はてなキーワード: 気概とは
そこは「お義兄さん」って書いて気概みせようぜ
youtubeで配信されてるのを見てみた。
ひどかった。
アシスタント的な話し相手みたいな人がいるんだけど、その人が画面外からほとんどずっと話してる。
その話がまず面白く無い。
GACKTのプレイも下手すぎることもないけどうますぎることもない一般人的な感じでウケを狙うようなこともせずに淡々とプレイしてるから見ててつまらない。
いっそオカリンみたいに完全にキャラになりきった感じで実況する方がまだよかった。
それなのに普通のプレイヤーと同じように失敗して絶叫したりとか。
あと個人的な生理的嫌悪感でダメだったのが、GACKTの横柄さ。
攻略知識とかを画面外の話し相手が教えてくれたりするんだけどそれが間違ってたらすげー機嫌が悪くなる。
目に見えて不機嫌になってて、それを見てるこっちも気分悪くなるくらい。
ネタとしてもひどい。
東京都千代田区。
都心の一画。
ここに一軒のマンションがある。
ガチエージェント遠藤(仮名)の住宅である。
世界でも有数のガチエージェント。
彼らの仕事は決して世間に知らされるものではない。
早朝の丸の内を駆け抜ける遠藤の姿を発見した。
時折立ち止まってしてスマートフォンを操作する遠藤の姿に目を向ける人はいない。
Q、おはようございます。朝、早いですね?
「ええ。始発が動く前にファームを廻る必要がありますからね。
一日分のXMPバースターをどう集めるか。これが大切なんです」
日が昇る前、人々が行動する前から遠藤は動き始める。
手に持つペットボトルが、途中、3回変わった。
「俺なんかがエージェントやれてるのは、Enlightenedの皆さんの支えがあるからなんです。
支えられてばかりじゃなく、こうやって早朝のリチャージをやらないとね」
そう語る遠藤の目は何よりも真剣だ。
ガチエージェントに一切の妥協はない。
遠藤の誇りはそこにあるという。
Q、いつも、この道なんですか?
「いや、巡回の道はいつも変えています。
夜中に攻撃を受けているポータルもありますからね。
ほら、そこの郵便局のポータルはレゾネータがいくつか壊されていますよね」
ただ、ハックするだけではない。
ポータルの修復を忘れない遠藤の姿勢に、ガチ勢の気概を感じた。
「ファームを維持しないと始まりませんからね。大切なんですよ、これ」
遠藤は巡回を終え、カフェに向かう。
勝手知ったる動きで座席を確保する。
Q、朝食ですか?
「いやあ、やっぱりエージェントは体が資本ですからね。
でも、この窓際の席は3つのポータルがスキャナーに入るんですよ」
そう言って遠藤はスマートフォンを操作する。
ハックしながらサンドウィッチを食べる手付きは手慣れたものだ。
「この3つのポータルは入店前に2回ハックしていますからね。
バーンアウトしたので次のポータルに向かわないと」
素早く会計をし、店を出る遠藤。
その足で東京駅に向かう。
時刻はまだ6時22分だ。
「すみません、静かに」
「あちらを見てください。
あのサラリーマンが急に立ち止まってスマートフォンを取り出しました」
「彼はResistanceのエージェントなんですよ」
「こうやって実際にエージェントと遭遇できるのは拡張現実ゲームの醍醐味ですよね」
遠藤は以前はオンラインゲームに没頭していたが、
Ingressがリリースされてからはこれ一本だと言う。
Q、話しかけないのですか?
「そうですね。話しかけることもありますが……。
今日は彼が維持しているファームを攻撃する予定なのでやめておきます」
午前中にポータルを巡回した汗を流すために、遠藤は銭湯に向かう。
「この銭湯はポータルになっているんですよね。ここもリチャージしないと」
ただ、汗を流すだけではない。
熟練の技が、光る。
ファーム巡回も一区切りつき、遠藤の攻撃に同行することになった。
今日はJRで浜松町に移動し、増上寺まで敵ポータルを破壊をするそうだ。
「このあたりはResistanceのファームになっていますからね。
そう、朝に出会った彼の職場もこのあたりなんですよ」
昼休みも終わったこの時間帯に攻撃をしかけることが効率的だという。
「会議中のエージェントが多いですからね。リチャージもあまりこないんです」
「仕事は火曜日が休みなんですよ。平日の日中に動けるのは有利ですから」
浜松町から増上寺まで、水没していた地域に草原が広がっていた。
「iOSを使っているエージェントのために残していてもよかったのですが、
このあたりはResistanceのエージェントも多いので仕方無いんですよね」
遠藤のハングアウトに連絡が入ったようだ。
あと1本のレゾネータを刺すとレベル8になるポータルが静岡に2つあるという。
我々はさすがに静岡までは移動できないので、本日の取材は終えることにした。
1(遊)大黒柱に車をつけよ
2(二)タヌキやキツネの出るところ、カエルの鳴くところに店をつくれ
3(三)上げに儲けるな、下げに儲けよ
6(中)店は商店街のためにあるのではない
8(捕)本業は小売りだ
9(投)実印を押すがごとく値段をつけるべき
地域のニーズに合わせたフットワークの軽い出店戦略と、過去に対してこだわりのないスクラップ&ビルド。顧客ニーズさえあれば、事業領域にはこだわらないよ。
あえて中心地から離れた郊外に出店して、当時の小売トップのダイエーに対応。時代はモータリゼーションだから郊外にショッピングモールつくるね。
便乗値上げでは儲けない。割安感の訴求が命。デフレや円高を利用するよ。
大戦終了後に四日市(三重県)で、「焦土に開く」をチラシの文言にして岡田屋の店舗を再開したさ。社会貢献が企業の根幹だ!
ローカルチェーンの岡田屋が、フタギ、シロと3社合併して「ジャスコ」が成立。マイカル・ダイエーなどを吸収して大きくなったよ。
顧客ニーズに合致しない旧態依然とした商店街には存続意義は認めない!必要ならばガチンコで闘うぜ。
日本の政治・行政は、常に製造業・農業を優先し、小売業は虐げられてきた。小売業が価格主導権を取り戻すためにもトップバリュをつくるぜ。
レジャー産業や不動産業には手を出さないよ。プロ野球球団も持たないからね。
値段の上げ下げで顧客と駆け引きしないよ。EDLP(Every day, low price)が理想だね。
参考文献:
会社に育ててもらう気満々なのかしら。
最初はアルバイトで良いんじゃないかな。中小企業ならいきなり実践的な仕事が振られてメキメキ実力は養われる。
腕っぷしでキャリアアップしていく気概があればアルバイトから始めて業界眺めながら実績積んで、場合によってはガンガンジョブホップすれば良いし、逆にいうとその程度の気概や実力も身につけられなければどこに就職しようが5年もすればお払い箱だと思う。
将来の安泰とかいう頭悪い幻想に取り憑かれて足踏みしてるくらいならとっとと現場に片足突っ込めば良いよ。
どんな会社であれ入社から数年経っても個人として誇れる実績ができてないならエンジニア向いてなかったってことだと思う。
ただ、一応補足しておくと、ジョブホップ気楽にできるのって日本だと東京近辺くらいなので、それ以外の地方ではまた価値観と最適解は違ってくるとは思う。
それがブクマが40位になってトラックバックする増田が増えたのだ。
その後300ものブクマがついた時、トラックバックする増田の数は議論も含めて27にも膨れ上がった。
これを見ると、どうも増田は長い物に巻かれるタイプで、しかも人一倍プライドの高い人達が揃っているわけだ。
ミーハー?単に俺もこの記事に参加してるんだぜアピールであるし、トラックバックの内容も増田の揚げ足取りに終始している。
揚げ足取りでしか書けないならトラックバックするより自分でエントリーした方がいい。
けれど、そのような気概も人を惹きつける記事も書けないから人気エントリーに群がるのかもしれない。
いずれにせよ、増田の内容の無いトラックバックは非常に迷惑である。
Aタイプ人間からすると、「ふーん。俺は大きさ求めてないからいらないな」系の発言は
「(俺が興味ある)他の話題について話そうぜ」か「俺それに興味無いからこのあとの会話に参加できないけどいいよね」という意図で
発言してることが多いし、そこに上の増田みたいなタイプが居てくれると
「俺は興味ない話題に無理に返ししなくて済む」し「グループはそのまま会話が続く」ので助かる。
てかそもそもその元増田も「自分の」生活が豊かになると思ってテレビ買ったんでないの?
それに対して自分の価値観で判断した結果を返すのがそんなに冷水浴びせる行為なんだろうか。
それに基づいて「Aに知らなかった世界を教える」くらいの気概があってしかるべきだろうよ。
いちいちそんなことに目くじらたてて気分悪くするようなやつならこちらから願い下げ。
同僚が事故に遭った。電源をとめて作業していたはずなのになぜか動き出してしまい、指を全て失った。指を失えばもう仕事をすることはできない。二重の苦痛である。しかしこの前から確認しているとおりなかなかうまくはいかないものだ。なぜ人は殺人をするのだろうか。それは倫理的な問題だけの話ではない。人が殺害をすることに悲しみを覚えるという至極当たり前の心情を有していないものは社会不適合者とみなされはじめから社会に参加できない。排除された人間は報復を求める。社会としては排除せざるを得ないから排除しているだけなのかもしれないが、排除された側、つまり弱者の立場になってものを考えて見なければならない。人は倫理的作法を守って生きて行かなければならず、また集団的生活を営まねばならず、独善的に自分の行きたい道を突き進むだけというのは許されない。どうしてか。人間というものは関係を持つことが前提とされているが、そもそも関係をもつのが誤りなのではないか。人間関係がなければこの世の殺人事件の多くが消滅するだろう。通り魔などの衝動的なものを除けばほとんどなくなるはずである。なぜそういった解決法を採ろうとしないのだろうか。凝り固まった考えに縛られて不幸な人生を運命づけられているのだろうか。現代日本は病気に罹っている。病気になっているからには当然治療せねばならないが、治療しようという気概のある人間はただの一人もいない。むしろ、いれば即座に排除される。その排除方法はさまざまである。この世から排除されるという暴力的な手段もありうる。しかし人間というのは元来関係をもつのが当然とされておりそれが動物との最大の違いかもしれない。しかし動物にも諍いはある。グループがあり、縄張りがあり、群れがあり、当然関係をもつ。関係をもつからには衝突が不可避である。衝突が不可避であるからには暴力は不可避である。動物たちはコミュニケーション手段がないため暴力に訴えるしか方法がない。しかし人間と動物のもっとも大きな差異はコミュニケーションを直接取れることである。言語という人間の発明によるものである。人間は本能的に生きることは許されず理性的であるがゆえ人間であるとみなされ、人間は元来人間として人間たらしめられる。人間はコミュニケーションや言語という人間独自の発明品によって人間たらしめられる。それは生まれたときから決定されており、変えようのないものであり、運命づけられているものである。人間に生まれるということが幸せか否かは人に依る。人間は生まれながらにして人間として生きてゆくことを義務づけられる。人間として生きてゆくことが動物として生きてゆくことの差とは何か。それはコミュニケーションや言語という人間独自の発明品が使えるか、否かだ。そもそも動物は鳴き声こそ出せすれ、言葉として意味のある音を出すことはできない。全く同じような音を発するしかできない。動物のもっとも動物らしい側面であり、人間との差が最も大きい側面であり、非理性的な側面である。人間を人間たらしめるものは第一に理性がある。理性こそがコミュニケーションと濃い人間関係を生む。人間が人間を好きになる、つまりお互い好きになるということはあるのだろうか。それとも互いを排除する険悪な関係なのだろうか。いずれにしてもその答えは明確ではない。
自称業界通の馬鹿がドヤ顔で「任天堂プラットフォームに注力したせいで技術力が低下した」ってホザいてるけど
それは結果であって原因じゃないから。
その辺りを見誤ると対策もまともに立てられないからしっかり考えよう。
まぁ、コレなしじゃ語れないよね。
単純に新規見込顧客が減ってるんだから、今までにないやり方で客を取り込まないと
これもでかいよね。少子化で取り込める客の数自体が減ってるんだから
今まで相手をしてこなかった客の取り込みもやらないと市場規模の維持すらままならないのに
PS2時代中期以降、既存顧客に媚びる事しかしてこなかったからね。
まぁ、この辺はちょっとでも他所を向くと発狂する客層しか残ってないっていう
可哀想な事情があるにはあるけど。
莫大な予算をかけてゲーマー向けタイトルをバンバン出してるってイメージで見られてる
海外市場だけど、そんな上っ面の情報だけ見てても状況の把握は難しい。
DesneyInfinity、Skylanders、JustDance、その他諸々見てもわかる通り、
海外のスタジオは客層の新陳代謝をプラットフォーム任せにはしない。
自身が新規顧客を開拓して自社ブランドに囲い込むんだって気概がある。
新規開拓と既存顧客の保持、市場の発展にはそのどちらが欠けてもダメだってわかってる。
だから新規顧客の囲い込みをファースト任せにせずに自分たちで囲う努力をする。
大金かけて失敗することももちろんある。そのせいで路頭に迷う開発者も大勢いる。
けど、チャレンジしての失敗は開発者にとっては経験であって失敗じゃない。
失敗の責任を負うべきはプロジェクトのマネジメント層や経営者だから。
勢いがあるからってスマフォに出稼ぎに行ったってその場しのぎにしかならないよ。
生活必需品なんだから当たり前だ。自分たちはゲーム作りに専念すればいい。
自分たちが作りたいゲームを売る土壌の整備を他人にまかせっきりでいいんですか?
今なんとか凌げてるんならその間に次の施策考えよう。
まだファーストにまかせっきりで自分たちはやりたいことだけやるのか?
FC、SFC、PS1、PS2初期まではそうだったでしょ?新しい客が入ってきて市場が盛り上がって
ゲームタイトルに付く予算がどんどん拡大して、たくさんのことをやれるようになって
でも、市場自体がデカいから各タイトルにのしかかる重圧は今ほど重くはなくて
失敗しても終わりじゃなくて次がある。
今考えるべきは「足りない技術力をどう補うか」じゃない。
はてなブックマーク - 内定辞退、修羅場でむき出しになる人事の本性 :日本経済新聞
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nikkei.com/article/DGXNASFK2802Y_Y4A420C1000000/
https://esf.nikkei.co.jp/form_tantei20140430/
もぐらさん、60歳代男性
最近の企業は、就活生にやたらに余分なことばかり押し付ける。リクルート企業の金儲けに同調しているだけで、大学生の教育や勉強などを考えていない。人事にふざけるなと言いたい。企業経営者のレベルの低下だろう。
どちらかと言えば、恫喝する企業サイドこそ品がないと言わざるを得ません。就職は相互の合意に基づくものであって、職場を選ぶ権利も学生を選ぶ権利も双方に平等にあるはず。誓約書に法的拘束力が無い以上、常に辞退者がでることを想定していないとするとリスク管理がなっていない証拠です。学生諸君には、まず真摯にお詫びをしていただき、もしそれでぶち切れるような会社があれば、そんな会社には行かなくて良かった、将来転職するような機会にも陰湿な引き留めや嫌がらせに遭遇するような会社だったな、とポジティブに考えて欲しいです。
現状の就活では「御社が第一志望です。」と言うのが「お約束」になっている。正直に「第二志望です。」と言っては先に進めない。この「お約束」が誠実さとは無縁であることは採用側も知っている筈ではないか。
60歳代男性
採用人事課に見る目がないだけ
複数の内定をもらっている学生がいる以上、内定辞退が出てくるのはいたしかたないでしょう。要は、内定辞退が出てくる前に、学生との良好な関係が築いておくのが大切なことでは?
怒るような度量の小さい会社は辞退して当然。寧ろ辞退を撤回させ無理やり入社させた揚句に早期に退社するほうが双方にとって損失。そんな企業は、将来その人が自社の取引先、顧客になる可能性を全く考えていない。
辞退されるということは、自分の会社の魅力を学生に伝えられなかっただけのこと。採用担当者は自社という製品を扱いそれを学生に売り込む営業マンであるという意識を持つべきだと思います。
企業側の担当者がそんな発言をしているとは信じ難い。普通にきちんと謝っている学生にはしないはず。本当にそんな採用担当がいるなら、内定辞退したことが正解だし、苦情電話を入れてもいいレベルですね。今の時代、インターネット等でそういう企業名がブラックリスト化されてもおかしくない。学生相手にそのような対応しかできない企業は底が知れている。
「企業が怒るのも無理はない。就活生は誠意を持った対応を」などという結論は、傲慢というより他ない。面接の段階でふるいにかけておいて、いざ自分たちがふるい落とされると腹を立てるのは論外である。就活生はむしろ「ざまあみろ」と馬鹿にする気概を持つべし。
就活生としては、選考で学生を落としまくる企業が、内定を辞退されたところで文句をいう筋合いはない。それこそ、貴社のご発展をお祈りしますと嫌味を込めて言ってやりたい。
50歳代男性(その他)
雇用契約を結ぶ前であり、そもそも“内定”という曖昧な表現を使っている企業サイドに狡さがある。フラれた恋人に仕返しをする情けない人間と同じ。
辛辣な言葉を吐くのは、人事担当者が相手を学生と思い舐めているから。より良い条件を提示し、学生を説得するのが筋。その価値が無いなら、去ってもらえばいい。通常仕事で相手に罵声を浴びせる事なんてありますか?
怒る企業は、辞退した学生が将来「Customer」になることをわかっていない。。「辞退した理由」を調査して今後に生かすべき。
50歳代男性
人事が無能すぎるのがここにきて露になっているだけ!。どれだけ理不尽な内定取り消しや、採用停止をしてきたことか!!「人事」(「ひとのこと」と書く)もそろそろ本当のプロになれ!
誠意のない辞退には、社会人の先輩として喝を入れるべきだが、恐喝紛いの対応をする人事やリクルーターは、その人の仕事の程度や為人が知れる。ブチ切れている人は、当然内定を蹴ったことがないんですよね?
企業担当者は不採用だった学生に対して「礼」を尽くしていますか?彼らに「非礼の数々」の対応を行なっていれば、内定辞退者に怒る権利は無い筈です。自ら襟を正すことが先決です。
採用側の理由で恫喝紛いの事を行うのはもっての他。まっとうな社会人のやることか?そのような恫喝紛いの事が横行しているならば、断りを入れる際に、全て録音しておいた方が良い。
辞退の連絡があった際、内定をとるまでの言動との乖離が大きいほど担当者の怒りは大きくなると思う。例えば、「御社が第一志望です」と明言しているケース。学生とはいえ、自らの発言には責任を持ってもらいたい。
50歳代男性
10年後20年後も考えて募集人員を決めている企業も多いのです。他社の動向を見据えつつ、欲しい人材を確保する人事も大変な思いをしている。記事の例のように3社を一ヶ月以上ホールドするなんて言語道断です。
60歳代男性(その他)
内定を受諾した後に辞退するという倫理の退廃が若者に蔓延したことを看過すべきではない。日本のリーディングペーパーとして、貴紙がキャンペーンを張って大いに警鐘を鳴らしてほしい。
推薦書や誓約書を提出したのであれば,怒るのは当然だと思う。
日本では何事にも弱者救済の概念が公平性を越えてしまう。また、精神論が経済原理を越えてしまう。ここも典型的な例。学生と企業が対等になっていないし、経済原理を無視した採用ルールになっている。学生の内定辞退は自由、でも企業側の内定切りは自由ではない。片方だけに制限を課せば、片方だけに経済的ダメージが発生し、問題になるのは必然。企業側も学生と同様、自由に内定切りをしていい、ということになれば、内定辞退者を見越して、多めの内定も出せる。内定辞退を言われてもお互い様だから、罵声にもならない。何事にも経済原理を踏まえた公平性が肝要だと思う。
50歳代男性(その他)
●その他
就活は企業と学生の戦い、お互いに腹の読みあいでしょう。学生にとっては一生の問題。人事は人を見る目を試されるまさにプロかどうか問われるところ。まあ、腹がたっても、内定辞退されたら負けを認めなはれ。
どのような事情があるにせよ学生側が「約束を破る」ことには変わらない。絶対に認めない会社もおかしい。でも一番おかしいのは内定を出す時期が早すぎること。例えば「就職日の半年前から」などにするべき。
70歳代以上男性
70歳代以上男性
気持ちは分かるが内定の辞退は許されているはず。ただちゃんとしたけじめは大切だよ!とアドバイスをしたい。真っ当な人生を送るためにも……。
これはビジネス。企業はもっとえげつない事をやってます。学生は何も気にすることは無く、誠意をもって事実を伝えれば良いと思う。企業は学生から選んでもらえなかった事に対し真摯に対応し次に繋げるべき。
一般論として、求人側・求職側何れも未成熟であり、無責任ではないでしょうか。記事内にもあるように「文句を言う」のは自己の評価の保全であり、要は自己中心的な発想が伺えます。「辞退」というと聞こえはいいが、ある意味労働契約の不履行であり、何らかの法的制裁等も覚悟して臨むべきだと思います。ただ、辞退を簡単に考えている学生を採用しても、恐らく、自己アピールほどの能力は有していないでしょうし、企業側から見れば、金銭的損失はあるものの、最小限ですんだと考えるべきではないでしょうか。
学生が一生懸命記入したESを出しても音沙汰なし、また面接の結果も音沙汰なしの企業があり。こういう企業がある以上学生側が内定を無断で蹴ってもお互い様の状況になっていると思います。
内定の時まだ就活を続けたい、認められないなら内定取消で構わないと正直に言ったら内定状態で就活を続けさせてくれた。最終的に辞退時に謝りに行ったら就職祝い食事会までしていただいた。必ず将来恩返しをしたい。
同じチームの20代の子で、見た目は普通の女の子なんだけど、かなり体臭がきつい。なんとも言い難いんだけど、玉ねぎの腐ったような臭いがする(関係ないけど顔も玉ねぎっぽい)。小さめのミーティングルームや、車の中とかだと「もうヤメて」って気分になる。なんていうか、昨日の夜か今朝にお風呂に入ってるかどうかがで朝顔合わせる時に匂いでわかっちゃうレベル。多分2日3日に1回とかそんな感じだと思う。
正直、せめて毎日風呂に入る努力をしてほしい。それでも匂うなら我慢できる。なんかね、ガッツのある子だし男ばっかりの職場だから、「男に負けないようについていこう」って気概は感じるんだけど、それってズボラになることじゃないでしょ。方向性を間違ってるでしょ。
で、近しい周りは男だけだから、誰も注意することができない。何て言えばいいんだ?「毎日風呂に入れ」とか、「嫌なら香水を使え」とか、「ちょっと体臭気になる」とか、どう言ってもセクハラか傷つけることになる。これが男の部下だったら「お前最近ちゃんと風呂入ってるかーちょっと匂うぞー」で済む話なのに。今一番の懸案事項は、お前の体臭なんだよ!
どことは言わないけど、地元の「みんなの経済新聞」が長いこと更新されない。
最初始まった時は地元の細かい情報が手に入るから嬉しかったんだけど、
2年経たずして更新されなくなった。
こんなこと他でもあるのかとざっと他所の地域の「みん経」を読んでみたけど、
どこもちゃんと更新されている。
一応「新聞」と銘打っているわけで、そういった名の下にやっているのならば
ちゃんとそれなりの情報を続けて届けて欲しい。勝手に飽きないで欲しい。
前々から思っていたが地元でこういったことをやりたがる一部の方々はどうも飽きっぽいらしく、
一つの企画を維持していこう、スケールアップしていこうという気概が足りないようだ。
そんなやつらのために安くないふるさと納税払ってるわけじゃないんだ。いい加減にして欲しい。
(追記)
はてブにあった件への回答
すみません、言葉足らずでした&書いてるうちに怒りが込み上げてきたので余計なこと書いてしまいました。
消すのも何なのでお察しください。
でも他の事業ではもらえるんだよね。
今日4/7、辞書アプリである大辞泉(小学館、開発:HMDT)バージョン2.0が有料アプリとしてリリースされた。以前のバージョンの大辞泉を持っている方はアップデートしないことをオススメする。
重要なお知らせ
大辞泉は、バージョン2.0からは有料アプリとなりました。2.0から購入された方は、すべての機能がご利用いただけます。大辞泉を、バージョン1からインストールされており、「利用回数の制限を解除」するライセンスを購入していない場合は、利用回数が0になった時点で、検索などの機能が使えなくなります。
『大辞泉』は、バージョン2.0からは有料アプリとなりました。バージョン1のときにインストールされた方は、無料アプリとしてダウンロードされたと思います。これにより、バージョン1からアップデートされた方は、いくつかの相違点が発生します。
すでに「利用回数の制限を解除」ライセンスをご購入済みの方は、特に差異はありません。今まで通りすべての機能がご利用いただけます。
まだライセンスをご購入されていない方は、現在の利用回数が0になった時点で、検索などの機能が使えなくなります。バージョン1では時間経過とともに利用回数が回復しました。これは『大辞泉』の大きな特徴でした。ですが、バージョン2.0以降では利用回数は回復しないことにさせていただきました。引き続きご使用になられるときは、「ストア」画面よりライセンスを購入してください。
「大辞泉」は当初、「デジタル大辞泉」の名で普通の買い切り有料アプリとしてリリースされた。HMDTが開発をし、小学館が配信していた。
競合アプリである大辞林(三省堂、開発:物書堂)の2500円に対し、デジタル大辞泉は2000円と安く、年3回の辞書データ更新を保障していた。
2013年5月、デジタル大辞泉は新アプリをリリースし注目を集める。名前からデジタルを取った新アプリ「大辞泉」はなんと無料だったのだ。26万語が無料!すばらしい!
そのカラクリはこうだ。
簡単に説明すると、利用可能回数の上限が決まっていて、検索すると1減る。画像を表示すると3減る。動画を再生すると10減る。回数が足りなくなると、機能が一部使えなくなる。減少した回数は、時間が経つと回復する。
大辞泉がソーシャルゲームになった理由 | HMDT Blog(645はてぶ)
なんでこうなったかというと、まず背景としてあったのが、App Storeにおいて有料アプリが売れないこと。たとえば、今日のApp Storeのトップセールスランキングを見ると、100位までの中に有料アプリは、、、0!100位を超えるとかろうじて有料アプリがポツポツと出てくるものの、ほんの一握りだけ。つまり、売り上げを立てているのは、ほぼすべてアドオン課金タイプのアプリ、ということだ。
「いや、有料アプリだって売れているものはあるよ」「逆に言うと、有料アプリランキングの方が手薄だからランキング上げやすいよ」という意見があるのも知っている。85円のアプリを10,000本売る、というビジネスモデルだったら、それはありだ。でも、辞書アプリはどうしても単価が高い。この戦略はとれない。
とにかく、アプリはユーザに触ってもらえないと話にならない。うちで作るアプリは、触ってさえもらえれば、気に入ってもらう自信はある。だけど、2,000円のアプリでは、このハードルがとても高い。だから、無料にした。無料にするしかなかった、と考えている。
今度からは、HMDTが企画、開発、配信まで全部やることになった。アプリ名も、そのものずばり『大辞泉』でいく。これを国語辞典アプリの決定版にする、という気概を込めた。
配信元がHMDTに移った事で、いままではやりにくかった大きなチャレンジをいくつもてがけることができた。
すべての辞書機能を無料開放しつつ、その使用に回数制限を設け時間回復するという画期的な手法がソシャゲ風だなんだと少し騒がれた。
まるでソーシャルゲーム? 一定時間ごとに「利用可能回数」が増える、基本無料の辞典アプリ【大辞泉】(40はてぶ)
[iPhone, iPad] 大辞泉: 無料で2000円分の辞書機能が使えます!ユニークなシステムで新登場! - たのしいiPhone! AppBank(38はてぶ)
「大辞泉」アプリが基本無料で再登場 ソシャゲ風課金システム採用 - ITmedia ニュース(10はてブ)
ソシャゲっぽい無料モデルを導入した『大辞泉』は辞書アプリ界のパズドラとなれるか? | TABROID(タブロイド)(22はてぶ)
新アプリリリース時、利用可能な回数上限は15ポイントだった。減った分は15分で1ポイント分回復する。待てない場合は85円で1回だけのフル回復ができ、2000円で回数制限そのものを解除できた。
旧アプリである「デジタル大辞泉」を購入していると、「大辞泉」も無料で全機能が使用でき、歳時記などの追加コンテンツも移行できた。
(ちなみに「デジタル大辞泉」は今もAppStoreに顕在。公約である年3回の辞書データ更新は未だに守られ続けており、iOS7にも対応した。)
利用可能回数の最大値を5に変更しました。
当初15ポイントだった利用可能回数制限が5ポイントに減らされた。それに伴い、10ポイント消費だった辞書内の動画再生が3ポイントに減り、新たに600円で「利用回数の最大値を50に拡大」が追加された。
理由はこうだ。
この最大値の切り下げには、色々な議論がありました。ライセンサーからの強い圧力があったのも事実です。ただ決定的だったのは、利用回数の調査結果です。実際にユーザが、連続してどのくらい検索を行っているのか、調査してグラフにしたのが下の図です。
1回しか利用していないユーザは55%、半数以上にのぼります。5回以内のユーザをカウントすると、92%になり、大部分のユーザは5回以内で問題ないんですね。それとは逆に、15回全部使い切るユーザも一定数いることが分かります。
ここから、多くのユーザの使い勝手はそのままにして、ヘビーに使ってくれているユーザに新たな選択肢を与えたい、ということを議論した結果、最大値のデフォルトを5にして、最大値拡大のアドオンを追加する、という落としどころを見つけました。これでさらに利用してくれるユーザが増えてくれると嬉しいです。
ライセンサー(小学館?)からの圧力とあっては仕方ないが、残念な改悪だった。
「利用回数の制限解除」通常2,000円→セール価格1,400円
その内容は冒頭にも載せた通り、アップデートすると利用可能回数制限の時間回復がなくなり、0ポイントとなると辞書機能は使えなくなった。
理由はこうだ。
有料化へと至った経緯
『大辞泉』は無料アプリとしてリリースすることで、14万を超えるユーザにダウンロードしていただきました。また、時間経過とともに利用回数が回復する、ソーシャルゲーム的な手法を取り入れる事で、大きな注目を集めました。この手法は、スマートフォンアプリ市場において、ユーティリティタイプのアプリの新たな活路を見出す事を目的としたものでした。
しかし、この成果を収益に結びつける事はできず、事業の継続が困難となりました。さらに、ライセンサーからも現在の状況を憂慮した、強い働きかけもありました。このような状況のため、無料アプリとしての展開は終息して、有料アプリとして再出発させていただく事となりました。ご理解のほどをお願いします。
ほぼ同じ文章が大辞泉アプリのフェイスブックにも掲載されている。HMDTのツイッターは去年12月の1度目の改悪(バージョン1.6)以降、バージョン1.6.1.や1.6.2リリースの際も今回もツイートがない。普段リリース報告をしたり、上記のようにアプリに対して説明(釈明)していたHMDTのブログも未だ沈黙している。
私が知る限り事前予告はなかったと思う。残念だ。
レッドブル三本と侍道一本、BOSSコーヒー缶三本、お茶、トマトジュース。十二時間勤務の間に飲んだモノを書き起こしてみた。やはり、飲み過ぎたようだ。先ほど、胃が空になるまで吐いた。昨晩懇意にしている女性とついつい宵口まで喋りすぎたせいで、しょぼしょぼする老眼をどうにかしようと、とにかく目が冴えるように頑張ったのだが、同僚に揶揄された時点であれは若い人向けの飲み物だと気づくべきだった。味覚と胃が仲違いをおこしていたことに気づくこともなく加減を忘れて慣れない飲み物に年甲斐もなく出てしまった手は戻せず、学生さんらしい女性二人につり革を譲る形で電車の渡り廊下で気概を吐いたのも災いして。お手洗いには間に合ったが、そこからが辛かった。まだ足下が定まらない。まさに「薬も過ぎれば毒となる」ことを身を以て経験したのである。阿呆だ。
哲学は「うまく言えない」ことをうまく言おうとする過程で生じるものだと個人的には感じる所が多い。
物事を明快に言い切る言論人(評論家、コメンテーター、さらには評論的なブロガーまで含む)の中には
「うまく言えた感」に酔ってるだけで、その先を追究しようという気概を感じないこともあるが、
哲学者というのは概して「うまく言えない≒うまく分からない」感じをどこまでも追究するタイプの人間が多いと思う。
それはある種の不器用さとも関係しているのかもしれない。教科書的ないしは常識的にスパッと説明とされても、「なんか違うんだよなぁ」という引っかかりを感じてしまうような。
そんな不器用さがある。かのエジソンも小学校で「なぜ1+1か」に躓いたというが、創造的な人間にはそんなある種の不器用さを抱えた人間が多いのかもしれない。
多くの人は「うまく言えない」「分からない」と思ったらそこで踵を返して、ウンウン唸って考えずに済む明々白々なこと(と思い込んでること)だけを扱おうとする。そのほうがラクと言えばラクだ。
それが出来ないのが哲学者の苦悩であり芸術家の苦悩なのだと思う。
あるいはあえてしない。あえて理解のインコースギリギリを攻めていくスタイルをとる人もいる。全く分からないことは分からないとキッパリ捨てられるが、
分かりそうで分からないことというのは妙に気になってしまう。だから、別にスルーできるけどあえてそのオンザエッジに留まって苦しみ続ける。そういうタイプの哲学者もいるに違いない。
とにもかくにも、哲学者はうまく言わないといけない。うまく言えないことをうまく言わないといけない。そこに哲学のジレンマがあるように思えてならないのだ。
別に一般人に分かりやすく言う必要はない。一般人は平易な言葉で解説されないと理解できない。専門知識がないのだから当然である。
平易な言葉でしか理解できないから、平易な言葉で話せる人だけが一般人の目には「理解している人」であり、専門用語ばかり並べる人は「よく理解してないことを
訳の分からないまま回りくどく語っている人」に見えてしまう。それは仕方ないのであって、専門家がそんなことに気配りする必然性はない。
むろん、啓蒙活動する哲学者もそれはそれで社会的には意義があるだろうけれども。
話がそれたが、哲学者は一般人に分かりやすく言う必然性はないけど、他の専門家には分かりやすく言う義務がある。
いくら分かりにくいテーマを扱っているからと言って、何を言っているのか分からない言葉で語ったのでは相手にされない。
そこに哲学者という仕事の難しさがあるなと素人目には感じるし、インコースギリギリを攻めずにいられない一部の言論人にしたって
そうした苦悩とは無縁じゃないのだなと勝手ながら同情してしまうことが多い。
芸術にしたって同じだろう。哲学は既存の哲学の延長線上に新たなページを付け加える行為であるが、
芸術に至っては容易には消費されない新鮮さが求められる。そこに独特の難しさがある。ネットで簡単に違法アップされた音楽が聴ける時代である。
1度聴いて満足するのではなく何度も聴きたくなるような新鮮さ、それもCD音質で聴きたくなるような魅力がなくてはならない。
私も音楽制作の現場にいて、コレクターの所有欲に訴えかけるようなプロモーション戦術に手を染めたこともあるが、
そういうのは芸術としては糞くらえだと思う。本当はきちんと価値のあるものを作りたい。私だけでなく芸術業界の人はみなそう思っているはずだ。
新鮮であるには「奇抜すぎず普通すぎない」、「しかも分かりやすい」、そのバランス感覚を常に維持しなくてはならない。
芸術業界には日常生活からそのようなギリギリのスタイルで暮らしている人も少なくない。着ている服のセンスも奇抜すぎず普通すぎず。
そんな絶妙なバランス感覚を日々の暮らしの中で養っているのだ。そんなギリギリのバランスの中で、
「普通じゃないのに分かりやすい」着地点を模索していく。どうすればうまく言える(表現できる)のか。
7年前、僕はサラリーマンでした。
その会社に入る前は、全くの畑違いの仕事をしていたせいもあり、
そのぐらいならまだいいのですが、その時の上司がとんでもない人で、
怒る時に部下の人間性やらを平気で否定するような人でした。
「お前こんなこともわかんねぇのかぁ?ちょっと考えればわかるだろぉ?あっ、そーか。お前、前職はアタマ使うような仕事じゃなかったもんな。アハハ。」
ほんとお下劣な上司でした。
頭にきた私はそこを退職したわけなんですが、
退職した後の新たな職は何か?
見返してやる!なんて気概で。
辞めることは逃げること、それは悪いことだなんて思われがちですが、
逃げることは必ずしも負けじゃない。
負けじゃないし、不正解でもない。
僕のように正解の場合もある。
クソ上司に当たってしまった皆さん、耐えることも確かに必要ですが、
度を越しているならば辞めていいと思う。
ただ、辞めるならみんなの意見も聞こう。
その上で判断して欲しい。
いつか私と会うことがあったら、社長同士、酒を組み交わしましょう。
それでは。
やばいね。
ラノベと文学のことを書いたまとめがあったけれど、その言わんすることは、
2.純文学は淘汰されつつある。
ということらしい。
それの根拠としてラノベを含んだ小説の文化史が並べられている。反応は、その文化史が正しいかのか正しくないのかに始終している。根拠なんだからそれが正しいのか、正しくないのかは大事なことだろう。ただ感情的な人間としては、結論が間違っているようにも思えない。
漢文や擬古文といったものが消え、口語体が主流になった。国語の教科書にでてくる森鴎外の舞姫を何の脚注もなしに読むのが難しいのだから、そこは間違っていないと思っている。
ただ、小説にでてくる口語体というのもまた時代の流れとともに陳腐化した。つまり、口語ではなくなった。昔の口語が、古いレコードのように書き言葉として残っているに過ぎない。いまぼくらが日常会話で使う話し言葉は、正式な文章ではお目にかかれないし、まともな小説と呼ばれるものには出てこない。
言葉を整理すると、ライトノベルが「純文学」の系譜にあるという文脈での「純文学」とは小説という文化での権威のことだ。純文学は淘汰されつつあるという文脈での純文学は、いまのジャンルとしての純文学のことを言っている。
また、補足すると小説という文化には権威とそれに従うもの、それから外れたものという階層構造が存在している。
そういうことを踏まえると、いまのジャンル純文学は権威を失いつつあり、次の権威はライトノベルが担う可能性があるということだ。
小説の文化が変化をしつづける限り、永遠に権威で在り続けることはできないということだ。いまの権威は純文学であるが、やがてそれは何かに取って代わられる。その可能性として高いのはライトノベルだということだ。それは単純にライトノベルがいま一番活況だからである。
人の少ない文化は衰退する。人の少ない純文学やそれに従うものは魅力を失っていく一方だ。
さて。
ライトノベルは次の小説という文化の権威となる可能性を秘めている。
ここからは感情論が強くなるのだけれど、昔からある何かが否定されるとき、否定する人間はその昔からある何かをよく知らないのではないとかと思っている。むしろ、知らないからこそ否定できるのだと思う。ライトノベルが純文学を否定する未来があるならば、そのときのライトノベルを書いている人間はおそらく純文学をよく知らない。
そして、先例というのはいつもあるのだ。
ライトノベルのタイポグラフィ的なところも西尾維新的な言葉遊びも調べれば調べるほどに先例がある。タイポグラフィ自体がかなり古いものだし、言葉遊びという意味では無駄に爛熟していた江戸文化で見られると思う。イタズラを悪戯と書くのだ。
知れば知るほどに否定できなくなる。だから、知らないほうがいい。「純文学なんて高尚すぎて退屈だ。俺がもっと面白ものを書いてやる」という気概こそ必要だと思う。
そして、この気概を持つためには、ライトノベルが否定されているという認識が必要だと思う。ライトノベルはクズだ、と言われているからこそ、見返してやろうという気が起こるものだ。もし、ライトノベルも立派な芸術であるだとか、そういうふうに賞賛されてしまうのであれば、挑戦する必要がない。それでは、権威となった純文学と同じだ。