はてなキーワード: 気概とは
徹底した自己開示と執拗な自己解釈による独演を社会に提示した喪服の死神。
幼少の個人的出来事からネット右翼、アベノミクスまで論じ上げた喪服の被告人意見陳述は、他者による分析を拒む防壁として構築されたが、ひとつだけ、さらりと流されて違和感を放つ、セクシャリティのカムアウト。
陳述で同性愛を告白し、ボーイスラブ系二次創作での人気に執心したことを事件の発端とするも、彼はセクシャリティに関してだけは、言及を拒む。
自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学の学歴、バスケマンガでの成功、ボーイズラブ系二次創作での人気の3つになります。
…
31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。
…
自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。
「手に入れたくて手に入れられなかったもの」「何か」「自分が欲しかったもの」。
執拗な自己解釈を行う喪服が、ひたすらに言及を拒む「何か」は、すなわち、セクシャリティの肯定である。
喪服のまとめサイト的な自己ツッコミは、非モテ的自意識には向けられて、彼は饒舌にウェブ上に氾濫する非モテキモオタの類型コピーを演じて見せるが、一方で、自らのセクシャリティたる同性愛については、まるで《安価》が付けられていない。
本来なら最も語られるはずの内心、セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とみる自意識に代替されている。
動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。
汚くて醜くて無惨、自らを汚物と信じた喪服。
もし彼が自身と違う肉体を持つ他者に性欲を向けること、例えば空想の中でオークに成り代わり女騎士を犯すことで充足できるセクシャリティなら、あるいは始めから性的な身体をもつと社会的に扱われている性別なら、自らの身体性が「汚くて醜くて無惨である」と信じながらも、少なくともはじめの一歩を踏み出すことはできただろう。
ヘテロセクシズムに覆われた社会において、セクシャル・マイノリティは「自分はセクシャルな存在である」と現実世界に足を踏み出せない限り、または誰かが手をさしのべてくれない限り、それがマイノリティとして否定された経験だったとしても、はじめの一歩を得られなければ“セクシャリティあるもの”として存立できない。
彼の「本当のセクシャリティ」は否定すらされなかったかもしれない。喪服は何の理由もなく、つまり、ホモ、オカマと罵られたのではなく、身体的なものをあるがままに、母親に汚い顔だと罵られた過去を呪った。それは純粋な身体性の否定であってホモフォビアとの遭遇ですらない。
ホモフォビアとの遭遇は、「ホモと笑われるのが辛かった」と、その苦しみを語ることで、自らを疎外されたマイノリティとして位置づける。
喪服の空想におけるセクシャリティは、思春期にボーイズラブによって徹底的に肯定された一方で、彼の現実のセクシャリティ、喪服が“手に入れたくて手に入れられなかった”身体性の肯定は、同性愛の自認と同時期に行われた“汚い顔”と身体的否定によって抑圧される。
自らを汚物と信じた喪服は、現実のセクシャリティ、それによって他者と繋がる身体性を否定して、汚物は誰かを愛することもできないと、性愛を禁じてすらいる。
自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。
LGBT当事者の書籍として頻繁に持ち出される「ボクの彼氏はどこにいる? - 石川大我」と比較すれば、タイトルに違いが現れている。
今ではオープンリーゲイを公言する政治家である石川大我が、自分は人を愛するに足る存在であると信じることができた一方で、喪服の語る言葉は「愛する人が初めからいないのです」である。
愛する人がはじめから喪われている、すなわち、自らの性愛が喪に服しているからこその喪服の死神であり、一文字で暗喩された「喪」とは非モテを示す。
2000年代、2ちゃんねるやはてななど、ウェブ上で隆盛した「非モテ」とは、自らの身体性あるいは性価値に対する自己否定、キモいと罵られた汚物のような人間は誰かを愛するにも不足するという絶望を、自らに対して自己否定のレッテルを貼り付けることで自己肯定に転嫁する、クィアにも似た試みであるが、やがて、彼らにはじめから内包されていた自己否定によって自壊した。
あくまで非モテと呼ばれたことで、モテるか否か、恋愛関係にあるか否かという状態や能力について論じられてしまった非モテだが、彼ら非モテ、あるいは非リアといった類似物も含めて、彼らは「そうであること」に価値を見いだすのでは無く「そうでないこと」によって存立し、非モテを成り立たせていた人々は状態や能力を求める人間ではなく、藁にもすがる思いで自己否定のレッテルに飛びついた人々である。
自分がどれだけ汚物か、気持ち悪いか、失敗しているか、誰かの指摘に先んじて自己開示をし、誰に言われる前に自らを否定する、終わりなき自己否定のスパイラルは、非モテの名の下に集った人々に、わずかばかりの肯定を与えた。
自己否定のレッテルにより肯定される彼らの自意識の中核にあるものは、唯一、自らをキモいと思い込まざるを得なかった幼少期の経験に由来している。
しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。
…
幼少期、まだ子供の非モテたちに向けられたキモいという言葉は、思春期、セクシャリティが開花する時期を真っ黒に塗り潰す。
汚物に等しい人間は誰かを愛するにも不足するという絶望は、彼らのセクシャリティを現実を生きる他者に伝えることを禁じて、彼らの性愛は空想へと向けられていく。
本来ならば健全なセクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とする自意識に取って代わられ、歪な自意識は癒やされること無く成長と共に発展し、ウェブ上で隆盛したモテない男に由来する数々のミームに乗っ取られた怨執甚だしい精神構造を完成させた一方で、耽美な世界を描いたボーイズラブ系二次創作を愛した喪服の死神。
現実では“自分のような汚い顔のキモブサメン”と自嘲して、空想では女性の世界の性愛に耽溺している。
喪服のチグハグなセクシャリティの表出には、彼の現実と空想、性の繋がりを感じさせない。
「何か」が欠落してしまっていた。
ウェブ上での自己開示および匿名の対話者からの反応を慰撫とする行為は、今や誰もが行っており、本来なら十分にウェブの中で機能して、現実世界で怨執を露呈する必要はない。
だが、喪服の自意識の歯車は、ウェブの言論歯車と噛み合わなかった。
喪服の自己対話は精緻であって、他者の解釈に先回りして応答し、全体としては分析をさせる余地を与えないほど堅牢であるも、彼の脳内にインストールされたウェブ言論と、彼自身の対話においては、歯車の噛み合わないチグハグさが漏れ出している。
このチグハグさは、喪服が扱ったネット用語に明瞭に現れている。
さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。
喪服が自らの性について語る言葉は徹底してウェブ上の異性愛社会で用いられる言葉であって、セクシャル・マイノリティの為に用いられる言葉は現れない。
自らを異性愛者の視点から「同性愛者」と規定し、異性愛者の非モテが用いた造語で「キモメン童貞魔法使いw」と自嘲し、「ボーイズラブ系の二次創作」と腐女子の言葉で性指向を空想している。
喪服の自己対話には、セクシャル・マイノリティが自らをセクシャル・マイノリティとして規定する言葉が、どこにもない。
というより、喪服がウェブで本心を語ろうとも、それに噛み合う言論の歯車はあっただろうか。
非モテから同性愛者を斥けてミソジニーとホモソーシャルの産物と断罪するセクシャリティ論。
女性たちのホモソーシャルであるボーイズラブ系二次創作の世界。
最後だけは、本当に、ひとつだけ、自己否定のトンネルのなか視野狭窄した彼が自らのセクシャリティの本心を発露して、肯定されうる場を見たならば、思春期から愛し続けたボーイズラブ系二次創作を介した他者による肯定だったのかもしれない。
しかし、喪服が創作するには、表現の原動力たる空想の世界は耽美であるも、空想と同一の肉体を持つ彼の身体性は汚物であって、空想と現実を繋ぐ彼の言語空間はウェブ上で構成された非モテミームに乗っ取られており、格差は恨みを募らせていく。
喪服が、セクシャリティの肯定を得るために行わなければならなかった努力。
本当なら、とても近しい接触によってなされるセクシャリティの肯定は、喪服においては、女性たちが作る社会における創作の表現に対する賞賛という、とても遠い彼方からの肯定の可能性が、ただひとつ、自己否定のトンネルに差す光として見えるのみ。
もしも努力の果てに肯定が得られたとしても、彼に与えられるのは二次元のベールを通した、空疎であたたかみの無い接触である。
喪服は、呪っただろう。
喪服が手に入れたくて手に入れられなかったセクシャリティの肯定を、可能性として見いだしたボーイズラブ系二次創作の賞賛を得る者を。
空想における愛情は、現実における怨執へと置き換わり、耽美な世界で肥大化した自我は、現実世界の自己表現を求めて、自走する。
喪服が見た光の絶望的な遠さは、彼が呪いを向ける対象への距離に変わった。
喪服に残された肯定的な表現手段は、呪いを振りまく脅迫状の郵送に変わった。
喪服が望んだ「何か」、口にすることすら拒んだ人の暖かみによるセクシャリティの肯定は、自己否定の結末として、無機質な統治権力による罰として具現化する。
恐らく重度のネット依存だった喪服の実生活、喪服が生きた思い出の中にも、彼のセクシャリティを、わずかにも肯定した「何か」は存在しなかったはずだ。
喪服は、斑目晴信がオタク濃度を感じたように、キモオタが秋葉原に得るしっくりと来るさまを感じ取ることが出来ただろうか。
喪服は、ボーイスラブ系二次創作を手に取るとき、美しい男を愛する女性の為に作られた空間に踏み入れた、汚物に等しい男を見る目に、何を感じ取っただろうか。
喪服は、自覚することはなかっただろう。
喪服は、徹底して、自らのセクシャリティを、完膚なき自己対話によって、自己疎外した。
執拗に繰り替えされる自己解釈は、彼が求めた「何か」の中核を、自らに気付かせないための自己防壁として機能する。
自己疎外された人々が、自らに自己否定のレッテルを貼り付けることで、健全な精神をギリギリのところで保った非モテの論理。
2000年代に爆発的に流行し、2010年代の始まりと共に終わった非モテは、童貞を中心とするヘテロセクシズムであり、同性愛者の喪服を救わなかった。
喪服が愛したボーイズラブは、あくまで女性のホモソーシャルの世界であって、男の喪服を救わなかった。
セクシャリティを否定された者たちが、自らを疎外されたマイノリティと位置付けて語るLGBTは、セクシャリティのはじめの一歩を踏みだせた者たちのための論理であって、非モテの喪服を救わなかった。
《身長×体重×年齢》と、身体性をコード化して他者と繋がる様式を持つゲイ社会は、身体性を否定された喪服を救わなかった。
身体性を否定された喪服がセクシャリティ育むべき思春期に愛したものは、空想における同性愛であり、彼を耽美な世界に誘い込み、彼の自我を肥大させて、現実を呪った。
忘れないうちに書く。
で、ざざざっとスクロールしてて、気になった婆さんDJのエントリをクリックしたのさ。
クリック後に、「和式トイレは滅んで欲しい」みたいなエントリを横目に見た気がして、
そっちが気になってトップに戻ったら、もう並んでないのね。
気になるから、はてブ内の検索ボックスに「和式トイレ」でキーワード入れて検索するんだけど、まったく見つけられない。
そうか、「新着」か、あれ、「人気」だっけか?などとポチポチしても見つけられない。
なんか、こういうレベルの使いにくさというか、正常系だけつくるのうまくて異常系がからっきし、みたいなのが
積み重なると信頼性棄損につながると思うのね。
もし僕がはてなの採用に応募したらこの増田は誰が書いたかバレちゃうの?
それが原因で落とされちゃうの?
父親と母親が10歳違ってること、初めて知ったときはすごくおどろいた。
初めて知ったのはとても小さかった頃。
でもまぁ、あまりそこでどういうこともなかった。
父親が母親へ年齢をごまかして結婚したということを知ったのは、いつだったかおぼえていない。
父親が母親に実年齢を話したのが兄を身ごもってからだと知ったときは、なんという詐欺師だとおもったと同時に、気づかなかった母を愚かだとおもってしまった。
父親は、わたしがそのことを聞かされていることを知っているのだろうか。
父親と母親はもちろん不仲で、だけれどもそれを改善しようという気概も当然ない。
父親は子供に無関心で、金がかかることが起きるときにだけ金がかからないように気弱ながらもアピールをする。
わたしが大学へ行きたいという話をしたときも、うちの会社の契約社員には高卒がたくさんいる、俺も親に反発して大学へ行くのをやめた、だから大学へ行かなくたって充分に社会でやっていける、と。
行きたいという趣旨の話でこれってことは、まぁ行くなと言えないけれど行かないという選択肢を応援してるよね。
結局現役で適当なところへ受かってしまえば、そこらに自慢して回ったらしいけれども。
それ以外にも、まだバブルで稼ぎのよかったときには、酒を飲んではわたしや母の前で兄をよく蹴り飛ばしていた。
ジャイアンツが負けた日だ。酔って気が大きくなって、暴力的になるのだ。
母はわたしの小さい頃には散々父の悪い話をわたしにしてきたけれど、わたしが父に関して許せないことを言うと、血族のことなんか気にしないでがんばれと言う。
けれど、わたしは、これからもしも結婚することなんかがあっても、旦那にこんな父親のことなんてとてもじゃないけど話したくない。
死んだものとしてしまいたい。だから、早く死んでくれればいい。
うそをつかなければ結婚できなかったような人間の子どもであることが恥ずかしくてたまらない。
母と父は他人だけれども、わたしにはどうしたって父の遺伝子が体を這いずり回ってる。
一人暮らしをする準備をしている。
家を出る前に、父親に、年をごまかして結婚するなんて醜いよねとか、恥ずかしくないの、どんな気持ちだったの、とか言ってみたい。
貶めると言うよりは、父がどんな気持ちで自分を偽ってまでも結婚したいとおもって無責任に子供を作ったのか、その心理が知りたい。
自分を偽って無理矢理結婚したいとなんてわたしは到底おもえないし、そんなことするくらいならなんとしてでも自殺する。
父親は、わたしたちがなにもしらないとおもっているのかな。
たとえどれだけなに不自由なく育ててくれていたとしても、やっばりどうしても抑えきれない。
みんな大企業に入って働きたいのか?
少なくとも自分にはそう思えなかった。
雇用は保証され、給料もよくて、仕事の規模も大きく、福利厚生が優れていたりするだろう。
でもさ、そういう利益に胡坐をかいて座っているだけの人間になってほしくないんだ。
特にグループ企業や下請け企業をたくさん持っているところとか。
大企業の本社の人は、必然そういう人たちを指揮命令する立場にあるんだけど、
いや、平均点以上の人が多いし、一部にはズバ抜けて優れた人もいるんだけど
そんな人が、数十人単位のチームのリーダーを務めるわけだから、まぁ、うまくいくはずはない。
メンバーとしては評価されるかもしれないが、リーダーとしては力不足。
また、あなた自身も下の人間から悪く思われるだけでなく、本社の優秀な人からもお荷物扱いされる始末だ。
・それに耐えて、大企業で働く気持ちをあなたは持っていますか?
・あるいは自分は優秀だから、リーダーとしてしっかり役割を果たせる、という気概を持っていますか?
どちらでもないなら、あなたは大企業で働くべきではないだろう。
身の丈に合った会社を選んだ方がいい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/shuppankyo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-9ba7.html
で判り難いと話題沸騰中で、仮にも良い大人が書いた文章だからそんなわけねえだろと思っていた時期が俺にもありました。
http://shuppankyo.cocolog-nifty.com/blog/files/01-1402.pdf
これは『出版協 FAX新刊選』の「ほんのひとこと」の転載。つまりコラム。
出版協副会長の竹内さんは『「アベノミクス」の裏側で……。』や『「日本を取り戻す!」安倍自民党政権は「物言えぬ社会」を目指すのだ!“何が秘密? それは秘密”』等を書く人で、つまりスベったギャグという評価が適切。
なお、赤ペンしたら真っ赤になってどうしようも無くなったので、各文毎には解説していない。
冗長な上に、内容が散漫です。要件は簡潔に伝えましょう。
書きたい内容をまず箇条書きにしてみて、不必要な部分は取り除きましょう。
箇条書きにすると、構成の不明点や、つじつまの合わない点が判るようになります。
要求なのか、質問なのか、お話なのか、それぞれが判るように区別しましょう。
(可能な限り基の文章の順序を守ったが、一部意味を通すために前後している)
書きたい内容、つまり、言いたいことが沢山あるのは、とても良いことですね。
しかし、本当に言いたいことを1つか2つに絞らないと、何を言いたいのかわからなくなってしまいます。
竹内さんの書きたいことは、もしかしたら次のようなことではないですか?
言いたいことが絞れたら、まずはそれを最初に伝えるようにしましょう。
その理由や、周辺情報は、出来る限り簡潔に書いてみましょう。
また、「わたし」が指す人(会社)がいくつもあると、読み手を混乱させてしまいます。
(出版協、彩流社、竹内さん、読み手と書き手を含んだ全体など、いくつもありました。注意しましょう)
この度、彩流社(以下、当社)は、Amazon Studentプログラムの中止をアマゾン・ジャパン社(以下、貴社)に要請いたします。貴社のAmazon Studentプログラムは、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律の第二十三条において適用除外を認められた書籍の再販売価格を維持する為の正当な行為を阻害するものです。
つきましては、即時の中止、もしくは、当社の商品をAmazon Studentプログラムから除外して下さい。
詳細は、下記に記載いたします。
記
・Amazon Studentプログラムを即時中止して下さい。
・Amazon Studentプログラム中止に伴うクレームは、当社カスタマーセンターをご案内下さい。
・即時中止出来ない場合は、当社の商品をAmazon Studentプログラムから除外して下さい。
・裁判の意志はありません。話し合いで解決したいと考えています。
・なお、当社と直接の再販契約者である取次を訴えるつもりはありません。
以上
霞たつ今日このごろ、いかがお過ごしですか?いつも我々彩流社の書籍販売にお力添えいただき、ありがとうございます。
我々彩流社は、人文書や文学系の専門書を多く出しているので、大型書店以外では店頭販売機会も少なく、月の売上の15%は、アマゾン・ジャパンさんによるものです。大変お世話になっております。
さて、実は本日は彩流社の代表としてではなく、出版協の代表としてお願いがあります。
書籍市場の発掘と拡大、文化の発展という大義を再確認しませんか?
以前に一度お願いし、「再販契約者の当事者でないので、回答する立場にない」とお返事を頂いた、〈Amazon Student〉プログラム中止の件です。
アマゾン・ジャパンさんの〈Amazon Student〉プログラムは、再販制度の維持を妨げていると出版協は考えています。その為、すぐに〈Amazon Student〉プログラムを止めていただけないでしょうか?もしもすぐに止めることが難しい場合は、出版協に加盟している出版社の商品をそのプログラム適用から除外していただけないでしょうか?
文化の一翼を担う一員として、裁判のような手段はとりたくないのです。また、出版協に加盟している出版社が再販契約を結んでいるのは取次店ですが、そちらに賠償を求めたくもありません。
最初にお伝えしたように、アマゾン・ジャパンさんの売上に占める比率は出版協に加盟している出版社にとって大きいので、できれば商品提供は拒否したくありません。
割引価格で買えなくなってしまう学生さんたちからの批判は、出版協が負う覚悟です。ですが、現在の定価設定は決して不当に高いものではないと思っていますし、もしも再販制度が崩壊してしまえば、書籍の価格は上昇してしまい、結果的には学生さんの不利益になってしまうと考えています。
先日、「作業中や運送中の破損・汚損本の処分」という理由による書籍のアウトレット販売に関して、「全て返品入帳する」として、話し合いで解決することが出来ました。同じように、この件も話し合いで解決できると思っています。
わたしたちは、(スタンスの違いはあっても)文化財ともいうべき書籍を、読者に手渡していく同じ仲間だと信じています。
消費税に関することなどまだまだ聞きたいこともありますが、それはまた別の機会にしたいと思います。
梅香る季節ではありますが、まだまだ寒い日が続きます。お体を大切に、ますますのご活躍を願っています。
なんつうか全体的にダセエ
まず、小社、わが社、わが国、わが業界、私、当時の流対協、私たち、出版協、自分たち、われわれ、とか
自分がどこの立場からモノ言ってるかがブレブレで、一貫性がねえ
せめて自分個人なのか、自分の会社なのか、自分の所属する出版協なのかくらいは判るように書けよ
あと、愚痴が長え
送料無料はいいけど、他の直販商品が影響されて値上がりしたとか
書店のポイントサービスも1%なら「お楽しみ」だが、3%が横行してるとか
取次店(日販、大阪屋)に契約遵守指導を求めてるけど明確な回答が無いとか
知らねえよ。カンケーねぇだろ。
ポイントサービスも商品単価は低下せずに寧ろ上がってるから良いんだとか、既存書店に媚びうるから論旨がブレるんだよ。
例1も例2もよ、基の論旨がグチャグチャで根拠も書いて無えからエスパーにも限界があんだよ
そもそもよ、手紙の形で周りに経緯と現状を伝えたいんだったらよ、メインで言うべきは再販制度が崩壊したら価格が上がる理由とかプロセスとか、再販契約の内容とか、取次訴えない理由とか、商品引き上げない理由とか、そのへんだろうがよ。
自分に都合の悪いことは一切書かねえからワケワカンねえ上にダッセえ愚痴ばっかりになんだよ
なんつーか「裁判にはしないでやってんだから、折れろよ?ん?裁判嫌だろ?」みたいな上から目線だけどよ、
自分で契約社会のアメリカの会社とか書いといてよ「契約の相手は取次店だけど、販売会社も契約守ってくれ」とか言って聞いて貰えるワケねーだろ
「再販契約に違反しているか否かについては平行線のまま」とか書くなよ恥ずかしい
契約に違反してるかどうかなんて裁判したら一発で判るだろ。そんな解釈難しいのか?出版協にも顧問弁護士ぐらいいるだろ
信念があるから学生からの批判上等っていうなら、さっさと商品提供拒否しろって
学生時代にアイヒマンという人物を知った。以来、アイヒマンのようにはなるまいと思いながら暮らしてきた。つまり、可能な限り悪者になりたくないのだ。だが悪者になりたくない人間は自己本位で未熟な人間であるという。その結果か、私は成熟した人間になり損ねているとも感じることが少なくない。
今の私を表現するとすれば「僕にその手を汚せというのか」という一言に尽きる。まだ「僕は悪にでもなる」「おぬしも悪よのう」という境地には至っていない。別に悪者になる必要はないのだろうが、おそらく悪を何らかの形で受け入れる必要があるのだろう。だが曽野綾子のような思考様式を持つことが成熟であるなら、受け入れることは出来ない。
もちろん未熟な人間のまま一生を終えるという選択肢もある。しかし不治の病や不慮の事故で夭折する覚悟も無ければ、未熟な人間のまま百歳まで生き抜くだけの気概もない。どうしたものか。
自分の正しさばかりを主張するひとにあった。
信用が「押し問答」のなかで失われつつあるなか、かろうじて互いの理性でギリギリ関係が成立している状態。それを横で部外者として話しを聞いていた。
ある組織が提供しているサービスを利用しているその女性は「話しが違う」という趣旨のこと延々と主張していた。かたや組織の人間は「そんな約束はしていないしそれを証明する方法も無いでしょ?」ということをやんわりと伝えていた。
恐らく法律的に組織側に瑕疵がある部分はなく、誤解を生んだ言い回しは希望的観測の範囲内の発言だったと言える感じ(とはいえそれが原因だから問題と言えば問題だが)。
一方女性の主張は、「自分が何を信じて行動し、それが信じた通りにならなかったことによってどれだけの不利益が合ったか」といった趣旨のことを延々と述べていた。結構冷静に。
サービスを提供している側としては、その女性はお客さんだ。だからその部分を加味して、当然直接的な言い方は出来ない。そしてその女性は「その歯切れの悪い部分」に突っ込みを入れる。「誤解を生むようなことをいうひとの責任が云々」みたいな。。
この女性に決定的に掛けているのは「自分を客観的に見る視点」だと思う。
世の中には悪いやつに騙されたとしても「騙される自分に隙があったのだ。それがそもそもの原因だったのだ」と考える人も少なからずいる。もちろんそう考えるからといって、人を騙したやつの罪が消える訳ではない。問題は騙された側の心の「ありよう」だ。責任の所在やトラブルの原因を他者に求めるのは比較的容易だ。泥棒にも三分の理、ということわざもあるくらいだ。
自分の価値。それは他者によって決められる。これは「せかいにひとつだけの花」の唄の歌詞のようにはいかない。ありのままで価値を持っているものなどこの世には存在せず、価値は「見いだす人」がいて初めて価値になる。ちょっと考えれば子供でも分かる話しだ。
この女性は、自分の価値に対して揺るぎのない自信を持っている。それは人が通常生きるうえで必要な「自信」とは、別なものになっていると感じた。
「自信」は自分を支えるのに使うものであって、何かを攻撃するためのものではないはずだ。これは推測になるが、この女性はいままでずっと「自分を守るための道具」を「武器」として使い、社会と向き合ってきたんだと思う。そしてそれをそうやって使うことにより、多くの成果を得ることに成功しているのかもしれない。(他者と違うアプローチをすると、得てして良い結果を得やすいものだ)
正直醜いと思った。
自分を客観視できない醜さ。そしてその醜さにも気づかず、当然それを背負う気概もなく、ただただ問題の原因を他者に押し付ける主張を続ける。醜い以外のなにものでない。
ちなみに当の本人、外見はすこぶる美人だった。
おれおっさんなんだけど昔のアニメあんまりみてないのね。(エヴァとかハルヒとかも)
でニコニコでナデシコが配信されたから何ぞこれ~と思って見てみたのよね。(4話以降はバンダイチャンネルでみたのだが)
てっきりあのルリルリってのがナデシコって名前で主人公かと思ってたよ。
で始めは「お、古参用アニメかあ~↑?」とかバカにしてたんだけど、何これ面白いじゃないの。まあいろいろ古いなあとは思ったんだけどまあそれは目をつぶろう。
で、みてるうちに気がついたんだけど今年あったマジェスティックプリンスって完全にナデシコのオマージュじゃないですか~。
・随所で挟まれるギャグ
・熱い先輩の突然の死!
・作品内作品への憧れ
・敵が実は人間的なやつ
正直、マジェプリみてるときは「まあ面白いかな」ぐらいには思ってたんだ。くだらなめのギャグは嫌いじゃないので。(ミルキィホームズとかが好きなんです。)
まあ見終わった結果、まあ凡作だし、円盤も売れてないなって感じで終わったんだけど・・・
ナデシコと比べてしまうとマジェプリのひどさが目に余ってしまう。
■テンポの遅い展開
状況がほとんど変わらないんだよね。ナデシコが地球側についたり、捕らえられたり、木星側についたり、一体どうなっちゃうの~!?感が半端なかったが
マジェプリはほとんど地球vs敵という感じであまり展開にかんしてドキドキ感がなかった。
内面的には出生の秘密が明かされるぐらいで過去の記憶が戻るわけでもなしで、薄い。
■はっきりしない人間関係
幼いっていうかちょっと惚れてる以上の関係もなかったし、なんというか安全飛行で終わりという感じ。愛憎がないのね(´・ω・`)
ナデシコはくっついたり離れたりが多かったのも新鮮だったね。
4話か5話くらいでキスシーンがでてきておじさんもうホントびっくり。
最近のってエロが多いわりにあんまりキス描写とか恋愛自体の描写が少なくないか?(俺の観測範囲が狭いかもだが)
(ただナデシコのジュン君は哀れといっていいほどかわいそうなのだが)
・アンジュ:キレ芸の人。
・整備陣:各機体に三人ずつって多すぎだろ!
■過剰な敵側描写
・多い上にテンプレだったからねぇ・・・ナデシコは同じ人間じゃん!からの葛藤がよかった。
======
ナデシコに関しては作品内作品であるゲキガンガーが徐々に本編に絡んでくる様相がホラーチックでもあり、
両作品とも2クールなのだが内容量的にはマジェプリは0.3ナデシコぐらいしかない印象。
なんかいろいろもったいないな~と。オマージュを問題視する気はないけど
ただマジェプリの戦闘シーンはよかったと思うよ。3D使ってたからかもわからんけど。
あとニコニコでネタばれコメをする人は作品が好きなら自重した方がいいと思うね。例え昔の作品でも。
あ、正確に言うと他の人にも自分が好きな作品を楽しんでもらいたいなら。だね。
940 :ソーゾー君:2013/12/17(火) 22:33:19 ID:Kp/JVPJo
福島のガキ共は体内被爆をしているからどこに逃げても無駄なんだよ・・
被害を拡大させるだけなんだよ・・
だから俺が最初に言ったんだ・・道義とか道徳とか倫理とか捨てなきゃならん時がある。
自分自身又は自分の子供を生け贄に出してでも福島のガキ共を救いたいと言う気概を持って望んでも無理なの・・
身代わりになれないの・・共倒れで終わるよ?
「瓦礫撤去や廃炉作業などの被爆確定作業はやりたくありません。」と言う奴にはなにもできねーよ・・
既に福島のガキ共は体内被爆して未来を奪われた放射性物質になってんだよ・・
もう救えねーんだよ・・沖縄に逃がしても自身の体内から放射線を発して自身も回りも汚染するんだよドアホ・・
チェルノブイリで何を学んだ?隠蔽?やっても無駄だ・・みんな知ってるんだから・・
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1378650618/l50
結婚して子どもが生まれてでも仕事は毎日続いててみたいな生活が何年か続き、どんどん自分っていう個の部分が希薄になってきていて主にそれは家族を守りたいとか家族のために生活することは楽しいしやりがいがあるという気概が原因なので良いことだと思っているのだが、ふと、一人の時間が昔より少なくなったなと思い返していると「なあ、自分だけのこと、やりたない?」ともう一人の自分というか自称ライフアドバイザー的なやつがなぜか関西弁で聞いてくる。こいつは怪しげなマジシャンみたいな格好(イメージ)をしており、人生という名の列車に乗って安穏と毎日をすごしている僕のところにたまにやってきては、いらん事をいう。
前に来たときは「チャリとかええんちゃう」と言われて僕は気づいたら自転車を買っていた。もちろん自転車が悪いってことじゃなくて8段変速のBellissimo 8speedをとても気に入っているのだが、僕は何故かこの変なアドバイザーの言う事を聞いてしまうことが多くて自分で呆れる。(ユングだったらエゴの象徴で変な格好をしているのはトリックスターが云々とか言うのだろうけどそんな大層なもんじゃないことは本人が一番分かっている。)
何かをやりたいのかと聞かれたら確かにやりたいんだけど、「家族を放置せずに自分の為になってかつ楽しい個人的なこと」なんていう条件を満たすものは少なくて特に楽しいことって基本的に家族をある程度放置しなければできないことが多いので躊躇してしまう。というか「その時間があったら家族のため(主に3歳の息子のため)に使うべきだガネ」というONE PIECEのMr.3みたいなやつ(メガネ着用)も自分の中にいるし全く困ったものである。
子供がさらに成長したらこんなことは言っていられないし奥さんこそ自分の時間が必要だし、「そもそも自転車があるじゃないカネ?」とかMr.3は痛い正論を言うしそろそろまとめないといけないのだが、世の人ははどうやって自称ライフアドバイザー(関西弁)と折り合いをつけて(押し切って)いるのだろうか。「僕は(私は)これで黙らせた!」的なエピソードがあったら聞いてみたい。
(まずは自転車だガネ)
今週末は乗りまーす!
(問題提起)結婚以外にも再帰性という考え方が浸透しているのではないか?
第三節のなかに「再帰性」という言葉がある。本書によれば、再帰性とは「ある行為なり制度なりを『別なふうにもできるのではないか』という観点から眺める態度」と説明されている。この観点に通じるものとして、山田昌弘は結婚しない若者たちの現状を取り上げ、「もっといい人がいるかもしれない症候群」と名付けた。「この先もっとよい人があらわれるかもしれない」。現代において、現在の事柄はより見通しのよい未来を獲得するための手段にすぎないのである。「再帰性」という言葉は広い範囲で応用されうる、強力な思考である。山田昌弘は、現代の結婚観のなかに「再帰性」を見て取り、鮮やかに示してみせた。しかし、「この他によりよい未来が待っている」という、主体の今いる現状を顧みない、いわば運命に身を委ねるような考え方は、結婚に限らず恋愛において多分に散見される。<承けて繋げる>(結婚にかぎった話ではない。恋愛において、よく散見されるものである。)(たとえば、「告白」を考えてみよう……)(「告白」というテーマに照準を合わせたものの、上手い事例がでてこない。もう少しやりやすいものはないか?類似しているものはつぶしがきく。「別れる」という動作に着目してみよう。)(輪郭がぼんやり浮かんだ!!でも、書き出すとなると苦労する。それは往々にして範囲が広く、抽象的であり、実感しにくい事柄である場合である。だから範囲をしぼる。身近な例を思い浮かべ、それをそのまま書く。)
(検討)
『『『→たとえば、恋愛における「別れる」を考えてみよう。別れるという行為には、分かれるに足る決定的な理由が存在することが少なくない。しかし、時として、これとは異なる理由で別れることがある。順調に交際を重ねていけば、いつかはマンネリとなる。(マンネリになるよ!)二人が二人でいることに、慣れてしまう。(慣れてしまい停滞する。)(停滞している状態になる)(マンネリとは〜〜)停滞期には、些細な出来事が火種となる。(二人の関係が不安定なものになるとき、楽しかった思い出は、これまでとこれからを天秤にかけ、私たちに選択を迫る。<説明を加え過ぎ。抽象的な説明は2段階にとどめる。3つ目はくどい>)「このまま、関係を続けていって本当にいいのだろうか。」困難を見事乗り越えることができたならば、二人はめでたく、ーーおそらくは信頼が以前にも増して強固となってーー次の段階へ進んでいく。しかし、この問いに対して、「次へ」
(書くしかない!)』』』
(煮詰まっているときは一つの主題を掘り下げようとするあまり、論旨をどのように展開していくのか見失っている。文章を書き進めていくときは、水平性を意識して垂直に掘り下げる。ある思考にたいして、分析するさいは垂直方向だけ意識していればいいが、論文やレポートのような長文にたいして、同様な態度で臨むと、思考が煮詰まる。頭がぼんやりとして、手が動かない。捗らない。この状態は、集中力が途切れたのではなく、一つの物事に偏執して全体が見えていない状態である。いわば、過集中である。)
(主張)
ただ一緒にいれば楽しかった、順風満帆な時期は過ぎ、停滞期に入る。『これから二人の関係をどうしていこうか』と考える時期になる。(所詮は)他人である二人の人格の衝突を、乗り越えていけば、二人の関係は以前にも増して親密なものとなるだろう。しかし、厳しい状況を乗り越えていく気概が持てないことがある。「もっといい人を見つけよう」と早い段階で見切り、(何の確証もない)確証がない明るい未来に全身を賭ける。(安易に)現在の関係を断ち切り、次の交際相手を見つけることができれば、万事良しである。本当にそうだろうか。このような身のこなし(方)にはいくつか問題がある。
〜〜剥き出しの主張は過激で偏屈であるから(主張に至る経緯)(妥協)を鏤めて、なめらかにする。主張は正しいか誤りかで判断するのではない。より説得力を持った文章が、受け入れられるのである。〜〜
(検討&主張)
〜〜何をどのように書くか?テーマと意見の設定、検討-過程の設定〜〜
(テーマ)
恋愛における付き合う、付き合わない
(問い)
仲がよいのに、どうして付き合わないのか?
女はわかる、男は?