二番煎じ・三番煎じだろうけど書いておく。
何故なら、作中のニュース記事等で「薬物中毒による犯行」と明言されていないから。
と同時に、覚醒剤(アンフェタミン系の精神刺激薬)の中毒症状における典型的な症状でもある。
発生メカニズム的にこの両者の症状はかなり近い(Wikipediaで「ほぼ同じ」と書かれているくらい https://ja.m.wikipedia.org/wiki/覚醒剤)ので、単純な症状の描写だけでは両者が区別できないのは当然と言える。
ところで、作中の犯人の男は明らかに「理不尽に命を奪う」というイベントの引き金的に描かれている。
用意された悪役というか、憎まれるための舞台装置に近いポジションである。
であれば、メカニズム的にも矛盾はないので、ヤク中だったとするのが最も角は立たない。
「ヤクやるような奴だから人を殺すのだ」は一般的に受け入れやすいストーリーで、犯人が薬物中毒だったとしたら新聞記事やニュースでそこに言及がないのはほぼあり得ない。「薬物中毒者〇人殺人事件」という事件名がついたケースすらある。
逆に言えば、そういった描写をしないことで、明らかに作中では「精神を病んだ患者の犯行」の可能性を匂わせている。
「いわゆる『頭のおかしい奴』との断絶」を強烈なかたちで描くことで、犯行現場へ駆けつけて京本を救うヒーローとしての「ありえたかもしれない藤野」のカタルシスを描いている。
「僕はきれいな部分とか、優しいものを描くなら残酷な部分を描かないといけないと思っていて。そのほうが優しい部分に触れたときに、映えるじゃないですか」と語る藤本氏がいかにも好みそうな「残酷な部分」の象徴として、精神疾患の犯人を描いているのである。
これがヤク中の犯人では「残酷な部分」にはならない。ヤク中では掘り下げて描写しないと「クソ迷惑な阿呆がヤクやって人を殺す」という、「避けられたであろう理不尽さ」が拭えない。
精神病はそうじゃない。ヤクはヤク打ちたくて打って転げ落ちるイメージがあるが、統合失調症患者はなりたくてなるようなもんじゃない。
なりたくてなったわけじゃないのに「そう」なって人を殺してしまう、というのは残酷な話だ。
そう読む読み手がいるのは自然な話であり、精神病の当事者から抗議が行くのも自然な話だ。
普通に精神病への偏見を助長するような、配慮の足らない描写であるからだ。
個人的にはかわいそうなやつだ、と思う。『ルックバック』の犯人の話である。
ヤクか病かは知らないが、登場時点で明らかに被害妄想に苦しめられている。
正史というか京本脱ヒッキーの世界線では、この後人を殺すという大罪を犯してしまい、世間からクソボッコにされるのだ。
ただでさえ日常が意味もなく四面楚歌なのに、一線超えてしまったせいで本当に世界の敵になってしまうのだ。かわいそうに。
かわいそうと言えば藤野もかわいそうだ。「京本を部屋から出さなければ死ぬことはなかった」が完全に正となってしまった。部屋から出さなくてもいずれ漫画家とアシとして組めたというウルトラハッピー世界線の描写が逆に後味悪い。あれを藤野が直接認識することがないのは救いだ。あんなん見てもうたら残りの人生ずっと「京本を部屋から出さなければ良かった」に呪われて、再び歩き出せるようになるまでにえらい時間を食ったことだろう。
なお、『ルックバック』が京アニ放火殺人事件をモデルにしているという言及があるが、京アニの犯人は精神疾患があり過去に投薬治療も受けている。
「京アニの犯人は犯行当時責任能力があった」という言を以って『ルックバック』を擁護する向きがあるようだが、擁護になっていない雑な話と言わざるを得ない。