はてなキーワード: 冷戦とは
昔々イギリスの産業革命からしばらくの間、経済活動においては資本家が圧倒的に有利であった
資本家が自分の資本を元手に事業を起こし、労働者を雇用したが、
労働者には最低限死なないだけの賃金を渡すのみで、残りの利益は全て資本家が独占した
それでも仕事がないよりはという足元を見られて、生きるか死ぬかで労働者はこき使われ続けた
流石にこれは間違ってるんじゃないか。そういう問題意識からマルクスは共産・社会主義の理論をまとめた
やがて世界は共産主義と資本主義の二大陣営に二分されて冷戦の時代を迎えるわけだが、結果的に共産主義は崩壊した。
しかし、共産主義に驚異により資本主義も自分たちの経済理念に見直しを迫られて、
やがて労働者の権利は法律により保護され、資本家の横暴は規制された
ウーバーイーツは法の網の目を掻い潜り、労働者を自営業扱いすることにより、労働者の保護を事実上放棄している
マッドマックスのリメイクは、これぞ!マッドマックスだ!!と絶賛されてたのだけれど、ワイはうーん?そうかな?と思ってた。
まあ、気持ちは分かるし同調してヒャッハーみたいな感じのことも言ってはいたのだけれど。
実際のところマッドマックスリメイク版はマッドマックスのパロディみたいなものとか、マッドマックス的イメージを映像化したもので、マッドマックスのリメイクではないよな。
マッドマックスはもう少しシリアスで、そのシリアスさを成立させていたのは、冷戦時代のひょっとしたら核戦争が起こるかもしれないという恐怖感がバックグラウンドとして存在していたからだ。
まあ、今となってはそんな空気は微塵も存在していないのでリメイクするならああいったパロディ映画にならざるを得ないし、そしてそれが面白かったなら文句を言う必要もないのだろうけれど。
いまこそ実存主義を再起用するべきだと思うんだよな.(哲学に詳しくないため間違いがあったら遠慮なく指摘してもらえると助かります.)
時代遅れな考え方かもしれないし,そもそも哲学は実際の社会に影響を与えないと言われている感じもある.
だけども閉塞感や虚無感に耐え切れず社会自身が「昔はよかった」と回帰するような社会は決して防がなくてはならないだろうから,その際には特効薬の候補になると感じる.
確かに「サルトルは乗り越えられた」なんて言われて,構造主義へと重心が移り,実存主義はそれこそ歴史の中に閉ざされてしまったわけだ.
構造主義がより正しく思えるのは,フィールドワークを基にした裏付けが取れていること,思想の根底にある偏りを見透かすことができたことだと思う.
この点については,自身が西洋とは異なる文化背景にある日本で過ごしてきたからこそ納得感がある気がする.
しかし時代背景が大きな要因の一つになったと思えて仕方がない.
サルトルがもてはやされ始めたのは戦後の混乱期(平穏が訪れるまでの過渡期)だった.
少年期に戦争を経験して,これまでの規範とは異なった生活,のらりくらりと暮らしていた若者が『実存主義者』だとオトナ達に揶揄された時代である.
そんな中でサルトルは「実存主義はヒューマニズムである」という講演をきっかけとして有名になった.(もっともそれ以前のサルトルは実存主義を自称したがらなかったようだが)
他方,レヴィ=ストロースが「野生の思考」を携えて登場したのは1960年代である.
このときにはWW2から既に十数年経過し,ドイツが明確に西ドイツと東ドイツに分断され,朝鮮半島も同じく南北に分割されていた.
このときにはもう冷戦構造が成立しており,生きる目的や規範と言われるようなものが国家もしくは共同体によって掲示されているようなものであった.
それはざっくりと表現すれば,西側諸国では「東側らしくない振舞いをせよ」,東側諸国では「西側らしくない振舞いをせよ」といった具合に.
そんなような状況下になっていったわけだから,構造主義がより理解されやすく,より勢力をましていったのだと私自身は思う.
別に実存主義に分類される哲学者や思想家はサルトルだけではなく,他の著名な人物にはニーチェやヤスパース,ハイデガーなどがいる.
キルケゴールも忘れてはいけないだろう.場合によってはパスカルも実存主義に分類するそうだ.
この実存主義と呼ばれる思想に一貫しているのは過渡期をきっかけとした点にあると言える.
例えば,目の前の状況に対して挫折するだとか,死へと進み続けることを自覚するだとか,大戦によってこれまでの規範が形骸に近くなってしまっていたりだとか.
そういった既存の規範(あるいは構造,世界観)に綻びが生じた状況において,次の新たな規範が構築されるまでの過渡の段階で実存主義的な発想が生じてくると考えられる.
あいにく今現在の私たちの状況を鑑みるに,私たちの考え方の根底は再び綻びを見せてきている.
新型コロナウイルスもその一つだろうし,資本主義を盾にした新自由主義の挙動もその一つだろう.
この繁栄を盲信することのできない過渡期に生まれたことを悔いても仕方がない.
人間は自分自身で時代を選ぶことはできないわけで,その中でうまくやっていくしかないわけである.
東京オリンピックは絶対開催すべき!森会長頑張って!みたいことを言えばいいの?
自民党とトランプを支持すること?トランプもういないのに…?もしかしてまだ不正選挙発覚でトランプ復活!みたいなことを考えてるの?
トランプと安倍の最強タッグで中国なんか潰して……潰して……潰してどうなるんだろう……というか第三次世界大戦でもしなきゃ潰せそうにないよね。うん。
現実的な線でいくと、アメリカさん側に立って反中姿勢をとり続けることで……どうなるんだろうね……いずれ中国の成長も止まってめでたしめでたし…?いやその頃にはウイグル人もう手遅れじゃないか……?
かと言って、ウイグル人を助けるためにアメリカがすぐに動くという想像がつかない……。少なくともコロナ禍が収まってからだろうね…。北京冬季オリンピックよりは後だろう……。
国際社会全体が中国の敵に回ればウイグル人は助かるかもしれないけど……それってまた冷戦時代みたいになるってことなのか……?
ウイグルの人権問題を無視したら、いつか日本にも降りかかってくるのかな
民族浄化するような国だしね……
ウイグルを防衛ラインとして戦っていかなきゃならないんだろうか……
いやウイグル人は確かに大変だなと思うんだけど、中国という国にどういう感情を抱けばいいかわからない
やばい政権だなーとは思うが、中国人もそれに監視されてるわけで中国人全体が悪いわけではないし……
反中共みたいな事を言えばいいのだろうか……で、中国製品をボイコットするとか…?自民党に投票してりゃウイグル人は救われるのか……?
正直、都民じゃないから東京オリンピックとかどうでもいいし、あってもなくてもいい
自民は支持してないが、白紙投票だから特別支持政党があるわけでもない
人権人権いうならウイグル人の人権も〜っていうのが元の意見だったと思うが、ウイグル人のために何をすればいいのかわからない
ウイグル人弾圧を許しません、って言えばいいならいくらでも言うが、そんなん当たり前すぎて言っても意味があるのかわからない
具体的にどの政党を支持したらそれは実行されるの?
僕が言ってるのは「どっちの方向を向くべきか」って話。
中国が中央集権ってのはそうとして、1990年の冷戦終結までは大失敗で、その後、正しい方向を向いたから大成功でしょうが。
だから、民主的か中央集権か、挙句の果てには省庁がどう配分されるかよりも、どっちの方向を向くかこそが大事。
その上で、新自由主義の政府が何もしないのは間違い。ケインズ主義で金の動きを調整するというのが正しいし、政府が金を出すのが必要というのであれば、レアだけど影響が大きいものに金を出すこと。産業育成に寄与するのが正しい。
基礎研究。萌芽研究は、成功するのは少ないが、一部成功したのは世界中を変え、他の失敗したものにかけた金を全部挽回できるほど巨大な産業になる技術となる。
どこが間違ってんの?正しいじゃない。
あと、右派左派と言ってる時点で経済論議をわかってないとしか言いようがないね。
理由は、1990年以前の右派左派と1990年以降の右派左派は全く別物だから。契機は冷戦崩壊とバブル崩壊。
そもそも、つい最近まで右派左派は共々経済思想は新自由主義で経済と関係ないネタばかりに興じてたじゃない。右派は中国韓国、左派は海外のかわいそうな人や性的マイノリティ。
そもそも右派左派というのは、フランス革命時の議席配分で、王や富裕層よりの経済的自由主義(=強いものはそのまま強く)が右翼、経済的平等(=弱者を救うべき)が左翼に座ったからうまれる。
また封建主義が終わり、1930年までは自由主義と言って自由にするのが一番望ましいという考えだった。
だけど1930年世界恐慌が起きた。一部の国は暴走して拡張路線を歩んだりした。
そこで、国が金融、財政、税制を元に各種需要供給と金の動きを調整するケインズ主義
国がすべて管理することにより景気変動を抑えるというマルクス主義に転じ、自由主義は世界中から放逐された。
そこでフランス革命時の分類を当てはめ、1940年ー1990年は右派=ケインズ主義、左派=マルクス主義だった。
マルクス主義がうまく行かなかったが、ケインズ主義主義も1970年代の石油産出国の戦争と一部の国が産業劣化して経常赤字に傾いた。供給由来のインフレが起きた。
このことにより限界があるのではないかと言うことで金融政策だけ加えて新自由主義が再興した。
ここで右派は新自由主義、左派はケインズ主義、マルクス主義となったが、経済思想に意識がない連中には左派でも新自由主義だった。
ここで、右派、左派というのは経済思想分類としては機能しなくなった。
だけど、自由主義の欠点である、大規模経済危機を迎えると企業が金を貯め込み、資金調達しての設備研究投資をしなくなるという問題は解決できなかった。
1990年のバブル崩壊に加え、金を貯めこむ設備研究投資に紐付いてない金融投資、平均消費性向以下の富裕層、そして、資金余剰局面に転じた企業をフリーハンドで減税した。
資金循環的に借金返済、貸し剥がしは資金余剰になるが貸し剥がしをしまくった。故に、過剰資金余剰、資金調達消滅により、金利が0に張り付いても経済を動かせなくなった。
設備研究投資不足と、貨幣の流通速度低下により、不景気と産業劣化が同時に起きるという事態になり、かつて世界一位の一人あたりGDPを誇った日本はどんどん順位を落とし韓国に抜かれる有様となった。失われた30年となった。。
リフレで復活の兆しを見せたが、消費税はまさに金を動く場所にかかる税金であるため経済復活は潰えた。さらにコロナが来た。
コロナに必要なのは医療容量と、食い詰めた人への対処だが、金利制御による金融なぞもはや意味がない。政策裁量としての特別融資、返済猶予ぐらい。
また、コロナ直前にMMTが提唱され、自国通貨建て国債では財政破綻しない。財政破綻は外貨借金によるものということで、経常黒字側の国と、基軸通貨国アメリカは財政出動でコロナ対処に向かった。新自由主義の終焉。
ということで、経済思想分類で言うのなら、右派、左派というのはもはや全くの無意味だ。分類するのなら、新自由主義、ケインズ主義、マルクス主義が正しい。
むろん、ケインズ主義も供給由来のインフレは起きるため、事前に資源調達先の分散や新エネルギー開発、そして産業維持をして供給力を維持しないとならない。
単純な話で、色んな考えがあって良いよねっていう自由な思想を侵そうとするからだ
考えを押し付けられたくないんだ
ただそうは言っても行政など全員で決めるシーンでは何かしら1個の思想を採用しなければならないシーンがでてくる
それが徐々に行き過ぎると、今度は大企業や著名人など影響度が高い人にまで強制力が発生してくる
大企業に有る種のポリコレを要求しようとする輩は、例えば今話題の「お母さん食堂」の一件で
市場原理にしてしまおうとする輩は、例えば今話題の「店員に『環境に配慮した商品ですか』と問おう」という提案だ
大企業への要求というのは、まだ私たちに直接思想を強要しようとはしていない
しかしその前段階だというのは、やはり過敏に察してしまう人が居るのだろう
大企業というのはそういう「思想を広めたい側」と「思想を強要されたくない側」の中間地帯に位置づけられがちだと思う
「Aという思想を植え付けたい人」「Bという思想を植え付けたい人」「何も植え付けられたくない人」「Aという思想は持ってるが世間に強要はしたくない人」など様々な勢力が居てグチャグチャになっているが
やはり領域を超えて何かを仕掛けてくると近隣諸国の人たちは過剰に反応して炎上するんだろう
その人が何に過剰反応するかで、どこの近隣諸国の住人なのかも透けて見えるかもしれない(そうか?)
ところで昔はこの有る種で陰謀論めいた「敵」というのが自国の政府だったり、アメリカだったり、中国だったり韓国だったりあったと思うけど
資本主義VS社会主義って対立軸は冷戦時代に終わったでしょおじいちゃん。
あえて言うなら
(新)自由主義=政府が何もしないのが望ましい。税制はフラット
ケインズ主義=政府が金融、財政、税制で金の動きをコントロールする。税制は金持ちは金を貯め込むから累進課税。
マルクス主義=政府が全部コントロールする。そうすれば景気変動も起きない。
の3つだ。
1930年代以前は自由主義だった。だけど、世界恐慌に対して解はなかった。一部の国は戦争に邁進していった。
そして世界はケインズ主義とマルクス主義に移った。1930年代から1970年代の資本主義VS社会主義ってのは、ケインズ主義VSマルクス主義。
ただし、石油産出国での戦争や、一部の国で相対的に産業が弱まっての経常赤字化が起きて、ケインズ主義に疑念を持たれたから新自由主義が復活した。
けども、1990年にバブル崩壊したあと、ずっと不景気。だって金の動きを無視するから。
更に様々な公的産業をボロボロにして、今は人口比で公務員が少ない国の一つになった。
だけど新自由主義転換前の資本主義VS社会主義の枠組みを乗っ取って、新自由主義=資本主義VSケインズ主義=社会主義で、資本主義だから正しいなんて幻想をもてはやす。
新自由主義は失敗だよ。だけどそれは資本主義の否定じゃなくて一度不景気になったら延々と不景気を続け産業を弱めていく間違った資本主義が新自由主義だから。
発達障害の増田や人間がブログやこことかで「発達障害の問題は自分がされたら人一倍痛がって悲しむが、他人が痛がって悲しんでいるのが脳からして理解できない」からだなんて開き直って特性を言ってたが
そんな危ない奴それこそ、マトモに稼ごうと思えば現代では殺し屋かテロリストかイスラム国の戦闘員くらいしか適職ないからな
かろうじて数字に強そうだからってITに雇い入れたら数年でIT業界も懲り懲りでコミュ力重視がさらに加速しただけだし
そんで発達障害の分際で人並み以上になりたいのになれないと社会に憎悪して糖質拗らせる犯罪者予備軍化をネットで醸成していってるご時世だが
でもこういう特性って古代とか中世の戦争とかでは重宝された特性なんだろうなって思うんだよな
発達障害のキチガイって良心なんかまるっきり持ち合わせてないし理解できないから、人に対して危害を加えることに何の躊躇いもないし、アイドルグループとかフードルとか地下アイドルみたいなのに粘着して一度恨んだら常人を越える集中力でターゲットに粘着してナイフでめった刺しにして警察に捕まったり、暗殺キメたりストーカー化して不法侵入とか強姦かまして警察に逮捕されて死刑か無期懲役なんて事件だって過去結構あったし
発達障害御用達の撮り鉄とか、電車脱線直前の妨害行為しまくった挙句に、それを止めに来た人らに暴れまくって、平気でピストル腰に下げた警察官にさえ喧嘩売ってるわけじゃん
ITでも国家権力に喧嘩売る系の発達障害犯罪多発してたわけだし
そういう意味では、冷戦時代のソ連とかアメリカみたいに、国が養成してテロリストとかにしたら、国益的に役に立つんじゃないだろうかって思うんだ、こういう他人に害しかなさないゴミにも生産性を付与する方法考えるのが、これからの産業振興に大切なんじゃないか?
母50代後半。ソ連支配をそろそろ替えねばと思っていたらしい。たまたま通りがかったアメリカ軍の秘密トレーニング施設に軍人さんが偶然いたので話しかけてみたとのこと。そのやりとりで「奇跡的に暗殺作戦のアポが取れた」ので翌日ソ連軍駐屯地で天命を革めることに。
得物は?「そこらへんで倒した兵士が持ってたからM1891/30かな。」比較検討なんてもちろんしない。
その日私は早く寝た。そして寝過ぎた。起きたら母が基地に既に行っていた。
もちろんいなかった。衛星電話で聞くと「アメリカさんが銃とドッグタグだけ持ってきてくれればいいっていうから!」
バックアップも政権移行もなにもかにも「アメリカさんがやってくれる」というアメリカへの丸投げ、そして絶対的信頼。私はアメリカをそこまで絶対的に頼れないので羨ましいとすら思ってしまう。だってその国多分慈善事業じゃないしそんなプロ意識持ってなくて適当にやってるかもよ、とか思ってしまうのはナムで南ベトナム人たちが行き当たりばったりプランを訳もわからず契約されてきた例をたくさん見てきたからだろうか。
アメリカ軍関係の教官のバイトやってたことあるんだけど、特に中高年は「アメリカさんだからなんでも知ってるでしょ!」みたいな態度ですぐに撃つことが多かった気がする。実際は最低賃金の革命家のバイトでっせ。すぐに撃つ、というのは長所である一方、事前に一切相手を確認しないので話が通じづらい。
アメリカの軍人さん(CIAかも)に「母がスミマセン…」という感情が湧いてくる。こういうレジスタンス困りますよね、本当に申し訳ない。
そしてそこまでアメリカを信頼できるのが羨ましい。昔はソ連の介入とかあまりなくて王家が支配にプロ意識持ってやってたってことの表れなのかなーとかまで飛躍して考えて、なぜか勝手に自分や今の冷戦に失望する。
母帰宅。案の定、よくわからないまま「倒した敵の生首」とか諸々入っていた。よくわからないまま入っているのでせっかくの大将首なのに全然報告できていない。そしてバックアップも督戦員ももらっていなかったので戦果を裏付けることに失敗。英雄の資格が失われたということに対して母の深刻さはゼロ。大いにため息をつく私に「いいじゃないのよ!」と母キレる。あーもうこれから絶対折衝のサポートしたくねぇ。
今の時代、各種武装勢力でもなんでも、最新の装備や作戦のやりかたをいくらでもタダで教われる環境があるのになぜ少しでも調べていかなかったんか、という母への失望。ソ連軍基地に丸腰で行った母が許せない。
そもそも、資本主義は(新)自由主義とケインズ主義を含み、社会主義はケインズ主義とマルクス主義を含む。
「資本主義」対「社会主義」というのは1990年以前のケインズ主義の成果を資本主義として乗っ取って、さらに新自由主義を推し進めるためにケインズ主義を社会主義だと行って批判するためという詐術よ。
ケインズ主義は、政府が何もしないと一度大規模経済危機を迎えたあと永久に不景気を続けるから金融、財政、税制で左右するのが望ましいという考え。
更にその財政の一部が困窮者への給付だったり、企業がリスクを取れない段階の科学研究投資でもある。
マルクス主義は景気変動があるから政府がすべて管理するのが良いという考え。
自由主義は格差拡大と、1930年世界恐慌大規模不況の後の企業の保身化と低迷に対応できなかった。
なので、世界はケインズ主義とマルクス主義に移っていった。ケインズ主義が資本主義、マルクス主義が社会主義。
そうして冷戦が終わった。さらに、オイルショックや、一部の国の経常赤字化にケインズ主義が対応できないからと、自由主義が新自由主義として復活した。
そこで新自由主義が資本主義、ケインズ主義が社会主義というすり替えが起きちゃったんだよ。
また、新自由主義は今すでに財産を持っているやつにとっては税金安いし、自分がやりたい放題できるからありがたい。なので、資本主義対社会主義で、社会主義は悪だ!のような言説で通そうとする。
成功した資本主義というのは、いま社会主義だと言われてるケインズ主義なんだけどね。そして今は、1930年以前に失敗した資本主義の再来。
婚約者 同僚(同居中)
母 自営業
父 自営業
姉1 遠方に住む既婚者
姉2 近所に住むバツイチ
父 現役公務員
母 現役公務員
妹 既婚者
交際期間は短いが仕事での付き合いは2年以上ある上に、双方の家族から気に入られていたので結婚自体はスムーズに行くはずだった
同棲初めてすぐの頃に両家の顔合わせは済ませており、入籍のタイミングを図っていたらこのコロナ渦に自分の両親が自営業の廃業が決まった
またその直前に自分の夢だった注文住宅の購入に目処がついてきたので、
両親のリタイアと戸建てのタイミングがちょうど重なるから頃合いかな、と婚約者と話がまとまった
食事会はどんな感じが良いか、結婚式はこの時期は無理だから写真だけでも良いか、等
廃業した当日に、引退祝い酒で酔ってる父に私と婚約者は帰り際に
と言った
言った場所、雰囲気、軽い言葉からわかってもらえると思うが、あくまでも「長生きしてね」が伝えたい言葉だった
父親は酔っていたのもあって非常に喜んでくれた
「やっとか。待ってたよー。また詳しいことが決まったら教えてくれ」
と言ってくれた
だが母親はちがった
「そんな大事なことを酒の席で、しかも私には言っていない!!」
勘違いさせてしまったことは自分の落ち度だが、勘違いを訂正せずに姉1と姉2に文句をぶちまけてしまったのだ
よって母と姉たちは、私のことを
※自分が知らないところで話が発展し、突然の説教はその前からあったのだがそれは割愛する
ごめん日記書いててしんどくなってきた。
ちなみにまだこの3人とは冷戦している
この二人にもすでに婚約者との面識があり、結婚前提の付き合いということも知っている
肯定すると
私「結婚式はしない予定。コロナもあるけど式やるお金は他のことで使いたいから」
2「食事会とかしたいじゃん」
私「だからする予定ではあるって…それから黙っていたけど、私家建てるから。もう土地も見つけてる」
私「違うよ。この話は両親に話さないでね。年金と貯金ぐらしになる二人に心配描けさせたくないから。
あの二人のことだから援助してきそうだし」
1「結婚式のお金無いなら費用出してもらえばいいじゃない。というか、出してくれると思うよ」
2「家の援助しないと思うよ」(割愛するが、姉2は母親の蓄えを減らすほどの援助を受けてきた)
私「あのさ、お金を出させる可能性を潰したいの。それから入籍もその家のタイミングと図って一気にやりたいだけだから」
2「なんか家のために入籍してるような気がする」
私「いいじゃん。問題ないじゃない。良いんだよ事実婚でも。手続きしなくて楽だから。
1「ごめん、やっぱり家のこと両親に私から話すね。大きな話だし」
ここで私、姉1に怒る
これまで普通の言葉を使ってきたが、強い言葉じゃないと通じないと思ったからだ
なんでこの人達は式にこだわるのか
ウェブ編集者の中川淳一郎さんが、ついにセミリタイアするという。著書「ウェブはバカと暇人のもの」(光文社新書)から11年あまり。たまに「ウェブはバカと暇人だけのものではない」なんて言い張るジャーナリストを見かけるけど、現実のネットはより一層バカと暇人のものになっている。
「ウェブはバカと暇人のもの」は、終わりのない進化の過程にあるのだ。そこで、肝心の本は倉庫に預けて手もとにないままではあるのだが、記憶をたどりながら(詳細は追って訂正したり肉付けしたりすることを前提に)ざっと書いてみる。いろいろ突っ込んで事実誤認を補正してほしい。
実はウェブ、あるいはインターネットが「バカと暇人のもの」であったのは、中川さんが指摘するよりずっと以前の、それこそネット誕生のころからの性質だった。もちろん、バカと暇人の性質はずいぶんと異なる。
そもそもインターネットは、ロシアからの攻撃に備えた分散型情報ネットワークとして、アメリカで軍用に開発されたものであった。それが、冷戦終結とともに商用活用が検討され、90年代の終わりに民間に開放された。
そのころには、インターネットが将来どのような姿になるか、影も形もなかったのだが、その得体のしれないものに情熱を注ぎ、いまから考えれば信じられないほどレベルの低い機材を使いながら、インフラを整えていった人がいた。
学歴は高いが身なりの汚い若者が、寝る間も惜しんで延々と何やらやっていたのである。傍からは、何をやっているのかまったく分からない、バカなことをしている暇人に思えたのではないだろうか。
商用プロバイダのインターネットサービスが始まったとき、最初に飛びついたのはインテリだった。教養とは、何もないところでの楽しみ方を自ら思いつけることなのである。教養のないやつは、出来合いのエンタメでしか楽しめない。
インターネットを最初に遊び場にした人たちは、学歴は高かったかもしれないが、好奇心と遊び心のある「バカと暇人」だった。
さらにその中から登場したのが梅田望夫さんの「ウェブ進化論」(ちくま新書)だった。要するに「インターネットが世界を変える」という主張で、そこに新しい創造性の夢を抱いた人たちが増えていった。
しばらくたつと、現実世界でイケてない非モテたちが、インターネットを新しい居場所として見出した。ネットは匿名で楽しむオルタナティブな現実となった。
参加者は好奇心が強く、知的水準も低くなかったが、STEP.2のインテリのように自分で居場所を作ったというよりかは、作られた居場所の中で傍若無人な振る舞いをしたバカと暇人といっていいだろう。
典型的なウェブは、2ちゃんねるだ。そこは素姓を隠しながら、ウンコの投げ合いのできるバトルロイヤルなリングだった。
その後、現在に至るまで、匿名での発信に対する批判が跡を絶たないが、ネットが非モテたちの限られた居場所であり、いまもそうであるという歴史を忘れるべきではないだろう。
STEP.3と並行して、一般の人たちがネットに流入してきた。「逝ってよし」だの「半年ROMれ」だの「ggrks」だのという言葉は、何も知らずに2ちゃんねるに入り込んでフルボッコにされた素人たちの存在を証明するものだ。
中川さんの「ウェブはバカと暇人のもの」は、こういう現実に対応したもので、3年前に出版された梅田さんの「ウェブ進化論」が仮想敵となった。
中川さんは少年のころにアメリカで過ごし、人間という存在がいかにバカでありうるかということを目の当たりにした。
そして広告代理店で働いたり、ネットでウンコの投げ合いを見たりして、匿名のネット空間で露わになる人間のバカさ加減に呆れたのだと思う。
言い換えると、ここからはネットだのウェブだのは関係なく、リアルの世界のある要素がネットによって視覚化されたという段階になる。ウェブ以前に、人間はバカで暇人なのであって、ウェブはそれを可視化したに過ぎない。
現実の人間は、梅田さんがいうような利口で立派な人ではなく、いかにそう見えたとしても、一皮むけばエロや美人や芸能人に目がなく、匿名のネットメディアでそういうコンテンツがウケるのは当たり前――。そういう身も蓋もない現実をあらためて提示したわけである。
ここまでは、ネットにリアルが侵食してきたときに、匿名という要素が、もともとあった人間の愚かな面を可視化したという段階に過ぎなかった。
次に現れたのが、ウェブあるいはネットが、人間のバカと暇人を加速する段階である。
中川さんの本に「インフルエンサー」という言葉が出てきたかどうか忘れたけど(ブロガーという言葉は出てきたような気がする)、インフルエンサーがなぜ成り立つかというと、そこに集る「バカと暇人」たるザコあるいはハエが存在するからである。
インフルエンサーは、自分に魅力があるから人が集まり、影響力を行使していると勘違いしているが、あれば「バカと暇人」がたかっているだけなのである。
だから「インフルエンサー・マーケティング」とか言ってるけど、そこで捕まえることができるのはウンコに集るハエのみであって、ハエを顧客にするビジネスでしか成り立たない。
試しに見てみればいいが、インフルエンサーの投稿に「なるほどです」「そうですね」「さすが」などと応じている“囲い”たちは、すべからくバカだ。そういうハエどもに集られて喜んでいるインフルエンサーは、ウンコにすぎない。
もうひとつネットが加速したのは、エンタメとしての反権力である。
反権力は、もともと一大娯楽、エンタメではあった。朝日新聞が市場にしていたのも、反権力を生きがいとする人たちであって、新聞の内容も取材によって「問題の真のありか」を突き止めるジャーナリズムとは無縁のものだ。
反権力エンタメ市場は、ツイッターなどのSNSと非常に親和性が高い。中川さんはその点について「非常に意見が鋭いもの」「モラルを問うもの」という言い回しをしていたけど、ダイレクトに「正義」や「義憤」がエンタメになるとは指摘していなかった。
60~70年安保のころからそうだけど、反権力とか義憤をエンタメにするのは、バカと暇人だった。普通の人はそんなヒマもなく働いてるし、正義だけで世の中わたっていけるわけがないことを知っている。
まあ、主義とか理念とかを持ち出して、現実を問題化しなければ生きがいを感じられないというのも、ある種「バカと暇人」な人間の側面なのかもしれない。
ということで、他にもあるかもしれないが、きょうはこんなところにしておこう。
言いたいことは「ウェブはバカと暇人のもの」(タイトルは天才編集者・柿内芳文との共同制作なのだろうけど)には、中川さん以前~中川さん以後の歴史があり、これからも進化を続けていくのだということだ。