はてなキーワード: 普遍性とは
これは素晴らしく良い話だなぁってブコメみたら、任天堂以外にも対戦ゲームは腐るほどあるのにこんな話は出てこないってコメに星が集まってていい気分がそがれてしまった。えぇ…そういう感想がウケちゃうの?
コメント自体はともかく、これにスターが集まるのおかしいでしょ。あんな良い話を聞いた後に出てくる感想の中でナイスなのがこれ?俺にとってこのスマブラに該当する作品はスト2だったし、ある人にとっては別のゲームだったかもしれない。
麻雀などのボードゲームやスポーツを通して仲良くなった友達も思い出した。自分はそういう普遍性を感じたけど、ブコメ民が選ぶ人気コメントは「任天堂ってこういう良い話が山ほど出てくるな。対戦格闘ゲームなんて、腐るほどあるはずなのに」なのかよ…。なんかつらいわ。
ストレスで久々の休みに一日中寝てた。泥酔しているので勢いで書く。
新卒採用はクソ。
社内のジョブローテーションの関係でそうなっただけで、希望したわけではない。
とはいえ唯々諾々と何も考えないでそれを受け入れた。
今では後悔している。
しかし若手なのもあり、社内の評価のために唯々諾々と前の担当者の引継ぎ通りに業務をしている。
クソだ。
結局(全部とは言わない、自分で考える能のない多数の凡庸な)企業は、就活業界のビジネスに概ね踊らされているように見える。
といっても就活業界ビジネスを展開しているナントカナビとかそういうのが悪いかというとそうではないと思う。
何が悪いんだろうな。
たぶん自分の頭で考えて考えたことを実行しない(俺も含めた)全部が悪いんだろう。
まあそんなことはどうでもいい。
書きたかったのは、表題のとおり、就活生は祈られても何も思わないでほしいってことだ。
採用を担当するようになって、大量の学生を審査して、選ぶ作業をするようになった。
最終面接とかはもっと上の人間にやってもらうから、直接落としたり通したりするのは、
書類選考とか、一次面接とか、グループディスカッションとかそういう奴だ。
正直、クソ忙しい中で、書類を見るだけでは、または10分とか20分とか喋る(あるいは喋るのを眺める)だけでは、何も分からない。
書類だったら、もうまとめて学歴(など)で落としていくしか「統一的な基準」として自分と上司を納得させる方法がない。
なんか一生懸命に心を込めて考えたんだろうと感じられる自由記載みたいのを見かけることもあって、心を動かされることがあっても、
真摯に誠実に話せばわかってくる、とか嘯く奴もいるが、
こっちだって本当に誠実に話せているかと聞かれたら、首を縦には振れない。
言えないことだってあるし、落とさないといけない後ろめたさもある。そうだろ?
それは当然だし、化かす能力がある人間なら入社いただいて何の問題もない。
でも入社した後も社内を化かし続けられない人間が入社してしまったときには、
そんなもん判断つくか。つくわけない。
それに、特に嫌いなのがグループディスカッションで、あれは一緒に入るメンバーによって表出する人格に違いが出過ぎる。
しかも、積極的に発言する人を評価すると言いながら、明らかに無理して頑張ってる学生を「協調性がない」と評価したりする。
クソofクソだ。
社内で「わからんから顔の好みで選んでる」と公言してる面接官も知ってる。
公言してないだけでそういう面接官も一定数いるんじゃないかと思う。
当然、どの程度の割合の人間をこのタイミングで落とさないといけないかというのが決まっていたりもするので、
その日面接した中に落としたい学生がいなくても、落とす学生を選ばないといけない。
もちろん一応、こういう人間を落とす、通す、という基準はある。
「こういう基準で採用をしています」というのを社内の上の人間に納得してもらうためにあるだけだ。
ちなみに(就活ノウハウ本とかにもよく書いてあるが)その基準が知りたかったら、
その会社の採用webページに出てる「当社の求める人材」とかそういうのを見ればいい。
まあ大体どこも書いてること似たようなもんだけど。
正直、自分としては、とにかく(少なくとも普通以上に見える奴は)落としたくない。
そうじゃない余裕な奴もいるかもしれないけど、
多数の学生は自分が何したいかって言われても良く分からないまま一生懸命受けに来て、
そういう学生を、「よくわからんな」とか言いつつ、鉛筆を転がすみたいにして選別していく。
もうたくさんだ、と何回も思った。
社内にはそれを楽しそうに、「あの学生はこうだった、ああだった」と言いながら自信満々にやってる奴もいるから、
俺が向いてないだけなのかもしれない。
このストレスに耐えられそうにない。
だからせめて増田で、「祈られても何も思わないでほしい」と学生に懺悔する。
ここまで書いたことはあくまで自分の勤めてる会社の話で、どのくらい普遍性があるのかは分からない。
でも、企業がお祈りを出した場合でも、決してそれは学生個人の能力とか人格を否定してるわけではない、
ということを、上に書いたクソみたいな実情で少しでも実感してもらえたらと思う。
落とす時も「まあ落とすほどではないんだけどな」と思いながら落としている時もあるし(むしろそちらの方が多い)、
「この学生はうちには向いてなさそうだけど○○な会社なら向いてそうだな」と思いながら落とす時だってある
(またこのへんをフィードバックしないのがうちの会社のクソなところだ)。
それが伝わるようなやり方で採用活動ができていないのは、多分ひとえに企業の手落ちで、そんな会社には入らなくて正解なんだと思う。
そう思って、祈られてもなるべくがっかりしないでほしい。
「そうはいっても祈られ続けてサラリーマンになりたいのになれない」って人は、小手先のテクニックを磨いてください。
自分のライブで童貞専用出口作って、かわいそうだから一人あたり自費で五円あげるよみたいな、そういう、差別を内包したノリを良しとする人であることや、国を代表するといっていい有名人がそういうことをやるのが許されているという現状が苦手すぎるので、福山雅治のビジュアルや文字列をなるべく目に入れたくないと思っている女です。
でもこれがなかなか難しい。もともと日本のTV番組はほとんど見ないので余裕だろうと思ってたら、思わぬ場所で被弾することがある。例えば、福山雅治が結婚したとき、当時の官房長官だったかが「これをきっかけに女性には子供を産みたいと思ってほしい」というような問題発言をした。この一件から、日本製エンタメ系だけ見なきゃいいとはいかなくなり、少子化問題における日本政府の対応を批判する文脈ですら出てくるようになってしまった。この間も、新聞を読んでたら社説に出てきた。インターネットでも関連用語などをミュートしているけど、なんというか「福山雅治」というのがただの個人を超えて普遍性の高い概念のようになっていて、とてもじゃないが避けきれない。全く関係のない文脈からひょっこりと顔を出す。もう日本を出るか、そうでなければ福山雅治という存在と和解するかの二択しかないと思ってる……
おまけにリンクされているPSDファイルはミルフィーユのごとく調整レイヤーを積み重ね、スマートオブジェクトのスマートオブジェクトのスマートオブジェクトという自己矛盾を孕んだ存在をそのはち切れんばかりのファイルサイズの中に抱えていた。
24GBまでメモリが増設されたタフなiMacもこの時ばかりは狂ったように冷却ファンを回し、その回転を象徴するレインボーカーソルはある種の普遍性を感じさせるほどであった。
3回のプチフリーズを経て、2017年10月19日にアップデートされたばかりのAdobe Illustrator CC 2018はついに音を上げた。
「Adobe Illustrator CC 2018 は予期しない理由で終了しました。」
「やれやれ、ヒュージョン・ドライヴのiMacを用意しておくべきだったね。」
その通りだった。
正しさとは、人によって異なるものであれば間違いなくこの区分について意味を見出させないだろう。
この区分をわかっていない人が、正しいことをやろうとする人を見た場合に
「正しさとは人によって異なるのだから、あなたの行いは私から見れば正しくないありえることではないか?」
しかし、普遍性について考えてみれば私が正しいことがあなたにも正しいことということは前提条件である。
正しさを信念レベルで語るというのであれば、その指摘は正しい。
「あなたの正しいことであるという信念は、私の正しいことであるという信念とは別物である。」
この区分のはっきりした違いというのは、主観的であるか客観的であるかどうかの違いである。
正しさが主観的であるなら、私の正しさとあなたの正しさは別物であるかもしれないし、一緒であるかもしれない。
正しさが客観的であるなら、その正しさは 間違っているかも知れないし、そのまま正しいのかもしれない。
この区分を混同していると、正しさを語ることはほとんど意味がない。
合意をとることが必要であるという言説が言われているが、正しさが主観的にも客観的にもなるのだとしたら
まったく改善しない。次のような意味をもつかもしれないからだ。
「私は正しさについて主観レベルで合意した、しかし客観的であることは合意しない。」
正しさが客観的でないなら、その正しさは合っているか間違っているか誰も気にはしない。
常に人との合意についての問題となる。人との合意を多くとれた正しさが、正しくなる。
正しさという意味がこれほど毀損されれば、本当に正しいことについてまた語りなおすことになる。
私の正しさと、あなたの正しさは違う、と。
度重なる押し問答の末、シューゴさんはとうとう爆発した。
「もういい! もうたくさんだ! こんな曖昧な基準で、表現が統制されてたまるもんか!」
「ワガママを言わないでください。社会にとって害悪なものは統制される。それが今回はアニメだったというだけの話じゃないですか」
「俺から言わせればな、普遍性のないボーダーラインを大義名分に、表現を統制しようとすることこそ害悪でありワガママだ」
「上等だ! 奴らが文句を言うのはもちろん自由だ。だが、オレたちにも同じくらい尊重すべき自由がある!」
シューゴさんは頑なだった。
「自分にとって不都合な影響を与えたくなくて、躾もロクに出来なくて、その責任をオレたちに擦り付けるしか出来ない。だったら、いっそ何もない家に一生閉じ込めておけ。それが一番確実で健全だ」
「なぜ自分と同じ物差しを、誰もが持っているべきだと思いあがれる? よしんば持っていたとして、同じ物差しで同じ場所に、同じように線を引くとでも思ってんのか。それを踏みこえてはいけないと、なぜ言い切れる?」
父もフォンさんも溜め息をつくが、どこか安堵もしていた。
シューゴさんほどではなかったが、二人とも今回の対応に不服であったのは同じだったからだ。
どこかでシューゴさんが突っぱねてくれることを期待している節があったのかもしれない。
そして、放送後……
「シューゴさん、苦情が……」
「変える気はないぞ。主人公たちの武器はこれまでと同じ、人間相手にもバンバン使っていく」
「いや、今回はそこじゃなくて……」
「ん? どういうことだ?」
「『入浴シーンがセクシュアル的でよろしくない。青少年の健全な成長に悪影響を与える!』……とのことです」
それを聞いたシューゴさんは大げさに笑って見せ、父は白々しく「あちゃ~」と言いながら頭を抱えた。
「わっはっは。あ~そっちかあ~」
「というか暴力表現に関する苦情はどうしたんです? 今回はアクションシーンが派手だったから、いつもより来ていると思ったんですが」
「恐らく、入浴シーンのほうが気になったんでしょう。性的描写の方を問題視する人って多いですから」
「性別関係なく湯気をこれでもかってくらいつけているんですけどねえ。作画の手抜きを湯気で誤魔化しているんじゃないかって疑われるレベルで。更には放送局がそこに雑な修正まで入れてるほどなのに」
「一番スケベなこと考えているのは子供より、そいつらの方なんじゃねえか?」
「また、そういうこと言う……それに暴力描写と性的描写は別物ですから、判断基準も変わってくるのは当然ですよ」
「どちらも表現の一形態だろ。これは良くて、これはダメ。ここまでならOK、これ以上はNG。それを区別する境界線を誰が、どうやって決めれば正しいんだ」
「それは私も分かりませんが、彼らの主張自体は理解できるでしょう。これはTPOに基づいた、妥当性の問題です」
「その“T”と“P”と“O”とやらを、それぞれ具体的に考えたことあんのか? そんな状態で妥当性なんぞ共有できないだろう。基準が曖昧なままなのに、主張に汲み取るべきところがあるからと受け入れていったら、雰囲気だけで規制できてしまうぞ」
「そうです。都合のいい言説を振りかざしているだけです。主張の内容はそれっぽいことを並べてはいても、象徴的だったり抽象的なものの域を出ていない。とどのつまり恣意的に判断しているのを誤魔化しているわけです。それで表現が統制されるべきとは思えません」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ。私たちも上から通達が来たから業務上やってるだけで、それが本当に正しいことか分からなくても、やらないといけないわけですし……」
「ああ、そもそも上の指示に大人しく従ったのがケチのつき始めだったよな。それで安易に変えてしまったら、他の表現も次々とその対象になる。クリエイターを抑圧し、萎縮させて、風当たりだけが強くなっていき、虚構のディストピアが出来上がるわけだ」
「そうして世間の目が矯正されれば、今までは全く問題視されていなかった表現まで規制の対象と認識される。事例や風潮の積み重ねが基準やエビデンスを形作るなら、なおさら現状にNOを突きつけるべきなんです」
この時フォンさんはかなり戸惑っていたようだった。
目の前の問題から目を背けて、二人が不平不満を言っているだけのように見えたからだ。
「二人とも、検閲そのものの是非はともかくとして、結局何らかの対応はしないと……」
「それなら大丈夫だ。今回のエピソードでお上からの指令は来なくなる」
「え、どういうことです? むしろ余計に悪化しそうな気がするんですが」
「“自由の応用”・・・・・・?」
「オレたちは表現の自由を不可侵の聖域だとは思っちゃいない。なぜなら表現の自由は、言論などの“自由”も包括しているからだ」
意見を肯定するか、否定するか、スルーするかという選択はできる。
だが都合の悪い意見そのものを失くそうと黙らせるのは矛盾した行為だという。
「ではどうやってこの流れを止めるというんです」
「直に分かりますよ、フォンさん」
父たちは作り手だからこそ、表現の自由に構造的な欠点があることを知っていた。
それはつまり、“その他の自由”にも欠点があるのを知っているってことだ。
「常識」は偏見のコレクション、で片付けてもよいが、「理性的に判断して無理なく導き出される結論」はおおむね「常識的」である。
前者は時代により人により様々だが、後者はもう少し普遍性をもっていると考えてよいのではないかと思うが、この違いがなかなか理解されづらいと思う。
例を挙げよう。
(1)飯を食うのに箸は右手にもつもので左利きはおかしい……これは偏見のコレクションとしての「常識」と言えるだろう。
(2)箸の重さ形状と、その用途(飯や菜をナイフのように裂き、フォークのように固定し、スプーンのように掬う)から想定して、手で、指先で操作される器具だと判断する……これは「常識的」な判断である。
(3)(1)の話を「常識的」に判断するならば、箸の形状はどう見ても「右用/左用」を問わないので、本人の利便によっていずれの手で操作しても用途目的に支障はないだろう、仮に右手の使用を「常識」とする考えがあるとしても、それにとらわれる必要はないのではあるまいか? ……たとえばこれは「常識的」な判断だと言える。
「常識」が全て誤りとは言わないし、「常識的」な判断にも見落としや考えの誤りは起こりうるだろう((3)で言えば、歴史や伝統、あるいは人間の脳の働きなどに対する視点は抜け落ちていると言えるかもしれない)。私が言いたいのは、「常識」と「常識的」というのは、少し分けておいた方がいいのではないか……ということだ。
そして、「同人」イベントにおける件のお隣サークルの方々は、「知らない人に挨拶するのはオカシイ」という「自分たちの常識」を振りかざすのではなく、一体「イベント」というのは何なのか(知らない人と交流するからこそのイベントなのでは…)…という程度の「常識的」な考えをそこで働かせてもよかったのではないかと思うのである。
で、ポリコレっつーのはその人権を守るための個別具体的な運動のひとつであって、だから具体的な事例について「これはポリコレを守るべきですね」と回答することができる。
たとえるなら自動車の速度超過に対しては「法律は守りましょう」という大雑把な言い方よりも「スピード違反はやめましょう」という言い方になるというだけの話。
スピード超過を禁止する道路交通法みたいに、それが法体系の中でガチガチに定義されているなら、まだ分かるよ。
でも、ポリコレって定義が広がったり狭まったりするし、客観性・普遍性が足りないんじゃないの?
俺が人権については信頼しているけれど、ポリコレをあまり信頼していないのは、まさにそのへんが理由だね。
客観性・普遍性がないと、「どこからが違反になるか」「何をどれくらい叩くか」というのが、あくまで世間の声に従うことになってしまう。
つまり、世間の多数派が受容しているものについては、ポリコレの裁きが甘くなりがちだ。逆にオタクのような異端者にだけは、過度に厳しい裁きが下されるわけである。
再追記
piripenko サバサバ系に対するほんわか系だったのですが…。追記を読んで映像への印象も前より悪くなってしまい困惑。ゴミとプレゼント対比のために設定(ひどい)があるみたい。共感より筋をとって幸せなのは制作だけでは。
作品をちゃんと見た上での好き嫌いは全然普通のことではないでしょうか。
共感と筋が対になっているのではなく、共感させ方の種類が違うということではないかとは思います。繰り返しになりますが、主人公視点の作品です。主人公の内面での象徴としてのゴミとプレゼントであり、大切なものですら投げ出したくなることはあるよねという表現は受け入れられない人もいるでしょうが、共感する人もいると思います。
サバサバ系の話はすみません、別の人と同じ意味かと混同してました。ただ、考え方に差があるようなのであまりこちらの意見を押し付けても仕方ないですが、サバサバとほんわか程度なら、そんなに差が出る役ではないのではないかと思っています。
追記
simplemind 主人公の内面で迷いが吹っ切れただけで話が終わっててオチがないから伝わらないんだよ。次の日グローブをもう一個買うとか、子供の背中を洗ってやるとか。映像で語れてない
オチがないからわかり辛い、という意見もよくわかりますが、それはミスではなく意図的な選択だったということが、メイキングを見るとわかります。父親は子供とキャッチボールの約束をしているのです。
そういう明快なオチではなく、抽象的に変化を描くことで考える余地を与えたり、普遍性を得ようとしたのだと思っています。その賛否もわかりますが、あのCMを見るだけでもその部分は理解可能だと思ったので、増田を書きました。
piripenko 演技はもとより映像の出来がいいのは同意。キャラ設定とエピソードの練りこみが物足りない。ゴミを分別させては、女性はほんわかタイプではといったノイズ対策も甘く、総じて残念。一応そんなに怒らんでも派です。
トラバでも「気の強そうな妻」はどうかという意見がありましたが、妻が主人公に対して圧迫的だという意見は、個人的にはすごく疑問があります。
初登場時の妻は、笑顔でケーキのおつかいという「軽いお願い」を主人公にします。これが仁王立ちで登場しているとか、圧迫感のあるアップの演出であるなら別です。しかし彼女は外出の支度中のようで、笑顔でごく自然にお願いをしています。
その後のラインは状況がわからない(妻に用事ができたのかもしれないし、本当に無理矢理買い物を押し付けてきたのかもしれない)ので置いておきます。次に、父親が連絡なしに遅れて帰宅したときに怒っているのは、当然です。しかしその後父親が謝ったらすぐに態度を変え、楽しげに息子に呼びかけています。これが「気の強そうな妻」の演出だとは、個人的には全然思えません。
ケーキとプレゼントに関するやり取りから、妻のそういう性格を想像する人もいますが、状況が省略されているだけで、買い物を変わりに頼むことなどは、日常よくあることだ思います。省略されているのは、「それを否定的に捉えている父親の主観」のためです。省略されている部分に想像をめぐらすのは自然なことですが、それはまず「映像で描かれていること」を元にすべきであると思います。
ラインについても、1126(イイフロ)というCM中ではポジティブな意味を持つダジャレの時間に送られているので、俯瞰して考えればあまりネガティブな状況ではないと解釈しています。
ゴミの分別については、普通ゴミとビン・カンの日でちゃんと分別しているのでは?と思いますが、違う話でしょうか。
watapoco 初見が音声オフだったので、これと近い見方。映像だけ追うとこういう構成よね。でもケーキほったらかすとか生活のリアリティのなさは映像としても×。
要冷蔵とか、ケーキの扱いにこだわる人がいるのですが、ゴミと、ケーキとプレゼントを重ね合わせてるイメージ(本当ひどい)があるので、あの扱いはむしろ筋が通っていると思っています。
生活のリアリティのなさについては、意識差がありますしどの程度映像で再現するかは難しい問題ですが、あの家庭の映像に違和感があるという意味なら、それは家庭に疑問を抱く父親の主観と解釈できるのではないかと思いますが。通勤や職場の雰囲気などは出ていると思いました。
bt-shouichi 「自分が昔見た父親はそうだった」からといって、「孤独に仕事を頑張ることが本来の父親の役目だと思っている」となるもんなんですかね。そういう考えをもってる人って多いのかしら
家族の行動に無意識で根深い影響を受ける、またそれが誤解に基づくものであったりするというのは、すごく自然なキャラクターメイキングだと思います。
「孤独に仕事を頑張ることが本来の父親の役目だと思っている」は、映像から読み取れることをつないでいった結果、家庭との対比も合わせたら説明するのにわかりやすいと思い選んだ言葉ですが、違和感があったらすみません。
あと元は動画のURLを貼っていなかったので、念のため貼っておきます。
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「下手な映像」というブコメをいくつか見たので言わせてもらう。すごく丁寧でよくできてるよこのムービー。
このCMは「映像で語る」ということをしているので、台詞で説明されないとわからない人には伝わらなかったのかも知れない。そういう人向けに映像的な読み解きをしてみる。
このCMは時系列を変えてまでオープニングとエンディングをゴミ出しと出勤風景で揃えている。つまり同じ映像で心の違いを表現している。回想では、笑顔の妻に息子の誕生日ケーキを頼まれて、気のない返事をするダメな父親の姿が描かれる。そして映像作品で誕生日をモチーフに選ぶ場合は、普通は生まれ変わりの意味で、赦しの雨みたいな慣用表現(ついでにこれは雨の代わりに当然風呂)。要はオープニングは、このCM中に主人公の父親が成長しますよという説明だ。これが前提になって映像が綴られていく。
オープニングの時点では、家族思いを演じているつもりの父親は、孤独に仕事を頑張ることが本来の父親の役目だと思っている。自分が昔見た父親はそうだった。だから笑顔の妻との会話ではなく、孤独な出勤風景から始まる。
その仕事場では、部下が報告をしなかったことを上司に叱られている。部下を慰める父親。歩道橋から見おろされる部下は、父親より下の存在で同時に育ててももらえる、いわば息子のように描かれている。父親は仕事場の息子に対しては、面倒を見てやり、自分の失敗談を晒して、人は成長するもんだと助言も与えてやれる。仕事場での人間関係なら、うまく立ち回れるのに。
しかし家に帰れば自分も、家族の大事な日なのに酒を飲みに行くのを報告しなかったことで妻に怒られる。家庭ではダメな部下と同レベルだ。仕事はできても家庭では何もうまくいかない。家庭には、父親が頼れる上司はいない。
帰宅途中では「家族思いのパパが正しいのか」と毒を吐いていた。このときケーキとプレゼントを両手にぶら下げる。朝出したゴミのように。
グローブを買いながら思い出す。自分の父親は、自分がいて欲しい時に仕事でいなかった。自分も仕事だけ頑張っていればいいじゃないか。
しかし、子供じみた拗ね方をして湯船に浸かっているとき、父親と一緒に風呂に入ったことを思い出す。自分の父親は、仕事だけをしていたわけではなかったことにようやく気付く。覚えている父親の背中は、出勤する背中だけでは決してなかった。
あの頃の父親と今の自分がかけ離れているのは、何故か。世間の父親像が変わったんじゃなくて、自分がダメなだけじゃないか。風呂に入りながらやっと気付く。そういえば、妻からLINEが来た時刻は11:26だった。
帰ってきたときは座らなかったテーブルに、風呂から上がった父親はようやく座る。これは、やっと本当の父親の座に付けたということだ。だからこのシーンで初めて息子が出てくる。父親が座る場所は、部下と飲んだときと同じ席だ。仕事と同じように、家庭でもうまくやれる自信が湧いてきた。朝は敬語だった妻に、素直に、気さくに謝る。笑顔で見送ってくれた妻にようやく笑顔を返せた。息子の誕生日に、父親は生まれ変わる。
ラスト、昨日と同じようにゴミを出す。しかし両手にゴミをぶら下げた絵は映らない。同じく、昨日は孤独に歩いていたカットは挿入されず、代わりに父親が眺めている風景の映像が入る。
含み笑いしかける父親。昨日何かあったのか。これからいいことがあるのか。
と、こういう流れになっていて、子供じみたダメな父親がいい父親に成長する内容なわけです。
それを言葉での説明を省いて、なんてことのない日常を淡々と綴った映像はとてもよかったと思いました。なんで飲みに行くのかとか、何を語ろうとしてるのかとか普通に映像見てればわかると思うんですけどね。
[1] この文書はもっぱらグーグルのマウンテンビューキャンパスでの視点から書かれている。私は他のオフィスや国について語ることはできない。
[2] もちろん、私にもバイアスがあるかもしれないし、自分の視点を支持する証拠だけを見ているのかもしれない。政治的バイアスの観点からは、私は古典的自由主義者であり、個人主義と理性に強く価値を置いていると思う。私はこの文書について喜んでさらなる議論を行いたいし、例証を挙げたい。
[3] 私は、この文書を通じて”技術職”を、ほぼソフトウェアエンジニアリングという意味で使っている。
[4] ロマンチックな男女関係において、男性はより強く地位によって値踏みされ、女性は美貌によって値踏みされる。さらにこれには生物学的な起源があり、文化的に普遍性がある。
[5] Stretch、BOLD、CSSI、Engineering Practicum(ある程度は)、それと特定ジェンダー及び人種のためのいくつかの他のグーグル提供の内部、外部プログラム。
[6] 代わりにある特定層のための潜在的なGooglegeistのOKR設定。私たちは、特定のグループにとっての環境を良くすること(それはサーベイスコアによって確認できる。)によっても、保護された地位に基づく差別化(それは違法であり、すでになされていると私は見ている。)によっても、組織レベルでの登用を増進させられる。登用増進OKRは後者のインセンティブとなりうるし、組織間でのゼロサム闘争を作り出しかねない。
[7] 共産主義は資本主義より道徳的にも経済的にも優れていることを約束する。しかし、その試みは全て道徳的には堕落し経済的には失敗している。自由民主主義社会の労働者階級が”資本主義の抑圧者”を倒そうとしていないことが明らかになったとき、マルクス主義知識人は階級闘争からジェンダーと人種の政治へと移行した。抑圧者-被抑圧者の中核的な力学は残り、今や抑圧者は”白人で、ストレートで、シスジェンダーの家父長制”である。
[8] 皮肉にも、IQテストは当初能力主義が貴族政治の犠牲者を助けとなることを意味していた時代に左派によって擁護された。
[9] もちろん、全国的な総計において、女性はさまざな理由で男性より賃金が低い。ただ同じ職業につく限り、女性は男性と同じだけの賃金を得ている。女性が男性よりお金を使い、給与というものが従業員がどれだけのものを犠牲にしたか(例えば、より多くの時間とストレスと危険)の指標であることを思えば、権力に関わるステレオタイプを考え直す必要がある。
[10] 伝統的なジェンダーのシステムは支援が必要な男性というアイデアをうまく扱えない。男性は強く、不平を言わず、自ら問題に対処することを期待される。男性の問題は、ジェンダーによる行為主体性の考え方によって、しばしば犠牲者というよりは個人的な失敗とみなされる。これは泣き言、不平、弱さの現れとみなされることを恐れて、男性が男性の問題(それが個人的なものにせよ集団的なものにせよ)に注意を払うことを妨げている。
[11] 政治的正しさは、”社会的に恵まれない人たちや差別されている人たちの集団を排除し、軽んじ、侮辱すると受け取られるような表現と行動を避けること”と定義される。それでなぜそれが左派の現象であり、権威主義者の道具であるのか明らかだろう。
・個人の自由は絶対なのだから、恋愛対象や結婚対象の選択に関して、政府はもちろん、それ以外の何ものも、社会的圧力をかけるようなことは許されないという立場。
・「リベラル」という原理原則を、個別の問題に適用するだけなので、異なる利害集団の共闘が可能。また、「リベラル」の立場から特定の政治的主張をする人は、他のリベラルな政治的立場を取る場合が多い。たとえば、「リベラル・フェミニスト」であり、LGBTの結婚に賛成であり、中絶に賛成であり・・・・といった具合。
・結果として、悪しき伝統を維持し、社会的不正義を許容することになるという批判を受ける。
・個人のパーソナルな領域を絶対だと言ってしまうと、さまざまな差別は是正されない。個人のパーソナルな領域に立ち入ってでも、人間の平等という価値を守らないといけないという立場。
・有名なところだと、「若くて従順な女性を好む男性」を批判したり、「特定の属性を持つ者との結婚を嫌がる人間」を批判したりする立場。
・ラディカル・フェミニズムのスローガンである「個人的なことは政治的なこと」という言葉が良く知られている。
・欠点は、あくまで「政治運動」にしかなりえず、一般化された思想運動にはなりえないということ。あくまで、特定の利害集団の利益のための政治運動であることを自覚した主張であり、異なる利害集団の間での共闘は原理的には不可能。「私は○○の利害を代表して主張する。お前たちは、お前たちの権利を主張するべきだ。そして敵として戦うことで社会をより良くしよう」という立場。「ラディカル」の主張に普遍性を求めてはいけない。
・リベラルはラディカルを「政治的自由」の範囲で擁護する。ただし、本来のリベラルの原理では、それぞれの政治的主張の是非には立ち入れない。
・個人のパーソナルな領域は、絶対ではないが、個人のパーソナルな選択が、純粋にパーソナルな問題であるうちは、やはり尊重するべき。ただ、それをパブリックな場で発言するなら、それはパブリックな問題として扱われるべき。「特定の属性を持つ者と結婚をしないのは個人の自由だが、それをパブリックな場所で公言するのはアウト」というような立場。
・「ラディカル」な政治的主張に、「強きものは弱きを助けなければいけない」というような伝統的・保守的価値観が融合して、本来「ラディカル」な政治的主張に過ぎなかったものが、普遍的な「リベラル」の問題であるかのように扱われているケースがある。これは、本来のリベラルの原則と反する。(例:アファーマティブ・アクション)
・本来の「ラディカル」が「政治的主張に過ぎない」ことを明確にするのに対し、バランスに取り込まれた「ラディカル」では、「政治的主張に過ぎない」ことが覆い隠されてしまい、対立する利害集団からの反発を受ける。
・保守やリベラルから見ると、ぶっちゃけ、原則なき本音と建前の使い分けに見える。ラディカルに取っては、「政治的運動の成功」とも言えるが、一方で穏健的過ぎるという批判もある。
最近のネットでの言論を見ていると、ラディカルな政治的主張とリベラルの混同が見られる。特にラディカル独自の考え方(たとえば、個人の性的指向も政治的批判の対象になるという考え方)をリベラルとして批判するのは完全に誤解であり、間違いである。
ただ、今日、広く受け入れられている、「バランス」の立場は、リベラルとラディカルの両方に、保守の考え方も取り入れることで成り立っている、そもそも、内部に矛盾を抱える考え方である。これは「保守」「リベラル」「ラディカル」の全てから、批判を受けているし、その批判はいずれも議論として正しい。「保守」は「バランス」や「ラディカル」を「リベラル」だと思って批判するし、「ラディカル」は「バランス」を「保守」だと思って批判する。「リベラル」は「ラディカル」や「保守」だとして批判する。