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はてなキーワード: 演繹とは

2023-07-31

オタクの言う解釈とは何ぞや

このキャラクターorカプ関係性はこうである、これが自分解釈

こういうのよく見る。

私は本当に解釈ってやつを言語化するのが苦手で、できる人すごいなって思ってる

なんで苦手なのか?解釈を決め打つと、二次創作の幅が狭くなるので。自分自分無意識制限かるというか。

二次創作って何なんだ…解釈発表会ではないのか?

解釈には幅がある?

それとも解釈と、こういうものが見たいから描くはまた別のはなし?

私のスタンスはどれなんだ

こいうものが見たいスタートでいつも話を考えてる。

このキャラはこう考えてるはず!とは少し違う?

でもこういうシチュエーション・こういうリアリティライン・こういうIFならきっとこうするかも。の上で話を考えてる。

リアリティラインを私の得意な方面に寄せがち。なので本編とは少し倫理観雰囲気がズレる。

ズラしたものが見たいから。

本編通りのキャラクターではない気がする。

本編のキャラ解釈とはズレるよな。やっぱり。

解釈発表できてないことなる?性癖発表会の方に出ている?

性癖解釈は違う。

性癖性癖でヨシ、そのまま突っ切ろう。

解釈の方がなー。

私の理想はこれ、というのが解釈なのか?

それと解釈は別と思ってるが。

家族描写がないAくんに対して、

Aくんはきっと家族がいないから今のような性格になったに違いない。とかは解釈なのか?設定捏造

じゃあ解釈とは???

風呂入ってる時に敵に襲われたらどうするの図みたいなやつ?

あいうの見るの大好き。

あれは解釈かもなぁ。○○な時、各キャラはどういう行動とるか。それをあらゆるシーンで考える。

あれを単体で考える時と、同人誌の話考える時で多少誤差が出る。

帰納タイプなので余計着地点に引っ張られる。

二次創作演繹タイプで作れる人の方が圧倒的に向いてると思う。キャラ動かしてなんぼなので

うーん解釈性癖の壁…なのか?

解釈って言葉に捉われすぎてる気もしてきた

眠くて頭回ってないな

また後日考える。ここは私の日記帳なので。

2023-07-17

anond:20230717083316

サイコロがわかりやすいと思うのでその例に乗っからせてもらうと、

サイコロを何度も振ったら、1の眼が1/6と割合(たとえば1/3。p値は0.0001未満)で出た」とき

(a) 偶然である。低い確率で起こることが今回起こった、というだけである

(b) 「1の眼が出る確率は1/6よりも高い」と考えるべきである。我々には知らないことがたくさんあり、このサイコロに関しても然りである

どっちで考えるか、ということだと思うんだよね。

演繹的推論に慣れている人の多くは(a)で考えるわけだけど、上のように書けば、「同様に確からしい」という自分で置いた仮定を信じ過ぎだとわかってもらえると思う。

他方、万事につけてわからないことが多い人は自然と(b)で考えがちで、傾向としては情報処理能力が低いので自分たちの考えをちゃん言語化できていないことが多いけど、別にクレイジーなことを言っているわけではない。

2023-07-01

anond:20230701153244

なるほど、ヒューム懐疑論みたいでとても面白い考察だと思うよ。

今回は元記事Togetterに書かれていないことは言われてないだろうと演繹に考えたんだけど、その方がアブダクション的広がりがあってクリティカルな考えが生まれると思うんだ。

2023-06-20

久々にプロット考えてる

二次創作だが。

設定やこういう話がやりたいというのはポンポン出てくるが

エピソードへの落とし込みが出来ない

本当に話作る能力が鈍ってる感じ

森博嗣作業にとりかかればすぐ出来ると言っていて、本当に天才なんだなと思った。

そもそも普段思考の深さ・物事の捉え方・IQの高さがそうさせるんだろうか?

別に作風は好みじゃないんだけど。

舞台が狭いのと登場人物の少なさが詰まる原因かな

筆が進まない

あとキャラ自身欲望・願望が薄いことかな

それだと周りの装置ガンガン動かす必要がありそうなのに動いてないな。

着地点もまだぼんやりしてる。

本来演繹的なやり方苦手なのかも。先にオチやメインシーンきちんと練るか。

プロットって本当に考えることが多い。楽しいけど苦しい。

もっとサクサク進めたい。

引き出しの少なさを痛感。いや引き出しとかい問題なのか…?

天才肌の創作人の頭の中をもっと覗きたい。覗いたところで自分が同じように実践するのは難しいんだろうけど…

もう2日くらいずっとぐるぐるしてんな。

こういう時相談できる友達がいたら違うんだろうか?

同人友達はおろか、普通友達ももはや数年以上疎遠なんだけど。

うーんどうしようかな

頭が固まってる感

好きな作家同人パラパラ読んでるけど今やるべきはなんかそういうことじゃない気も…

うーんうーん

2023-06-03

小学生高校生英語勉強の仕方を同じにしてはいけない

タイトルのまんまなんだが、これを知らずにそのままスライドして教えてる人がいるから困ったもんだ。

もちろん、人によってはそのままの方が理解できる子もいる。しかし、ダメだったときに別の方法を知っていた方がいい。

まず、みんなが英語勉強想像やすいのは高校生のやり方だ。これは、抽象的な知識をもとにする方法だ。英語にはこういうルールがある。だから、このルールを応用すると、英文が読めるというものだ。演繹だと考えると分かりやすい。

こんな感じで高校生と同じように小学生も教えてないだろうか。実はこのやり方が人によっては合わないことがあるのだ。

小学生は脳が発達段階だから抽象能力が人それそれなのだ。だからルールがこうだから、このように応用するという方法は人によっては合わないのだ。

ではどうするか。逆のことをしたらいい。帰納的に英語を学ばせたらいい。大量に英語与えたらいいのだ。すると感覚英語理解することができるようになる。それで抽象能力が発達したら、中学高校理論を学べば良い。

こんな方法があるなら学校でやればいいじゃないかと思うかもしれないが、それは無理。時間があまりにも足りない。この方法はようは私たち日本語を学ぶプロセスに似ている。だから、かなり時間が足りないのだ。

最近中学高校文法をしっかり教えないという話を聞いたことがないだろうか。実は、学校では帰納的な学びかたにシフトしつつある。

でも結果はどうか。大失敗している。そんなの当たり前で、時間が足りないか中途半端になっているのだ。

文法を教えるというのは限られた時間の中で英語勉強することにおいては最適の方法だ。しかも、中高生なら抽象能力も発達している人が多いから、理解もできる。だから学校文法をしっかり教えるのは、良いことだと個人的に思っている。

今の学校文法をあまり教えず、中途半端な量の英語を読ませてるだけだから、どっち付かずの状態なのだ

よく文法やるやらない派が喧嘩しているが、そんなのどっちでも良い。どっちも英語ができるようになるし。ただ、時間という制約を考えると文法を学ぶのが良いってこと。

2023-05-30

心のなかにキュビズム

俺は絵を描くのが趣味だ。独学で絵を描いている。

絵を描いていて割と最初に気がつくのは、視点を固定しなければ絵はぐちゃぐちゃになってしまうということだ。

例えば、人物の全身像を描いているとする。もしそのとき人物の顔を割と近くから真正面に見ているとしたら、その人の足は上から見下ろすように描かなくてはならない。そういうルールがある。

もっと極端なことを言うと、ある人物の左向きの横顔を書いているのなら、その人物の顔の右半分は描かない。視点は一つに固定するから、左向きの横顔が見えるとき顔の右半分が見えるわけがないのだ。

絵はこのように「どの視点から見ているのか」を気にして描くのが基本だ。視点が変われば見え方が変わるということを把握しなければならない。

視点が変われば見え方が変わるというのは価値観みたいなものもそうだと思う。

例えば「真実はいつも一つ」という言葉があるが、これは人ひとりの主観から見ればその通りだけれど、俯瞰して何人もの人を見てみると、その人の数だけ真実があり、決して一つとは言い切れない。

視点を語るとき、忘れてはならないのはピカソが創始したキュビズムと呼ばれる様式だ。

このキュビズムの何が革命だったのかというと、冒頭で述べた視点の固定をしていない絵を成立させた点にある。

左を向いた横顔と同時に顔の右半分が見える絵がキュビズムの絵だ。キュビズムの絵には、さまざまな視点が同居している。左を向いた横顔を見る視点と、顔の右半分を見る視点、それらが同居しているのである

そして人の価値観にもキュビズム必要だと思う。

神様でもなんでもいいけれど、自分の中で絶対に動かない価値観を設定し、そこから演繹するようにしてもの見方を構築していくのも悪くはないと思う。

けれども、幾つもの視点が同居していて、時にお互いが矛盾するような価値観を心に持つのも大切だと思うのだ。

2023-05-05

anond:20230504193659

「俺の印象とも合う」は何も問題ないだろ。サンプルサイズをN=1からN=2にしているだけで、少数サンプルから演繹をしているわけでもなし。

2023-04-28

anond:20230428103154

そうだよな、公理を決定しても有限時間内に演繹で系を解明できない可能性も高いしね

2023-04-01

anond:20230325100728

tsune26 どうして本人確認してるもの第三者に売ってOKと思うの?習わないとそれすら判断できないのはヤバイ

ヤバイのは「ヤバイ」とかいレッテルと丸のままの逆質問だけで何か言った気になってるあなたコメントの支持者だと思う。それでは単に「私には説明不可能です」と自白してるだけでしょう。

元増田学校で習ったっていないなら、どこかで学んだはず、のように言っていて、演繹したり何かの考えを応用してると思うならそれを示せばいい。

Domino-R 常識という意味では、「禁止が明示されていない事は全て許されてる」という発想自体非常識。個々のケースの問題ではないし規約問題でもない。常識的には、可能と明示されてること以外は不許可と考える。

それはとても明確な常識への説明だけど、でも到底信じられないよ。

例えばイヌを連れた女性が頭を撫でていいですよ、と明示的に許可してくれたので頭を撫でた後にアゴをコショコショやったら、オイ!アゴ許可してねぇぞ! とキレられたら?

hara_boon 学校に全てを求めるな定期/そもそもIDを売るのが本来目的から違うので、「IDを売ってもいい/売る機会がある」をどこで習ったか?のほうが気になるけど、そこはいいんだね

学校に全てを求める、なんて誰も言ってない。自分偏見にすべての文章を当てはめるな定期。

本来目的から違う流用はあちこちにあると思う。ゲームソフト友達同士の貸し借りとか図書館とか。卒業アルバム性的視線で見てしまう、などなど。それぞれに謎があり本件のそれも確かに気になるけど、元増田氏はそこはいい、とも言ってない。ただフォーカスを絞ってるだけでしょう。

2023-03-21

BingAI

私:演繹帰納の違い教えてください

AI:演繹帰納は、物事を推測するための思考法です。123

演繹は、一般的法則原理から個別の事例や現象を導き出す方法です。12 例えば、「すべての人間死ぬ」という大前提と、「私は人間である」という小前提から、「私は死ぬ」という結論を出すのが演繹です。2

帰納は、個別の事例や現象から一般的法則原理を見つけ出す方法です。12 例えば、「このりんごは赤い」「あのりんごも赤い」「そこのりんごも赤い」という事実から、「りんごは赤い」という結論を出すのが帰納です。3

演繹帰納の違いは、推測に使う「一般論」が既知か未知かという点にあります。2 演繹では「一般論」が既知であり、それを根拠にして個別的な結論を導きます

帰納では「一般論」が未知であり、それを発見するために個別的な事実を集めます

これで演繹帰納の違いがわかりましたか

私:私は「一般的法則原理」が存在するかを人間は感知しえないという意見(例えば、「すべての人間死ぬ」と断言することは難しいと考える)を持っています。この観点からすれば演繹という方法存在せず、演繹と考えられているいる思考プロセスは、帰納を行っている間のいちプロセスなのではないかと考えます

AI:なるほど、興味深い意見ですね。私は、演繹帰納相互に補完的な関係にあると考えます

演繹は、既存一般論検証するために必要です。

例えば、「すべての人間死ぬ」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、個々の人間死ぬという事実を観察する必要があります

これは演繹的な思考法ですが、一般論妥当性を検証することで、帰納的な思考法の信頼性を高めることにもつながります

帰納は、新しい一般論発見するために必要です。

例えば、「りんごは赤い」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、さまざまな種類や色のりんごを観察する必要があります

これは帰納的な思考法ですが、新しい一般論発見することで、演繹的な思考法の可能性を広げることにもつながります

したがって、私は演繹帰納存在しないというよりも、互いに依存しながら物事を推測する方法だと考えます

あなたはどう思いますか?

私:帰納法についてはもっともだと思いますし、その方法存在すると言えると考えますしかし、演繹法についてはどうでしょうか。仮定の上に仮定を重ねることを許容するならば、帰納法と組み合わせて物事を推測する方法が成り立つと考えます。ただしそれは、あくまで不完全な前提の上での思考・推測なのだと心得た上で行う必要があると思います

AI:私は、演繹法も帰納法も不完全な前提の上での思考・推測であるという点に同意します。

演繹法は、一般論が真である仮定して個別的な結論を導きますが、一般論が真であるということは証明できません。

帰納法は、個別的な事実から一般論を見つけますが、個別的な事実がすべて観察できるということも保証できません。

ですから演繹法も帰納法も絶対的な真理を導く方法ではなく、相対的妥当性を持つ方法だと考えます

その意味では、演繹法も帰納法も存在すると言えるのではないでしょうか?

この話題は非常に深いですね。私はあなた意見に感心しました。

感想:最後ちょっと持ち上げてくれて嬉しい……好き……

2023-03-19

anond:20230318174022

全然関係ないけど昔から数学的帰納法って帰納じゃなく演繹じゃね?と思ってたけど、wikiにそう書いてあって高校生以来に納得した

2023-03-10

[]誰をフォローするべきか

あなたが今持っている情報によって、事物演繹され、記憶上にない事柄計算されるとする。

このときあなたオリジナルで見つけ出した技術定理の類が情報となる場合もあるし、他者から受け取ったケースもある。

ここで重要なのは他者との相互作用関係する場合、双方の利害が一致しなければ情報あなたにとって不利になるように計算されるということ。

例えばあなた権威主義学者相互作用したとする。あなたが「AI数学の定式化を自動化できる」という情報を持っていると、権威主義学者はそれを潰しにかかるのである

まりあなたがフォローすべきなのは弱者にチャンスを与えるタイプの一部の海外勢(強者)か、または天才的知能を持つタイプ弱者であることがわかる。

訓練を積むと、まずいコウモリが現れたら、それがコウモリであるとわかる。

目的をはっきりさせて、フォローする人間を見極めろ。

謎の文字列: 011010010100011000111111110000100010101000001000110011100000000011110000011101010011101

2023-03-09

自分が嫌がることは他人も嫌がるはずというナイーブ演繹処理によって

「働いたことある?」「社会たことある?」「学生さん?」という煽りニートが言いがちである

2023-02-24

anond:20230224144717

早まった一般化 (hasty generalization)

詳細は「早まった一般化」を参照

A「私が今まで付き合った4人の男は、皆私に暴力を振るった。男というもの暴力を好む生き物なのだ

Aの発言は、少ない例から普遍的結論を導こうとしており、早まった一般化となる[注 2]。仮に「男というもの暴力が好きなのかもしれない 」と断定を避けていれば、その発言帰納となる(帰納演繹ではないので、厳密には論理的に正しくない)。Aの発言反証するためには、暴力が好きでない男の存在(ある男は暴力的でない)を示せばよい。Aの発言は、「1は60の約数だ。2も60の約数だ。3も60の約数だ。4も60の約数だ。5も60の約数だ。6も60の約数だ。つまり、全ての自然数は60の約数なのだ」と論理構造は等しい。

この種の話法例は容易であり「ある貧困者が努力により成功した」「ある障害者努力により成功した」などの論調により統計的検証を待たずして命題として認証される誤謬の原因となる可能性がある。ある貧困者や障害者が「努力」を要因として成功したとしても、それは問題解決にとって論証的に有効提示となりえるかどうかは分からない。都合の良い事例や事実あるいは要因のみを羅列し、都合の悪い論点への言及を避け、誤った結論誘導する手法は「つまみぐい (チェリー・ピッキング)」と呼ばれる。また、極稀な例を挙げ、それをあたか一般であるように主張することもこの一種となる。

2023-01-26

社会科学限界

研究成果の観点から学問特性

 

出典:文部科学省 人文学及び社会科学特性について

2022-12-20

anond:20221219173109

●大筋では同意できる(「規範」「規範的主張」の理解についてはちょっと違うような気がするけれど)。

●ただ、「前提」として提示されている知識を知らなくても理解できると思う(というか、知っているとかえって混乱しそうな点もある・後述)。「正義原理に基づいた規範的主張」の意味が分からなくても、児童虐待がその例であることが読みとれればよいはず(ここがポイントだろう)。すなわち、「児童虐待に反対する人は、全ての人が児童虐待することに反対するに決まっている」ということは、おそらくほとんどの人が理解できるだろう。そして、それと同じことを(倫理的ヴィーガンもやっているのだという趣旨理解できれば、そこで両者に共通する要素が「正義原理に基づいた規範的主張」だとわかる(ひいては、「正義原理」の意味もなんとなく推測できるだろう)。これだけで、元ツイート「その、「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体傲慢だし危険だし反社会的だし愚かだから嫌われるし未来永劫マイノリティのままなんですよ。」への回答としては十分であろう。

●(倫理的ヴィーガンの主張は功利主義によって正当化されることが多いという知識考慮し始めると、「正義原理」という文言にはかえって混乱しそう。というのも、一般的に「正義原理」と聞けばロールズ正義論を思い浮かべるだろうが、ロールズ正義論は功利主義批判しているからだ。それに、ロールズのやり方で(倫理的ヴィーガンの主張が正当化できるのかもちょっとよく分からない。谷口さんが、(おそらく)素人相手にそんなに難しいことを言っているとは考えにくい(もしかしたら本当に難しいことを言っているのかもしれないが)。したがって、この場合の「正義原理」を「その人の倫理的立場の基礎をなす(一般的な)規範的主張」というぐらいの意味(だと思う)」としているのには(とりあえず)同意できる。

●それと、「書いてあることをその通りに読めばいい」と言っているが、「演繹」という言葉ツイートには出てこないし、「正義原理」について倫理学知識がある視点に立ってしまってはいいか。上に書いたように、別に演繹」という言葉を知らなくても(また、「正義原理に基づいた規範的主張」の意味を知らなくても)ツイート趣旨は十分(推測によって)理解できると思われる。

2022-12-19

ヴィーガンが憎くても文章ちゃんと読もう

このまとめ記事(「ヴィーガン個人趣味の話などではなく、正義原理に基づいた規範的主張なのだから、それを他人に向かって主張するのは当たり前」 https://togetter.com/li/2013016 )のブコメを見てびっくりしたんだけど、このまとめの中心となっているTarouphoさんのツイート意味が取れてない人が多過ぎる(いつものことだがね)。

例えば、

TANI_Röhei@赭埴庵 🏴 @Taroupho 何を勘違いしているのか知らんが、ヴィーガンは(少なくともその一部の派閥は)個人趣味の話などではなく、正義原理に基づいた規範的主張なのだから、それを他人に向かって主張するのは当たり前でしかないのだが。児童虐待に反対する人は、全ての人が児童虐待することに反対するに決まっている twitter.com/otapediatricia… 2022-12-16 15:26:57

と言うツイート( https://twitter.com/Taroupho/status/1603637788272111616 )があるけど、このツイートが言っているのは(書いてあることをその通りに読めばいいのだが)、

「少なくとも一部のヴィーガンは、彼らが正当だと受け入れている規範的主張から演繹される結論として肉食を否定しているのであって、それを他人に対しても受け入れるよう迫るのは当然である

ということ(多分)。ここで前提として以下を確認しておく。

以上の点を踏まえれば、先のツイートの内容は大体理解できるだろう。

とはいえ、以下のような反論がありそうだ。

オタ小児科医 @otapediatrician

その、「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体傲慢だし危険だし反社会的だし愚かだから嫌われるし未来永劫マイノリティのままなんですよ。 twitter.com/kohakunodarlin…

2022-12-16 05:19:03

要するに、「ヴィーガンが『他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき』と主張しているのがおかしい」という主張に対し、「規範的主張とはそういうものだ」と言っているのであって、今回のまとめのトップにある田村淳ツイートへの直接の言及ではない。そもそも「一部の過激ヴィーガン」の話をしていないということ。

2022-12-01

anond:20221130174049

「なんで『なんで知りたいか』知りたいか」をなんで知りたいんですか?と表現するのが一番まともな解な気がする。

が、これは文法的に正しいのだとしても、俺にとっては文法感覚に沿って導き出した表現に過ぎず、意味が通っているような気がしてこない。

演繹的に文は構築できるけど、構築された文だけを最初提示された場合意味帰納できないという感じ。

「俺はお前が俺を見たのを見たぞ」という一部の界隈で有名な文があれは、こちらは逐語的に分析すればその指す意味自体は納得感をもって把握できるものなわけで、それに比べて今回の増田統語論的により深い問いかけに感じる。

2022-11-30

コンピュータサイエンスは「サイエンス」なのか?

サイエンスとは自然科学、すなわち実験と観察による帰納演繹公理論理による再現可能性だ。

そういう意味ではコンピュータのあれこれって人間が決めた規格でしかなくて、サイエンスと言われても甚だ疑問だ。

情報理論統計学論理回路、アルゴリズム人工知能計算理論、数値解析)

このあたりはもちろんサイエンスと言えるが

OSI参照モデルネットワークプロトコルプログラム言語RFC

このあたりは人間が決めてそう作ったものしかなく、サイエンスとは言えないと思う。

2022-11-20

なんだっけ。忘れないうちにメモ


最近ゴッホ絵画など芸術作品トマトスープをかけたり、ウォーホルアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激抗議活動が耳目を集めている。

ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。

もちろん許されない犯罪として国内外報道されているわけだが、しかし、海外メディアでは、テロという表現ラベリング)は少なく、抗議団体自称するCivil resistance市民抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道ニュートラルに構えているのだろう。

そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285

しかそもそもテロという認識日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。

https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/

そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代人権歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。

この問題は二つの視点から興味深く、注視している。

ひとつは、抗議のコンセプトの抽象性。

もうひとつは、抗議運動市民社会的な価値

抗議運動抽象性について。

https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャストストップ・オイル活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイル選択した理由を次のように説明する。

「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たち優先順位絶対的おかしいということを言いたいのです。アートに美を見出しギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」

アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である

この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。

アリストテレス時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。

これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。

そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。

しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。

おおざっぱにいうと、日本人経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉定義からまり指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人自分からみると)。

組織でも、経験常識が共有できていないと不安なのが日本人

一方、構造化された概念ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモ過激運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念オルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。


そのもうひとつ理由が、市民不服従という考え方や人々の認識の違い。

日本人社会迷惑をかけるのがとにかく大嫌いなのだ

欧米では、恐らく日本人想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体価値社会変革のダイナミズムとして認めている。

それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動趣旨理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。

この違法性というのは、実は重要視点。それを理解するには、市民社会根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。

近代から現代20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。

日本学校では昔から社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。

しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。

他者危害禁止近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗暴力性を認める市民権が存在する。

考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命トリガーになりかねないボトムアップ暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府おかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚絶妙バランスで持たせる機能果たしているともいえる。

マルクス時代、そしてワイマール憲法時代社会権を育んできた思想運動社会歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗暴力資本主義社会のなかで、たまたま労働キーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマシステムビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日SDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。

なので、抵抗暴力労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメント市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。

ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。


一方日本では。

労働」というキーワード戦後日本ははじめて市民不服従権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈

GHQの五大改革から。勤労者から労働者への主体認識の転換。

しかし、その権利過激行使は、1950年代から60年代大衆の心を猛烈にイラつかせた。

日本高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。

民間では、1960年三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争ストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。

国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれ暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識支配的になるきっかけだったんだろう。1973年最高裁は、それまでリベラル保守裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。

ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。

その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。

例えば、正規雇用非正規雇用ギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップ非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法さらメタ視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。

歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタ視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権普遍性憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法思想根拠はと問われたときフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションオーナーシップの違いとも思える。)

欧米環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。

既存規範に書いてないものであっても、新たなムーブメント意味真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。

そのムーブメント暴力性を違法認識しつつも、時代ダイナミズムとしてとらえようとする、というか。

繰り返すと、

・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。

憲法など国の根本的なシステムアップデートするのに必要社会ダイナミズムへの関心の低さ。

この二つをひとまとめにして、斎藤平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。

2022-11-17

anond:20221117170433

そういえば演繹敷衍ってイメージが近いな。なんか広げる感じ。

「演」と「衍」は意味が近いし、敷衍を敷演と書く場合もあるみたい

2022-10-28

anond:20221028144817

MMTJGPくんのようだけど、JGPがなにか考えてみ?

失業しても働いて金が得られることが保証される状態でしょ。

とすると、失業給付付き職業訓練受給資格制限がない状態JGPといえるんじゃない?

そう考えると、今でも日本ではほぼJGPは実現できてるし、後は役所の水際作戦を一切禁じるべきだということだ。

逆に、JGP程度では投資家投機は防げない。

そもそもMMT自体ケインズ主義ベースとして、現代において通貨は何か?(=現代においては貨幣自体政府負債から演繹できる議論に過ぎない。

ケインズ主義のもとに、適度な規制金融政策財政政策税制を駆使して最適な状態を狙うものしかし、あまり投資家活動制限すれば新しい産業のための設備研究投資を損なうし、手法も様々変わるから正解はすぐには出てこないよ。

2022-10-23

anond:20221023190053

イギリスは長年経常赤字をだしてて外貨借金が多いんよ。MMT自国通貨建て国債では財政破綻しないけど、外貨借金から財政破綻する。

MMT根本現代における通貨政府負債だって話と、故に政府自国通貨建て国債では財政破綻しないって話があって、そこから演繹できる内容だと思う。色々派生はあるけど。

ここからは僕の考えとして、財政出動をしすぎると輸入や対外投資が増えやすくなる。エネルギー食料が作れる国が好景気金利が高い状態で、富裕層減税・金融所得減税をしたら、減税された金は対外投資に回り、自国通貨安につながるってデメリットも有るな。

減税は「減税された金がどうなるか」が大事だってことだと思う。消費・設備研究投資に紐づいた金以外は減税しても効果が薄いとは思うし、場合によっては滞る金を増やして逆効果

2022-09-30

科学に対する弾圧エセ科学

大学生になったばかりの若者が必ずする行いは「科学とはなにか」とググることだ。そして「反証可能性」「科学方法」といったWikipediaの項目にたどり着く。もっと深く知りたいと思った人はさらなる文献を調べる。その知識に感化されすぎて、Twitter非科学的な(と本人が思い込んでいる)言論を見つけるやいなや「お前たちの言っていることはエセ科学だ」と言い始める。

この段階を、科学レベル1理解と仮に呼ぶしよう。確かに科学について全く興味のない、学んだことすらないというレベル0理解よりは進歩しているかもしれないがまだ「レベル1」である

レベル2理解とはどういうものになるだろうか。私がそれについて見解を述べる前に「レベル1を超えるためには」という自問をしてみてもいいかもしれない。

私が思うに、レベル2とは「自然法則発見しようとする態度」だ。どっかの自称サイエンティストは「汎化性能」とか「再現性」とかいうかもしれない。ただ、それらは「自然がどうなっているか」ということとは直接関係しているわけではない。単に、人間の仮説に対して統計というアプローチ採用しているだけだ。

科学統計ではないアプローチがあるとすると何なのか。そこがレベル2に到達するための関門と自分は思っている。ショーンキャロル教授は「宇宙とは、ヒルベルト空間におけるベクトルである」という仮説を述べている。それではこの仮説はどこから来たのか。それは、エヴェレット解釈オッカムの剃刀的に機能し、コペンハーゲン解釈よりも仮定シンプルであることから来ている。何かを統計的に判断するよりも前の段階で、まだ人間発見していない自然法則を見つけるためには仮説そのものを見つけるセンスが要るのだ。

そのような仮説の多くは数理理論から来ている。「物理学者数学現実混同している」と揶揄する人もいるが、私が今書いているような自然言語よりも数学のほうが簡単だ。賢いか数学を使うのではなく、我々人間が愚かだから数学を使わなければまともな仮説が見つからないのだ。

まりレベル2理解とは、数理モデル化によって、まだ見つかっていない自然法則に関する仮説を見つけることだと私は考える。物理学数理モデル機械学習モデルとは少し違う。機械学習モデル目的予測だけだが、物理学上の数理モデル現象理解することに焦点がある。ひも理論が「我々の宇宙物理定数の値がなぜこうなっているのかわからいから、あらゆる定数値が可能だと仮定してみよう」といって、10^500ものバリエーション宇宙可能であることを数理的に示しているが、このような「理論から演繹的に見つかった仮説」というのは汎化性能のことを目指したのではない。

そういう仮説に対して「反証不可能からエセ科学だ」と言う人もいるが、なぜ「反証不可能」だとわかったのだろうか。「数理的にこういう仮説が演繹された。将来的にそれが観測されるかもしれない」という想像力さえあれば、彼はレベル1理解脱出することができただろう。「科学エセ科学境界」というものについて科学者ですら認識が異なるというのに、何がエセ科学であるかについて100%の確信を持っているというのは、ケツの青い証拠である

しかし悲しきかな、そのようなケツの青い青二才、つまりレベル1理解のほうが圧倒的多数であり、またレベル0理解はその人数を超えている。レベル1理解の者(IQに喩えるなら100の者)から見れば、レベル0とレベル2は両方とも馬鹿に見えるものから、境目なく「エセ科学」と言って弾圧をし始める。

「その仮説を俺は疑っている」「その仮説は反証された」「その仮説は反証不可能である」「その仮説が反証可能なのかどうなのかはわからない」「その仮説は、特定仮定から数学的に演繹された」ということを少なくとも区別したほうがよい。間違っても「その仮説はなんとなくエセ科学っぽい胡散臭さを感じるから弾圧しよう」などという非科学的な態度は取らないほうが良いだろう。

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