はてなキーワード: 理想主義者とは
この国を没落させて取り返しのつかないことにしていくのは間違いなく自民党。
理想を語るにはまず語るヤツが、この人の言ってることは正しい、この人の理想は素晴らしい、って思わせるような行動を実行をしないと
理想主義者が「オレは正しいことを言ってるんだから信じろよ! 何で信じねぇんだよ!?」とか思っても、もうその幼稚な言動や振る舞いが周りからの信用を失ってるからな
愚痴を書かせてください。
私は、彼と同じ学術分野(文系)のQ教授の過去の研究内容に疑義があり、それを指摘するために本講座に参加している。
最近わかってきたのは、Q教授の研究はまさに先行研究だということ。彼らは先行研究だったのに押さえてなかった。つまり、タコツボだった……。
文科省の審議会の人文学・社会科学振興に関する平成21年の報告書を読んだのですが、
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/1246351.htm
基本的にこの頃から問題の性質は変わっていません。十年ぐらい叱られているのに、それでも克服できない。
昔の学者ってどうだったのかなと思って、マックス・ウェーバー『職業としての学問』を読んでみたのですが、当時のドイツの大学では、私講師という資格だけが与えられ、何を教えてもよく、給料は受講生からの授業料の上がりだけ、つまり出来高制だったみたいです。しかし医学や自然科学系の研究に巨額の資金が必要となり、アメリカでは研究者という仕事が月給制になった。ドイツでもアメリカナイズが進んでいるとウェーバーは書いている。ドイツ式だと市場原理が働くので、実力不足の学者は淘汰される。一方、アメリカ式だと雇用が保護されるので、官僚主義がはびこる。
日本で大学が設立された頃の事情ですが、福沢諭吉あたりが大学を創設した後、その後に官立大学を作ったみたい。2011年の東日本大震災で原発御用学者が社会的に批判を受け、国立大学法人改革で彼らは国家公務員ではなくなった。
いままで国は学者個人の自主性・自律性を尊重するとか言って、お金は出すけど口は出さなかった。しかし厚遇しすぎて、仕事をえり好みする人ができあがった。果たして障害者にフッサールを教えることが正しいのか? 私は、彼らがずっとサボタージュしてきたQ教授の過去の研究の批判という仕事の督促のためにやって来たのですが、彼らは、どうしてもフッサールを障害者に教えたいらしい。Q教授の批判という仕事は絶対にやりたくない。病人の私に押しつけたいそうです。病人の私がいまやらないといけないのは自分の病気を治すこと(自己保健義務)です。早く元気になって、勤労と納税の義務を果たすことです。Q教授の批判なんて、病気に障るからできるだけやりたくないのだが。
国が税金で複数の学者を雇っているのは、お互いをチェックさせるためなのですが、彼らはタコツボという自分たちの宿痾を克服したくない。どうしても大好きな哲学学を障害者に教える仕事だけをやりたい。私はいまQ教授が20年前に書いた悪書を読んで、問題点を洗い出す作業をしている状態です。泣きたいですよ。
文系って理屈っぽい。「理論上はこの結果がでるはず」と自説にこだわって、ありのままの事実を認められない。理想主義者なんですけど、理想論を学生にも吹き込む。そうするとモンスター障害者、モンスター高齢者ができる。大学教員もモンスター化しているともいえます。
東京周辺に在住している高齢障害者が熊谷さんの講義を何回も聞いている一方で、沖縄の子どもの貧困率は29.9%です。
いま医療費が年1兆円ベースで急増している。とても国民全員に熊谷さんの講義を何度も聞かせられる財政状況ではない。税金で喰っている哲学者と税金で喰っている障害者が学校を開いたら、そりゃあ「学ぶことはすばらしい」という結論になるでしょう。その学費を稼ぎだしているのは誰? 受講生は病人だから知らなくてもいいと思うけど、プロである学者がそんなことさえわからないとしたら、職業としてもう終わりだと思う。一度、マックス・ウェーバーの時代に戻すべきでしょう。
いまの文系の振興策、例えばこんな研究に三年間で一千万ぐらい使われちゃってるんですけど、
https://www.jsps.go.jp/jissyakai/data/saitaku/h25_houkoku/hamauzu.pdf
こういう税金の使い方、本当にいいのかな。
育ちがいい人を気取っている人ではないかという先入観が私にはあった。
しかし、どうもインターネットを見ていると、底辺を自称する人でも階級社会を肯定している人がいる事に気がついた。
自分自身が底辺だというのであれば、育ちがいい人を気取っているわけではない。
「ファイアーエムブレム 聖戦の系譜」でもプレイして、フィクションだと割り切れず影響を受けてしまった人なのだろうか。
「児童の権利に関する条約」の
国際連合が、世界人権宣言及び人権に関する国際規約において、すべての人は人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしに同宣言及び同規約に掲げるすべての権利及び自由を享有することができることを宣明し及び合意したことを認め、
に抵触するので、世界から階級が無くせなくても、少なくとも肯定は出来ないだろう。
そういう階級社会を肯定する人々は、子どもの頃に夢見た理想郷を持っているピュアな心の持ち主なのではないかと私は思っている。
…うまく説明できないけど。
この世には汚れのない血筋があるんだとか、世の中のものは良いものと悪いものに分けられるんだ、じゃあ分けたら自分の好みの世界が出来るんだという思想。
そういう天国を求めるピュアな心を大人になっても持っている人が、子どもを差別し、階級社会を肯定し、きれい事を吐く理想主義者の大人になっているのではないか。
そんな気がする。
だからさ、「変えない」と「この対案に変える」の二択があるでしょ。
それは違うと思う。
「変える」か「変えない」かという思考方法はゼロイチ思考で物事を単純化しすぎてると思う。
大半の穏健派の人は、「日本国憲法の基本理念等は今のままでいいと思う。ただし、現実と合わない部分は一部修正する」程度の態度だと思うが。
で、人権ガン無視、復古的な道徳、価値観の押し付け。そういうカルトが強く推している。国会議員ですら武藤、片山、西田とかひどい発言をしていて、武藤以外のうのうとしている。
そもそも「権力者を律する役割」というのがぶっ飛んでる。改憲派の憲法学者にすら見捨てられ批判され、憲法学者がほぼ全員批判している。
個人的には関心もないので調べていないが、日本会議の人も「1から人権無視の国家に使えるための憲法を立ち上げる」みたいな過激派は一部では無いのかな?
理想主義者の人も「権力者を律する役割」の憲法が欲しいなら、自分でそれに基づいて日本国憲法に変わる新しい憲法を提案していけば良いと思うしね。
そして例えば、その提案を全部飲む、というのは難しいだろうが、一部でも「この部分は良いよね」という部分があれば、取り入れてもらえるかも知れないしね。
保守主義が「家族」の価値を重視するとか、国家主義が人口を維持したがるのは分かるんだけど、リベラルが子育て支援を訴えている理由が分からない。
子供を生むかどうかが個人の自由なのだとすれば、社会はいっさい手助けするべきではない。
人がふつうの趣味や遊び方をするとき、社会はその自由を保障するけど、手助けをしてあげないことと同じだ。なぜ子育てだけは特別扱いなのか?
例えば「東京に保育園を増やすべき」というのも、意味が分からない。
東京でマイカーを所有したければ、相当な高収入が必要になるわけだが、それが負担できない人はマイカーをあきらめる。もしくは、マイカーを持ちやすい地方に引っ越すのが妥当だ。
女が子供をほしがるときもそれと同じで、自分か夫が多額の金を支払ってベビーシッターを雇うか、保育園の充実した地方にひっこせばいい。
もちろん、「マイカーを所有することより子育てする方がすばらしい。社会がそれを支援するのは当然だ」という意見もあるだろうが、それは保守主義や国家主義の考え方である。
リベラルによると、物事のすばらしさを決めるのは伝統・国益ではなく、人それぞれに異なる個人の価値観だ。そこには多様性があるのだから、政府が一律に優遇・冷遇してはならないはずである。
もし「子育て支援」に何らかの正当性があるとすれば、子供の人権ということになるけれども、それも根拠としては弱い。
育児能力がない者が子供を産んだ場合、児童養護施設にあずけるのと同様に、経済力がない者もそうするべきだ。
子供が生まれてきてしまった以上、その人権は守られなければならないが、「家族がそろって暮らすのが幸せだ」という価値観は保守主義に過ぎる。わざわざ親の手元で育てなくても、児童養護施設を充実させて、子供はそこでしっかり育てればいい。
現状の「子育て支援」は子供を支援することではなく、文字通り、子育てする親を支援するという方式を取っている。それは家族の形成・維持を助ける政策なのである。
ここで極端な事例をだすと、「キモくて金のないおっさん」問題があるだろう。
リベラルはキモくて金のないおっさんに対し、妻子を持つために自助努力するか、諦念して孤独に生きることをすすめる。べつにそれはそれでよいのだが、その場合、子育て中の親を支援することにも根拠がなくなってしまうのではないか?
https://anond.hatelabo.jp/20171021145831
追記
当然ながら我々の現実世界には、純粋なリベラル思想の持ち主はごく少数で、いくらか保守主義や国家主義の要素を取り入れている。
その意味では矛盾はないし、中途半端なポジションになってしまうのはやむをえない。
なぜ女性不信な男性は厄介な女性を選ぶのかというブコメを見て考えました
不信がゆえに、目の前に理想の築けるモノがあっても、それを手にとることができず
割りの良い仕事の多いなかなんでかなーと考えると
友達とかでも同じで、ハブになってる人間にすり寄ればいいのに怪しんでそれができない
こういうのは基本的には持ってる人間が持ってない人間を拾い上げる、というか本来はしていくべきで
それは社会的な制度だとか、多少強引な巻き込み型の人間だとかがやっているんだけど
持ってる人は常に持ち続けるし
で、不信な人は不信だから上でも書いたように地雷に飛び付く方を選ぶと
とんでもなく腹を空かせて畑ばかりの田舎道、コンビニも街頭もないところに、うな重が置いてある。
どちらを食べるか
ニュースに集まる反応見てるとムカついてムカついても~しょうがない。公共の福祉ってもんを勘違いしてるヤツが多すぎる。
「世界のみんながニコニコ笑顔で幸せになればいいナ」みたいな慈愛に満ちた理想主義者の発想だと思ってるやつがたくさんいる。
れで「現実主義的」な連中は訳知り顔で「社会ってもんは理想通りにはいかないんだからさ」とか「そういう甘えが許されるほど世の中は優しくないんだよ」とか言う。「自分の権利の主張のために他人に迷惑をかけちゃああかんでしょ」とか、一瞬納得しそうになる言葉も巧みにあやつる。
そんなわけねえだろ。福祉はもっとドライで厳しくて冷徹な仕組みなんだよ。自分の権利を主張したら無関係な他人が迷惑なのは当たり前なんだよ。昔のアメリカのバス利用者だっていきなり黒人の活動家がぞろぞろ乗ってきて大騒ぎになったときはさぞ迷惑だっただろうよ。
それを「受け入れなければならない」のが公共の福祉の精神ってやつで、福祉を成り立たせるために自分がワリを食うのは当然なんだ。
車椅子で好きなときにどこにでも行けるようにしろって主張に「甘えるな、その金と手間を社会の誰が払うと思ってるんだ。なんでも当たり前にできると思うな」と思うやつは、その金と手間を支払いたくないから社会に甘えている。福祉の冷徹さってそういうことだよ。
無関係で弱くて怠け者な他人のために自分が損しないといけないのが福祉社会なんだよ。
なんでも当たり前にできると思うなよ。
そして「人権」が発明された以上、そういうルールを設定するほかないからだ。誰もが障害者や貧乏人に「なりうる」という前提のもとで「誰もが不自由なく暮らせる社会」を実現するには、そうするしかない。
範馬勇次郎みたいに独力で生きられるなら必要のないルールだろうけどな。
これを否定するなら、カースト制度でも復活させればいい。そのとき自分が奴隷になったとしても文句は言えないが。
いざ自分が損する段階になってグチグチ言うのは選民意識と貧乏根性が混じり合って非常に醜い。
「車椅子の人間を乗せる手間がかかる以上、割増料金にするべき」みたいなコメントも見たな。たしかに手間には相応の金がかかるからな。だがその料金を「車椅子の客だけが」払わなくちゃならない根拠はなんだ?利用者全員で払うんだよ。公共の福祉ってそういうことだよ。
レストランで喫煙する客にだけ「灰皿使用代」を上乗せして請求せず、客全員に費用を負担させていることのほうがよっぽど納得いかないけどな俺は。
で、こういう話をしてると「態度が」「言い方が」「やり方が」とかいう話題にしたがるやつも沢山いる。
いまはシステムの不備の話をしてるんだ。個別の事例と感情論で議論してたら結局好き嫌いの問題でしかなくなっちまうし不利な立場の少数派が多数派に異議を訴える行為が穏当にいくわけがない。
「誰がどこにでも行ける社会」と「一部の人が事前に連絡を入れれば大抵の場所に行ける社会」は全然違うってことに、普通は気付けない。現実は誰かが迷惑をかけなければ動かん。
俺もたぶんそうだと思うけど克服してきてる。
買ってきた掃除機を開けて使うかと思いきや、手で開けられないケースだったから放置。
それを子どもの俺がハサミ持ってきて開けて使う。
説得とか相談とかまるで無い。
クルマで公道で部分的に120キロ出すけどどうやったら捕まらないで済むか知ってるのでなかなかつかまらない。
酒飲んで飲酒運転。注意しても聞かないからもう二度と会ってない。
気に入らない飯がきたらキレる。
暴力は一切振るわないが説教の1つもしないが、決めたことは曲げないのでコミュニケーションが取れない。
金の使い方がおかしい。
口ばっかりで理想主義者のくせに行動が伴ってない。
友達がいない。
これでも日本で上から数えたほうが早い大学出てるので変なプライド持ってる。
勉強などの記憶力はいいが人格破綻してるので成果が得られない。
時間を守れない。
同じく相談や説得が無い。
とにかくヒステリー持ちだった。
喧嘩になるとすぐに家を出て行けという。
実際、全員出ていくと今度は戻ってこいと言う。
実際失敗してだから言っただろというと逆切れする。もちろん反省しないので後日同じ失敗をする。
他人を見下して特に男を見下すが女兄弟にも人格否定に近い侮辱的な言い方を平気でする。
記憶力が悪いが発想力はある。
それで離婚してる。
親とはほとんど接触することなくなったが連絡を取るたびに障害者と会話してる気分になって気が滅入る。
こいつらの血を受け継いでるのかと思うと本当に不幸だと思う。
優秀な人間の塩基配列が欲しかったと常々思っているが仕方ないと半ば諦めているところで、
こうやって再認識させられると辛い。
今の周りの人間がみんな仕事できるし人格しっかりしてる分、思い出させないで欲しい。
このせいで昔の自分は本当に不幸だったと思う。
親が駄目だから子もダメになってるのに要らない自己否定を繰り返してた。
なぜ最近の若者は定時帰りするのか的な感じだったと思う。
これに対して9割以上の反応が筆者に対する批判だった。
老害、ブラック、こういう奴が日本を滅ぼす的な意見ばかりだった。
私も、無駄な残業は減らすべきだし、残業が目的になるようなことは避けるべきだと思っている。
また徹夜での業務や病気になるほどの残業はおかしいと考えている。
それでもこの「行き過ぎた残業バッシング」には違和感を感じるのだ。
これは一見、良いことのように見える。
また手遅れが発生するようなミスに対して非常に敏感になり、人間関係もぎくしゃくする。
仕事と業務は異なる。業務に効率性を求めたとしても、仕事は業務以外でも成り立っている。
その為、行き過ぎた効率主義は業務改善に役立つが、仕事全体として上手く回らないケースがあるのである。
残業をなくすべきと言っている社員のどれくらいが、会社で求められている以上の成果を出すことができているだろうか。
私の経験上、優秀な社員というのは社員の中での1〜2割だ。その他は普通、もしくはダメ社員なのだ。
そしてそのダメ社員はどうしても優秀な社員よりも成果物の精度が低く遅い。
出来る社員に追いつく為、少しはマシな成果物を出す為には残業をするしかない。
上司のせいにばかりするな。
自分の成果が低ければ残業をしてでも取り返さなければいけない。
常に競争の為、当然他社よりも高品質で安価なものを提供しなければならない。
いかがだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20160625202139 の続き
長すぎて途中で切れてしまった。続きは短いが、せっかく書いたしIDコールもしたので(できているよな?)、書いておく。
規制の結果性犯罪が増えて出生率が上がる…?偏見に満ちありもしない責任のなすり付けを女性にする規制反対派の脅しを入れてくるな。議論で摺り合わせしていくのは一番やらなきゃいけない事だろうがなんなのこいつ
申し訳ない。その部分は軽口だ。反省している。しかし俺は女性に責任を擦りつけてはいないのだが。下品な軽口を解説するのもアレだが、規制により性欲が生身の女性に向くだろうから出生率もあがるかもしれんなという話で、女性が問題とは言っていない。もちろん、女性を性欲の対象とするこの論理も酷いものだということは理解している。議論ですり合わせをしなければならないのは全く同意だ。俺の失言については謝罪する。
落ち着いてほしい。相手にレッテルをはるのは議論と理解を妨げる。俺は保守系ではない。理想主義者ゆえに、その理想が断たれるだろうと絶望して諦観に至った人間だよ。相手の意見はこうだろう、こう思っているんだろうと決めつけてしまっては、見るもの聴くものすべてがネジ曲がってしまう。どうか気をつけてほしい。
まあ、私はゾーニングしてくれるなら、表現規制まではしなくてもいいとは思ってるんだけど(こういうことでいいのかな?)、ゾーニングしてくれる気配、これっぽっちもないからなぁ。
まさにあなたの言うとおりだ。もう何年もゾーニングの話題は進展しないし、出てくるのは極端な0か1かの意見ばかり。だから俺は諦観に至ったという話だ。
前半部分は明確に否定する。理由は上記のとおりだ。理解を願う。後半部分はそうかもしれないな。多分そうだろう。しかしこの世の中、あなたも含めて、そうでない人がどれだけいるだろうか?そういう人を責められるか?あなたは石を投げられる人か?
前から思ってたんだけど、「規制」というわずか二文字にすべてを丸め込んでその是か非かだけを論じ合うから本質的な議論から遠ざかってる気がする
俺のこの文章も、「嫌いなものは規制すべき」と受け取られてしまう現状。0か1かで議論するのはやめようということが全く伝わってなくてかなりびっくりした。前半で極論を言った俺が悪いが。
積極的に根絶やしにだと?近代美術を退廃芸術と称して排除して回ったナチスとどう違うんだ?本当にいい加減にしろよ。こういう奴に「エログロホラーが大好きな人間」なんて自称しないでほしい。
その部分は極論過ぎた。謝罪する。しかし、「俺が好きなものは好きなものだ。俺が何者であるかは俺が決める。それを否定はされたくない。」というのは規制反対派と同じロジックだ。俺は今後も「エログロホラーが大好きな人間」であると自称するし、それらが大好きでなお規制には諦観をもって賛成し続けるだろう。そういう人間がいて、それらを説得できるよう頑張って欲しい。
俺の日記のタイトルを読んでその意見を思いついたのだとすると、あなたも同じ思考回路になってはいないか?上記にさんざん書いたように、俺の思考は諦めだ。
確かにきっかけは個人の好悪だ。だが、俺が憤ったのは「極論ばかりで建設的な半試合が出来ないネットの論調と、それにおもねって業界の今後を考えない一部クリエーターの姿勢」に対してだ。これもまた「個人の好悪」で片付けられるものなのか?俺は排除やむなしと考えている。それは、「俺がこう考えるからだ」でなく、「お前たちがそのままならそうなってしまうぞ」だ。この違いは理解されないか?
そんな確信はもっていないよ。また、あなたが楽観的でないと思うなら、もっと危機感は持つべきではないか?高等だとか、確信だとか、そういう言葉を使って0か1かの話にしていくのは一利もないと思うんだよ。このことだけは伝わって欲しい。
全レスみたいなものになってしまったが、俺の言いたいことはだいたい書いた。伝わってくれればと思う。
伝わらなくても仕方がないが。
日記の最初に過激なことを書いたのは反省している。コレのせいで論旨が伝わらなくなってしまった。
いずれにしても、会話を大切にしてほしいと思う。レッテル貼りではなく、会話を。
会話の機会がアレば謝れるし、認識も改められる。説明もできるし、説得もできる。
そういう議論が発達してほしいと思う。
自分から高らかにマイナス面(遅刻しといて朝弱いからさーとか)を免罪的に宣言する人は俺はお前のためになんの努力もしないからなじゃあのって意味になるし失礼だから気をつけろよなみたいな話が話題になって、何人かがちらほら「他人のために変わるなんてちゃんちゃらおかしくね?」みたいにいっててははーんって思ったけど、そういう人って本当にロマンチストだよね。
おそらくそういう人の中で人間関係というのは、貝合わせみたいに、幾多の人間性と自分の人間性を重ねてぴったり合ったら友達、恋人という考え方なのだろう。
ロマンに溢れる。
現実的には、人付き合いにはコストがかかる。これを理解しない人はネガティヴな人でもポジティブな人でも怖い。もちろんそれが、流行を全てチェックしてどんな話題にも対応できるようにする(たとえ個性を失うことになっても)ことと人もいるだろうが、もっと単純な話だ。時間がうるさいやつと遊ぶ時はそいつの時だけでもなんとかするようにする。あるいは自分が時間のうるさいやつなのであれば時間を守ってほしいなら、守ってもらえるか守らなくてもいいようにするかのどちらか。理想主義者は手強い。「そこが符合しなければ付き合わなくて良い」となるから。それがたとえ1だろうが100だろうが。それで我々の貝が擦り合わないならそれまでとなってしまう。
人間関係に支払うコストは絶対に自分のキャパシティを超えてはいけない、なので、支払えばいいというものでもない。大事なのは支払われているという自覚。姫がわかってサークルをクラッシュするのか、わからないでサークルをクラッシュするのかでは天と地の差がある。
まあ、つまり、そういう理想主義者が時間に遅れてくるのを見越してこっちは色々やってるんだよねー……ってことなんだけど。ただ理想主義者は手強いのでやりたくないのであればやめれば?私はそうする。と言ってくるわけだ。つよい。
ババ抜きで勝ちたい時、そういうルールがなくて相手に怒られないなら、僕は相手の手札を覗くだろう。ただ自分は覗かれたくない。だから覗くほうを我慢する。人間関係に払うコストも同じことだ。自分は勝ちたくて勝ちたくて仕方がなくてもずるしない、でも相手は執拗に覗いてくる。そんなんじゃゲームにならない。同じことだ。
多様性を理解するのはエネルギーがいる。だからこそ人類は今まで多様性を捨ててきた。共通のルールを抱えてる人間が多い方が安全だからだ。人を殺してはいけないというルールの中で生きてる人間が多いから、私たちは殺される恐怖に晒されながら生きる必要がない。20代で結婚するものと思ってれば周りがさせてくれる。みんな高校に行ってるから親もぼんやり高校に進学させてくれる。……多様性を認めるというのは、別なルールで生きている人間と触れ合い、存在することを認知するということだ。合わせる貝が合うかどうかわからない、無理矢理合わそうとして壊れてしまうかもしれない世界。そこで壊れてしまう前に引き剝がしたり、少しの工夫で合うかもしれないという可能性を探している。多様性のある世界の、現実的な生き方だ。つかれる。しかし疲れない手段を取ってもどこにも行き着かないとわかっているからする。僕が一つも気を遣わないで、地の果てまで共に行ける運命の人が一体どこにいるというのだろう。それも何人も。地球にいるかさえも怪しい。しかし孤独は現実的にそこに存在しているのだ。架空の人間を待ってはいられない。
今回、ミャンマーの総選挙でアウンサン・スーチーさんの率いる野党が圧勝して政権を取ることになったそうだ。これ自体は民主化として、めでたい話に異論はない。
1.政権を作る野党側、特にスーチーさんに行政経験がないこと。
2.であるのに報道によると、すべての権力を自分に集中させると、おっしゃってるらしい。
今の与党は確かに軍事政権の延長だが、経済運営などに一定の評価はあるらしい。実際、経済成長が始まっているし。スーチーさん達がこの経済成長をぶち壊す結果にならないか不安。
選挙での勝利は勝利として、勝った側が、負けた側の行政経験者や官僚を使って政策を望む方向にソフトランディングさせて行くのは難しいのかもしれない。特に、民主主義の勝利と熱狂している国民自身がそれを許さないだろう。
と、言うことは政策のハードランディングが避けられない。どうなるかわならないけど皆が不幸になる結果が考えられる。
国民的な期待を背景に野党が圧勝して、経験のない理想主義者が政権を握って
全てをぶち壊すなんて、日本人にはデジャブ感ありあり。
これはひどく狭い世界の話だ。
要するに、
創作関係のコミュニティで内輪揉めを引き起こして、
結局なにひとつ現状は変わらなかった、というだけの愚痴だ。
数年前からそのコミュニティに参加し始めた。
「コミュニティの一生」というコピペがあるが、
あれでいえば俺はちょうど面白い人とつまらない人が入れ替わる、
その一番最初に来たつまらない人、という位置だろう。
当時はにぎわっていた。
最初にその場を耕し、育てあげた人々はみな何らかのノウハウがあった。
意外にも、本来いるべきその道の専門家は少なかった。
むしろ優れた部外者たちの試行錯誤やぶつかり合いが場を育てた。
たとえるなら、
トランペットを小学生の頃から続けてきたベテランが、
その経験を活かしてセンスある創作料理を次々と生み出すようなものだ。
それほどに無関係な分野の人たちが、
「その道の専門家」を圧倒する勢いで傑作を生みだしていった。
自分は以前“その道”に近い場所にいた。
だからはじめ、彼ら先駆者よりも自分の方が優れたものを生み出せると、
そんな驕った考えでその場に近づいていった。
そして打ちのめされた。
最初の半年か一年くらいは、彼らの生み出した言語の習得に追われる日々だった。
夢のように充実していた。
彼らは小手先の作法などでなく、本質を素手で掴まえようとしていた。
最盛期は「いかによりよいものが作れるか」と夜な夜な語り合い、
酒を片手に垂れ流すようなバカ話も交えつつ、
時には場を凍らせるような尖った言い争いを起こしつつも、
全体としては実りある技術論をしていた。僕にはそう映っていた。
みんな、過去の話だ。
やがてある時から、人の気配が減り始める。
そのコミュニティがどこまでも膨張していったが、
筋違いの非難や関係者への人格攻撃も増えていった。
先駆者たちの多くは、そこらで別の居心地良い場所を探し始めた。
自分も彼らの後を追ったり、まだ元の場所に居着いていたり、
あるいは全く別の場所に触れてみたりしつつも、
心まではコミュニティから離れられずにいた。
衰退以前から、コミュニティ関係者の間ではSNSが普及していた。
SNSは確かにコミュニティ活性化の起爆剤ではあったが、
同時に終焉へと向かう引導でもあった。
当初の目的を外れた雑談や日常生活での愚痴などが空間を占め、
居心地の良い場所となっていった。
そこは創作行為をしなくてもぬくぬくと過ごせる場所に変わっていった。
世代交代はゆるやかに進んでいった。
かつての先駆者たちが作り上げた傑作に魅了された、新しい作り手もやってきた。
だがすでにそこは見えないルールでがんじがらめとなっていた。
尖った作品、極端な作品は叩かれ、無難なものだけが場を占めるようになった。
それどころか、作品の評価と作者の評価が混同されはじめ、
「SNSで良い顔をしている作者は叩かれない」という
あまりにも本末転倒した状況が生まれつつあった。
コミュニティから生まれた作品を保管するサイトの運営もまた、世代交代した。
以前の運営はコミュニティ参加者とは一定の距離を保っていた。
必要最低限のことしか話さず、任務を遂行していた。
運営が引退すると、別の参加者が次期運営に名乗り出た。
それから運営が交代し、ついにSNS参加者の手に運営が移った。
その運営は作品への非難を許さず、すべてに全肯定で返した。
作者の人格をキャラ化してSNS上での人形遊びにかまけては、
作者と作品の安易な結び付けを積極的に促した。
作品非難に対しては、その質を問わず断固たる態度で臨み、
場合によってはアクセス禁止を断行した。
ユートピアによく似せたディストピアがゆるやかに形作られた。
以前はどうだっただろう。
かつてはつまらないものはつまらないと叩かれ、
時には手ひどい長文バッシングやアンチのストーキングさえも起きていた。
だが、それは間違いなく健全な場所だった。
飛び抜けて優れたものが絶賛を超えた絶賛を受け、
見るに堪えないものはこっぴどく叩かれる。
だが、そうした歯に衣着せぬやり取りこそが、
本当の意味で作品に触れることでもあったのだ。
現在、そのコミュニティには酷評も絶賛もない。
悪いものには反応がなく、
よいものにも「お疲れ」「よかった」程度の寒い拍手が並ぶ。
中身を見てなどいないのだ。
現在でも本当に飛び抜けて優れた作品が生まれるが、
参加者にそれを賛じるだけの語彙がない。
この語彙というのは単なる辞書的な意味ではなく、
作品を底の底まで見抜く目と、それを素直に口にする心意気だ。
今は作品ではなく、生身の人間としての作者との馴れ合いが優先される。
彼らは何を作り上げるかではなく、儀礼で作った愛着にしがみついているのだ。
私はコミュニティにとって老害だ。
本当はすでに別の場に片足どころか重心まで移しておきながら、
さらに当時のコミュニティで腕を奮っていた作者たちをそこに呼び寄せながら、
こうして元居た場所を憂う資格など、本当はないはずだ。
けれども、もし、と考えてしまう。
もしこの場で、
かつてのように良いものを良いと、悪いものを悪いと言えたら。
言える人物がいたら。
まっとうな評価があれば、少しは何かが変わるだろうか。
風を起こせるだろうか。・・・そんな夢物語を考えてしまう。
ディスコミニケーションが極右思想をそそのかしてしまう。
そこで、修羅の仮面を被ってみた。
最盛期よりも過剰に、気に入った作品を絶賛し、
逆に気にくわない作品を立ち直らせぬほど叩き潰した。
実作評価とコミュニティ評価の乖離した作品は許さなかった。
借りてきた怨念を込めて、身体に空く穴もいとわず、
保管庫とその運営に向けて呪いをぶちまけた。
耳に入る同志たちが影でささやいた恨み辛みを糧に、
自分が真っ先に身をなげうって、
「健全な精神」の持ち主が後に続く道を切り開こうとした。
もちろん、そんなことで現状は何一つ変わらなかった。
今でも参加者はいちゃいちゃと馴れ合い続け、
自分の酷評に対しては見当違いな人格非難で憂さ晴らししてやり過ごし、
彼ら参加者は己の手で愛すべき土地を汚して踏みにじっていることに気づかず、
ぬくぬくと余生を過ごしている。
恥知らずにも、その手は未だに僕や出て行った人々にまで向いている。
突き返して叩き落としても、彼らに言葉は通じなかった。
反吐が出る思いだ。
だが、祖国に泥を擦り付けたという点では、自分もまた同罪かそれ以上なのだ。
先駆者たちは正しかった。
何もせず、すっと離れる方が殉教などより遙かに賢い選択だった。
中でも先陣を切った人は、コミュニティの樹立どころか、
人が集まる気配すらも避け続けているように見える。
根無し草というより、難民のような様相だが、
己の創造性や価値観を守るには賢明な選択なのだろう。
作品の質云々も、手前の好みにすぎないと言われても反論しきれない。
現運営が理想主義者の皮をかぶった独裁者であるのと同様に、
自分もまた、ある種の独裁的思考の持ち主にすぎない。
「ユートピアを語るものは、そのユートピアでの独裁者である」
そんな言葉を何度となく噛みしめる。
ちょうど一連の出来事は、例のISILの事件と同時期に起こっていた。
比べるのもばからしいほど規模の違う話だが、
テロリストになるとはこういうことなのか、と共感してしまう自分がいる。
僕はもう諦めてしまった。
例のコミュニティから距離をとりつつも、へらへらと生きていくのだろう。
死んでいく老兵の遺言として、この文章をのこす。
さあ、四月から新生活だ。
がんばるぞ