正しさとは、人によって異なるものであれば間違いなくこの区分について意味を見出させないだろう。
この区分をわかっていない人が、正しいことをやろうとする人を見た場合に
「正しさとは人によって異なるのだから、あなたの行いは私から見れば正しくないありえることではないか?」
しかし、普遍性について考えてみれば私が正しいことがあなたにも正しいことということは前提条件である。
正しさを信念レベルで語るというのであれば、その指摘は正しい。
「あなたの正しいことであるという信念は、私の正しいことであるという信念とは別物である。」
この区分のはっきりした違いというのは、主観的であるか客観的であるかどうかの違いである。
正しさが主観的であるなら、私の正しさとあなたの正しさは別物であるかもしれないし、一緒であるかもしれない。
正しさが客観的であるなら、その正しさは 間違っているかも知れないし、そのまま正しいのかもしれない。
この区分を混同していると、正しさを語ることはほとんど意味がない。
合意をとることが必要であるという言説が言われているが、正しさが主観的にも客観的にもなるのだとしたら
まったく改善しない。次のような意味をもつかもしれないからだ。
「私は正しさについて主観レベルで合意した、しかし客観的であることは合意しない。」
正しさが客観的でないなら、その正しさは合っているか間違っているか誰も気にはしない。
常に人との合意についての問題となる。人との合意を多くとれた正しさが、正しくなる。
正しさという意味がこれほど毀損されれば、本当に正しいことについてまた語りなおすことになる。
私の正しさと、あなたの正しさは違う、と。
there is nothing either good or bad, but thinking makes it so.