はてなキーワード: フリーターとは
24歳大学中退で、中退した時はマジで自殺考えてたけど、思い切って同じようなとこに応募して仕事始めて半年たったよ。
とりあえず生きていけそう。資格取れば給料上がるし、未来に多少希望は持てる
ぶっちゃけそういうとこ応募して、未経験だと最初のうちはコールセンター業務とかそういうよくわからんバイトレベルの仕事させられることが多い。
そんで業務後とかに自分で勉強して資格(LPICとかオラクル系とか)とるように言われる。
正直この時期はフリーターの方が稼げるじゃんとか思うけど、固定給と身分保障の安心感はそれを上回る。書類上の職歴も残るしね。
そこからのステップアップは自分次第だけど、正直いってこのくらいの年でまだ働いてないやつなんて社会不適合者が大半だと思うし、
カルディの手提げバッグを持つ人を見かけた。
母も持っていたな、と思い出した。
母は歩くのが速い人で、高校生になっても早めに歩かないと追いつけなかった。
脚力が強かったのか、自転車をこぐのも早くて、
私が15分かかる近くのイオンのカルディに10分ほどで着くため、買い物が好きで
たまにそこで買ってきたコーヒーと、お菓子と、変わった調味料と、オリジナルのバッグを
「いいのがあった」と誇らしそうに見せてきた。たしかにいい感じのバッグだった。
大学を卒業してフリーターをしていた私は母と一緒に暮らしていた。
仕事を見つけなくてはな、と思いアルバイトをしつつ、面接を受けていて、
このまま母と暮らすつもりだった。
何社か受けては落ちるを繰り返していたある日、受けた面接で「東京で募集をしている」と言われた。悩んだ。
やりたい仕事もできそうで、正社員として働いた経験もない自分を採用してくれる所はここを逃せばもうないだろうなとも感じた。
母は「すごいじゃない」と言って、ここを逃せばもうないよ、と続けた。親子だなぁと思って笑ってしまった。
私はその会社に入ることにした。そうして慌ただしく引越しをして、私は東京で仕事と一人暮らしを始めた。
しばらく離れて暮らすうちに、電話越しの母に元気が無くなってきた。
年2回の帰省と電話だけしかできない私は日々の話を聞くことしかできなかった。
冬の日、母は田舎へ帰った。一人で暮らすことが難しくなってきたためだ。
思えば自分の家族は家族としての交流が薄くて、個人が強かった。
だけど本当は心の中ではちゃんと思いやっていたのかもしれない。会話が乏しい不器用な家族なのだと思う。
危うい均衡を保っていただろう家族を、父は静かに、えぐるように壊した。
泣いていた母の顔は一生忘れない。どんな理由があってもやってはいけないことを父はしでかした。
それと同時に、父と色々なことを話せていればこれは起きなかったのだろうか、とも考えるがこぼした水は元に戻らない。
私の願いは家族に縛られず、母個人の人生を楽しんでくれることだった。
だけど、そんな家族の中で20年以上過ごしてきた母の人生の中心は家族だった。
私があの日そのまま一緒に暮らしていれば、母は自転車をこぎ、好きなところへ行って
家族のために買い物をして暮らせていただろうか。過ぎ去ってしまった今ではこれもIFの話だ。
母の引っ越した田舎にもイオンがあってカルディが入っている。そこへはもう車でしか行けない。
もうすぐ二十七歳になる。
紙に書いて壁に貼って、誕生日になったら剥がせばいいのかもしれない。
「今、俺は26歳! 社会人4年目! ここが頑張りどき!」
みたいなことを正月にでも筆で書いて、壁に貼っておく。
誕生日が来たら剥がす。そして次を貼る。
「今、俺は27歳! 社会人5年目! 上からの評価だけでなく、後輩の育成も、ね!」
時間は流れてゆく。
いや、流れているはずだ。
僕の中の時間は止まったまま、現実世界の時間だけが過ぎている。
27歳になるのもビックリする。
22歳になったときはまだ覚えている。
そこからの5年、何かあったのか?
子供のいたずらで、時計を針をぐるぐると何回も何回もまわして、気がついたら2017年になっていたような気さえする。
サラリーマンになんてなりたくなかった。
フリーターになって夢を追うとか、まあそのぐらいの選択肢はあったけれど、実質的に就職する以外の選択肢はなかった。
労働ということに、価値を見出せなかった。今もそうだが、昔からそうだった。
就職活動。
長い年月を費やしたけれど、今の僕にはほとんど記憶がないのは、忌々しい記憶だったからだろう。
長い就職活動だった。
会社に入ってくる後輩は、学歴も就職活動のハードさも、ワンランクもツーランクも落ちるような奴らだった。
結局は運なのだと思う。
僕の同期は、就職留年したり、未だに実家に寄生したりするが、それはなんだったのだろうか?
そんなものは存在しなかったかのように、日経平均は上昇し続けている。
そして僕もまた、そんなものは存在しなかったかのように、安定した暮らしをしている…
リクルート的な価値観に従うならば、仕事というのは自己実現の手段でなければならない。
仕事を通して、大きな変化を社会に与えて、それを通して自分という存在が救われるのである。
その文脈において、僕がしている仕事は、まったく価値のないものでしかない。
僕の勤めている会社の利益だけを考え、その関係者だけが幸せになるものでしかない。
やっていることが、FAXからExcelの穴埋めに変わったくらいか。
技術者気質だが、管理職としての自分の役割も理解して、高いレベルでバランスのいい部長がいて、
放任気質でどうでもいいところはノータッチにして、締めなければいけないところは締める課長がいて、やりやすい。
そういう上司のもとで、それなりの成果が出せている気がする。
そんな恵まれた環境でも、三年目くらいまで、どうしようもないくらいの焦燥感があった。
自分の技術力とか、会社の求めているマネジメント能力とか、そういうものへの反発があった。
早晩潰されてしまうのではないか、という不安は常にあったけれど、色んなものに恵まれて、そんなことはなかった。
僕が居心地がいい環境というのは、ずっとなかった。
家庭でも、学校でも、バイト先でも、そんな環境はなかった。友達や恋人の部屋でさえも、僕は居心地の悪さを感じていた。
極力シンプルに生きようと思っている。
平日はそれで過ぎていく。
休日に色んなことを考えてしまうが、それだけが僕の生きている時間なのだと思う。
平日はそれでいいと思う。
よくもわるくも、僕はサラリーマン(社畜)である自分を受け入れつつある。
今の日本には、僕と同い年で、同じくらいの給料をもらえている人間なんてほとんどいないのだ。
けれど、それは結局、失われた20年に突入した日本の大半の若者が得られなかった、ある時代は当たり前だった待遇でしかないのだと思う。
もちろんそういう詭弁をもって、仕事をやめて、自由を手にしようということではない。
何が言いたいかというと、このままだと、僕に許された幸福に続く道のりは、
いい奥さんをもらい、仕事を頑張り続けることだということしか残されていない、ということなのだ。
幸福に関しては書きたいことがたくさんあるけれど、はたしてそんなことなのだろうか?
僕にはわからない。
わかる人間なんているのだろうか?
この文章で、誰かを批判しようとか、肯定しようとかいう気持ちは一切ない。
大学の頃から20代折り返しの今までコツコツ貯めて今年の冬のボーナスで貯蓄額500万行くな!とウキウキしてたら独り身の血縁者が突然病に倒れた。健康診断をきちんと受けていなかったこの親族、病状が悪く行政の制度を利用しつつもそれなりに高額な医療費が掛かった。親族でこの医療費を出資出来るのは貯蓄のある私だけだったので、貯金から払った。今後も通院が続くというのでお金を少しでも親族の手元に残させる為に、退院後親族が会社に持って行く菓子折り代も払った。借りているという駐車場代も払った。そういえば病院で使うタオルやパジャマ、下着、洗面用具その他全てに掛かる費用も払ってる。
父親の祖母が死んだ。幼少期散々母や私を虐げて来た祖母に対し払う金は鐚一文ないと思っていたが、祖母と一緒に私を虐げて来た父親は「俺の給料から天引きで祖母の葬式代を出す。嫌なら家から出て行け」と母に宣った。父親の給料から月々祖母の葬式代を出すと家計費は一万円しか残らない。母も働いているとはいえパートタイマー、そう高い稼ぎは望めない。葬式代を払い終えるまでの二年間、母の支援の為に生活費を払う。
私には10歳上の姉と2歳上の兄、一つ年下の妹がいる。それぞれフリーター、ニート、フリーターという肩書きで実家に寄生しており生活費だけが掛かる。収入源にはなり得ない。家計は上記の通りなので生活費を払うが、私が必死に働いた金がこいつらの衣食住になると思うとこんな静かな夜なのにとても穏やかではいられない。
貯金残高がみるみる減っていく。今年中に500万到達なんて夢のまた夢だ。しんどい。お金が減ることではなく「自分に原因がないのに、苦労して築いたものが他者によって崩されること」が苦しい。何で私がこの理不尽を負うのか?という気持ちが拭えない。私はケチなのか?金の亡者なのだろうか?ちゃんとした人は病気の親族を労わり亡くなった方を悼み兄弟を我が身のように想うものなんだろうか。どれにも当てはまらない自分は自己中心的なのだろうか。
今後も貯金残高が減ることが予想されて気が滅入る。こんなことのために貯めたんじゃないのに。自分の為に貯めたのに。
お金の話だしこんな内容だし、友達にも誰にも言えなかったからこうして吐き出せて良かったし反応まで貰えて嬉しかった。ありがとう。
姉は以前外で借金作って、ヤクザ引き連れて母の職場に乗り込んできた前科持ち。借金作って借金取りに追われるまでの流れをもう数回繰り返してる。兄は母から貰った大学の教科書代や定期代を全部趣味にぶっこみつつ、大学に通ってるフリを一年か二年し続けてその間母からずっと「教科書・定期代」を貰い続けてた。大学中退後三十路間近の今までヒキニート。ニートだけど飯と風呂は人並み以上。
妹は就活生時代「説明会で頷いてる奴ら全員赤べこww馬鹿みたいwww」とイキッた結果フリーター。全員いつ他所様に迷惑を掛けるか分からんから監視下に置いておくというのが母の方針。座間市の件が全く他人事じゃない、この三人は何をしでかすか分からない。生活費が足りなくなった母親がキャッシングに手でもしたらそれこそ後が厄介なので足りないお金は私の貯金から出すのが一番平和なルートとして確立されてしまっている。本当は出したくない。でも職場に乗り込まれたりするのはとても困る。
父も姉も兄も妹も全員明日辺り不慮の事故で死んで欲しいと願わずにはいられない。
こうしたあまりに不出来な親族は本当に、本当に呪いだと思う。私は前世で放火殺人レベルの重罪を犯した罪を今償わされているのか?と思ってしまう。他にも更に苦労してる人は沢山いるだろうけど今夜くらいは苦労人としてその頭数に入れて欲しい。
増田達の家族ってみんなまともな人ばかりなんだろうか。自分もまともな親族に恵まれたかった。兄弟の人数だけは多いし、心強さを感じてみたかったな。
もうどうしても働きたくない。
今の仕事に不満があるわけじゃなくって、むしろ前の会社で嫌だったところ(ノルマ、社風、勤務時間、上司の人間性、飲み会の多さ、他)
は全部なくなっていて、本当に運がよかったなと思う。
でも嫌だ。社会に関わりたくない。何が嫌なのか自分でも分からない。死ぬまで布団をかぶって過ごしたい。
前の会社を辞める間際は「次はもう少しマシな仕事」なんて、まだ働く気があった。
その後しばらく半ニート半フリーターしてるときも「正社員にならなきゃ」とか、不安定な自分の地位に焦りと罪悪感があった。
で、今、その少しはマシな仕事にめでたく就けたのに、なんだかだんだんしんどくなってきて、
正直もうどんなに楽だろうがホワイトだろうが働いて給料をもらうなんてことしたくないし、人間の顔も見たくない。
どうしたんだろう。何が嫌なんだろう。
でも、今時働かないで生きていけるのは能力のある人、運のいい人、病人、犯罪者くらいで、
俺はどれでもないから働かないといけない。死にたくない。
夢を追いかけている人のほうが、例えフリーターだとしても人生楽しそうで羨ましい。
毎日決まった時間に、何の面白くもない仕事をして25万円の給料を貰う生活が嫌で嫌で仕方が無い。
「じゃあ、やめれば?」
わかってるんだけど、辞めてしたいことも見つからない。
何かに夢中になることができればきっと人生は充実するのだろうけれど
お金は欲しいし、恋人も欲しい。気を許し合える友人だって大切だ。
夢を追いかける人って、どうやってその夢を追いかけられるようになったのかが知りたい。
というけれど、それはその後に貧乏になったり、夢破れて失敗してしまうことが
幸せじゃないっていうだけの話で、そんなこと言ったら今のこの25万円を貰う生活だって
将来幸せになるとは限らない。
物事が続かない。
「続ける気が無い」というのが正直な気持ちなのかも知れない。
無理矢理にでもやってみるのが良いのか。
流されるままに試して見れば良いのか。
変わりたいと思いつつ、変わろうとしているのにもかかわらず、結局は逃げ込んでいる毎日。
そんな自分が嫌にもなり、汚物を吐き出したくなったので書き込む。
趣味の延長線でやりたい事でもみつかるかと期待していた。
しかしながら、新しいコトに挑戦するのだけれど致命的に続かない。
「ガムを噛んで味が無くなったら捨てる」という例えがピッタリ。
最初の新鮮味があるウチはドハマりしてすぐやらなくなる。
機材投資は無駄にしたりする。(アプリ開発したくてMacBookAir買ったりズレてる)
少ないのかも知れないけど、ふわふわしながら手だけは出していた。
飽きると言うより「罪悪感」みたいなもの。
「本当はもっと勉強とかしないとなのに、なんでこんなことしているんだろう…。」みたいな気持ちになって、止めてしまう。
ゲーム作りたいからプログラミングを勉強しよう!と意気込んでもいた。
あわよくば技術がつけば仕事になるかも、など淡い期待も合わせて。
だけれど、解説書読んだり調べても中々向上に繋がらない。
勉強会にも参加してみたけれど、周囲との自身の意志の弱さを痛感してしまう。
プログラミング学習が続かないことを昔増田で愚痴っていたけど、根本的にやりたい事では無かったということなのか。
マインクラフトでサーバー立てていたから、サーバー監視のバイトでも出来るのかと思ってLPIC勉強してみたけど、2月から勉強を始めてまだ理解できていない。
他の趣味も同じようなモノ。
「これをやらなきゃ気が済まない!」なんて事は何一つ無い。
気晴らしでサラッとやってる程度で、詳しい訳でもなんでもない。
専門家とはほど遠い、趣味でやっているとも言い切れないレベル。
意識だけでもと啓発本を読んでみても、当日やる気になって翌日忘れている。
収入に繋がる趣味でもあれば、多少なりとも自信をもって継続して行けるのだろうけど、そもそも続かないのであればまず問題外。
思っているだけでふわふわしているだけな現状。
周囲と比べてもしかたない、しかし実現出来ている人間が羨ましく自分が惨めに感じる。
なんだろう言いたい事が書けていない。
こうやって書いていて、自身の考えもまとめることが出来ないとは情けない。
大学を出てから6年が経ち、テレビでCMをやっているような会社の採用面接を受けれるようになるくらい、キャリアの階段をだんだん登ってきた。
今こうして、地元にいた20年くらいとこの6年間を振り返ると、中学校の時のようなナヨナヨしている自分とは見違えるくらい大きくなったと思う。
おそらくこれからも仕事で成果を出せるようになるだろうし、これからの生活がとても楽しみだ。
しかし、現在進行系で不安要素が1つある。それは同棲している彼女だ。「来月籍を入れよう」という話をしていたのだが、
次のステップを目の前にしてしまうと、彼女の欠点が気なるようになってきた。
具体的には、癇癪持ちっぽいところがあり、僕への八つ当たりが目立つので、子供ができたらこの妻と子育てができるんだろうか、など。
それと、僕がお金の管理をやっているのだけど、彼女から家賃や光熱費(全体の3割負担)を受け取ると不機嫌になる(お金が減ることが嫌いらしい)ところや、彼女の仕事が長続きせずブラック企業ばかり引き当てながらフリーターでいるところを見ているととても不安になる。しかも自己中心で倍返し主義。話をしても言葉尻しか覚えてなくて本質をわかってくれないし。
今まで彼女の悪いところを見て見ぬ振りをしながら甘やかしてきた僕がすべて悪いである。
別れ話を切り出すと絶対に家の物を破壊してくるから嫌なんだもん。。。。人生詰んだよ。。。。
あーーーもうどうしよう。
共働きしようという話は二人で決めたことなのに、働けと強要してくる、という解釈をしているらしく話した内容の本質をまるでわかっていない。
とりあえず、とら婚いけばいい?
いろんな理由をつけてフリーターを続けるだろうから収入面で期待にできないだろうしで籍入れた瞬間から僕がATMになるの目に見えてるんだよ。
救いようのないオタク。
心療内科を受けるべきと言われた。
目にハイライトが入っていない人がたくさん来ている。
中学生くらいの子どももいた。子どもを見る親の目が心配の言葉に支配されていた。
身の上話と仕事の事を聞かれて、
調書を纏められた。おお、心療内科ってこうするのか。
そしてまた待たされた。その間にいくつかの心理テストをやるようにと言われ、それをやっていた。
とうとう医者に会う時が来た。
あって始めに言われたのが、
「休職されるべきですよ」
あれよあれよという間に
おお、そうきたか。
そして、休職が決まった。
何と無く楽しそうな事をしていたからという理由で中途で入った会社。
最初の1年は悔しい思いをたくさんした。
でも同時にたくさんいい経験をした。
フリーターでぷらぷらしていた自分にいろんな事を教えてくれた。
そう言い聞かされていたけど、蓋を開けたらそれどころじゃなかった。
まったく業務の仕組みが違う。
ここに来たら前の事は忘れて欲しい。
そう言われて目の前が真っ暗になった。
そこで歯を食いしばって2年目になった。
周りの事が少しずつ見えてきた。
そして、自分を馬鹿にしていた新人さんに対して目に見えないいじめがあるのに気付いた。
新人さんは腹のなかでは何を考えているか解らない子だけど、正義感は強い子だと思っていた。
若さ故にいろんな事に気が付いて、声を大にして言うタイプ。母親に似ていた。
それを上司へと伝えた。
暫くして彼女は助けられた。
それで良かったのだ。
今度は負担が私に振りかかった。
いじめは無かった。
が、業務量が格段に増えた。
私は仕事が出来るようになっていた。
新人さんがいなくなった後、この職場が上手くいくように、穏便に済むように、務めて明るく振舞っていた。
女ばかりの職場だから、当然ある事なんだろう。両親に話してもそんな結論ばかり。
私はオタクだ。
だから、癒されるのはオタクコンテンツだと思って、愚痴は両親に話し、好きなコンテンツを消費してストレス発散をしていた。
していた、ように思っていた。
いろいろな不調が出てきた。
身体が鉛のように重たい。
考えがぐるぐるし始める。
このCDとかグッズは売ったらいいさ。
でもこのぬいぐるみたちはどこへ行く?
私はオタクだ。
だから、この症状がなんなのかは薄々わかっていた。
でも見ないふりをしていた。
いよいよおかしいと気付いた時には、
好きなはずの作品を見ても、心から楽しかった!とはならなかった時。
心療内科の医者はこういうタイプの人間はどこにでもいると言っていた。
途端に罪悪感が湧いてくる。
冷静を保つにはどうしたらいいんだろう。
何かするべき事は?
色々けちったら1500で行けるだろう。
日本でのスーパー戦闘クラスではお目にかかれない戦闘力である。
国際フリーターの俺は家に湯船がなく
戦闘力6000と戦わなければならない
隣の国でも戦闘が開始されたそうだか戦闘力4000ぐらいだったはず。
戦闘力6000を楽に倒せる力がほしい。
財務省がサラリーマン控除の大幅削減に動き始めたと聞いて、とうとう政府はフリーランスを本格的に増やす方向に舵を切り始めたか、と思った。
経営者にとっても、政府にとっても、正社員や非正規雇用よりもフリーランスのほうが扱い易いのは言うまでもない。
正社員やバイト、派遣は労働基準法や社会保険などの加護があり、経営者にとっては重石になっているが、フリーランスは下請法しかない。
下請法さえ破らなければ、何をやってもいい。
いや、下請法もかなりのザル法で、実際は強引な下請単価や発注金額の値引き要請を年中やっている。
下請法違反で告発されないための交渉テクニックが元請けとなる大企業で普及してるから、告発されることもない。
下請法がフリーランスを保証してくれるのは、検収後の売上が確実に支払われることだけである。もちろん検収にもかなりのハードルがあるのは言うまでもない。
話がやや逸れたが、経営者にとっては、正社員10人よりもフリーランス15人のほうがいろいろやりやすいのである。
また、国民の平均年収を上げたい政府にとっても、フリーランス増加は都合がよい。
フリーランスは社会保険や経費が自腹となる分、収入の額面だけはサラリーマンより多くなる。
だから、フリーランスを増やすことで、国民の平均年収は100万単位でアップする。
そのような、経営者と政府の両方に都合が良いフリーランスブームを、これから政府と広告代理店が仕掛ける。
専門学校卒業後フリーターになった私。ある日パソコンを手に入れた。絵を描くのが好きだったのでフォトショとイラレを手に入れずっと触っていた。広告制作のアルバイト募集が目に入ったので応募して採用された。なんとかなった。エロ画像のアップローダを作りたいなと思ってwebの勉強をした。広告の仕事にも飽きていたのでwebサイトを作ってみようと思った。サイト作れるようになったのでサイト作成の仕事もやらせてもらった。なんとかなった。そろそろ就職しなきゃと思って小さい企業のweb担当として面接を受けて採用された。サイトを作成するだけでなくプログラムも組む必要があったので勉強した。なんとかなった。プログラムが面白かったのでwebサービスの会社に転職した。広く浅くだけどデザインもクライアントもサーバーもできるので活躍できた。会社でゲームを作ることになった。unityの勉強をした。なんとかなった。会社は上場した。cmでもやるようなゲームを作るようになった。ゲームに飽きたので退職した。無職になった。次は何ができるかすごい楽しみ。
年単位で目標設定なんてしていないし、就きたい仕事なんてない。
とにかく楽して給料を貰えればいいと思っている。
社会でちゃんと働いている人の中には「楽して給料を貰いたい」と思っている人はたくさんいるだろうけど、大半の人は能力を伴っている。
アメリカの大人気TVシリーズ「セックスアンドザシティ」などにも登場し、「フレンド(友達)」と「エネミー(敵)」から作られた造語で、いわば友達の顔をしながらも実は敵である人を指す言葉だ。
かげながら悪口を言ったり、マウンティングしてくる人などを思い浮かべる人もいるだろうが、フレネミーのなかでも厄介なのが「居場所をとる」「対象と成り代わる」人たちだ。
私は最近、中学時代からの友人Aをこれを理由に音信不通にした。
Aと友達であった時は、得体の知れないモヤモヤを感じながらも「私の心が狭いのかも」とあまり考えないようにしていた。
ある日「フレネミー」とい言葉を知りぐぐると、ネットにかかれた説明はまさにAそのものだった。
そして多くの人、とくに女性で悩んでいる人が多いこともビックリした。
私のように長年「なにかおかしい、でもなにがおかしいんだろう?」とモヤモヤしストレスをためながら、でもどうしていいかわからない人たちの少しでも助けになればと思って書こうと思う。
初めに結論を述べるとフレネミーへの対処法は「距離をとる」というのが一番効果的だ。
穏便に済ませたい人には申し訳ないが、フレネミーと普通の関係を築くのはほぼ無理だと思ったほうが良い。
Aとの付き合いは長い。中学・高校と一緒で、よく遊んでいたし連絡も取り合っていた。
ある日、中学の同窓会があった。そこでAと2年ぶりに再会しまた連絡を取り合うようになった。
専攻が近いためレポート前などはお互いスカイプしながら徹夜したり、彼女が東京へ遊びに来ることもあった。この頃のAは私にとって何でも話せる気の合う友人だった。
大学卒業後、Aは地元で社会人になり、私は地元にはもどらず東京でフリーターをしながら資格の勉強をしていた。
Aは志望していた業界が人気だからと諦め、近いけど違う業界に就職した。お互い新生活に追われながらも時々連絡をとりあっていた。
私が資格をとってやっと社会人になれたのがそれから3年後の春、ある日Aから「東京で改めて学生をすることにした、初上京だから色々よろしくー!不安がいっぱいだー!」とラインがきた。
私は嬉しかった。中学からの友人が近くに住むぞ!と意気揚々で東京で仲良くなった友人達にAを紹介しようと飲み会などをセッティングした。
私の電車が人身事故で遅延し走ってカフェへいくとAが店前で待っていた。そのとき「あれ?」と思った。
彼女が着ているスカートが私がお気に入りのものだとSNSに何回かあげているものと全く一緒だった。
でもブランド品だしかぶることだってあるかな、とその時は何も言わずそのスカートについても触れなかった。
諦めた業界へ30歳までにもう一度挑戦したい、と専門学校へ入りなおすことを決めたA。
夢を語る彼女の姿に私も嬉しくなったが、Aがふとカフェ内のすみの方で手を握り合っているカップルに対して「あんな顔でよく人前でいちゃつけるよねー気持ち悪くない?年齢考えてって感じ!」と周りに聞こえる声で言った。
私は突然のことにビックリしたし隣の席にいたおじさんたちは怪訝な顔をしていた。
この頃はAのこういう行動に対して「東京生活でストレスが溜まっているのかも」「環境がかわって神経がたっているのかな」と思っていた。
これは私に非があるが、あまり深く考えないようにしていた。同級生の悪い方向への変化を認められるほど私自身大人になっていなかった。正直このときの違和感を信じていれば、と今でも思う。
私はAをよく遊ぶグループや趣味のグループ、習い事や同僚など様々な自分が属するコミュニティの人たちに紹介した。
Aは少しシャイだが、私の長くからの友人ということもあり私をネタにしつつ徐々に皆と仲良くなった。
18歳で上京したとき友達ができるか、親元を離れて生活できるか不安だった自分を思い出し、なるべく彼女が孤独を感じないよう色々なイベントにも呼んだ。
春はお花見、夏はバーベキュー、秋はおうちパーティー、冬はスキー、クリスマスパーティーに忘年会などなど、私が今まで毎年していたことにAが加わった。
冬のある日、お台場のイベントに大人数で遊びにいくことになった。
駅で合流し、Aもそこにいた。私と全く同じコートを着て、同じカバンをもってそこにいた。
周りは「おおおーさすが中学からの仲だね!」「おそろい可愛い!」と盛り上がり、Aは「私このブランド大好きだからなあ~」と何食わぬ顔で話している。
このとき「もしかして真似されてる?」と、前のスカートの件とあわせて疑うようになった。
その日はあまりAと話さないようにした、なんだか話す内容から次なにか真似されたら嫌だな、となんとなく思った。
そのあとも真似は続いた。一度違う友達に「真似されるのってちょっと辛い」と漏らしたときに「あなたのことは大好きなのよ」「そんな真似とかなんとか中学生みたいな悩みもつなんて」と笑われた。
なんだか自分の心が狭く子供っぽいことで愚痴ってるように感じてその後、このことは誰にも言わないようにした。
新しい服やアクセサリーをつけて次にあったら彼女が同じものを持っている、それについて特に触れるわけでもなく、周りも「おそろいだ~」と笑うのみ。そのたびにちょっともやっとしてる自分は人間として未熟なんだと落ち込んだ。
その後、Aの真似はファッションだけでなく趣味や考え・意見にも及んだ。
私が軽い気持ちで参加したボランティアで関わったスウェーデンの伝統工芸に惚れ込み、実際にスウェーデンへいったり友人にも「本当に好きなんだね、いつかスウェーデン人と結婚したりして」と笑われるレベルにその話をしていた。
Aは最初興味がなさそうにしていたが、「最近スウェーデンに興味がある」に始まりあたかも自分はずっと前からスウェーデンが好きというような態度をとるようになった。
私が参加しているボランティアにも来て「私の友人なんです~」と色々な人たちと仲良くなっていった。
この頃になるとAの髪型や服装は後ろからみれば私と区別つかないレベルに一緒になっていた。
私はこの頃には彼女のまるで私の居場所というかコミュニティ内のポジションに居座るかのような、私の成り代わりになるかのような態度にかなりイライラしていた。
しかし、最初に色々な自分のコミュニティにAを紹介したことからどのコミュニティで遊んでも彼女がいる状態になっていた。
どのコミュニティでも私が誰かと話していたらAが寄ってきて、いつのまにか私が話していた人とAが話し、私が傍観者のような立ち位置になることが繰り返された。
Aの他者に対する暴言はますますひどくなり道端で「あんなデブでよくあんな服着れるね」「ババアのくせにあの髪型痛い!」と言ったりしていた。
私はそういう言葉をきくたびに疲れるようになっていった。
この頃一度ネットで「友達に居場所を奪われる」「友達にコミュニティを乗っ取られる」と検索したことがあった。
ヒットしたのはほぼほぼ中高生の悩みで、それに対して「人をとるとかとらないとかものじゃないんだから」「まねしたっていうけど自意識過剰では?」という意見を読み、自分がモヤモヤしていること自体が間違っているように感じた。自分が性格が悪い心の狭い人間だといわれてるような気持ちだった。
段々私はAに限らず友人たちと会うのが億劫になっていった。
何か買ってもそれを着たり使ったりするのが怖くなり、何か新しいことに興味がわいてもそれを人に話すのが嫌いなった。集めたスウェーデンの工芸品も全部売り払った。
不思議なことに私が中々イベントなどに顔をださなくあると毎日あったAからのラインはパッタリと途切れた。
Aに真似されるというのが、大げさだが自分のアイデンティティをどんどん奪われていくような感覚だった。
同じ趣味の教室に通う同僚が心配して声をかけてくれた時、いっそぶちまけてラクになろうと思ったときに「Aも心配してたよー!」と言われ何ともいえない脱力感に襲われた。
Aはその後も私の友人達と遊んだ様子などをSNSにアップしていた。
最初は同郷の長い付き合いの友人が自分の友人達と仲良くなっていくのが楽しかったし嬉しかった。
なのに私はなぜか友人達と会いにくくなり、孤独を感じるようになっていた。
28歳にして人間関係を丸ごとAにもっていかれたような感覚だった。
春先に会社帰りにバーへ立ち寄った。
久々にお酒が飲みたくなったけど誰かを誘うのも面倒だし、誘って「Aも呼ぼう」ってなるのが怖かったので一人だった。
しばらくぼんやり飲んでると隣に40代くらいの女性が座った。とても身なりが綺麗な人、仮にBとする。
マスターを介してBさんが話しかけてきた、彼女は大手アパレルの企画をしている人でいわゆるキャリアウーマンだ。
しばらく他愛もない話をしてたが、私はふとAのこと、今の自分の現状を話したくなった。
バーで会った私のことを今日知った人、私の属しているコミュニティのどこにも属していない「他人」だから話せると思った。
ポツポツと話し出しBさんは真剣な顔で聞いていた。
私は「子供っぽいんですが」「本当こんな悩み馬鹿馬鹿しいんですけど」「自分の心が狭いのはわかっているんですが」「女子中学生みたいですよね、ほんとしょうもないんですが」とそういう前置きを何度も使った。
話している最中に、自分が寂しいと思っていることをやっと受け入れられるような不思議な感覚だった。
大学でできた友達、大学の外でできた友達、フリーター時代にであった人たち、就職してから一緒に働いている同僚、ボランティアで一緒に一生懸命になった仲間…それまで考えたこともなかったけど、人間関係というのは自分が築き上げてきた財産だ。
それが、その財産が急に人の手に渡ってしまったような感覚、Aに対する不信感とそれを誰にも相談できない孤独さ、私がいた場所に私と同じ服やアクセサリー、カバンをもっているAがいる違和感。
話しながら涙と鼻水がでていた。Bさんがティッシュをくれたけどたりなくてマスターが箱ティッシュをくれた。
Aとの楽しかった思い出がいっぱい頭をかけめぐった。でもAが東京にきてからは辛い思い出の方が多くなった。
Bさんは「それってフレネミーってやつよ、辛かったね」といってお酒を一杯奢ってくれた。
「年齢の話はしたくないんだけど」と前置きしてBさんが話してくれた。
人間は年齢と共に人格が少しずつ変わること、それがいい方向に変わる人もいれば悪い方向に変わる人もいる。私はながいAとの付き合いのなかで無意識にAの味方をして自分の直感や違和感を信じずそれでストレスが溜まっていること。
子供っぽいというが誰だって自分が見つけたものや持っているものを真似されたら気分が悪いこと。自分のテリトリーに必要以上に入ってくる人間には注意しなきゃいけないこと。
そして、Aは私がいたポジションにおさまることで優越感や承認欲求を満たしているのだから、それはもう友人とはいえない、と。人との関係には寿命があるということ。
決定的だったのは「あなたはAさんを色んなコミュニティに紹介したけど、Aさんはあなを彼女のコミュニティに紹介はしてくれた?」という質問だった。
私はハッとした。Aは学校での友人の話やイベントの話をしてくれるが私をその人たちにあわせたり、イベントに呼んでくれたことは一度としてなかった。
Aは他の友人たちに悪口を吹き込んだりはしてない(と思う)が、なんというか私と他の友人達を遮断する影のようだった。
私の前にAがいて私は彼女の影のなかにいるような、段々彼女が私のオリジナルで、私がコピーのような感覚というか、成り代わられるというのは自分を消されるような恐怖感があった。
今でも何でAがそういうことをしだしたのかはわからない。私は真似されるような魅力のある人間ではない、もしかしたらAはAで寂しくて必死だったのかもしれない。
決定的なことをしたわけじゃないが徐々に食い込んでくるあの不気味さから、私はもうAに会うのはやめようと決意した。
Bさんは別れ際少しこわばった顔で「彼氏か旦那ができたときに、彼女に紹介しちゃダメよ」と言った。
私は帰って「フレネミー」で検索をかけた。冒頭にのべた通り、多くの人々がこの厄介な存在に悩んでいることを知って、不謹慎ながら少しホッとしてしまった。
Aとの関係は綺麗には切れない。
自分が所属しているコミュニティに彼女もまたしっかり根を下ろしているから共通の友人が多い。
でも、Aとは今では全く会っていない。何度か会う機会はあったが私がそういう場には絶対に行かないようにしている。
友達の結婚式などどうしても会わざるえない事で今後会う可能性はあるが…。
そういう制限のなかでなかなか会えない人もできてしまったが、前より心が平穏だ。
周りは不思議がっている人もいるし、友人伝手にAの話も聞くことがあるが、それはもうあまり気にしないようにしている。
夏になって私は新しい趣味に手を出しそのつながりで新しい友人ができた。
前に比べ人に警戒心を抱くようになったけど、やはり人との繋がりから得るものは大きい。
自分が着たい服、身につけたいもので遊びに行き、好きな話をしても真似される心配がないのが嬉しい。
「フレネミー」は十人十色、Aのように真似をしてポジションをとろうとする人や、マウンティングしてくる人、心配するふりして不安を煽ってくる人…色々いるみたいだ。
今もし、友達のことでしんどい思いをしている人がいたら、一旦冷静になって考えて欲しい。その人は本当に友達なのかどうかを。
「そんなことぐらいで」と他人が言う事でも自分がしんどいのなら、それは「そんなことぐらい」じゃないのだ。
時々Aと過ごす時間が多かった十代を思い出し少し悲しくなったりもする。