はてなキーワード: 新聞記事とは
結婚したら子供を産まないといけないのか?夫婦二人で生きたいと思うのはだめなことなんだろうかと最近考える。
私が産みたくない理由は
・出産でつわりで体調が悪くなること、食べられないものがあるなど、制限されたくない。体型が変わることも嫌だ。
・育児で十分に寝られなくなること、自分の趣味に充てる時間がなくなるのがいやだ
・子供にまつわる人間関係(ママ友やPTA)に頭を使いたくない
・子供が嫌いだ(電車らファミレスでキーキー叫んでいる子をみるといらだつ)。産んだらずっと一緒にいるんだなと思うと苦しい。
・自身がASDで、小中といじめにあい、まったく楽しくなかった。他人の顔色をうかがっても、それが裏目に出る。
自分のような人間に育てられた子供がまともに育つわけがない。遺伝する可能性を考えたら、生まれた子が生きづらい目にあうとかわいそうだ。そういう人は一人でも少ないほうがいい。
私自身が高齢出産で生まれた子供で、母から「産む予定はなかった」と言われたことが、自分が産む必要がない気持ちに拍車をかけた。
自分の甥姪はかわいいが、夫側の姪はかわいいと思えない。自分の甥姪がかわいいのは、血がつながっていることで顔に親しみがわくし、会うのは数時間だけでいい、甘やかしておけばいいので楽だ。
両親は、私の姉が産んだ孫がいれば十分だろう。夫の家からは何も言われない。義祖母が夫にこっそり渡した妊活計画について書かれた新聞記事を自宅に帰って発見し、その場でびりびりに破いた。
夫は私が産みたくない気持ちを理解してくれていると思っていたが、どうやら違ったそうだ。
夫の姉や大学の友人が子育てに励んでいる様子を聞くと、子供が欲しくなってきたといわれた。
そもそも、夫は子供が好きで、結婚して周囲が出産していくのを見ていれば、私が欲しくなると思ったそうだ。軽く見られたものだなと思った。
2人でいることも、少し飽きたともいわれた。気を遣って「少し」という言葉を入れたんだろうと思うと、飽きたという言葉が強く響いた。
「じゃあ離婚しようか」というと、それは違うと夫は大きな声を出した。
私は夫と一緒にいたいから結婚した。私は2人で一緒にいたいけれど、夫は3人以上がいいというなら、目的が合わないので、離婚するのが合理的だと思った。
「君との子供が欲しい」と言われたが、私は自分の子供だなんて気味が悪いと思った。
じゃあ私が我慢して産んだとして、育児を全くしなくてもよいのか。それは子供がかわいそうじゃないかと言うと夫は少し黙った後、産めば子育てしたい気持ちに変わるかもしれないとぼそっと言った。
それから数日後、産むことができる年齢(自然妊娠が見込める年齢)はいつまでなのか、妊娠にあたってどういう諸症状があるのかを調べたくて数冊の本を買った。いつまでに中絶できるのかがわかった。
本棚のわかりやすいところに置いておいた。こちらが勧めるまで、夫は自分から読みはしなかったし、夫がそういう本を買ってくることもネットの情報を共有することもなかった。その程度の覚悟なんだなと思った。
出産するまでの体調不良は?検診で仕事を休むとして、会社での仕事調整は?仕事を配慮してもらって周囲に謝るのは?全部私だ。
夫は精子を出すだけで済むなんてあまりにもいい身分だ。何も負担しなくていい。好きなものを食べられて、仕事を調整せずに済む、自由なままだ。
家事を負担されてもつわりがよくなるわけじゃない。その差があまりにも憎かった。お前が産めよと心底思った。
あれから夫とは具体的に話をしていない。
夫のことは好きだし、一緒にいたい。でも、子供を産みたくない。
なんで子供を欲しがるのか、自分の血が繋がったものなんておぞましいだけじゃないか。
育児をして、想像したものと、理想と違ったとして、やめられるものじゃない。
児童虐待のニュースを見て、ひどい事件だと思うとともに、あぁ未来の自分かもしれないなぁと感じる。
二番煎じ・三番煎じだろうけど書いておく。
何故なら、作中のニュース記事等で「薬物中毒による犯行」と明言されていないから。
と同時に、覚醒剤(アンフェタミン系の精神刺激薬)の中毒症状における典型的な症状でもある。
発生メカニズム的にこの両者の症状はかなり近い(Wikipediaで「ほぼ同じ」と書かれているくらい https://ja.m.wikipedia.org/wiki/覚醒剤)ので、単純な症状の描写だけでは両者が区別できないのは当然と言える。
ところで、作中の犯人の男は明らかに「理不尽に命を奪う」というイベントの引き金的に描かれている。
用意された悪役というか、憎まれるための舞台装置に近いポジションである。
であれば、メカニズム的にも矛盾はないので、ヤク中だったとするのが最も角は立たない。
「ヤクやるような奴だから人を殺すのだ」は一般的に受け入れやすいストーリーで、犯人が薬物中毒だったとしたら新聞記事やニュースでそこに言及がないのはほぼあり得ない。「薬物中毒者〇人殺人事件」という事件名がついたケースすらある。
逆に言えば、そういった描写をしないことで、明らかに作中では「精神を病んだ患者の犯行」の可能性を匂わせている。
「いわゆる『頭のおかしい奴』との断絶」を強烈なかたちで描くことで、犯行現場へ駆けつけて京本を救うヒーローとしての「ありえたかもしれない藤野」のカタルシスを描いている。
「僕はきれいな部分とか、優しいものを描くなら残酷な部分を描かないといけないと思っていて。そのほうが優しい部分に触れたときに、映えるじゃないですか」と語る藤本氏がいかにも好みそうな「残酷な部分」の象徴として、精神疾患の犯人を描いているのである。
これがヤク中の犯人では「残酷な部分」にはならない。ヤク中では掘り下げて描写しないと「クソ迷惑な阿呆がヤクやって人を殺す」という、「避けられたであろう理不尽さ」が拭えない。
精神病はそうじゃない。ヤクはヤク打ちたくて打って転げ落ちるイメージがあるが、統合失調症患者はなりたくてなるようなもんじゃない。
なりたくてなったわけじゃないのに「そう」なって人を殺してしまう、というのは残酷な話だ。
そう読む読み手がいるのは自然な話であり、精神病の当事者から抗議が行くのも自然な話だ。
普通に精神病への偏見を助長するような、配慮の足らない描写であるからだ。
個人的にはかわいそうなやつだ、と思う。『ルックバック』の犯人の話である。
ヤクか病かは知らないが、登場時点で明らかに被害妄想に苦しめられている。
正史というか京本脱ヒッキーの世界線では、この後人を殺すという大罪を犯してしまい、世間からクソボッコにされるのだ。
ただでさえ日常が意味もなく四面楚歌なのに、一線超えてしまったせいで本当に世界の敵になってしまうのだ。かわいそうに。
かわいそうと言えば藤野もかわいそうだ。「京本を部屋から出さなければ死ぬことはなかった」が完全に正となってしまった。部屋から出さなくてもいずれ漫画家とアシとして組めたというウルトラハッピー世界線の描写が逆に後味悪い。あれを藤野が直接認識することがないのは救いだ。あんなん見てもうたら残りの人生ずっと「京本を部屋から出さなければ良かった」に呪われて、再び歩き出せるようになるまでにえらい時間を食ったことだろう。
なお、『ルックバック』が京アニ放火殺人事件をモデルにしているという言及があるが、京アニの犯人は精神疾患があり過去に投薬治療も受けている。
「京アニの犯人は犯行当時責任能力があった」という言を以って『ルックバック』を擁護する向きがあるようだが、擁護になっていない雑な話と言わざるを得ない。
例えば織田信長なんかは、今生きている人は誰もその姿を自分の目で見たことがないはずであるが、実在していたことは疑いようのない事実であると認識している。
これがスティーブ・ジョブスだったりすると、ウェブ・テレビ・新聞など様々な媒体で目にしたことがあるので、実在していたことは疑いようがない。
しかしながら、だんだん過去に遡っていくと、文献など客観的な傍証でしか確認できなくなっていくはずである。
wikipediaを見てみると、天皇についても「実在を認められないか強く疑われる名が多い」とあり、どこかの段階で実在/非実在の線引きがなされている。
先程の織田信長の例だと、我々は例えば歴史の教科書に記載されていることを事実として受け止めているはずである。
しかし、その教科書に記載されている事実についても、何らかの客観的な文献等に基づいて事実認定されているはずである。
その辺りの判断について確認できるような資料や書籍はないだろうか(調べてない)
ここで問いたかったのは、哲学的・認知論的な観点ではなく、学術的な観点である。
歴史学の研究は「史料」に対して行われるということをコメントから読み取れたので、以下wikipediaの「史料」から引用する。
「一次資料」も参照
一次史料とは、当事者がその時々に遺した手紙、文書、日記などを指す[2]。記述対象について「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献を「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼んでいる[1]。代表的な一次史料に日記、書翰、公文書がある[1]。コインや新聞記事は通常、一次史料ではない。
二次史料とは、上記三要素を満たさない文献史料を指す。第三者が記した物や、後の記録が該当する[2]。二次史料は、一般に一次史料より重要性が劣るが、必ずしも信頼性に乏しいとは限らない。例えば、太田牛一の『信長公記』や小瀬甫庵の『信長記』はいずれも織田信長に関する二次史料であるが、前者が高い信頼性を有していると考えられるのに対し、後者は史料としての価値はほとんどないとされる[3]。
史料の中でも「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献について「一時史料」と呼び、歴史的な情報に重要な価値を持つらしい。
ただし、一次史料自体が正しいかどうかの検証も必要(「史料批判」と呼ぶ)とのことである。
現在は、巷に溢れる情報をいくらでも入手することができる世の中になってきているが、陰謀論や似非科学など公衆衛生に対して有害になり得る情報が氾濫している。
どういった情報が信頼できるものであるかを判断するためには、史料批判のアプローチが活用できるのではないだろうか(調べてない)。
っていう話が、オリンピック期間中に微妙にはやるかなぁと思ったりする。
厄介なのはその投稿自体の真偽はともかく、実際としてありうる話で(というか現実問題確率的に起こるだろう)、しかも投げかけられた人が否定しづらい話の類でもあるという事。
さらに独り身だったりする独居老人なんかは死亡率が高く、家族の話ではなく誰かが死んでいます、というのもありうるだろう。
こういうのが本人のSNSや取材で実際の本人に投げかけられる可能性は高いだろうなぁとも思う。
そしてさらに厄介なのは、この投げかけに社会的意味は確かにあるという点で、全体の取材などでこの類に触れないのであればそれはマスコミとしておかしいというのもあったりする。
そこら辺は、アスリートたちが自問自答するのは、本人たちの倫理観でしかないことではあるけれども、ここらの姿勢は組織委員会がきちんと開催前に応答しておかないと、アスリート個人がやり玉にあがるだろうなぁとも思ったりする。
まぁ、でも、もともとは貧困国や紛争国などから見たら今までも提起されてきた疑問でもあるわけで、まあ元々の欺瞞が開催国に降りかかっているともいえるのかもしれない。
あえぎ声を書くバイト
https://anond.hatelabo.jp/20210408000218
https://anond.hatelabo.jp/20210520231555
はてなブログランキングの増田部門に載る人には、明らかに常連がいる。
経済時事的な会社の物語を書いて、最後に風俗店に行く人(デリヘル増田)とか。
今のはわかりやすい事例だけど、中には性別や所属組織、年齢なんかを自在に変えてそれっぽい文体を演じている人もいる。
「あ、この人は一か月前にランキングに載ってたな」
「また弱者男性の話をしてる」
「今度は特定の会社じゃなくて、大学についてアレコレ言う話なんだ」
とか、しみじみと感じることがある。
中には「プロだよね?」っていう人もいて、暇つぶしにはもってこいのコンテンツだと思う。増田は。
ところで。
同じ人が文体を変えても何となくわかる。ダメ押しで文章を形態素解析にかけることもあるけど、直観が外れたことはない。
シロクマ風にいうなら、どれだけ文体を変えても、その根底にある思想が文章に滲み出てしまうのだ。
その人は、いつも特定の何かを非難する話を書いている。上の「」でいうと一番下の人なんだけど、この方はいつも特定の何かをこき下ろしたり、馬鹿にしたり、悪い噂を広めることを目的にしている感がある。
証拠がないのでURLを貼ることはできないけど、正直、それってありなの?と感じることがある。文がそれなりに凝っていて、たまにクスッとくる内容なのは認める。
けど、特定の団体を名指ししたり、男性性や女性性への蔑視を煽っていることには同意できない。
その人が今までに扱ってきたテーマ(特定のテーマについての負の感情を煽るようにできている。筆が立つだけに厄介だ)はこんなところだ。
モテる女性、地方公務員、特定の民間企業、特定の大学、モテない男性、IT関連のコンサルタント(いわゆるITコンサル)、マッチングアプリ業界
ざっと思い出しただけでこれだけある。
基本的に、はてな匿名ダイアリーには何を書いてもOKだと思うし、そうあるべきだと思う。
でも、遠回しに何らかの存在に対するヘイトを焚きつけるスタイルには共感できない。まるでどこかの新聞記事や大本営発表や官僚の作文みたいに、巧妙な言葉で、直接的な表現を避けて、でも結果的にはその人の思考や判断に影響を与えてしまう。騙してしまう。そういう文章はズルいし汚い。
物書き(雑誌編集者)の一人として、そういう増田を書く人の存在を否定する。
増田を読む時は、なんというかこう、笑ったり泣いたり、ドキドキしたり、ウズウズしたり。
そういう気分でいたい。あなたはどうだろう。
ちょっと前、子供がゲームに夢中になりすぎてルールを破るから、そのゲーム機を子供の前でぶっ壊すことを誇らしげに書いた新聞記事があった。
ああ、うちの親と同じことしてるな〜とその時は思ったが、私の感覚でいうとそれは虐待で、いつかきっと大人になってから、その傷はなにかしらの結果をもたらすんだろうなとなんとなく思っていた。
思っていたが……まさか、兄が統合失調症からの躁鬱、そして障害者施設行きになるとは想像もしていなかった。
子供の頃のことで覚えているのは、父の怒鳴り声、兄を吹き飛ばすようにぶんなぐる姿。
それが生死に関わるようだったら児童相談所の出番かもしれないけれども、数ヶ月に1〜2回ぐらいだと見逃されがちだ。
父の機嫌がよいときは、そこまでひどいことはないのだ。
だから私も、子供心に「時々怖いことあるけど、これがふつーなんだ」と思ってきた。
でもあれは虐待だったのだ。
そしてゲーム機の話である。「しつけのため。お前の将来のためなんだ。お前のためを思ってやってるんだ」と言って、父親は泣き叫ぶ兄の目の前で、愛機のゲームをぶっ壊した。
父が去ってから部屋の中ですすりなく声、部屋の扉を裂ける寸前まで蹴る音などが聞こえてきて怖かったのを覚えている。
そして母親がそんな兄をかわいそうがって、何度も買い与えていたが、そのたびに「お前のためを思って」と父親がぶっ壊した。
結果、何が起こったか。
兄はゲームをしなくなり、何もしなくなったのだ。
父親の前では「反省しました」と言っているものの、ぼんやりしていることが増えていったのだ。
父親にあれをしろ、これをしろと言われたらするものの、どこか中身のない感じで動いていたように思う。
そして父親の言われるままに医師になることを強く言われ、三浪してやっと私立の医学部に入った。
なぜそんな父親の言いなりなんだ、と聞いたら、「別におれ、もうやりたいことねえもん」とぽつんと言っていたのを覚えている。
そうして大学生になった兄は、今までおとなしかったのが嘘のように凶暴になった。
怒鳴り散らし、ものを壊し、それでも父親の前では押し黙っている。
何にそんなにいらついているのかはわからないが、母親がその八つ当たりの対象になった。
そもそも私立の医学部に行かせるような家庭ではなかったのに、父親がどうしてもときかなかった。
案の定金策につまり、親戚中に借金をしてなんとか卒業にまでもっていくありさま。
連絡先も住まいも教えず、家を出て数年。
何をしたかといえば、車がびゅんびゅん通る車道に自分の車をとめて、何か叫び散らしながらコンビニに行き、公衆電話(当時は設置されていた)で110番したのだそうだ。
「命を狙われている」
完全に統合失調症の症状だった。
警察官がかけつけた時、兄は電源のきれた携帯に向かって必死に何かをしゃべっていたそうだ。
そうして留置場でも「殺される!」と叫び散らし、強制入院となった。
この時、初めて家族は、兄の数年の有様を知ることができたのである。
数百万の借金をして、ほうぼうから督促の電話がかかり、仕事にはろくにいかず、家はごみため状態。
そもそも実家にいる時から、家事掃除などは一切できなかったが、一人暮らししてもしなかったらしい。
玄関にカップラーメンの汁が飛び散り、土足で入らなければならないほどの床のよごれよう。
家賃滞納。
入院後、見舞いの時は両親に対して「少し調子が悪かったんだ。病院に入院するほどじゃない」などと気丈に言っていた。
兄は母親には八つ当たりするが、父親には決して逆らわなかった。
「早く退院してがんばれ」という父親に、兄は「うん」とうなずいただけだった。
そうして退院した兄は、自己破産をして一から医師をやり直した。
薬のせいで数十キロふえた兄は大学生のころの面影はなく、老けて五十代のようにも見えた。
そうしてまた兄は失踪した。
それが数年前。
そうして今年。
「俺、障害者施設に入ることにしたよ」と電話がかかってきたのだ。
躁鬱病の薬を飲みながらつとめていた病院は辞め、今は働いておらず家にじっとしているのだという。
「どうして」と母親は言った。「大事に守り育ててきたはずなのに」そう言って泣き崩れた。
彼女には虐待の感覚はなかったんだろう。父親の行為はしつけなのだと思っていたんだろう。
でも今ならわかる。あれは虐待だったのだ。
死ぬ寸前とかあざだらけとか、そういうものは保護され表沙汰になりやすいが、たとえば私の家のように、数ヶ月に1〜2回だったらどうだろうか?
虐待は恒常的に行われるものと、間欠的に行われるものがあることを知ってほしい。
そして間欠的に行われるものは死ぬこともなく保護されることもなく、深い傷をもって子供は成長し大人になるのだ。
ゲームをぶっ壊しただけでは精神に支障をきたすことはないかもしれない。
が、子供の大切に思ってるものをぶっ壊す、ような行為をするその家庭の教育の「方針」は、あらゆるところで子供の心を深く傷つけているんではないだろうか。
そうしてその心の傷は、数十年後、兄のように四十代に近くなってからあらわれることもあるのだ。
子供の頃、優しく活発で明るかった兄のことを思い出して泣いている。泣きながらこの日記を書いている。
言葉が溢れて止まらないという表現があるが、こんなに絶望し失望し悲しい時に出るものなのだと初めて知った。
子供をもつ親が、子供の大事にしているものをぶっ壊すような教育方針でありませんように、世界のすべての親が、そうでありますように。
そう祈ることしかできない。
異常な興奮を求めて集った、七人のしかつめらしい男が(私もその中の一人だった)態々わざわざ其為そのためにしつらえた「赤い部屋」の、緋色ひいろの天鵞絨びろうどで張った深い肘掛椅子に凭もたれ込んで、今晩の話手が何事か怪異な物語を話し出すのを、今か今かと待構まちかまえていた。
七人の真中には、これも緋色の天鵞絨で覆おおわれた一つの大きな円卓子まるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台しょくだいにさされた、三挺さんちょうの太い蝋燭ろうそくがユラユラと幽かすかに揺れながら燃えていた。
部屋の四周には、窓や入口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅まっかな重々しい垂絹たれぎぬが豊かな襞ひだを作って懸けられていた。ロマンチックな蝋燭の光が、その静脈から流れ出したばかりの血の様にも、ドス黒い色をした垂絹の表に、我々七人の異様に大きな影法師かげぼうしを投げていた。そして、その影法師は、蝋燭の焔につれて、幾つかの巨大な昆虫でもあるかの様に、垂絹の襞の曲線の上を、伸びたり縮んだりしながら這い歩いていた。
いつもながらその部屋は、私を、丁度とほうもなく大きな生物の心臓の中に坐ってでもいる様な気持にした。私にはその心臓が、大きさに相応したのろさを以もって、ドキンドキンと脈うつ音さえ感じられる様に思えた。
誰も物を云わなかった。私は蝋燭をすかして、向側に腰掛けた人達の赤黒く見える影の多い顔を、何ということなしに見つめていた。それらの顔は、不思議にも、お能の面の様に無表情に微動さえしないかと思われた。
やがて、今晩の話手と定められた新入会員のT氏は、腰掛けたままで、じっと蝋燭の火を見つめながら、次の様に話し始めた。私は、陰影の加減で骸骨の様に見える彼の顎が、物を云う度にガクガクと物淋しく合わさる様子を、奇怪なからくり仕掛けの生人形でも見る様な気持で眺めていた。
私は、自分では確かに正気の積りでいますし、人も亦またその様に取扱って呉くれていますけれど、真実まったく正気なのかどうか分りません。狂人かも知れません。それ程でないとしても、何かの精神病者という様なものかも知れません。兎とに角かく、私という人間は、不思議な程この世の中がつまらないのです。生きているという事が、もうもう退屈で退屈で仕様がないのです。
初めの間うちは、でも、人並みに色々の道楽に耽ふけった時代もありましたけれど、それが何一つ私の生れつきの退屈を慰なぐさめては呉れないで、却かえって、もうこれで世の中の面白いことというものはお仕舞なのか、なあんだつまらないという失望ばかりが残るのでした。で、段々、私は何かをやるのが臆劫おっくうになって来ました。例えば、これこれの遊びは面白い、きっとお前を有頂天にして呉れるだろうという様な話を聞かされますと、おお、そんなものがあったのか、では早速やって見ようと乗気になる代りに、まず頭の中でその面白さを色々と想像して見るのです。そして、さんざん想像を廻めぐらした結果は、いつも「なあに大したことはない」とみくびって了しまうのです。
そんな風で、一時私は文字通り何もしないで、ただ飯を食ったり、起きたり、寝たりするばかりの日を暮していました。そして、頭の中丈だけで色々な空想を廻らしては、これもつまらない、あれも退屈だと、片端かたはしからけなしつけながら、死ぬよりも辛い、それでいて人目には此上このうえもなく安易な生活を送っていました。
これが、私がその日その日のパンに追われる様な境遇だったら、まだよかったのでしょう。仮令たとえ強いられた労働にしろ、兎に角何かすることがあれば幸福です。それとも又、私が飛切りの大金持ででもあったら、もっとよかったかも知れません。私はきっと、その大金の力で、歴史上の暴君達がやった様なすばらしい贅沢ぜいたくや、血腥ちなまぐさい遊戯や、その他様々の楽しみに耽ふけることが出来たでありましょうが、勿論それもかなわぬ願いだとしますと、私はもう、あのお伽噺とぎばなしにある物臭太郎の様に、一層死んで了った方がましな程、淋しくものういその日その日を、ただじっとして暮す他はないのでした。
こんな風に申上げますと、皆さんはきっと「そうだろう、そうだろう、併し世の中の事柄に退屈し切っている点では我々だって決してお前にひけを取りはしないのだ。だからこんなクラブを作って何とかして異常な興奮を求めようとしているのではないか。お前もよくよく退屈なればこそ、今、我々の仲間へ入って来たのであろう。それはもう、お前の退屈していることは、今更ら聞かなくてもよく分っているのだ」とおっしゃるに相違ありません。ほんとうにそうです。私は何もくどくどと退屈の説明をする必要はないのでした。そして、あなた方が、そんな風に退屈がどんなものだかをよく知っていらっしゃると思えばこそ、私は今夜この席に列して、私の変てこな身の上話をお話しようと決心したのでした。
私はこの階下のレストランへはしょっちゅう出入でいりしていまして、自然ここにいらっしゃる御主人とも御心安く、大分以前からこの「赤い部屋」の会のことを聞知っていたばかりでなく、一再いっさいならず入会することを勧められてさえいました。それにも拘かかわらず、そんな話には一も二もなく飛びつき相そうな退屈屋の私が、今日まで入会しなかったのは、私が、失礼な申分かも知れませんけれど、皆さんなどとは比べものにならぬ程退屈し切っていたからです。退屈し過ぎていたからです。
犯罪と探偵の遊戯ですか、降霊術こうれいじゅつ其他そのたの心霊上の様々の実験ですか、Obscene Picture の活動写真や実演やその他のセンジュアルな遊戯ですか、刑務所や、瘋癲病院や、解剖学教室などの参観ですか、まだそういうものに幾らかでも興味を持ち得うるあなた方は幸福です。私は、皆さんが死刑執行のすき見を企てていられると聞いた時でさえ、少しも驚きはしませんでした。といいますのは、私は御主人からそのお話のあった頃には、もうそういうありふれた刺戟しげきには飽き飽きしていたばかりでなく、ある世にもすばらしい遊戯、といっては少し空恐しい気がしますけれど、私にとっては遊戯といってもよい一つの事柄を発見して、その楽しみに夢中になっていたからです。
その遊戯というのは、突然申上げますと、皆さんはびっくりなさるかも知れませんが……、人殺しなんです。ほんとうの殺人なんです。しかも、私はその遊戯を発見してから今日までに百人に近い男や女や子供の命を、ただ退屈をまぎらす目的の為ばかりに、奪って来たのです。あなた方は、では、私が今その恐ろしい罪悪を悔悟かいごして、懺悔ざんげ話をしようとしているかと早合点なさるかも知れませんが、ところが、決してそうではないのです。私は少しも悔悟なぞしてはいません。犯した罪を恐れてもいません。それどころか、ああ何ということでしょう。私は近頃になってその人殺しという血腥い刺戟にすら、もう飽きあきして了ったのです。そして、今度は他人ではなくて自分自身を殺す様な事柄に、あの阿片アヘンの喫煙に耽り始めたのです。流石さすがにこれ丈けは、そんな私にも命は惜しかったと見えまして、我慢に我慢をして来たのですけれど、人殺しさえあきはてては、もう自殺でも目論もくろむ外には、刺戟の求め様がないではありませんか。私はやがて程なく、阿片の毒の為に命をとられて了うでしょう。そう思いますと、せめて筋路の通った話の出来る間に、私は誰れかに私のやって来た事を打開けて置き度いのです。それには、この「赤い部屋」の方々が一番ふさわしくはないでしょうか。
そういう訳で、私は実は皆さんのお仲間入りがし度い為ではなくて、ただ私のこの変な身の上話を聞いて貰い度いばかりに、会員の一人に加えて頂いたのです。そして、幸いにも新入会の者は必ず最初の晩に、何か会の主旨に副そう様なお話をしなければならぬ定きめになっていましたのでこうして今晩その私の望みを果す機会をとらえることが出来た次第なのです。
それは今からざっと三年計ばかり以前のことでした。その頃は今も申上げました様に、あらゆる刺戟に飽きはてて何の生甲斐もなく、丁度一匹の退屈という名前を持った動物ででもある様に、ノラリクラリと日を暮していたのですが、その年の春、といってもまだ寒い時分でしたから多分二月の終りか三月の始め頃だったのでしょう、ある夜、私は一つの妙な出来事にぶつかったのです。私が百人もの命をとる様になったのは、実にその晩の出来事が動機を為なしたのでした。
どこかで夜更しをした私は、もう一時頃でしたろうか。少し酔っぱらっていたと思います。寒い夜なのにブラブラと俥くるまにも乗らないで家路を辿っていました。もう一つ横町を曲ると一町ばかりで私の家だという、その横町を何気なくヒョイと曲りますと、出会頭であいがしらに一人の男が、何か狼狽している様子で慌ててこちらへやって来るのにバッタリぶつかりました。私も驚きましたが男は一層驚いたと見えて暫く黙って衝つっ立っていましたが、おぼろげな街燈の光で私の姿を認めるといきなり「この辺に医者はないか」と尋ねるではありませんか。よく訊きいて見ますと、その男は自動車の運転手で、今そこで一人の老人を(こんな夜中に一人でうろついていた所を見ると多分浮浪の徒だったのでしょう)轢倒ひきたおして大怪我をさせたというのです。なる程見れば、すぐ二三間向うに一台の自動車が停っていて、その側そばに人らしいものが倒れてウーウーと幽かすかにうめいています。交番といっても大分遠方ですし、それに負傷者の苦しみがひどいので、運転手は何はさて置き先ず医者を探そうとしたのに相違ありません。
私はその辺の地理は、自宅の近所のことですから、医院の所在などもよく弁わきまえていましたので早速こう教えてやりました。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点ついた家がある。M医院というのだ。そこへ行って叩き起したらいいだろう」
すると運転手はすぐ様助手に手伝わせて、負傷者をそのM医院の方へ運んで行きました。私は彼等の後ろ姿が闇の中に消えるまで、それを見送っていましたが、こんなことに係合っていてもつまらないと思いましたので、やがて家に帰って、――私は独り者なんです。――婆ばあやの敷しいて呉れた床とこへ這入はいって、酔っていたからでしょう、いつになくすぐに眠入ねいって了いました。
実際何でもない事です。若もし私がその儘ままその事件を忘れて了いさえしたら、それっ限きりの話だったのです。ところが、翌日眼を醒さました時、私は前夜の一寸ちょっとした出来事をまだ覚えていました。そしてあの怪我人は助かったかしらなどと、要もないことまで考え始めたものです。すると、私はふと変なことに気がつきました。
「ヤ、俺は大変な間違いをして了ったぞ」
私はびっくりしました。いくら酒に酔っていたとは云いえ、決して正気を失っていた訳ではないのに、私としたことが、何と思ってあの怪我人をM医院などへ担ぎ込ませたのでしょう。
「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点いた家がある……」
「ここを右の方へ一町ばかり行くとK病院という外科専門の医者がある」
と云わなかったのでしょう。私の教えたMというのは評判の藪やぶ医者で、しかも外科の方は出来るかどうかさえ疑わしかった程なのです。ところがMとは反対の方角でMよりはもっと近い所に、立派に設備の整ったKという外科病院があるではありませんか。無論私はそれをよく知っていた筈はずなのです。知っていたのに何故間違ったことを教えたか。その時の不思議な心理状態は、今になってもまだよく分りませんが、恐らく胴忘どうわすれとでも云うのでしょうか。
私は少し気懸りになって来たものですから、婆やにそれとなく近所の噂などを探らせて見ますと、どうやら怪我人はM医院の診察室で死んだ鹽梅あんばいなのです。どこの医者でもそんな怪我人なんか担ぎ込まれるのは厭いやがるものです。まして夜半の一時というのですから、無理もありませんがM医院ではいくら戸を叩いても、何のかんのと云って却々なかなか開けて呉れなかったらしいのです。さんざん暇ひまどらせた挙句やっと怪我人を担ぎ込んだ時分には、もう余程手遅れになっていたに相違ありません。でも、その時若しM医院の主が「私は専門医でないから、近所のK病院の方へつれて行け」とでも、指図をしたなら、或あるいは怪我人は助っていたのかも知れませんが、何という無茶なことでしょう。彼は自からその難しい患者を処理しようとしたらしいのです。そしてしくじったのです、何んでも噂によりますとM氏はうろたえて了って、不当に長い間怪我人をいじくりまわしていたとかいうことです。
私はそれを聞いて、何だかこう変な気持になって了いました。
この場合可哀相な老人を殺したものは果して何人なんぴとでしょうか。自動車の運転手とM医師ともに、夫々それぞれ責任のあることは云うまでもありません。そしてそこに法律上の処罰があるとすれば、それは恐らく運転手の過失に対して行われるのでしょうが、事実上最も重大な責任者はこの私だったのではありますまいか。若しその際私がM医院でなくてK病院を教えてやったとすれば、少しのへまもなく怪我人は助かったのかも知れないのです。運転手は単に怪我をさせたばかりです。殺した訳ではないのです。M医師は医術上の技倆が劣っていた為にしくじったのですから、これもあながち咎とがめる所はありません。よし又彼に責を負うべき点があったとしても、その元はと云えば私が不適当なM医院を教えたのが悪いのです。つまり、その時の私の指図次第によって、老人を生かすことも殺すことも出来た訳なのです。それは怪我をさせたのは如何にも運転手でしょう。けれど殺したのはこの私だったのではありますまいか。
これは私の指図が全く偶然の過失だったと考えた場合ですが、若しそれが過失ではなくて、その老人を殺してやろうという私の故意から出たものだったとしたら、一体どういうことになるのでしょう。いうまでもありません。私は事実上殺人罪を犯したものではありませんか。併しかし法律は仮令運転手を罰することはあっても、事実上の殺人者である私というものに対しては、恐らく疑いをかけさえしないでしょう。なぜといって、私と死んだ老人とはまるきり関係のない事がよく分っているのですから。そして仮令疑いをかけられたとしても、私はただ外科医院のあることなど忘れていたと答えさえすればよいではありませんか。それは全然心の中の問題なのです。
皆さん。皆さんは嘗かつてこういう殺人法について考えられたことがおありでしょうか。私はこの自動車事件で始めてそこへ気がついたのですが、考えて見ますと、この世の中は何という険難至極けんのんしごくな場所なのでしょう。いつ私の様な男が、何の理由もなく故意に間違った医者を教えたりして、そうでなければ取止めることが出来た命を、不当に失って了う様な目に合うか分ったものではないのです。
これはその後私が実際やって見て成功したことなのですが、田舎のお婆さんが電車線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけた時に、無論そこには電車ばかりでなく自動車や自転車や馬車や人力車などが織る様に行違っているのですから、そのお婆さんの頭は十分混乱しているに相違ありません。その片足をかけた刹那に、急行電車か何かが疾風しっぷうの様にやって来てお婆さんから二三間の所まで迫ったと仮定します。その際、お婆さんがそれに気附かないでそのまま線路を横切って了えば何のことはないのですが、誰かが大きな声で「お婆さん危いッ」と怒鳴りでもしようものなら、忽たちまち慌てて了って、そのままつき切ろうか、一度後へ引返そうかと、暫しばらくまごつくに相違ありません。そして、若しその電車が、余り間近い為に急停車も出来なかったとしますと、「お婆さん危いッ」というたった一言が、そのお婆さんに大怪我をさせ、悪くすれば命までも取って了わないとは限りません。先きも申上げました通り、私はある時この方法で一人の田舎者をまんまと殺して了ったことがありますよ。
(T氏はここで一寸言葉を切って、気味悪く笑った)
この場合「危いッ」と声をかけた私は明かに殺人者です。併し誰が私の殺意を疑いましょう。何の恨うらみもない見ず知らずの人間を、ただ殺人の興味の為ばかりに、殺そうとしている男があろうなどと想像する人がありましょうか。それに「危いッ」という注意の言葉は、どんな風に解釈して見たって、好意から出たものとしか考えられないのです。表面上では、死者から感謝されこそすれ決して恨まれる理由がないのです。皆さん、何と安全至極な殺人法ではありませんか。
世の中の人は、悪事は必ず法律に触れ相当の処罰を受けるものだと信じて、愚にも安心し切っています。誰にしたって法律が人殺しを見逃そうなどとは想像もしないのです。ところがどうでしょう。今申上げました二つの実例から類推出来る様な少しも法律に触れる気遣いのない殺人法が考えて見ればいくらもあるではありませんか。私はこの事に気附いた時、世の中というものの恐ろしさに戦慄するよりも、そういう罪悪の余地を残して置いて呉れた造物主の余裕を此上もなく愉快に思いました。ほんとうに私はこの発見に狂喜しました。何とすばらしいではありませんか。この方法によりさえすれば、大正の聖代せいだいにこの私丈けは、謂わば斬捨て御免ごめんも同様なのです。
そこで私はこの種の人殺しによって、あの死に相な退屈をまぎらすことを思いつきました。絶対に法律に触れない人殺し、どんなシャーロック・ホームズだって見破ることの出来ない人殺し、ああ何という申分のない眠け醒しでしょう。以来私は三年の間というもの、人を殺す楽しみに耽って、いつの間にかさしもの退屈をすっかり忘れはてていました。皆さん笑ってはいけません。私は戦国時代の豪傑の様に、あの百人斬りを、無論文字通り斬る訳ではありませんけれど、百人の命をとるまでは決して中途でこの殺人を止めないことを、私自身に誓ったのです。
今から三月ばかり前です、私は丁度九十九人だけ済ませました。そして、あと一人になった時先にも申上げました通り私はその人殺しにも、もう飽きあきしてしまったのですが、それは兎も角、ではその九十九人をどんな風にして殺したか。勿論九十九人のどの人にも少しだって恨みがあった訳ではなく、ただ人知れぬ方法とその結果に興味を持ってやった仕事ですから、私は一度も同じやり方を繰返す様なことはしませんでした。一人殺したあとでは、今度はどんな新工夫でやっつけようかと、それを考えるのが又一つの楽しみだったのです。
併し、この席で、私のやった九十九の異った殺人法を悉ことごとく御話する暇もありませんし、それに、今夜私がここへ参りましたのは、そんな個々の殺人方法を告白する為ではなくて、そうした極悪非道の罪悪を犯してまで、退屈を免れ様とした、そして又、遂にはその罪悪にすら飽きはてて、今度はこの私自身を亡ぼそうとしている、世の常ならぬ私の心持をお話して皆さんの御判断を仰ぎたい為なのですから、その殺人方以については、ほんの二三の実例を申上げるに止めて置き度いと存じます。
この方法を発見して間もなくのことでしたが、こんなこともありました。私の近所に一人の按摩あんまがいまして、それが不具などによくあるひどい強情者でした。他人が深切しんせつから色々注意などしてやりますと、却ってそれを逆にとって、目が見えないと思って人を馬鹿にするなそれ位のことはちゃんと俺にだって分っているわいという調子で、必ず相手の言葉にさからったことをやるのです。どうして並み並みの強情さではないのです。
ある日のことでした。私がある大通りを歩いていますと、向うからその強情者の按摩がやって来るのに出逢いました。彼は生意気にも、杖つえを肩に担いで鼻唄を歌いながらヒョッコリヒョッコリと歩いています。丁度その町には昨日から下水の工事が始まっていて、往来の片側には深い穴が掘ってありましたが、彼は盲人のことで片側往来止めの立札など見えませんから、何の気もつかず、その穴のすぐ側を呑気そうに歩いているのです。
それを見ますと、私はふと一つの妙案を思いつきました。そこで、
「やあN君」と按摩の名を呼びかけ、(よく療治を頼んでお互に知り合っていたのです)
「ソラ危いぞ、左へ寄った、左へ寄った」
と怒鳴りました。それを態わざと少し冗談らしい調子でやったのです。というのは、こういえば、彼は日頃の性質から、きっとからかわれたのだと邪推して、左へはよらないで態と右へ寄るに相違ないと考えたからです。案あんの定じょう彼は、
「エヘヘヘ……。御冗談ばっかり」
などと声色こわいろめいた口返答をしながら、矢庭やにわに反対の右の方へ二足三足寄ったものですから、忽ち下水工事の穴の中へ片足を踏み込んで、アッという間に一丈もあるその底へと落ち込んで了いました。私はさも驚いた風を装うて穴の縁へ駈けより、
「うまく行ったかしら」と覗いて見ましたが彼はうち所でも悪かったのか、穴の底にぐったりと横よこたわって、穴のまわりに突出ている鋭い石でついたのでしょう。一分刈りの頭に、赤黒い血がタラタラと流れているのです。それから、舌でも噛切ったと見えて、口や鼻からも同じ様に出血しています。顔色はもう蒼白で、唸り声を出す元気さえありません。
こうして、この按摩は、でもそれから一週間ばかりは虫の息で生きていましたが、遂に絶命して了ったのです。私の計画は見事に成功しました。誰が私を疑いましょう。私はこの按摩を日頃贔屓ひいきにしてよく呼んでいた位で、決して殺人の動機になる様な恨みがあった訳ではなく、それに、表面上は右に陥穽おとしあなのあるのを避けさせようとして、「左へよれ、左へよれ」と教えてやった訳なのですから、私の好意を認める人はあっても、その親切らしい言葉の裏に恐るべき殺意がこめられていたと想像する人があろう筈はないのです。
ああ、何という恐しくも楽しい遊戯だったのでしょう。巧妙なトリックを考え出した時の、恐らく芸術家のそれにも匹敵する、歓喜、そのトリックを実行する時のワクワクした緊張、そして、目的を果した時の云い知れぬ満足、それに又、私の犠牲になった男や女が、殺人者が目の前にいるとも知らず血みどろになって狂い廻る断末魔だんまつまの光景ありさま、最初の間、それらが、どんなにまあ私を有頂天にして呉れたことでしょう。
ある時はこんな事もありました。それは夏のどんよりと曇った日のことでしたが、私はある郊外の文化村とでもいうのでしょう。十軒余りの西洋館がまばらに立並んだ所を歩いていました。そして、丁度その中でも一番立派なコンクリート造りの西洋館の裏手を通りかかった時です。ふと妙なものが私の目に止りました。といいますのは、その時私の鼻先をかすめて勢よく飛んで行った一匹の雀が、その家の屋根から地面へ引張ってあった太い針金に一寸とまると、いきなりはね返された様に下へ落ちて来て、そのまま死んで了ったのです。
変なこともあるものだと思ってよく見ますと、その針金というのは、西洋館の尖った Permalink | 記事への反応(0) | 22:33