はてなキーワード: 技量とは
うーん、だから調教師、厩務員がグラム単位で餌の量調整して、調教で走るタイムまで計画して馬のコンディション作ってて、ジャックドールなんか1年かけてこの日のためのコンディションをチームで作り上げてるの知っててそれ言ってる?
全員がそこまでやってて、騎手は常人にない技量持ってるのに、大勝負での騎手のメンタルで全て狂うのが勝負の怖さなんだけどな
だから馬がかわいそうと言っている
うーん、それは擁護してるつもりなんだろうけど、逆に騎手の技量舐めすぎてる気がするよ
何秒で回れって言われてその通り回るのはジョッキーベイビーズの予選でもやることやしな
[B! togetter] 2ちゃんねるの開設当初の裏話をひろゆきが発言
この件もそうだが、あめぞう掲示板の話題になると事実を確認せずにテキトーなことを言い始める人が出てくるのはどうしてなんだろうか。
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』で有名なばるぼら氏の掲示板考察~あめぞう型掲示板(ウェブアーカイブ)によると
という一連の流れがあり、あめぞう氏も「Terra氏はパイオニアとして師として仰いでおります」と語っている。
よって「あめぞうが発明したスレッドフロート型掲示板をひろゆきがパクった」という定説はそもそも前提が間違っている。
あめぞう氏はスレッドフロート型掲示板を発明していないし、掲示板CGIをフルスクラッチで書く技量があったわけでもない。
あめぞう掲示板はあくまでresbbsやMiniBBSといった既存の掲示板CGIにTerra氏のスレッドフロート機能を移植していただけで、何か技術的に優れたことをやっていたわけではないのだ。
一連の流れについてなんだけど、ひろゆきもそうだが現地へ行って何が分かると思ってるの??
張り付いて取材するなら半年くらいやらないとあの手の活動については分かることは殆どないはず。
逆にある程度の話であれば本土にいたままでもいくらでも学習できるはずなのに、なんでそれをすっ飛ばしていきなり現地取材???
なんていうか、あらゆる意味で自分が「上流」だと思ってるのが滲み出ちゃってるんだよな。
もう既に現地の反対派は十分すぎるほどの情報発信をしているんだからそれをキャッチしろよ。
自分の怠慢で情報をスルーしているだけなのに、さも「情報が無いので聞きに行きます」的な態度を取ってるのがバカ丸出し。
行かなくていいっすよ、お金もかかるし片手間の時間で取材とかしても何も成果無いから。
どうせ取材だけで一緒にトラックの前に出て座り込んでみるつもりとか無いでしょうに。
もう一度言うけど、現地取材とかしなくても情報は十分に出ているから、無理して行かなくていい。
普通為替取引と言えば二つの通貨間で金を転がして相場の変動に伴う差額を儲けとして得ることを目的としたものを言うと思う。
相場が変化する中でこそ可能な方法という意味で動的な為替取引と言えると思う。
上記のような方法しか為替取引で儲ける方法など存在しないと思われる人たちににとって今ある唯一の方法論を「動的」とまるで別の何かと区別したような呼び方は単なる無駄に映るかもしれない。
しかし既存の方法論とは志向するところが異なる「静的な為替取引」と呼べそうな方法論を見つけたかもしれないということをこれから説明していこうと思う。
しかし「相場が固定されていたとしても」儲けることができるというのが今回説明したい方法なのだ。
むしろ相場が固定されていてくれていたほうがありがたいようなやり方なのである。
実際一個人が市場介入で相場を固定することはできないが、相場が大きく動いていく前に一連の取引を済ませてしまうということならできる。
そういう視点で考えれば今自分が行いたい全ての取引を一瞬で終えることが可能ならば大ざっぱに言えばその取引は固定相場制のなかでの取引と同等なものになる(大ざっぱに言えばと断ったのは、自分自身の取引による相場の変動が考慮されるため)。
一瞬のうちに全ての取引を済ませたときに得られる儲けが、数学における極限的な意味での、儲け得る金額の理想的な値に相当する。
この理想値に近い儲けを手にするためにできるだけ俊敏な取引が望まれるというわけだ。
つまり説明していく方法を実行するにあたっては手動ではなくプログラムを組んで行うことが望まれるということには留意してほしい。
またあえてこの時点で両者の為替取引を端的に表現しておくなら、動的な為替取引とは時間経過に伴う相場の変動を利用して儲けを得ること、静的な為替取引とは一時点における相場の「ひずみ」を利用して儲けを得ること、というところになると思う。
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具体的に説明するために仮想的な通貨とそのレートを仮定しておこう。
そのレートについての条件は以下の通り。(円に対して100円というように100Aや50Bと表記していく)
1.1C=100A(1.でこれから指し示すための通し番号となっており小数点ではない。以降同様の表記法を用いる)
2.1C=1B
AとBについては以下の2通りのレートを適宜考える(都度どのレートで考えているか示す)
3.1B=1A
同様に以下の通り
5.100D=1C
6.90D=100A
以降、文章だけで伝わるように努めたが、一応解説図のようなものも作成したので適宜imgurへ投稿した画像へのリンクを貼る(増田では1つの記事に貼れるリンク数には限りがあるためhttps://は省略させていただく)。
核心の部分を説明するまでの準備的な説明が多いので回りくどく思われるかもしれないが、読み飛ばしたりしてはおそらく理解できないはずなので辛抱強くついていってほしい(もちろん直截簡明に説明できない私の文章力不足もある)。
では具体的な説明をしていこう。
まずA,B,Cの三つだけで考える。
甲が100A、乙が100B、丙が100C持っていたとしよう。
まず甲と乙の間での取引が起こる。
レート3(1B=1A)の関係により、100Aと100Bがそのまま交換されることになる。
これにより甲は100B、乙は100A、丙が100C持っていることになる。
次に甲と丙で取引が行われる。
レート2により、今度は100Bと100Cの持主がそっくりそのまま入れ替わるわけだ。
これにより甲は100C、乙は100A、丙が100B持っていることになる。
甲は100C持っているわけだが、これはレート1により10000Aに相当する。
通貨Aに戻してから同様のことをサイクルとして繰り返すことで100倍ずつ資産の増やせるというわけである(厳密には甲と乙が行う取引自体によって取引中にレート3がAの価値が下がる方向に変化していく効果も考慮されることになるので、1サイクルにおいて変換させようとする通貨AとBの量の多いほどぴったり100倍にはならずそれを下回る成果となる)。
反面、乙がこの1サイクルで最終的に得たお金を通貨Cに換算すると、レート1により、1Cになっていることになる。
最初持っていた100Bはレート2により100Cに相当するのだったから、資産が100分の1に目減りしていることになるのだ。
これらのことはレート1とレート2が相場として確かにあることから起こることだ。
レート1とレート2の関係を知っていて、誰がレート3のような100分の1目減りする取引を行うだろうか。
つまりこの情報社会ではレート1とレート2が既にあるときレート3のような相場は発生しない。
ここで早速簡易な表を添付しておく。これを見ながらの方が俯瞰的に状況を見ることができ分かりやすいかもしれない。
結論としてはレート1とレート2であるときはレート4の相場で相場全体がこなれることになる。
これらの等式はまとめて1C=100A=1Bとすることができることから明らかなように、これら3つの相場が成り立っているときにはこの3つの通貨の間でいかにお金を転がそうとも損も得もしない。
つまりAのような一人勝ちできる勝者は発生し得ない。世の中そう上手い話はないというわけだ。
一応レート1,2,4のときの表も添付しておく。
ここまで分かりにくく感じるところがあったという人は、通貨A,B,Cをそれぞれ円、ビットコイン、ドル、に具体的な通貨に置き換えてみるといいかもしれない。
このときレートも具体化すれば1ドル=100円、1ドル=1ビット、1ビット=1円または1ビット=100円となる。
今まで円をビットコインを経由してドルにしてから円に戻すだけで資本が増やせるなんて話を聞いたことがあるだろうか?仮にそんな話があったとしてそれは確固たる成功例だったろうか?
そういうわけで、1ドル=100円、1ドル=1ビットのようになっているときは1ビット=1円のような誰かに都合のいい相場ではなく、1ビット=100円のようになっているはずだということである。
具体化した表も付しておく(レート4の場合)。
これは当然レート1とレート2のような相場に限ってしか言えないものではなく、ドルと円あるいはドルとビットのレートがどのようになっていても残りのビットと円のレートについて必ずそうなるということである。
ただしAとBの関係についてはレート4が成り立っているものとする。
表を見ればより一目瞭然かと思うが、上に書いたサイクルで甲が通貨Cを通貨Aに戻す直前には甲は持っている。
ここで甲と丁による通貨Aと通貨Dの取引を考える。丁は90D持っているものとする。
このとき甲と丁の取引が行われるとレート5により甲に100D、丁に1Aが渡ることになる。
今甲が持っている100Dを通貨Aに換算するには、レート6により、90:100=100:xという比例式を解く計算をすればよい。
x=10000/90ということで、もともと持っていた100Aより資産が増大しているのだ。
レート7があまりにも恣意的な設定なだけではないかと思われるかもしれない。
しかし肝心なのは、レート6であってはならないという必然性がないということだ。
丁が通貨Aなど念頭になく、通貨B,C,D間での取引にしか興味がない(そして多くの人もその傾向である)ならば、少なくともその三者間の相場を表すレート2,5,7は先ほどと同様一つの式にまとめられる関係にあるので、丁はこの取引において損も得もしていない。
丁(あるいはその他多数)にとっては安心して支払いなどと用として通貨を替えることができる環境にあるわけだ。
自分がした取引によってその取引相手である甲という一個人が得しているかどうかなどあずかり知らぬことである、ということだ。
同様に乙や丙にとっても通貨Dなど念頭になく、またそのような人々が多数派なのであれば、レート4を含む今のレート状態で乙や丙のようなA,B,Cの三通貨間の取引を期する人々にとって損も得もないことは表も交えて先述した通りだ。
レート6がどのようであっても先ほどの甲が100倍得したときに乙の資産が100分の1に目減りするような状況にはならないので、乙やその他通貨Bを持っている人たちの投資家心理はレート6には干渉しない・独立しているということなのだ。
概念図では念頭の埒外、蚊帳の外という様子を破線で示している(図中の数字はレートの通し番号に対応)。
私はレート6のような状態を相場のひずみとでも呼ぶことにしたい。
相場が固定するなかでは二通貨間の取引は言うまでもなく、一つのサイクルの間にどれだけ多くの通貨を噛ませても損も得も起こらないと考えるのが普通だろう。
いわば電気回路で一周すると電圧が元に戻るというキルヒホッフの法則のようなものが為替においても(手数料を抜きにすれば)成り立つはずだというのが素朴な考えとして多くの人に支持されるはずだ。
次々と自国の貨幣よりもより価値の高い通貨に替えていっても最終的に自国の通貨に戻したときには最初と全く同じ価値に戻ってしまうということである。
しかし大半の投資家心理とは独立した通貨ペアがあれば、そのレートも投資家心理の束縛を受けず、場合によっては誰かが得できる状況もあり得るのではないかという説を上では具体的に例示したわけだ。
ここでそのような通貨ペア=ひずみを生じる根源が成立条件について自信は無いが挙げておこうと思う。
さらに
条件として挙げたのはどれもAとDの為替を含む取引になっている。
逆に条件に挙げた取引がある程度存在するとAとDの相場であるレート6にも投資家心理が影響していくので誰も損得しない方向にレート6のひずみも解消されていくのではないかということだ。
たとえば1番目と2番目の条件はようするに金の流れが逆なだけなので、いずれか一つを挙げれば事足りる同値な重複した条件なのではないかということだ。
4通貨でひずみが生じる例を示したわけだがこの場合のひずみも解消され得るものである。
しかしそれ以上のある数以上の通貨間の関係のなかではそれらに内包されるそれぞれの二者間の相場がいかなるものであろうとも、どこかしらにひずみが生じてしまうものなのかもしれないと直感的に感じられる。
つまりある数以上の通貨を介せば必ず儲けを生み出す為替の経路が存在しているのではないかという主張であるわけだが、その通貨数がいくつであるのか、私にはそれを数学的に証明する技量はないのは悔やまれる。
話を戻せばこうしたひずみがあると、一見成り立ちそうな為替版のキルヒホッフの法則でも相殺しきれない差額が生まれ、それを儲けとして得ることができるかもしれないということだ。
これらの概念図を示しておく。
今までの話はこのようなごく単純な話に置き換えられるかもしれない(ただし以下は知人が見出したたとえ話なので語弊もある恐れがあり正しさは保証しない)。
今プレステ3の卸値が日本で3万円、アメリカで280ドルだとする。このとき100円=1ドルの相場である。
手持ちが29000円しかないなら日本でプレステを買うことは不可能だが、この相場ならドルでなら買える。
それどころかこのプレステ3を日本で売れば売ればお釣りが来るかもしれない。
ただし日本で売るにはアメリカで買ったそのプレステ3を日本まで運搬してもらう配送料がかかる。
この配送料次第では損かもしれないが、ここが先ほどまで説明してきた方法論の手数料負けするというおそれに相当するわけだ。
効率よく上記の条件を押さえた通貨ペアを探すなら、通貨ペアの相関係数表をチェックする方法が検討される。相関表の例:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000299.000003206.html
まず日本円の列か行の中で相関係数の絶対値が0に近いものを探す。
0に近いものを見つけたら、今度は前の時点で列の中で眺めていたなら行を、行を眺めていたなら列を探して、同様にその通貨にとって相関がほとんどない通貨を見つけ出す。
こうして行から列、列から行と渡っていくことを繰り返し、最終的に日本円に戻ってくるループを見出す。
ただしこのループの中に同じ種類の通貨が二度以上あってはいけない。
もし同じ通貨があればそこで一つの完結したループができてしまっていると思われる(もちろん始点と終点として円だけは必ず二度登場しているはずである)。
そのようなループが今回の方法論を適用するのに優先的に試すべき候補であるが、実際にそのうちに手数料込みで儲けを生み出すひずみが生じているのかどれかといった計算や、このようなループを探し出す作業自体もプログラムで行なったほうが良いと思われる。
計算から取引の完了までの間に人力でもたもたしていると、その間にひずみの状況が変わり、行なっていた計算が適用できなくなるはずだからだ。
そもそも通貨の組み合わせも膨大であり、為替で利用できる通貨が10個だったとしても、順列の概念はうろ覚えで自信がないのだが、ひずみが発生し得る通貨数が4つ以上だと仮定してもその組み合わせ10P4+10P5+・・・+10P10のようになり、その中から候補のループを探すというのは人間が人力で行うべきことではないように思われる。
ともすれば量子コンピュータの実用化を待った方がいいぐらいかもしれない(なんとなくNP問題の匂いがする)。
ただしそれだけの組み合わせ数があるというのは良いことでもある。
プレステ3のような規格化された工業品はさておき具体的な物においてはひずみが生じやすい、しかし原油や貨幣は統一されたものなのでそのようなひずみは起こらないだろうというようなことを知人は言っていた。
しかしこれだけの数の組合せがあるなら、やはりそのなかにはまだ見出されていない、得できるような通貨ペア、ループが眠っていてもおかしくないと思うのだ。
頭の中で考えても俺の脳内スタックでは何か行ったり来たりするような状態を繰り返すばかりになっていたので埒が明かないと感じたし、また自分の中でも判然としないところが多いので、批判を乞う目的も兼ねて今回言語化を試みた。
そういう経緯ゆえに直観に頼ってごまかして書いたところもある。
ただし増田で間違ってると言われてもそれを鵜呑みにするようなことはしないつもりだ。
それを参考にはしながらも、今後金融や経済学の専門的なことを学び、もっと理詰めで考えられるような頭になった後で、この方法論が理屈として間違っているかどうか、また机上の空論ではなく有用あるいは実効性があるといえるかどうか確かな理解のもとで判定させていきたい。
「キャスティング決まる前から原作を読んでいてファンでした!」パターンはまじで信じないほうがいい。
本当の場合はあるにはあるのだ。
6年くらい前から言ってたとか、作者推しを公言してるとか、本当にただの読書家とか。
でも殆どの場合はそうじゃないのだ。演じる可能性があるから読んでいるのだ。
大体映像化なんて80パーくらいはキャスティングありきで決まっている。
ある役者の例をあげよう。
ある日、懇意にしているプロデューサーが「ねえ君、この本を読んで」と命令を出してくる。
読む。しばらく経って主演の話が出てくる。
これで「映画になる前から原作を読んでいた」図式ができあがるのだ。
役者がド天然タイプで事実を答えてしまい、やけになったプロデューサーがぶっちゃけてしまったときに語っていたエピソードだ。
プロデューサーはこの役者でこの原作の企画がしたいと各所に持ち込む。そこから実写化が決まっていくのだ。
魅力的な読者が原作を読んで役を演じてくれる、というのは喜ばしいことだろう。
ただ、そこで浮かれてるなよと思う。
プロデューサーは原作者好みのやつを連れてきて、こいつがやるから売れるように原作の設定を変えるけど良いよね!
どうか世の中の原作者はお前の作品が消えて喜ぶものにお前のオールを任せないでほしい。
以上、「メディアミックスは別作品だからさー」と全て投げてしまう原作者のファンの投稿でした。
ちなみにプロデューサーにそう言われた俳優は忙しかったので一度も読んでないことまでぶっちゃけていますが、まあ技量があったので賞をもらうくらいの名演をしました。
役者ってこわい。
媒体が誰でも無料で読めるWEB漫画ということで良くも悪くも言及される機会が多く、作者さんをフォロー等してなくてもフォロワーさんのいいねやRTでTLに回って来て読んだことがある人が多いのではないかな。
以前までは特にジェンダー問題に関心が高い人の間で評判の良い作品といった立ち位置だったけど、俗称・山賊回(初対面の人の家に泊まりに行って、家主が寝ている間に食材を根こそぎ漁って、自分達だけ食事を作って食べたモラルハザード回)を皮切りに趨勢が入れ替わり、批判が増えて、遂に「つくたべ批判いいね罪」なる声に出して読みたい日本語まで爆誕したネタ漫画に…。
個人的に作者が描こうとしているテーマと描いている内容に齟齬があるというか、食い合わせの悪さを感じる作品だと前々から思っていたので、山賊回は論外としても、批判が起こるのもまあわかるんだよな。
LGBTQの恋愛というニッチ要素を商業作品として色んな人に読んで貰う為に、“食”という誰しもに身近で流行りでもあるテーマと融合させたんだろうけど、この2つのテーマの接続の仕方が、何とも雑で。
LGBTQ+食を題材にした商業作品というと「きのう何食べた?」が有名だけど、こっちは融合のさせ方にも全く違和感ないし、作中での“食”に対する言及の仕方などから作者の並々ならぬ“食”へ拘りの強さや熱量が垣間見えるので、LGBTQ当事者じゃなくてもグルメ漫画として面白く読めると思う。(だからこそBL畑のよしながふみにとってのアウェイである青年誌・モーニングでの連載ながら売れて、実写ドラマ&映画化までしたんだと思うし。)
他方、つくたべの作者さんは“食”にそこまで拘りがない人なのでは?っていうのは読んでて誰しもが感じる点なんじゃなかろうか。
一点例を挙げると、9/10現在の最新話であるバレンタイン回では、春日さんはバレンタインの催事に出掛けるも「ここはシスジェンダーの人達のための場所で私のようなレズビアンは存在を消されてしまう」と被害妄想を募らせ、野本さんは春日さんにプレゼントする為のチョコレートのパウンドケーキを6個試作する。
昨今バレンタインの催事は「チョコ好きガチ勢にとってのコミケ」状態となっており、一年でここでしか食べられない珍しくて美味いチョコを買う為の真剣勝負の場となっている為、女性相手のチョコを買いに来た女性が爪弾きにされる空気などない。(女性同士で贈り合う友チョコなどは昔からごく普通に行われている。)
野本さんサイドの方も、お菓子を手作りしたことがある人ならば全員が知っていると思うが、製菓用の材料というものは押し並べて割といいお値段がするし、本命用のチョコレート菓子を作る場合に用いるに相応しい種類のクーベルチュールチョコレートは結構高価である。
作者は6個も試作品を作るほど真剣な乙女心!を書いたつもりなのだろうが、非正規で低収入という設定の野本さんが練習用に濫用出来るほど安くはないはずだ。
試作品には普通の板チョコを使ったというならそれもおかしな話になる。本命用の、試作品を何個も作るようなチョコレートケーキを作るのにスーパーなどで売っている普通の板チョコを使う人がいないとは言わないが…。
作者はバレンタインの催事に興味がないのかな?、お菓子を作ったりしない人なんだろうな、と思わずにはいられない描写である。
つくたべという漫画ではこのように作者の“食”に対する興味のなさが随所に滲むので、“食に”興味が強い人ほど違和感を覚える仕様となっている。
まあ商業作家がご飯を食べて行く為に好きでもなければ興味もないジャンルの作品を描くのは珍しいことでも悪いことでもないし、それで成功するケースも往々にしてあるので(「キャプテン翼」なんかはその最たる例だろう。最近では「SPY×FAMILY」の作者が同様のコメントをして物議を醸したが)それ自体は別にどうでもいいんだけど、ここにつくたべの主人公の一人である「食べたい女」こと春日さんのキャラ設定を加えると、違和感が首をもたげる人が多くいるのは無理からぬことではないのかと個人的には思う。
春日さんは化粧っ気のない背が高くかなり太っている非常に大柄な女性で、齢30歳弱にして米の食べ過ぎで膵臓を悪くしている(と作中で本人が自己申告している。
彼女は幼少の頃に父親や弟と食事の量などで差を付けられていたトラウマから、実家を出て一人暮らしをしている現在では好きなものを好きなだけ食べるフードファイターもかくやの大食いとなった。
そんな春日さんと、料理が好きでご飯を沢山作りたいけど小食で食べ切れないから作りたいのに作れないという葛藤を抱えていたもう一人の主人公である「作りたい女」こと野本さんが出会う。
「食べたい」と「作りたい」の利害が一致した二人の女性同士の付き合いが始まって…というのがつくたべの導入であり骨子なのだが、やはり膵臓がやられていると申告している人に、本人が食べたいと言っているからといっても、大盛りの飯を好きなだけ食わせるのは虐待に等しいように読者の目からは見えてしまう。
そもそも大食いになったキッカケも男尊女卑な家柄でストレスを抱えた生活をしていたことから来る心因性のものなので、それは自傷行為に等しいのでは?とも思うし。
まあ二人はただの隣人同士であり、野本さんに春日さんの健康を管理してあげる義理はなく、「健康に悪いからもっと野菜を食べなきゃダメだよ!」などと口を酸っぱくして言い聞かせるような間柄でもない。
しかしそうは言っても、作中で野本さんは春日さんへの恋愛感情を自覚しているので、「野本さんは仮にも年上なのに、好きな相手の健康が気にならないの?」というのはごく自然に発生して来る疑問であるように思う。
心因性の大食いで既にブクブクと太り膵臓も悪くしているけどそれでも食べたい(まさに自傷行為、セルフネグレクトとも言える)女と、炭水化物と脂質ドカ盛りの料理を作って食べさせたい女。
この二人を読者が微笑ましく見守るにはあまりにもノイズが大き過ぎやしないだろうか。
春日さんのキャラ造形をBLのスーパー攻め様の女版的なバリキャリの美人OLみたいにはせず(※作者さんはもともとBLを描いていた漫画家さんだった)化粧っ気のない太った非正規のエッセンシャルワーカー女性にした理由も、作者さんが「女性差別・家父長」や「ボディポジティブ」や「脱コルセット」的なポリコレ要素を取り入れたいと思ったからだと推察するのだが、春日さんの大食いが心因性のものであるならば、それはボディポジティブなのか?となって来るわけで、そこにもテーマ同士の食い合わせの悪さを感じずにはいられないのだった。
巷ではつくたべを批判する人は差別主義者だと言われているようだけど、以上のことから、つくたべに対する批判が起こるのはごく自然的なことであり、作者の思想のせいではないと思うんだよな。
作者が描こうとしている、描きたいと思っているものは何となく分かるのだけど、そこに漫画家としての技量や扱うテーマに関する知識が追い付いてないというか。
もっと設定をシンプルにして、二人の女が笑いながら美味しくご飯を食べるだけの話でも良かったのでは?と思う。
ポリコレ要素を足したいのならもっと入念に取材をすべきだし、その上で物語に馴染むかどうかを吟味して、商業作品として良い物を世に送り出そうと思うのならば、足し算だけじゃなく引き算も行った方がいいのでは?と一漫画読みの立場から具申させていただきたい。
補足。マイノリティが活躍する作品の否定は差別だというコメントがあるけど、そういった作品の中にも当然だけどピンキリがあると思うんだよね。
例えば最近評判が良かった作品というとNetflixのハートストッパーなんかがあるけど、私もあれはすごく良い作品だと思ったし。
補足2。フェミが評価してる作品だから重箱の隅をつついてるんだというコメントがあるけど、上と同様フェミニズム作品の中にもピンキリry
少し古い例になるが、まおゆう魔王勇者においての伏線回収は有名だ。
絶望的な戦いかと思われたが女騎士は勇者と修行していたときを思い出す。
その記憶の中から最強の敵の弱点のヒントを見つけ出した女騎士は見事に逆転勝利する。
当時のオタク族たちが見事なまでの伏線回収!!と熱狂し狂喜したのは言うまでもない。
こういった体験は共有されオタク族たちは益々伏線回収の素晴らしさを確認するのだ。
では、もしもこの伏線が張られていなかったら、どうなるのであろうか?
しかし、突然思い出す。
そうだったそうだった以前、ああいったことがあったから、こうすれば勝てるじゃん!
よし勝った!勝利!!
という展開になる。
実際に週刊連載の漫画などでは唐突に始まる過去エピソード編としてこのような構成はよく使われている。
それは漫画という表現媒体が過剰な演出力で構成の不足を押し切れる力があるからだと思われる。
だが、これを小説など文字媒体で行うにはかなり技量が必要であろう。
デウス‐エクス‐マキナ(機械仕掛けの神)の降臨という印象を拭うことが出来ないのだ。
これ調べてるけどマジでわかんねーな。
辞書的には選手権=選手権大会で優勝した選手または団体に与えられる資格。
「〇〇杯」「〇〇旗」みたいな大会があるけど物理的な杯的なモノがあるなら優勝者にはそれが与えられるってわかるけど
「選手権」なるものを得たいと思って選手権大会に出る人ってまずいない。
「今大会の選手権が絶対に欲しいです!」みたいな言い方する選手みたことない。
もらっているとしても、その資格というのを「権」の文字であらわすのがよくわからない。
杯とか旗とか賞状とか名誉とかやりがいみたいなものと「権」がつながらない。
なんなんだ……
(追記)
まだあんまよくわかってないが……
トラバ&ブクマで気になったのは語源的には英語のchampionshipについての話が興味深くて、まあ選手権のもとになった言葉はおそらくchampionshipなんだろうなーとは思う。
あとはそもそも「権」の意味が 「権利」だけじゃないよねって話だな。
「権」という文字には「力」という意味があるらしいけどそうなると権利・権益は「力があること」による利益だし権威は「力があること」による威厳だし
選手権は「選手になる権利」じゃなくて「選手の中で特に力のあるものという称号=資格」という意味なのかなって。
少なくともワイは「権」をそのまま「力」だとは解釈してはいなかったから面白いと思ったな。
そういえば英語の接尾辞の-shipは「状態・身分・職・任期・技量・手腕」をあらわすとなっていてfriendshipとかrelationshipとかあるしおそらく「権」よりもひっつく対象が広いんだよな。
おそらくchampionshipのshipは「championという身分」ということなんだろうな。
ただワイのいちばんの問題意識は、日本語で「優勝者が得るもの」の意味がものすごくみんなあんま気にしないようになってないか?ということなんよ。
「ワールドカップ出たい!」「ワールドカップで勝ちたい!」「ワールドカップ手にしたい!」これは全部通じるけど
選手権の場合は「選手権出たい!」「選手権で勝ちたい」までは通じるけど
「選手権を手にしたい!」とか言ったらなんやお前?ってなるやろ?いや、お前もう選手やん。みたいな。
なんで一般的な選手権という言葉から「優勝者手に入れるもの」という意味が薄れていったのか?っていう素朴方面な疑問がでかくなっている。
同人誌作るほどの度胸も技量もなかった私がはまったのはネットでの活動だった。
どこのだれかも分からない人たちと語り合ったり作品を公開するのは楽しかった。
でも、気づいてしまったんだよ。
神字書き、神絵師の新作がアップされていないか四六時中スマホを手放さずにリロードばっかりして時間を無駄にしていることに。
そして、何より同じ作品を愛する人たちは自分より20歳ほど年下で、自分の年齢がばれないように話し合わせるのにも疲れてしまったことに。
原作と二次創作がどんどん乖離していくのを見るのも嫌になってきた。
ということで
サイトはブロックして、cookieも削除して絶対に見れないようにした。
数百件くらいだったけど、今までいいねやブクマくれた方々、ありがとう。さようなら。
サッカーの技量はないんだけど、迫真の演技力でファウルとりまくって日本代表にPKの機会を提供しまくり日本を優勝に導く話誰か書いてくれ
周りの友人に「なんで彼女作らないの?」「いない暦年齢もあれだし一度作っとけよ」と言われるも、出会いが無い。
これは、言い訳だ。マッチングアプリで恋人を作る男だって今は沢山居る。
彼女が欲しいか欲しくないかでいえば、欲しい。しかし俺は金が無い上に、出不精で、かといって金がなくても一人で静かにそこそこの幸福感を味わいながら一人で過ごせる術を身に着けてしまった。
高校生の頃、自宅に直帰マンで同級生から放課後の遊びに誘われても断って家に帰っいた。固定の友達やグループに属さなかったが、誰かに固執することもなく、誰にでも愛想が良かったせいか、多からずとも異性から告白されることが多かった。
当時から俺は本当に働きたくなくて、このモラトリアムが終わったら社会に出るという現実に抑うつ気味になっていて、家に帰っては寝てるだけの、本当に夢も希望ない、活力の欠如した日々を送っていた。その為、告白されても断り続けていたので、同級生の女の子たちからホモ説を流された事があった。その当時は彼女が欲しいと思えなかった。学校で誰かと他愛もない話をする。それだけで満足だった。
高校生の頃は勝手に誰かに好意を寄せられ、彼女を作るチャンスはいくらでもあったが、社会に出るとそんな機会が全く無くなった。正直なんとも思わなかった。
遊びに出かけた先で仲良くなった子とセフレ化するも、出不精で、恋愛感情に乏しくて、日々の生活を静かに送ってるだけの俺は「おじいちゃんみたいだよね」と揶揄されて、飽きられるようになった。セフレと行為中に「好き」と言われた。「ありがとう」と返した。それから連絡が来なくなった。
恋人を維持するには、相手を飽きさせず、楽しませ、一緒にいて楽しいと思わせる技量が必要だ。俺にはそれがない。そして、それを身に着けようと思える意欲もない。
朝に10kmランニングして、シャワーで汗を流して、美味しい和食を食べて、部屋の掃除をして、観葉植物を日当たりの良いところにうつし、温水で選択をし、シャツにアイロンをかけ、近所の特売をやってるスーパーを何軒か把握し、とりわけ安い日に洗剤などの日用品を買いだめ、和室を改造した倉庫にストックし、窓際で資格の参考書や、kindleで買った本を読み、昼寝したり、ドルコスト平均法で購入した海外株の推移を確認したり、書類整理をしたり、不要になったものを捨てたり、ストレッチをしたり、瞑想したり、こんなことしていると、あっという間に一日が終わる。
じゃあ、俺が恋人に求めるものってなんだろう。きっと、日々の他愛もない話ができるコミュニケーション相手が欲しいんだと思う。友人らはみんな結婚していって、家庭を持ち、忙しい日常に溶けていった。頻繁に連絡が飛んできた友人からの連絡も途絶えるようになって、時々飛んでくる友人からの連絡と、友人の子供の写真。俺は、友人達が幸せな家庭を築けているのを見ると、心の底から嬉しく、幸せな気持ちなれる。俺の周りの人たちがうまくうまく、全てが続いて行ってほしいと思う。
異性が恋人に求めるものに、きっと俺の要素は含まれていない。と少なくとも俺は思う。
俺はこれからも「彼女作らないの?」「結婚願望ないの?」と聞かれ、作る意欲もないくせに「出会いがない」という聞き苦しい言い訳を並べて、一人で生きていくんだろう。
俺はNTR苦手だが、あれほど作者の技量及び熱意が表に出るジャンルはないと思う。
構図や視線、配置で巧みに彩ることで「ウワアァアァー!!NTRだー!!!!」と脳が逃げろと叫ぶレベルで表現してくる。
そんな中けっこう見かけるのがただセックスしてるだけの絵にNTRってタイトルをつけてる奴。
これは全然平気、というかタイトル見るまでNTRとはまったくわからないこともザラだし。
NTR苦手な人種としては二つの違いハッキリしてるんだけど、好きな人にとってどうなんだろう。
やっぱ後者見て「NTR舐めてるな」とか思ったりするんだろうか、それともNTRってついてたら何でも美味しく頂けるんだろか。
昔みてたアニメで、どう見てもセリフと映像のタイミングがおかしいものがあった。
タイトルは伏せるが、出演声優はメインから脇まで皆場数を踏んでおり、今も第一線で活躍する面々だ。確か主役のキャストを当時追ってて、片っ端から出演作を見ていたのだが、どうしてもその作品だけがおかしかった。
別に下手ではないのに何故だろう。それとも下手ではないと思うのは、自分の贔屓目だろうか。モヤモヤしていた気持ちは物語が進むにつれてなんとなく理解できた。映像が間に合っていなかった。ネタになるような作画崩壊ではなく、シンプルに動きが少なかった。記憶が朧げだが、時折ピクチャードラマか?と思うくらい、セリフ量に対して画面が静かだった。
あんまりにもひどかったからか、二期(もともと分割だった)から制作会社が変わった。変わってからは多分多少マシだったように思うけど、シナリオにもテコ入れが入ったのか、それまで空気扱いだったヒロインが急にプッシュされた。街のトラブルシューターが難事件を解決、というコンセプトはいつのまにか消えていた。
せっかく面白い題材だったのにと残念に思いながら、オンエア終了後、アニメ雑誌でキャストのインタビューを読んだ。
「アフレコ時は殆ど真っ白で、“もっとメガネっぽく!”とかなかなかトリッキーな指示がありましたね笑」との一文(正確には覚えていないが、ニュアンス的にこんな文章だった)を見てようやく合点がいった。なんとかギリギリ「アニメ」の体裁を保てていたのは、キャストの技量によるものだった。たぶん今放送されていたら、あの作品はボロクソに叩かれていただろう。
オンエア終了から五年以上が過ぎた。アニメの本数が増え、SNSや配信サイトが普及した。監督や脚本家、制作会社の評判が調べやすくなり、恵まれた作品と恵まれなかった作品の差がはっきりするようになり、声優の顔出し仕事が増えた。良くも悪くも作品名と主演声優の名前が結びつきやすくなった。
毎クール放送されるアニメ全てが良い出来とはいかないだろう。ご時世的なものもあるし、予算の都合もあるし、制作スタッフの演出が合う/合わないもある。ただ、ネットでクソアニメと評される作品を見るたびに思う。もしかしたら、好きだったあの作品みたいに、声優に皺寄せいってるのかもな、と。