はてなキーワード: 標準化とは
http://anond.hatelabo.jp/20110824143747
そもそも大企業における人事部の仕事とは何か。それは「人事ポートフォリオの管理」です。
企業が大きくなればなるほど、現場単位での採用というのは非効率を伴います。欧米のようにジョブ単位での管理がしっかりなされていれば、それでも「ここの課でこの仕事をする人が1人足りない」という形で標準化でき、HumanResourceはそれを機械的にアナウンスするだけ(そして労働市場もそれを前提に回る)ですが、新卒採用が中心でジョブ対職業能力の関係が標準化されておらず、メンバーシップ外からの調達が難しい日本では「この仕事のためにこの能力を持つ人がほしい」となったときにわざわざそれをひとつずつ探すのは大変な手間がかかります(もっとも最近はネット転職サイトなどのおかげでそのための環境も少しずつ整備されてきていますが)。
よって大企業における人事部には、長期的な視点のもと計画的に人員を育成し、いつどこで欠員や人員需要の変化が発生してもある程度は組織の弾力性が吸収してくれる体制を逆算して作り上げる責任があります。これが“日本における”人事ポートフォリオの管理であり、その逆算の起点こそが新卒採用になるわけです。
このような視点から新卒採用というものを見ると、理想の新卒とは「どのような職場にも適応でき、あらゆる技能を吸収できる」ような人間ということになります。もちろん現実にはそのような人間はいませんから、そこを「コミュニケーション能力」なり「人間力」なり、あるいは元エントリのような減点主義なりで繕ってみるわけですが、もちろんそれが欺瞞であることはおわかりでしょう。そしてこの欺瞞で自分自身までも騙してしまった結果、上記エントリのような無能人事部員が出来上がるというわけです。
(「リーダーシップ」なら、長期的な視点から見ても新卒採用において求めうる要素かなぁと多少は思います。現在のシステムでそれを適切に評価できるかどうかは別として)
このような「人事部中心主義」が「組織の官僚化」以外にどのような帰結を生むかについては、まぁhamachan先生の本でも読んでください。(というか基本的にこのエントリここまでhamachan本の丸写しだし……)
http://anond.hatelabo.jp/20130826033127
こういうベンチャー企業の場合、人事ポートフォリオという概念がそもそも存在しません。そもそもの企業規模が小さいので弾力性を持たせようがないうえに、必要となる職業的能力がコアすぎて新卒採用からゆっくりとやっていては倒産マチガイナシです。ゆえにこの方の感覚は非常に正しいと思います。ただ、企業の規模が今の100倍になったときに同じ感覚ではいられないでしょうね。
http://anond.hatelabo.jp/20130826163155
「中小企業に大卒が増えている」理由は、大卒率の増加だけでなく大企業側のメンバーシップ枠が縮小していることも原因です。このエントリで書いたような原理を理解せずとりあえず大企業の新卒システムを形だけパクってみました、というところが実に多い。少なくとも減点主義は中小企業では明確にアウトです。規模がないのに新卒を採ると結局長期的な育成ができず使い潰すか腐らせるかの2択になりがち(→「すぐ辞める最近の若者」orブラック企業化)です。ただ、上記ベンチャーほど必要となる職業能力がコアでない(=「人間力」で回ってしまう)というところも中小ほど多いのは事実なので、トンデモブラック以外はなんとかなっているのでしょう。
http://anond.hatelabo.jp/20130226135757
元増田は数字ベースでやっているので、俺は経験談ベースで行こう
医療保険は、後遺症が残る病気かかると、その後継続を拒否される事が多く、さらに支払いのタイミング歪んでいるから本当に必要な時まるで役に立たない。
日本人の死因第一位は癌、第二位は心臓だが、第三位は脳卒中(←肺炎に抜かれて死因では第四位になっていたようだ)三大疾患と言えば、癌、心臓病、脳卒中だ。この中で最新の厚生労働省患者統計によると、一番患者数が多いのが脳卒中(脳血管疾患)である。年間172万人が入院している。死因第一位だからといって癌がクローズアップされがちだが、癌の入院患者数はおよし151万人であり、癌よりも脳卒中の方が入院患者数は多い状況である。
この脳卒中と言う病気は恐ろしく金がかかる。癌より金がかかる。まず脳梗塞の場合倒れてから手術、急性期が終わるまでで医療費総額数百万医が必要になる。パック一つで数十万という薬がばんばん使われる。
当然高額療養費制度のお世話になるわけだ。さらにリハビリによって長期入院が必要になることが非常に多い。最大で180日で毎月毎月医療費総額で数十万かかることになる。
ここでリハビリをやらずに退院させると、患者に良くないのはもちろんなのだが、今度は介護の方に負担が大きくなって全体として金がかかる。従ってきっちりリハビリする方が良いと言う流れができている。
これだけ長期入院になると高額療養費制度があってもお金がかかって大変だから医療保険は必要か…そんな風に考えていたことが僕にもありました。長期間入院していると、家族の方も金がかかって大変なので、ここで医療保険が必要だという事になるのだが医療保険は大抵60日で打ち切り。それ以上は支払われないので本当に苦しくなってからはほとんど役に立たない。
さらに、後遺症が残ったとする。脳の病気は症状の違いこそあれ、間違いなく後遺症がのこる。しかし、巷で宣伝されている一般的な医療保険は、要支援認定がつくと多くの保険は継続できず保険には加入できなくなってしまうケースが多い。(当然ながらより保険料が高くなる特殊なタイプにはまだ加入は可能だ)
癌もそうだが、脳卒中も再発が多い病気だ。だいたい半数の人が再発を起こす。障害は基本的に蓄積する。再発の時の方がより症状が重くなることが多く、対処は難しくなる。入院も長期化する。残る障害も大きくなる。こう言う場合にこそ保険は必要だ。しかし、こうなった時には多くのすでに医療保険は継続できずに打ち切られており毛の先ほども役に立たない事が多い。
必要な保険は今医療保険として売り出されているものとは全然違う保険だと思う。入院1日目から対応される必要など無く、入院が長期化した場合にこそ必要である。1回目は保険が効くが、2回目は出ないのではなく、2回目こそ備えが必要である。
さらに言えば、退院するときに必要な設備費にもお金が必要である。介護保険があるのでそこからの住宅改修などの費用は出る。またベッドや車いすなども補助を受けることで安くレンタルできる。しかしそれらは非常に大まかな制度の中でしか利用できず、自己負担もまとまるから、一ヶ月分の医療費支払いよりも金がかかる。また、患者の症状に応じた、たとえば自宅でリハビリを続けるための運動器具と言ったものは補助の対象にならない。だからそういったものは自費で賄う必要がある。しかしこれらは出ない。さらにこれは制度的な部分でどうにかするべき話なのだが、介護保険は認定が出て、支払いが開始されるまでのタイムラグが存在する。実はこれが非常に問題で、家庭で設備を整えてから退院しなければならないのに、病院を退院するまで介護保険が出ないと言う事になってしまう。手続きを取っておけば後で支払われるにしても、一時的に自分の金でなんとかしなければならない事になる。では、現状はどうなっているかというと、介護保険対応の介護用品取扱業者が支払い見込みにより一時的に立て替えたりしてくれる。非常にありがたいこれで制度の谷間の補完ができた? いや、実はこれは副作用がある。実はこれのおかげで、一般価格よりも高い保険対応の業者を使わざるを得ないと言う事情が発生して業者のいいなりになりやすい。できる限り自立してほしいということで、設備を最小限にしたいとする。しかし業者は制限一杯レンタルした方が儲かるので、よりたくさんレンタルしたがる。これは患者のためにならないことも多い。 ここで業者のいいなりにならぬためにも金が必要である。
現状の医療保険は本当に役に立たない。
入る必要があるとすれば、十分な貯蓄を貯める事ができず、さらに緊急融資などを依頼できるだけの信用が得られない期間にスポット的に入る場合だろう。貧困層はいざとなれば行政の支援を得られるので無理してはいる必要は無いし、それ以上は普通の医療保険を用いればいいので入る必要は無い。
これらが必要なのでは無いかと思う。いずれも制度の谷間で、一人の力ではなかなか乗り越えるのが難しい部分であるからこう言う所をカバーする保険が欲しい。保険というのは、確率は低いものの、いざその状況になったらいわゆる「積む」という状態になる事を避けるために存在するわけでこういった保険は開発できないのだろうか。またこれらであれば、おそらく確率的にはそれほど高くないので、保険料も安く抑えられるはずだ。
どうもこの元増田についているブコメにもあるけれど、趣旨が理解されてない感じがするのでちょっとだけ。
要するに、元々は健康保険によって
と言う形でリスクが抑えられている。健康保険に加入している限り、これ以上リスクは増大しない。この健康保険で押さえられているが、それでも残るリスクをさらに低減するために医療保険の支払い額は似合っているのか、と言う話なのだ。ヘッジできたリスクも含めて元を取れているかと考えると言う事。
それを数字的に計算したのが元増田で、経験談として書いたのが俺というわけ。
短文過ぎて理解するのに時間がかかったが、要するに保険が支払われたのならば加入していた事により、保険料として支払った額よりもプラスになっているはずである、と言う主張だろうか。
「病気になって保険のもととれたんだから保険を肯定しなければおかしい」こんな馬鹿なな主張をしていると言うことにまず気付いて欲しい。次に、情報として、本当に致命的な事態には役に立たず、それに保険料が似合っているかと言う事をよく考えるべきだと言う趣旨である。またきちんと計算をしてみないと分からないが、備えとして有効なのは、1ヶ月程度の別の病気を複数回繰り返すと言ったレアケースのみであると考えられる。
ここまでわかってるなら、そういう保険に入ればいいんじゃねーの?
そういう保険があるなら教えて欲しい。
民間医療保険と公的医療保険をネットで考えたとき、果たしてどうなるかというと、皆さまの大嫌いな税金、保険料という話になって帰ってくる、という話だと思われます
違う。民間医療保険があるから公的健康保険の保険料が低減されていると言う事実は無い。民間医療保険はかかった費用にかかわらず支払われるタイプと、手術などのかかった費用に支払われるタイプがある。
前者は完全に公的健康保険とは別であるが、後者においてはかかった費用は自己負担額に応じて支払われるため、この場合でも公的健康保険の支払い額は減らない。むしろ民間医療保険の再保険として公的健康保険制度が機能していると言う性質すらある。
「高齢者も含めて計算した生涯罹患率の平均で、50歳までの罹患率はたった2%。」←ガン保険って、この2%の人のためにあるものだと思う。
高額療養費制度が知られていないことを利用した保険商品ではなく、適切に設計された重大な病気にだけ対応した医療保険に加入していた場合は、現状の医療保険よりも保険料は安く、さらに手厚い保証を受けられていた可能性が高い。
日本は"公的"医療保険で全カバーが原則。"共済"とかをプラスαで使うなら良いんで無い?差額ベット代目当て(がんは支払日数無制限)とかね。まあ、自営業で体壊して「経営者保証で資産全滅」時の"家族への保険"かな。
これは医療保険のカバー分野ではなく、就業不能保険、あるいはその他の損害保険がカバーする分野かと考えられる。また自営業で金をかりると、通常銀行が保険をかけてくるはずなので廃業しなければならないほどの致命的な疾患を負った場合、そちらで借金が支払われる可能性が高いのでは無いか。
つうか保険って勝つためじゃないでしょ。大負けを防ぐためじゃないの。
大負けを防ぐための仕組み「高額療養費制度」が既にあるので大負けはは無い。そのような状況で保険をかける意義があるのか、と言う話。
2回目以降の保障が欲しいのは同意だけど、それが1回目の保障も不要とはならないでしょ?増田も自分で書いてある通り、高額医療費だけじゃカバー出来ないんだよ。
賭けられる資金は一定であると言う事を無視されては困る。1回目のリスク、2回目のリスク。どちらがより大きなリスクであり備える必要があるかと考えたとき、かけらるリソースを考えたときどう適切か。そして多くの保険は高額療養費制度への無知・誤解を利用してバランスが悪い商品になってしまっている。こう言ったものは役に立たない。
1回目の保証については普通に生活している分には賄えるように制度設計がされているので高額療養費制度でほぼ足りる。低所得者の場合、高齢者世帯なら最小負担額1万5000円、70歳以下だ34500円まで減額される。また臨時の資金需要には、生活福祉資金貸付制度もある。これらの制度があっても一時的に払わなければならない自己負担額が賄えない場合ならば、このような形態の保険でも有効だろう。しかし、そこまで困窮している世帯に月々の医療保険料を支払う余裕があるのか、と言う根本的な問題があり、ここにゆがみがある。
なんか論旨が行ったりきたりしている。死因と医療保険は微妙に関係ないと思うし・・・必要な保険の姿をちゃんと考えてるのはいいと思うけど医療保険じゃないものも含まれてるし
いろいろと伝えたいことがあるので詰め込んだら分かりにくかったかも知れないが、多くの方は理解してコメントを残してくれているので、読んでみて欲しい。
死にそうな病気ほど金がかかるのが現代の医療なので死因と治療に高額な金が必要になる。脳卒中は近頃、患者数の低下以上に死亡者数がが低下しているがこれは高度化した医療によって救われているが、高度化した医療はタダではない。では手遅れの場合はどうなるか。癌などの場合はホスピス医療が保険医療に含まれていて推進されている。これからさらに広まることだろう。
医療保険ではないものが含まれているとあるが、医療保険がおかしいと言う話をする時、現状の医療保険の枠内で語らなければならないと言う制限は適切では無いと考える。
http://stats.oecd.org/index.aspx?queryid=36324
しかしスペインとギリシャ本当にひどいな。革命が起きるレベル。
調整失業率(Harmonised unemployment rates)の定義
http://stats.oecd.org/mei/default.asp?lang=e&subject=10
http://stats.oecd.org/glossary/detail.asp?ID=2795
以前は標準化失業率(Standardized unemployment rates)と呼ばれていたけど2009年に名前が変わったそうだ。
>OEDCの定義でも、失業者数とは何か?が国によって違うから、標準化はされてないだろ。
だから国ごとに定義したものじゃなくてOECDが決めた同一基準で各国の失業者をカウントしたのを標準化失業率と呼んでるんだよ
情報の伝達コストが下がり、蓄積のコストも下がっている現在、すごく奇妙な経験をしている。
この文章どこかで読んだぞ、とかそういうことである。
まあ、昔からだよと言われたらそうなのだけど、この奇妙さを伝えるために実例を挙げてみようと思う。
たとえばコピペ。面白いコピペスレで同じコピペを何度読んだだろう。
たとえばアインシュタインの写真のイメージ。舌を出したイメージがある人は多いけど、それ以外の写真を知っている人はどのくらい?
相対性理論について「女の子とストーブ~」のたとえが以外を知っている人はどのくらい?
エジソンといえば・・・ほかの人は知らないであろうエピソードとかを知ってる方いますか?
何度も何度も何度も何度も、同じエピソード、同じ写真、同じ切り口、・・・というのを体験している。
ソースの少なさが原因だ。ネットに限らず、書籍とかについてもいえる。
先日「Flashエンジニアが今後10年食べていくには?」というテーマを元に
Flash に精通した Web 技術者達のディスカッションが行われる催し物があった。
http://www.publickey1.jp/blog/11/flash10.html
この記事だけでは内容が省略しすぎているため
時間があれば是非録画の模様もみていただきたい。前半初頭は音量が小さいので注意。
こういった催し物は面白いなと、私はとても楽しく見させていただいた。
http://www.ustream.tv/recorded/19073524
http://www.ustream.tv/recorded/19074357
ディスカッションでは Flash だけではなく HTML5 についても触れている。
ディスカッションの感想をディレクションや営業を行なっている知人に聞いたり、
ネット上の反応を見てみたところ以下のような意見がいくつかあった。
「『Flash が好きな人』だけではなく HTML5 派の人との対談もあればよかった」
「Flash 派の人の話だから HTML5 が使えないという話はいまいち参考にならない」
『Flash 派』『HTML5 派』という くくりで考えてしまう人は
まだまだ多いと実感する。
パネリスト達は
過去から現在までに様々なプログラミング言語を利用し、あらゆる技術に精通している。
Flash という表示媒体/環境開発がベター(時にはベスト)だと考え、
Flash をよく扱っている、という旨を話している。
最後の締めとして
Flash よりも優れたものが登場するのであればそちらに移行するでしょう、
とも言っている。
これだけの説明があったのに
ディスカッション内で触れた HTML5 に対する否定的な話は、
『Flash 派』とやらのポジショントークだと目に写ってしまったのだ。
Java やら C やら objective-c やら perl やら php やら
サーバサイドからスマホ用ネイティブ言語を用いてのアプリ制作まで
色んな事やってます、と言っても
現在世の中には HTML5 を推し、合わせて Flash を否定する記事が結構出回っている。
技術者が話す専門的な用語の飛び交う話よりも
HTML5 vs Flash 的な読みやすい記事に耳を傾けてしまう人はいる。
Apple 製品を好む人は「ジョブズがそう選択したのだから」と
なおさらこういった記事に目を向けてしまう。
「Flash vs HTML5 の話にのせられてしまうのは、よくわかっていない人だ。」
ディスカッション内では、
ネット上の煽り記事を読み不安に思ったクライアントから連絡を受け
きちんと状況をゼロから説明するハメになってしまった、という内容があった。
似たような状況になっている人もいるのではないだろうか。
当方周辺では、
「Flash は駄目だ」「Flash でなくても HTML5 ならできるはずだ」
「HTML5 は Flash の代わりになるものだと言われている」と
クライアント、あるいは仕事先の関係会社から耳にする機会が増えてきた。
技術者の及ばないところで
ベターではない技術が選択、あるいは勧められてしまう やっかい性。
その記事は世間の目には届かない。
TV CM でバンバン流れている iPhone や iPad では Flash を見ることができない
という状況に乗じた
勘違いを正すためには、今までよりもより一層
あるいはメッセージを発信するよう心がけていかねばならないと感じる。
パネリスト達のような
Flash を扱う事が可能な技術力を持ち合わせている人にとって
Flash が終わろうが、代わりの技術が HTML5 やらその他何になろうが
大した影響はない。
『プログラミング』についての話をしてみる事にする。
「世にあらゆるプログラミング言語があるが
「何か一つ言語を習得し
『Flash の事は全く知らないがプログラミングプロフェッショナルの人』
が近くにいるならば是非上記について伺ってみてほしい。
その通りだと答えてくれるはずだ。
他の言語で作ったものを Flash のプログラミング言語に移植することも容易いのだ。
ここで上記三行の「他の言語」を「JavaScript」に置き換えてみてほしい。
HTML の DOM 操作に必要な言語は JavaScript である。
言語は、Flash ならば ActionScript、HTML5 ならば JavaScript を用いる。
画面描画は
あるいは用意されている描画用 API を ActionScript で呼び出し、
あるいは用意されている描画用 API を JavaScript で呼び出す。
Flash と似たような技術として Java Applet や Shockwave があるが、
これらも一緒で
言語を変え、その技術に合わせた描画を行う処理を記述するだけだ。
Web 技術者が何かに属していて、何かには属していないかのような区別の仕方は
的がはずれている事を なんとなく感じていただけただろうか。
仕事に対し、あるいは表現したい事に対し、ベターな選択を行うだけの事なのである。
環境や表示内容に合わせ両方を採る選択もあるだろう。
パネリストの中に ActionScript が好きだ、という人がいた。
これは別に
Flash が好き(製品のファン)だから ActionScript が好き、と言っているのではない。
ActionScript が優れたプログラミング言語だと判断しての発言なのだ。
HTML5 を選択するだけの事であり、
その別の技術を選択し、
Flash より優れた技術が登場しなければ Flash を使い続ける、
ただそれだけの事なのである。
もう少し突っ込んだ話をすると
Flash のプログラミング言語である ActionScript(ActionScript 1.0)と
HTML 表示制御を行う言語 JavaScript は 実は同じ言語仕様である。
『ECMAScript』という単語で調べてみてほしい。
「Flash と HTML5 は対立するもの」と考えていた人、
あるいは ActionScript や JavaScript を触れたことがない人にとって
「え?そうなの?」と思う人もいる事だろう。
JavaScript は大規模開発に向いていない、という話は聞いたことがないだろうか。
同様の言語仕様である ActionScript 1.0 はこの問題を解決するため
ActionScript 2.0 から ActionScript 3.0 へと進化していった。
Flash は開発がし易い、という話がよく挙げられるが
その理由の一つがこれである。
現行の JavaScript と ActionScript 1.0 は ECMAScript 3 準拠に対し、
ActionScript 3.0 は ECMAScript 4 準拠である。
言語として進化しているものを Flash は採用しているので
開発は抜群にし易い。
ECMAScript 4 準拠の JavaScript も登場する日もあったかもしれなかったのだが、
ECMAScript 4 標準化が白紙、
ECMAScript 4 は無かったことになってしまったのだ。
ActionScript 3.0 で作成したプログラムが
ちなみに JavaScript は大規模開発に向いていない、という事に対し、
最近では Google が新言語 Dart というものを開発している。
位置づけとしては ActionScript 2.0 に近いと比喩した人もいる。
ActionScript 2.0 はコンパイル時 ActionScript 1.0 に変換されて出力される。
Dart も同じく JavaScript 変換機能を持つ。
先の事は誰にもわからない。
HTML5 が成長するとは必ずしも言えない。
技術者は身を持って知っている。
表示と動作の差異、技術者はずっと苦しめられてきている。
めんどくさい。コストがかかる。
HTML5 も同じ道を辿るのでは、と言われてしまうのも仕方がない。
実際に HTML5 の各ブラウザの実装具合はバラバラである。
Flash はといえば、
今でも 10年以上前のスクリプト言語 (ActionScript 1.0 よりも前の言語)で
Flash が動作するブラウザがいつまで携帯に搭載され続けるのか、
まだ誰にもわからない。
今後も当面携帯向け Flash を作り続ける事になるのかもしれない。
携帯向け Flash は一つの容量が小さいというのが救いである。
IE6 対応 HTML サイト制作にせよ、携帯向け Flash 制作にせよ
状況に応じて何を選択するかを判断できるほどの技術力を身につける事
選択する技術に何ができて何ができないのか、
どの技術を組み合わせるとよいのか、
自ら判断できるようになった時、一人前の Web 技術者になったと言えるだろう。
一つ何かをモノにしてしまえば前述の通り移行は容易い。
それを極めるくらいまでとことん勉強してほしい。
続けていくと見えてくるはずだ。自信という名の悟りの道が。
気になった点をいくつか。
現状の HTML5 の実装具合のバラバラさに対し、
「(HTML5の)表示の差分を埋めてくれる何かが登場するかもしれない」
と言う発言があった。
言った当人も会場にいる人達も、きっとこう思っただろう。
「それってなんて Flash Player?」と。
「あれはやめたほうがいい」という発言があった。
勝手に注釈するのであればこの発言は
「Flash で作られた重たい Web を HTML5 でまた再現するつもりなの?」
という皮肉であろう。
講演一発目。
ソフトバンクモバイルの中山五輪男(いわお)さん。iPhoneの販推をやっている「シニアエヴァンジェリスト」だ。
現在、割合の25%超を占めているのが卸・小売業、次いで20%のメーカーである。
メーカーとしては製造現場にて指示書がペーパーレス化したり、営業のプレゼン媒体になったりしているとのこと。
一方、金融機関としては試験導入中の期間が複数あり、今年以降に爆発的に増える見込み。
スマートデバイスの契約数はますます右肩上がりに増えていく見込みである。
紙、デジタルサイネージ、薬の包装、音楽、映像からアプリを通じてwebに接続できる。
セカイカメラがARのひとつ。ドラゴンボールのスカウターみたいに、現実世界に外部から呼び出した情報を付加する。
http://tm.softbank.jp/business/white_cloud/videos/smartcatalog/
CA用の研修マニュアルは3冊2.1kgしていたものをiPadにすることで0.7kg(おそらくバッテリーは除く)にした。
この研修マニュアルは搭乗するたびに持ち込む性質のものらしく、軽量化はありがたい話。
また、電池の持ちがよく、ウイルスもゼロ件(ご存知Androidは質の悪いアプリにウイルスが潜んでいる)
浄水施設の点検をペーパーレス化、点検項目の漏れのチェック機能をつけている。
テクノツリー社という小さな会社が製造・流通のマニュアル作成に長けているとのこと。
(6)HOYA (SUNTECH)
感光式のサングラスで色の変化スピードを説明するときにビジュアライズすることで、営業説明と使用感のギャップが減ったらしい。
(口頭説明ではわかりにくく、事後的なクレームが多かった)
(7)AIU保険
東日本大震災の損害調査として米本社からiPadが送られ、SmartAttackというシステムを活用。
割愛
(9)BMW
iPad(280台)によって営業4-5日から1.5日減でクローズ
顧客とのコミュニケーションとして、車の外装・内装のシミュレーション、仮想の工場見学などを行える。
割愛
thinkpadを全部iPadにリプレース。営業のツールとしてアプリや映像を活用。(個人に営業トークに頼らず、営業フローを標準化したと言える。)
Microsoft ExchangeやOutlookは全部Google App (26000 ID)にする予定。BCPとして日本にサーバを置いてられない。
http://tm.softbank.jp/business/concierge/dm/
(14)iPhone 4S
「Siri」が特徴。業務システムに応用されるというのが講演者の予想。
twitter:@iwaonakayama
二発目。ヤマサのマーケティングの話。「(自称)超成熟マーケット」の醤油。
Facebookやtwitterなどあらゆる媒体を使って、消費者を包括的に網羅して360度にアプローチしようと試みていた。
消費者は中身を知りたがっているのであり、メーカーの中身を見せて、コミュニケーションをとれば、味方につけられるようだ。
三発目、DNPのC&I事業部(Communication & Information)メディア・コンテンツ本部の講演。
後段はB2Cにソーシャル・メディアを用いてアプローチするノウハウをDNPが持っているという話。
たしかにソーシャル・メディアによる販促は効果測定が難しい。そのノウハウを仮にDNPが持っているのならば素晴らしいことだ。
果たしてソーシャル・メディアはB2Bに使えるのか。会場から質問が出た。
回答はB2BでもB2Cと本質は同じであるという。しかし、それは本当であろうか。
たとえば、車のボンネットが新日鉄製であろうがJFE製であろうが消費者にとってはどっちでもいいんではないだろうか。
わからん。
Google が公表したオプトアウトの方式は「アクセスポイントの所有者に対して、名称 (SSID) を末尾が " _nomap " で終わるように変更することを求める」もの。たとえば SSID が " Jitaku_AP " だった場合、無線LAN機器の設定から " Jitaku_AP_nomap " に変更することになります。
ブコメには「Googleが勝手に盗んだのにこっちがオプトアウトしなきゃいかんとは何事だ」というものが多いが、それらは問題を根本的に誤解している。
(もしかすると総務省、ストリートビュー車の無線LAN傍受でGoogleに指導。再発防止策と日本語で周知を要求 -- Engadget Japaneseの件と混同している人がいるのかもしれない。これはビーコン信号ではなく通信内容そのものを傍受していたという話で、基本的には別件である――但し、法解釈によっては同じ問題ともなり得るし、根底に共通している部分はある。これは論点がズレるので、ここでは完全に別件として扱う)
そもそもの問題は、Wi-Fiの仕様において、Wi-Fi機器のMACアドレスが強制タレ流しになっていることにある。これは例えばSSIDステルスの設定でも止めることはできない。
つまり、あくまでGoogleは垂れ流されている情報を集めたに過ぎないということである。垂れ流されているものなら勝手に集めてもいいのかという論点はあり得るが、その点についてはGoogleだけを責めても全く意味がない。誰であれ収集は可能だからだ。「しかし、他の誰がそんなことをするのか?」との反駁には「はい、PlaceEngineがしています」が答えになる。仕組みは全く同じだ。PlaceEngineは、Googleのような巨大企業でなくてもこの技術を商用レベルにまで持って行けるということを既に証明している。
つまり、この問題は「GoogleのDBから削除してもらう」だけでは全く解決しない。
(追記: どうもこの節の表現は誤解を招いたようだ。「できるからやってもいい、Googleは悪くない」という意味ではない。その議論があること、今後も必要なことは承知の上で、そもそも「できる」こと自体が根本的な問題であり、しかも各国の現行法において確実に違法な行為ではないということが重要だ。何度でも言うが、Googleを憎んでも問題は全く解決しない。あくまでここでは問題の本質を理解することと、現実的で効果的な解決方法について考えたい――もちろん、GoogleやAppleやMSなどを相手取って世界中で訴訟を起こす、というのも一つの手だろう。今のところ強制力を持ちたいなら勝訴の判例を作るしかないし、勝訴すれば抑止力を備えた最強の解決手段になる。どうぞ。)
(a) 「申し出のあったMACアドレスは削除し、今後も登録しないようにする」という対応
技術的にはすぐにでも対応可能。ただし、本人以外の手によって無差別に大量のアクセスポイントを削除するという妨害行為を防止できないかもしれない。
PlaceEngineを利用していない人(PlaceEngineの存在さえ知らない人を含む)に対して、そのような手段が用意されていることを周知しなくては問題は解決したといえず、十分な周知は困難と思われる。
新たなアクセスポイントを購入するごとに削除手続きをする必要があることについて納得しない者が、「私のものは登録するな」という主張で争ってきたら対応できない。
(b) 「SSIDステルス設定にしているアクセスポイントは、登録拒否の意思があるとみなして、登録しない仕組みとし、また、既に登録されているものは次回検出時に自動的に削除されるようにする」という対応
技術的には容易に可能。しかし、そのような仕様であることを周知しなくてはならない。PlaceEngineを利用していない人(PlaceEngineの存在さえ知らない人を含む)に対して周知しなくては問題は解決したといえない。
(c) 「暗号化設定されているアクセスポイントは登録せず、他は削除する」という対応
暗号化していないアクセスポイントは特定の相手方に対してのものではないとみなすことで、電波法59条の問題をクリアできるかもしれない。
しかし、これを採用すると登録アクセスポイント数が減ってしまい、位置の測定制度が低下する。
(d) 所有者の同意を得たアクセスポイントしか登録せず、他は削除する」という対応
まず、ブコメで要求されているような「オプトイン」の仕組みは(d)だが、これは実現性に乏しいと考えられる。どうやってオプトインするんだという問題もあるわけだが、そもそも「誰でも収集できる」のだから、個別にオプトインなど根本的に不可能であるし、無意味でもある。例えGoogleが独自にオプトイン方法を用意したとしても本質的な問題は全く解決しないばかりか、ユーザに「Googleでオプトインしなければ安心」という誤解を与えかねないという懸念もある。
(b)や(c)についてはサービスプロバイダ側の設計の問題であり、ユーザは関与することができない。
今回Googleが提案した方法は、(a)の改良型(あるいは(a)~(c)のハイブリッド)というべきものである。再掲。
Google が公表したオプトアウトの方式は「アクセスポイントの所有者に対して、名称 (SSID) を末尾が " _nomap " で終わるように変更することを求める」もの。たとえば SSID が " Jitaku_AP " だった場合、無線LAN機器の設定から " Jitaku_AP_nomap " に変更することになります。
オプトアウトという意味では、(b)のSSIDステルス法も同様である。それよりも_nomapが優れているのは、これが「うちのAPをマッピングしないでくれ」という明確な意思表示となるからだ。
SSIDステルスや暗号化をオプトアウトフラグとして扱うかどうかは単に実装に期待するしかないが、_nomapがデファクトになれば、万一オプトアウトが実装されずにマッピングされた際「俺は一般的に合意されている方法でマッピング拒否の意思表示をしていたぞ!」と法的に主張できる可能性がある。Wi-Fiの規格に変更を加えるものでもなく、この用途以外に意味を持たないことから、デファクトとして広まりやすいだろう。確かにSSID変更が困難なケースは考え得るが、しかしこれ以上に簡単な代案は私には考えられない。
解決しない。
ここに挙げたどの方法を採ろうとも、原理的に「サービスプロバイダのマナー」程度にしかなりようがないからだ。オプトインですら、である。robots.txtを無視するクローラを根絶することができないことにも似ている。そしてそれは、Googleの責任ではないし、Googleに責を負わせても全く意味がない。
最初に述べた通り、そもそもの問題は「Wi-Fi機器がMACアドレスをタレ流しにしている」ことであり、これはWi-Fiの仕様改訂で対応しないとどうしようもない。また、対応したとして、新方式へ完全に置き換わるまでには気が遠くなるほどの長い時間が必要だろう。WEPすら未だに根絶できないというのに。
また、Wi-FiはMACアドレスをタレ流しているぞ、これは防げないぞ、という啓蒙ももっと必要だろう。一般ユーザには何のことやらさっぱりわからないと思うが、それでも啓蒙しないよりはマシである。
一つ付け加えるなら、個人的には、デファクトとなり得るオプトアウト方法を提示したGoogleさんはもうちょっと褒められてもいいと思う。これはAppleやPlaceEngineが今までしてこなかったことだ。
ちなみに、Google Location Serverでは既に「2つ以上のMACアドレスがDBとマッチしないと位置情報を返さない」などの様々な対策を実施済のようである。これにより、もしMACアドレスやSSIDが漏れたとしても、その所在地をこんな方法で正確に掴むことは困難になっている。PlaceEngineは知らない。
もう一つ。この問題は、Wi-Fiだけに起こりうる問題ではない。ひろみちゅ先生は本来この問題をRFIDの普及によって起こりうる問題として予測していたそうである。この辺りもっと知りたい方はgoogle:高木浩光 PlaceEngineとかして勝手に読んでください。
PlaceEngineより、Googleの提唱する_nomap方式のオプトアウトに準拠する旨のリリースが出た。
PlaceEngineデータベースにおける無線LANアクセスポイント(AP)情報の取り扱いについて
Google社から、Google Location Service のWi-Fi位置情報データベースから無線LANアクセスポイント情報を削除するためのオプトアウト方法(SSIDに"_nomap"文字列を追記する方法)が公開されました。
PlaceEngine サービスにおいても、Google社のオプトアウト方法に準拠する形でPlaceEngine位置推定データベースから該当するAP情報を削除する運用を実施する予定です。具体的な実施時期や運用方法については、別途お知らせします。
また、PlaceEngineサービスにおいては、以前より、主にモバイルルーターなどに対応するため、オプトアウト(削除)したいMACアドレスをサポート窓口へ送付して頂く方法などをとっておりましたが、こちらについても引き続き運用していきます。(「位置推定の改善」をご参照ください)
これこそがまさにGoogleの狙った効果だ。素早くデファクトになり得る。すると次の段階として、Wi-Fi機器の製造者が設定画面に「☑位置情報サービスからオプトアウトする(SSID末尾に_nomapを付加する)」のような項目を用意することが標準化する、などといった流れに進むことも期待できそうだ。これには一層の啓蒙活動が必要になるが、十分に現実的な範囲だ。
そして、「Wi-Fiだけの問題ではない」と書いた通り、あっさり同種の別問題が持ち上がってきた。今後、この手の問題はゴロゴロ出てくるだろう。そもそもどこまでが許される範囲でどこからが許されないのかといった大枠の議論も含め、どんどん問題にして世界中で合意やルールを形成してゆく必要がある。先は長い。
最近どうもニュースを見てもネットを見てもTPPに対する議論が噛み合っていない。
色々と見ていて歯がゆいので、自分なりに賛成、反対を整理します。
とりあえず賛成のほうから。
賛成意見
経済学的には自由貿易がそれぞれの国の厚生を上昇させることは自明である。
さらに 例え自国の関税だけを下げ、輸入のみが増えても更生は増大する。 詳しくはリカードモデルでも読んでください。
生産者の失う利益を考えても、消費者がより安い価格で買えるという利益のほうが大きくなる。
いまのFTAは関税だけではなく、投資やサービスの自由化、貿易円滑化などの非関税障壁に対する規定が含まれている。
このWTOのような既存の枠組みでは議論が十分に進んでいない規定はまだ標準化できていない。
TPPでこれらの条項を整備し、より包括的な貿易協定を組むことによってこれからの貿易協定のベンチマークとする。
将来のスタンダードとなりうるかもしれないこれらの規定に対して日本の意見を反映させる意義は大きい。
さらにTPPで決定された基準をデファクトスタンダードにすることによって、中国をその規定に従わせられないかと考えている。
おそらく賛成派の人が主張するメリットは主にこの二つだと思います。
というか苦手だ。拒否したい。拒絶まではいかないけど、少し間を開けていたい。あんまり意識して関わりたいとは思わない。
べつに一匹狼を気取りたいわけじゃない。俺ってみんなは違うんだぜって、馬鹿みたいに威張りたいわけでもない。
まあみんなというか、大衆と呼ばれるものについてなんだけども。自分は大衆が猛威をふるうさまが嫌いなのだ。そんなこと中々起こりえないかもしれないけれど、想像するだけで醜悪だし、怖いし、仮に起こったとしてそこで判別された物事は正しいのか疑問視してしまう。
とりわけ大衆に価値基準が委ねられているなんて状態を想像すると最悪な気分になる。創作物にしても、流行り廃りにしても、政治動向についても、大衆が実権を握るような状態は拒否したい。心の底からお断りしたい。
拒みたい理由は、なにも大衆が正しくないからだとか、大衆が愚かだからなんて思っているからじゃない。物事の尺度が大衆に委ねられて既成事実化していってしまうのが怖いのだ。
大衆は間違えても責任を負わない。大衆は、そのくせ何でもかんでも正しく判断しようとする。圧倒的な数を誇って、どんなことをも精査しようとする。
究極的に言ってしまえば、価値基準の画一化にさえ繋がりかねない。寄って集ったみんなが、結果として大衆の意思を決定し、挙句大衆の支配下に置かれるなんてこともあるかもわからない。
そんなの嫌だ。みんなの意見が平均となって意思となるのか、偏った意見が流れを切り開いて意思となるかはさておくとしても、
そんな状況はお断わり願いたい。広まりきった価値観はつまらないのだ。大衆が認めた、大衆にだけ有益な物事なんて詰まらなくて堪らないと思う。
だから、芥川賞とか、レコード大賞とか、アカデミー賞とか、そう言った様々な権威について、大衆には意見を言う資格はないと思う。
そう言った物事は、狭い領域で少ない人数で偏った人選で語られて然るべきだ。大衆の意見なんて無視して。薄暗い蛸壺の中だけで判断したほうがよっぽど面白い。
例えその結果を理解できなかったとしても、そういうものはそういうものとして咀嚼できる。不味くたって、珍妙な味がしたって、それはそれとしてひとつの経験となる。
でも、大衆が精査し、大衆に迎合されるべき、大衆宛の結果が出るようになっては悲しい。自分好みの味だけ出されたって、結局は大衆という名の馬鹿でかい蛸壺内での嗜好にすぎない。
大きすぎる蛸壺一個の価値観に合わせるよりは、個々の小さな蛸壺から得られる発酵物のほうがよっぽどいい。素敵だ。
無論、大衆文化を嫌悪しているわけではない。大衆に向けらた発信物はわかりやすいし、素直に面白い。
加えて経済的な問題もある。みんなの意見や首肯という要素は、決して無視できないほどに重要である。
ただ、過度に効率を重視した大衆に向けられた発信物は、結局のところ大衆の増長に繋がりかねない。増長を重ねた大衆って、きっといろんな場面で禍根を生むと思う。
みんなが大衆の意思によって苦しくなるのだ。そんなのっておかしいと思うし、不健全だと思う。だから、大衆に餌を与え過ぎちゃいけない。大衆が育つ土壌を作ってはならないと思う。
グローバルスタンダードとか標準化とか、極々ありふれた広い範囲での規約が力を持つのって、すごく怖いことだ思う。
経済産業省が2010年6月に発表した「エネルギー基本計画」のPDFファイルから「第3章.目標実現のための取組 / 第2節.自立的かつ環境調和的なエネルギー供給構造の実現 / 2.原子力発電の推進」(p.27-34)を引用。読みやすいようにフォーマットだけ変えました。
脱PDF!
原子力は供給安定性と経済性に優れた準国産エネルギーであり、また、発電過程においてCO2 を排出しない低炭素電源である。このため、供給安定性、環境適合性、経済効率性の3E を同時に満たす中長期的な基幹エネルギーとして、安全の確保を大前提に、国民の理解・信頼を得つつ、需要動向を踏まえた新増設の推進・設備利用率の向上などにより、原子力発電を積極的に推進する。また、使用済燃料を再処理し、回収されるプルトニウム・ウラン等を有効利用する核燃料サイクルは、原子力発電の優位性をさらに高めるものであり、「中長期的にブレない」確固たる国家戦略として、引き続き、着実に推進する。その際、「まずは国が第一歩を踏み出す」姿勢で、関係機関との協力・連携の下に、国が前面に立って取り組む。
具体的には、今後の原子力発電の推進に向け、各事業者から届出がある電力供給計画を踏まえつつ、国と事業者等とが連携してその取組を進め、下記の目標の実現を目指す。
まず、2020 年までに、9基の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用率約85%を目指す(現状:54 基稼働、設備利用率:(2008 年度)約60%、(1998年度)約84%)。さらに、2030 年までに、少なくとも14 基以上の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用率約90%を目指していく。これらの実現により、水力等に加え、原子力を含むゼロ・エミッション電源比率を、2020 年までに50%以上、2030 年までに約70%とすることを目指す。
他方、世界各国が原子力発電の拡大を図る中、原子力の平和利用を進めてきた我が国が、原子力産業の国際展開を進めていくことは、我が国の経済成長のみならず、世界のエネルギー安定供給や地球温暖化問題、さらには原子力の平和利用の健全な発展にも貢献する。また、我が国の原子力産業の技術・人材など原子力発電基盤を維持・強化するとともに、諸外国との共通基盤を構築するとの観点からも重要である。こうした認識の下、ウラン燃料の安定供給を確保するとともに、核不拡散、原子力安全、核セキュリティを確保しつつ、我が国の原子力産業の国際展開を積極的に進める。
なお、我が国は、今後も、非核三原則を堅持しつつ、原子力基本法に則り、原子力の研究、開発及び利用を厳に平和の目的に限って推進する。
事業者は、高経年化対策を着実に実施するとともに、既設炉の将来的な廃止措置や代替炉建設の必要性も踏まえた計画的な新増設・リプレースを進め、国はこのための投資環境の整備に努める。また、国は、発電所の建設に伴う連系線や送電線の建設・増強等に係る環境整備等の対応について必要に応じて検討を行う。さらに、既設炉の有効利用を図るため、定格出力を含めた出力向上について、事業者は、日本原電東海第二発電所における導入を進めるとともに、他の発電所への展開も検討する。なお、将来的に、日々の電力需要の変動に合わせて出力を調整する運転の必要性が高まってくる段階では、そうした運転が安全かつ確実に実施されるための要件等について検討を行う。
設備利用率の向上については、安全安定運転の実現・継続と立地地域等の理解が基本である。事業者は、自主保安活動等に取り組みつつ、新検査制度の下、段階的に長期サイクル運転の実現を目指すほか、運転中保全の実施を順次開始する。
また、日本原子力技術協会による発電所の運営実績評価や国による保安活動の総合評価等を踏まえ、事業者間でのベストプラクティスの共有や運転管理等の改善を促進する。さらに、国は、熟練の技術や豊富な経験を有するシニア人材を活用すること等により、大学や高等専門学校の教育の質的向上や民間企業や研究機関との連携を強化するなど、原子力人材育成プログラムを充実させる。
以上の取組により、安全安定運転の実現・継続の結果として、2030 年に、設備利用率約90%(例えば、平均18 か月以上の長期サイクル運転、平均2か月程度以内の定期検査による発電停止期間)となることを目指す。
また、国は、これらの事業者の取組を後押しするために必要な支援を行うとともに、エネルギー供給構造高度化法に定める判断基準の活用を通じ設備利用率向上や新増設等を推進することを検討する。
また、我が国は、2030 年前後に見込まれる既設炉のリプレース需要の本格化に対応し、安全性・経済性・信頼性等に優れた国際競争力のある次世代軽水炉の開発に、官民一体となって取り組んでいる。これまで行ってきた概念設計検討、要素技術開発等を踏まえ、次世代軽水炉の円滑な開発・導入を促進する。
このため、次世代軽水炉開発に関する中間的な総合評価を踏まえ、国、事業者、メーカーが連携し、新技術の具体的な導入計画を2010 年度中に明らかにする。国・事業者・メーカーは、中間的な総合評価において魅力的なプラント概念と評価されること等を条件に、次世代軽水炉を有力な候補と位置づけた導入見通しを2010 年度中に明らかにする。
新増設・リプレースの推進や設備利用率の向上に限らず、原子力発電の推進を円滑に行うに当たっては、地域の実情等に応じたきめ細かい広聴・広報などを通じて立地地域の住民や地方自治体との相互理解を促進する必要がある。その際、原子力発電施設等と地域社会との「共生」を目指して、国・地方自治体・事業者が適切な役割分担の下、相互に連携・協力することが重要である。
このため、国は事業者と連携して、立地地域住民の声に耳を傾け知りたい情報は何かを把握し(広聴)、それを踏まえて原子力の必要性・安全性等について情報提供を行う(広報)活動の充実を図る。その際、立地地域住民との「信頼関係の構築」により重きを置き、双方向性を強化する。具体的には、国及び事業者は、地元のオピニオンリーダーの活動支援、立地市町村はもちろんのこと道県庁所在地を始め立地道県の他地域も視野に入れた立地地域向け広聴・広報活動を行う。
また、事業者は原子力発電施設等の運営の将来ビジョンを持ち、地方自治体の持つ地域の将来像に関するビジョンも踏まえ、地方自治体等との相互理解を得るよう努める。国は、地方自治体との間で、原子力が有する国家レベルでの政策的重要性について認識の共有を深めるよう努め、国、地方自治体及び事業者との関係について不断の取組により、より望ましい関係の構築を目指す。
原子力政策の安定的な遂行のためには、広聴・広報活動等を通じた、立地地域のみならず国民全体との相互理解の向上が必要不可欠である。
国は、情報の受け手に応じたきめ細かい広聴・広報活動による国民全体との相互理解の向上のため、国がより前面に出て双方向性を強化するとともに、事業の波及効果の向上を図っていくとの観点から、国の原子力広聴・広報事業のあり方を検討する。また、小・中学生などの次世代層について、将来、原子力を含むエネルギーについて自ら考え、判断するための基礎をはぐくむため、原子力教育支援事業やその他広聴・広報事業を推進する。
電源立地交付金(電源立地地域対策交付金を始め電源立地地域の地域振興を目的とする一連の交付金)は、次の二つの性格を持ち合わせている。第一に、立地段階については、設備の設置を円滑化するために、交付金制度が創設された経緯があり、現在も交付金額が厚めになっている。第二に、運転段階については、運転の円滑化を図るという観点から、より多く発電した立地地域に対して、より多くの交付金を交付することが基本であり、発電電力量の多い発電所の立地地域の一層の理解が得られる制度であることが重要である。
今後、現行の電源開発促進税の制度の下では、課税標準である販売電力量及び税収自体の大幅な増加が見込めず、電源立地交付金財源の大幅な伸びが見込めない中、安全確保を大前提としつつ、この性格をより明確化するために、原子力発電所の新増設・リプレース、核燃料サイクル施設の立地を促進するためのさらなる方策を検討する。また、発電所の運転段階において、設備容量及び発電電力量により交付金額を算定しているが、算定に当たり発電電力量に傾斜配分する見直しを検討する。なお、その場合も、自然災害等で発電ができない場合に交付金額が大幅に減少することとなるのは制度の趣旨に反することから、現在も制度として存在している「みなし規定」は存続する。
原子力安全規制を充実させ、安全確保を一層確固たるものとしていくためには、安全規制の現状をしっかりと見据えた上で、新たな課題へ持続的に対応していく必要がある。そのため、安全規制を取り巻く近年の大きな環境変化を踏まえた上で、必要な取組を実施してくことが重要である。
具体的には、安全審査制度における品質保証の考え方の取り入れや検査制度における品質保証の取り入れの拡充、大きな地震動を受けたプラントの点検方法の標準化・マニュアル化、トピカルレポート制度(*28)の対象分野の拡充、リスク情報の活用方策等について検討する。また、運転中保全について、安全性への効果と影響、リスク情報の活用の考え方等の整理を含め、速やかに検討する。
さらに、国民の理解と信頼を得つつ安全規制を的確に実施していくためには、立地地域の自治体・住民や産業界を含む様々な利害関係者との間のコミュニケーションを一層充実させることが重要である。このため、安全規制の効果的な実施、規制課題への取組の推進等のため、規制当局と産業界との対話を継続的に深化する。国は、立地地域の関心が高い個別の安全審査・検査等の案件については、規制活動の結果の説明にとどまらず、規制プロセスの途中段階における利害関係者とのコミュニケーションの拡充について検討する。
原子力防災対策については、引き続き、万が一の原子力災害に備えた対応機能に万全を期すとともに、原子力施設の防護体制については、最新の国際基準に沿った核物質防護措置を講ずる。
使用済燃料を再処理し、回収されるプルトニウム、ウラン等を有効利用する、核燃料サイクルは、限りあるウラン資源の有効利用と高レベル放射性廃棄物の減量化につながる、エネルギー安全保障上重要な取組であり、我が国の基本的方針である。
2009 年12 月に我が国初のプルサーマルによる営業運転が九州電力玄海原子力発電所で始まったことは、我が国の核燃料サイクル確立に向けた重要な一歩である。核燃料サイクルは、それを担うそれぞれの施設の状況が相互に関連していることから、全体を俯瞰しながら、立地に要するリードタイムも考慮し、個々の施策や具体的な時期について、状況の進展に応じて戦略的柔軟性を保持して対応していくことが必要である。
このため、六ヶ所再処理工場の円滑な竣工・操業開始に向けて、国、研究機関、事業者等の関係者が連携し、残された技術的課題の解決に一体となって取り組む。また、使用済燃料の貯蔵容量拡大は、中長期的に各発電所共通の課題であり、中間貯蔵施設の立地に向けた取組を強化するとともに、国、事業者等の関係者は、貯蔵事業としての中間貯蔵(*29)という形態に限らず、広く対応策を検討する。さらに、プルサーマルの計画どおりの実施のため、国及び事業者が連携して、地元への申入れに向けた理解促進活動などの取組を推進する。また、MOX 燃料の輸送については、国及び事業者が、核物質防護対策や安全対策等に万全を期する。なお、六ヶ所再処理工場に続く再処理施設について引き続き取組を進める。
高速増殖炉サイクル技術は、我が国の長期的なエネルギー安定供給等に大きく貢献するものであり、早期実用化に向けた研究開発を着実に進めることが重要である。2010 年5月に試運転が再開された高速増殖原型炉「もんじゅ」の成果等も反映しつつ、2025 年頃までの実証炉の実現、2050 年より前の商業炉の導入に向け、引き続き、経済産業省と文部科学省とが連携して研究開発を推進する。
具体的には、高速増殖炉サイクルの実用化に関するこれまでの研究開発の成果を踏まえ、2010 年度に革新技術の採否判断等を行う。また、実用化を一層円滑に進めるため、進捗に応じたプロジェクトの進め方・役割分担等を検討する。
加えて、高速増殖炉の実用化技術の早期確立を図るとともに、将来の国際標準を可能な限り我が国が確保するため、国際協力を適切に進め、将来のエネルギー安全保障を担う国家的な基幹技術としての性格を踏まえ、我が国の自立性を維持しつつ互恵的な国際協力関係を構築する。
原子力発電の利用を拡大していく上で、放射性廃棄物の処分対策は必須の課題である。高レベル放射性廃棄物の地層処分事業については、平成20 年代中頃を目途に精密調査地区を選定し、平成40 年代後半を目途に処分を開始することを予定している。国は前面に立って、原子力発電環境整備機構(NUMO)や電気事業者等と一層連携しながら、全国レベル及び地域レベルの視点双方で、国民との相互理解を進める。
このため、地域住民や自治体が勉強のために専門家を招聘するための支援制度の創設、双方向シンポジウムの開催等の取組を通じて広聴・広報活動の充実・強化を図る。
また、高レベル放射性廃棄物等の処分事業が円滑に実施できるよう、国は高レベル放射性廃棄物の地層処分基盤研究開発に関する全体計画等にしたがって、必要な研究開発に着実に取り組む。さらに、研究開発の成果を国民に分かりやすい形で提供することにより、国民との相互理解を深める。
なお、研究開発等に伴って発生する低レベル放射性廃棄物についても、処分の実現に向け、国及び日本原子力研究開発機構(JAEA)は関係機関の協力を得つつ処分事業を着実に推進する。
(続きます)
ああ、そうか。互換性と機能性能の両方の話があるのか。
確かに、DOS/V機もDOSで使ってる分には必要ないというより互換性なくて使えなかったわけだが、Windows出ると機能をとってそっちが増えて、でも98機のDOSアプリ使ってる(それしか使わない)層には関係ない話だったけど、NECはWindows出してだんだん移行して、互換性が問題なくなってきてコスト的に不利な98機が売れなくなった。
NECがWindows対応したのは、高性能機を売りたいというのもあっただろうけど、時代の変化に乗り遅れてガラパゴス化するのを防ぎたかったというのもあるかもしれない。DOSもWindowsもMSだというのもあるだろうけど。
結果独占に近かった(エプソンいたけど)状態が崩れ、98は終焉を迎えたけど、そのタイミングは早かったのか遅かったのか。
ベンダー側も時代に乗り遅れないようにと、大きなコストをかけてもWindowsアプリ化を進めたけれど、早すぎたところ遅すぎたところ、時流に乗ったところ乗れなかったとこあったような。もう忘れた。
ま、先進的な実装→規格の乱立→収斂標準化→性能要求→先進的実装ってサイクルは早かれ遅かれ訪れるわけで、あとはメーカーとしてもユーザーとしても自分に一番良いタイミング(と相手)に飛び乗れるかってことになるか。それがいつかはわかんないけど。
かつてアップルは、ipodと同時に自社で開発した音楽管理ソフト『iTunes』を公開した。
このソフト、フリーである。音楽を簡単に管理できる。しかもmp3の変換なども非常に簡単。
有料で売っても良いはずのこのソフトを、アップルは無料で公開したのだ。
大きな理由としてアップルは、ユーザーが各自バラバラに管理していた音楽ファイルを
統一して整然とした内部構成にしたかったのだ。現に今、iTunesをインストールしているユーザーの
My MusicにはiTunesのフォルダがあるはずだ。そしてそこに、アーティスト別、
アルバム別にフォルダ分けされたmp3が入っている。整然とした内部構成を歓迎したのは、
アップルの人間だけではなかった。音楽とネットとPCが大好きな連中が、こぞってiTunesを『クール』に、選択し始めたのだ。シンプルでメタリックなGUIも良かったのだが、iTunesが流行った最大の原因は、iTunesが世界標準になって音楽ファイルの管理の最大手になったからだろう。何かがグローバルスタンダードになれば、
大勢の人がそれにあわせようとする。その方が便利だからだ。
そんな風に標準化していけば、内部の精度も上がる。結果的にiTunesは、音楽をインポートして
管理するには最適のツール、というかもはや定番になった。CDをインポートするのはiTunesで、
実際に曲を聞くときは別の音楽再生ソフトで聞いている人もいるらしい。
それぐらい、iTunesは『音楽を管理する場所』として信頼されている。
さて、出版社では今、『各自』でさまざまな試みを行っている(もっともその中の70%は現状維持だと思うが)が、
『各自』ではダメなのだ。各自ではなく、アップル様が開発したiTunesっぽい書籍管理ソフトに、みんなノればよいのだ。
そうすれば、書籍のデータも、iTunesライクに管理できる。
タイトルとかでグラフィカルに並び替えできる。PCの中で書籍データが、時に整然、時に騒然となっている様は、見ていてコレクター心をくすぐるものがある・・・。
iPadにはそういうのがあるんだっけ? なんか、急にほしくなったよ。
茂木健一郎氏のブログエントリーで気になる点があったので指摘したいと思います。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/06/post-9d62.html
まず、前提として私は茂木氏の主張には賛成です。
茂木氏は、日本での行き過ぎた標準化の弊害として、突出した能力が育ちにくいと述べています。それの対照的な例として、アメリカの個人の得意な分野を伸ばせるシステムに言及しています。茂木氏の要点としては『学力における個性と、標準化のバランスをどのように見るか。この点においてアメリカと日本の大学入試は、異なる思想に基づいている。』(本文より)ということです。
しかし、茂木氏の説明にはあまりにも説得力が欠けており、この人は実はあまりきちんと考えずにこのエントリーを書いたのではないかと考えてしまいます。
その理由は、日本の大学入試問題とアメリカのSATという試験を比較対象にしているところです。
SATとは、日本でいうセンター試験のようなものです。「ようなもの」と書いたのは、SATとセンター試験とは大きく異なる点がいくつかあるからです。
*SATはセンター試験のように大学入学のためだけの高校範囲の理解度をはかるものではなく、言語能力と数学の基本的な能力をはかるものです。
*センター試験は大学入試の前の一発勝負ですが、SATは何年生からでも何度でも受けることができ、大学に応募するときには一番高い得点を採用することができるので、どちらかというとTOEFLやTOEICによく似ています。
*東京大学というのは言わずと知れた日本の一番学問的な偏差値の高いところですから、学生に高い思考能力を求めるのは当然です。東京大学以外の大学では一問一答式のお粗末な入試問題を出すところも多いのですが、そのことには触れられていません。
ですから、個別の大学の大学入試問題とSATを比較し、求められる思考能力のレベルに言及し悦に入るのは明らかに的外れなのです。
日米どちらのシステムがいいというのは一概には言えません。教育を受ける個人によっても違うでしょう。
日本は多岐にわたる教科すべてで高いレベルを求め、いわゆる知識的にはAll roundedな人間を育てようとしますが、アメリカでは得意な分野の教科を重点的にとれるなど、個人の特性にあわせた教育が行われるよう配慮されています。私の感覚では思考能力を育てる教育をしているのはアメリカのほうです。アメリカでは小さいときから著述式問題を解かせ、表現能力を養うほか、学年が上になると論理的な文章を書くトレーニングを繰り返し行います。知識を吸収し、正しく物事を理解するアプローチを取る日本より、批判的な視点が養われると思います。どちらにもメリット、デメリットはあるのです。
茂木氏の指摘に、日本のやり方では高校の範囲で足止めされてしまい、能力が伸ばせない学生が出てくる、とありますが、果たして本当にそうでしょうか。
アメリカには国で統一された標準のカリキュラム、というものはありませんが、この分野ではここまで理解しているのがふさわしいとされる基準はあり、高校でそれ以上のレベルの授業をオファーしているところはほとんどありません。必修の科目も多く、レベルの高い高校では学生は日本の学生のように日々勉強に追われています。大学入試は日本のように一発勝負ではなく、課外活動も含めた高校生活すべてが見られるので、アメリカの学生はいい大学に行くために日本の学生以上に多忙です。茂木氏の『アメリカのSATは簡単だが、同時に、高校生の時から非可換代数や無限集合論に精通した学生をつくるかもしれない。』という主張の根拠はどこにあるのでしょう。
確かにアメリカは才能を伸ばす教育をしているので、数学が良くできる生徒は大学の講義をとれたり、夏期の数学キャンプに参加したりして自分の能力を伸ばすことができます。それはあくまで自主的に自分の時間にしているのであって、日本の学生だって趣味で高等数学を勉強しようと思えばいくらでもできます。
茂木氏は学校というものに期待をしすぎているのではないでしょうか。優秀な学生は、特に高校生にもなれば、人の手を借りなくても自分でさっさと知識を探し吸収していくでしょう。日本の教育は比較的受動的な学生を育てるので、どうやって自分自身で次のレベルに進むか分からない、という問題があるかもしれませんが。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/06/post-9d62.html
日本の大学入試は「プロクラステスのベッド」とか聞いた風なことを言ってる割に、自分自身の学識のなさを暴露しているんだから噴飯ものだ。
上に挙げた東京大学の入試のように、高校までのカリキュラムに出題範囲を限定した上で、その中で人工的な難しさを追求した出題をしていると、大学入試が終わるまでは、高校生はそのカリキュラムの範囲に足踏みすることになる。
こいつ本当に、自分がリンク張ってる東大入試の問題見てみたのかと思う。どの科目も基本的な良問がおおむね揃っている(英語については言いたいこともあるがこれは日本の英語教育自体の問題になる)。専門家がこの辺の問題に全く歯が立たなければ「廃業しろ」と言われても仕方ない種の問題だ。専門から離れていたら思い出すまでに時間こそかかるだろうが、一度は身につけておかなければ教科書の内容を習得したとは言えないレベルの、基本的な知識と考え方を試す問題でしかない。この程度に深く掘り下げる能力がなければ大学での本格的な勉強になんかついて行けないだろう。
というか、アメリカの大学生の勉強量が多いのは、日本の受験勉強と同じような内容を学部教育に詰め込んでいるからという面もかなりある。日本の大学の1年後期や2年前期の電磁気学や解析力学で使う米国製の教科書の序文に「本書は学部上級生から大学院生を対象としている」とか書かれていることなんて結構ザラ。
本当は、さっさと量子力学や統計力学、線型代数か解析幾何の進んだ内容を修得すれば良いのに、18歳の段階では、いつまで経っても高校のカリキュラムの範囲であれこれと勉強をしなければならないことになる。
解析幾何wwwww知ったかぶりがもろばれなんですけど。
あのね、解析幾何っていうのは一口に言えば平面や空間に座標を引いて図形を扱うことで、思いっきり高校範囲です。せめて位相幾何とか微分幾何とか代数幾何とか言えないかね。門前の小僧でもそのぐらいの言葉は聞きかじっておいてくれよ。あんたこそ大学で何してたのかね。
それに、あの程度の数学や物理がわからない奴に量子力学や統計力学なんて理解できないよ。なんとかごまかして線型代数の試験で単位を取ることぐらいはまあできるかもしれないけど、線型代数なんて大学入学直後に習う「イロハのイ」なわけだからねえ。
学問というものは、ある程度の段階を超えると、標準化をすることが難しくなる。どの方向に伸びていくかは、分野によっても人によっても異なるからだ。
あのね、あなたが「進んだ内容」とか言ってる「線型代数」ですら「標準化」されたレベルの内容でしかないんですが何か?いわんや高校レベルをや。
「非可換代数」とか「無限集合論」とか素人臭い用語法(せめて「非可換環論」とか「公理的集合論」とかいえよ)が気になるが、東大や京大の数学科あたりに行けば、高校時代から大学レベルの数学に手を出している学生はかなり沢山いるよ。
だいいち、東大入試レベルの普通の数学を理解せずにそんなマニアックな分野(リー環論とかならマニアックとは言えないだろうが)に手を出してもありがたみが理解できないと思うのだがどうだろうか。つーかお前、非可換って言いたいだけちゃうんかと。
こんなんに釣られている奴がブクマ見ると結構いるのが驚きだよ。
交渉において重要なこと
相手より精神的に優位に立つこと
相手より経験や知見をもち、強い直感をもつこと
マネジメントなどを下手に勉強すると、業務フローだの業務の標準化
だの、効率化だのに目を奪われてしまうのだが、属人的な業務こそ
が中小企業においての強みを生み出す源泉になっていると気づく
必要がある。
ココという分野においては、あえて属人性を維持しておく。
だと言えるのではないだろうか。
とどちらかというと否定的に使われると思う。
曰く、判断に偏りができる。
曰く、その人がいなくなったらどうする?
集まったって、多様な判断できないくせに。
俗人的だってことは、スカラーをベクトルに変えることだと思う。
その多様性は、今の仕事の継続ではなくて、新しい仕事(価値)を
作ることに寄与するはず。
今の日本の法律って、労働者を手厚く保護しているよな。どこまで守られているかは別として。
じゃあ、日本がこの先どんどん国際競争で弱くなっていって、日本の労働者全員に対して今の手厚い保護を与える余力がなくなったときには、日本はどうなるんだろうか。
終身雇用だとか残業代の支給強制だとかいう労働者の手厚い保護は、裏を返せば人件費の高コスト化を意味する。じゃあ、日本の国際競争力が下がり富が減少して、そういう高コストで人を雇うだけの収入を企業が得られなくなったときにはどうなるんだろうか。
日本全体が豊かなら、他の企業が代替すれば良いだけだから問題にならないかもしれない。じゃあ、日本全体が沈みこんでいった場合は、どうするんだろうか。どこの会社も今で言うブラックな待遇で人を雇うのが限界になってしまったらどうなるんだろうか。
今の法律でどんどん取り締まることで、一部の労働者を一時的には救えるかもしれない。でも、企業自体に余力がなくなってきたら、取り締まれば取り締まるほど企業の体力が失われて、潰れていく。そんなことをしていたら、更には日本全体が沈んでいくことになって、悪循環にしかならない。
とすると、結構近い将来には、法律が改正されて、今のブラック企業の待遇が当たり前になる時代が来てしまうんだろうか。労働者のコストを下げることで国際競争力を保たないといけない時代がきてしまったら、そうせざるを得ないのではないだろうか。
うーむ、恐ろしい話だ。