はてなキーワード: 懐古趣味とは
昨日のくりいむなんたらって言えば分かる人は分かるかな。
あれでジュリアナ東京を知っている若者が25人中0という結果になったよね。
漫画やアニメとなると、その時代に生きた人が精力的にネットに情報が整理していて学ぼうと思えば学べる環境が整っているということなのか、お前その放映時に絶対生きてないだろっていうティーンが何十年も前のアニメとかも語れるという例は普通にある。ガンダムとかその典型だな。その特撮版が仮面ライダーで、その共通点は今も絶賛新シリーズ放出中で、若者が「昔のシリーズはどうなっていたんだろう」と興味を持つきっかけを内包しているということ。
しかしジュリアナ東京のようなより純粋な時事ネタは、その言葉を知るきっかけに乏しい。パラパラとかお立ち台という言葉を辞書で知る機会があったら、なんとかそれを検索キーワードとして手繰り寄せればたどり着くこともあるか、ないか。
二次元系のオタには懐古趣味を併発している人もいるものだから、25人中誰も知らなかったのはオタクといえどもここまでかなと一瞬思いそうになったが、さすがに25人に1人の確率で存在するほどオタクも安いものじゃないわなとすぐ軌道修正した。
「時事ネタオタク」というのもいなかったんだろうかと同時に思ったが、同じように考え直した次第。
もしも真面目にZ世代が平成昭和後半の時事ネタに詳しいオタクになろうとしたなら、図書館にある新聞の縮約版を読めというのがまずは考えられそうだ。
でもテレビではやっていて新聞には載らなかったネタなんかもありそうで、完璧を期すには程遠い方法論な気もしてくる。
俺も25歳でz世代なのか微妙な年頃だが、当時流行ったタバコの銘柄なんかもしあったとしても、新聞にも放送アーカイブを検索しても出てこないだろうし、やっぱどう考えても当時を生き抜くという最強のアドバンテージには若者ではどうやってもかなわないものがある気がしてくる。
以前、出身校が校舎を建て直すための寄付を集めていたんだけど、
色がばらばらになっているレンガ造りの建物を見た目そのまんまな感じに再現する、って言うんだよね。
似たようなノスタルジックな建て直し計画はよくあるのだけど、俺はそういうのは大嫌いで、作るならパフォーマンス向上にすべての予算を注ぎ込んで作って欲しい。
「今はまだコスパが悪くて市場性は無いけど、最先端の技術をつぎ込めばこんな便利な建物が建てられる。
『俺たちの先輩が寄付を集めて建てた世界初尽くしの建物がこの校舎だ』と今後100年言わせる校舎を建てるから寄付をしてくれ。」
と言われたら、たぶん俺も寄附しちゃうんだけど、
と言われても、どうでもよくなっちゃうんだよなあ。
「本日未明、3丁目の住谷ギョルゲ氏27歳が1丁目1ブロックの鈴木ミチザネ氏宅に窃盗目的での侵入を判断しました」
「これを受けてペディア評議会は住谷氏の認識の自動ダウンライトを即座に実行」
「住谷ギョルゲ氏は今後意識が落ち着くまで、『窃盗』という言葉・行動の代わりとして『草むしり』を認識するようになりました」
「ペディア評議会は住谷氏窃盗の判断理由を生活困窮のためと発表しております」
「皆様におかれましては住谷氏への支援策として草むしりの代行依頼を募集しております」
「詳しい料金や時間設定におきましてはペディア評議会HPをご覧ください」
「住谷氏の今後についてはクラウドファンディングでのワークプラン創出を予定しております」
テレビでは今日も地方のさえない男性アナウンサーがご近所ニュースを読み上げている。
私はソーメンをすするのを止めて、「うちの草むしりも住谷さんに頼めばよくない?」と母に呼びかけた。
「嫌よ。空き巣しているつもりでうちに来るんだから、草むしりするの夜中とかでしょう。気持ち悪くて眠れないわ」
母はちらりと窓の外の庭を見ながら答えた。
やはり雑草の伸び具合は気になるらしい。
「たぶん留守中指定もできると思うよ。お母さんが手続きが面倒ならおこづかいくれるなら私がしてもいいよ」
「あたしはダウンライトゥンを利用するのが嫌いなの。悪事を判断したからって利用するのは社会的制裁みたいで前時代的だわ」
今日も母は手ごわい。しかし夏休み明けまでにどうしてもあと2000円だけほしいからあきらめるわけにはいかない。
「そういうダウンライトゥン差別の方が古いよ。報酬は払うんだからただの社会的支援よ」
「社会支援なら、彼がオーバーライトされてクラファン開始されてから依頼するわ。どうせ悪趣味なペディア協議会のことだから草むしり会社の立ち上げでもさせるでしょ。この話はおしまいおしまい」
そう言って、母はごちそうさまをして、自分の食器を片付け始めた。
「それで今回は何が欲しかったの?」
ソーメンを食べ終わった私に、麦茶を注いで私に手渡しながら母は言った。
もう少し、座ってなさい、話をしましょうということらしい。
「ほしいって何のこと?」
「さっきの草むしりの依頼でお小遣いが欲しいって言ってたでしょ。欲しいものがあるなら直接言ってくれればその分の代金は渡すのに」
「だってさー」
「だっても何もないわよ。言ってごらんなさいよ、化粧品?服?それともどこかデートでも行くの?」
「そんなんじゃないよ。言っても買ってくれないでしょ。ペディアの20thアニバーサリーバージョン」
母は露骨に嫌な顔になる。
「あんた、脳内メモリどんだけ拡張するつもりなの?もう入っていない言語の方が少ないんじゃない?」
「そんなんじゃなくてさー、今度のペディアには動画の20倍速再生理解モードが入ってんの。10年分くらいアニメ知識足りなくて、友達との話についていけなくてさー」
母と私は同時にため息をつく。こいつ話が通じないわとお互いに思っているのだろう。
「ペディア19じゃダメなの?今度のペディア20はメモリ拡張の他に15年ぶりの語彙アップデートもあるでしょ?少し様子を見た方がいいんじゃないかしら」
また母はどこかで陰謀論をかじってきたらしい。
「語彙だけじゃなくて知識と技術のアップデートもね。相対性理論の理解から大型クレーンの運転技術まで。ペディア前は習得困難とされていたものだって引用と実行に1秒もかからない。そんな世界の転換からもう20年も経っているんだから少しはペディア開発会を信用したら?」
今どき、ペディア4を使ってるのはお母さんくらいよとも言ってしまいたくなる。
「あたしだって信用したくないわけじゃないの。さっき気持ち悪いって言っちゃったけど、ペディアの犯罪抑止目的での思考監視と認知変換でたしかに犯罪は世界からなくなった。でもそれと同時に無くなった言葉もあるじゃない」
まあた、この話だ。母と同世代かそれより年上のインテリ(死語)たちはこの手の話題が好きすぎる。
「はいはい禁語ね。差別的な言葉やそこまでいかなくても過度に区別する意味のない言葉、体に害ある行動や文化の言葉が語彙としてペディア内から削除され、認知すらできなくなる」
私はかぶりを振った。
「それの何が悪いの?歴史理解に必要な言葉については多くの注釈付きで別の妥当な言葉に置き換えられるだけだし、ペディアが禁語にしたとしても、新しく発見され別の言葉が充てられるだけのケースもあるじゃん。あの何だっけ、日本版のワンピースのサンジが吸ってるの」
「『タバコ』ね」
母はペディア4使いの古い語彙を言ったのだろうが私には『ね』しか聞こえなかった。
「たしかに私はその言葉を聞くことすらできないけど、『ケミリル』って同義の言葉は知ってる。そんなワンピースを読んだオタクが作った語彙が生まれて私たちの世代には広がってる。消された言葉でも必要な言葉なら再生産されて拡散される」
「でも何度再発見されて再生産されてもペディア評議会に弾圧されて消される言葉もあるわ」
そうつぶやく母は悲しそうな眼をしていた。
「それって本当に差別的な蔑称とか区別することが社会的害を及ぼす存在に対する言葉だけでしょ?不必要じゃん」
「あんたにはわからないでしょうけど、侮蔑的な言葉を言ったり、書き込んだりすることに自由を感じた世代もいるのよ」
「ただの懐古趣味でしょ、そんな非生産的なことこそアップデートしなきゃ」
母は少しためらいながら「それがあたしたち世代には人間らしいことだったの」と言った。
「さあ午後は『人間』らしいことしましょ」と母は立ち上がって言った。
「何言ってるかわからないんだから意地悪しないでよ、何するの?」
なんでみんないつまでも100年以上も昔のタイプライターの成れの果て、みたいなキーボードをカタカタ叩いてコンピュータ操作してるの?
使いこなすには習熟が必要って、そりゃそうかもしれないけど度が過ぎてないか?
特にCUIがいけすかない。DOSプロンプトを初めて見た日から今に至るまで、あんな不親切なインターフェースを一度だって良いと思ったことはない。
$とかC:\とかなに?適当に文字を打ってもエラーしか出ない。使われるのを拒絶しているようにしか見えない。
ゲームで言うなら1980年代のテキスト入力型アドベンチャーみたいなレベル。コマンドを全部覚えてないと何もできないクソゲー。
多分もうおっさんしか知らない。いまどきそんなゲームはないだろ?つまりそれだけ遅れてるんだよ。
使いやすいようにカスタマイズするのが当たり前?だったら最初からその使いやすい状態で提供してくれよ。不親切なまま提供しないでくれ。
ややこしいところはコンピュータでよしなにやってくれよ。いまどきのコンピュータの処理能力はすごいんだろ?ユーザーがわからない部分はちゃんと誘導してくれ。
お前のレベルが低い?おう低いよ。
でも、コンピュータってのはあまたの人類を幸せにするために作られてるんじゃないの?
CUIを使うのはプログラマみたいなIT関係の人間で、高いレベルが要求されるというのは一定の説得力はあるかもしれない。
でもな
不当な難しさをそこここに感じるんだよ。
ありとあらゆる前提や約束を覚えてないとまともに使えない環境は、たとえプロ向けでも俺は環境とすら呼びたくない。
ヘルプを見ろ?読んでるよ。ヘルプ読んだだけで使える人間がどれだけいるんだ?しかもどれだけヘルプを読んで覚えないといけないんだ?
コマンドラインオプションも訳がわからない。ハイフンが1つだったり2つだったり、$ tar xvfとかなんだよ。毎回ヘルプ読まないと使えやしない。
慣れるほど使い込んでいるユーザーばかりだと思わないで欲しい。
GUIでは右クリックですぐにメニューが出ることが多くて100万倍マシだが、あれだって「右クリックする」というお約束があっての話で最適解からは程遠い。
ものを使うのに大事なのは機能そのものであって、使い方はもっと然るべき自然な誘導があるべきじゃないのか?
特別にHHKBをけなす意図はないが、無刻印キーボードとか最たる例だ。
なんだありゃ?既にUIであることすら放棄してるだろ。旧時代の複雑な飛行機のコックピットですら各部に名前くらい付いてるぞ。
あれを日常的にありがたがって使ってる人間が「あらゆる人間が使いやすいものを作る」のを目指すのはなにかの冗談にしか聞こえないんだよ。
それとも、高尚な人間が下々の無知蒙昧な人間に使いやすいものを提供してやろうって感じなのか?
俺も少しはコンピュータを使って飯を食ってるが、そうじゃないと思いたいんだよ。
コンピュータの都合でグラフィックが使えない環境ならテキストベースになるのはしょうがない。
でも、しょうがないで終わらないでほしいんだよ。しょうがなくない環境でも人の都合で使ってる場合も多いよな?
今を最高とか思わずに、なんとかそこから進む意思を持ってほしいんだよ。
文字列を延々と眺めてカタカタターンッ!てのが格好いいと言う時代はさっさと終わって、次の時代になってほしいんだよ。
遅ればせながら『シン・エヴァ』観ました。個人的な感想メモ(ネタバレあり)。ちなみにTV版から観ている39歳男です。
・旧劇場版でシンジとアスカがお互い傷つけあったのは「二人は他者だから、触れ合えば傷つくのは必然なんだ」と受け止めてた。それに対する『シン・エヴァ』の回答は「あれは二人の相性が悪かったせい。それぞれ別の人とくっつけば幸せになれるよ」ってことだと理解した。マジか、と思いましたね。あまりに身も蓋もなさすぎて。しかし言われてみれば確かにそう。こうなってみると、もうこの終わり方しか考えられない。
・旧劇場版のアスカって、エヴァの全編を通してみてもトップクラスに酷い目にあってたと思う。肉体的にも精神的にも。見ていて居たたまれなかった。なので、浜辺のシーンで惣流のほうのアスカも救済してくれて嬉しかった。
・それにしても、まさか渚カヲルがゲンドウの分身(別人格)だとは思ってもみなかった。これが一番衝撃的だったかも。
・でもよく考えると、TV版の時点でカヲルはレイに「君は僕と同じだね」って言ってるんだよね。レイがユイのクローンだとして、じゃあカヲルは誰の分身なのかと考えれば、論理的にはゲンドウしかありえない。なんで俺は25年間その可能性に気づかなかったのか、ということのほうが今となっては不思議。
・カヲル君の「歌はいいねえ」という台詞とシンジ君のウォークマンが、25年の時を経てゲンドウというキーワードでひとつに結びつけられる展開は震えた。
・あそこに置かれていた鉄道車両は、庵野さんの故郷の山口あたりで昭和時代に走っていたやつが多かったと思う(あとは天竜浜名湖鉄道?)。あの村が箱根のそばに2029年ごろに存在しているとすると、明らかに時空が歪んでいる。この時点ですでに庵野さんの心象風景に片足を突っ込んでいると理解した。あの村全てが仮想空間とも受け取れる。
・作画もあの村の場面の一部だけ、なんか質感が違いましたよね?
・TV版から存在していた夕闇の電車の中での自分との対話シーン。あれはあの旧型国電の中でやってたのか。あの車両は庵野さんの地元の宇部線で長く走ってた形式。なので単に懐古趣味で旧い電車を出してたのではなく、自分の故郷の、おそらく青春時代によく乗っていた電車の中でずっと自問自答していたわけね。なんというか、本当にエヴァって私小説だ。
・村の人がレイを「そっくりさん」と呼び続けるの、普通に気持ち悪いよ! 初日だけならともかく、その後もずっと。同僚に対してその扱いは酷くないか。レイ視点だから悪意がないように受け取れるけど、実際にはあれは村社会の新人イビリなんじゃないの。エヴァは「誰が誰をどういう名前で呼ぶか」について極めて意識的な作品なので、こういう「気持ち悪さ」も織り込み済みでやってそう。
・レイはやっぱり個体によってかなり人格が違う。にしてもTV版の「ばーさんは用済み」のあの子だけは極端に性格悪かったな。あれは何だったのか。
・ミサトさんは「自分は大人じゃないけど、それでも大人の役をきちんと果たすんだ」と決めた人。TV版と旧劇場版ではそういうちゃんとした大人はミサトと加持ぐらいだったけど、新劇場版ではリツコとヴンダーのクルー達も付いてきてくれていて、そこが良かった。
・にしても生命種の種を満載した船で最終決戦に突っ込むのは、リスク管理としてやばすぎ。そいつらはどっか安全な場所に厳重保管しておくべき。
・ミサトさんが息子とずっと会わないと決めたこと。それってユイやゲンドウと同じ過ちを繰り返してるんじゃないの、と思えて複雑だった。ユイも「自分の選択を息子はわかってくれる」みたいなことを言って死んだけど、息子の側からしたら親に捨てられたと思っただろうし、その葛藤を描いてきたのがまさにエヴァという物語なので。これは「シンジの物語が終わっても全てが解決するわけじゃない。親子の葛藤は次の世代にも続いていく」というメッセージだと受け止めた。
・新劇場版の全体を通して、リツコさんの物語はほぼカットされちゃった。新劇から見た人にとっては、あの人はミサトさんの有能な副官というだけの存在になるのかな。まあ尺もあるし仕方ないか。
・新劇場版での冬月が何をしたかったのか全然わからない。旧劇場版まではユイとの再会だよね? 今回は違うの? あんた何なの?
・ゲンドウとシンジの取っ組み合いのケンカは笑った。庵野さんって、映画の前半で綿密にリアリティーを積み上げておきながら後半で暴走するよね。『シン・ゴジラ』の無人在来線爆弾のときも思ったけど。
・「ユイ、お前はずっとシンジの中にいたのか」って、そんなの当っったり前だろうがー!! そんな凡庸な結論に至るまでに人類を3回も滅亡の淵に追いやるんじゃねえよ。
・庵野さんはエンディングの巨匠だと思っている。「全ての子供達に、おめでとう」と「気持ち悪い」。観た人の記憶に刻み込まれるエンディングを2つも作ったのは神業。
・そして今回のエンディングも後世に語り継がれる素晴らしい出来だと思った。俺は泣きました。
・大人になったシンジ君、イケメンだなあ。声は神木君だしパートナーは素敵な人だし。この話って結局「ただしイケメンに限る」ってやつじゃねーの、という思いもよぎる。
・チョーカーを現実世界でもずっとつけてたのは、思春期の呪縛はそれだけ強いものなんだという意味合いかな。それとも単にマリがチョーカーを外す場面が撮りたかっただけ?
・マリは鶴巻和哉の色が濃いっていう評を見たけど、確かに『フリクリ』から飛び出てきたみたいなキャラ。『フリクリ』も大好きなので嬉しかった。鶴巻さんもありがとう。
・でもこの結末って言ってみれば「夢オチ」だよね。それでも自分も含めて肯定的な感想が多いってことは、要するにたいがいの人は登場人物の人間関係に決着がつくことを何より重視していて、そこに整理がつけば夢オチでも構わないと思ってるってこと…?
・「One Last Kiss」最高。天才の曲。宇多田ヒカルのエヴァ関連の仕事は全て文句のつけようがない。こんな荒唐無稽な物語にかっちりハマりつつ、なおかつ宇多田ヒカルらしさを失わない曲をよくぞ3曲も作ったものだと思う。宇多田ヒカルさんもありがとう。
・で、『Q』で出てきたトウジの制服は何だったの? とかそういうことを考えだすとキリがないので、もう考えない。
劇場で自分の前の席に高校生の集団が座っていて、終わった後で「どうだった?」「わかんねー(笑)」と、まさに自分が高校生で旧劇場版を観た時と同じような会話を繰り広げていた。そのことに何だか感動してしまった。
SteamでSF系のゲームを見てると"Sci-fi colony sim”みたいな文言がたくさんでてきて、察しはつくけど調べてみると案の定Science-Fictionのことだった
正直かっこいいと思う ちょっと手垢がついた感じかする"SF"よりsci-fiの方が新しくて洒落てる感じがする
SFに出てくる宇宙船のモニターがブラウン管だったら「うわ〜…」とちょっとした哀れみを感じるけど、これがSci-fiだと小粋なジョーク・わざとやってる懐古趣味・過去作品へのオマージュという印象になる
でもムカつく カッコいいからこそ気取りやがってとも思う 若造っぽい いや、多分sci-fi表記だって昔からあるんだけど なんだか…
SF好きなんですよ!って高校生が言ってたらホウホウ見どころのあるやつだと思うけど「Sci-fiものとかよく読んでますね」なんて言われたら粋がるなよ若造が…と思う
なんだこの感情は
(追記)
ファー 老人会やんけ!
そうか sci-fiが新しいっていうよりは国とかコミュニティの違いで、むしろ国内でいうならSFのほうが新しいのね
勉強になりました
これはZoffになるかハズキルーペになるかどっちがいい?って選択なんだよ?
だいたいね、おっさんおばはんジジババ向けに舵をきるとネット受け最悪になる。
日本スゴイ系の歪んだ民族意識やバブル期までの西洋白人文化至上主義、家長制度に由来し現代的ポリコレから乖離した旧態依然の価値観、昭和に対する退廃的な懐古趣味、ニヒリズムの権化のようなリベラルの上澄み…
さすずめこんなところに行き着きがち。
つまりWebでのマーケティングと中高年以上が対象の商品は相性が悪い。真っ当にターゲットの好みに近づけようとすると炎上商法になる。
ハズキルーペを武井咲がケツで踏んでキャって言ってるのも呉服屋が「ハーフの子を産みたい人に。」というコピーを掲げるのも今のアラフィフ以上は気にもとめないしむしろそういうアプローチのおかげで彼らの関心をあつめることに成功していた。
さらに踏み込んでいうと「若者向けの施策」っつうのは「これからはWebが広告や広報の主戦場だから、もうそろそろうちも自前のサイトつくる以外のことで外に向けてもっとなんかやってきたいんだわ」っていうのの言い換えでしょ?
私は広告業界で10年ほど広告制作の仕事をしていた。最初は総合代理店で、最後の半年はWEB広告代理店で。
そして昨年末をもって退職に至ったので、退職エントリではないが、なんとなくWEB広告の実情について
広告業界の人たちにも話したかったので文章にまとめることにした。
私はそれは、奢りではなく、むしろ戒めだと考えている。
なぜなら広告会社は、そういった矜持を自戒の念を込めて持っていないと、
私は新卒でとある広告代理店に入社し、そこから10年ほど制作を担当することになった。
最大手というわけではないが、時々全国規模のTVCM制作も手がける、そこそこの代理店である。
そこは、今となっては「働き方改革」の標語ひとつで一蹴されてしまうような、徹夜と休日出勤を繰り返す昔ながらの制作現場だった。
私はこれは、他ならない「文化からの転落への恐怖」に起因していると考えている。
タレントは不自然に微笑み、手放しで商品を褒める怪しいコピーで溢れかえり、
だからこそ代理店の制作者は、1ミリでも多く、見る者の目を楽しませる努力をする。
広告の枠を超えて世の中全般を動かせるような言葉を発信できないか苦悶する。
「ゴミ」と「文化」の間に横たわる深い河を、靴一足分だけでも超えられないか、
誰だって、自分は人生をすり減らしてゴミを作ってる、とは思いたくない。
そんなミリ単位のこだわりを爆発させていくうちに、時間外労働は積み上げられ、
(ホントにダラダラやってるだけのヤツもいるんだけど)
私は土日の撮影や徹夜のプレゼン準備が反吐が出るほど嫌いだったが、
そういういい歳こいたおじさん達が、1ミリでも良い物を作るために
わがままを通そうとする姿を見ているのは嫌いではなかった。
情熱大陸とかプロフェッショナルでは、プロ達は綺麗なオフィスでキラキラ仕事している場面ばかりだが、
現実のプロ達は深夜の制作会社の会議室で、ボロボロになりながら臭い鼻息を撒き散らして仕事に食らいついている。
繰り返されるのは、誰かが「もうこの辺で辞めにしませんか?」と言ってしまえば終わってしまうような脆弱な会議である。
しかし「少しでも良いものを作らないと俺たち生きてる意味ないよな」という不文律が全員の頭の中に共通して存在するから、
「もう辞めよう」と口にする人は一人もいない。そして1ミリだけ良くなった企画書を持って徹夜明けでプレゼンに挑む。
その情熱大陸が映さないような種類の、リアルな感じが好きだった。
まぁ、そういうおじさんおばさん達の見えない闘争が積み重なって、
「広告は文化」と心の中で思っていても怒られないくらいの社会風潮は出来たのではないかと思う。
過去の名作広告をまとめて本や番組が作られるくらいなのだから、一応文化と言っても差し支えはないだろう。
その会社で9年働いた後、私は縁あってWEB広告の代理店に転職することになった。
これが同じ「広告代理店」を冠しているが、とても同じ広告を作っているとは思えないような職場だったのである。
ここが広告という文化を殺して食べる、屠殺現場のような場所だった。
それは「数値化」だ。
WEBで広告を作る、ということは、制作物の全てを数字に置き換えることができる、ということなのである。
この広告が何秒見られたのか、どんなクラスターの何%が見たのか、何%が商品を買ったのか、広告のコスト効率はいくらか。
広告の全て数字で語ることができるのがWEB広告の独自性であり、実際私が居た会社はその強みを最大化するような戦い方をしていた。
すると何が起こるか。
たとえば、必ず視聴率やクリック率が高く出るような広告をつくる。
それはどういうヤツかというと、始まってすぐに「お得なキャンペーン」とか「今だけ何%ポイントキャッシュバック」といった数字を画面に大きく出すようなアレである。
誰もがあれに反応するわけではないが、一定層そういう数字に反射的に反応する人種の人たちがいる。だから結果的に数値はわかりやすく上向くのである。
コスト効率を上げる方法は2つしかない。前よりも大きく結果を出すか、制作費を削るか、である。
そういうわけから、WEB広告代理店では撮影や外注を行わない広告制作が奨励されている。
ストックフォトやフリー素材だけで制作すれば、地獄みたいなクオリティになるが原価はゼロに近づく。
そして前述の視聴率アップの手法があるので、不思議とそんなものでも視聴率が高かったりする。数千万かけて作ったTVCMより高かったりする。
その結果、コスト効率は上がり、「クライアントも喜んでいます!」という嘘みたいな報告が営業からは来るのだ。
私にはこれが、数字に裏付けされたゴミを作っているようにしか見えなかった。
始めにこのクオリティの広告を見た時「まともなクライアントがこれにお金を出すはずがない」と思っていた。
しかし実際は違う。喜んで買っている。そりゃそうだ、クライアントの持っているお金は「広告宣伝予算」であって「広告文化への投資予算」ではない。
RADWIMPSが歌うデザインされたTVCMであれ、フリー音源とポイント還元キャンペーンだけで出来たWEB動画であれ、効果が高そうなものにお金を払う。
なんとなく効きそうなだが高価な胃薬と、見た目はチープだが安価で効き目が数字で裏付けされている胃薬だったら、後者を選ぶ人は少なくない。
私が在籍していたのは半年程度だったが、WEB広告会社が大手代理店から仕事を奪ってきた、というようなニュースを度々耳にした。
かくして、広告という文化は、数値に裏付けられたゴミによって貪られ、じわじわと瓦解し始めている。
今なお「広告は文化だ」と思っているのは広告制作者を始めとする一部の広告ギークだけなのだろうか。
もしかしたら多くのクライアントサイドも、今では広告を文化だとは思っていないのかもしれない。
(思っている希少なクライアントもいる。代理店はそういうお客さんを大事にしてください。)
少なくとも、WEB系の広告会社にはそもそも広告を文化と思うような発想はない。
ただ忠実に、広告は言葉通りの「広告」なのだと彼らは思っている。
彼らは非難される立場ではない。だってそっちの方が本来の「広告」の語義には近いのだ。
「経済を回すための1つの因子」みたいな感じに思っているんだろうなぁ、きっと。
文化もろとも倒壊しているのにも気づかず勝ち気になっているのが我慢できなかった。
懐古趣味の「昔は良かったおばさん」みたいな話にはしたくなかったのだけど、
2019年、ついにWEB広告の出稿費がTVCMのそれを超えたという。
この先の広告業界がWEB業界を中心に回るのは日を見るより明らかだし、その時のエースプレイヤーは私が辞めたあの会社かもしれない。
しかし、あの地獄クオリティのWEB広告達を元に大学の授業が行われることはないだろうし、それを論じた本が出るようなこともない。
広告という「文化」は静かに解体され、彼らに食いつぶされ、いつの間にか消滅していることになるだろう。
私はそんな「冷たい熱帯魚」みたいな解体現場で確かに働いていた。
これは救命ボートからタイタニック号に乗り換えるような所業かもしれない。
ただ無邪気に文化を貪り続けるよりはマシだと思っている。