2018-04-12

anond:20180412083001

修身の下敷きは儒教なんだが、儒教は、上が自分を引き締めて、下がそれに従えばうまくいくというもの

ただし、頭足りてない奴は、下が上に従えばうまくいくという部分だけ切り取る。だから、森友幼稚園みたいなもの生まれる。

儒教には上に立つ人間がどうあるべきかというのも多いから、勉強する分にはいいと思うよ。

あ、でも、靖国あたりのことを持ち出すということは、そのあたりのことわかってなくて毒された浅いネトウヨかなという気もする。

デカルト科学的立証以前は、世の中のわからないことはすべて「誰かが言ったから正しい」の世界だった。よって、宗教範疇だった。

化学も、錬金術と地続きである錬金術に途中から科学検証が入ってきて、化学になったわけ。でも、錬金術時代に作られた薬品は今でも化学の主要な地位を占めている。

科学的立証がとことん進んで、解明しやすいこと、科学になじむことはどんどん科学世界検証され立証されていった。

けど、どう生きるか?と、死後の世界について、さらに言うと、ケースバイケースの経営判断は、科学では解明が困難である。困難であるだけで不可ではないが。

科学であれば、検証可能性と再現性必要だが、どう生きるか、経営判断について検証可能性と再現性を作るのは困難。

死後の世界もまあ同様。

とすると、宗教に近いところで「誰かが言ったから正しい」の世界でやっていかざるを得ない。

そのうえで、儒教仏教も今でも意義があることもある。しかし、死後の世界のことや神秘主義を入れると一気に胡散臭くなる。

仏教に「毒矢のたとえ」、儒教に「怪力乱神を語らず」があるのに、どうしてこうなった仏教儒教

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