はてなキーワード: ヘンリーとは
仮面ライダーのやつは、今回は見に行くつもりはなかったんだけど、友人から「見とけ、笑えるから」と言われたので見に行ってみることにした。
twitterなどで若干否定的な意見も目にしていたけど、つまりそれが「笑えるから」ってことなんだろうなと、ギャグ映画を見るつもりで見に行くことにした。
ドラクエの方は、シリーズ中5が一番思い入れが深くて、SFC版からPS2、DS、アプリと、ハードが変わるごとにやっていて、半ば原理主義者化している自覚があり、また小説版も大好きなので、その辺のゴタゴタからも見に行くつもりはなかったのだけど、twitterで「5点満点中マイナス100点」等、あまりに酷評されているから逆に気になった。
そんで、今日たまたま時間が空いて、ライダー映画の後にちょうど良い時間の上映があったこともあって、はしごで見てきた。
と、ライダーの名前を出しておいて何だが、今回の話にライダーは余り関係無くて、バーターで付いてくる戦隊の映画の方の話をしたい。
(ライダー映画は、突っ込みどころの多さも含めていつも通りの、安定した面白さだったので、特に語ることはない)
で、その、ライダー&戦隊映画を見た後でドラクエの映画を見たのだ、という話をしたいのだ。
まず、ドラクエの話をしたい。
散々な酷評が聞こえてきていたのと、後記する理由でハードルがガン下がりしていたのとで、期待値はマイナスだった。二時間の苦行になるだろうと思っていた。
事実、始まって10分ほどの間は、心が10回くらい折れそうだった。
リメイク時に後付された設定がさもSFC時代からあったかのような改ざん!!
っていうかそこまでゲーム画面でやるのかよ!!そのまま最後までゲーム画面流せばいいじゃねーかもう!!
あれもこれもすっ飛ばすのかよ!!
ゲレゲレかよーーーーーーー!!!(ゲレゲレ派の皆様すまん、プックル派なんだ)
ドラゴンオーブはそこにはねーーーーーーーーーーーーえ!!!!
ヘンリーそんな奴じゃねーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!
ラインハットほったらかしかよ!!!!!!!妖精の国すっ飛ばしたからサンタローズに春が来てねえじゃねえか!!!!!!等々。
いや分かってるよ2時間で話まとめるためには仕方ねぇよ、でもさーでもさーーーと心の中の原理主義者が泣いていた。
しかし、綺麗なグラフィック、迫力の戦闘、懐かしい音楽、佐藤健の流石の演技(直前にライダー映画を見ていたとおり、特撮畑の人間でもあるので、特撮出身俳優のアフレコに対する判定は甘々な自覚はあるが、「あ~電王だ~」と思う瞬間は一切なかったので、さすが佐藤健だと思う)に押し流されるように時間は過ぎていく。少なくとも(心の中で原理主義者が泣く以外の)時間経過に対する苦痛はない。
原作と違う点に突っ込みは入れたいと思うが、時間内に話をまとめるためには仕方が無い。
例えば、ヘンリーのキャラが違うとは言っても、SFC時点で我々に許された解釈の範疇ではあるように思う。
リメイク版には仲間会話があるが、SFC版でNPCとして交わした会話はわずかだ。ああいう解釈をしていた人が、まあ、いなかった訳ではないかもしれない。ギリギリ。
リュカのキャラクターは全く小説版の「リュカ」ではないが、「どこかの誰かが操る主人公」としては、誰かの頭の中にはああいう主人公もいただろう。
ビアンカフローラの選択。そんなに簡単に「自分の本当の心」なんて分かるか???とも思ったが、一応、フローラがいいならまあよしとしよう。
個人的に、特に回収もされず、一番残念だと思ったのは「娘ーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
・・・まあ、これも仕方が無いだろう。大人の世界には予算とかの問題がある。
普通に考えて5のストーリーを「正しく」映画化しようとすれば、5章仕立てくらいにしないと終わらないだろうから、「どう二時間にまとめるか」も見所だ。文句を言うより楽しんだ方が得だ。
後半のプサンの「今回はそういうことになっている」的なメタ発言も、嫌いな人は嫌いだろうが・・・と思いつつもクスリとした。
ここまで超好意的に受け止めていたが、流石に「えええええーーー」と思った。
ついでに、「あ~~~~~~~~~~~~~これオタクが発狂するやつ~~~~~~~~~~~」と酷評の理由も理解した。
確かにちょっとグサッときた。いい年してこんなところで仮面ライダーの映画からドラクエの映画はしごして見てる自分の胸にグサッときた。大人にはなれてねぇわぷー。
しかし、その後の真実の暴露により、前半で心の中の原理主義者を殺した、気になるポイントの数々が全て伏線として回収された。
幼年時代をゲーム画面でスキップしたことも、リメイク版の設定のはずなのにSFC版に存在していたかのような扱いだったことも、ヘンリーのキャラクター解釈も、なんであんなに解釈が違うのに「リュカ」なのかも、ビアンカとフローラの選択の顛末があんなんだった理由も、プサンのメタ発言の訳も。
もう、なんか、ここでぞわーっとした。
気に入らないと思ってたことの全てに理由があった(娘の存在のことは置いておく。少なくとも見ているときはそう思ったんだ)。
今まで「どこかの誰かの頭の中にあるドラクエ5の世界を見てるんだな」と思って我慢していた事が、ある意味それで正解であり、また、一気に「どこかの誰かの物語」が、「主人公の物語」あるいは「自分の物語」になった気がした。
その辺は上手く言語化できないが、体感としては「うおおおおスッキリーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
最近は予定調和的なハッピーエンドが約束されているライダー映画ばかり見ていたので、ついぞこのところ体験していないカタルシス。
その後に登場したキーアイテムがロトの剣だというのももう、細かいことは抜きにしてたまんねぇわという感じ。
確かにあの瞬間、主人公は自分だった。子供の頃からドラクエと共に育った自分自身だった。あの一瞬、まさしく「YOUR STORY」だった。
(後で冷静に思うと「自分の」物語だと思うには物語の解釈が違いすぎるが、あの一瞬はそんな細かいことはどうでも良かったのだ)
そして、「経験した冒険は、確かに本物だ」というメッセージこそが、本当に我々に向けられたものだったのだろう。
大人になれ、現実に帰れ、そんな風に言われることが多い社会だけれど、我々が「ドラクエ」から貰ったものはそんなありきたりで薄っぺらな言葉で踏みにじれるようなものではないはずだ。
と、言われているはずなのに、一度発される「現実に戻れ」というメッセージの前に「そんなこと言われたかったんじゃない!!!!!!」って発狂するオタクが多いのはちょっとこう・・・オタクのメンタル弱すぎじゃねえの・・・という気がするが、まあそれは現代社会では仕方の無いことでもあるし、今回の本題ではないんだ。
言いたいのは、一本の映画として見たときに、よく出来ていたじゃないか、ということなんだ。
確かに、もう5の物語は身体に染みついてしまっているから、全く5の物語に触れたことがない人にとって、提示されている情報が十分だったかについては冷静な判断ができない。
ストロスの杖のあたりとかは説明不足だったようにも思うが、まあ、「息子が頑張って探した石化が解けるアイテムである」くらいは伝わっただろう。
(ちょっと使い方それェ~~~?!!と思ったりしたが)
(ルーラの辺りは怪しいかも知れないが、「ルーラ」といえばワープの魔法である、というのは有名だと思いたい)
二時間でまとめる為にはどうしても大幅なカットが必要である、そのためにカットされたり設定が変更された部分について「そこをカットするのかよ・・・!そこをそう変えるのかよ・・・!」という視点で気に入らない箇所を除くと、「え~~~~」と思った部分は大概、ラストで伏線として回収された。
その、ラストの展開それ自体が気に入るかどうかはともかくとして、5のストーリーを知っていればいるほど「あれっ?」と思う箇所には、大体理由付けがされている。
長い話をカットした時にありがちな「えっその話いつしてた??」みたいなのも、多分、なかった、と、思う。(なにせ冷静な判断ができないのだ)
一人の男の一代記になってしまうので、ストーリー全体が駆け足感あったのはまあ、仕方が無いと思うが、それも設定を知った後なら逆にリアルだ。
もちろん、二時間に納める為にカットされた部分、変更された設定について、文句を言おうと思えばいくらでも言える。娘はどこへ消えた。
ラストの演出については、これは好き嫌いがはっきり分かれるだろうなとは思った。
「ドラクエを見に来たつもりだったがSAOだったか」と思ったりもした。
「これをドラクエで、しかも5でやる意味はあるのか」みたいな批判もあるだろうと思う(これは、はっきり意味があると思うが)。
「5のファンとして、納得できるかどうか」の話であって、「映画自体のクオリティが極端に低い」ということではない。
それなのに、あたかも「映画自体のクオリティがめちゃめちゃ低いから見に行かない方がいい」みたいな言説ばかり飛び交っているのは非常に残念だと思う。
CGは徹頭徹尾圧倒的に綺麗である。(ドラクエ5らしいか、は置いといて。。。)鳥山明の絵とは遠いが、動いて居る彼らを見ていれば全く気にならなかった。
物語や設定が破綻しているということもない。もちろん重箱の隅を突けば色々出てくるだろうが、世間一般の映画と比較して特段トンデモ展開という訳でもないと思う。虚無でもない(後述)。
(ただ、主な比較対象がライダー映画であり、あれはトンデモ展開をやってナンボみたいなところがあるので、若干ふつうの人より「トンデモ展開」判定は緩いかも知れない・・・その辺りの自信はちょっとない)
とはいえ「好き嫌いは分かれるな・・・」「文句の言いどころがいっぱいあるのは分かるな・・・」とも思ったので、薦める相手は慎重に選ぶ必要があるのはわかる。
たぶん、元からこの作品はオタクの方を向いて作られた映画ではないんだろう。
(まず、オタクの方を向いているならちゃんと声優を使うはずであるし、そもそも3DCGにしないだろう)
友人にこのクソ長ったらしい感想をもう少し縮めて伝えたところ、「子供の頃ドラクエやってたパパが、懐かしいっつって子連れで見に行って、そんで夏休みの間にソフト買って親子でやってね、ってことだろ」と言われたが正にターゲット層はそこなんだろう。30~40代の子持ち父親(あるいは母親)。ちょうど小中学生の頃ドラクエ5をスーファミでやっていた世代だ。(だからこそ、今「5」が選ばれたのだろうと睨んでいる。3以前だとリアルタイム世代がもう少し上になってしまうし、4は5章構成で話が長すぎる。6以降だとまだちょっと若い)
「現実と向き合え」って言われるのが何よりも嫌いなオタク(と、あとフローラガチ派)は見るべきではないと思うが、まさしく「子供の頃ドラクエが大好きだったが、今はまあ子供もいて、そこそこ大人やってます」って人には是非薦めたい・・・・・・いや、そう言うタイプの人は最後のどんでん返しでカタルシスを感じてくれなそうである・・・ある程度「ゆうしゃとしての自分」に思い入れがないと・・・だがそう言う人は得てして現実と向き合うのが嫌であり、あるいは原作からの改変が些細なことでも許せないタイプ・・・実にジレンマである。
(・・・と、そのようなジレンマを抱える構造になってしまったことが「失敗」といえば「失敗」かもしれない)
また、この流れをもって主人公を「リュカ」としたなら、確かに久美沙織に対して何かしらの仁義は通すべきだと感じた。その一点においてマイナス100点である。
5の主人公=リュカの図式を作ったのは間違いなく小説版であろう。(もし万一、「リュカ」あるいは「リュケイロム・エル・ケル・グランバニア」の名がエニックス(当時)サイドから提供されていたのだとしたらそれを明確にして欲しいし、作者があのような(慎重な)声明を出す以上、命名は久美沙織側だったのだろうと思っている)
製作委員会におかれてはその辺は本当に仁義を通して貰いたい。この素晴らしい作品に、そんな事務的なことで味噌が付いて欲しくないと思う。
で!!!!!!だ!!!!!!!!!!実はここまでの長ったらしい話は全部前段であるっていったら怒る???
何でここまでドラクエ映画を大絶賛するかっていうと、作品自体が(人は選ぶものの)素晴らしかった(のに世間の評価がだいぶ偏ってるから、いっちょこっちは絶賛しとこう)っていうのは大いにあるんだけど、その直前に見た、見てしまった戦隊映画があまりに、あまりにも虚無だったからというのも大きい。
虚無映画のダメージがまだ残っているうちに見た為、通常時の1.5倍くらい面白く感じた...と言う可能性が否定しきれない。正直なところ。
(ブースト効果がなくても十二分に面白かったと思っただろうが、ここまで熱狂的に、最高に面白かった!!!!と思ったかどうか、怪しい)
というわけで「虚無映画の後にドラクエ見たら予想以上に面白かった」って話がしたくてドラクエの話始めたら思ったより熱が入ってたらしくてすっげー長くなったごめん。
でもこの後また長々虚無映画の話をさせてくれ。誰かに聞いて欲しいんだ。
「5点満点中マイナス100点」の栄光はまさに今年の戦隊映画みたいなもののためにあるのではないか? ドラクエではなく。
いや、戦隊映画については多くの人々が「ライダー映画のバーター」程度にしか見ていないのだろうと思う。
だって毎年バーターで、ライダーは一時間、戦隊は30分と相場が決まっている。ライダー単体の映画は大人1800円キッチリ取るが、戦隊単体の映画は大人1200円だった時代もある。
最近は戦隊単体の映画は期間限定上映になってしまったほどだ。悲しい。
だから、毎年大した期待は掛かっていないし、つまらなくてもその後のライダー映画が面白ければ何の問題も無いのだろう。
現に、今年のライダー映画に関する評判は、良い物も悪いものも合わせて耳に入る。つまり、それだけの人数、戦隊の映画も見ているはずなのだ。
しかし、誰も話題にしない。あんなに虚無だったのに!!あんなに虚無だったということを誰も口にしていない!!!その程度の興味すら抱かれていないのだろうか・・・それとも虚無すぎて何も言えないのか・・・
あるいは、「名作」とまではいかずとも、通常のテレビ放送の二話分くらいの時間を使えるのだから、ちょっとしたスペシャル回くらいの話はできる。
テレビ放送を見ている時よりはちょっとわくわくした気分で楽しんで見られて、特撮映画のことだから突っ込みどころも多いが、概ね「楽しかった楽しかった」と思える作品がほとんどだ。
(折角の「劇場版」がそれでいいのか・・・という話は一旦横に置いておく。今は、多くは求めまい)
少なくとも「早く終われ・・・」と祈ったことは、(毎年見ている訳ではないが、6~7本くらいは見ているはずだ)一度も無い。
それがだ。今回は半分より手前くらいのところから「早く・・・終わらないかな・・・」と魂が吸われていたのだ。
確かに、今年の戦隊はあまりちゃんと見ていない。が、それは過去の戦隊においても同じ事が言える。
(おおよそキャラクターや敵が何者かくらいは知っているが、毎週毎週熱心に見ている訳ではない。これはライダーも同じだ。友人たちと話のネタにするために流し見しているくらい。そこまでガチ勢ではない)
だから、「例年より話が分からない」「例年よりキャラクターに思い入れがない」という点で「面白くない」訳ではない。
「特撮映画」というジャンルには独自の文明があるので、割合トンデモ展開が許される。
(実際のところファンが「許して」いるかは知らないが、平成だけでも20作品にわたってトンデモ展開をやり続けながら絶対的コンテンツとして君臨しているのだから、許されていると思っていいだろう)
突然東京がひっくり返って江戸時代になろうが、突然信長が蘇ろうが、突然歌って踊ろうが、サーカスを始めようが、見た目は大人頭脳は子供だろうが、侍もいるし天使もいるし忍者もいる。タイムスリップも日常茶飯事、作中における原理原則の多少の無視もよくあることだ。今更騒ぐようなことでもない。
「展開がトンデモすぎる」「作中の設定が無視されすぎて変」という話でも、ない。
六千五百万年前からいきなりタイムスリップしてきた人類(的な生き物)が居たら、まずは文明の違いに腰を抜かすところからじゃないのか???とか
六千五百万年前の文明発達しすぎだな?いやそれは作中設定があるからいいとしても、こっちの部屋はロストテクノロジー仕様なのにあっちの部屋は旧
『THE FALL 警視ステラ・ギブソン』などを手がけた英国のTV&映画プロデューサーのヘンリー・スウィンデルは、映画やTVの結末は3つのタイプに分かれると説明している。それは、ハッピーエンドorバッドエンドのように結末が決まっている"クローズドエンド"、クリフハンガーで視聴者の捉え方に委ねる"オープンエンド"、そして"皮肉なエンド"の3パターン。
https://dramanavi.net/news/2019/06/losttv.php
人の生き死にに例えたらどうなるのだろう。
爺ちゃんが死んだときはクローズドエンドだった。文字通りの終わり。息子に先立たれた不幸が最後にあったが静かに、婆ちゃんがもう少しだけ余生を生きていけるお金を残して死んだ。
オープンエンド。この世の全てをそこに置いてきた!と言えばそうなるのかな。
皮肉なエンド。スクルージおじさんはそうならないように心を入れ替えた。でももしそうなっていたら?その死を周りの僕たちは覚えているのだろうか?
☆名探偵〇カチュウ
ハワード・クリフォード:人間とポケモンが共生する夢の町、ライムシティの創設者。大企業の創業者で富豪。イケメン。
ロジャー・クリフォード;ハワードの息子。大企業のトップでいけ好かない感じのキャラ
ヨン・ロッグ:スターフォースの司令官。悪の宇宙人スクラルに立ち向かう強い精神・知能のみならず、極めて高い身体能力を持つ主人公の、さらに上回る戦闘技能をもっている。イケメン。
エージェントC 主人公の一人エージェントHが組織を裏切っているのではないかと疑う。メガネ。
エージェント ハイT :秘密組織MIBロンドン支部の頼れるトップ 超強大凶悪な敵エイリアンを主人公の一人エージェントHとともにやっつけた伝説のエージェント エージェントCの疑惑からエージェントHを庇う。背が高い。
この三作、「冒頭(一シーン目~遅くとも四幕構成でいうところの最初のブロック)から出てくる、地位があって顔が良くて主人公に親切な味方」が
敵の黒幕
なんですよ
☆イ〇クレディブルファミリー2
通信会社デブテックを率いる実業家、ウィンストン・ディバー:父親が築いた大企業の跡継ぎ経営者。スーパーヒーローの大ファンであり、困っている主人公一家に豪邸を貸してくれたりする胡散臭い富豪
ウィンストンの妹イヴリン・ディヴァー:やや社交性に乏しい天才発明家で、デブテックの技術部門を担当。母親業に倦んでいたイラスティガール=ヘレンを心身(メカ)ともにサポート。美女。
敵が大企業系ということもあり、これほぼ名探偵ピ〇チュウですよ。(こっちが先)
ロジャー・クリフォードとウィンストン・ディバー 設定かぶりすぎです。
一見悪者実は違う&一見善人実は黒幕のセットが、ピ〇チュウでは親子でイ〇クレディブルではきょうだいですが。
アーロン・デイヴィス:叔父さん。父親とうまくいっていない孤独な主人公モラレスの唯一といっていい味方として第一幕で登場する。ファッションセンスや飲み物のチョイスなどかっこいい。イケメン。
ジョン・ダゲット:主人公の経営するウェイン産業の乗っ取りを図る。あからさまに悪そうな輩。
ミランダ・テイト:ウェイン産業役員。ダゲットにウェイン産業が管理する核融合炉を悪用されることを恐れたブルースの信頼厚く、会長に就任することに。美女。
アーロン・デイヴィスもミランダ・テイトも主人公が信頼していたベタな善人なのにヴィランだったり、悪の組織の首領だったりするわけですよ。
(ノーランバ〇トマンについてはビギンズのヘンリー・デュカードも「主人公に親身になったりする」ので近い。
☆ワ〇ダーウーマン
ワンダーウーマンともう一人の主人公(トレバー)が直面する ナチスの悪い奴をやっつけるミッションへの障害 を親切に助けてくれる地位のある人。
テイトとモーガン卿は実質的初登場シーンがかなり遅め(中盤)ですけどね。
イーライ・ミルズ;恐竜たちが火山の噴火で死に絶えそうなのを救いたい主人公に手を差し伸べる(富豪の所有する財団の偉い人) イケメン。
アレクサンダー・ピアース:S.H.I.E.L.D.の理事を務める高官 イケメン。
ヘンリーダーガーは一切表に出さずに粛々と作り続けてたものの、最終的に体が弱って
創作するどころか、創作物の処分すら出来ないから大家に処分してくれって頼んだ結果
作者の死後、大家が「価値がある」と判断して、勝手に出版してしまったからある意味被害者なんだよなぁ…。
黒歴史を勝手に売り出されて、それが一時的な認知ならいいけど、こうやって後世まで残るとか何か悪い事でもしたのかと小一時間。
岡崎体育が夢を叶えるために頑張った、夢が叶ったという話をブログに書いていた。
コミュ力があって営業努力が出来ることが結局大事なんやなと思った。
夢はあったけど、自分にはそこまで出来なかった。
それらをやると創作意欲に影響が出て本当にやりたいことが何も出来なくなっていった。
根本的に人と関わるの向いてない。
ので今は趣味でやってる。
結局そういうことだ。
ゴッホを見て。才能あっても、それ以前に「売る力」がないと売れない。
しかしゴッホに「売る力」があったらおそらくあんな作品を描いていなかっただろう。
「人手不足なのに給料が上がらないのは、経営者の強欲のせいではなく、仕事に要求される能力が高くなったから。」
https://blog.tinect.jp/?p=54573
"年功給与が崩壊した現代では、極めて単純に言えば、それなりの給与がもらえるかどうかは
だそうです。
"例えばコンサルティング会社は、優秀で人脈のあるコンサルタントが入社すれば仕事が取れるので、高額の報酬を支払います。"
"逆に、「組織の歯車」である事務員や工員、低技能のIT技術者など、売上や企業の業績に直接関係のない世界では、個人の努力の多寡や、人材が不足しているかどうかは、給与にはあまり関係がありません。"
なんか変ですね。
そもそも売上や企業の業績に直接関係のないのであれば人を募集しません。だって売り上げが上がらないですもの。
企業の人手不足は売り上げを上げようとしても人材がいない、又は高齢化によって既存の社員が辞めて足りなくなったから募集しているのです。
つまり人材募集しないままだと売り上げは上がらないか落ちると考えているからその企業は募集するのです。
人材募集や給料を上げることはすべて投資です。それをいつしか人材は単なるコストと考えて給料を上げなくなった経営者に問題があるのです。
日本企業に資金が無いなら給料を上げることも難しいでしょうが、現在の日本企業は手元資金が有り余っています。
https://www.asahi.com/articles/ASL933C3QL93ULFA002.html
内部留保と言っても色々ありますが、他の先進国に比べ日本企業は資金が活用されていないのは明白です。
そして日本の経営者は他国よりも保守的な傾向があり、さらにバブル崩壊を経験したためリストラ、コストカットの嵐が起き、従業員の給料に対する上方硬直性が起きました。デフレの原因でもあります。
また、構造的な理由として雇用規制(簡単に首を切れない、年功序列)などの理由もあるでしょう。
投資が思ったより効果が上がらないため設備や人材にお金をかけないという意見もありますが、これは経営者の能力次第です。
「内部留保を貯め込んだ日本企業が「攻めの投資」をしない本当の理由」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51671
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34168530V10C18A8DTA000/
日本企業が軒並み最高益を上げても、給料が微々たる率しか上がらないのは日本の経営者の保守的傾向と投資眼の無さなのでしょう。
"フォーディズムの画期的な側面は、生産効率の上昇に伴う利潤の増大を、労働者賃金の上昇に反映 させた点にある。"
お金は天下の回りものです。企業が最大利益を上げて余剰資金を貯め続け、消費者である従業員に回ってこなければ景気は低迷し続けるでしょう。
絵や漫画を描いてるけど、人気はない。
今のままのスタイルで活動し続けていくことに限界が見えてきている。
・自由に描きたい
・人に見てもらいたい(世の中全員ではなく理解してくれる人だけでいい)
この二つを達成するためにどこまで「寄せる」か問題がある。
すなわち、興味ない人にも見てもらう工夫をどうするか?問題。
後者はカッコ内が本心だが、理解してくれる人が10人に1人だったとすると、
その「10人」に見てもらおうと思うと、まずは有象無象の100人に見てもらう必要がある。
作品外で合わせる、寄せる方法もあるが(自分自身が人気者になったりフォロワー数を
増やすなど)向いていない・・。
作品作りとは何なのか?
どちらかというとエンターテイメントがやりたいわけではなく、芸術がやりたい。(趣味なのでお金の問題はなし。)
でも今のままだと独りよがりになる。
誰にも評価されたくないは嘘。
時代に合う合わない問題もあるけど、それは自分でコントロール出来ない問題なので無視。
好きな作家は多いけど、みんな多少時流に合わせたり、興味ない層にまで届く工夫をしてるんだろうと思う。
どういう工夫が適切か、考える必要がある。
どっちかっつーと、リメイク版は
最初からビアンカ一筋だったのに(ヘンリーにビアンカの話をしていたりと、ずっとビアンカを気にかけてるのが分かる)
途中で他の女にふらっと行ってる感じに見える。
んで他の女(フローラorデボラ)と結婚して8年石化後も、他の男がビアンカと結婚したいと言い出すと本気で怒ったりする有様なので
最低な奴と言われても何も擁護できない。
すまんそんな情報すっかり忘れ去っていた。聞いてなかったかも。
(スマホ版動かしにくいんだよ!モブに話しかけるのも面倒なんだよ!と言い訳)
でも「純粋に盾のため、結婚そのものはどうでも良かった」って意図で行われた演出ではないと思うんだよね。
でなければ展開上あんなに結婚いいぞと煽られる意味が分からん。
いきなりサンタローズが滅んでる必要性も分からん。ラインハットの状況が異常である事を強調するとしてもそれだけの意味だろうか。
サンチョとの再会をもっと後に引きのばす為ってのも、サンチョは国に帰った、その国はどこかは知らない、と町民に言わせるだけで済むはずだし。
(アルカパでビアンカ一家は引っ越した、と町民に言わせてるだけなのと同じで)
パパスの手紙と天空の剣だって別にサンタローズが滅んでる必要ないし。
ヘンリーがラインハットの状況がおかしいから戻ろうと決心するのはサンタローズじゃなくてアルカパの宿屋だし。
あれ、主人公の故郷を失くして孤独を演出する為のものじゃないの?
主人公は、奴隷から逃げ出して昔の記憶を当てにしてサンタローズに行ったら滅んでたのを見て絶望しただろう、とか
そこに僅かに残っている人たちが自分やパパスを覚えていた事で少しは救われただろう、とか
その足でアルカパに行ったらビアンカ一家が居なくなっててがっかりしただろう、ってのはあの辺りで十分想像ついたよ。
んでヘンリーは無事故郷の魔物倒して平和にして戻り、弟もいて、結婚もして幸せそうだけれど自分は故郷も仲間も何もない…と言う状況で
そりゃっうりゃっとしか喋らないピエール他と旅してても「人間の仲間が欲しい!会話したい!!」って気分になるんだよ。
プレイヤーはたかが数時間の話だしゲームだけやって生きてる訳でもないけど、主人公はそれが1年以上続いてるんやで?
(とここで思ったけど、DQ4コマみたいに仲間モンスターと会話成立してコミュニケーション取れる状況なら別に結婚したいとは思わないかもしれん)
そんな中で盾以外に家族が欲しい、って気持ちもあったんじゃないか(少なくとも、堀井としてはそう思わせるような演出じゃないのか)と。
丁度スマホやってたので便乗して熱く語ってみる。
SFC版は忘れたが、スマホ版だと「ルドマンはフローラの婿に家宝の盾をくれる予定」と言うのは最初から分かるんだが
「その家宝の盾は天空の盾という噂がある」って情報はフローラの婿候補として名乗りを上げた後でないと聞けなかった、と思う。
(単に見落としただけかもしれないが。一応サラボナ町民全員と話したと思うんだけど。
まああったとしても相当隅々まで聞きまわらないと手に入らないくらいの情報って事だ)
婿候補になった後は、町の真ん中という目立つ所にいるモブが教えてくれるんだけど。
となると(設定としては)「主人公がフローラの婿候補になった目的は天空の盾」という最初の前提は崩れる。
じゃあ何で結婚しようと思ったんだよ、ってのは、基本的には「主人公=あなた(プレイヤー)なのであなたが考えた通り」ではあるんだが
(殆どのプレイヤー目線だと「とりあえずイベント進めないと先に進まないから」と言う100%ゲーム的な理由だろうが)
「一緒に旅していた親友のヘンリーと別れて一人になる→旅先でヘンリーが結婚したという情報が入る→ラインハットに戻って新婚の二人を見せつけられる
→更にその辺のモブからも「結婚はいいぞ」と言われまくる」と言う状況で自分も結婚したいと思っていた所で
ヘンリーの結婚情報聞いた所で丁度ルーラを覚えてラインハットに戻れるようになるし(ゲーム的には戻らなくても進めるんだが、まあ普通は戻るだろ、って状況)。
特にリメイク版だと仲間会話があるので、ヘンリーがいなくなった後の誰とも会話出来ない寂しさはプレイヤーとしても感じるんだよね。
ゲーム内では一人旅期間が1年以上ある設定なので(青年期開始時16歳、グランバニア到達時20歳、なので結婚時18歳くらいだろう)
それまで幼少時はパパスと一緒で、その後は奴隷として集団生活、脱走後も最初はヘンリーと一緒、で
人生で初めて一人きりで当てもない旅をしている主人公としてはかなり寂しかったんじゃないだろうか。
ビアンカと再会したら、幼少時の思い出を共有出来るビアンカにより惹かれるのは自然な成り行き。
これもプレイヤーからしたら「数日間お化け屋敷行っただけの相手」だけど
主人公目線だと「父親殺されて10年奴隷生活→逃げ出して故郷に戻ったら故郷も滅ぼされてて自分や父親の事を覚えてる人は殆どなし、帰る所もなし」と言う状況の中で
ビアンカは貴重な「父親や故郷の思い出を共有出来る相手」なので。
堀井雄二は恐らく、盾よりもそういう心理描写でもってビアンカと結婚した、と言う演出にしたかったんだろう。
でもゲーム的制限(主人公が喋れない)&SFCの容量制限(ろくに台詞を盛り込めない)故によく分からん事になってしまった(勿論堀井の描き方も悪いが)。
なので堀井は「殆どがビアンカと結婚すると思ってたのに、フローラと結婚する人も割と多くて意外」などと言ってるが、
プレイヤーからするとそこまでの意図が分からんので「盾目当てでフローラ」「イオナズン目当てでフローラ」なんてのが多いわけだ。
その辺のモブに「かっこいいお兄さん」とか「素敵な人」とかよく言われる事に気付いた。
11→6→7、と一人ドラクエ祭り開催中だけど他はこんなに言われた記憶ないのに。
子供の頃SFCもやってるけど気付かなかった(リメイクで台詞変わってるのかもしれないけど。もう記憶ないわ)
でも主人公は旅立っちゃったからヘンリーと結婚した、ヘンリーもそれに薄々気付いてて受け入れてる、ってのが妙にリアル。
そりゃあてのない旅を続ける根無し草よりは王子の方がいいよなー。
二人(リメ版だと三人か)の女どっちと結婚しても何だかんだで上手く行くのも
子供の頃から抱いていた「ビアンカはまだ分かるがフローラは親が決めた相手と無理やり結婚させられてそれでいいのかよ」
と言う疑問に対して、何だか答えが出た気がして納得してしまった。
1869年、ドイツの生理学者フリードリッヒ・ゴルツ(Friedrich Goltz)による脳を切除したカエルを用いた実験が発端と見られる。
しかし、ゴルツの実験でも脳のあるカエルは摂氏25度から落ち着かない様子になり、温度が上がるごとに激しくもがき苦しみ42度で死んでしまった。
1873年、ジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes)による追試験結果がネイチャーに掲載された。
この実験は、精神の所在(つまり、反射ではない意識)を探ろうとするものだったが、
1872年と1875年に生物学面からの反証、つまり十分穏やかに昇温(一例では0.002℃/秒)させれば脱出しない、とする報告が寄せられた。
1888年、アメリカの生物学者ウィリアム・トンプソン・セジウィック(William Thompson Sedgwick)は、温度変化の速度差が原因と解釈し、これが定着した。
何だろうね。一言で言うと「めっちゃ金かけたるろうに剣心」みたいだった。
何のことを言ってるかと言うとさ、るろ剣の映画版ってさ、1は評判いいんだけど、
2以降ってあんま評判よく無いじゃん?
あれの理由ってさ、よくある漫画原作の実写映画でさ、めっちゃ説明するじゃん。
病的に説明しすぎなのがだいぶ大きいと思うんだよね。
例えば、るろ剣2でどっかの村で誰か死んだ所に弥彦が遭遇するシーンなんだけど、
あれさ、2回やるよね。一回の映画で同じようなシーンを2回やるよね。笑かしにきてるやろアレ。
アベンジャーズとかさ、もうそれがお家芸でかつ、何連作もスピンオフも無数に出して深み出せるならいいけどさ、
たかだか映画の2時間だけに剣心、弥彦、左之助、薫、あおし、なんかずっと笑顔のやつ、火傷男、お坊さん.....etc....
短い時間で出過ぎやろ。漫画見てだいたい知ってたからまだいいけど、
一作目のウドじんえさんは完全に狂人だからアレはよかったね。こきおろしてるけど、一作目は名作だと思うよ。
ワールドの話題に戻っちゃうけど、いやむしろそっちが本題なんだけど、
ヘンリー・ウー博士っていう恐竜を現代に再生させたすごい人が出てくるのね。
その人ってワールドの研究所長としてシリーズにほぼ皆勤なのよ。
所長だよ?所長。
単純にすごい成果出しただけならイチ研究員何だけど、所長だよ。所長。
何で?????
すごい功績残してるのにその状態って何なの?
恐竜再生の第一人者としてさかなクンばりに人気者になるはずなんだけどおかしいよね?
「お前、それやったらどうなるかわかってるよな?」
まあこんな感じで、現在の立ち位置や功績からしてそんな行動をとるとは思えない人たちがイキナリ屑化してるんだよね。
パーク時代は人間の描写も説得力あった、恐竜の生態をちゃんと研究しているからなのか
人間の行動や思考もちゃんと論理的に組み上げた脚本じゃないとせっかく演出しているのに、
どちらか一方が陳腐に見えたら映画全体がギャグに見えてしまうんだよな。
そこらへんは、他のハリウッド映画とは一線を画したシリーズだと思ってたんだけどなあ。
そんじゃーねー。
先日ジュラシックパークの最新作が全国公開された。
クリス=プラット演じる主人公が活躍する新生ジュラシックパーク第二弾とも言える作品だ。
前作よりもよりホラー寄りに回帰したりラプトルとの交流が見られたりとにかく面白いので是非見て欲しい。
ちなみに僕はまだ見ていない。
前置きはさておき、ジュラシックパークの恐竜たちは一体何者かという僕独自の考察をここに記しておこうと思う。
結論からいうと彼らは恐竜ではなく恐竜のようにデザインされた何かである
ジュラシックパークファンなら勿論知っている情報だと思うがおさらいをしてみよう。
蚊が木で休んだ際に樹液に絡め取られ、恐竜の血を体内に含んだまま長い時間をかけ「琥珀」になった。
現代になり琥珀の中に閉じ込められた恐竜の血から取り出されたDNAを元に恐竜たちが生まれた。
これが定説というかジュラシックパーク第1作目で作中アニメで語られている内容だ。
確かに説得力があり、当時子供だった僕はそのサイエンティックな内容に釘付けになり、よりストーリーに惹きつけられた。
このような記事がある。
恐竜をDNAから復元することは不可能?(オーストラリア研究)
http://karapaia.com/archives/52104981.html
つまり、物質は必ず劣化するものであり、恐竜のDNAも例に漏れてはいないということだ。
ただし、作中ではそれを予見してか、「不足しているDNAはカエルのもので補っている」とも語られている。
これにより、一見して最新の学説へのアンサーとしては成り立っているように見える。
どうしてだか、僕はここに違和感を感じている。
なぜカエルなのか。なぜ進化の経路上として爬虫類や鳥類よりも遠い両生類のDNAを使うのか。
パークの恐竜たちを語る上でこの人は外せない。
氏は新旧パーク双方に勤務し、実際に作中にも登場している。
いわば恐竜たちの生みの親であるパーク研究所の遺伝学主任である。
作中で語れられている氏の実績を大雑把に下記の通りまとめてみた。
先に仮説を述べておくと、
インドミナスに限らず、パークの恐竜たちは全て「リデザイン」されたのではないのだろうか。
つまり、形状的に模倣はされているが、必ずしも遺伝子として合致あるいは類似しているものではない。
作中のヴェロキラプトルは実際の世界のヴェロキラプトルとは違うというのは割と有名な話だとは思う。
実際のヴェロキラプトルは鶏ほどの大きさで主に小動物や昆虫を餌にし、大きくてもせいぜい小型の角竜を襲うことができていたのではないかと言われる。
実際にはデイノニクスと呼ばれる馬ほどの大きさの肉食恐竜がヴェロキラプトルの名前と足についている「大きな鉤爪」だけ借りて登場している。
演出のためだと言われればそれまでだが、
これは「リデザインされた恐竜に名付けた結果」と想像している。
あれだけ一作目から科学的考察が作中でされているのに、そこだけ演出のために実際の世界と違えるというのは個人的には違和感だ。
一緒にモニターに現れるスケールが確認できると思う。スケールには単位が表示されていないので正確には分からないが
あの同時に現れたスケールは「実際のラプトルと同じスケール」だと示唆する製作陣からのメッセージなのではないかと考えている。
また、博士が持っているラプトルの爪は「デイノニクス」の爪としては小さすぎる気がする。
つまり、アラン博士はパークのラプトルをラプトルとしては認識していない
少なくとも作中に出てきたパーク監視員のロバートに確認するまでは認識していなかったと思う。
学者全般に言えることだと思うが、学者は全てが解明されているという前提で研究をしているものはいない。
常に新しい情報で自らをアップデートしていくため、パークでラプトルそのものを見せつけられたら
パーク内で生まれたラプトルは大きな個体のものが存在すると捉えるのは自然なことだと感じる。
ましてや、欠損部分をカバーしていると事前に聞いているので多少の差異は覚悟しているとは思う。
アランはきっと「我々が思っているよりラプトルの整体はずっと大きかった」と思ったのではないか。
ジュラシックパーク一作目が公開された当初から、羽毛恐竜の存在はほぼ定説となっていた。
それらを作中に取り入れなかった理由として単に「一般の恐竜イメージが損なわれる」というものではない気がする。
どちらかというと、パークの経営的な判断として、よりイメージに近い「恐竜」を生み出して欲しいというオーダーがウー博士にされた結果、
羽毛のない恐竜になったというのが個人的にスッキリ腑に落ちるところである。
その極たる例としては、前述した「インドミナス・レックス」が当てはまる。
あれは作中でも経営層から「より恐ろしい恐竜」を依頼されたため、その通り作ったと氏自身が語っている。
(まあこれは恐竜ではないが)
作中のモササウルスだが、ものすごく巨大な生き物として描かれている。
少なく見積もっても30m以上はある。
実際に発掘されたモササウルスは18mが最大だそうだ。
水中に生息しているモササウルスの血を吸えるのか?
これも非常に疑問に思う。
原生のクジラなどと同じく極度に海中に特化した外形のため、モササウルスはその巨体故に陸上が近いと座礁してしまう。
そのため、陸に近い、蚊が発生する真水のある環境近くに接近し、蚊に吸血されてしまうとは考えづらい。
仮にされたとしてもその頻度は非常にレアなのではないだろうか。