というか苦手だ。拒否したい。拒絶まではいかないけど、少し間を開けていたい。あんまり意識して関わりたいとは思わない。
べつに一匹狼を気取りたいわけじゃない。俺ってみんなは違うんだぜって、馬鹿みたいに威張りたいわけでもない。
まあみんなというか、大衆と呼ばれるものについてなんだけども。自分は大衆が猛威をふるうさまが嫌いなのだ。そんなこと中々起こりえないかもしれないけれど、想像するだけで醜悪だし、怖いし、仮に起こったとしてそこで判別された物事は正しいのか疑問視してしまう。
とりわけ大衆に価値基準が委ねられているなんて状態を想像すると最悪な気分になる。創作物にしても、流行り廃りにしても、政治動向についても、大衆が実権を握るような状態は拒否したい。心の底からお断りしたい。
拒みたい理由は、なにも大衆が正しくないからだとか、大衆が愚かだからなんて思っているからじゃない。物事の尺度が大衆に委ねられて既成事実化していってしまうのが怖いのだ。
大衆は間違えても責任を負わない。大衆は、そのくせ何でもかんでも正しく判断しようとする。圧倒的な数を誇って、どんなことをも精査しようとする。
究極的に言ってしまえば、価値基準の画一化にさえ繋がりかねない。寄って集ったみんなが、結果として大衆の意思を決定し、挙句大衆の支配下に置かれるなんてこともあるかもわからない。
そんなの嫌だ。みんなの意見が平均となって意思となるのか、偏った意見が流れを切り開いて意思となるかはさておくとしても、
そんな状況はお断わり願いたい。広まりきった価値観はつまらないのだ。大衆が認めた、大衆にだけ有益な物事なんて詰まらなくて堪らないと思う。
だから、芥川賞とか、レコード大賞とか、アカデミー賞とか、そう言った様々な権威について、大衆には意見を言う資格はないと思う。
そう言った物事は、狭い領域で少ない人数で偏った人選で語られて然るべきだ。大衆の意見なんて無視して。薄暗い蛸壺の中だけで判断したほうがよっぽど面白い。
例えその結果を理解できなかったとしても、そういうものはそういうものとして咀嚼できる。不味くたって、珍妙な味がしたって、それはそれとしてひとつの経験となる。
でも、大衆が精査し、大衆に迎合されるべき、大衆宛の結果が出るようになっては悲しい。自分好みの味だけ出されたって、結局は大衆という名の馬鹿でかい蛸壺内での嗜好にすぎない。
大きすぎる蛸壺一個の価値観に合わせるよりは、個々の小さな蛸壺から得られる発酵物のほうがよっぽどいい。素敵だ。
無論、大衆文化を嫌悪しているわけではない。大衆に向けらた発信物はわかりやすいし、素直に面白い。
加えて経済的な問題もある。みんなの意見や首肯という要素は、決して無視できないほどに重要である。
ただ、過度に効率を重視した大衆に向けられた発信物は、結局のところ大衆の増長に繋がりかねない。増長を重ねた大衆って、きっといろんな場面で禍根を生むと思う。
みんなが大衆の意思によって苦しくなるのだ。そんなのっておかしいと思うし、不健全だと思う。だから、大衆に餌を与え過ぎちゃいけない。大衆が育つ土壌を作ってはならないと思う。
グローバルスタンダードとか標準化とか、極々ありふれた広い範囲での規約が力を持つのって、すごく怖いことだ思う。