2010-06-30

茂木健一郎氏のエントリー日本大学入試は「プロクラステスのベッド」である”の的外れな点

茂木健一郎氏のブログエントリーで気になる点があったので指摘したいと思います。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/06/post-9d62.html

まず、前提として私は茂木氏の主張には賛成です。

茂木氏は、日本での行き過ぎた標準化の弊害として、突出した能力が育ちにくいと述べています。それの対照的な例として、アメリカの個人の得意な分野を伸ばせるシステムに言及しています。茂木氏の要点としては『学力における個性と、標準化バランスをどのように見るか。この点においてアメリカ日本大学入試は、異なる思想に基づいている。』(本文より)ということです。

しかし、茂木氏の説明にはあまりにも説得力が欠けており、この人は実はあまりきちんと考えずにこのエントリーを書いたのではないかと考えてしまいます。

その理由は、日本大学入試問題アメリカSATという試験比較対象にしているところです。

SATとは、日本でいうセンター試験のようなものです。「ようなもの」と書いたのは、SATセンター試験とは大きく異なる点がいくつかあるからです。

SATセンター試験のように大学入学のためだけの高校範囲の理解度をはかるものではなく、言語能力数学の基本的な能力をはかるものです。

センター試験大学入試の前の一発勝負ですが、SATは何年生からでも何度でも受けることができ、大学に応募するときには一番高い得点採用することができるので、どちらかというとTOEFLTOEICによく似ています。

東京大学というのは言わずと知れた日本の一番学問的な偏差値の高いところですから、学生に高い思考能力を求めるのは当然です。東京大学以外の大学では一問一答式のお粗末な入試問題を出すところも多いのですが、そのことには触れられていません。

ですから、個別の大学大学入試問題SAT比較し、求められる思考能力レベルに言及し悦に入るのは明らかに的外れなのです。

日米どちらのシステムがいいというのは一概には言えません。教育を受ける個人によっても違うでしょう。

日本は多岐にわたる教科すべてで高いレベルを求め、いわゆる知識的にはAll roundedな人間を育てようとしますが、アメリカでは得意な分野の教科を重点的にとれるなど、個人の特性にあわせた教育が行われるよう配慮されています。私の感覚では思考能力を育てる教育をしているのはアメリカのほうです。アメリカでは小さいときから著述式問題を解かせ、表現能力を養うほか、学年が上になると論理的な文章を書くトレーニングを繰り返し行います。知識を吸収し、正しく物事を理解するアプローチを取る日本より、批判的な視点が養われると思います。どちらにもメリットデメリットはあるのです。

茂木氏の指摘に、日本のやり方では高校の範囲で足止めされてしまい、能力が伸ばせない学生が出てくる、とありますが、果たして本当にそうでしょうか。

アメリカには国で統一された標準のカリキュラム、というものはありませんが、この分野ではここまで理解しているのがふさわしいとされる基準はあり、高校でそれ以上のレベルの授業をオファーしているところはほとんどありません。必修の科目も多く、レベルの高い高校では学生日本学生のように日々勉強に追われています。大学入試日本のように一発勝負ではなく、課外活動も含めた高校生活すべてが見られるので、アメリカ学生いい大学に行くために日本学生以上に多忙です。茂木氏の『アメリカSATは簡単だが、同時に、高校生の時から非可換代数無限集合論精通した学生をつくるかもしれない。』という主張の根拠はどこにあるのでしょう。

確かにアメリカは才能を伸ばす教育をしているので、数学が良くできる生徒は大学講義をとれたり、夏期の数学キャンプに参加したりして自分能力を伸ばすことができます。それはあくまで自主的に自分時間にしているのであって、日本学生だって趣味で高等数学勉強しようと思えばいくらでもできます。

茂木氏は学校というものに期待をしすぎているのではないでしょうか。優秀な学生は、特に高校生にもなれば、人の手を借りなくても自分でさっさと知識を探し吸収していくでしょう。日本教育比較的受動的な学生を育てるので、どうやって自分自身で次のレベルに進むか分からない、という問題があるかもしれませんが。

今まで茂木氏の著作を数冊拝読して、いいことを言う人だと思っていたのですが、このエントリーには少し疑問を抱きました。

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