はてなキーワード: 有事とは
をまず説明、周知しないといけない。
(小池さんは阿保だから、そればっか題目のように言うが。ついこないだまでは五輪五輪。あてにならない。)
(祭りやイベントの中止くらいはいいと思う。石川県知事みたいな人は抑えるのには有効かも知れない。田舎では祭りひとつ中止できない。
また、今時、若者が海外旅行とか阿保だが、それは、とめてほしい。)
宣言によってパニックにならないようにしないといけない。経済的損失を最小限に留めないといけない。
まずは、祭りや大規模イベントの中止や不要不急の外出禁止(労働禁止ではない)になると思う?
(飲食店はどうするのか。生活の補償はどうするのか。この辺りは、現政権は、生活感がないので弱い。想定できないから出せない。逆に暴動や路上は、貧民街になる。また、なぜ減税しないのか?)
まずは、国民ひとりひとりが、緊急事態宣言を自分でして、(極力自宅待機や感染しないようにする)足りないものを政府に要求する。
コンセンサスをとって、慎重に。対話的に。大きな国だから。各自真剣に。
有事だと思う。
続く
だから上に立つ側の人間が努力しなくてもある程度の結果が出てしまい、全体最適化に対する議論が為されないまま事が進んでしまう。
世の中の問題が各人の努力でカバーできるうちは非常に強いが、構造に由来する問題が生じ始めると途端に弱くなってしまう。
無論、どのような社会においても構造に由来する問題を解決するのは容易いことではない。それが比較的容易なのは中国のような強権国家のみであろう。
それでもやはり欧米諸国と比べると、日本は最適化が下手だという印象だ。
さて、ウイルスの話だが、我々は各人の努力で克服することができるだろうか?
日本人の清潔さ、優秀さがあれば、勝算は大いにある。少なくとも諸外国に比べて再生産係数が小さいのは間違いないだろう。ただしこれは非常に楽観的な意見ではあり、感染爆発する可能性も十分残されてはいるだろう。
仮に克服したとしても、いい加減各人の能力に依存した社会に対してNOを突きつけようではないか。このような有事の際にも、各人の努力に依存しようという政府の姿勢に対してNOと叫ぼうではないか。少しでも多くの日本人がこの意識を持てば、日本はもっと素晴らしい国になるはずだ。何しろこれほど各人が優秀なのだから。
期待されていることは、出歩くことではなく、
1月の段階で政府へ『人工呼吸器』や『マスク』の事前調達や配備を求め、
調達の見込みが立たなければ、工場の新規設立や増産を求めることだったし、
なんだったら誰でも使える人工呼吸器や簡易人工呼吸器を作ることだったし、
人工呼吸器の教育含めたコロナ対応に関する全般の教育と医療体制構築と
平時でも復活しない潜在看護師と女性医師を現場へ戻す方法の提言を期待していたし、
研修医にどこまでなら任せられるのかという判断と体制構築を期待していたし、
また、このまま対策を何もしなかった場合に失われる人口のシミュレーションと経済損失を出し、
他にもあげたらキリがない
成熟時代になれば「実存的虚無感」を感じることは必然です。成長時代のように、消費や所有に幸せを感じられなくなっていますし、生きることに困っている人がいません。生きることに精一杯で、明日死ぬかもしれないのであれば、私達は悠長に生きている意味など考えていられないでしょう。成熟時代を生きる私達は、生死を脅かされる不安がないから悠長に実存的虚無感に悩むことができるのです。実存的虚無感とは、「ここに実体はあるが、中身を伴わない」ことを言います。例えば、平和を望んで戦っていた兵士が、いざ平和の世界を手に入れると、戦いしか知らなかったがために、実存的虚無感に襲われるなどが当てはまります。
ある極限の状態、生死の切迫した事態、そういうものに自分たちが囲まれたとしたら、虚飾や体面をすべてとりはらうことができ、そのときはじめて、ぼくたちのなかから「純粋なぼくたち」が現れ、なんの衒いも、けれんもない「純粋な意思の疎通」ができるはずだ――ぼくらがそんな妄想にとらわれることはなかっただろうか?
一再ならずそう妄想したことのあるぼくは、柴門のこの描写をみて、それが普遍的な観念だと知った。
ぼくらは、現実が現実とは思われないような希薄なリアリティのなかで、コミュニケーション不全の重圧に耐えて生きている。「有事」にかこつけて、純粋の自分を出して、純粋なコミュニケーションをするという「解放」を心の奥底から待ち望んでいるのだ。
だが、だがな。
やっぱりいっとくけど、現実で求められるのは散文的な努力なんだ。
恐怖の正体を理性の目でみきわめること、〈私〉と〈世界〉を論理=歴史によってつなげること、そうやってはじめて、おれたちは離人症的な朦朧さから解放されるんだ。リアリティももてるんだ。
これを宗教的分類へ当てはめれば、「内在系」タイプは“幸せになりたい!”的な「利益祈祷型」の宗教(宮台氏の言葉では「行為系宗教」)に惹かれ、「超越系」タイプは“ここはどこ?私は誰?”的な「意味追求型」(「体験系宗教」)に惹かれます。
戦後日本社会は高度成長で都市化が進行し、そのなかで「利益祈祷的」な(全体性の)「埋め合わせ」が求められましたが、ある程度豊かさが実現して郊外化が進むと「意味追求的」な(全体性の)「埋め合わせ」が求められるようになります。(全体性についての詳しい説明は省略します。)
家族や地域の豊かになると信じられるから、都市化や郊外化が肯定されるのですが、日本の場合良し悪しを判断する基準は西洋キリスト教的な「個人」ではなく、「生活世界」に所属している「我われ意識」です。したがって「ここではないどこか」(世界)を希求せず「ここ」(社会)を安定して志向できるには「生活世界」への共属意識が必要だと宮台氏は考えました。
「都立大助教授・宮台真司氏が言っている「サンス(意味)よりアンタンシテ(強度)を!」という言葉の意味、原典を紹介しているサイトか、宮台氏の著書を教えてください。」より
業務上リモートワークというのに向いていない業態なので、基本的に急ぎの仕事がなければ自宅待機ね、というのを一人一人通告して回っています。
ルールはあくまで自宅で待機、連絡が取れるようにしておく、呼び出しに応じるの3点。
それが守られれば当面は給料を払うよという感じ。もちろん、業務に支障がないという前提で。いつまで続けられるか知らないけど。
午前中自宅待機、午後から出社みたいなのにも対応しているので、時間差通勤みたいな使い方もできる。
だから話はすんなり済んだ。
早速明日から自宅待機とか言い始めて、業者からの電話に「いやー、明日いないんで」とか言い始める始末。(これは別途指導した)
でもこれには罠があって、仕事してない人間が顕著に炙り出されるというもの。
こういう有事に協力できない人間は、今後もここぞというときに一番最初に逃げる人間。
会社のために死ぬなんてことは自分でも愚かだと思うけど、ピンチのときに真っ先に逃げ出す人間と最後までなんとかしようと努力してくれる人間といたら、後者に沢山給料を払いたいと思うのが経営者というものではないかのかね。しらんけど。
自分は人を管理する立場にいるけど雇われ。与えられた職務を粛々とこなしています。
なのでそういう奴らには一回休みじゃないんだよと釘を刺さないといけないのが面倒だった。
まぁそれで本題なんですけど、70を過ぎた定年延長している役員さんたちがいて、正直な話、彼らが今一番の脅威。
もちろん感染すれば死亡するリスクも高いっていうことがあるのだけど、何よりも衛生観念が3週遅れくらいなので、自分たちがしているつもりになっている対策がとても脆弱。
なんだか効果があるんだかわからないものを身に着けて対策した気になってる。
くしゃみに遠慮がない。
とどめとなったのが、先日こんな状態でみんな頑張ってるからって個別梱包されてないケーキを買ってきて配り始めたこと。
あなたの衛生観念で、それを受け取るのも断るのも無理です。って空気になってしまって、結局みんなその人が帰ってから捨てるしかなかった。
いやー、これは無理にでも自粛させなきゃ本当にやばいなっていう話があって、この自宅待機の話しが始まったのが実のところ。
「ということで、当面は自宅待機していただくことになります。給料は今のままなのでご安心ください」
って言ったらなんて言ったと思う?
「いや、僕らはみんなで話し合って万全の対策をしているから大丈夫!若い人たちに犠牲になっていくわけには行かない!」
って目をキラキラしていいやがるんですよ。
唖然とした。
この人達、自分は絶対になりたくないけど、自分は絶対にならないっていうメカニズムで動いてるんだって思った。
これだよこれ。
万全なんだもん。自分たちルールの中で。どこで聞いてきたかわからないけど、どうせテレビかラジオの情報でしょ。
こんな感染拡大簡単にさせてしまいそうなのが街なか沢山歩いているわけですよ。
これは無理だ。無理だよ。
高齢者の死者数が一旦ぐーんと伸びないとわかってもらえないんじゃないかな。
じつは高齢者を自粛させて若い人ちだけでゆっくりと集団免疫を付けていこうっていう作戦が無理だから、高齢者の中で感染拡大させて高齢者がビビって自粛し始めてからが勝負ってことを国会の中の偉い人がわかってるんじゃないかとさえ思えてくる始末。
そんなわけ無いか!
「あなた方の命が何より一番大事ですし、若い人間がそれに遠慮してしまえばむしろ行動が制限されてしまいます。役立ちたいと思って頂けるなら、尚更ご自宅での待機をお願いします!」
オーバーシュートとかロックダウンとかこんな有事の際になんで日本語使わないの?
英語力高くても普段使う言葉じゃないから、誰もがえっ?てなるってわからないの?日本人の話し手って聞き手のこと微塵も考えないよね。小さい子供とか年寄りとか説明しないとわからないでしょ。
優れた話し手は相手が誰だろうとわかりやすい。最近の日本人でこういう人いるだろうか?
あー、もう伝達能力低すぎ、もうカタカナ語使うやつはそれだけでコミュ力が低いと思う。
英語力低いやつほどカタカナ語が好きな傾向があると勝手に思ってるけどあながち間違ってもいないと思う。
医師免許更新が不要で専門性の追求を面倒くさいメリットがないで放棄が認められ
じゃあかわりにコロナ以前からオンライン診療やIT推進をやってきたのかと言えばそんなこともなく
むしろ専門性を追求している方々や美容系の方がオンライン診療やIT活用をしている有様で
論文全体に日本が占める割合が2.9%なのにも関わらず(米国:26.1、中国:19.3%、 英国:5.9%、独逸:5.2%)、
Nature や Science に日本の研究不正を名指しされるレベルで
コロナという有事に「うーん、わからないです」で検査もせず放り出して
高齢者に至っては死亡していて、
『世界が間違っている』って
戦時中の日本を見ているようだよ…って思う
これは一重にハングリー精神の必要がない、ひたすら怠けることが可能な弊害じゃないですかね・・・
anond:20200325135743 anond:20200325200218 anond:20200325201018 anond:20200325191826 anond:20200326045744 anond:20200326094145 anond:20200326053404 anond:20200327214353 anond:20200327214305 anond:20200329125716 anond:20200330190556 anond:20200403032903 anond:20200409164240
理解不能なことをのたまわって放置される政治家や専門家もいないので
正直、羨ましい人も多いと思う
けれど、勉強を不要とする方々と不運にあって立ち直れなかった人たちを
彼らが暴挙に出たとき、普通のホワイトカラーに身を守る術なんてないのよね
セレブならセキュリティばっちりのところに私設SPつけて暮らせるけどね
フツーにコロナの診断でワクチン開発でいろんなところのAIちゃんが頑張ってるやで
[日経XTech] 新型コロナウイルスのワクチン開発支援 アリババがAI無償開放
https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/technology/00004/00154/
2020年1月29日、中国EC最大手のアリババ集団のクラウドサービス「阿里雲(アリクラウド)」は、新型コロナウイルスの分析および新薬やワクチンの研究開発に取り組む全世界の公的機関に向けて、同社が持つすべてのAI(人工知能)技術とその演算能力を無償で開放することを発表した。連絡窓口はアリクラウドの疫病に関するチャリティー活動を行うチーム「阿里雲疫情公益小組(メールアドレス:wanqing.hwq@alibaba-inc.com)」である。
[日経XTech] 中国で新型コロナウイルスによる肺炎の診断支援に活用されているAI(人工知能)
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/03599/
既にAIによる医療画像診断支援システムが新型肺炎の診断の現場で使われている。2015年に創業した中国のAIスタートアップ企業、インファービジョン(北京推想科技、Infervision)は2020年1月31日、同社のAI診断支援ソフトウエアに新型肺炎の画像診断支援機能を追加した。
新型コロナウイルスに感染すると、無症候の状態でもコンピューター断層撮影装置(CT)画像ですりガラス状の陰影や白くべったりとした湿潤影といった肺炎特有の陰影が出現するといわれる。AIが肺のCT画像を読み取り、2分程度で新型コロナウイルスへの感染が疑われる部分を見つけだす。
同社によると「1000の症例で調べたところ精度はほぼ100%。正確さを示す指標の1つである特異度(陰性のものを正しく陰性と判定する確率)は80%以上。AIがデータを日々学習し、精度は向上している」という。インファービジョンのAI診断支援ソフトウエアは現在、中国国内で300以上の病院が導入済み。新型肺炎の診断支援機能を導入した病院は10以上、2月6日までに2300人の新型肝炎に関する診断支援に使われた。
日本は医師免許更新不要だし、研究者もポストに就いたら何もしないのゴロゴロいるからな
関連増田:
プンプンしてるのは無駄な行動だと思う
そうすりゃお年寄りや身体の不自由な方や経済的な困難にある人が犠牲にならない
社会全体のことを考えると個人が必要以上に物資を買い占めるのは、悪であるが
物資を巡って人間と人間が対立するゲームだと思えば、買い占めることは愚かではなく合理的であるのか。
だって、実際にオムツやトイレットペーパーがなくて困っている人達がいるわけで、買い占めをした人達はそのリスクを回避している。わざわざリスクを負ってまで、「必要な分しか買わないよ」という弱者になる必要はない
色んな考え方があるんだなぁ。オムツやトイレットペーパーが買えない弱者は買い占めをしている強者が憎くて憎くてたまらないだろう。しかも買い占めることは悪だという正義を振りかざすことができるんだから、買えなかった側は怒りのままにとことん怒るよね。
などとおかしな自己紹介になってしまったのには理由がありまして。
というのも、わたしは人生を振り返った時、そのうちの半分は「自らがおかれた環境下で生きることにいっぱいいっぱいだった動物」だったというのを最近になって自覚したタイプの生き物だったからです。
この気付きから過去の記憶のフラッシュバックが止まらなくなり日常生活が滞ってしまった為、こうして書き出すことにしました。ネットの海に流して供養することが目的の記事になります。
友人や知り合いに吐き出せるような話ではないし、読んでいて気分が良くなるものでは決してないのと、あくまで「わたし」の為のごくごく個人的な文章であることを理解された上で読み進めてください。
また、精神的なネグレクトを受けたと感じた側からのお気持ちなどがあるので、そこら辺を見て落ち込みそう/気分を害しそうな人は見ない方がいいと思います。
書こうとしたはいいもののどこから話せばいいのかな……そうだ、きっかけですね!
これを思い返すことになったきっかけは兄を相手に家族の話をしたことだと思います。
わたしは兄と二人兄弟で、小さなころから同じ家で過ごしました。兄もわたしも所謂オタクを趣味にしていて、いつも何かしら共通の話題があり、この日もひょんなことから幼いころに感じていた家族についての話になりました。
この書き方だとあまりそういう風には見えないと思うのですが、兄とわたしが話すとき父についてのシリアスな会話はタブーのようなものでした(少なくともわたしはそう感じていました)。なのでこのときわたしは、もう2人で擦り合わせをする機会はこの先訪れないかもしれないと思い、勇気を出してシリアスな話を切り出しました。
真っ暗な井戸の底のほうまで下ろしたと重い桶を、慎重に引き上げていくような心地でした。
家族を構成するメンバーは祖母、父、母、兄、わたしの5人。祖父もいましたがわたしが幼いころに亡くなった為、「わたしの家族」と聞いてまず頭に浮かぶのはこの面子です。
兄と話していて思い出したのは毎晩の食卓のこと。始まりはいつも概ね穏やかな食事でしたが、時間が進むにつれわたしの緊張感は高まりました。
それはなぜか?
答えは「父と祖母の怒鳴りあいがいつ始まるかわからないから」です。
間に母が入り両者を宥めるところまでが1セットの物騒なコミュニケーションは、晩ご飯の時間中にどんなきっかけで始まるか、どのくらい続くか、何回起きるかなどわからない尽くしのハリケーンみたいな現象でした。
簡単な喜怒哀楽にうっすらとした自我をふりかけただけの「小さなわたし」にとって、父と祖母が行う激しい親子のコミュニケーションは「こわいこと」として分類されたんだと思います。それがほぼ毎日続くうち「一日の終わりに起こるうんざりすること」にもなったのは自然な流れだったんじゃないかな。繰り返し体験するうちにその特殊なコミュニケーションに巻き込まれるのも、火種になるのも嫌で、食卓の上で誰かに会話を振られても可もなく不可もない答えを返していたし、誰かの琴線にふれてしまわないよう、割とつねに気を張っていました。
自分の食事が終わるとすぐに「ごちそうさま」と言って食器を下げて、兄と一緒に別の部屋へ退散しました。まあ古い家だったので別の部屋へ逃げても怒鳴り声が聞こえてくるわけですけれども。
なぜにこにこと笑っている父や祖母が、一瞬で鬼の形相になってしまうのか。
「それはそういったコミュニケーションの形なんだよ。二人はちゃんと仲が良いから大丈夫、心配いらないよ。」
などとハグしてもらったり、教えてもらうきっかけもないまま体験する毎夜の嵐は、わたしの心を大変疲れさせたのではないでしょうか。(ないでしょうかってなんだよって自分でも思うんですが……そのころにあったであろう学校行事や友人とのこまかい記憶などがうすぼんやりとしか残っていない為「ないでしょうか」としか言いようがない……)
また怒鳴りあいのコミュニケーションは祖母と父の間だけではなく、父と母の間でも行われていました。父母の特殊コミュニケーションの日程は決まって土曜日曜祝日開催。つまり顔を合わせて長く話すようなことがあると、口論としてヒートアップしていったわけです。
小学校から帰ったら夜ご飯と共に家族が口論。土日祝日は両親の口論がランダム勃発、のちに夜ご飯でタイフーン上陸。
以後、このうんざりするようなタイムスケジュールはわたしが高校を卒業してから少しするまで延々、ずっと毎日、十数年続いていきます。
またここまで読んでうっすらとお気づきの方もいるかと思いますが、これはコミュニケーション値が大変低い家族の中でなるべくしてなり、起こるべくして起きた地獄でしかない日々の思い出を吐き出す記事でもあります。この先も気をつけてください。
そうなんですこの家族、全員が全員ともコミュニケーション数値がおそろしいほど低かった。
ここでいうコミュニケーション値が低いというのは「人との関わり方が上手くない」ということで、人に頼る方法での問題解決能力が著しく低いことを指します。
別の言い方をすると「感情を消化させることが不得意」であったり「困ったことは大体自分一人で解決しようとすること」にあたるのですが。なんとこの家族の祖母、父、母の3人が3人とも「本当に困った時は家族に相談せず自分一人で決断するタイプの人間」だったのです。
少なくとも小さい子供の前で困ったときに「困ったな~」と息抜きにでも呟くような人間がいませんでした。口下手なので子供の前でふざけることとか本当になーんにもしないの。かっこいい大人の背中を見て育てってか?え?口から言語を扱ってから言え!バーカバーカ!
失礼、話が逸れました。
それで、そんな大人の姿を見て育った「わたし」という子供はどうなったのか?
「家庭内で困ったことがあっても家族に相談してはいけないんだ」とすっかり思い込んでしまいました。
するとどうでしょう。自分が困ったときにどうしたらいいのかわからなくなり、解決の糸口がガチでわからず、何かあると問題には触れず解決を先送りにし、心に不安とわだかまりを抱えたまま癒しを時間に任せて過ごしていくことばかりを覚えていったのでした。
~おしまい~
……いやもちろんおしまいなんてことはなく、「わたし」の人生はそこで終わらず続いていったので、普通に人との接し方がよくわからない人型の喋る動物が大きくなっていっただけなんですが。(なんですかこれ、言葉にするとめちゃくちゃ怖いな……)
途中でなんとかならなかったのか?という問いには「残念ながら……」という回答しか差し上げられないんです。本当に。残念ながら。
そもそもなぜなんとかならなかったのか。
それは「わたしの自我が形成される期間中、親への信頼なくなったこと」が多分大きく関係しています。
わたしの両親は共働きで、週休2日の週5勤務。母は帰宅したら少し休憩をしてご飯作りを始め、父は帰ってきたら風呂に入ってご飯の前の晩酌をする。まさにひと昔の夫婦って感じでした。
これだけ書いたら「なんだ、普通の家族じゃん」って感じなんですが。ここに「夫婦はどちらも自分一人の時間がないとしんじゃうタイプの人間で、作業や趣味や息抜きも一人で没頭したいタイプ」、「なお2人は仕事でクタクタに疲れたコミュ障」という特性が加わると、どうなると思いますか?
結果をお伝えすると、2人の隙を見ては今日の出来事や楽しかったこと、悩み事などを話そうとしていた幼いわたしが、見えないシールドにはじき返されて転ぶばかりになりました。あと癇癪持ちの酔っ払い相手(酔った時に話したことは覚えていないタイプ)にする真剣な悩み相談ほど、面倒で参考にならないものはないですよね…。(遠い目)
また、このインターバルにも思える時間を逃すともうだめです。チャンスはありません。最初の方に書いた、いつ雷が落ちるかな?ドキドキ☆晩ご飯タイム()になってしまう為、まともにお話しできるような時間はおしまいです。解散!
そして「何よりもただただ話を聞いてほしかったわたし」はこのころの経験から、そういった方面での親への信頼をじわじわと減らしていきました。もともとの内向的な性格と、両親からいつ発せられるかわからない大きな声への苦手意識ゆえに、その不満を爆発させるような機会もなかった為だと思われます。我が子からのそういった信頼値がマイナスに傾いているなんて事実、両親は知らずに生きていることでしょう。わたしも今更そのころのことを知らせて、改めて地獄を見る気はまったく以てありません。
ちなみに、わたしは小さなころから「手のかからない」と評されてきたタイプなのですが、実情は「親への信頼度の低さゆえに何も話さなくなった子供」になります。
忘れられない話なのでついでにここに書きますが、高校性のころ三者面談で割と信頼していた担任が
「おたくのお子さんのように子供を育てるにはどうしたらいいですか?」
と父を持ち上げたとき
「いやあ、放っておいただけですよ。」
と照れ臭そうに答えた映像がいまだ焼き付いて離れないんですね。「心の底からやめたほうがいい。」と思ったけど、そのときにはもう心の開き方がよくわからない動物になっていたので(あと不意打ちのショックで)、そのことを担任には伝えられなかったことが心残りでならないです。
(他にも、親がわたしが子供のころの「手がかからなかったエピソード」を良き思い出のように話すのを聞く機会があると、心が荒れ狂って獣のようなかたちになってしまうんだよなあ。いつか本物の虎にならないよう注意します。)
あとこの記事を書くきっかけとして兄との対話がありましたが、兄曰く
ということだったので擦り合わせのようなものはかないませんでした。ちょっと残念でしたね。
こんな環境の下でグレる気力もなくしたわたしが、体だけはすくすくと立派に育ち、高校生くらいになった時の話でしょうか。
父が仕事で体調を崩し、自宅で過ごすことが多くなっていたころです。
いつものように休日を家で過ごしていた両親とわたしが昼食を食べていたとき。わたしにとって衝撃的な事件が起きました。
と言ったのです。
…………h、?は?
ハァ????????????????????????????????(フォントサイズ最大)(太字)(赤色)
と、そのときは思わず内心ではバチクソにブチ切れる若者になってしまいました。その後「えへへ…(照れ)///」みたいな態度を返した母に対してもです。
突然のことに(非常に残念ながら)体は驚き固まり動かず。突然見せつけられるリアルな夫婦の惚気(十数年間生きていて初めての!)とのにテンションの差でしにそうになりながら、息をするのがやっとだったわたしは、心の底から思いました。
その後わたしの遅めでささやかな反抗期「挨拶や会話を振られてもちゃんと返さない(面倒な人間を相手にぶつかり合うのが面倒になっている為こうなりました)」が発動されることとなりました。
また、今思い返してみればという話ではありますが。
わたしの両親は「限りなくマイペースで自分のペースが保てないとストレスを溜め爆発する」、「一人の時間がないとしんでしまうタイプ」、「作業や趣味や息抜きも一人で没頭したい人間」、「疲れるとコミュニケーションの余裕がなくなる(もともとのコミュニケーション許容量が多くない)」という属性のほか、
という隠れ属性を持っていたわけですね!すごい!
もっと早くに知らせてほしかったな~~~~~~~~~~泣きそう!!!!!!!!!!!!!(もう泣いてる)
幼い子供の前で十数年!ガチシリアスな雰囲気で怒鳴りあい時に片方と見ていた子供が不安で泣くようなギスギスした特殊コミュニケーションが?!痴話喧嘩だったなんてことあるか?!?!?!?!?!?!!!知るか~~~~~~~~い!!!!!!!も~帰らせていただきますわ~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!(実家が住む家)(秒で顔合わす)
ハァ……ハァ……
冒頭に書いた通りですが、最近になってやっと比較的ちゃんと人間としての心が正しく揺れ動くようになったので、これが「怒り」であり「悲しみ」だというのを”理解”して”発露”してしまいましたね。フフッ ウッカリウッカリ☆(棒読み)
そんなこんなでややダウナー気味の反抗期を迎え、両親との溝を更に深めたわたしですが、更なる問題が発生します。
私が大学に入ってすぐのころ、父が亡くなりました。
大病の末の結果なので、家族として心の準備はできていたと思っていたのですが、それでも誰かがいなくなるのは悲しいですね。
などと心から人間味のある言葉が出てくればよかったのですが、そんなことはなく。ただただ日々感じていたひとつ大きなプレッシャーから解放された自分の心を、不思議な目で眺めるわたしがいるだけの生活になりました。
特に大きく日常が変わることはなく、このまま過ごしていくと思っていました。しかしそのときわたしは気づいてしまった。
「あれ?もしかしてこの先もずっと生きなくちゃいけないのか……????」
そう、そこでわたしは「自分の人生に真剣に向き合うということをおろそかにしていた」ことに気づいてしまいました。
「家でプレッシャーを放ち続ける父母祖母のご機嫌を伺いその日その日を生きること(解放されるのは外出時と寝る時)」に人生の大半を費やしてきたわたしはどうも「自立する」、「新しいことに挑戦する」、「ペットを飼いたいと交渉する」など、両親との長めの話し合いが発生する場を悉く避けて通ってきたようです。本当に、ここまでまったくの無自覚でした。
まあ気づいたところで急に何かに目覚めるわけでもなく、まずもって気力がないので出来るわけでもありませんでしたが。「このままじゃいけない気がする」という漠然とした焦りから、映画や漫画、アニメなどの創作物に対し、心新たに触れるようになりました。(もともと漫画やアニメなどは好きで小さいころから見ていたんですが、日常からの逃避先がそこだった為か、内容を覚えていたりいなかったりするんですよね……記憶がない状態で楽しむアニメと漫画、めちゃくちゃ面白いよ!ヤッタネ☆)
その後なんやかんやで就職できて、何年か社会人を経験し、先輩や同僚にもまれたり気の合うゆかいなオタク友達との出会いがあったお陰で、やっと「人語を話すけど意思の疎通がはかれない人型の動物」から「たどたどしいがやろうと思えばなんとか意志の疎通がはかれる人型の動物」にクラスチェンジできました。
こんなクソ重いありがとうを直接伝えることは憚られるので、ここで叫ぶことをお許しください。
特にゆかいなオタク野郎のみんな~~有難うな~~~!!!これからも仲良くしてくれるよう頑張るよ~~~~!!!!!
相変わらず親に似てコミュニケーション容量が低いままではあるけど、それも含めてなんとかやってます。(しかしここまで来るのがあまりに長かったので、これまでに大変なご迷惑をお掛けした人のことを思うと、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。本当にすみません。もうこんな(わたしを始めとした)人間未満みたいなものに出会わないようにと祈っております。日々が穏やかで良いものでありますように。)
自分では上記にある辺りの激しめの感情はとっくに昇華されたものだと思っていたのですが、疲れて余裕がないときにバラエティなどを見て笑っている母をみると無性に苛立ち、シリアスに泣き出したくなってしまうときがあります。ちょっと危険だなぁと思っています。一種のボーダーラインだと思ってそういう時は寝て回復に努めるのですけれども。
この文章を書きながら全然昇華されてなくて自分でも笑ってしまいましたし、いつか本当に追い詰められた時に有事を引き起こしてしまうようなぼんやりとした予感があります。お金が貯まったらちゃんと離れて暮らそうと思います。お互いの為にもね。
また未だに「健康な精神状態で運営された家族という団体」への憧れは強くあるようで。
誰かが手掛けた創作物でキャラクターが心通わせる表現にふれると、あまりに眩しく尊く感じ涙を流したり、TLで健全なコミュニケーションが成立し、信頼関係が成り立ったご家族のアカウントを見かけると「本当に実在し(ていてくれ)たんだ」と感動してしまいます。なんか、アレだ……太陽の光に当たってぼんやりと、あたたかく眩しいなと感じるような瞬間に似ています。存在していてくれて本当に有難うございます。わたしが勝手に救われています。
繰り返しますがこの文章は、それなりに情緒が育ちその当時の感情の言語化、過去の振り返りおよび分析ができるようになってきた「わたし」が、その気づきとともに過去の自分の感情に圧し潰され、溢れだす記憶に涙が止まらなくなり、座り込んでしまった「わたし」のための個人主観の記事です。
今何かに苦しんでる「あなた」を追い詰めるためのものではないので、もしもここまで読んでちょっと苦しくなっちゃった人は、とりあえず体をあたたかくしてゆっくり休んでほしい。休んで。寝て忘れてね。どうぞお大事に。
ときどき思い出に苦しめられつつ、寝ずに一気にこれを打ったので、ところどころぐちゃぐちゃな文章になっていると思うのですが、ここまでお付き合いいただき本当に有難うございました!
こんなところまで読んでくれたあなたにも、ちょっと良いことがあるといいですね。
それでは。