はてなキーワード: 一部の人とは
もちろん限界もあるが、かなりストレートに差別問題がくっきり浮かび上がるので試す価値はあった。
前提・・・ドイツケルンで難民がレイプ事件を起こしたが政府がこれを隠蔽した。
「差別に容易に繋がるが、事件を起こした側にも圧倒的に明らかな非があり、そのため事件を起こした張本人でなくともその周辺も含めて忌避すること」
これを肯定・消極的肯定・黙認するか否かがポイントになろうかと思う。
ほとんどの人間は合理的科学的に行動を決定しているわけではないので、この件に限って合理的科学的な判断を求めるのは無理なんじゃないかと思っている。それに、万一の事態に誠実な対処を期待できる国でもないし。
最近でもケルンでは住民が難民にレイプされている。 ドイツ政府の難民犯罪に対する対応方法の歴史も伝えるべきではない?結局、被害を被っても最後は個人で責任を取らされるんだよ。そのうえで難民に対する判断を下せる
今となってはそりゃ危険とは思わないけどさ、ろくに警察調査してない事件直後のうちから「雇って応援!」「難民キャンプは安全!」言う人いたと思うんだけど。結果論かなと。
前提としてドイツ政府と行政を信用できるか否かってのは大きいと思う。正直俺は信用できない(特に今は)ので、難民の安全論も懐疑的に見てしまう。難民自体は信用しているが、難民を扱う人たちを信用できない。
でコイツはどこ在住? もちろん難民キャンプのすぐ近くなんだよね?難民キャンプのすぐ隣にお住まいなんですよね。ご家族で。え?違うって?(爆笑)それが答えじゃん。自分で答え出してんじゃん(笑)
難民を雇ってるけど、すでに結論、などと言ってスタティックに保障された安全安心などないけどね。まずは払拭のためケルン内のレストランで福祉活動をやらせよう。どう?
ドイツ国民にコストかけて安全性を検証しろって言うの、おかしいだろ。警察の権威が嘘つきまくってるんだから、危うきに近寄らずは全く合理的な行動。外国がケルンどころかドイツを敬遠してるのを見て自戒しろ。
デマは論外だけれど、事故が起きる前のドイツの難民は政治的正しさで「安全」という結論が出ていたわけで、一部の人はいろんなことを決めている政治的正しさをもう信用しなくなったというだけの事ではないでしょうか。
良く講演で言うのが、「難民はイスラムの女性差別的な教義を信じてます。これで受け入れたい?」というもの。政治的正しさと感情は別。レイプ事件が与えたダメージは、政治的正しさだけでなく感情面もある。
うーん、難民支持者だけで雇用すればいいのでは?最近もまた改竄が見つかって文字通り狼少年状態となっているのに好き好んで雇う人は残念ながら少ないとは思うよ。3K職場には大人気だし無理に啓蒙する必要はないでしょう
風評被害も含めてドイツやシリアが補償なりしても良いとは思うけどね。雇って応援は結構だけど、国民に解決を全て押し付けてるようで腑に落ちない。それほどの事件だったわけだし。
根拠もなく危険だから食べるなと吹聴してまわるのはアウトだと思うが、個人的に雇わないのも海外が入国禁止にするのも自由だろう。
事実でもあり嘘でもある。
危険だと「信じている」人たちに政治的正しさの説明は響かないよ。呪いは政治的正しさで解けない。解けるのは時間だけ。/ブコメ諸氏は安全性が確認されていると言われてもシリア出身の難民を雇いたいかい?
事件直後でレイプ事件はないと主張し,最近でも難民による犯罪を意図的に隠蔽しているから信用がないのはしょうがない.ある日突然,調査は嘘でしたと言われたらどうするの?
入国までの一連のプロセスに関わっている人全員が善人では無いのだからちょっとはやばいのはあるんじゃない?って気がする。今でもすごい中抜きして難民を違法職業に従事させてたり人のモラルなんてそんなもん。
しょうがないだろ、政治的に安全安心だったはずの難民があのザマでどうしろと。ヴィーガンに肉食わすなってのと同じ、雇いたいやつが勝手に雇って応援してろ。恨むならシリアを恨め。
何かと改ざんしている政府を信用できないというのもあり、信頼できない。犯罪を犯す難民がいたとしていても自分は雇うし親にも(より)交流させるが、子供とは遊ばせたくない。
信用とは、種々の根拠を統合して判断されるものであり、数字は所詮その中の一要因でしかない。数字に見えないものや、雇った後の万一の結果を過大評価するものにとって、その数字は何を意味するのかということ。
難民関連は政治的正しさ的なアプローチをする人の倫理に信用がないので、すべてのデータが嘘に見える人がいても仕方がないように思う
こういう衆のいう安全基準って、ほかに犯罪行為しない、という前提で無実の難民数万人とか言うんだよね。次のレイプ事件で被害を受けた際に、今回の難民1人害意の有無が命取りになる可能性とか、考えてないわけで。
いくら政治的な正しさを示しても過去にドイツ政府やシリアが嘘付きまくっていた事実は消えないので無理打と思う。まあ難民はドイツ政府でもシリア政府でもないんだけど。要は「あのへん」が信用されてない。
仮に基準値以上の難民犯罪率が統計で出たらきちんと公表するの? という疑問はある。/ 半信半疑な人に検査をやらせるべきだと思う。
政治的正しさのみを基に消費行動を決定する人間なんてほとんどいないからしゃーない。極端な話、難民と聞くとレイプ事件が思い浮かんで怖いから雇わないという考えも人間としてさしておかしくはない。
この人難民支援のフリーライターなんだね。いわば身内の人が言ってもね…あれ程の未曾有の被害を被ったのに、何でも風評被害で片付けることが多いから
嫌がる人が論理的じゃないって斬りすてるのも変だと思うな。全世界で難民の犯罪がなくなったら雇ってもいいっていう人がいてもいいやん。
ケルンの問題以前にマスメディアが信じられないのだよ。視聴率や販売部数のためなら平気でデタラメな言論に加担する。レイプ犯人が自分を信じてくれと訴えても、その前にレイプを辞めろよと言われるだけ。
どこまでいっても「いま公表されてるデータでは」でしょ。難民関連はあとからあとから追加の事実が出てくるので、ドイツ国民は「必要以上に」保守的な行動を取らざるを得ない。
segawashin ほとんどの人間は合理的科学的に行動を決定しているわけではないので、この件に限って合理的科学的な判断を求めるのは無理なんじゃないかと思っている。それに、万一の事態に誠実な対処を期待できる国でもないし。
sssute 最近でも福島では除染廃棄物を不法投棄されている。 日本政府の公害に対する対応方法の歴史も伝えるべきではない?結局、被害を被っても最後は個人で責任を取らされるんだよ。そのうえで福島産を食べる判断を下せる
odakaho 今となってはそりゃ危険とは思わないけどさ、ろくに線量調査してない事故直後のうちから「食べて応援!」「福島の農産物は安全!」言う人いたと思うんだけど。結果論かなと。
D_Amon 「福島のおコメは安全ですが、食べてくれなくて結構です。」という煽り全開タイトル本が出ているのだから、その煽りに応えて食べなくてもいいと思う。私自身は「食べて応援」をしているが、反反原発の「戦略が悪い」
cosmosquare77 福島の農産品の安全性をアピールするのは大事だし、それをどう受け止めるかは消費者次第であるのは言うまでもないが「ファクトチェック福島」でデマとヘイトを扇動した人がデマだの風評だのを言うのは片腹痛い。
kyo_ju デマを暴くと言うデマ屋/マジレスすると、放射能盛大にバラ撒かれたけど何ともないぜ!というキャンペーンをわざわざ張ることは排出責任者に誤ったシグナルを与える点で長期的には日本に住む者全体にとり自殺行為かと
triceratoppo 前提として政府と行政を信用できるか否かってのは大きいと思う。正直俺は信用できない(特に今は)ので、福島産の安全論も懐疑的に見てしまう。科学自体は信用しているが、科学を扱う人たちを信用できない。
lightly 福島の食品を政治家や宮内庁御用達にして、皇室、特に愛子様や悠仁様に毎日食べてもらえばいいんじゃないかな?一時的なパフォーマンスではなく、少なくとも5年10年は食べ続けてもらって。
hiccha-ya-re つい先日も東電は汚染水をただのトリチウム水だと言って放出しようとしていたよね。これで安全と言われても信用出来ないのは当然。福島の産品の信頼を毀損しているのは東電だよ。責めるべきは忌避してる人ではない
fellfield おしどりマコ本人の発言ではないので、林智裕のほうがデマ記事を書いている https://twitter.com/makomelo/status/1052012136107397121
furuhatachang 安全だという結果だけで原発に近いのになぜこのようになるのかの根拠や理由に納得できてないからでは?
yosio789 でコイツはどこ在住? もちろん福島第一原発のすぐ近くなんだよね? 福島第一原発のすぐ隣にお住まいなんですよね。ご家族で。え?違うって?(爆笑)それが答えじゃん。自分で答え出してんじゃん(笑)
blockchain-bitcoin で東電の責任にはほとんど言及しないのね...わかりやすい...
Dragoonriders 福島産の農産物食べてるけど、すでに結論、などと言ってスタティックに保障された安全安心などないけどね。まずは払拭のため都内のレストランコンビニはひと月全部福島の新米にして売り上げ伸ばそう。どう?
junmk2 消費者にコストかけて安全性を検証しろって言うの、商売的におかしいだろ。科学の権威が嘘つきまくってるんだから、危うきに近寄らずは全く合理的な行動。外国が福島産どころか日本産を敬遠してるのを見て自戒しろ。
mirai_ryodan デマは論外だけれど、事故が起きる前の日本の原発は科学的に検証されて「安全」という結論が出ていたわけで、一部の人はいろんなことを決めている科学をもう信用しなくなったというだけの事ではないでしょうか。
buu 良く講演で言うのが、「NaOH水溶液とHClを混ぜたpH7の液体がこのビーカーの中にあります。これを飲みたいですか?」というもの。科学と感情は別。原発が与えたダメージは、科学だけでなく感情面もある。
FOx うーん、地産地消すればいいのでは?最近もまた改竄が見つかって文字通り狼少年状態となっているのに好き好んで買う人は残念ながら少ないとは思うよ。病院や外食産業には大人気だし無理に啓蒙する必要はないでしょう
oppuppy 風評被害も含めて国や東電が補償なりしても良いとは思うけどね。食べて応援は結構だけど、国民に解決を全て押し付けてるようで腑に落ちない。それほどの事故だったわけだし。
nao_cw2 根拠もなく危険だから食べるなと吹聴してまわるのはアウトだと思うが、個人的に食べないのも海外が輸入禁止にするのも自由だろう。早川由紀夫のtweetは7年前だし7年前は僕もそう思ってた。利口なフリはしたくない。
hyolee2 事実でもあり嘘でもある。
hetarechiraura 危険だと「信じている」人たちに科学的説明は響かないよ。呪いは科学で解けない。解けるのは時間だけ。/ブコメ諸氏は全量検査で安全性が確認されていると言われてもチェルノブイリ産の食品を食べたいかい?
abeshinn 地震直後はメルトダウンはないと主張し,最近でも汚染水の基準値違反を意図的に隠蔽しているから信用がないのはしょうがない.ある日突然,全生産量検査は嘘でしたと言われたらどうするの?
enderuku (´・ω・`何度も言うけど福島産は安全かもしれない。でも仮に何かあった時は誰も責任を取らない。他人は他人の健康に被害を及ぼした時全力で逃げようとするのは過去の公害や薬害事件が示してる
japonium 何んなに熱弁振るった所で昔は詐欺スローガンの代名詞だった事には変わらんわな。事故直後から「食べて応援」等と宣って居なければ此んなに拗れる事も無かっただろうに。
yhanada00 出荷までの一連のプロセスに関わっている人全員が善人では無いのだからちょっとはやばいのはあるんじゃない?って気がする。今でもすごい中抜きして外国人を事故処理に投入してたり人のモラルなんてそんなもん。
oosutorariapsycho 米くらい好きなもん食えばいいのに、なんでわざわざ福島の米食えって赤の他人に啓蒙するんだろうね。俺は真実を知ってますって傲慢さはどっちもどっちだろ
napsucks しょうがないだろ、科学的に安全安心だったはずの原発があのザマでどうしろと。ヴィーガンに肉食わすなってのと同じ、食いたいやつが勝手に食って応援してろ。恨むなら東電を恨め。
tokuniimihanai 事故当時、TVで専門家が「メルトダウンは原理的に起こりえない」と断言していたのを思い出す。数値改竄・偽装・欺瞞がはびこる世の中で「エビデンス」を信用できない人々が一定数いるのも正直仕方ないことと思う
notomata もともとうちでは北海道産の米食べてた上に北海道も相次ぐ被災で「食べて応援」対象だし、他の農産物も地元や近隣県のものを地産地消したいので福島産にわざわざ乗り換える理由が無いんだよ。優先順位の問題
haruyato 何かと改ざんしている政府を信用できないというのもあり、信頼できない。放射能汚染していても自分は食べるし親にも(より)食べさせるが、子供には食べさせたくない。
ss-vt 都合の悪いデータ全部伏せてんじゃねえの?という疑いが晴れないわけですな、他ならぬ政府の関係ない分野での所業により
Annihilator 信用とは、種々の根拠を統合して判断されるものであり、数字は所詮その中の一要因でしかない。数字に見えないものや、食べた後の万一の結果を過大評価するものにとって、その数字は何を意味するのかということ。
nanana_nine 放射能関連は科学的なアプローチをする人の倫理に信用がないので、すべてのデータが嘘に見える人がいても仕方がないように思う
greenbuddha138 政府が統計操作をしないという確信は?陰謀論や非科学的なオカルトの温床は政治不信だと思うよ。
RRD こういう衆のいう安全基準って、ほかに被曝しない、という前提でご飯500万杯とか言うんだよね。次の原発事故で被曝した際に、今回の福島のごはん1杯の蓄積の有無が命取りになる可能性とか、考えてないわけで。
htnmiki いくら科学的な安全を示しても過去に政府や東電が嘘付きまくっていた事実は消えないので無理打と思う。まあ農家は政府でも東電でもないんだけど。要は「あのへん」が信用されてない。
toaruR オレオレ詐欺が蔓延り、首相御自らさえ嘘吐きの我が国からは、信用する気持ちというものが失われているんだと思いますよ。検査で落ちたヤバいやつが混ざってるかもしれないとかね
yzkuma 僕自身は味と値段で選ぶ。安くておいしいなら福島県産のものを回避しないが、同じ味と値段なら少なくとも子どもには食べさせない。当時安全とされていても数十年後に健康被害が明らかになる例だってあるだろう
yzkuma 僕自身は味と値段で選ぶ。安くておいしいなら福島県産のものを回避しないが、同じ味と値段なら少なくとも子どもには食べさせない。当時安全とされていても数十年後に健康被害が明らかになる例だってあるだろう。
ikurii 仮に基準値以上の放射性物質が検出されたらきちんと公表するの? という疑問はある。/ 半信半疑な人に検査をやらせるべきだと思う。
cyber_bob 原発事故の代償の範囲内。原発再稼働も同じライン。安全幻想を信じてきた人たちの自己責任は多少なりあると思う。
Cunliffe デマ屋で売文屋のお前が言うと逆効果だと早く気付けよ/ちなみにこの記事にも例によっておしどりマコ氏についてのデマがある模様>https://twitter.com/makomelo/status/1052012136107397121
artycrumb 客観的なデータのみを基に消費行動を決定する人間なんてほとんどいないからしゃーない。極端な話、福島産と聞くと原発が思い浮かんで飯が不味くなるから買わないという考えも人間としてさしておかしくはない。
gowithyou この人福島在住のフリーライターなんだね。いわば身内の人が言ってもね…あれ程の未曾有の被害を被ったのに、何でも風評被害で片付けることが多いから
mirakichi 「ほかに食べるものがないならともかく、自分から進んで食べる必要はない」とチェルノブイリ事故のときに美味しんぼは書いていた。そしてこの発言を否定する日本人はいなかった。他人事とはそういうこと。
amematarou EUだって、やっとこさ今年輸入規制解除されたんだから、嫌がる人が論理的じゃないって斬りすてるのも変だと思うな。全世界で解除されたら食べてもいいっていう人がいてもいいやん。
straychef きのこはまだ結構な数値がでてたりする もちろん0(無検出)も多いが 福島じゃなくて東日本 基準値も100に引き上げたままだしな
Chinosoko 福島の物を避けたくないのに避けてる人もまた、原発事故の被害に遭っているわけで。愚かな選択、稚拙な運用、信用を裏切る行為の数々を許容してきた事の代償は東電経由で社会全体で払っていくしかないと思いますよ。
masadasu 福島の問題以前にマスメディアが信じられないのだよ。視聴率や販売部数のためなら平気でデタラメな言論に加担する。暴力団員が自分を信じてくれと訴えても、その前に暴力団を辞めろよと言われるだけ。
dickbruna どこまでいっても「いま公表されてるデータでは」でしょ。福島関連はあとからあとから追加の事実が出てくるので、消費者は「必要以上に」保守的な行動を取らざるを得ない。
プロレスでもラグビーでも登山でも将棋でもなんでもいいんだけど
あるマイナージャンル(野球やサッカーほどメジャーじゃないもの)のTV番組で
初回の番組時に大体「この番組をきっかけに詳しくなりたいです!」とか言うんだけど、
大部分は番組が終わるとそれきり。
そういう人をみると、この人は誠実な人だなぁと思ってしまう。
そんなもん文系基準でも「査読なし論文」じゃねーわ。業績欄に載せるとしても学術誌の片隅のコラムとか学生新聞のインタビューとかと同じ扱いだわ。そんなもん、理系だって査読があるわけないじゃん。
そう。で、その論文基準に満たないものが論文として投稿されたらどうなのかっていうところ。
査読があればそこで止まる。無ければ、評論家に叩かれるとか、別の論文でこき下ろされるとか、同業者からお声がかからなくなるとか、別ルートで評価されるんだろうとは思う。
査読と違って反論が論文として業績になるとか、やり取りが公開されるとか利点もありそうだけど、匿名のレビュアーが絶対的権限を持つ(と言いつつ編集がひっくり返すこともある)査読より権威者に有利な制度でもありそうで、そこは制度の性格による良しあしと思う。
というのとは別に、遅くないかと。査読は一部の人柱だけど、査読がなければ多くの人の時間を使うわけで。永遠に時間があるつもりで勉強しろという格言はあるけど、人はあっという間に死んでしまうわけで。
今回単純化して話してたけど、結局論理寄りなのか感情寄りなのかのバランスが違う人たちの共存っていう問題なわけで。
そこで論理と感情をうま〜く混ぜられるような何かがあって欲しくて、それは議論でもなく喧嘩でもなくコミュニケーションなんだと思うよ。
で、性的搾取という言葉の定義についてなんだけれど、これは私にもわからない。私のイメージで性的搾取というのは、本人の意思に反して性産業で働かされたり、性犯罪の被害を受けたりということなんだけれど、どうももっと広い定義で使っている人が多くて、正直わからんとしか言えない。
ただ、一部の人は明らかに性的な視線で見られたと思った時点で性的に搾取されたと叫んでる。その気持ちはわからんでもないけれどね。
でもさらにその先、女性キャラクターが性的特徴を誇大して描かれることまで性的搾取と呼んでる人たちもいて、それは何か別の言葉を使った方が良いのではないだろうか、というのが私の意見。
ぶっちゃけ話をすると,私はこれまで「別に査読はなくてもいいだろ」という話を延々としてきたのだが,ブコメやらtwitterやらで文系擁護派の一部の人が「人文系の学問は査読になじまないんだ!」みたいな議論を始めてることには正直困惑している.
日本語で文学関係の査読つき論文とかたくさん出てるし,というか英文で文学を専門にした査読誌は普通にあるし,国際的な和文査読誌も存在するし,問題のおおもとになった日本社会学会には和文と英文の査読誌があるわけで,文学や社会学の論文が本質的に査読に馴染まないなんてわけはない(実定法学は知らん).査読できるならした方がいいだろう.学術的ではないエッセイにまで査読を求めるのは間違っているけれど,新規性のある学術論文を査読制度に向いてないと言い募ることもおかしいと思う.
査読になじまない型の研究としては,たとえば史料校訂とかそういうのが挙げられるかもしれないけれど,それだってやろうと思えば外部チェックは入れられる.論集だってもし余裕があれば査読をした方が質が高まるし,選書系や新書系ではない単著も査読をした方がいいだろう(このへんは出版社の体力との相談になってくる面もあるので,今すぐに査読制度を取り入れろとは言えないことがもどかしい.twitterではOxford University Pressで査読つき単著を刊行した人が議論していたけれど,OUPと日本の出版社は体力違いすぎるんで……).
私が査読なしの論文を業績として認めるべきだと主張するのは,現在査読がなくとも良質な論文や著書が多く存在しており,それらを形式的に査読されていないという理由だけで無価値であるかのように扱うのは間違っていると考えるからだ.だが未来永劫査読すべきでないと主張するつもりはない.
もちろん査読という制度には様々な問題があるので,全面的な導入に慎重になるのはわからないでもない.文系分野での査読制度の拡大は止められない趨勢だろうが,一方で「査読されていないものの良質な文献」も産出され続け,全面的な査読制度の導入まではかなり遠いだろう.そのあいだにじっくりと議論をすればよいと思う.査読がないから文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系に査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく.
id:hogefugapiyox 「査読がないから文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系に査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく」ほんこれ/ 査読が実質なしという事で近年問題のpredatory journalについての考えも聞いてみたいかも
英語じゃないと業績として認められない分野のことはわからないけれど,和文論文が業績として通用する分野ではpredatory journalの話はあまり聞かない.
というのは,和文査読誌を出してる主体は,学会もしくは大学・研究所などの機関にほぼ限られるから.
学会が出している査読誌の多くは,投稿資格を会員に限定していて,多くの学会は年数千円の会費(院生や非常勤と常勤では価格に差をつけている学会が多い)を払いさえすれば誰でも会員になれる(推薦者が必要な場合もあるが,指導教官とか先輩とかに推薦してもらえばよほどのことがない限り会員になれる).つまり査読誌は会費で維持されており,こういう雑誌では投稿も掲載もふつう無料だ(流石に抜き刷りとかは金を取ることが多いだろうが).会員は会費を払い,見返りとして論文投稿の権利と雑誌を頒布される権利を得る(余談だが,日本の学術誌のOA化にあたっての障害の1つがこの「会費で学術誌を維持する」システムだった.会員は会費を払って雑誌を受け取っているのに,会費を払っていない者にまで無料で公開するなんて何ごとだ! というわけ.今でも,CiNiiやjstageで無料公開してるのは発行から○年過ぎた号だけです,みたいな運用をしている雑誌はある.
大学や研究所は言うまでもなく自分たちの研究費で雑誌を維持しているので,投稿料や掲載料を取らないことが多い.それって紀要じゃ,と言われるかもしれないが,投稿資格を学生や教員に限定していない場合があり,下手するとそのへんの学会誌よりも査読が厳しく良質な論文が載ったりするので,研究機関が出している=紀要というわけじゃない.これは外国でも割と見るんだよね.
もちろんごく稀に出版社が商業で出している学術誌もあるのだが,そういう奇特な出版社は文系の学問に理解があり非常に良心的なので投稿料を取らないことが多い.少なくとも私が知ってる雑誌はそうだ.
そして,日本語のアカデミアは豊かではあるが英語ほど広くないので,predatory journalが参入しようと思うほどの旨味がないし(全世界から微妙なデキの英語論文をかき集めてくるから商売になるわけでしょ?),たいてい自分のレベルでも投稿できる雑誌が探せばどこかにあり,場所を選ばなければ発表できてしまうわけで,わざわざ悪徳業者にカネを払うインセンティブがないんですわ.最近は学内紀要にも査読つきが増えてるから,紀要に出して「査読つき論文です(キリッ」というのも可能.ただ学会誌か紀要かは下手すると雑誌のタイトル見れば判別つくから,「あ,こいつ査読論文いっぱい書いてるとか言ってるけど全部紀要だわ」みたいなのはそれこそ業績リスト見るだけでわかったりする(まあ,学内紀要でもガチ査読していることはあるので,紀要だからといって低く見られるのも可哀想なのだが.うちの大学では学内紀要に落ちたという悲鳴もちらほら聞こえます).
なのでpredatory journalに関しては,うちらには関係ないね程度の感覚.id:min2fly氏の指摘は本当にそのとおりだと思う.
(……)査読は英語で“Peer review”,同じ分野の研究仲間(“Peer”)による評価を指すが,国際化が進み,大量の研究者・雑誌・論文が存在する状況において,果たしてある雑誌の投稿者,査読者,読者が一つの研究コミュニティの「仲間」となっているのか,ということになるだろう。互いに見知ったコミュニティであれば,でっちあげられた架空の研究者に査読を依頼するなどありえないし,不正に査読を通過して論文を掲載したところで,内容が稚拙であればむしろ評価を下げることになる。また,ある程度雑誌数が限られていれば,聞いたこともないハゲタカOA 誌に掲載された論文は不審に思うはずである。(……)査読はある程度限られた規模の研究コミュニティにおいて問題なく機能する仕組みであって,現状の国際化・巨大化した研究者集団の規模に適用するには限界があると言えるだろう。
私は同人作家である。漫画を描き始めてから数年だ。それとは別に仕事もしている。社会人である。
もう成人してからいい年数が経っている。
私の描いているもののクオリティは…簡単に言って、そのCPでは喜ばれるが、他のCPの人の興味をそそるほどではないというレベルのありふれた画力をしている。
筆の速さと話の傾向だけがちょっと特殊で、そこに数人のファンが付いていてくれたりしている。ありがたいことです。
自己紹介がくどいが、私はカップリング雑食超浮気者腐女子である。
メインに好きなキャラクターが1人ないし2名いて、ABというカップリングがすごく好きである。
が、ジャンルまるごと作品まるごと好きになることが殆どで、キャラクターがみんな好きなので他のカップリングも読むし描く。
他のカップリングを読むという人は少なくはないが実際描く人になってくると、そんなに多くはないだろうと思う。
いいと思った作品はいいと思って好きになってしまう。描きたくなってしまう。
もちろん、そのCPで主流になっているシチュエーションや解釈が好みではないな…という場合はあるが。
いわゆる総攻め厨、総受け厨というわけでもない。BLGLHLもすべて混ぜた雑食であるジャンルすらある。
この嗜好で、何度衝突や摩擦、匿名の悪意を受けたかわからない。
ツイッターの空リプ(リプライをつけずにぼんやりと特定の人間に宛てて発言をすること)でも何度やめてほしいと言われたかわからない。
あるジャンルでは固定(ABだけを好きであるということ)に擬態した経験もある。
自分に嘘をつけなくなりまた早い段階で他のCPに目移りしてすぐに化けの皮が剥がれてしまったのでもう二度としない。
一応、最低限ワードミュートしてもらえるようにCP名はきちんと表記するようにしている。
ここで、言葉で刺してくる人に
「キャラクター愛を感じない」
「カップリング愛を感じない」
「作品愛を感じない」
などなどと言われることに興味が湧いて、今キーボードを叩いている。
受けと攻めが違うこと、カップリングが違うこと、作品内でキャラクター同士をコレでもかと結びつけることに『愛』を感じないのだそうだ。
一人だけに言われたわけではないので、そう思う人が結構数いるのだということに驚きを覚える。
私の『愛』が『ない』と感じる創作姿勢は、例えば『ゲームをでゲームの二次創作をする』だとか『二次創作だけを見て二次創作をする』だとかだと思っていたので、感覚のズレに吃驚する。
CP愛とはなんだろうか。と考える。
そのCPについて一日の中でどれだけの時間妄想しているかだろうか。
ニートと社会人と社畜では、妄想できる時間に差があるだろう。一日の時間で愛の量が決定できるかと言われたら、違うんじゃないかなと思う。
筆が早い人もいれば遅い人もいるだろう。また創作にあてられる時間にも差があるだろう。ここでも愛の量が計測出来るかと言われたら違いそうだ。
じゃあパーセンテージで考えよう。
自由に妄想したり、創作できる時間の何%をそのCPに割いているか。
これじゃないか?
きっと私を攻撃してくる人の多くは、高い比率でその一つのCPに気持ちを傾けていて、
私はそこよりも数値が目に見えて劣っている(様々なCPに気持ちが分散している)から、攻撃したい・攻撃してもいいだろうと思われているのだろう。
また前述した通り、自分は少し珍しい話作りをしている。
王道の展開や、テンプレ化した二次創作ネタ、徹頭徹尾ハッピーな話ではない。
その部分でも、『愛』がないと思われているのかもしれない。
欲しいグッズがないわけではないが、特に欲しいと思ったものを1つか2つ手に入れられればそれで満足という人間だ。
そしてやはり、ジャンルごとキャラクターたちを好きになってしまう事が多いので、全員揃えると結構な額になってしまいお財布的にも家のスペース的にも厳しいみたいな状況になるのであまり買わない。
そこが、グッズを収集するタイプ(複数買いでお金を貢ぐタイプ)の人間からは『愛』がないと思われる部分なのかもしれない。
人の『愛』の比率を計って、自分と比べる行為は、直接的にはCPには何の関係もなくないか。と思ってしまう。
人の好きにまで干渉しないで欲しい。
リバ(相手は変わらないがセックスの時に挿入の上下が変わること)のほうが『愛』がある/ないという話もよく持ち上がるがピンとこない。
自分の『愛』をアピールしたい人が世の中には意外と多くて、驚く。
話が戻るが、私は雑食ではあるが一番最初に好きになるカップリングがどのジャンルでも必ず1つはある。
ABとする。
私は筆が早い。ジャンルないしABにハマった初期はABのネタをバンバン投下する。
もちろんツイッターのフォロワーはABが好きな人で埋まっていく。私もAB作品が見たくてABの描き手さんのフォローが増えていく。
そこで、あとえばCDだったりEBだったりFAだったりを描き出す。
人が減ったり増えたりする。該当のCPの描き手さんをフォローしたりする。
TLのAB固定に空リプを受けたり、ABファンから匿名のメッセージが飛んでくる。
固定でいて欲しい。
貴方には愛がないのか。
人の趣味にどうこうケチつけてくる前にフォローを外したり、ミュートしたり、ブロックしたりすればいいのに、それはしないらしい。
不思議だ。
あくまでそういう意見を送る人たちは私が固定になること、一つのものを好きでいること、比重を傾けることを暗に強要してくる。
不思議だ。
人間単純で、くり返しそういったチクチクとした攻撃を受けているとだんだん疲れてそのCPを描きたくなくなる。
そのCPは好きなのに、そこにいる人たちの『愛』のせいでやる気が削がれていく。
好きの気持ちや愛の気持ちを共有できている時はいい。でも重荷になったら疲れる。
気分を変えるために他に目を向ける。楽しい。でも他のCPの人には『○○さんは"一応"ABの人ですもんね』と言われてしまう。
暗に『本命じゃないんでしょ?わかってるよ』と釘を差される。
はは、と苦笑いすることしか出来ない。別にABは大好きだ。周囲の人間に砂かけしたいわけでもないからそこは否定しない。
二次元のキャラクターないしCPの『好き』『愛』に他者から勝手に順列をつけられることに辟易している。
一つだけを好きでいること、一つに比重を大きめに取ること、一つだけを好きでいなければ許されないような空気が、しんどい。
現実の伴侶の話でもないのに、そんな法律もないのに、『愛』の量を監視される空気が、確実にあるのだ。
結局、先日のイベントでも私はABの本を出した。この後のイベントでもABの本を出す予定だ。
けれども、それは私が『一番』ABが好きであるとアピールをしたいわけではなく、
紙で厚い話を描くネタが今ABで浮かんでいるからと言うだけだ。
瞬間的にCBやDAやBEやFGの熱が上がったらその本も机上に並ぶかもしれない。
その瞬間の私の中にAB『愛』はちゃんとある。消え去るわけではない。
あるけれど、それは一部の人間には『ちゃんとした』『愛』とは認められない。
それが苦しい。
というまとまりのない話。
私は悪意や解釈違いの人間に反発する屈強なメンタル持ちなわけでもないし、かといってそこで筆を折る程に繊細な人間ではないので、これからも今のジャンルに暫く居続けるだろう。
その居続けるという行為自体が、ABの『愛』を強要してくる一部の人にとっては目障りで仕方ないとしても。
勿論他のCPが地雷(アレルギーを引き起こす)であるという単純な心理で、目に見える場所で複数CPを扱う私を毛嫌いするということもあるかもしれない。
ここに該当する人たちは今回の『愛』の話とはズレるので割愛させていただく。
https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181004-00099263/
この記事の「表現の自由」に対する考え方に、私は同意するところが多い。
だが一方で、表現を理想的に捉えすぎているきらいがあるとも思う。表現の現場でその「配慮」が、数多のアイデアを殺している現実を、私は見てきた。
記事でも指摘のあるとおり、重要なのはゾーニングだ。誰に向けた表現なのかというゾーニングが適切であれば、表現やアイデアを殺す行き過ぎた配慮の必要性は低くなるはずだ。
キズナアイの件は、時代の先頭を走る彼女によって、そのゾーニングがずれた結果起きた不幸な事故だろう。彼女には何の罪もないと私は考える。
ではどのようなゾーニングが適切かという議論はとても難しい。少なくとも私には手に負える気がしない。
ただ、そのゾーニングが行き過ぎれば「見たいものしか見ない社会」を助長し、本件でも見られたような意見の異なる他者に対する不寛容をより一層深刻にするだろうと予想はできる。
昨今、ハラスメントの問題が世間を騒がせている。ハラスメントは「嫌がらせ」という意味だが「同意のない強要」と解釈すると分かりやすい。
セクハラは「性的な同意のない強要」で、パワハラは「権力を行使した同意のない強要。あるいは権力により同意を強要すること」だ。
話は逸れるが、というか逸れまくったうえでの極論だが、もしもバーチャルな存在に魂が認められる社会であれば、見た目を貶めその存在を否定する今回の意見は、バーチャルな世界に生きる存在へのヘイトスピーチと言えるのかもしれない。
しかしそれはいつか未来の可能性の話であって、もちろん今はそのようなものは認められない。ただ個人の希望としては、私はそのような社会を夢見る。仮想的な魂のありようが、人権のようなもので守られたって良いと思う。
一方的な嫌悪感を表現し、相手の存在そのものを貶め否定するヘイトスピーチなど、社会通念上、認められない表現は当然ある。
しかし、社会通念上許される範囲の表現である場合、ある特定の倫理観をもって、ある表現が同意なく抹殺されることがあるのなら、それは「モラルハラスメント」と呼ばれるだろう。「特定の倫理観に基づいて、ある表現の禁止を同意なく強要する行為」である。
ただし、ここで注意しなければならないのは、ある意見の表明を先んじて「ハラスメント」であるとレッテルを貼り封殺することだ。
そのような言説は、ハラスメントであることを理由に、社会通念上認められる範囲の意見の表明を同意なく禁止する「ハラスメント・ハラスメント」とでも言えるだろう。書いていて自分でもやや混乱してきたが、少なくとも私はそういう不寛容な立場を支持しない。
Twitterの創業者のひとり、ビズ・ストーンはかつて「オープンな対話はきっと世界を良くする」と言った(※1)
ネット社会の一部の人たちはある時期まで、意見の異なる集団がお互いに寛容の精神を持ち、建設的な議論を交わせる未来を志向していたはずだ。
それは理想論に過ぎなかったのかもしれないが、理想は夢を諦める言い訳ではない。
私はかつてのWEB2.0信奉者だ。ネット空間の善意に抱いた「過激な信頼」を完全に捨て去ることは難しい。
このエントリーが、寛容さについて考えるきっかけになり、世界が少しでも住みよい場所になればと祈り、こういう場所に久しぶりの投稿をした。
※1 乙武さんとビズ・ストーンの対談記事だったと思うが、記事は見つからなかった。動画も残っていないようだ。ただ、ビズ・ストーンがそのような信念をもってTwitterの運営にあたっていたことは間違いないと思う。注記の付け方を忘れた
程度問題だろ
谷間がどばっと出た服なんて、男でも不快になることはある
じゃなくて程度問題
程度が過ぎれば不快に思う人が増える
極端な感覚を持った一部の人の言うことを聞く必要はないが、多くの人を不快にさせないように、という配慮をせずに行き過ぎると多数決で規制されることになる
Vtuberが出始めたときには、リアルじゃ出来ない事をバーチャルの世界でしまくったりするんだろうなって思って
いよいよ21世紀らしくなってきたな!と思ってたけど
その実情は雑談かゲーム配信ばかり。別にVtuberじゃなくても出来る事ばかり。
Vtuberってなんの為に存在するんだ。一部の人はバーチャル世界じゃないと出来ない事をメインにやってたりするけども。
ベーシック・インカム論争で思ったことを忘れる前に書いとく。
ベーシック・インカムっていう発想は、田舎もんの私からすると、とても都会的な発想に見えた。なんでかというと、田舎には「天の恵み」というベーシック・インカムがあるのだが、最近盛り上がった議論の中では、それについては触れられていないようだったから。
田畑で働くのはもちろん「労働」だが、田舎には労働しなくても手に入れられる食べ物は色々ある。庭先に柿の木を1本植えておけば、何も世話をしなくたって秋になれば柿が食べられる。いろいろ食べたいなら色々植えておけば良い。スーパーに行くより簡単に、色々な食料を調達できるようにする工夫は、田舎には色々ある。
もうちょっとボリュームのある所で、例えば稲作の場合、田植えと収穫は重労働だが、それ以外の数カ月間の世話というのは、手を抜こうと思えばかなり手を抜くことが出来る。もちろん手を抜いた分、収穫は減ることにはなるだろうが、ゼロになることは稀だ。この「手を抜けるだけ抜いて、それでもなお得られる収穫」というのが、農家にとってのベーシック・インカムみたいなもんである。 実際、高齢者がやっている農地というのは、しばしば入院なんかで放置状態になってしまうことがあるのだが(!)、それでも時期がくればちゃんと農作物は実をつけるのだよね。偉いもんだ。売り物にはならないけどね。
つまり農家にとっては、十分に広大な農地と水源があれば、食料というベーシックインカムが保証されているも同然なのである。そのために、長い時間をかけて農地や水源の整備を行ってきた、というのが、田舎の歴史そのものだと言っても良い。
で、これが近代日本でどのように崩壊していったかというと、決定的だったのは人口増加の問題だ。急激な人口増加により、深刻な農地不足が起きた。戦前・戦後すぐのころは10人ぐらい兄弟がいる家も珍しくなかったわけだが、そういう家庭では親の農地を10等分したって、大人1人が食っていくことはできない。長男だけが田畑を受け継いで、残りの兄弟はどっかへ行かなくてはならないのだ。それで、南米の方に移民して農業をやるとかいう話が政策として行われた時代もあったし、あるいは、農業をやるための農地が持てないので、やむをえず上京し、工業製品を作って輸出して外貨を稼いでなんとかする、という流れが出来たわけだね。
つまり、現在都心部で生活している人達というのは、元を辿れば十分な農地を持てないために、都心部に出て仕事を探さざるを得なかった人たちが多かったということ。「天の恵みというベーシックインカム」を諦めざるをえない人たちだったのだ。だから、「田舎には天の恵みと言うベーシックインカムがあるよ!」なんて話をしたって、都心部の人には意味がない。東京の天の恵みなんて、日向ぼっこするぐらいしか役に立たないもんね。だから、都会は都会なりの方法で何らかのベーシックインカムを実現したいという心情はわかる。
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「食料は十分にあるのに、分配の仕方がわるい。だからベーシック・インカムで改善」という話では、重大な問題を1つ見落としているようだ。「食料が十分にある」という前提は、一部の人達が頑張って労働するからこそ、実現出来ている。「十分な食料」は農家の労働だけによるのではなくて、肥料だったり農薬だったり農耕機械だったり、かなり色々な産業の労働の結果として実現できているわけだ。
この人達が「ベーシック・インカムをお金で貰えるから、労働を減らしても良いよね?」なんて言い出したら、「労働を減らす=食料生産を減らす」だから、「食料は十分にある」という前提は、たちまち崩れるじゃないか。それで食料供給が減って相場が高騰したら、都市部の人たちはすぐに、もっとベーシックインカムを増やせ、なんていう話になるに違いない。農産物の相場の変動がどれぐらい恐ろしいもんかってことを、知らない都会人が多すぎる。
「食料は十分にある」という前提を崩さないためには、食料生産に携わる人達は制度としてのベーシック・インカムが実現しても否応なく、従来どおりの労働を、なかば強制的に続けて、都市部に食料を供給し続けなくてはならない。食料生産を請け負っているのは田舎だから、そういう人達の立場というものが見えていない議論だと言う点で、やっぱり制度としてのベーシック・インカムは都会の人達の発想だよなぁ。
そういう訳で、制度としてのベーシック・インカムの話は、全自動農業が実現・普及して、それで都市部の人の食料までまかなえるような時代になってからにした方が良いと思います。。何でも金で解決すると思ったら大間違いだぞ。