カルディの手提げバッグを持つ人を見かけた。
母も持っていたな、と思い出した。
母は歩くのが速い人で、高校生になっても早めに歩かないと追いつけなかった。
脚力が強かったのか、自転車をこぐのも早くて、
私が15分かかる近くのイオンのカルディに10分ほどで着くため、買い物が好きで
たまにそこで買ってきたコーヒーと、お菓子と、変わった調味料と、オリジナルのバッグを
「いいのがあった」と誇らしそうに見せてきた。たしかにいい感じのバッグだった。
大学を卒業してフリーターをしていた私は母と一緒に暮らしていた。
仕事を見つけなくてはな、と思いアルバイトをしつつ、面接を受けていて、
このまま母と暮らすつもりだった。
何社か受けては落ちるを繰り返していたある日、受けた面接で「東京で募集をしている」と言われた。悩んだ。
やりたい仕事もできそうで、正社員として働いた経験もない自分を採用してくれる所はここを逃せばもうないだろうなとも感じた。
母は「すごいじゃない」と言って、ここを逃せばもうないよ、と続けた。親子だなぁと思って笑ってしまった。
私はその会社に入ることにした。そうして慌ただしく引越しをして、私は東京で仕事と一人暮らしを始めた。
しばらく離れて暮らすうちに、電話越しの母に元気が無くなってきた。
年2回の帰省と電話だけしかできない私は日々の話を聞くことしかできなかった。
冬の日、母は田舎へ帰った。一人で暮らすことが難しくなってきたためだ。
思えば自分の家族は家族としての交流が薄くて、個人が強かった。
だけど本当は心の中ではちゃんと思いやっていたのかもしれない。会話が乏しい不器用な家族なのだと思う。
危うい均衡を保っていただろう家族を、父は静かに、えぐるように壊した。
泣いていた母の顔は一生忘れない。どんな理由があってもやってはいけないことを父はしでかした。
それと同時に、父と色々なことを話せていればこれは起きなかったのだろうか、とも考えるがこぼした水は元に戻らない。
私の願いは家族に縛られず、母個人の人生を楽しんでくれることだった。
だけど、そんな家族の中で20年以上過ごしてきた母の人生の中心は家族だった。
私があの日そのまま一緒に暮らしていれば、母は自転車をこぎ、好きなところへ行って
家族のために買い物をして暮らせていただろうか。過ぎ去ってしまった今ではこれもIFの話だ。
母の引っ越した田舎にもイオンがあってカルディが入っている。そこへはもう車でしか行けない。