はてなキーワード: 地球温暖化とは
・就職して仕事が辛くて10キロ痩せて服が全部合わなくなったし会社は私服だし勉強会に参加するようになったし交流範囲増えたしまわりに結婚の波が到来し自分も結婚したいなと一人寂しく食事してると思ってきたし、いろいろあって外観を変えようと決意し、いろいろ試したので有用なことをまとめてみる
・髪の毛
1000円カットで適当にって頼んでいたところを、美容室で適当にってお願いするようになった。ただし、特定の美容師さんを指定して毎月定期的に切ってもらうようにしてもらった。ヘアカットっていうのは盆栽みたいなもので、ここは削ってここは残してと切っていくことで髪型が完成されていくらしい。だいたい半年かけて清潔感のある整ったヘアが完成した。ヘアカットしてるときにワックスの付け方や髪の毛の癖の付け方、どういう髪型がにあうのか等いろいろアドバイスももらえたので非常に有用。盆栽を趣味にしているおじいちゃんを馬鹿にできなくなった。盆栽とは奥が深い。
・ハゲ
10キロ痩せたけどハゲも進行した。どうにかして頭皮の砂漠化を防ぐため、前述の美容師さんとも相談したところ、1.頭皮を柔らかくする、2.血行をよくする、3.亜鉛をよく取るということが大切だと判明。パナソニックの頭皮エステつかったりミノキシジルつかったり亜鉛サプリを飲んだ。特にパナソニックの頭皮エステがとても気持ちよかったのでおすすめ。毎日ぎゅっこぎゅっこ頭皮をもんでマッサージされるのがくせになってしまった。どれが良かったのかは分からないが砂漠化はとまり緑化が始まった。地球温暖化なんてなかったんだ。
・体重
10キロ痩せてめでたいけど、また増加したら元も子もない。そこで一番太りやすい夕食をオールブランに置き換えることにした。どうせ会社のランチで外食して美味しいもの食べるんだから夕食くらい質素にいくかと決めた。オールブランのお陰で便秘もない健康的な生活が送れるようになった。オールブランめちゃいいよ。まずいけど。Amazonでオールブランと豆乳を定期便にて毎月送ってもらい黙々と食べている。まずい。でもそろそろ飽きた。まずいし。ソイレント輸入してみようか検討中。
・服装
要は自分に似合う服装をすることが大切だと学んだ。極論を言ってしまうと背が小さくて細い人と背が大きくて太い人、どちらがカーディガン似合ってどちらが革ジャン似合うかって話になる。自分は背が大きくて体格ががっしりしてたのでアメカジ(っぽい)路線でいこうときめた。色の濃いデニムと薄いデニム、チノパン、黒パン、灰色パンツ、Gジャン、灰色ジャケット、黒ジャケット、紺ジャケット、ミリタリージャケット、灰色パーカー、白シャツ、デニムシャツ、白Tシャツ、イラスト付きTシャツ、ネクタイ、灰色マフラー、黒チェスターコートを買った。どういう服装が自分にあうのかわからないなら店員に聞くと良い。取り敢えず前述のすべてを同じ店で買えば店員とは顔見知りになるし(なった)着まわし方などいろいろアドバイスもしてくれた。
・運動
ここまで来たら運動もしてみるかと思い立って区営ジムに通うことにした。ググればわかるのだけど区営のジムってめちゃくちゃ安い。そこでクロストレーナー漕ぎながらスマホでアニメやドラマを観ることにした。クロストレーナーってやつが一番カロリーを使うらしい。実際ランニングマシンで走るより、自転車をこぐより、体に負担は少なくとても疲れた。アニメはDアニメストアが月額400円で安くて良い。だいたい3話分、週1で運動している。運動用の安いイヤホンは必須。一度汗で壊した。
・結果
ここまでやってまわりから変わったと言われた。普通にかっこ良くなったと家族からも言われた。
・雑感
これまで書いたことはほぼ自分で選んで決定したのではなく、他者にアドバイスをしてもらった。その道のプロにアウトソーシングすることで、他者の視点から自分を修正することができた。そうすることで失敗することなくうまく変化できたと思う。ただし、お金はかかった。でも無駄なお金も無かった。
まあ、1年いろいろあったけど、仕事にも慣れてきたし、周囲と交流するときに変な劣等感持たなくなったし、ヲタは治らないけど外観を自己肯定できつつあるので自分でも変わろうと思って頑張ってよかったと思う。
だそうだ。赤旗のコラムもかくやはと思われる一方的な決めつけと一部の政治団体の主張を代弁するご熱心さにはあきれるばかり。
昔から、朝日の社説は程度が低かったが、ここまででは無かったはずだ。
なんで、こんな独りよがりなポエムを社説として掲載するのだろう?天声人語ならいざ知らず。いや、コラムにだってこんなん書いたらあきれるけど。
この社説子が読者に感じてほしいことは、
「俺はウージェーヌ・イヨネスコの『禿(はげ)の女歌手』を知っている文化的な人間」
「安倍内閣の暴挙を不条理劇になぞらえる発想力。センスいいでしょ?」
「『カーテンコールの、喝采の代わりに。』どう?詩的でしょ?センス良いでしょ?」
こんなとこか?
センス無いよ。はっきり言って。
集団的自衛権に関する憲法の解釈変更について、ついでだから私見を述べておく。
とは言っても、今回の解釈変更についての賛成・反対のことではない。
デモクラシーの担い手たる健全なる社会人なら誰もが知っている「ルール」(社内規則や法律等、もろもろの)についてだ。
憲法は法律であり、法律はルールであり、ルールは守らなくてはならず、ということはルールは守れるものでなくてはならない。
現状を追認すればいいというものではないが、現状に即した適切な条文に随時メンテナンスしなくては、ルールはルールとして機能しなくなる。
守れる訳のないルールを頑迷に変更しないまま金科玉条のように奉っておくと、そのルールはやがて形骸化し、却って何の歯止めにもならなくなるものだ。
守れる訳のないルールの一字一句にこだわるのは、ルールの精神を尊重していない言葉遊びと同じことだ。
そしてその言葉遊びは、ルール自体をゆっくりと間接的に蝕んでいく。
たとえば創業者が決めたけれども時代や社会や新しい法律と整合性がとれなくなって、もはや誰も見向きしていない社内規則とか。
憲法9条は、法律の条文にすぎない。それによって守るべき価値は何か?日本国の平和と安全だろう。
しかし、かつてルールの一字一句を神聖視して、日本国の平和と安全などどうでもいいという人たちがいた。
彼らは「神聖なる憲法9条に奉仕する自分」にうっとりするばかりの、自分をえらく見せたいだけの偽善者たちだった。
言葉遊びを非難するならば、彼らこそが非難されるべきだろう。
彼らは、国際情勢に合わせて憲法の精神を尊重しつつ条文をすこしずつ変えるという民主国家に必要なプロセスをあれやこれやの感情的な屁理屈をもてあそんで邪魔してきたのだ。
そしてその結果として、今回の無理筋の解釈変更が必要になってしまったのだ。
つまり朝日新聞は「言葉遊び」によって憲法を形骸化させた張本人の側でもある。自分たちの言葉遊びの報いを別の言葉遊びで受け取ることになっただけのことだ。
いや、その報いを受けるのは国民全体なのだから憲法の精神を真の意味で尊重してきた人々には迷惑な話だ。
「主権者である私たちは声をあげ続ける。(中略)おかしい、認められないと」
こんなの今時は学生だって恥ずかしくってビラにも書かないような少女趣味のアジテーションだ。
これで横暴な権力に立ち向かう革命の闘士気取りならば、いい気なもんだぜ。としか言えない。
薄ら寒い自己陶酔はご自宅に配達される朝日新聞のチラシの裏でやったらどうか。
朝日新聞は700万部(主催者側発表)発行されているそうだから、この社説のおかげでざっと数万冊のノートを作れるパルプとそれに印刷するインクを無駄にしたことになる。地球温暖化の観点からも問題だ。
普通、日本語の文章で書かれた日記を見ると、普通は「日本人」という感想よりも前に、この人の日記は面白いな、この人の批評は痛烈だなと思うのが一般的な慣例だったはずである。
それなのにわざわざ「日本人として」とか「日本として」と書くのは何でだろうと思う事がある。
「日本人」という単語がそれほど大きな効力を持つとは考えにくいが、多用する事で訴えたい何かがあるのだとすれば、それは陳腐な事だろう。
実際の所、これを多用するのは自分自身に後ろめたい事実があって、それを「日本人として」という事に置き換えてるのではないか、と考える。
総じて、「日本人」が「日本人として」と書くのは実にヘンな話である。
昨今は隣国との冷えた関係から嫌韓や反中がネット上での常識となり、その国や人となりを風刺するのが常となって久しい。
されば、それがイコール「日本人」への愛着に繋がっていったのでは、というのが一般的な見方であろうと推測されるが、
筆者に言わせれば、それは虚実である。
いちいち「日本人」を多用して「日本」を祀り上げずとも海外での評判は概ね良い。
和食が無形文化遺産に指定されたのを始め、日本のありとあらゆる伝統が外国人の心の拠り所となりつつある。
それらを踏まえれば、「日本人として」と表現する人達の閉鎖的で独善的な感性は何とも言い難いものがある。
あるいは、彼らのアイデンティティーとは昔ナチスが「ゲルマン人こそこの世の最高である」と宣言してたモノに近い。
ところで最近、やたら愛国主義を謳う人が急激に増えたように感じる。
それそのものは良い傾向であろう。
しかしながら、問題は謳っている人間が一方で森林を伐採し、地球温暖化を早め、また労働者を家畜同前の扱いにし晩婚化を進めては少子化が激増する一方であり、日本人の尊厳を踏み躙る行いをしている事である。
そういった人間が一方では「日本人として」景観や自然を守ろうと言うのであるから滑稽である。
日本という国は、古来から八百万の神を信仰し、またシャマニズムを尊び、上も下も豊かであろうと心がけて来た国であるはずである。
にも拘らず、「日本人として」と謳う昨今の愛国主義者たちは、同じ愛国主義者を使役し捨石のように扱い、今度はお国のためと言って戦争に駆り出すのである。
お国のため、としながら他国を蹂躙、凌辱する事は果たしてナショナリズムに合った話なのだろうか。
また、それが謙虚を美徳としてきた「日本人」のあるべき姿だとは、とても思えないのである。
「日本人として」国を愛する心があるのならば、自然や景観を守り、他国を謗ったり、他人を誹謗中傷しない、世界が認める謙虚を美徳する民族であろうと努力すべきではないか。
やたら「日本人」を強調する人というのは、結局日本人である事の誇りを知らない非日本人であり、またそれは歴史が証明しているのだ。
第二次世界大戦で愛国主義を謳った東條英機以下当時の政治家・軍人の類は国家を疲弊し国民を疲弊させ、その文化遺産を鉛などに使うべく溶かしてきた。
その結果が、長崎や広島への原爆により日本人の尊厳や先人の歴史的遺産が消失してしまったという、愛国主義とは程遠い凄惨な事態へと発展せしめたのである。
今思う事は「日本人として」ナショナリズムを起こすのであれば、安易な誹謗中傷よりもまず国内の安寧を図るべきであり、自国を批判する事である。
携帯電話の液晶の解像度、通信速度、処理速度くらいではないか。
しかし、携帯電話が進化しても何も進化はしていない。家庭用ゲーム機やデジタルカメラ、カーナビゲーションを取り込んだだけだ。
人々は毎日広告がベッタリ貼られたウェブサイトや、小綺麗なアプリをよろこんで見ている。
こんなもの、iモードでやろうと思えば出来たものだ。くだらないアプリがスタートアップ界隈で持て囃されすぎではないだろうか?
今後、ゲームはコンタクトレンズ型モニターや脳につないで五感を乗っ取るようなデバイスが出てこないと先は真っ暗だろう。
しかし、楽で多くの人間が出来ることなのでやり尽くされている。
そこにみんな気づけよ。
追記
人工知能やロボットの発達が20世紀に騒がれたいたほどではない、ネットは発達しているのに地球温暖化や環境汚染などの解決策などのつまらなく、時間がかかり、お金もあまり望めないものは全く進化していない
この季節、満開になった桜とともに、俺にはたまらなく嬉しい事がもう一つある。
今年も新人が入ってきた。
子供の頃に大好きで、もうとっくの昔に連載が終了したマンガ。大人になってふと本屋に立ち寄ると、そのスピンオフとか続編だとかが発行されていることに気がついた、そんな感じに似ている喜びだ。
何より、動きづらそうなス―ツで固めた彼女の目には、仕事への熱意があふれていた。
そんな様を見て、ベテラン社員のオバちゃんは俺をひやかした。「念願の秘書が出来ましたね(笑)」。
諸君に紹介しよう。俺の秘書。彼女は、蒼井そらを地味にしたような印象の女の子だ。
理系の常識にもれず口下手な蒼井そらは、会話の冒頭を必ず「あ」から始める。
俺「この関数の計算量はわかるよね?」「あ、まず、はじめのアルゴリズムのオーダーがlogNですから…」みたいに。
そして緊張すると、1オクターブ声が高くなる。
俺「うん。よく出来たね。ところでお昼ごはんどうする?」「あ⤴、今日はお弁当用意してきてないです。」
はじめの時はガチガチに緊張していたが(お互い)、近頃、肩の力が抜けてきたのか、笑顔が見られるようになった。
あかん。
俺の頭に警告ランプが灯る。beep音が鳴り響く。
参った。いい年してこんな気持ちになるなんて、思っても見なかった。
この歳まで仕事一筋で生きてきた俺。
だから、俺のディスプレイを覗きこんだ彼女の香水が昨日と違うことに気づいても、
(フ、俺にとって社員は目的達成のためのコマに過ぎない。会社の成長とユーザーの笑顔こそが、俺の全てだ。)と頭のなかで唱えてやり過ごし、
俺のコンビニ弁当に野菜が少ないのを見越した彼女が、手持ちの手作り弁当からトマトをひょいと寄越して「あ、私、実はトマト苦手なんです。母に食べろって言われてるのでしかたなく入れてるんです」と言ってニッコリ笑った時も、
「うん、それなら貰うよ。ありがとう」(全ての親はいつだって自分の子どもを心配しているものである。これは子孫繁栄のために全ての動物に見られる特徴である)などと念じ、
議論が白熱して夜遅くなって、車で送ろう、と言った時も、
「あ⤴、まだ終電ギリギリ間に合います。陸上部だったんで、足には自信があるんです、ダイジョブですよ」って固辞した時も、
(車を使うと地球温暖化を推し進める怖れがあるからな。賢明な判断じゃないか。だから俺が特別嫌われてるわけではない。嫌われているわけではない。嫌われているわけではない…)
などと呟いて事なきを得た。
でも歯車が致命的にズレて、万が一にも、彼女と交際して、最悪、結婚する、という事態になったら、目も当てられないことになる。
社員を招いて結婚パーティーを開かなくちゃならないし、取引先にも知れてしまうかもしれない。
悪いうわさが立つかもしれない。「あー、あそこの会社の社長、蒼井そら似の新人に手を出したんですってよー」。ぐうの音も出ない。
会議で司会進行役の社員が、「以上です。『パワハラ』さんはなにかご意見ありますか? アッ」などと、呼び名を間違ってしまうかもしれない。
それだけは避けたい。
だから駄目だ。手を出しちゃ駄目だ。
明日も彼女は俺のそばに来る。それは避けようのない事態だ(いや、無理言えば避けられるけども)。
土日を一緒に過ごすのはアウトか。
食事くらいはいいのか。でもそれで我慢できるのか。全てが未知の領域だ。真っ暗闇のなか目隠しをされて歩く。吹き上げてくる風を感じる。両脇は崖だ。
ああ。
こんな気持になったのは小学生以来かもしれない。
放課後の教室、誰もいなくなった教室に、隣の席に座っていた長い髪の女の子を呼び出して告白したとき以来だ。春の風が窓から入りこんで、彼女の髪が揺れる。ニッコリと微笑む。そして言う。『NO』。
俺はモテナイ。俺はモテナイ。かの事件以来、オイラーの公式以上にシンプルな事実は、俺の心の碑文に深く刻み込まれていた。wikipediaで調べたところによると、およそ1500年前に気の利いたインド人が、どんな数も割れない数『0』を生み出したそうだが、そんな彼も、1500年後にとある日本人(俺)がモテナイ、ってことには気が付かなかったと思う。同じくwikipediaで今調べたところによると『-1』のルートをとった数に『虚数』という意味が与えられたのはおよそ500年前だそうだが、俺は500年たってもモテナイ以上の意味を持つことはないだろう。
別に上手くないな。
…とにかく俺は、逃げた。
コミュニケーション能力を磨くとか、目の前の人間をちゃんと向き合う、といった人間として必要な努力に背中を向けたクズに成り下がった。
マフラーで結ばれた同学年の男女が公園のベンチで自販機のスープをすすっている時に、俺は、
ろくに暖房も効かない部室で、部費で買ってもらった貴重なコンピュータのモニタを、同志たちと肩を寄せあって睨みつけていた。
恋愛映画を見ている恋人が、映画が終わった後、ホテルで相手の服を脱がすその手順を考えている時に、俺は、
メモリの限られた計算機上で、いかに効率的に破綻なくプログラムを組み上げるかに没頭していた。
そうだ。誰に否定されても、変わらない事実がもう一つあった。
俺は、プログラミングが好きだ。
俺の心の碑文の裏には、それがきっと刻まれている。
なぜそうなるのか考えてみる。
これは本当に深刻なレベルの人が多い。
正直な話、大学すら出ていないとなると会話が通じる自信がない。
『トートロジー』『加藤周一』『構造主義』『リーマン積分』『尤度比検定』『緑の革命』
このどれか1つすら知らない人ってのは、正直会話できないと思う。知的レベルが低すぎる。
頭のよさどうこう以前の、「硬い文章なりを読みこなしたり調べたりして理解する」っていう過程を踏んできていない人間に議論なんて絶対無理。
「本当に頭のいい人の文章は分かりやすい!」って聞いて、「じゃあなんでお前の理解できない数学の本があるんだよ」ってのがスッと理解できない系の人には話が通じない。どれだけ簡潔で理路整然としてても受け手に理解力がなかったり理解しようという力が無かったりすると話なんて通じない。
そりゃ、日常会話は表面的にってならできるかもしれないが。
装備なしにエベレスト上るようなもので、知識なしである程度以上の会話ってのはできない。
エベレストに自然体では登れないように、人間の脳みそってのは高度な思考を自然にできるようにはできていない。
これがわからない人が多い。
たとえば、アルコールで酔っているときに、数学なり解けるだろうか?意識としてはどんなにクリアに思えてもできない。
それと同じで、脳みそが正常に働かない状態の精神状態や脳みその状態で考えようとしても、無理。
③未成年
こうなると、まともな思考は厳しい。殆どできない。
中二病にコツコツしたトレーニング方法を教えても意味が分からないだろう。
④男女差
差別するつもりはないが、女は男に比べて単純な空間把握とかができない。なので、話にズレが生じてくる。
また、感情の処理も男に比べて女はできない。
人類が生み出してきた『議論』って手法は男の脳みそに合わせて作られたフシがあるので、女には厳しい。
女独自の思考方法もあるし女の思考力がすぐれないとは思わないが、現状作られたフォーマットには女は適さない。
たとえば、スポーツというフォーマットでやってしまうと女が男に平等な舞台で勝つのは厳しいように、議論っていうのはちょっと女には向かない。筋肉と同じく女は脳みそは伸ばしにくい(もちろん、音楽とか感性とか経営管理とか、そういうのは明らかに男より優れる部分も多いと思う)
スポーツが男の仕事だとすぐ納得できるならば、議論も男の仕事と考えてほしい。女は同じ土俵ではまず勝てない。
⑤議論と交渉の差がわからない。
議論ってのは、ある一定の知識を前提に合理的に話を進めていけばいいんで、そこに感情とかいらないんだけど。
交渉となると話が全然違う。
この場合、Bがかつ。勝っているのは議論ではなく、交渉。
なぜBが勝ってしまうのかというと、「話を破たんさせている」から。
Aは正しい正しくないは別として、話を積み重ねていけば、エアコンの温度を下げるっていう行動にある程度の意味合いを持たせうる。Aは議論を吹っかけている。
たいしてBは、「この話をまとめると嫌なことになる」→「話を崩壊させてしまう」という手法を取り出す。Bの話に正しさとか論理とかまったくないんだけど、Bは自分の感情を通すために交渉を吹っかけている。
そもそも、議論に感情が出てくること自体がおかしいのだけど、Bのように知的レベルが低い、あるいは知的レベルが高いけど交渉でご破算にさせてしまうっていうのに味をしめている人は、Bのような態度に出る。
一度暴力でものを通してしまった子供は、ずーっと暴力でものを通そうとして成長が無くなってしまう。それと同じで、交渉に頼って学ぶことを辞めた人間はこうなってしまって、話が通じなくなる。
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。
未だに低い燃料算出コストの差額を原資に
燃料輸出以外の産業育成に余念がない。
当然ながら経済発展に伴い産出燃料の自国消費分が増加し、
サウジアラビアなどは試算しているという。
そうするとどうなる。アホウでもわかるな。
北米のシェールガスをタンカーに積んで日本に輸出できる施設ができる頃には、
ヤツらの化石燃料自国消費分も随分と増えているだろう。
燃料価格のさらなる高騰を先延ばしにするのに最も有効な手段は、
つまり、原発大国である日本が止まってる原発をガンガン焚いて、
「原発あるのに使わない」は
5年後になって、「あの時くだらない言い訳ばかり言わずに働いとけばよかった」
ヤツらはもう米英の言いなりじゃないってことなんだよ。
相関と因果は一致しない 女性平均寿命 NHKの放送受信契約数
多数論証
科学者による多数決ベースの気候変動レポート 気候変動覚え書き/ウェブリブログ
犯罪者の98%はパンを食べている。
パンを日常的に食べて育った子供の約半数は、テストが平均点以下である。
暴力的犯罪の90%は、パンを食べてから24時間以内に起きている。
パンは中毒症状を引き起こす。被験者に最初はパンと水を与え、後に水だけを与える実験をすると、2日もしないうちにパンを異常にほしがる。
六〇〇〇年前には、現在より二~三メートル高い位置まで海が広がり、複雑な海岸線をもつ入江には多種多様の貝が生息し、台地上には多くの貝塚がつくられた。
以前宮崎県に行った提言ですが、県のページには掲載されず、どうやら没になった様子。
数字とか結構一生懸命に調べたところもあり、意外に落ち込んだのか、それ以降提言をしようという意識も薄れてきたんですな。
ただ、それから何もしないのも勿体ないという事や、県外に旅行に行ったり、東京に帰郷した時に感じる格差から、どうも黙っていられない部分もありリトライして見ることにしたんですな。
《以下提言内容》
いつもお世話になっております。
宮崎市在住の●●という者です。
宮崎県の特産品の一つとしてウナギが挙げられると思いますが、本年は全国的に不漁が訴えられており、価格の高騰や老舗料理店の閉店などの問題がでています。
ウナギの稚魚であるシラスウナギの漁獲量はここ50年で数十分の一にまで減少しており、原因としては、二点が挙げられています。
一つは、地球温暖化の影響により、ウナギの産卵地帯である太平洋上の塩分フロントの移動が発生し、ウナギが日本に到達しない死滅回遊が発生している事です。
そしてもう一点としては黒潮に乗って日本にたどり着いたウナギが成長する河川の環境の変化による物であり、今回はこちらに絞って意見を提示させていただきたいと思います。
さて、ウナギが日本の河川を遡上するにあたってはじめの障害になるのは、堰などの激しい段差です。
近年の堰は魚道が設けられていますが、ほとんどが遊泳力に優れたアユなどに対応したものであり、ウナギの遡上が不可能な物となっており、別途専用の魚道「イールラダー」の設置が必要と言われています。
また、護岸工事が進んだ環境も、ウナギの餌となる甲殻類・小型魚類などの生息に向かず、護岸の周辺にアシなどの植物を生やしたより自然な環境に近い自然堤防へのシフトが求められています。
宮崎ー都城市内を流れる県を代表する河川である大淀川を見てみると、内陸部でもコンクリートの護岸が行き届き、またコンクリートの堰によって大きな護岸が設けられています。
一度県内の河川の環境を見直し、よりウナギの生息に適したイールラダーの設置や、自然堤防へのシフトなどを行っていただくことは出来ませんでしょうか。
《以上》
今回はNHKの科学番組を一本観て作ったほぼコピペみたいな内容です。
県内におけるウナギ産業の規模やら、全国的に見て宮崎で漁獲したウナギのパーセンテージなどプライドをくすぐるポイントも書いていないのですが、労力は全くかけていません。
>私が小学生の頃は、夏は28度くらいが普通で30度になると珍しい、そんな夏休みだった。近年、35度ぐらいになってしまった。
これはヒートアイランド現象であって温暖化だけでここまでは上がらん
>防災対策の名目で、建設業に消費増税の金を回し道路を作るのではなく、公共交通機関を充実させてほしい。
所得税等の復興増税を防災対策に使うと決まってるが消費税の使い道は限定されてないし防災対策としてやるのは道路ばかりでもないし公共交通の充実と道路も無関係ではない
>コンビニはなぜ電気の自粛を一年でやめてしまったのか。自動販売機は、パチンコ屋は?その携帯電話は使う必要があるのか?
去年は制限令で強制力があったからで今年は西日本で自主的に節電されるようになってるしそもそも自販機なんか昼間電機使わないようになってる
>震災や津波・原発事故を忘れない気持ちがあるなら、脱原発の後に、地球温暖化の問題があり車中心の生活スタイルを変える必要があることを考えてほしい。
そんな先のことばかり見ずにまずは現状認識をしっかりしてほしい
そうでないと非現実的即全廃論と差がなくなるぞ
緑の党が発足して、緑の風というのもあり、脱原発デモにも2万ぐらいきてるそうで
原発をなくせと言っている人は、政治家に味方を作りデモでマスコミに味方を作り
個人的には脱原発の方向へ進んでほしい。原発がなくて電力がまかなえるか?という課題はあるが。
原発をなくしたら、そのあとに
「地球温暖化」「社会生活のスタイルを変更」という問題が待っていることを忘れてはいけない。
私が小学生の頃は、夏は28度くらいが普通で30度になると珍しい、そんな夏休みだった。近年、35度ぐらいになってしまった。
地震や津波でたくさんの人が犠牲になったが原発で死んだ人がいるか?もちろん影響を受けた人は多いだろうが
「台風で死ぬ人」や「交通事故で亡くなる人」の方がよほどたくさんだろう。温暖化は台風や豪雨を強め、自動車は人を殺す。
脱原発と言っている人は、同時に
原発をなくした後、自動車運転も制限する活動を始めた方がいい。温暖化の原因は自動車だけではないが。
都会で15分や30分の距離を、買い物のために車で移動する。そして運転席以外の5人分の席は余っている。とても滑稽だ。
若者が自動車に興味を持ちづらい、金がなくて買えないことで死亡者数は減っている。いい機会なので
防災対策の名目で、建設業に消費増税の金を回し道路を作るのではなく、公共交通機関を充実させてほしい。
コンビニはなぜ電気の自粛を一年でやめてしまったのか。自動販売機は、パチンコ屋は?その携帯電話は使う必要があるのか?
日本では車が一家に2台くらいはあり、ほとんどの人が携帯電話を持ち、大量生産・大量消費。
壊れやすいモノを作って何年かに一度は購入してもらう、そんな生活をしているが
http://anond.hatelabo.jp/20120708121050
お前みたいなのがそんなに地球温暖化の事心配してるんだったら、もっと表で声高に地球温暖化の危険性について聞こえてる筈だよな?
今の日本で地球温暖化の心配している奴なんてどこにいるんだよ。反原発叩きの声の1/100も見かけないぞ。
おまえは地球温暖化のリスクなんてどうでもよくて反原発を叩くための口実を探しているだけのクズ。
原発推進派は、地球温暖化防止を名目に原発を作ってきたが、一方で稼働停止時の代替電源で石炭火力とか平気で使っている以上単に見かけのコスト以外の事は考えてなかった事は明白。
http://www.47news.jp/47topics/e/218274.php