ち通話をして、1週間くらい過ぎたときに会うことになった。
ご飯を食べたあと相手の家に直行して、私から求めてセックスをした。
相手から私さえ気持ちよければいいという気持ちが伝わってきて、ああ私は相手から求められていないんだなと悲しくなった。
会ってもう数日したら相手が好きになってしまっていて、付き合ってほしいと伝えたら今のところ恋愛対象として見ていないと言われてしまった。
寝落ち通話をしては翌朝のんびり話したりして、相手が生活の一部になってしまっていて、この生活が相手の未来の恋人に奪われるのが怖くなってしまった。
それからも何度か好きだ、どうか私のことも好きになってほしいと伝えたけれども
恋人としてじゃないけれども好きではある、恋愛対象として見るには私のことを知ることが必要だとか
一緒に何らかの困難を乗り越える必要があるだとかでほんのり期待を持たされる断り方をされている。
先日相手が家に来たときスキンシップをとっても嫌がられないどころか頭をなでてもらったりした。幸せだった。
どうしてこれだけ近いところにいるのに付き合ってもらえないんだろう。
相手がつらいときは私に声をかけてくれるし、私も彼がつらいときは優先して話を聞いている。
正直付き合ったところで今の関係とどう変わるのかという思いもあるんだけれど、
やはり今の関係を相手の未来の恋人に奪われてしまうのが怖くて仕方がない。
すっぱり諦めさせてもらえるのならそれがいいとすら思う。
Covid19感染者を見つけるためのPCR検査が絞られてきたことがこの三度目の要請に至った理由だと考える。
無症状感染者を見つけるための社会的検査、事業所への頻回検査や希望者への検査を渋ってきた。
無症状感染者を早期発見することで感染を広げることを止める事の意義を理解できず、また、濃厚接触者として、接触者の検査すらも厳選したことで、何度も感染の山を作ってきたことは吉村洋文氏の責任であると私は考える。
「どうしたら感染を防ぐことができるのか、感染を防ぐためにはより多くの感染者を見つけることが必要だ、どうしたらそのような検査ができるのか?」ということを考えてこなかったのである。
政治が無能であり、私たちの命が守られていないことは、政治が悪いということが分かってもらえない。
言葉が届かないもどかしさをずっと考えている。
その感染防止の個性の穴を、SARS-CoV-2は見逃さないのである。
たとえばウレタンマスクが好きだ、そのマスクは、不織布マスクに比べて半分しか感染抑止効果がない。
たとえばマスクから鼻を出してしまう、SARS-CoV-2は空気感染なので、空気を吸い込むだけで感染してしまう。
屋内での食事は、マスクをしないから危険である。夜の飲食店ばかり槍玉にするのは感染の山をおさえる、スプレッダーイベントさえコントロールすれば十分であって、感染を防止するためではない、感染の数を少しだけ減らしたいだけなのだ。
酔っぱらいはみんな嫌いだから攻撃してもいいのだ。そういう気持ちさえ政治利用されている。
SARS-CoV-2に対抗するためには、個人の力では無理なのだ。
ところで、私は新型コロナウイルス感染症とコロナと呼ぶのはためらっている。
「ころな」という名前の子はいないだろうか?いじめられてはいないだろうか、といつも気がかりなのだ。
パンデミックが始まって一年以上が経過してしまった。一年である。
感染者が少ないというのは非常に優位だった。
数が増えれば対処できないからだ。ヨーロッパが制圧できないのは、数が多すぎるからである。
日本は感染者数が少ないからこそ、コントロールできるはずだった。
従来株でも、毎回、感染の波を大きくしてきた。それは政治の無能さを示すものだと思う。波を低くしていくこそが、低く維持することこそが、政治の役割である。
褒めじゃない。
「○○が好きなんだよね」っていう子がいたとして
「○○好きだって言ってたから」から始まる会話が自然と増えるはずなんだよ。
例えば映画好きってきいたら
今まで見たものこれから見たものについて感想を聞かせてもらうのでもいい→それまで対象を愛してきたことをリスペクトする
好きっていってた監督の情報をニュースでたまたましったらそれを送る→もう知ってるかもとか思わない、だって目的はマウントでも恩売りでもない
断られたらもちろん1人でいくつもりで(重要)一緒に行かないかと誘う→一緒に行けないならいいやでやめるのは最悪
「映画好きなんていい趣味だね!」とか急に褒めても、は?ってなるだけだよ多分……
それが好きだ、大事だ、っていう気持ちに寄り添うっていうかなあ…
熱量までは追いつかなくても
つい目がいくようになるし、りんごについてちょっと詳しくなったり買ってみたりするじゃん
見返りなんて考えもせずそれが目にとまるようになるじゃん
りんごっていいよね!りんご好きな子最高!とか急に言われてもポカンだよ
褒めればいい理論勘違いしてるやつがそれやって結果でなくてよく腐ってるけど…
「相手の大事なものを大事にする」って本気で好きな相手とか家庭を持とうとか決意した相手には勝手に起こることなんだけど
実は十分に意図的にやれることだし、やれば純愛のトレース同然のことが起こせるので、相手に最高の形で好意が伝わりやすい結果高確率で好かれるよ、って話。
実際は大事なところには信念とか価値観とか小さい頃の傷とかコンプレックスとの戦いの歴史がはいってくる。
それを褒めるって違うでしょ。
3年前私は夫婦別姓を選択して結婚した、といっても法律婚ではない別姓なので事実婚だ
周りから同棲と何が違う?と言われないように結婚式もあげた、合計300万くらいかかったが夫が全部出してくれた
結婚生活には大きな不服は無く子供は出来たらいいね~程度でセックスをして子供ができた
結婚する前の事前調査で事実婚だと子供は私の姓になることがわかっていたので当然のように子供は私の姓にすると思っていた
だが生まれる直前になって夫が子供を自分の姓にしたいと言い出した、
そっちが姓を変えるならするよと答えたが夫は拒絶した、当然だろう、それがお互いできるなら初めから法律婚を選択している
そこで夫が出してきたのが家庭裁判所の許可があれば夫の氏にできるということだ
そんな簡単に許可が下りるものなのか私は疑問だったが夫はできると強弁した
ならばと一人目は私の姓で、二人目は夫の姓にしてはどうだろう?と提案もしてみたが夫は逆が良いという
私は結婚前から子供は私の姓になるとお互い了承していたじゃないかと絶対に譲らなかった
今から考えるとなんでそんな事にヒートアップしたのかわからない
もうすぐ育休が明ける、私は仕事に戻らなければならないが保育園は決まっていない、だが保育園が決まったら実家を出て東京に戻らないといけない
仕事にも東京にも戻りたくない、まだ立ち上がったばかりの子供を預けて自分が仕事をしなければならないなんて気が狂いそうになる
そもそも仕事もそんなに好きじゃない、月末月初は毎回残業になり年末は12月31日まで仕事があるような状況に戻るとか正気の沙汰じゃない
なんであの時私は意地をはったんだろう、私がずっと欲しかったのは自分の姓じゃない、家族だったはずなのに
何故姓にこだわり家族を手放したんだろう
いや夫だってもっと早く法律婚じゃなきゃ絶対嫌だって言えばよかったんだ、理解あるふりして今は夫婦別姓でいいと思うよなんて言わなければよかったのだ
子供ができたことは後悔していない、子育ては嫌いだが子供は好きだ、いや他人の子供は嫌いだが自分の子供は好きだ、子供と別の姓になることは今でもやはり考えられない
どうか私と同じ底辺の女性にだけは聞いてほしい、こんな状況になったからこそわかる
夫婦別姓はすべての女性のためにあるものじゃない、あれは強者女性が強者性を維持するためのものだ
私たちのような経済弱者が夫婦別姓を選択しても、私たちが強者女性になることは無い
誰もそうしろなんて言っていない、お前がそう選んだだけだ、男が悪い、男を見る目がない、どうせ散々叩かれるんだろう
ニュータウンじみた町に住んでいる。31歳独身男の一人暮らし。
仕事終わりに散歩をしている。在宅勤務なので、今日外に出るのは初めてだ。
孤独と老化と仕事への嫌悪感で将来に悲観的な想像しかできない。仕事の環境はおそらく恵まれているのに、この気持ちは何だ。
楽しそうに騒ぎながら下校する小学生のガキどもを見て、つらい思い出ばかり残る学生時代を思い出してしまう。
次第にガキどもにやり場のない怒りがこみ上げてくる。
そんな中、ひとりのガキに目が行った。
そいつは一人で下校していて、ビニール傘の柄の部分を首にかけていた。
開く部分は首から横に飛び出ていて、水木一郎のスカーフのようになっている。
朝から在宅勤務だったので、俺は今日雨が降っていたのか知らない。
こいつ、バカだなぁと思いつつ、不意に泣きそうになっていた。
この街にいる他のガキがどうなろうが知らないが、俺はこいつのために税金を納めようって思えた。
もののけ姫の最後の方で「アシタカは好きだ、でも人間は嫌いだ」という言葉があったと思う。あの言葉はサンが人間に肯定的な意見を持つ第一歩だと思う。
人間から物の怪になりかけてそうな自分の心の絶望が少し和らいだのを感じながら、そんなことを思う。
たぶん今日は酒を飲まない。
※この物語はよくあるフィクションです。心当たりがあっても別人です。
女性向けBL同人で小説書いてたんだが評価されないってか見られねえ。
ジャンル自体が斜陽どころか落日。なんせ十年近く前の作品だ。当時はピクシブに投稿あったがそれでもマイナーカプだった。今は言わずもがな、昨年アップされた小説は全部私だ。
閲覧はつくが評価はされない。ブクマもほぼない。書き手は自分だけ。
ジャンル全体で見れば私を除けば月イチで投稿されればいいほうだ。人はいねえ。
たぶんキンリミで二次元ドリーム文庫読んでてなんか書きたいシチュエーションが出てきたんだと思う。ちなみにだけどエロのシチュエーションを豊富にしたくてキンリミとコミフロ入ってる。
一次の男性向けエロ小説を書いてノクターンにあげた。評価がついた! すげえ! いつも書いてる自ジャンルのBLより評価がつく! 嬉しい! 人間が反応してくれている! ここには人がいる!
嬉しくなってちまちまあげた。反応がある。嬉しい。虚空に投げてるわけじゃない。コメントももらえた。ありがとう。すごく嬉しい。
今は1万字くらいの長さのを定期的にアップしている。
長編のほうがランキングとか乗りやすいのかなと思うが長いのよりさくっと読めてさくっと終わるスナック感覚の性癖特化系が好きなのでそればかり書いている。
毎回反応がある。嬉しい。
女性向けBL同人はめっきり書かなくなった。そんなある時コメントがついているのに気付いた。
私の書いたカプが好きで小説が好きだ、もう書いてくれないのかと書かれていた。
私の書いたものの公開ブクマにその人の名前は一つもなかった。非公開ならあるんだろうか。知らん。
同人サイト時代にも感想がなくて閉鎖しますと書いたら一気に感想が来始めるとかいう話を聞いたことはあったが、なんでもっと早く送らないんだろうな。
好きなものを書いてるだけで反応なんて要求するなと思われるかもしれないが、それなら書くだけ書いてローカルに保存して自分だけで見るわ。それを外に出してる以上なにかしらの反応が欲しかった。
例の生放送からすでに時間が経過しているが、自分の中で未だにモヤモヤが残っているのでここに吐き出し昇華しようと思う。運営にというよりは一部のユーザーに向けたモヤモヤだ。
運営へのモヤモヤはご意見という形で送っている。先に言っておくが感情のままに綴ったため乱文で矛盾もあり何も生産性がない。また個人的な意見であるため、考えが合わない方は不快に感じると思う。
まず件のアプリのサービス終了は妥当だと思う。直近のイベントではアクティブが1万どころか7000を切っていたものもあった。アイマスブランドだから生きながらえていたが実家が強くなければすぐにサ終したであろうレベルのゲームだからだ。音ゲーとしては底辺、リズム感もなく編成を考えるでもなくレーンは1つ。育成ゲーとしても面白みがなく、イベント形式も1つしかなかった。イベント形式が複数あるだけまだモバエムの方がマシだ(モバエムがいいとは言ってない。どっちもどっちだと思う)。
自分はモバとの兼任Pでありどちらかというとモバ寄りのPだからまだダメージは少ないが、ステを中心に遊んでいた方々の心情は察するに余りある。
※モバ寄りといったものの担当がガシャに来たら衣装解放まで回す、DOSのガシャも全員来るまで回した。上位イベントも1桁にはいかなかったが2桁に入る程度にはステで遊んでいたことを補足させてもらう。
そんな中、モバ中心Pたちの一部がステのサ終が発表された途端「ステよりモバにおいで」だの「モバやろうよ!」と大きな声で悲しむステPたちに言っていたのがシンプルに言うとモヤった。タイミングが違うだろうと。どちらのアイドルも別時空の話だからモバは代わりにならないのではないか?事務所は人それぞれ、そう声を発してくださったPがいらっしゃったが、まったくもってその通りだ。SideMPたちはすぐ新規を囲うが、空気ぐらい読めないのかなと思ってしまった。自分の好きなものを上げるために他を下げるのは最低だ。それを身内間でやってどうする。モバユーザーとステユーザーの溝が深まるのはこういった一部のPの言動が原因の一端を担っていると思う。
生放送について
生放送終了後、お偉方がわざわざ出てきて謝罪会見のような生放送を行った!誠意がある!との意見がTLに流れてきた。異例だとは思うが誠意があるとは思わない。
これまでの年末合同生放送やスターリットシーズンの対応から不信感が積み重なっていて色眼鏡でしか見ることができないからかもしれないが、週の初めからあのようなユーザーを不安にさせる告知をして実際の生放送は8分間、中身は【運営はクオリティの低さを知っていたが黙認していた】と言い訳のような内容。新作は企画段階で何も発表はできない。誠実だと自分は感じられなかった。
運営の対応が誠実云々、が個人的な感想ならああ、そう感じた人もいたんだね。だけに留めるがあの放送に怒りを感じている人たちに対し同調圧力をかけるのはやめていただきたい(そういった意見にやめてというのも同調圧力や封殺なのではないか?と言われればそれまでだが……)。
そもそもこのジャンルは異常だ。まず愚痴はほとんど封殺される。最近ではそういった風潮は薄くなってきたが、まず愚痴隔離の壁打ちがある時点でかなりおかしいと思う。腐隔離などの壁打ちは見たことがあったが、愚痴隔離の壁打ちを自分はこのジャンルに来て初めて見た。アニメに担当がアイドルとしてでなければ二期まで待とう順番だよ、と封殺され、外部のコラボに一切担当がでなければそのうち来るよと封殺され、ユニット曲は来ないのかと愚痴れば曲は出てるからそんなこと言うなと封殺された。結果はどうだ、何も変わらない。人が自分と異なる意見を持つのは当たり前だ。同調圧力をかけるのはやめたほうがいい。新規なんてそれこそ入ってこれない。
また生放送前後のユーザーの話になってしまうがいわゆる候補生ゾンビの一部の方にも自重していただきたいと感じてしまった。正直タイミングが最悪だ。これ以上言うと自分自身が大嫌いな封殺を行なってしまうこと、そう発した個人まで特定できてしまうことになるので言及はここまでとする。
SideMが好きだ、315プロダクションのアイドルたちが好きだ。終わらないでほしい。アイマスブランドに胡座をかかず、課金したいと思えるような新作を作ってほしい。大抵のPはそう考えていると思う。
年末の生放送がSideMにとっていいものであり、またこれは起こってほしくはないが悪いことがあったとしても愚痴封殺や同調圧力をかけられることがないよう切に願う。
これは自分がTLで実際に目撃したことだが、モバ中心のPがステ中心にやっているPはアイドルのことを知らないといった旨のツイートをして、このツイートを目撃したほぼすべてのイベントの衣装を取りきり担当上位では1桁や2桁の順位を取っていたアクティブなPが引退してしまったことがあった。ゲーム性やシナリオ、設定などで優劣をつけそれを好きな方まで下げる前に一度自分のツイートを見返すことをおすすめする。
私はアニメオタクだ。
動画を分解してコマにし、ひたすら書き写し、モーションのメタモルフォーゼだとかタイミングだとかを理解して楽しんだりしている。
絵が動くの仕組みを考えれば考えるほど、生きてるってすごいと思ってしまう。
よく動く京アニみたいなやつはもちろん、低予算と思われる枚数の少ないアニメがいかに工夫して面白く見せているか、観察して発見するのが本当に楽しい。
こういうオタク趣味の蓄積で、いま少しずつアニメーションの仕事をもらっている。
増田のいう「アニメに貢献」っていうのは、アニメに関する物づくり全般を指していると解釈したので言わせてもらう。
自分はまだまだショボいが、それでもアニメ制作に携わる人口を増やしたアニオタの一人だ。
ばかやろー
読み切りの時点では多分読んでいなかったと思う。だけど連載第一話は読んだ。ジャンプではウケないだろうけれど、自分は好きだなと思った。
毎週毎週引き込まれていった。絵柄は上手いとは言えないし、看板になるような作風ではないから長続きはしないかもしれないが、うまい料理屋の隠れた名品のようになってくれればと思っていた。
気がついたら、小料理屋の看板メニューになり、さらに気がつけばチェーン展開されてくファストフード並みに世の中に広がっていっていた。
鬼滅の刃を初期から好きな人間は、少なからずそのアングラサブカル臭を嗅ぎ取って気に入っていたのだと思う。自分は界隈に詳しくないので、こういうところが〇〇っぽいなどは言えないのだが、多くの人が気がついていない魅力を楽しんでいることを楽しんでいた。
それが今や大衆文化となり、日常でとても目にするものになってしまった。漫画やアニメを好んでいない父でさえテレビでやっているのを見て「これは鬼滅とかいうやつか?」と興味を示していた。最悪だ。
自分が望んでいたのはこんな状況ではなかった。自分の望み通りになるとは思っていなかったけれど、ここまで世の中が動かされるとも思っていなかった。自分の好きだった作品は、大衆に奪われ、大量生産され、消費されていっている。
ゲームを純粋に楽しんでる人には申し訳ないけど、人狼ゲームが好きだと公言する人間と有効な関係は築けないと確信してる。
さすがに未プレイで文句を言うのもなぁと思って何度かプレイはしてみた、だが、あれは人を騙し疑い貶めて笑いものにするゲームである。
自分が勝てれば他人なんてどうでもいいという本性をしっかりと表してくれるのである。
その点で地雷の可視化が出来たので、Twitterで「人狼やりたい」などと宣うフォロワーは静かにミュートして、程々のところでブロックするのが最近の密かなストレス発散方法だ。
同じロールプレイゲームでもTRPG…特にクトゥルフはとても好きだ、世界観がハッキリしていることもあるが、自分が頑張れば道を開いていける、生存ENDやTRUEENDも可能性を見いだせる。(もちろん卓にもよる)
だが人狼はとにかく他人を蹴落とし侮辱し、あまつさえ人狼を苦手とする人間を徹底してバカにする、人間関係を容易く崩壊させる遊戯だ。
もちろんそれを好きだという人間には申し訳ない気持ちがある。こういう話をして差別主義者だのアカだのレイシストだのと罵られても構わない。だが人狼が嫌いだ。
いじめられていた頃を思い出すからだろうか?だとすれば随分繊細な心を持っている自分にも驚くが、もしかすればそれが無意識な嫌悪に繋がって、今日ここに宣言するほどの不快を自覚したのかもしれない。
再三話すが、人狼が大好きでプレイする人間がいることは当然だと言える。
そういう人間の主張ということで、吐き出して考えてまた生きていく。
https://anond.hatelabo.jp/20201105022308
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タイツといえばあの絵師先生。毎週月曜日(月曜以外も)の投稿が楽しみで前からフォローしてます。
だから最初は炎上とか関係なしに、月曜日の習慣として、通勤途中にあの朝タイツ絵を見たんだよね。その時メーカーコラボを知って、実はちょっとギクッとした。前からメーカー公式垢と絡みがあったのも知ってるけど、あっこんなふうに堂々コラボするんだって。
先生の絵は好きだ、女の子はかわいいし、えっちなのも好きだし、フェティシズムもっとがんがん出してくれって応援しながら見てる。でも、先生=タイツフェチの神!エロの化身!(褒めてる)。そんな先生とメーカーが堂々コラボはどうなのか?
実はこの時点でリカちゃん公式垢のことを思い出してしまった。はっきり言ってしまえば私自身はエロコンテンツが大好きだし、二次ロリも大好きだし、古き良きネットのゲスなオタクノリ文化に愛着を感じているけど、それとこれとは別で、顧客を踏みにじるようなあのリカちゃんツイートは広告として絶対よくないよなって思っていた。そのことを思い出した。
だけど、リカちゃんと違って、広告として絶対ダメだとまでは思わなかったんだよね。最初はちょっと怯んだけど、「ああ、最近はこういうイラストが市民権を得たんだな」「きっと若い子はこういうイラストが好きな子が多いんだろうな」って……それに先生の絵は普段と違って性的な部分が抑えられていて、配慮がされていることも見て取れた。だからちょっとびっくりしたけど、こういうのが好きな人もいるよね、という理解で受け止めた。
退勤時にはタグから飛んで他の絵師さんの絵も見た。そして思っていた以上にタイツにいろんな商品があることを知った。足首に柄ラメ入りのとか、厚手のもこもこのやつとかはかわいくて、この2点は商品ページまで飛んでじっくり見たよ。足首ラメ入りのは手入れが行き届いた靴と合わせないと自信ないなぁなんてことまで考えた。だからこの企画は、私という顧客のひとりにはしっかりリーチして役割を果たしたのだ。きっと私みたいな人は他にもいると思う。
でも炎上してしまった。案の定といえば案の定だとも思ったけど、ツラい。もうこの手の話題はいやだ、しかもそれが私の好きな絵師さんだと本当にいやだ……。火をつけている人に怒っているわけじゃない。私だってフェミニストを自認している。でも私の「好き」が火中にあることがツラい……SNSを開くと批判派と擁護派に身を裂かれそうなのがキツい……
なんていうか、大好きな二次創作作家が本家とコラボしたら、こんな気分になるんじゃないかな。たしかに二次エロが大好物で楽しんでいたけど、本家と堂々コラボされてしまうと……ちょっとそれは違う……本家どうしたん……。しかもそれで炎上して、ああ……好きなものがいっぺんに燃えてる……もうちょっと二次創作は影で細々とやっていてほしかったよ……みたいな。
今回、先生は絶対に悪くない。けど先生を表舞台に引っ張り出して炎上のきっかけを作ったメーカーの方はちょっとだけ憎い。ちょっとだけ……
でも!私みたいな顧客に対してきちんと広告の役割を果たした、その一点に限っていえば成功していたとも言えるんじゃないかな。私とは別の多くの顧客に嫌な思いをさせたのは失敗だとも思う。でも、そんな時はできれば「私は好きじゃない」「私向けではない」「こういうのが好きな人もいるんだな」と思ってもらって、そっとしておいてもらいたい……だって本当にそういうのが好きな女性はいるんだから……だけど私の中のフェミニズムは、意見表明するのも当然だとも思うしね。でもこの企画嫌いじゃなかったよ。ああ、憂鬱です。
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大好きな二次創作者がいる。
その人が作る全てが大好きだ、生み出すものはプロ並みの技術と言ってもいいと思う。
本当に大好きだ。
しかしその人は自分の作品は下手だとずっとずっとずっとずっとずっと言い続ける、
沢山評価が付いた作品もまぐれだとやっぱり下手だと言い続ける。
私に出来る事は感想を伝えること好きだと伝えることその人が求めるCP作品を少しでも増やしたいと自ら創作もした
するとその人が生み出すものには到底及ばない(謙遜でも思い込みでもなく本当に自分は中なのだ)私の創作物と比べ自分は下手だと言う
私は間違ってしまったんだろうか
どうしてそこまで自分のかくものを、かいた自分を痛めつけられるのか見ていてとても悲しい、
■夢女子は隠れろ
その文字については割愛するが、そのトレンドの原因は鍵なし垢の夢絵である。
私は隠れて隠れてやってきた時代からの古いオタクであり、夢女子である。
今は腐女子だろうと夢女子だろうとTwitterでは鍵なしで妄想を垂れ流しが横行している時代には正直辟易している。
今の子にとっては夢絵、とだけ言うと別にいいじゃんとも思われるかもしれないが、そこに原因があるというだけで今回のトレンドに関係しているのは本当に不愉快だ。
推しが2次であればいいという問題ではない。推しがどの次元だろうと、夢というのはその本人の夢(願望)でしかない。
他人様を勝手に彼氏だのなんだのと自分や自己投影の女子やうちの子という創作キャラと絡む様を世間様に大っぴらに公表しているのは本当にどうかしていると思う。
お相手は実在している人物であったり、誰かが丹精込めて作ったキャラクターたちである。
自分の欲求を吐き出したいのならせめて鍵垢でやってほしい。これは夢女子に限らず腐女子にもそう思ってしまうのだけれど。
ここまで書いているが私自身夢女子である。推しとの夢絵も夢小説も大好きだ、それもわかる、わかるが鍵垢でやれ。
今回のように夢女子のことでトレンド入りするのは初めてではないが、今回は流石にトレンドの理由が理由なだけに、夢女子全体が悪とされる気がしてこのような愚痴を吐き出している。
腐女子が既に相当な市民権を得ている以上、夢女子も許されてもいいと思っている人も多数いるだろう。
だが、腐女子と夢女子とでは自己がそこに介在しているかという大きな壁がある。
腐女子の願望は他の腐女子と共鳴することが大いにあるが、夢女子の願望はその本人の願望が強く、他者と共鳴するようなことは少ない。
いまいくらTwitterのフォロワーに吉牛されているからと言って、世間様にその自分の夢が広く認められるようなことは絶対にない。
そ れ は 、 己 の 夢 で し か な い か ら な ?