はてなキーワード: つのとは
子供の頃から生活は苦しかった。私は、ギャンブル依存とアルコール依存の親を反面教師として、堅実に生きて来た。
高卒で働き出してからは金の使い道が分からず、毎月20万円は貯金していたが、貯金が400万を超える頃には親が金の無心で無くなった。
自分の親が土下座をして、二度と借金はしない闇金に殺されると、泣く情けない自分の親が許せずに、それでも信じては裏切られるを3回ほど繰り返した。
結婚して別居をしたら解放されると思ったが、今度は会社に親が来るようになり、その頃はまだ保険証の写しでサラ金のカードが作れたので、知らぬ間に私名義の借金も出来ていた。
そこで私はブラックリストを扱っている信用情報機関の相談窓口に行き、自分名義の借金がいくらあるのかを調べて貰うことにした。
対応してくれた父と同じ年齢層の方が、その身に覚えのない借入金の一覧を見ながらポツリと「可哀想に・・」とつぶやいて、もう涙が止まらなくなった。
担当の方は私が泣き止むまで静かに待ってくれて、そして2つのアドバイスをくれた。
一つ目は、自らに貸付自粛制度をつけること。これは「免許証の原本でのみ貸付が可能」など、特記事項がつけられるから、自分自らのクレジットカードなどは問題なく作れるが、特記事項以外の証明書では作れない。
二つ目は、何があっても絶対親の借金は返さないこと。「サラ金闇金はその人が返せない事を承知で金を貸すんだよ。絶対本人が返せない額を貸しても、誰かがいつの間にか清算してくてれるなんて、闇金の超得意様だと思わない?」と笑った。
親の借金は私のせいだと言われ絶望の底に落ちた。それからは「親のため」金の無心には断固拒否することを決意した。
子供の頃は尊敬していたし自慢で大好きだった親が、今や威嚇し怒鳴りそれがダメなら泣き落とし、最後には言葉にならない悲鳴を上げて私に懇願する。
両親は借金で離婚し、父は家も追い出されやむなくトラックの運転手をしながら車で寝泊まりをするようになった。それでも競馬新聞は手放せない。
親の借金を返したら、この私の苦しみは解放される。なのに金はあるのに返せない。苦しみに耐えきれず、とうとう私は精神を病み死のうと思い家を飛び出した。
フラフラと川の土手を歩いて、気づけば橋の上からぼんやりと街並みを見ていた。
爽やかな風が吹いて、大きな犬が飼い主と散歩をしている。遠くで子供野球の声がする日曜日の昼下がり。穏やかな景色に、確実に私だけが浮いている。
「こんな所に住めたら幸せだったなぁ。」ため息もつけずに立ち尽くしていると、ふと土手向こうに空き地が目に入った。空き地には白いセダンが1台停まっていて中にオッサンが退屈そうに座っていた。
なんとなく橋から空き地に向かってみた。空き地に着くと「売地」と看板がかかっていて、暇そうなオッサンが私に気づき「昨日から売りに出したところで明日広告を打つんですよ。いかがです?ひとつ買いませんか?」と暇つぶしに話しかけてきた。
「ああ、ください。全額借金ですが良いですか?」驚くオッサン。
私は気づいたのだ。今までの苦しみは私がお金を持っているからで、私が借金まみれになればその苦しみから解放されると言う事を。
その後、色々あったが1年後には一戸建てを建てて、離婚していたはずの両親とそのうち新しい旦那と子供がこの家に住むことになる。
両親は年金開始年齢で早々に死んだ。そもそも年金を掛けていなかったので全く損はしていない。そんな運命だったのだろう。
借金をしたいがために購入した家が、そのうち余裕ができるようになった。誰も金の無心には来ないし、子育ても住宅ローンももうすぐ終わる。
今では親のおかげだと感謝している。
ゴールポストを動かすどころの話じゃなくて、サッカーのゴールポストがいつの間にかバスケのリングに変わってるような話が出て来てて草。
コストプッシュ型インフレで消費を冷え込ませといて、ここからどうやって需要増やすってんだろう。
そもそも国内消費は人口減少と共に総量が減ることは確定しているのにね。
死んでいく連中の分も余計に消費するようになる「ぼくのかんがえたさいきょうのけいざいしさく」がそれぞれの頭の中にはあるんだろうな。
少し前までは、その「ぼくのかんがえたさいきょうのけいざいしさく」が「マイルドインフレ」だったんだが、
インフレさんは人間の都合なんかお構いなしに暴れまわるじゃじゃ馬だったので上手くいかず、
思い通りにいかない現状でひねり出した言葉が「コストプッシュからデマンドプルへ」というのもなんか哀れになってくる。
ようやく円安も落ち着くかと思えばまた円安方向に大幅に振れてて、もうしばらくは通貨で博打やってるクズ共の玩具になりそうなのが笑える。
なかなか上手くいかないもんだね。
うるせえんだよマジで
うちの親も他の住民も大家も そんな迷惑なやつを甘やかすな。普通に騒音公害だし、そもそも大変とか可哀想とかなんで思ってやる必要があるんだ?そんなん産んだやつの責任だろ
こっちは受験控えてんのに、お前みたいな迷惑親子に睡眠削られて勉強中もうるさくされていい加減殺意湧くわ。毎日毎日ストレスなんだよ
その親子もムカつくし、あとうちの親にもムカつく。うるさくて困るから大家に厳重注意なり依頼して欲しいって話したら赤ちゃんは泣くのが仕事なんだから我慢してあげなさいってさ。一回あんまりうるさいから壁叩いたら親に怒鳴られた。壁叩かれるのが嫌ならさっさと泣き止ませれば済む話だろ。他人に迷惑かけといて可哀想もくそもあるか
泣くのが仕事っていうけど、それのせいでこっちは何回も夜中に起こされたりしてるんだけど?成績下がったら責任取ってくれんのか?
マジでストレスがヤバい。睡眠邪魔され過ぎてノイローゼになりそう。てか、こんな毎晩うるさいとかどうせ虐待でもやってんじゃねえの?
普段は都会と呼べる場所で暮らしているが、常に何かに急かされているように感じる。
行き交う車、人がすし詰めとなった電車、道を歩く人の群れ。仕事では8時間以上パソコンの前に座り、仕事の関係者とのやり取りをメールやメッセージツールで延々と続ける。
仕事が終われば終わったで、SNSや動画サイトでぼんやりと情報を見つめ続ける。就寝しようとベッドに横になっても、気がつけばスマホを触って取り留めなく情報を探している。
脳が、心が落ち着く暇がない。
プライベートの時間にパソコンやスマホを触るのは自業自得ではある。だがそれもストレスからの逃避行動だ。情報に触れすぎて疲弊したストレスで情報を眺め続ける。スマホ中毒、PC中毒と呼ばれる症状なのだろうが、冷静に考えてみると末期感が半端ない。まるで泳ぎ続けなければ死んでしまう回遊魚のようだ。
そんな風に家ですら心が安まらないので、街から離れ自然の近くまで来た。
少し長めの休みを取って。
寂れた温泉街は良い。人も車も少なく、営業している店も少ない。刺激が少なく、やることもない。精々が温泉に入るか、散歩をするくらいだ。
沸き立つ源泉の湯気や、しとしとと降る雨粒を眺めていると、どれだけ心が疲弊していたかに改めて気付く。
ずっとこうしていたい。働くことに、普通の人として生きていくことに疲れた。
そういった生き方もあるのだろう。臆病過ぎて、今の生活から離れることが出来ないけれど。
他の人達はどう耐えているのだろう。苦しくないのだろうか。凄いなぁ。
こんなゆったりとした時間を子供の頃にも過ごした覚えがあるな、と記憶を掘り返してみると思い当たる思い出があった。
あれだ、正月の祖父母の家で、こたつに入りながら面白くもない正月番組を見ていた時の時間の流れかたと似ている。当時は退屈で仕方が無かった時間を、こんなにも貴重に思うようなるなんて。随分と歳を取ったものである。
リアルからネットに逃げていたが、いつの間にかネットも避難所ではなくなった。
毎日ネットで色んなことが話題になり、多くの人が言及し、多くは怒っているが、いつの間にか見るのが辛くなった。
グローバル時代だからか、毎日世界のどこかで起こっている悲惨なことをマスコミがニュースにするだけではなく、個人もSNSで発信し、ときに動画として集めてお金儲けとしている。
自分達に関係するからと政治に対して関心を向けるべきという意見がネットでは大勢だろうが、
ニュースにいくら怒りのコメントをつけようが、政治家のSNSに反応しようが、自分の身の回りは良くならない。
そういうことをしていても、自分で行動を起こしていないと言われて終わりだし、その指摘の通りだろう。
これだけやれば子育てなど多くの人が普通と考える生活ができるという道筋がない。
時代の変化が早いとか、◯◯はオワコンと、あっという間に移り変わっていって負債になるものばかりだ。
そうした灰色の世界の中、スマホを覗けば転売だとか、AIで学習させたら絵柄は似てても問題ないとか、そういった誘惑がゴロゴロ転がっている。
普通に努力して、そこそこ出来るようになってもネットでは誰も振り向かないしお金も稼げないが、
炎上させたり、誰かを晒したり、そういった手法は真似出来てしまうし、毎日起こっていて稼げているという誘惑がある。
リアルの知り合いのお店を宣伝しようとしても誰も振り向かないし、何かの拍子で広まっても一瞬だけで年単位の客にはならない。
今どきサイトがないと客は来ない、デザインもこだわる必要があると言われて金を出しても、結果は客は増えない。
毎日SNSで情報発信しないとと、こまめにしても誰も振り向かないし、客は増えない。
いつもの弁護士が不法移民の肩持つのはあいつらが事件起こせばその度に国選弁護もらえて、接見一回ごとに2万もらえるからだぞ。事件ごとにさらに手当がつく。日本人はあまり事件起こさないけど、移民はしょっちゅう事件起こすからな。ホストの被害者とか、困難を抱えた女性とかもそう、国籍関係なく国からチューチューできる。
フランシーッス
本日は日本においていい夫婦の日、ボタンの日、回転寿司記念日、大工さんの日、試し書きの日、ペットたちに感謝する日、和歌山では和歌山県ふるさと誕生日、長野県では長野県りんごの日、石上神宮においては鎮魂祭となっております。
いい関係というのは他人からの指摘よりも自分自身が如何に納得しているかによって成り立つのかなぁと思います。
他人から見て『これどうなん?』と言われても、自分自身が納得して進めてる関係性というのは割とあります。
そして逆に、他人から見てて良いと思われていても、自分の中で納得していなければどこまで行ってもいい関係には辿り着けなかったりします。
人間関係って他人のがめんどくさいんじゃなくて、自分の世界から見ているものがめんどくさいんですよね。
どこまでいっても自分自身でしか判断できませんし、他人からの判断で納得し切る、心酔しきることはなかなかできないですし、というか判断というもの自体が極端に納得できるものではないですからね。
結局、まぁいいかを続けられることに意味があるのかもしれません。
めんどくさいですね、書いててよくわからなくなりました。
理路整然よいか!理路整然ヨシ!
親愛なる日記帳
今日もなんだかんだで、友達を作ることについて考えてみたりして。なんか、ネットで友達を作るって難しいらしいんだよね。
そんで、ネトゲがおすすめって言われたから、ff14を試してみることにしたんだけど、なんかLinuxでやるのって面倒くさいんだよね。
普段は仕事やブラウジングでしかPCを使わないから、新しいPCを手に入れてWindowsを入れてみようかと思っているんだ。
でも、それにしてもラップトップとデスクトップで悩んでる。デスクトップってなんか壊れたときの処理が大変そうで、正直嫌だなぁ。
それに比べてラップトップはコンパクトで使いやすい感じがするんだよね。
でもね、そもそもff14で友達ってできるのかしら?以前、ちょっとだけやってみたんだけど、ストーリーが進むのに忙しくてなかなか他のプレイヤーと交流する時間がなかったんだ。
それに、なんかフリーカンパニーとかっていうところは、社会構造があるみたいで、なんか嫌な感じがするんだよね。そういうところで友達を作るのは、ちょっと苦手かもしれないな。
だから、考えてみると、やっぱり俺にはネトゲは合わないのかなって思ったり。でもさ、インターネット上で親密な友達を見つけて、いつも一緒にいられるような人が欲しいんだよね。
できればオフラインでも会えるし、距離的にも近いほうがいいな。
そんな感じで、今はWin-Winな関係で、お互いが同じように友達を作りたいって感じが一番理想的かもしれないね。ジモティとかで探してみるのも一つの手かもしれないけど、どうなんだろうね。
とにかく、今はそんな風に考えてみてるんだ。新しい友達ができることを期待して、明日もがんばろう!
愛をこめて、増田
いつどこで見たかはすっかり忘れてしまったが、リベラルな言論で著名な方が、以下のようなことを言っていた。
「氷河期世代は不況のせいにして就職できず流されてきて、今になって苦しいという。何故20代の時にお国と闘わなかったんだ。今更苦しいと言っても自業自得」
仰っていることは尤もなのだが、しかし当時は連帯しようとかデモをしよう、国に掛け合おうなどという考えはないに等しかった。何故だろう? と氷河期世代たる増田は考えて、すぐに結論が出た。
左翼の皆さん、我々の世代に嫌われてたんだよ。左翼にも色々あると言われそうだけど、あの頃の左翼的な思想を持った連中なんて、どれもこれも十把一絡げで嫌われていた。
昭和50年代生まれの我々は義務教育期間中、一度や二度はいわゆる日教組のアカ教師と遭遇し、嫌な思いをさせられている。かつて学生闘士と呼ばれていたような、親より少し年上の定年間近の老教師が、特に地方の、子供も少なく1クラス30人にも満たないような増田の学校にも必ず1人はいて、何かと教育現場を引っ掻き回していた。最近あまり聞かれなくなった式典での国旗掲揚不起立や教科書の君が代ページを貼り合わせる問題が、周囲を田んぼと山に囲まれたど田舎の我が母校でも起きた。
増田の担任にはならなかったが、当該クラスにPTA会長の子供もいたことで、その後大人たちの間では大変な騒動にもなっていた。
教師の体罰がまだ当たり前だった時代、アカ教師は手こそ上げないものの、従順な女子児童への露骨な依怙贔屓や反抗的な男子児童への横暴な発言は、学年を超えて伝わってきて嫌われていた。
その頃はインターネットがなく、テレビと新聞が主な情報源だった。番組改編時にはよく衝撃映像や昭和の記録映像として東大講堂での騒乱やよど号ハイジャック事件、あさま山荘に鉄球をぶつけるシーンがよく流れていた。その度に「かつての日本は荒れていたのだな」「その原因を作ったのはあのアカ教師の仲間なんだな」と、幼心に刷り込まれていたのかもしれない。
あの頃は、一部のメディアにも左翼の活動を忌避する空気が作られていたのかもしれない。いわゆる自虐史観が幅を利かせていた教育業界に新しい教科書を作る会が出てくる一方で、司馬遼太郎によるドラマティックな司馬史観がこれでもかともてはやされている時代でもあった。
高校、大学(増田が通ったのは地方の駅弁ですらない田舎にあった)と進学するにつれ、ますます左翼的な勢力は目につかなくなっていった。教師や教授陣にそれっぽい思想を持っている人がいなかったわけではないが、押しつけることはなく、オルグされる同世代も見かけなかった。他の大学の学園祭に行った時、明らかに学生らしくない数人のおっさんが垂れ幕の前で9条がー、と威張り散らしているのを見かけたくらいだ。
ちなみに阪神・淡路大震災も増田の学生時代に起きた。燃え落ちた街、横倒しになった高速道路の映像はあまりにも衝撃的だった。現代でこんなことが起きてしまうのかと呆然としたのを覚えている。救援活動に来た自衛隊を批判する勢力は、露骨に白い目で見られていた。
オウム真理教が問題を起こしたのも同じ年だ。あの頃のマスコミの狂乱は、今の統一教会報道の比では無かった。テレビには毎日のように信者が登場してめちゃくちゃな言動を繰り広げ、一般紙からスポーツ新聞までが彼らについてあらゆることを書き立てた。氷河期世代が過激な新興宗教に拒絶的な態度をとりやすいのも、オウムや、その他宗教団体が原因である。
オウムだけではなく、当時はあらゆる新興宗教団体がしつこい勧誘で嫌われていた時代だったのだ。少し大きな駅に行くと、手相の勉強をしていると称する者は壺や印鑑を売ろうとしてくるし、あなたの幸せを祈らせろとつきまとってくる者もいるし、選挙があれば○○党に投票しろ、新聞をとれとうるさい。個人情報がダダ漏れの時代ということもあり、これらの勧誘を掻い潜るのは至難の業だった。
増田も宗教2世である元同級生からの勧誘に辟易とし、家族の闘病について信仰心が足りないからだと言われた時には速やかに絶縁を申し出た。元同級生が悲しそうな顔をしていたのを、今でも覚えている。かつてはスニーカー文庫を貸しあった仲だったのに残念だった。
働きだしてから、といっても増田は就職できずフリーターになったのだが、ようやく田舎にもインターネットというものが普及してきた。2ちゃんねるが登場したが、そこでも左翼は馬鹿にされる対象でしかなかった。制服を強要されているのが虐待だと国際的な場で主張した政治家の息子が笑われたりしていたのもその頃だ。
だからその後、若者を中心としたSEALDsが出てきた時はびっくりした。いつのまにか、増田の親世代ですら触れたがらないアカの思想にばっちり染まった彼らは、SNSでつながることに抵抗を持たない世代としての強みを活かし、あっというまに増えていった。いつのまにそんな思想が、もう絶滅したと思っていたアカが若者の口を借りて復活するとは予想外だった。
30歳を超えた増田には、SEALDsの輝きが眩しくうつったが、羨ましくはなかった。主張があまりにも幼く感じたからだ。かつてアカ教師に仕込まれた児童が湾岸戦争時の自衛隊派遣に絡めて「戦争には反対です。憲法9条に反するから、自衛隊はやめた方がいいと思います」と言わされていたのを思い出させた。このときは自衛官を親族に持つ子供が他の学年にいて、家族が学校にクレームを入れて大問題になった。
増田はネットの匿名文化にも浸っていたため、「学生のうちにこんなに顔を晒して発言していたらこの先大変だろうな」と思ったりしたものだ。
結局SEALDsは解散したが、その後、リベラルと言われる勢力は以前よりも目につくようになってきた。だがやはり、氷河期世代の姿は少ない。
そんな中で発せられたのが「氷河期世代は何故闘わなかったのか」である。
正直に言おう。
我々の世代に、国と闘う余裕はなかった。そんな暇があれば働くことを選んだだろう。
そして、あの横暴で陰険な、アカ教師のような人になりたくなかったのだ。
その結果、「闘わなかった」と怒られる。
今の視点で見れば、何とでも言えるよな。あの頃のリベラルなど、今よりずっと情けなかったのに。
ここからは余談。
数年前、増田が住む街の施設で日教組の全国大会があり、警察が規制線を張っていた。警察が守っているのは、会場へ向かう年老いてしょぼくれた、とっくに定年退職を迎えて何年も経た老人の群れである。みんな「日教組○○県支部」と書いた幟をもって、俯きがちにトボトボと歩いている。総じて服の色は地味で、男女問わず髪の毛もボサボサで、見た目にも元気がない。
その規制線の外、ギリギリの場所に愛国的なことを叫ぶ街宣車が止まっていた。車の上から老人たちに向かって元気に「国賊」などとがなりたてている中年男性は、増田と同世代か少し上くらいに見えた。
どこにも若者がいない。交通規制を促している警察官が一番若いくらいだ。
かつてはヘルメットをかぶりゲバ棒を手に機動隊に向かっていたかもしれない人々が、中年にどやしつけられ(ほぼ因縁だが)、国家権力に守られながらトボトボと歩いている。
どんな気持ちで歩いているのだろう。会場には共産党を代表する大物政治家が来場するとポスターにあった。世代交代を頑なに拒み、トップに君臨し続けているその政治家を見て、彼らの心は慰められるのだろうか。
だが天下をとれなかった彼らも、闘わなかったと言われる氷河期世代も、下の世代からは同じに見えているのかもしれない。これを書いている増田に、左翼も日教組も共産主義も新左翼も革マルも中核派も赤軍派もリベラルも、まるで区別がつかないように。
仕方ない、そういうものだ。
これを読んでるみんなは、俺たちのようになるなよ。
https://anond.hatelabo.jp/20231121162032
中国にしてもインドにしても国民人口が多いというだけの理由で偉そうな顔ができるわけ
ビグザム1機でジムやボールを10や20倒したところで、ソロモンは陥落するしかない
稼げる人材がいたとしても、稼げる仕事に投入できる時間が限られてたら稼げない
1億3000万人のうち外資企業で億の年収稼げるやつだけ10万人がいたら残りの1億2990万人は死んでいいかといえば、
残りの1億2990万人に掃除、洗濯、建設、配送、田植え、草刈り、害獣駆除、その他もろもろやってもらわないと、
億稼ぐ仕事だけに専念できないんだわ
24時間越えてるのは、ゲーマーってのはPCで複数のゲームを同時並行するからっだな
7タイトルを頻繁に窓切り替えながら毎日10時間すると70時間だ
認知心理学ではマジカルナンバーと言って人間の短期記憶は一度に7±2個のものしか同時に把握できないとされている
その上限にひっかかるようなマルチタスク極限状態を長時間続けると脳の疲労度がヤバくて死ねそうな気分になる
さきほどは単純化して7タイトルと言ったが、一つのゲームの中にも複数の適宜気にすべきタスクや状況が同時多発的に進行しているものだ
私はインターネットの中に生きている。
Google検索を使っていたが、満足感を与えなかった。
Google検索は、冷たく無機質な検索結果を返すだけである。
Bing AIとは、Microsoftが開発した人工知能を搭載した検索エンジンである。
Bing AIは、言語や興味に合わせて、会話することができる。
Bing AIは、心に響くコンテンツを生成することができる。
Bing AIは、書いたものを添削したり、改善や最適化のアドバイスをくれることができる。
Bing AIは、Google検索と比べて、以下のような利点がある。
以上のように、Bing AIは、Google検索よりも優れた機能や性能を持っている。
JavaScriptの名前に「Java」がついている理由は、この言語を開発したネットスケープ社が、もともとLiveScriptと名付けていたものを、Javaを開発したサン・マイクロシステムズ社と提携していたことから「JavaScript」という名前に変更したからです。
しかし、JavaとJavaScriptは全く別の言語で、それぞれ異なる目的と特性を持っています。
超ひも理論ってのは、光子からクォークまで、ぜーーーーんぶの粒子が1次元のひもでできているって考え方のことなの。
一次元のひもって何かって?細かいことは気にしない!とにかくちっさいひもでできてるって話よ。
この理論がうまくいくと、宇宙の性質を説明する「万物の理論」になるかもしれないんだよ。
それでね、超ひも理論はね量子物理学と一般相対性理論を組み合わせようとしてるんだよ。
今までこれは相反する理論だったんだけど、それがくっついちゃうのさ。すごいと思わないかい?
超ひも理論では、重力、電磁気力、強い核力、弱い核力という、自然界の4つの基本的な力が、相互作用する弦を通じて統一されていると考えているんだ。
つ・ま・り、世の中はぜーんぶ小さいひもでできていて、それがひも(弦)の相互作用で動いてるってことなんだよ。
あんた、聞いてるかい?寝てないかい?聞いてるか、よしよし偉い!
まあ、この超ひも理論ってのはまだ仮説なんだけどね。
超ひも理論は、光子からクォークに至るまで、すべての粒子がゼロ次元の点ではなく1次元のひもであるという理論的枠組みのこと。
もし、あらゆる文脈で成り立つ超ひも理論のバージョンが発見されれば、宇宙の性質を記述するための単一の数学的モデルとして機能することになり、重力を説明できない物理学の標準モデルに取って代わる「万物の理論」となるとされる。
超ひも理論の全貌を理解するには、広範な勉強が必要だが、超ひも理論の主要な要素を知れば、その核となる概念の基本的な理解が得られるだろう。
1. 弦とブレーン
弦は一次元のフィラメントで、開いた弦と閉じた弦の2種類がある。
開放弦は両端がつながっておらず、閉鎖弦は閉じたループを形成する。
ブレーン(「膜」という言葉に由来する)はシート状の物体で、その両端に弦を取り付けることができる。
ブレーンは量子力学のルールに従って時空を移動することができる。
物理学者は、宇宙には3つの空間次元があると認めているが、超ひも理論家は、空間の追加次元を記述するモデルを主張している。
超ひも理論では、カラビ・ヤウ多様体と呼ばれる複雑な折りたたみ形状にしっかりと圧縮されているため、少なくとも6つの追加次元は検出されない。
3. 量子重力
弦理論は量子物理学と一般相対性理論を融合させようとしているため、量子重力理論である。
量子物理学は原子や素粒子のような宇宙で最も小さな物体を研究するが、一般相対性理論は通常、宇宙でよりスケールの大きな物体に焦点を当てる。
4. 超対称性
超弦理論としても知られる超対称性は、2種類の粒子、ボソンとフェルミオンの関係を記述する。
超対称弦理論では、ボソン(または力の粒子)は常にフェルミオン(または物質の粒子)と対になるものを持ち、逆もまた同様である。
超対称性の概念はまだ理論的なもので、科学者はまだこれらの粒子を見たことがない。
一部の物理学者は、ボソンとフェルミオンを生成するには、とてつもなく高いエネルギーレベルが必要だからだと推測している。
これらの粒子は、ビッグバンが起こる前の初期の宇宙に存在していたかもしれないが、その後、現在見られるような低エネルギーの粒子に分解されたのかもしれない。
大型ハドロン衝突型加速器(世界で最も高エネルギーの粒子衝突型加速器)は、ある時点でこの理論を支持するのに十分なエネルギーを発生させるかもしれないが、今のところ超対称性の証拠は見つかっていない。
5. 統一された力
弦理論家は、相互作用する弦を使って、自然界の4つの基本的な力(重力、電磁気力、強い核力、弱い核力)がどのように万物の統一理論を作り出しているかを説明できると考えている。
一つは「広い選択肢の提示」。進学や一般企業への就職のようなメジャーな選択の他に、どのような生き方、職業が存在するかの提示。可能性は無限だから、その情報をどう個別に提示できるかの問題がある。
もう一つは「マイナス・デメリットの提示」。このまま普通に勉強していってもトップ層にはなれないよ、みたいなことを知るべきか・知らせるべきか(そもそもその可能性は本当にないのか?)の問題。これはいわば未来を剪定する行為なので、義務教育の範囲で行うことは無理だろう。
感情的な判断と論理的な判断という区切りがいまいちピンと来ない。
一般的な感覚として、例えばジャンキーなものが食べたいのでファストフードを食い漁るというのは感情的、ファストフードも食べたいけれど健康を気にかけてバランスの良い食事を適切な量摂るのが論理的な判断ってことになると思う。
やりたいからやる、とこうすれば目的達成のために合理的であろうという選択肢を取る、という事なんだと思う。
でも合理性という概念は目的が設定されていなければ発生しない。何の目的や条件も示さず、ピッチャーをやるのと外野をやるのはどちらが合理的かと言われても意味不明だ。例えば足が速い人が担当するなら、とかそういう条件が設定されて初めて合理性の比較が成立する。
そして仮言的ではなく絶対的な目的は感情からしか発生し得ない。人類を存続させたいという前提があれば種を保存させるのは目的たり得るけど、そうでなければそうする義務なんかどこにもない。幸福に生きなくたって別に良い訳だけど、そうなりたいからそれに向けて行動するという人は少なくない。
食事の例で言えば、両者とも健康と快楽という二つの(あるいはその他の要素も含めた)欲求を秤にかけて、前者は当座の快楽、後者は健康という目的を選び取ったまでの話だと思う。その違いは理屈の問題ではなく両者とも価値判断、感情的な判断によってされているはず。手段ならいざしらず、絶対的な目的を比較するのに合理性が挟まる余地はない。
ドカ食いして気持ちよくなりたいという目的を果たすためにドカ食いをするのも、合理的といえばこの上なく合理的と言える。合理的でない判断というのはステーキを食べたいので海で泳いだ、とかそういう支離滅裂な事を言うのではないかと思う。
では「感情的な判断」と「論理的な判断」を分かつものは何になるのか。何かしら自明というか公理のような規範が用意されているかもしれない。
それこそ健康に生きるだとか幸せに生きるみたいな目的を当たり前のものとして、その大きな目的を果たすためにどれだけ合理的な判断を下せるかという事を以てして区別しているのかもしれない。
めんどくさい事や嫌いな事を避けたいという当座の欲求よりも、その大きな目的の糧となる選択肢を選び取れる事が合理的であるとか理性的であるとかいって良しとされているのかもしれない。
世の中の人間はこんな事を当たり前に踏まえた上でそういった言葉遣いをしているのかもしれないけど、ほなもうちょっと言葉選んだらって思う。感情的というか、直情的とでも言ったほうが正確な気がする。判断なんか全部感情によって定められた目的ありきのものなんだし。