同僚が事故に遭った。電源をとめて作業していたはずなのになぜか動き出してしまい、指を全て失った。指を失えばもう仕事をすることはできない。二重の苦痛である。しかしこの前から確認しているとおりなかなかうまくはいかないものだ。なぜ人は殺人をするのだろうか。それは倫理的な問題だけの話ではない。人が殺害をすることに悲しみを覚えるという至極当たり前の心情を有していないものは社会不適合者とみなされはじめから社会に参加できない。排除された人間は報復を求める。社会としては排除せざるを得ないから排除しているだけなのかもしれないが、排除された側、つまり弱者の立場になってものを考えて見なければならない。人は倫理的作法を守って生きて行かなければならず、また集団的生活を営まねばならず、独善的に自分の行きたい道を突き進むだけというのは許されない。どうしてか。人間というものは関係を持つことが前提とされているが、そもそも関係をもつのが誤りなのではないか。人間関係がなければこの世の殺人事件の多くが消滅するだろう。通り魔などの衝動的なものを除けばほとんどなくなるはずである。なぜそういった解決法を採ろうとしないのだろうか。凝り固まった考えに縛られて不幸な人生を運命づけられているのだろうか。現代日本は病気に罹っている。病気になっているからには当然治療せねばならないが、治療しようという気概のある人間はただの一人もいない。むしろ、いれば即座に排除される。その排除方法はさまざまである。この世から排除されるという暴力的な手段もありうる。しかし人間というのは元来関係をもつのが当然とされておりそれが動物との最大の違いかもしれない。しかし動物にも諍いはある。グループがあり、縄張りがあり、群れがあり、当然関係をもつ。関係をもつからには衝突が不可避である。衝突が不可避であるからには暴力は不可避である。動物たちはコミュニケーション手段がないため暴力に訴えるしか方法がない。しかし人間と動物のもっとも大きな差異はコミュニケーションを直接取れることである。言語という人間の発明によるものである。人間は本能的に生きることは許されず理性的であるがゆえ人間であるとみなされ、人間は元来人間として人間たらしめられる。人間はコミュニケーションや言語という人間独自の発明品によって人間たらしめられる。それは生まれたときから決定されており、変えようのないものであり、運命づけられているものである。人間に生まれるということが幸せか否かは人に依る。人間は生まれながらにして人間として生きてゆくことを義務づけられる。人間として生きてゆくことが動物として生きてゆくことの差とは何か。それはコミュニケーションや言語という人間独自の発明品が使えるか、否かだ。そもそも動物は鳴き声こそ出せすれ、言葉として意味のある音を出すことはできない。全く同じような音を発するしかできない。動物のもっとも動物らしい側面であり、人間との差が最も大きい側面であり、非理性的な側面である。人間を人間たらしめるものは第一に理性がある。理性こそがコミュニケーションと濃い人間関係を生む。人間が人間を好きになる、つまりお互い好きになるということはあるのだろうか。それとも互いを排除する険悪な関係なのだろうか。いずれにしてもその答えは明確ではない。