はてなキーワード: 素粒子とは
>もう飽きたのか?(anond:20220114090934)
さぁどうなんでしょうね
どんな暇人でも飯食ったりうんちしたり風呂入ったり買い物行ったりなどすることはゼロじゃないので
他のことでもしてんじゃないの?
ただあれだけしつこかったので ↓
anond:20220113203308 anond:20220113164904 anond:20220113192512 anond:20220113193007 anond:20220113193326 anond:20220113203701
Q2(2022年現在、原子も電子も素粒子も「実在しない」は証明されていない) までは理解ができたのかトラバが欲しいところ
Q1:原子・電子・素粒子などが世界を構成している認識が増田にはありますか?
"YES " or "NO"
↓ YES (Q2へ進め) → NO (どこから説明するか改めて考えるので待たれよ)
Q2:ウルトラ雑に言うとコペンハーゲン解釈は「だってしょうがないじゃん。そうなってるし」と言うものに過ぎませんが
2022年現在、原子も電子も素粒子も「実在しない」は証明されましたか?
"YES " or "NO"
anond:20220113203308 anond:20220113164904 anond:20220113192512 anond:20220113193007 anond:20220113193326 anond:20220113203701
その物質はダークマターと名称が付けられているが3つの特性がある
2、触れても検知できない(電子に反応しないため触れたことに気付けない、検知できない)
3、宇宙がバラバラにならないよう結びつける繫ぎ止める役割のような性質を持っている
1と2は原因が同じである
ダークマターは電子に反応しないため、我々の知ってるやり方では検知する術がない
検知できないので、存在してても見ることもできない・触れても分からない
3は原因はよく分かっていないが非常に似ている存在を我々は本能的に知っている
重力は見えず触れることもできない存在だが、存在することは地球上の生命体は知っている
実際にダークマターの正体が重力(グラビトン)に関わる素粒子でないかと提唱されている
宇宙というのはどうも大量の重力の影響を受けていてバラバラにならないように繋ぎとめられているらしい
研究者がなんとかダークマターを検知できるよう発見できるよう死力を尽くしているが結果は出ていない
宇宙の大半にダークマターが存在する場合、一つ覆る可能性がある現象がある
時空震は超新星爆発などのタイミングで計測され、存在が確認された現象である
真空状態で振動を伝達するものがないのに揺らぎを感じたら、揺れているのは時空ではないかという考え方だ
宇宙の大半にダークマターが存在する場合、実際には振動を伝達するものがあるようだということになるので、時空震の前提が崩れ考え直すこととなる
ダークマターは検知することもできずコントロールする手段も皆目見当もつかない状態だが概念的にはファンタジーであるエーテルやスターウォーズであるフォースに近いとも遠いとも言える
”フォース(The Force)は銀河系のあらゆる生命を繋ぐエネルギー場である。”
スターウォーズの世界では、細胞内に共生する微生物ミディ=クロリアンがフォースを検知することができるため、それを通してフォースを感じ取れる操れるという設定になっている
次に
ファンタジーにあるエーテルは大体魔力と称されるエネルギーで大気中や物質に内在してたりなどそこらに充満していると考えられる設定である
魔法使いやモンスターはエーテルを感知し操るすべを獲得しており、それで魔法や超能力などの異能力を発揮できるという設定がセオリーである
ダークマターが検知できて操れる術を獲得できたらどうなるのかの回答は現代科学ではまだなんの見当も付いていない
うまくいけば重力操作ができるようになって低エネルギー消費で飛行できる乗り物が量産できたりするかもしれない
UFOはそういう発想で描かれていたりすることが多い
科学が発展し多くのことが分かるようになってきたと思っていたが、実際には宇宙の80%がなんかあるみたいだけど分からない・知ることができないというのが、現在の人間の限界であり、まだまだ宇宙には分からないことがたくさんあるという浪漫を示してくれている
これはある程度同意します。比較言語学で遡るのが可能なのはせいぜい数千年のスパンに過ぎず、それを過ぎると言語の変化が大きすぎて文献が残っていない限り系統の推定は困難になる。したがって日琉祖語がどこから来たのかという問題に完全な決着をつけるのは難しい。
だから、わからんならわからんでブラックボックスにしときゃいいんじゃねって思うんですよね。無理に「トランスユーラシア語族」とかでっち上げずとも、遺伝的な系統がわかればそれで十分じゃんって思うんですが。繰り返すように、血縁と言語の系統関係が一致するとは限らないわけで。そして後者は今のところ文系的な方法論でしか探索できない。
テュルク語族を見ればわかりますよね。トルコ人は中東っぽい彫りの深い顔立ちで、クルグズ人は日本人そっくりの平たい顔族ですけど、言語としてはトルコ語とアラビア語、クルグズ語と日本語より、トルコ語とクルグズ語の方が近い。それはゲノムではわからんから言語学の手法で解き明かすほかないわけですよ。
https://anond.hatelabo.jp/20211111231157 で紹介した文章ですが、以下のように国内の言語学者たちもゲノム研究を軸に研究を進めているのが現状だと思います。
うーん、「軸に」ではないと思いますよ。あくまで言語学というベースがあって、それでも説明できないところをゲノムでどう説明できるか、みたいなことを喋ってるんじゃないでしょうか。この座談会は全体として伝統的な言語学研究の話をメインに据えた上でちょこっとゲノムにも触れた、みたいな感じに読めました。
たとえばそこで言及されてる伊藤英人氏の研究は、元増田でも「蛇足だけど」の項で引用しましたけど、基本的にオーソドックスな文献学的研究ですし、木部暢子氏の研究も伝統的な方言研究ですよね(彼女が取りまとめた報告書はけっこうウェブに上がってます)。「国内の言語学者たちもゲノム研究を軸に研究を進めている」というのは言い過ぎでしょう。
ゲノムよりも重要なのは、個人的には、きちんと「日琉語族」内部の系統推定をすることですわ。きちんとした比較言語学の手法に基づく従来の方言分類の見直しが急務でしょう。琉球語群内部の系統についてはローレンス氏が沖縄語や与那国語、八重山語、喜界語といった諸言語の系統的位置についていくつも論文を書いていて(どれも日本語です。うち2本は元増田の参考文献に挙げました)、従来言われてきた系統樹を再確認したり修正したりしてますし、もっと大きいやつだと五十嵐氏による日琉語族の分類の見直しとか、そういった成果が出てきています。
これすごい重要で、琉球語が本土日本語の姉妹群なのか(五十嵐氏がいうように)九州語の内系統なのかで話が違ってきますからね。たとえば、Aという語が長崎と宮古島でみられ、東日本ではまったくみられず、大陸などからの借用語ではないとした場合、仮に琉球語が日本語の姉妹群なら「Aという語は日琉祖語に遡る祖型である」といえるんですが、琉球語が九州語の内系統なら「Aという語は九州語を特徴づける改新である」ということになるので、祖語の再構にものすごい影響するんですよ。だから本土の言葉と琉球の言葉を比較しようとしたらまず系統をきちんと推定した上ででなければ危ういと思うんですがそのへんの危機感があまり感じられないような……(まあ、これは門外漢による感想に過ぎませんが)
"Origins of the Japanese Language(2013)"
“From Koguryo to Tamna: Slowly riding to the South with speakers of Proto-Korean(2013)”
ヴォヴィン氏はアメリカ人ではなくロシア人ですが(それとももう帰化してるんでしたっけ?)、それはさておき、この2本は元増田でも(「蛇足だけど」の項で)言及してあるはずですが……? 既に言及済みの文献を改めてご提示いただくのは少々困惑します。
でもって、「高句麗から耽羅へ」ってそういう論文でしたっけ? 改めて読み返してみましたけど、日琉語が朝鮮半島の原住民の言語であり、朝鮮語は内陸アジアから南下して朝鮮半島に入り、日琉語を駆逐した、ということを主張している論文であって、日本語の原郷については触れてないように思うんですが……「日本語の諸起源」も遼河流域について触れてなくないです? むしろ、元増田で引用したようにアルタイ説を強烈にdisってるような。
っていうか、元増田への追記で書きましたけど、ヴォヴィン氏は最新の論文でオーストロアジア語族が起源である可能性を論じているわけで(以前からオーストロアジア語族への目配せはありましたよね)、遼河流域仮説を支持するなら一番持ち出しちゃいけない人物だと思うんですが……
他の論文や本はまだ読めてないんでノーコメントということで。色々教えてくださってありがとうございます。
niwaradi 門外から議論を眺めたが対象のスケールが違うのでは。素粒子実験物理の人が、基礎理論物理の人に観測もされてない粒子いっぱい持ち出して胡散臭いと言う話のように思えた。実験第一だが限界もある。
理論上の粒子はヒッグス粒子のようにいずれ実験によって観測できる可能性はありますが、「血統」をどれだけ使っても「言語系統」を観測することはできません。なぜなら「血統」と「言語系統」とは別だからです。……これってそんなに難しい話です?
アメリカに移住して百年過ぎた英語ネイティヴの日系人は血統的には日本人ですが言語系統としてはゲルマン系ですよね? ここで日系人の血統をいくら研究してもゲルマン語の原郷にはたどり着かないことは明らかですよね? つまり、「血統がわかれば言語系統もわかったことになる」というのは端的に論理が間違っているんですよ。
あるのはどす黒く染まった虚無感。そしてそこに沈んだ6年間。
晴れて大学に合格し、キャンパスライフに夢を咲かせた8年前の春。大学生活を過ごすこととなるサークル選びの時間だ。
高校時代に演劇を少しやっていたこともあり、大学でも演劇を続けていきたいと思っていた。
舞台に上る前の高揚感、あの感覚は一度味わったら忘れられない。
自分の大学の中でも一番大きな演劇サークルの新歓公演では、大学演劇とは思えない規模の舞台に圧倒された。
そしてそこに、アイツは、あの魔物は居た。
取り巻きには優しいが、その支配スタイルは仮想敵を作ることで取り巻きを結束させるタイプのヤツだ。
今まで男子校でのうのうと暮らしていた自分にその危険さを察知する能力はなかった。
役者で男は一人だけ。役柄としてもおそらく30過ぎで、男子校上がりの18歳童貞が生半可な気持ちでインストールできるものではない。
率直に言って下手だったと自分でも思っている。
癪ではあるが能力は認めざるを得ない。
うまく歯車が合えば多くのものを盗めただろう。しかしそうはいかなかった。
最初のすれ違いがどこで起こったかは分からない。自分の記憶はもうターゲットにされたことしか残そうとしていない。
他の役者も取り巻きで話せない。今思うと1人は引いた視点で見ていたが、そのことは3年ほど経つまで気がつけなかった。
同じ学年と話す機会も少ない。そうして、どんどん自分だけで抱えていくことになった。
舞台上で自分の役がアイツの役に怒るシーンがある。公演の中で1つ、アイツへの思いを全力で乗せて怒鳴った。
その回のあと、アイツはそのシーンを良かったよと一言言った。それだけだった。
生身のアイツへの気持ちを載せたモノですら躱された。ああ、コイツはなにもわかってない。本物の魔物だ。
自分は結局、大学生活を通じてサークルで役者に戻ることはなかった。
何があったのかわからないまま精神をズタボロにされた自分は、何が起こったのかを結局解決できないままに大学5年間を過ごすことになった。
鬱というのは初動が大事だ。
それが一人暮らしを始めたばかりの18歳に降り掛かったときに、いったい何ができようか。
大学にも行けず、一日家で布団にくるまって泣くしかできない日々。
完全に負のスパイラルだ。
外に出ようとしても身体から力が抜けて、文字通り崩れ落ちてしまう。それが「日常」だった。
その日常が異常であることに、大学を出るまでついぞ気がつけなかった。
助けてほしいというだけのことに自分自身でも気がつけないまま、他人からも理解されることを拒んでいた。八方塞がりだ。
アイツと出会わなかったら自分の人生がどんなだったかと、気分の重いこんな日には考えてしまう。
確かに自分の自堕落さに依るところもあったろう。すべての原因をアイツ一人に帰せるわけはない。
地獄の中で嫌というほど記憶を反芻するたびに悪魔化されていっただろうことは否定しない。
それでも、その最初の奈落を作ったアイツは、自分の視点の中ではすべての咎を着せられるべき存在なのだ。
それほど深い絶望がそこにはあった。
信号を待つとき、道路からできるだけ離れて待つようにしていた。
ふとした拍子に飛び込まないという確証がなかった。
郊外のショッピングセンターにあるような吹き抜けの通路でも吹き抜け側は避けるようにしていた。
飛び降りないという自信がなかった。
一番死に近かったのは3年前の夏。
当時共同制作していた作品が全く進まず、締め切りまで残り1週間となってもほとんど出せる状態になかった。
おまけに制作の外側でも人間関係をこじらせており本当に限界だった。
延長コードを切断し銅線を剥き出しにする。感情もないままただ機械的に胴体に貼り付ける。
端子ごとにオンオフを切り替えられるタイプのコードなのであとはスイッチを入れたら電流が流れる。
心臓を狙って電極を貼っていたので実行していたらほとんど助からなかっただろう。
最後に好きだった曲を聴いて終わらせるつもりだった。
「芥の部屋は錆色に沈む」、テーマも曲の途切れ方もピッタリだ。
もう2,3曲試したところでようやく正気に戻った。
一呼吸入れたあとに実家に電話を掛ける。そうしてしばらく一人暮らしを離れることとなった。
実家に連れ戻されたとき、父と二人で近所のファミレスに行った。
これからのことを父が話していたように思う。
やがて注文した料理が運ばれてきた。おいしそうなハンバーグだったか。
しかし箸を手にして食べようとしても、気持ちが食事をするのを頑なに拒んだ。
自分にはこれを食べる資格はない。何度も掴んでは離し。うつむいたまま食事を転がすのみ。
いつしか目には涙が浮かんでいた。
家族の理解、そして当時の恋人の支えがとても大きかった。いくら感謝しても足りないほどだ。
こうして自分は大学を去り、少しの休養の後社会に出ることができた。
大学1年目で一生分の不運を使い切ったのかとすら思えてくる。逆にこの幸運がなければ、今頃どうなっていただろうか。
自分はあの時にもう死んだと思っている。
だからこそ、今ここに三回忌として、一つの区切りとして、こんな取り留めもない文を認めているのだ。
6年間の悪夢に、形だけでも終止符を。
ここからは今まで一度も書いたことがない、テメエへの黒い感情だ。
テメエがこの文章を自分ごととして受け止められるような人間でないことは知っている。
自分のこととも気づかず酷いヤツだと怒るか、こんな場所にしか書けない臆病なヤツだと嘲笑うかだろう。
大学院を卒業して高校教師になったそうじゃないか。その指導で何人の信者を作り、何人の屍を生んだか。
杞憂だったらよいが、あいにく自分はテメエのことをそんな綺麗ぶれる人間だとは素粒子一つほども思っちゃいない。
これまでそうして生きてきたように、テメエは幾重もの屍の上に仮初の楽園を作っていくんだろうな。
テメエの名前を聞いただけでヘドが出るのに、やたらと一部にはウケがいいから嫌でも風の噂で流れてくるんだ。
なにせテメエの子だ。大層リッパな、スクールカースト最上位の陽キャに育つことだろうな。
テメエ自体への憎しみは消えないが、テメエにも家族ができたんだろ。
流石に恨みのない人間を悲しませることはしたくない。逃げ切れてよかったな。
何度痛い目を見せてやろうと思ったことか。
ガソリンをぶちまけて喚くテメエを見ながら高笑いしたいと何度望んだことか。
なあ。
頼むよ。
これだけ願ったところで、アイツの記憶は消えない。
ユークリッドからガウスの手前くらいまでの数学は、我々の感覚から自然に延長された世界の把握の仕方である。
一方、19世紀初頭、リーマン、ガロアあたりから登場した現代数学の基底となったアイディアは、一見、実世界では観察されえないものの、人間のもつアプリオリな思考からは確実に真相を表していると考えられる世界・宇宙のとらえ方である。前者は「悟性」、後者は「理性」に相当するのではないか、と解釈しながら読んだ。
「AはBである」という命題には「分析的命題」と「総合的命題」の2種類あることが示されている。
「分析的命題」は、言い換えのようなもので、Aをよく吟味すれば、Bであることがわかる。「総合的命題」は、「理性」を必要とし、思考の飛躍が必要である。つまりAをいくら眺めたところで、Bはなかなか出てこない。BはAの世界の外にある。
昔、大学初年のころ「数学は単なる式変形や定義のトートロジー(言い換え)であるからつまらない」と言っていた友人がいた。彼はその後数学科から哲学科に転向した。
中学生のころ、速く動くと時間が遅れるとか、空間が曲がっているとか、そういう相対性理論の話を聞きかじったときに、なぜそういうことが人間にわかったのか不思議に思った。
「悟性」の単なる延長上で、数学を進めていっても、数学がトートロジーであったならば、現代物理でわかっている宇宙や素粒子の構造は理解できなかったに違いない。つまり、現代の数学や理論物理は「分析的命題」によるのではなく、「総合的命題」の積み重ねによっている。
この本は、なぜ、このような理解が可能であるか、を説明しようとしている本なのではないか。本書のすごいところは、現代数学や現代物理学が誕生する以前に書かれたにもかかわらず、現代数学の諸概念を考えるきっかけを作ったのではないかと思えるところだ。実際、リーマンやガロアが出現した時代は、この本が出た直ぐ後であり、本書が、まるでその後の現代数学の誕生を予見していたかのように見える。さらに、現実の宇宙がまさに、それらの現代数学によってしか記述てきないものであることを発見したアインシュタインや、物質の状態に不確定性を見たハイゼンベルクなどドイツ系の理論物理学者は、若い頃にカントを読んでいた節がある。
現在では、宇宙が量子場の曲がった多次元空間であり、群の対称性から素粒子とはまさにその多次元空間の変換の規約表現そのものであることが発見され、物質の質量は後天的に獲得されたものであることがわかり、人間の思考と実験によって、「理性」による「総合的命題」が積み重なり、驚くべき宇宙の理解が進んできている。
この現代の数学、物理学の飛躍的発展に、本書が間接的に果たした役割は、かなり大きいのではないか。人類の残した書物の金字塔の一つであろう。
だから素粒子は勉強してないんだよ。まじで知らないんだけど、例えば電磁場みたいなベクトル場の一般化として、空間の各点に多様体(ファイバー)がくっついてるようなもん(ゲージ場)を考えてるんだろ?そんでそのファイバーに作用する変換群がU(1)とかSU(2)とかいろいろあって、その群の既約表現に一つ一つ「素粒子」を対応させることができるような量子化が存在するとかそういうことなんだろうなと思ってる。
超対称性はファイバーか構造群かしらんけどその双対空間みたいなのを考えてるのか??と思ったけどどうも空間をでかくしてるっぽいな。元空間と双対空間の直積を考えるとかか?という気もするけどよく分からん。まじでわからん。https://www.math.kyoto-u.ac.jp/~fukaya/stringdual.pdf
どうやって生きていけばいいんだろう → うまく生きたいがゴール 目的 → 生きるの向いてるがゴール 目的 → 多分完璧主義なので一生満足しない 際限がない
この答えに関しては多分答えない ネットやりすぎて答えがあるのが当たり前におもえてるけど 回答なしもあるからね
10年くらいずっとこのスタイルについて考えてきたけど答えでないし 先延ばししてるときだけたのしい これについて考えてると苦しい 答えがでないから
永遠のビリヤードをずっとやらされてる おれたちは海の一部 俺たちは宇宙の一部 もっと高次元の話ををしたい どうやって生きていけばいいんだろうは若干低次元 答えもでないしね
どうやって生きていけばいいんだろう系って答えでないし めんどい とにかくめんどい 1か月スパンで実験して~とかめんどい とにかくめんどい
抜きたいけど行動に移さないってことはビリヤードが動いてないのだろう 駆り立てられない
ビリヤード以上に高度な話ってないよね ブラタモリ 素粒子 の話は気になる ニュートリノの話
うさぎと亀の話 向こう見ずでガムシャラに動くか それかめっきり考えて動かないで答えだして一気に動くか
お前も素粒子で作られてるよ
情報系の学科に入った。高一の時から情報系のところしか頭になかった。プログラミングができたら就職には困らないだろうという算段(コミュ力がないので)。
”情報の人”になる決心をした、はずだったのにもうそんな決心は吹っ飛んでしまった。
でも、今になってみると文学部にも理学部にも入りたい。いい意味での変態が居そう(実際twitterで見かける両学部の人は面白い)だし、私は人間の本質について知りたいと同時に宇宙とか素粒子についても知りたい。(理系大学生は全員相対性理論とか難しい物理をやると思ってたのに、理学部物理学科しかやらないそうだ。悲しい。よびのり見るしかない…)
変人を求めて大学に入ってきたはずなのに、周りには楽単かどうかで一喜一憂して、なんとなく中国語やドイツ語を選び、キラキラ運動部に入るような器用に生きる人しか居ないような気がする。もしかしたら変態を隠しているだけなのかもしれないけど。(私は対抗心で一番人気のないロシア語を選びました)
正直、今の大学に受かったこと自体、模試の成績からいって奇跡だからありがたく思って必死に生きていくしかないんだけどさ…
いやー、でも美学とか言語学とか量子力学とか認知科学とかも面白そうだし、しかし一方でコンピュータそのものについても知りたいし…でも分子生物学も面白そうだし、でも大学生になったからにはロシア文学を読んだりレミゼを一気読みしたりもしたいし…
あっちこっちやりたいことがあるのに、やろうと思ったことをちゃんとやり切る能力が皆無だから全部中途半端に終わる。(高校の時にプログラミング勉強してたつもりだったけど、初心者用の一冊目の本で飽きるを繰り返した、結局費やした時間に対してなんもできんのに気づいて悲しくなってる)
何やっても例えば物理だったらNewton(雑誌)以上に詳しくならん気がする。
結局何者にもなれないまま大学を卒業するのかもしれない。何者にもならないまま大学卒業後も生きていく自信がない。
マイナーな分野をやって、ちょっとできるようになっただけでみんな褒めてくれるっていうのを繰り返したせいかもしれない。中学時代は勉強がこれでしたね。
全人類とか書きましたが、Steam上で考古学者の実績を解除している人は2.8%しかおらず、
それをネタバレも攻略も見ずに自力で成し遂げた人で、更にこの記事を見ている人がどれだけいるのか分かりませんが…
もしもそんな人が居たとしたら、是非「宇宙やばいラジオ」って奴を見てみて欲しいです。
宇宙の真実に対する強烈な知的探究心と、どれだけ死を繰り返しても耐え続ける忍耐力を持った貴方なら、絶対にハマるはず。
番組の内容は、
宇宙についてのノンフィクションな天文学知識を、数学的な要素を省略し体系的に学ぶという物です。
vtuberの番組なので、オタク知識を随所に交えながら面白おかしく学ぶというスタイルを取っていますが、講師役は東大の天文学部を卒業したかたで、生徒役もちゃんと宇宙に対する知識欲を持った方達なので、ふざけながらも真面目な授業が展開されていきます。
宇宙を構成する4つの力、素粒子、ヒッグス粒子、反物質、量子的ふるまい、ダークマター、超紐理論etc…
OuterWildsをプレイするような人ならお馴染みの単語だとは思いますが、実際どんなものなのか具体的な理解はしていますか?
そしてなにより、OuterWildsのエンディングにて貴方は宇宙を再構成し、143億年の旅をしましたが、どのようにして宇宙を形成していったのか、その過程をイメージできているでしょうか。
そのあたりに知識欲を持ったなら、
マジにおすすめです。
あの僕です シヴァ
あの低温には絶対零度があるのですが
上限というのは素粒子が崩壊を引き起こす温度というのはあるのですが
それでもまだ上がないとは言い切れず
水が100度で沸騰するかと言うと
常温1気圧でも108度ぐらいはいくとおもうわけで
魔法みたいっていっていると本人はまだまだ魔術
そうなんだー
とかいっていると20年後に そろそろ術になってきたという・・・ 現象の方を固定ってそりゃおきたんだからそうですねぇ
魔術だよ
っていうひとに20年後にあうと 魔法みたい → 術
世界ってひろい
日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。
どの作品を入れるべきか迷った。古典の翻案に見られる知性とユーモア、晩年の作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に「歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活の不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。
「河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界の架空の言語に魅せられたのか、その理由はわからない。
アンデルセンの小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。
で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。
ところで、ディズニーの作品の価値を貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫」だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニーは普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)
「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンがニュートンとアインシュタインの物理学を自力で発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者とエンジニア最高、政治家と宗教家と文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。
そうしたえぐみが比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。
友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代に適応できない英国の執事の物語である。
彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものだから、登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。
カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。
彼の作品は不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかった(2023年10月3日追記。「処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった」が近いか?)。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい。
作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき、人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯に思考した書物である。
ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。
僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程を子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。
そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物の意識から別の人物の意識へと、外界の描写や連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本の映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分の意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。
「灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。
さえない少年が万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれてしまう。これは主人公が異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式でチートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白い小説なのに、その小説が現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨の台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。
ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆のメッセージのストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人と商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。
基本的に自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉や文字で物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。
元々SFの人だけれども、最近は日本の古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。
どうしてこれほどあなたを信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやかな奇跡であなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。
以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。
ただただ弱くて情けない人物が遠藤周作の作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。
「男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である「女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。
世界の文学をパロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語の関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマが物語レベルとメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。
知的障害者のチャーリー・ゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者とセックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。
チャーリーは女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。
天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか。
素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点が距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。
子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類の運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。
人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙で意味があるのか。
人類の運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。