はてなキーワード: ゆずってとは
春名風花、トラブル連続のツイッター終了 - 芸能 : 日刊スポーツ
ナンデダヨ!
あの賢いのに自意識膨れ上がって見てみて、私の中のモンスターがこんなに大きくなったよ!って見せびらかすような子ははてなでこそ輝く子だったじゃん!
はるかぜちゃんの様なはてなのために生まれたかのようなスーパーエリートはてなーがはてなでブログかかないって終わってんじゃん!
はるかぜちゃん一人さえ居れば日々のキャンプファイヤーに困らずはてなはあと10年は冬を安心して乗り越えられたじゃん!
むさくるしい豚まんじゅうをはてなアイドルといって崇めたり貧乏なミニマリストの衣服を剥ぎとって炎にくべる必要なかったじゃん!
そこはお金払ったり専用デザイン用意してでも連れて来るべきだったじゃん!
信号が青になって車の列がゆっくり進み始めた時に、歩道側を自転車がさっそうと追い抜いていくわけだ。
その時に駐車車両とかあると、悠然と片手上げながら車の前に入ってきたりするじゃない。
お前それ車でやったらクラクション鳴らされた挙句、涙目になるまで煽られるからな。
事故になると車側が不利なの知ってるからみんな我慢してるだけだからな。
たまに左折車線から直進したり片側3車線以上の道路で右折車線にいたりしてるけどな、そんなことしながら安全に走ってられるのはお前らの技術じゃなくてドライバーの温情だからな。
免許の教習受けたこともないくせにスピードでる自転車載ってるヤツは交通ルールが誰かの身勝手から事故を防ぐためにあるってことをよく理解しやがれよ。
いいか。よく聞け自転車。お前らは優先車両じゃねぇ。単なる交通弱者だ。
エンジン付いた車両の中に入って流れに乗ることもできないくせに生意気言ってんじゃねぇよ。
お前らの過失割合が上回った時はとことんまで追い込んでやるからな。せいぜい任意保険でも入っておくことだな。
歩行者(ハードラック)と事故(ダンス)ったら責任とるのお前らだからな。
じゃまだからってベルならしてんじゃねえよ。お前が車道に出るんだよ。
そんときはちゃんと車道の安全確認しねぇと轢き殺されるからな。
肝に銘じておけよ。
追記1
ひとつ教えておいてやるのは、車同士で無理に割り込んだりしなきゃいけなかった時とかは、後ろの車に向けてハザードランプをつけるたりするんだ。
ほかにもライトでバッシングしたり、一瞬クラクションならしたりすることで合図を送り合うんだ。
車だと載ってる人が見えないからそうやって「すみません。」とか、「ありがとう。」、「お先にどうぞ。」って気持ちを伝えて道路が殺伐とした空気にならないように気を遣い合ってるんだよ。
中には悪いドライバーもいるが、基本的にはゆずってくれる優しいドライバーばかりだからな。
それなら当然の顔して走り去っていくんじゃなくてできることあるんじゃないか?
追記2
松信章子
最近、心底残念に思った事件は、田中元外相の涙をめぐるコメントの数々です。小泉首相の「涙は女の最大の武器」という時代錯誤もはなはだしい言葉。改革を唱える小泉さんにしてこの言葉とは、天を仰いでため息をつくばかり。そしてこの発言に対し、バカにされおちょくられた女性側をふくめて、誰も深く追求しなかったことは情けないかぎり。反論しなかったことは認めたことと等しいと思えば、女性側の鈍感さと責任を問われても返す言葉もありません。まして数ある小泉内閣の女性閣僚の誰一人、この侮辱的発言に対し毅然として問題点を指摘しなかったことは残念無念の一言に尽きます。
「私も素晴らしい男性の前で涙を流し『武器だ』といわれてみたい」とおっしゃる川口新外相。百歩ゆずって不用意に出てしまった言葉だとしても、この言葉を聞いて裏切られた気持ちになった女性は多いはず。こういう言葉は、普通、一人前の女性なら絶対に言いたくないほど恥ずかしい言葉だと思うので。まして川口さんには古い体質を引きずった外務省たてなおしに国民の期待が高いのです。それなのに、ボケと突っ込みのようなこの首相お追従の言葉は、古い女性観、社会観を変えるのに何の役にも立ちはしないばかりか、女性は所詮こんなもの、という偏見を女性自らが追認したと同じこと。田中さんにしても、もし涙を「武器」として使ったのでなかったならば、小泉発言にきちんと異議を申し立てるべきではなかったでしょうか。どこぞのパーティに呼ばれた、呼ばれなかったという話より、こちらの方がよほど重要な問題です。なぜならこの問題は日本社会のゆがんだ女性観と深く関わっているので。これぞ本質的な「スカート踏みつけ」発言だと思うのですが。
いったい、女性の涙は何に対する武器なのですか。はっきりさせてもらいたいものです。田中さんの涙は小泉首相の決断に何らかの影響を与えたのですか。そんな様子はチラとも見えませでしたが。小泉さんは自分にとってなんら「武器」と思っていない田中さんの涙を「あの人は武器として涙を使っている」とおもしろおかしく論理を捻じ曲げることで、問題の本質をそらし、ワイドショー的な全く次元の違う話におとしめてしまったのです。ワイドショー的な事件となったために、田中人気が盛り上がり、小泉さんは墓穴を掘ったような結果になったのは皮肉としか言いようがありませんが。まったく演歌の世界じゃあるまいし、公の場で女の涙が本当に武器として有効であるならば、話は簡単。私たちは女性を一万人くらい国会の前に召集し、みんなで泣いてやろうではないですか。政、官、財をもっぱら牛耳ってきた男たちが作り上げた日本社会の構造的問題と無責任体制を嘆いて、泣き女に変身するくらいはお茶の子さいさいの話です。
泣くのは女だけではありません。男ももちろん泣きます。そう、鈴木宗男氏は、田中元外相よりもよほど派手に泣いたではありませんか。田中さんは「武器」として涙を使い、鈴木さんはそうではなかったと言うのでしょうか。あの二人の涙が、不随意筋の作用によるものであったのか、あるいは意図的な「武器」であったのか、真相は誰にも分かるはずもありませんし、どちらでもいいことです。首相たるもの自分の閣僚が大泣きをしようが、ウソ泣きをしようが、そんなことは一切無視すべきだったのです。それが「武器」を無効化するのに一番有効な手であるはずですから。そして、一国民として言わせていただければ、どんな涙を流そうが、涙だけであの二人に対する評価に何の変化もありはしないのです。
問題は「女の涙」のみ特別視されることです。そして「女の涙」を特別視し、それが「武器」だと思っている男の考え方なのです。いや、もしかして本心は「武器」とすら思っていないのにもかかわらず、「武器」だと言い張っているだけかもしれません。いずれにしてもこういう言葉が、公の場で国の指導者から出るということはなんとも許しがたい話です。なぜかと言うと「女の涙」発言の裏には「女は感情の動物で論理的ではない」、そして感情に訴えられたら「論理的」であるべき男は太刀打ちできない、といった思想が流れているのは明らかですから。小泉首相的な発言は、極論すれば「涙」くらいしか、女は男とわたり合う能力がないと言っているのと同じこと。まったく、小泉さんの女性閣僚は本心ではどういう気持ちでこの侮辱的発言を聞いたのでしょうか。そして、この偏った視点を全然問題にしなかった日本のメディアの鈍感さをいったいどうしたらいいのでしょうか。
残念ながらゆがんだ女性観は社会に蔓延し、仕事場であれ家庭であれ、日本の女性が始終直面している問題です。ですから、言葉尻を捕えているように思われようとも、「涙は女の武器」発言にきちんと異議を申し立てないわけにはいかないと思うのです。なぜって「女は感情的だ」という思想の延長線上には「だから、女と一緒に仕事はしづらい。女は仕事には向かない。女が組織をまとめるなんてとんでもない。」というような思想が展開するのはごく自然のことですから。女性が心しておかなくてはならないことは、こういう考え方は男性にとっては古着のように馴染んだもので、違和感なく受け入れやすい結論だということ。そして、こういう言葉は無意識のうちに、女性自身の視点、考え方にも影響を与えてしまうということです。でも、涙が「女の武器」だと信じられている間は、私たちは「泣く子と地頭」なみに厄介な存在だと思われていて、決して一人前の人間として対等に扱ってもらっていないと言うことをお忘れなく。まかり間違っても、涙を「武器」に社会をわたっていこうなんて思っても、必ず馬脚をあらわして、人の尊敬を勝ち得ることはまず難しいということもお忘れなく。
例えばこのCM
https://www.youtube.com/watch?v=pEEZbe6j764&feature=youtu.be
「実はハイビジョンでは残せていなかった。」ってキャッチコピーは百歩ゆずってよしとする。
しかしだ、構成的にも赤子がカメラに向かって手を伸ばしいかにもそのカメラが撮りましたみたいな演出になってるわけだが、そのシーンで使われている映像はどう考えてもそのハンディカムでは撮れない映像だよな。
被写界深度の浅さから言っていわゆる映画用カメラか一眼ムービーを使う必要があるわけだが、これは許されていいのか?
以前もどこかのスマホメーカーが自転車に乗りながら撮影した手ブレ防止ONの映像として流してた映像が実はトラックから撮影してるってことがCM内の映り込みでばれて物議を醸したりしてたけど、どう考えても性能に対する誤解を消費者に与えている誇大広告だよな。
コンデジのCMとかでもシャッター音と同時にさもそのカメラで撮りました的な画像が表示されたりするのだけど、これも大半はコンデジでは映すことのできないボケ写真が使われているわけだ。
実の話、カメラを始めようとしてた頃にボケの強い写真に憧れていたわけだけどこうしたCMの表現のせいでコンデジを3台くらい無駄買いしたからな。
ピンクリボン運動は女性特有のガンに対する啓蒙運動につかわれており、
また妊婦なので席をゆずってくれというマークにも「女性らしい」ピンクが使用されている。
しかし女性はピンクの服や口紅ばかりをつけているわけではないことは当の女性であれば良く知っている。
ピンクが大嫌いな女性もいくらもいる。赤子の色?肉の色?エロ感情を喚起させる色?どれでもいいけど単に見たくないシチュもある。
ただ、上の例はおそらく、女性以外の存在(端的にいえば男性だが、未分化の子供や女性性より年齢が強く出る老人も自分が「女性」であるという意識は少ない)に対する訴求力としてピンクという色を使用しているので存在をゆるされているわけだ(議論がなかったわけじゃないよ)。
妊婦は腹がふくらんで動作が鈍くなるというハンデの克服、マタハラ・寿退社圧力などの防止に焦点をあてたものとするか(いわば職場系・生活系トラブルかな)、
圧倒的性的マイノリティたるレインボーカラーをも巻き込んで、他者へのセクハラ・ストーキング・デートレイプといった恋愛系犯罪・トラブルのたぐいを全般的に阻止したいとするか、によってかなり違うんじゃないかな。
英国ではどっちを防止したかったのかよくわからないんだけど、性決定遺伝子というあまり意味のない分類でいろんな被害意識をごちゃまぜなまま「ピンクで女性のお祭りの雰囲気だそうぜ~」じゃずいぶん頭悪い予算消化方法ダネといわれてもしょうがない。
====
へんな反論がきたんだけど女性だろうと男性だろうと「女性をまとめてもちあげろ、セクマイは無視しちゃえ」ってのは乱暴なご意見だとおもうのよ
http://synodos.jp/society/13008/3
「なぜ、少数者は、主流社会との距離において「近寄っても地獄、遠ざかっても地獄」の二択の立場に立たざるをえないのだろうか。そして、どちらか一つを選んだ時に、なぜ「自己責任」の名において、どちらか一方の差別を受忍せねばならないのか。それは、主流社会が自ら一向に変わろうともせずに、少数者に対して一方的に「同化か/隔離か」の二択の踏み絵を強いているからに他ならない。」
わかりづらかったようですね。
私の「嫌悪感」「不快感」は、「自分が欲情されたこと」によるものではありません。
私はJKでも被災者でもなく、私自身はid:believemeimaliar氏が欲情している対象にはあてはまりません。
id:believemeimaliar氏のような芸風(?)のコメントが、
【(アクセスされてナンボの、叩く側叩かれる側に同意が成立していてマネタイズの導線が敷かれている)ネット稼業の方】
【水着姿の写真が商業的に出版されているようなグラビアアイドルさん】
そういった対象に対してなされたものであれば、私もわざわざ無粋な表明はしなかったと思います。(「私の趣味には合わない気色悪さだな」と心の中で感じてスルー、で終了していたはずです。)
今回のid:believemeimaliar氏の発言は、たとえていえば、
【当時女子高生だった、制服姿の十代の(※)お嬢さん(グラビアアイドル等ではない一般女性)の写真に、勃起した性器を押し当てているような行為】
ではないでしょうか? 私にはそのようにみえました。
(※現時点ではご卒業されていて19歳か20歳か21歳か40歳かそれは存じ上げませんが、詩作の時点では明らかに18歳以下ですよね?)
個人が特定されないように目にモザイクがかかったような”写真”ではなく、出身校まで明らかになっているのですから、たとえていうならばハッキリとそのひととわかるような”写真”です。
個人が特定できるかたちのお嬢さんの(高校時代の)”お写真”に、性器を押し当てる(おそらく当人の同意を得ずに)。
そのような状況下では「侮辱」と受け取られても仕方がない行為のように思います。
しかも、その”写真”はただの”写真”ではありません。おそらく、その作者さんの人生のなかでもっとも過酷な体験のひとつ、その体験に関する”写真”です。
彼が言うには「Visual Source Safeは糞過ぎる、Git最高!」だった。
「会社もGitHub Enterpriseにするべきだよ、仕事効率が断然あがる」と彼は言い、
Gitを称賛し続けた。
なんかそれを聴いているうちに、自分もそのうち
「サブバージョン、クソ。ギットコソガ、サイコーナリ」と洗脳され始め、
初めのうちはまだ慣れてないからだと思っていたが、
いくら使ってもGitでの作業速度が上がらない。
SourceTreeも追加で入れたけど、起動が遅くて使いづらい。
Git workflowを参考にブランチを切り替えながら作業すると、
なんでコマンドあんなに覚えること多いの?
Windows独特の改行コードのせいでいちいち変換するし、バグも出たし。
あと間違えたコミット直すのにgit reset --hardとかって怖すぎて、
いいところもゼロではなかったので、挙げる。
GitHubの完成度はすばらしい。
Pull Requestは良い機能だし、
変な絵文字やおもしろgifをissue trackerに貼れるのも
Visual Source Safeを使っていた頃には無い良さだった。
でもね、スキルの高い人ばかりではないチームで使ううえで
やっぱり弊害がでかすぎるんだよ。
100歩ゆずって自分がプロジェクトリーダーならいいかもしれない。
彼が言うには「Windowsは糞過ぎる、Mac最高!」だった。
「会社もMacにするべきだよ、仕事効率が断然あがる」と彼は言い、
Macを称賛し続けた。
なんかそれを聴いているうちに、自分もそのうち
「ウィンドウズ、クソ。マックコソガ、サイコーナリ」と洗脳され始め、
初めのうちはまだ慣れてないからだと思っていたが、
いくら使ってもMacでの作業速度が上がらない。
キーボード配列もウィンドウズと違うし、マジックマウスも使いづらい。
画面もWinに比べて動きがテキパキしていないような印象もあるし、
マッカーの彼に聞くと、仮想化してWindows入れればいいじゃん、との事。
「じゃあもともとWinでいいじゃねえかこの野郎」とは言わず、
VMWare購入、WindowsOSを購入、ExcelやAccessを別途購入。
MBAはメモリが心許なくなり、大きいファイルでの作業が遅延するようになった。
iMacの方はさくさく動くが、ショートカットキーが違うのが致命的で作業効率が大幅ダウン。
仮想化でMacとWinを切り替えて作業すると、キーもよくわからなくなりミスしまくり。
コマンドキーがあるのに更にコントロールキーもあるって意味がわからないよ!
しかもUSキーボードやサンダーボルトケーブルも購入してしまったが、お値段高い。
なんで周辺機器あんなに高いの?
アプリに関しても、Macは秀丸ないし、SAIも無いし、AdobeのWin用パッケージがMacだとダメだし、
Mac版Officeは使いづらいし、Mac独特の記号のせいでSVNでエラー起こすし、バグも出たし。
あと画面の動きが無駄にシャレオツで、サクサクやらなきゃならない作業の環境には向いていない気もするんだよな。
いいところもゼロではなかったので、挙げる。
iMacの画面の美しさはすばらしい。
色々といじれるのもWinには無い良さだった。
iCloudで一元管理できるのもよかったね。メモの同期がうまくいかないこと多いけど。
でもね、仕事をするうえでやっぱり弊害がでかすぎるんだよ。
100歩ゆずって専門職ならいいかもしれない。映像系とか音楽系とかWebエンジニアとか。
だが事務系・管理系の割合が多かったり完全に専門系でない人なら厳しい。
iPadは「娯楽」としては良かった。
iMacもMBAも「趣味」までにするなら、楽しいと言えるよ。
今はSurfaceを買い、仕事としても趣味としても使えて非常に満足している。
MBAは閉じたまま。
障害者を論ずることへの根強いタブー感を身を挺して払拭してくれた彼の業績はたいしたもので、それは本当に讃えられるべき。彼の家族をはじめとする周囲のアシストごとまるまる褒め称えるべきですよね。
しかしながら『障害者の地位向上』とは、健常者比0.5とか0.6くらいだった障害者の扱いを健常者のそれとおなじ1.0にする運動です。けして、健常者比1.5とか2.0まで過剰に持ち上げるものではない。それはもう逆差別ですやんね。
で、いまさら言うのもなんだが先日の乙武炎上で真に問われるべきは、『障害者』の御紋をかかげてクソ狭い店内に強引に押し入ろうとした乙武サイドが健常者以上の待遇を店に求めた傲慢さだろう。彼らの言い分は「健常者とおなじようにお店で飲み食いする権利がある」といったところだろうが、その権利を成就するために他の健常者もおなじく持っている権利が犠牲になりますよね。営業する権利がある。落ち着いて飯を食う権利がある。そういうの。それらを一部奪わないと乙武くんはあの店で飲み食いできんわけですが、この状況でまずするべきは打ち合わせ、というか摺り合わせですよね。できれば事前に。――ちょっとカサ張るのがお邪魔するんですけど大丈夫ですか? という具合に、乙武サイドが電話一本投げときゃ済んだ話だ。そりゃいきなり凸って対応を迫ったり門前でピーピー泣きわめいたら障害者によるパワハラだと見做されても文句いえねえよ。他でもない乙武君自身の功績によって障害者にやさしくせよという世相です。それを強引に求めるのはハラスメントですやんね。
べつに障害者だから世間様にゴメンナサイして生きろ、というのではない。誰もが大なり小なり周囲に面倒をかけて生きている、そのことにもっと気を使いなさいという話です。障害者ヅラして必要以上のよぶんな便宜を図ろうとするなってことです。健常者は道をゆずって当たり前、自分らのために席は確保されていて当たり前、とでもいいたげな車いすユーザーは車いすごと蹴飛ばしたくなるわ。勘違いすんなボケー! お前らの車いすは健常者とおなじ生活をするためのただの道具であって、健常者を跪かせる王座じゃねえんだよ。調子のんな。
俺はおおむね健常者だが、障害者だろうがなんだろうが移動の自由は保障されるべきだと考える。エレベータもエスカレータも補助金出してガンガン設置していけばいい。それを皆ガンガン利用してけばいい。でもその他大勢の移動を阻害しても移動の自由が保障されるべきとは思わない。たとえば電車の乗り降りに駅員アシストがつくのは超OKだが、朝ラッシュ時はその限りではない。という具合。すべては折り合いです。みんな憲法で保障された権利を持ってるけれど、明らかな無茶を要求するなと。最大公約数を見つける作業ですね。交渉事ですね、日本人があまり上手ではない。
やっぱり結論は「お互いのことをよく知ろう」という当たり障りのないものになってしまうのですが。
車いすを実体験するのはさすがに手間ですから、キャリーカートに20kgくらい積載して持ち歩いてみると良い。だいたい車いすと同じ動線で移動することになるので、町中のどの部分で負担が生じるのか身を持って体験できます。体力もおそらく同程度消耗するはずですし。車いすと人間ってクソ重たいんですよね……車いすユーザーはだいたい肩ムッキムキになりますもん。
どうも、お久しぶりです。
今月はじめに、「日経新聞で紹介された小学校のネット教育」について、「このネット授業に賛成する人の意見が聞きたい。」という増田記事でみなさんにコメントを求め、基本全レスしてた元増田です。
あの記事中にも書いたけど、このネット教育について件の小学校に問合せた。するとなんと、この授業を行い、なおかつ教材の開発者でもある、岐阜聖徳学園大学の石原教授ご本人より、返信のメールをいただいた。
はてな匿名ダイアリーへお名前を出して掲載する旨も了承を得ているので、ここでそのメールを紹介する。
このメールは9/5にいただいたが、ひとえに私の怠慢により3週間後のこのタイミングとなったことを石原教授にお詫びします。きっと少なからず気をもんでおられたと思います。申し訳ありませんでした。
《問題となった日経記事》
岐阜聖徳学園大学付属小学校(岐阜市)の6年生の授業をのぞくと、児童たちがタブレット(多機能携帯端末)のチャット機能でコメントをやりとりしていた。匿名なので書き込みは徐々にエスカレート。5分ほどで相手を誹謗(ひぼう)中傷する言葉が増え始めた。そこで教師が手元のボタンを1つ押す。するとチャット画面上に実名が表示され、楽しそうに騒いでいた声がやんで気まずい空気が流れた――。
なお、URLとタイトルは9月上旬に私が初めて見た時から変更されているので参考までに載せておく。引用部分については変更されていない。
《ネット上の反応》
この授業のやり方に対して、2ちゃん、2ちゃんまとめサイト、はてブ、ツイッターなどで散々な批判が浴びせられた。まとめサイトは400以上のブックマーク、2000のツイート、800のFacebook「いいね」を集め、私の増田投稿も100以上のブクマがついた。Googleの検索結果を見ても日経記事を発端に、この授業が批判混じりに面白おかしく取り上げられている様子がわかる。
主な論調は「匿名と言ってチャットさせて後から実名さらすのは酷い」といったものだ。私も記事を読み、そう思った。
思っただけでなく、「どうなのこの授業?」という主旨で増田に投稿し、授業に賛成する人(・・・も約半数みられた)の意見を聞かせてもらった。冒頭で「全レス」したと書いたのはこのときの話だ。
その中で、やはりどうしてもこの授業について当事者の話を聞いてみたいという思いにかられ、問合せをしたところ返ってきたのが、これから紹介する返信ということになる。
とにもかくにもメールをご紹介します。メールの改行されてしまったところの調整等をのぞき、そのまま貼り付けています。
岐阜聖徳学園大学附属小学校の情報モラルの授業に関して、多くの関心が寄せられておりますが、スレッドを拝見しますとその中にはいくつか誤解も含まれているようですので、教材の開発者として、また今回話題になっている授業を行った授業者として実際の話をさせていただきます。
実はこのスレッドの元になった日経新聞の記事は実際の授業の様子を正確には伝えておりません。
記事を書かれた記者の方は、実際に授業をご覧になったわけではないからです。
記事では実際にご覧になったような臨場感を感じられますが、教材の開発に関わった企業の広報や授業の一部のビデオ映像などを取材されて書かれたものです。
そして記事の内容は、私が授業で意図したものと全く異なります。この点について説明させてください。
記事では「5分ほどで相手を誹謗中傷する言葉が増え始めた。」とありますがこれは事実に反しています。
実際の授業でも実名と匿名でそれぞれ5分間書き込みをさせたのですが、匿名のチャットでは一部の児童が意味不明の文字を連打したり、少し乱暴な言葉を使ったりしただけで、相手を名指しして中傷したり、誹謗するような書き込みをした児童は一人もおりませんでした。「・・楽しそうに騒いでいた声がやんで気まずい空気が流れたーー。」も実際の授業を見られたわけではないので記者が想像して書かれたものです。気まずい空気が流れたわけではありません。
実際の授業を想像してください。担任が見守る中でクラス全員でチャットを行って、わずか5分で相手を誹謗中傷する書き込みをする児童が現れることは常識的にあり得ないことです。
もしそのような状態であれば、情報モラル以前のクラスだといえるでしょう。
端的に言えば、私の行った授業は、「児童にわざと誹謗中傷の書き込みをさせたうえで、見せしめのために実名をさらす」というものではなく、実名と匿名の違いを理解させ、匿名でも実際には本人を特定できることを体験的に知らせることがねらいです。
児童の人権に関わることなので、チャットを始める前に「相手を傷つけること」、「意味の分からないこと」、「乱暴な言葉遣い」、「汚い言葉を使うこと」はやめようと、それぞれ実例を示して指導しました。また、匿名の書き込みを実名に変換する前に、児童に「実名に書き換えてもかまわないか」と確認を取り、もしひとりでも「いやだ」と言う児童がいれば実名には書き換えないつもりで授業に臨んでいます。
日経新聞の記事が一人歩きして、教師による児童へのだまし討ちの授業のような印象を与えてしまって多くの方に心配をおかけしましたが、実際にはそのようなことはありません。この授業のせいで学級内でいじめが起きたり、人間不信が生まれたりするようなこともありません。附属小学校のスタッフの皆様や何より子どもたちや保護者の皆様の名誉のために、あえてこのような場で実名で発言させていただきました。
読んでいただくとわかるように、2ちゃん、まとめサイト、私の増田などを大いに騒がせたような「事実」はほぼ無かったと、日経記事での報道内容をほぼ全面的に否定している。具体的に、記事と異なる点をあげると下記のとおりだ。
記事の引用箇所たった185文字の中に、当事者の話と異なる点がこれだけあることが驚きだ。
このお返事をいただいてすぐ記事の内容について日経に問合せたが「新聞社の原則として、特定の記事に関して個別に見解を表明するというようなことは致しかねます」ということで、返事は得られなかった。
ここまでが一連の流れである。よければもう少しお付き合いください。
そしてもし気が向けば、この増田をブクマしていただけると嬉しいです。
《本授業について現状での自分の考え》
ここで「日経記事は間違いだった!」と短絡するつもりはない。
しかしながら、石原教授の主張には、名前を出して掲載することを許可いただいた時点で一定の信頼性が担保されていると考えてよいだろう。
もし主張に間違いがあれば、もっともダメージを受けるのは石原教授だからだ。
元増田で「日経記事をうけてJ-CASTが小学校の教頭にインタビューした記事がある」ことをブコメで示唆してくれた人がいた。
そのとき私はJ-CASTの記事は、授業の具体的内容や日経記事の誤りについて指摘していなかったし、学校を代表して教頭が当たり障りのないコメントをしているのかな?程度の印象しかもたず、判断保留としながらも、日経記事に重きをおきたい旨を書いた。
しかし上のような状況で、明確に日経記事を否定された今となっては、まったく逆の心証を抱いている。
仮に記事中に事実と異なる記述がなかったとしても、それでもまだ問題がある。つまり、チャットで児童の実名を出す前に確認をとったことを書かず、事前に説明や指導がなされたことも書かず、私も含め多くの人に授業方法に問題があるかのように錯覚させる記事となった。
まとめるとこうだ。日経はこの授業を実際に記者が見て取材することをせず、事実ではないことを書いた可能性がある。また、授業の説明として必要と思われることを書いていない。その結果、岐阜聖徳学園大学附属小学校の指導者、児童はじめ、関係者の名誉を損ねたおそれがある。
石原教授には、上に紹介したメールはもちろんのこと、その前後のやりとりにおいても真摯に対応していただき、大変感謝しています。にも関わらず、この投稿が遅くなってしまったことをあらためて、お詫びします。
なお、この増田記事自体が「石原教授」自身が自演で書いているのではないかという勘ぐりもあろうが、冒頭の元増田にこの記事へのリンクを貼ることでその可能性は排除できると考えている。
《あの記事が出た時点でなにができたのか?どうすべきだったのか?》
例によって長くなったがここまでで書くべきことは書いた。
ここからはおまけみたいなものだが、自分にとって必要なことなので書いてみる。
まずは結果として事実でないかもしれない記事を元に増田に投稿したことについて。
一般的に、新聞記事を元にネットであれこれ議論するのは、それが匿名の増田のような場所であっても、それほど不当なことではないだろう。
もちろん誹謗中傷が含まれるのは論外だが、そうでなければ一次情報に当たらなかったからといって非難されることはないように思う。
その上で書くが、もうすこし慎重になることはできた。
実は投稿する前に、記事の真偽について吟味する手間を省いたことを認めないといけない。
俺はあの日経記事には、そのまま鵜呑みにしてはいけないサインがあったと思ってて、俺はそのサインに気づかないふりをして増田を書いた。そこを今反省している。
サインというのは石原教授も触れている「5分で誹謗中傷が増え始めた」というくだり。ここはブコメで指摘している人もいたが不自然だ。普通に考えると5分で誹謗中傷が「増え始めた」と表現できるような状態になるとは想像しづらくて、記事の表現に無理があるように思える。
だからといって他の部分まで「嘘」とはいえないが、記事の信憑性に疑問を持つことはできたかもしれない。そして増田への投稿をやめようかとブレーキをかけるくらいのことはできたかもしれない(ただそうすると小学校に問い合わせることもしなかっただろうし、結果としてこの記事の信憑性についてより深く疑問をいだくこともできなかった)。
次に、やはり避けて通れない日経の取材について。これはちょっと分からないところがあるので、もし知っていたら教えて下さい。
石原教授の言葉が事実だとした場合、今回の記事がこの記者の個人的な失策で、かつ、普通ならまず起こりえない失策あることを願います。
さらに余談を重ねる。
事実ではないかもしれない記事をベースに騒いでしまったという反省はありつつも、今回の件を通して自分なりに子どものネット教育について考えを深めることができた。俺自身は教育者ではないが、親としての意見だ。書いてあることはたぶん色々なところで言われていることの焼き直しみたいな内容になっていると思うのであしからず・・・。自分の考えを整理するために書いています。
このような状況下で「失敗を通して学ばせる」というのは少々乱暴な話で、失敗の程度は大人が積極的にコントロールすべきだろう。いくら野球が大好きでも、小学生をメジャーリーグの試合に出場させたら命の危険にさらされる。成長度合いに応じてステップアップさせるのが最善なのは言うまでもないことだが、なぜかネットの話になると「とりあえず放り込んどけ」みたいな論がまかり通る。それは大人が責任放棄していることだと気が付かないといけない。
などなど、個々の家庭レベルでもやれることはたくさんある。
ちなみに中学生(高校生、大学生)になるまではスマホもケータイもPCも触れさせないという選択もありそうだし、実際やっている家庭もあるだろうが、それだと子どもにネットとのつきあい方を教える機会を持てないし、やっぱりネットを正しく使って欲しいという気持ちがあるので、小学生のうちでもどんどん使えばいいと思っている。
《日本経済新聞社へ》
返事ください。
一眼カメラでも一眼「レフ」カメラでもどっちでもいいけど、機械はすべて設計時にどういう操作を受け付けるか想定して作られているのだから、それを理屈としてまず知っていないと、使いこなせるわけないじゃん。
だいたいそうでなくても『撮れなかった』ってことは、そんな機械とそんな知識しか準備できていなかったそいつの責任である。一眼カメラでも一眼「レフ」カメラでもなかった時期に撮れてた写真だって、マグレや独りよがり(=認知の歪み)以外で撮れてたかどうか疑わしいね。
百歩ゆずって感性だけで撮れると自称する人がいるとして、そういう人物は凡人の想像もつかない高速度で演算処理をこなしているだけで、やらなきゃいけない処理作業は凡人といっしょ。
まあ、トイカメラなんちゅーもんで一期一会を楽しむとか称して、それこそマトモに記録しときゃあソイツの人生に一回しかない瞬間の貴重な記録を取り返しのつかない児戯に加工して悦に入っているやつらとおんなじ次元で過ごすなら以上のことは雑音と聴き流してくれていっこうにかまわんが。
(そのかわりあとで泣いて来られてもオレは嗤うだけだ)
Studygiftの騒動で、家入氏について思うのは、彼はあんまネットみてないんじゃないかな、ということだ。そのくらい、ネットの空気感に対して鈍感になっているのを感じた。
まず最初に坂口を起用した点。「はあちゅう」的存在感全開の坂口を看板に建てるあたり、完全にネットの空気に対して鈍感になりはじめているとしか思えない。昔の家入氏ならその坂口的存在感をこそ笑っていたし、そういうネットゴロに対する健全なアンチ精神があったと思う(例えば夕日ばっかり投稿するサービスを作って、実は顔のアイコンだけで人気が決まるランキングを作るとか)。それと特に昔から面白くない(けど小中学生に人気があるから人気がある人に見えてしまう)ヨシナガ氏をプロデューサーにするとか、ほんと周りに人材いないんちゃうんかと思ってしまう。
こういう、実は「実は特に人気もないんだけど、フォロワー数や話題性で人気者風に見える人」をピークから遅れて起用するのはたいてい「数字しか見ていない業界人」の仕事(名前も聞いた事ないアフェリエイトの達人みたいなのが、さも有名人のごとくテレビに出ているときに感じるアレ。業界の中にいない人が業界を描こうとするときに生まれるあの周回遅れ感)そのもので、家入氏のアンテナの感度の低さを顕著に感じる。
(百歩ゆずってもし今回、坂口に寄付金を集めるのが本当の目的だったとすれば、先に適当な学生を何人か建てて、寄付を集めて、その後で坂口を登場させるべきだろう。)
いや、むしろ彼がそういう日本的なウェブ空間、業界のしがらみからあえて鈍感であろうとしているのも分かる。そういう異端児キャラを彼は自分のアイデンティティにしようとしているから。
ただそれならば、せめてその「あえて」感をこそ出すべきで、このやり方ではバカは騙せても、ネットの中枢にいるギーク層、論客層、はてな層、2chらーなど、「ラウドマイノリティ(少数だが影響力の強い人々)」にたたかれるのは、必然であったと思う。そこら辺を納得させる/牽制する要素が、サービスの中に何もなかったことに正直驚いた。(その辺り、ひろゆきなんかは周到に、馬鹿相手に話しつつも、常にその後ろ側にいる玄人ユーザーへの目配せを忘れていないし、はてなは逆にそこから抜け出せないんだが)
昔の家入氏はバカを装いつつもコアな部分でネット好きというのがよく伝わってきたからこそバカからもギークからも愛されていたと思う。そういう空気にきちんとリーチしたものが、ペパボ以降の彼からはまるで感じられなくなってしまった。
自分は20代で、バスでシルバーシートに座ってたんだけど、よくいる「お年寄りには席を譲りましょう」という小学生でも分かる理論を言われたので、「すわりますか?」って聞いたら「いや俺はいいよお年よりに席を譲れ」うんぬんいってきた。 自分はそもそもお年寄りじゃなくても席を譲る、何か事情があるんだろうと察する。シルバーシート以外の普通の席に座っていたとしても席を譲って欲しいと言うひとがいたらもちろん譲る。しかしなにも言ってこない人に席を譲ることはしない。その人はすぐ降りるからたってるのかもしれないし、別に座りたいわけじゃないのかもしれない。
で、ここからが本題。今バスの中で立ってなければいけないのは誰のせいか? 目の前に座ってるやつが早く降りれば俺が座れるのにとか思って乗ってるんじゃないか?全然違う、ましてやシルバーシートをゆずっても、一人立って、一人座っただけだから座れてる人数は変わってない。バス会社の幹部社員の給料を下げたらいったいどれだけたくさんの人が座って移動できることだろう。数人の給料のためにどれだけたくさんの人がせまいバスに詰め込まされて、大変な思いをしているだろう。 別に給料を下げなくてもバスに乗ってる人がみんな座って快適に移動できる方法はある。
国からお金をもらうんだ。どうやってもらうのか?。co2排出。30%削減を世界に向けて堂々といってるし、エコカーを増やすエコカー減税をするより、バスの利用客を増やしたほうがよっぽど、省エネなのは間違いない。バス会社の幹部はそれを国に言えばいいのに言わない罪は重い、「co2排出30%削減するためにはもうバスの利用者を増やすのは絶対に必要なことだ30%削減するっていたのはうそか?」と国に言えばいい。バスが増えて渋滞が減ればさらにそこでまた無駄なco2排出はなくなるだろう。バスの利用客を増やすためにはどうすればいいか?、快適に座って移動できれば、利用する人は増えるだろう。バスに1回も立って乗ったことのない国会議員たちにそれを理解させるのはむずかしいか?w 今あるバスは立ってる所を座れるように座席をつけて改造して、さらに台数を増やして新たに作るバスは2階建てで席が沢山すわれるように。それらのお金は国にださせるように。 それを実行することによって他にもいいことがある、立ってた人がすわれると本を読んで勉強したりできる。それだけの時間が生まれる。
この計算はかなり適当だが時間をお金に換算した式、毎日300万人が往復で1時間立っていて、立ってる人の時給の平均が800円だとるすと24億円分もの時間が生まれることになる。もういいことずくめだね。