はてなキーワード: 訃報とは
悲しいような寂しいような、でも忙しくなってだんだんと聞かなくなって、数年前に亡くなってることを知らずに自分は普通に過ごせちゃってたんだからそんなこと思う資格はないような微妙な気持ちを抱えている。
全然登録者いなくて視聴者も余裕で覚えられるような人数の固定面子で今も昔とさして登録者は変わってなかったけど、でも誰より楽しそうだったのにな。中学生の頃死にたいって半分本気、半分ふざけてコメントしたらそんなこと言うなって真剣に怒って考えて何でなん?って聞いてくれたことを覚えてるんだけど、そんな人でも死にたくなってしまうものなのか。
自殺したってのもTwitterに親を名乗る人が〇〇は自ら命を断ちました、今まで息子をありがとうございましたみたいな書き込みがあって、それ以降全ての更新が途絶えてるってだけだから、もしかしたら活動停止って言いづらくて死んだことにしたのかもだけど。残ってた最後の配信動画も見る限り昔と変わらず楽しそうな様子だったし。そうだったらいいなあと思う。
ポエム的な言い回しになっちゃうけど、自分が離れている間も変わらずどこかで普通に生きてて元気にやってるものだと思ってたし、大体の人との関わりで同じことを思っていた。でもたぶん、自分と離れた後で亡くなっていて、それを知らずに自分は普通に生きてるシチュエーションってそんなにレアじゃなくて普通に起きてるものなんだよな。それって知った後嘆いていいものなんだろうか。嘆いていいのって、訃報をすぐに聞ける距離感にいた人間だけなのでは?だってなんとなく懐かしくなって彼の名前を調べた一時間前まで自分は彼の死を知らなかったわけだ。一時間前に何かが起きたわけじゃないのにその瞬間に知ってから勝手に悲しくなっている。訃報をすぐに聞けないほどの距離感にいる人間って言っちゃえばその人との関わりが浅くて知ろうとしていなかったわけで、それなのに死んだと分かった瞬間悲しむのは傲慢なような気もする。だってその人が死んでも何不自由なく知るまで生きてたわけなんだから。
それでもなんとなく重い喪失感がある。ダイパリメイク出るまでは死ねないって言ってたのになあ。もしかしたら実質不老不死かもなって言ってたのにね。勝手なエゴのカスみたいなワガママとしては元気にまだ配信やっててほしかったな
10月半ば、遠方に住む父が突然亡くなったと母から電話。父の遺産は相続しないと生前から決めていたため慌てて「相続放棄」で検索。突然の訃報に動揺していた。
法律の専門家が書いたと思われるサイトをいくつか見たが、これが良くなかった。最初から「裁判所 相続放棄」で調べるべきだった。
https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_13/index.html
1. 被相続人の住民票除票又は戸籍附票 ←故人の最後の住所地を特定するため。最後の住所地を管轄する家庭裁判所が相続放棄申述を受け付ける。
2. 申述人(放棄する方)の戸籍謄本 ←自分と親の親子関係を証明するため
3. 被相続人の死亡の記載のある戸籍(除籍,改製原戸籍)謄本 ←自分と親の親子関係、親の死亡を証明するため
私は間違えて「被相続人の出生時から死亡時までのすべての戸籍(除籍,改製原戸籍)謄本」を裁判所へ送ってしまったが、これは実子が相続放棄する場合には不要と言われ、代わりに戸籍附票が不足していた。確かに裁判所のサイトにはそう書いてあった。よく読めばよかった。初めてのことで動揺していた。
相続放棄は被相続人の死亡を知ってから3ヶ月以内に行わなければいけないが、とりあえず「相続放棄の申述書」と集められるだけの添付書類を先に裁判所へ送り、足りない書類があれば後から追加で提出しても良いそうだ。家庭裁判所からわざわざ電話で教えて頂いた。ありがとうございます。
相続放棄自体、人生で何度も起きるイベントではないだろうが、テンパって不要な書類まで郵送請求してしまったことに落ち込んだ。定額小為替や手数料がもったいなかった。
親の遺産を実子が相続放棄する場合、自分や親の戸籍謄本を郵送申請で取り寄せ、家庭裁判所へ郵送で書類を送っても、定額小為替、収入印紙、切手代など合わせて5千円程度で済みそうに思う。故人のきょうだい、甥姪が相続放棄する場合はもっと必要書類が増えるので、専門家に依頼したほうが早いかもしれない。
遺産は不要なのにこれほど書類を揃える必要があるのか? 面倒だな…と正直思ったが、これで負の遺産がチャラになるなら安いものかもしれない。
高校のとき、一個下の、話したこともなければ顔すら見たことない人が、急な発作で死んだことがあった
べつに特別顔が広かったり生徒会長だったりするわけでもない、普通にバレー部か何かに所属していて、普通に同学年の友達と仲良くしているような人だった、らしい
学校が同じとはいえ顔も知らねえ、声も知らねえ、名前も知らねえ、完全に他人と言っていい
同じ部活の人なんかはまた話が違うんだろうけど、クラスの大部分にとってはまあどうでもいい、知らん人だった
でも、朝、訃報を担任が伝えたときから明らかに空気がヤバかった
休み時間、いつもはうるさいのに、なぜかみんな囁くような声で話したり黙ったりで、妙に静かだった
生前(生前!)親交があったらしい女子が集まって、泣いてんのかなんなのかわかんないが、人だかりを構成しているのを遠目に見て、なにもコメントできないので、俺は黙っていた
昼休みが終わって掃除の時間、俺はそのとき花壇の草取り係だったので、ペアのやつと一緒に外に出た
よく晴れていて、車の通る音なんかも聞こえるんで、教室よりはずいぶん開放感があったし、周りに人があんまりいなかったので、ようやく異様な重苦しさから解放された感じがした
ペアのやつが、ひきつった笑いを浮かべて「今日の雰囲気ヤバすぎるだろ!」と言ってきたのに深く同意したあと、「お前なんとかしろって〜!」なんて言い合って、すこしでも気を紛らわせようとした
あれはなんというか、すごかったな
あれが「喪」なのかもしれないな、と思う
https://www.youtube.com/watch?v=tviCu14gwAo
歌詞の趣旨としては、「いまやおっさんになった我々は、新しい時代に適応していこう!」というところ。
なのだけれど、よくいう「価値観をアップデートしろ」というような乱暴さはなくて、むしろ「おっさん」の生きる実相をすくい上げようとするような歌詞になっている。
まず、冒頭の現状認識はけっこう厳しい。
「自分と向き合う力は衰えた」とあるように、この曲でいう「おっさん」の基本定義は「もろもろの認識を新しくしきれない人」という感じ。
それを自覚したうえで、サビでは「だからこそ更新」とか「素敵に歳をとりたい」という前向きな抱負が出てくる。
これ自体は古来「おっさん応援ソング」として常套句で、とくに岡崎体育が際立っているというわけではない。
この曲の力点は後半にあると思う。
まずこの部分。
蓋をして あの日に埋めていこう
心を込めた タイムカプセル」
「蓋をして あの日に埋めていこう」というのが効いている。
古いスタンダードを「捨てる」のではなく、「埋める」のだ。
この部分はどう読むか難しいけれど、古いスタンダードを「捨てる=放棄する」のではなく、「埋める=一旦保留にしておく」ということ言っているのではないだろうか。
つまり、もちろん新スタンダードの受け入れを推奨してはいて、一番のサビからずっと「更新」という言葉で表されているのだけれど、それは新しいスタンダードが正しいということを意味するのではないぞ、と補足しているのだ。
新旧どちらのスタンダードが正しいかはわからない(それは歴史が決めることだ、というのが「タイムカプセル」という言葉の含意だろう)が、とりあえず古いものは保留にしておいて、新しいものを受け入れようじゃないか、というわけ。
ここまで読んでも、やっぱり説教臭い理想論だなという感じを受ける人はいるだろう。
だが、岡崎体育という人はそのような理想論を理想から現実のラインに墜落させる名手であって、この曲もここでは終わらない。
好かれるような人でいたい
なるべく多くの関係者たちに
「関係者たちに惜しまれながら死ぬ」というのは訃報によくある定型文のようなもので、ここで言っているのは結局のところ「若者に相手にされたい」ということなのだろうけど、それをこの上なく卑屈な言葉で表せるのはすごいと思う。
さておき、PVで見ると最後の全員ダンスは、岡崎体育と同世代の私にとってはすごく懐かしい気持ちにさせられる動きだ。
「ジャカジャカジャンケン」のような動きとか、何歩が進んでハンドクラップとか、もちろん超絶ダサいのだが、思えばこういうアクションは、私たちが幼稚園とか小学生くらいのころには普通におゆうぎのなかに混入していたのである。
埋めておくべき「僕らの時代のスタンダード」のなかには、政治的・社会的な価値観という以外に、身体に刷り込まれてしまったこういう慣習的な動きも含まれているのだろう。
これらを私たちおっさんは「更新」しようと頑張りたいという気持ちはあるのだが、どうやっても追いつかない部分とか、古いものが顔を出してしまう部分があったりするのである。
そういうわけで、歌詞にもあるように、私たちはどうあがいても「明日はもっとおっさん」になってしまう。
前向きソングという体裁で作りつつ、こういうどうにもならない残念さをこっそり混入させてしまうところに、岡崎体育の巧みさがあると私には思える。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.dragonquest.jp/news/detail/3546/
id:oyatsuwakame 差別発言は党派性関係なく批判されるべきだし訃報ニュースに批判を書き込むのも表現の自由。 2021/10/07 15:32
これは本当にそのとおりだと思う。
で、時系列を考えるとこのブコメはおそらく下記のブコメに向けられたもの。
id:casa1908 こんな訃報のブコメでまで党派性をもってして揶揄するようなことを書くのはいかがなものか。この方の思想信条はどうあれ、その功績は偉大なものです。今はただご冥福をお祈りいたします。 2021/10/07 15:23
id:tsukiji3 「はてサが」「ウヨが」「安倍が」←お願いですから、一旦止めていただけませんか。ご冥福をお祈りします。 2021/10/07 15:23
id:casa1908が言っているのは"党派性をもってして揶揄"することに対する苦言で、id:tsukiji3が言及しているのもその具体例。
んで、時系列を考えるとこれらはおそらく下記のブコメに向けられたもの。
id:kuborie 貴重なウヨクメンバーを亡くしました……… 2021/10/07 15:19
id:oskimura はてサはネトウヨって叩くんだよな 2021/10/07 15:15
id:syakinta はてサ嬉ション / ほらね、言ったとおりでしょ 2021/10/07 15:13
これ、本当に"批判"?
すぎやまこういちの言動に端を発する左右間の当て擦り合戦でしかなくない?
id:fellfield LGBTを公然と差別していた人間には追悼の言葉を述べる気になれない。心からの差別感情だったのか軽い気持ちでの発言だったのかは分からないけど、この人の言葉に苦しめられた人々のことを考えると、悼むのは無理だ。 2021/10/07 16:14
こういうのは分かる。
実際、訃報というウェットな場面においては毀誉褒貶のある人の是の部分をもって称揚されることが多くなりがちな一方で、否の部分を改めて提示し、喚起することは重要ではある。
だから、こういうのを「差別発言に対する批判」とするのは分かる。
でも先に挙げた当て擦り群は違くない?
これらに対する苦言もアウトなの?
心よりお悔やみを申し上げます。
その悲しみにくれると共にTwitter見てたらイラッとしてしまったという文章。
本来ならこんな悲しい時にこんなことで怒りをつのらせたくなかった。
逝去と共にTwitterには「ザオリク」のワードがあふれた。
まだまだ元気でいて欲しかった、もう一度ドラクエミュージックを作って欲しかったと言うやるせない想いからのふっかつのじゅもんだと思う。
個人的にはこれを見た時に「茶化すな!」という気持ちが先行してしまったのであまり良い気はしなかった。
が、その人が茶化してるか本気で追悼してるのかなんて文章からは読み取れないし個人の感情でしかないので「氏を追悼する意味でのザオリク」については気にしないようにした。
過去に芸能人が逝去された時だって「生き返ってもう一度共演したい」というようなコメントが同業者から発表されることはあったと思うし、同様のコメントとして殊更問題視すべきではないと思うようにした。
ただしザオリクトレンド入りは受け付けなかった。正確に言うとトレンド入りに対する反応が受け付けなかった。
何が受け付けなかったかというと
「ザオリクw」
みたいな反応が一つ。
「草」とか「吹いた」とか言ってるやつ。追悼の意思ないじゃん。なんで面白がってんの?
「Twitterすご」とか言ってるやつ、何が凄いの?
「故人に対しての追悼への反応がザオリクという氏の関わったゲーム作品によるモノだったため、氏の偉業を実感したから」なのかな?だったらTwitterすごじゃなくて「すぎやまこういちすごい!」だよね?Twitterとか日本国民がすごいんじゃないよね?「みんなでザオリク言っちゃう一体感を感じるからすごい」のかな?ふーん。どっちにしろ訃報に関するワードではしゃいでほしくないですけど。
人の死はお前らの小さな内輪コミュニティに面白ネタを提供するためのものじゃないんだよ?
もう一点は
ユーモアどうこうとか言うやつは「人の死にユーモアを持ち込むことに忌避感を覚える人間がいる」ということを想定して動いた方がいいよ。もし現実社会でユーモア出したら取り返しがつかなくなる可能性あるよ。
エアプ認定勢、なんでそんなレッテル貼りした?気に食わないことあった時にレッテル貼りして正当性主張するのやめた方がいいよ。
お前らが楽しくザオリク祭りしてるところに一丁前に口出して悪かったね。個人の感想でしかないんで好きに「不謹慎厨が!」と叩いてくれ。
【訃報】人気ユーチューバーが肺炎で… 亡くなった後の簡易PCRで陽性
https://news.tv-asahi.co.jp/news_geinou/articles/hot_20210930_140.html
※最初に言っておきますが、お笑い芸人で今はソロキャンプで活躍されてる芸能人のヒロシさんとは別人です。
登録者数17万、サブチャンネル13万の人気、といってもYoutube界は広いから知る人ぞ知るレベルだけれども
話題になったニュースを肴にしてFacerigの和兜かぶった猫が酒飲みながらしゃべる、居酒屋談義のようなチャンネル。
増田は令和納豆の件が炎上してた時に知ってチャンネル登録し、最近ではガンプラ転売ヤーや松戸Vtuberも取り上げていた。
生前の最終動画投稿が9/23で、9/25に警察救急が自宅で死亡確認。
動画の収録は別日で投稿がアシスタントによるものだとしても題材が時事ニュースなのでその差はあって数日。
本当にものの数日で容体急変して亡くなったのだと思う。
コロナ第5波も収束しつつあり病院への入院も可能であろうこの時期になぜ自宅で?という驚き。
血中酸素濃度が入院レベルに低くても本人は意外と息苦しさを感じない場合があったり
一人暮らしだといいよヤバいって時に救援求めるのが難しかったり
病院で確定診断受けるのが怖かったりしたのかな。
ピンチの時には助けに来て、みんなを救って姿を明かさずに去っていく。
かっこいい、そう思った。自分もいつかなれると思っていたんだ、誰かのヒーローに。
でも現実は甘くない、私はヒーローになれなかった。大きくなるにつれて人間にならなきゃならなかった。
私は普通という呪いにむしばまれた、でも幸か不幸か私は容量が良かった。我慢を続けて我慢を続けて、それでも私が生きる意味は少ないけれど確かにあった。
生涯の付き合いになると思っていた、そんな親友で幼馴染の二人が私にはいる。
二人のヒーローに、二人が私のヒーローに、そんな存在だと思っていた。
一緒に過ごすのが本当に幸せだった、それだけでよかった、それだけでよかったのに。
今こうやって文章を書いてどうにかならないかと願って逃げている。救うべき相手から逃げたんだ、私は
今年の五月、精神を病んでいた私に、深夜訃報が流れた。弟から私のヒーローの一人が自殺したと電話越しにそんな言葉が聞こえた。
夢じゃないかと思った、頭が回らない、世界がスローモーションになっていく、思考が沖に逃げていく。
わからない馬鹿なふりをするので精一杯だった、考えたら受け止めなきゃいけない気がしたから。
今涙を流したら顔を合わす時までに自分の心が持たない気がして、そんな気がしてまた我慢した
それでも時は止まらない、葬儀に出席するために色々な用意もあれば、日常も止まってくれるわけじゃない、洗濯しなきゃと喪服を引っ張り出して、洗濯を済ませて取り込んだ時、春の香りがして、もう駄目だった。
涙が止まらなかった、思いが止まらなかった、動けなくなるぐらいその日は泣き続けた。
実家への帰路、バスの中でまた涙が出てきた。人目も気にせずまた泣いた。
葬儀が始まって、亡き骸を見たとき寝てるんじゃないかと思った。本当は質の悪いドッキリなんじゃないかって思い続けた。
それでも時間は進んでいって火葬場に行かなきゃいけなかった。吐きそうだった、世界が歪に見えた。これは夢だからと自分に言い聞かせた。そうしないと自分をだましていないと世界の速度に追いつけなくなっていた。
煙が見えた後、もう一人の幼馴染とふたりで骨を拾った、すべての時間が夢ならどんなに良かっただろうか。
現実感がないまま、時だけが進んで思考が置き去りにされていく。
私は生きる意味が減ってしまった、こんな苦痛を味わって生きた先に待っているものは何だろうか。
時間が解決すると皆が口をそろえて唱える、ヒーローがいない世界で、長い時間をかけて何が解決するんだよ。解決ってなんだよ、人が、私の大切な人が死んだんだ。もう会えないんだよ。
私は救えなかったし、救われなかった。
眠れない日々が続いて、毎晩私は彼への後悔と自分の不甲斐なさにイライラして泣いて朝が来る。
この後の人生、人のふりをしていきていけるといいな。
どういたらいい、教えてくれよヒーロー
ソース:https://www.animefeminist.com/history-not-with-a-bang-but-a-letter-violet-evergarden-rewrites-traditional-world-war-i-narratives/
暁佳奈のライトノベルを原作とする京都アニメーションの名作、ヴァイオレット・エヴァーガーデンがネットフリックスで公開されたとき、初見の私が想像していたのは、Foreignerのヒット曲さながら、愛というものを知ってみたい少女の無邪気な物語だった。まさか号泣することになるとは。
ものの数分でその予想は裏切られた。
この作品は涙なしには観られない戦争ドラマであり、スチームパンクな歴史改変モノだったのだ。しかし、何よりもトラウマにまつわる物語だとわかった。
PTSDの歴史、1900年代初頭の文学作品における定形表現、そして人気ジャンルである「戦争物語」を、本作は、少女兵士を主人公とした上で見つめ直している。第一次世界大戦の歴史、とりわけ女性の歴史を振り返り、再解釈することで、かつての物語に対してフェミニスト的なテーマを根底に据えた新たな息吹をもたらしているといえる。
戦争物語という切り口からヴァイオレット・エヴァーガーデンを解説している人は珍しくない。例えば「Mother’s Basement」というYoutubeチャンネルでは、人情味を持って共感を表現し、ヴァイオレットの成長を描ききったシナリオの妙について見事な考察動画がアップされている。だが、トラウマや障害を抱えた少女が自信を持って活躍できるようになっていく様子や、いかにPTSDがリアルに描かれているかという点については、あまり取り上げられてこなかったように思う。
この点を踏まえた上で、テルシス大陸における戦争のモデルとなった、第一次世界大戦の基本事項を整理するところから始めようと思う。ざっくりと言えば、この大戦は1914年から1918年の間に起こったもので、何がきっかけとなったかは諸説ある。開戦とともに急速に戦火が拡大したけれど、1914年の冬までには終結するだろうというのが大方の見方だった。
その目算が外れたのは言うまでもない。戦争は4年も長引き、フランス、ドイツ、イギリスを中心とした各軍のインフラは、塹壕戦と呼ばれる、この時期に流行した新しい兵器や戦法に対応するための装備が圧倒的に不足していた。
兵士の多くが若く経験不足だったこともあり、戦いは想像以上に過酷なものになっていった。戦争から帰還した兵士たちの間には、「新しい」病気が蔓延した。俗に「シェルショック」と呼ばれ、後に「PTSD」や「PTSS」 (心的外傷後ストレス障害、外傷後ストレス状態)として診断されることになる、「男性ヒステリー」という病だ。
「ヒステリー」とは、当時、性別役割分担に厳格だったヴィクトリア朝時代に用いられた医学用語で、今で言うところの鬱病、不安神経症、心的外傷後ストレスといった精神疾患全般を表すものだったが、適用対象はシス女性がほとんどだった。そのため、「ヒステリー」扱いされた兵士たちは周囲から男失格のレッテルを貼られ、つまはじきにされる結果となった。
兵士だけではない。第一次世界大戦に参加した国々とその植民地は、集団的なトラウマに苦しんでいた。とりわけ顕著なのはドイツで、戦争への参戦とその後の経済低迷の影響から、ナチスの台頭を許すほどだった。フランス、イギリス、ドイツのメディアでは、この大戦は未だ主要なテーマであるし、世界各国の兵士とその家族が残した手紙は今なお読むことができる。
この大戦が世界に与えた影響は計り知れず、文学や歴史、そして現代の戦争にも様々な影響を及ぼしている。だが、ここで重要になってくるのは、戦争にまつわる有名な物語や歴史で描かれるのは男性ばかりなのに対し、本作の主人公であるヴァイオレット・エヴァーガーデンは女性兵士ということだ。
男性ばかりなのは当然、当時の軍隊で中心的な役割を担うことができたのは男性だけだったからだ。例外としては、第一次世界大戦において戦闘に参加した唯一の女性イギリス兵、フローラ・サンデス(セルビア軍所属)や、マリア・ボチカリョーワという若い女性が隊長を務めた、「ロシア婦人決死隊」と呼ばれるロシア軍の小隊などが挙げられる。
だが、第一次世界大戦で軍隊に従事した女性の多くは、戦場で看護師として働くか、工場で働くなどが一般的だった。例えば、アメリカの「ヨーマネッツ」や「ハローガール」と呼ばれる女性たちは、銃こそ持たなかったが、電信技師やカモフラージュデザイナー、魚雷組立工など、幅広い仕事によって戦争を支えた。
軍に従事した女性たちにも多くの物語があったにもかかわらず、戦争物語のフィクション作品はほとんどが男性中心となっている。女性はもっぱら脇役として登場し、戦死した兵士を嘆き悲しんだり、恋人役だったり、あるいは…良からぬことをされる。言ってしまえば、男性キャラクターを成長させるための舞台装置であり、そのためだけに殺されてしまうことも少なくない。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの世界においても、戦闘や戦争は男の仕事であり、女性はもっぱら「受動的」な役割に追いやられている。だが、ヴァイオレットは他とは異なり、女性であるだけでなく、兄ディートフリートから弟ギルバートへ「プレゼント」として押し付けられた「道具」という扱いであることから、注目すべき例外と言える。ヴァイオレットはモノ化されているのだ。殺人こそがヴァイオレットの生かされる理由であり、ギルバートの命令に従うことが唯一の生きる意味なのだ。
こうした虐待と、戦争でギルバートを失ったトラウマ、そして戦場で目にした暴力が相まって、ヴァイオレットは明確なPTSDを抱えることになる。作品を通して、ヴァイオレットは次のようなPTSD特有の症状をいくつも示している。
これらの症状は、娘を亡くして嘆き悲しんでいる作家、オスカーのために手紙を書いた後、はっきりと立ち現れてくる。戦いの中で自分がしてきたことを理解し始めたヴァイオレットは、戦場のフラッシュバックに苛まれ始める。
最終的に、ヴァイオレットはギルバートを探すために戦地を訪れる。ギルバートを見つけられなかったことで深い絶望に陥ったヴァイオレットは、自殺を試みる。退役軍人の自殺リスクは現在も高く、自殺者数は戦死者数を上回っている。
第一次世界大戦の歴史を描いた物語の多くがそうであるように、ヴァイオレットが抱えるテーマも、いかにして心的外傷後ストレスに立ち向かうかという点に重点が置かれている。このことは、作品の構成にも反映されている。
ストーリー序盤におけるヴァイオレットは、戦地での負傷から立ち直ろうとする、感情を失った少女だった。しかし、第7話でホッジンズが警告したように、ヴァイオレットの記憶は「(自身を)燃え上がらせる火」であり、いつか「たくさん火傷している事に気付く」ことになるものだった。そして、ヴァイオレットはそれに気づいてしまう。戦場で過ごした日々を思い出すたび、ヴァイオレットだけでなく、視聴者までもがフラッシュバックを体験することになる。
しかし、「女々しさ」とか「弱さ」といったPTSDに対する従来の見方とは異なり、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはヴァイオレットのシェルショックを丁寧に扱っている。ヴァイオレットが自動手記人形の仕事を通して他人に共感してきたのと同じように、この作品は視聴者にもヴァイオレットへの共感を求めているのだ。
ギルバートの死を否定するのをやめ、自身のトラウマを受け止めたヴァイオレットには、PTSDから立ち直るための長く険しいプロセスが待ち構えていた。トラウマ研究では、これを「心的外傷後成長」と呼び、ネガティブなもの(停滞、衝動的な行動、否定)と、ポジティブなもの(前進、対処法の獲得など)の2種類に分けられる。
ヴァイオレット自身にとっても視聴者にとっても幸運なことに、ヴァイオレットの心的外傷後成長はおおむねポジティブなものだった。自動手記人形として人と一緒に働くうちに、自分の感情を受け入れ、なぜそのような気持ちになるのかを考えて納得できるようになったことで、ヴァイオレットは回復の道を歩み始める。
さて、本作のいわゆる「今週のお客様」エピソードの中には、「戦争で失った恋人を恋しがる女性たち」というお約束的展開をそっくりそのまま踏襲しているものがあるが(OVAがその好例)、一応付け加えると、この展開自体が本質的に悪であると言いたいわけではない。OVAでは、第一次世界大戦中に多くの女性が体験した出来事がリアルに描かれており、膨大な量の手紙が世界各地に送られたという点も史実に忠実となっている(手紙の多くは歴史的資料として残存している)。
しかし、ヴァイオレット自身は、作品を通して、そのような歴史的・文学的な流れに逆らっている。
ヴァイオレットは家に帰ってきたが、想い人は帰ってこなかった。
兵士は、新たな傷を負って帰ってきたのだ。
そして、ヴァイオレットはその生い立ち故に、想い人を亡くしたクライアントと、亡くなった想い人の両者に共感することができる、いわば、境界的な立ち位置の人物といえる。「民間人」と「軍人」、「女性の世界」と「男性の世界」、「家庭」と「軍隊」、そういった境界の中でこそ、ヴァイオレットは真に花開くことができるのだ。
ヴァイオレットの境界的な立場は、自動手記人形の仕事においてユニークな強みとなっている。作中の時代設定と同時期に当たるヴィクトリア朝時代や第一次世界大戦期は、タイピストやゴーストライターになる女性が急増した時期であり、ヴァイオレットも当時の女性たちと同じく、この波に乗っていると言える。
こうした女性たちは、「媒体としての女性」というお約束的表現として文学に登場するようになった。彼女らは、タイプライターや電信機、さらには速記法を用いて、人々の思いを目に見える形にし、様々なメッセージを伝えるという役割を担っていた。哲学者で文学理論研究者のマーサ・ヌスバウムの言葉を借りれば、「目的のために使われる道具」としてモノ化されることも多かったが、家父長制の世界を生きる多くの女性にとって、この種の仕事は、生まれてはじめて主体性を獲得できる場でもあった。
ヴァイオレットの当初の動機は、初めて手にした主体性を社会で活かそうとしたヴィクトリアン朝の女性たちとは若干異なっている。自動手記人形を志したのは、他者を理解したい、そして何よりも、少佐の最期の言葉を理解したいという目標を叶えるためだった。そして、人々の思考や感情の「媒体」としての立場を通じて、自分の感情をよく理解し、虐待やトラウマを乗り越え、主体性を獲得することができるようになっていく。
第一次世界大戦や、そこに至るまでの過程を題材とした文学作品によく見られる、「媒体としての女性」という定形表現とは異なり、ヴァイオレットが主体性を持つことができたのは、その境界的な立場ゆえである。戦争に巻き込まれる家庭の立場、戦争を戦う軍隊の立場、その両者に対して共感、理解できるという強力な武器を生かすことで、戦争をテーマにしたアリアの歌詞を書くために戦死した兵士の手紙を研究したり、嘆き悲しむ父親のために文字通りの意味で媒体となったり、兄弟の絆を取り戻す手助けをしたりと、ヴァイオレットは単に人の気持ちを左から右に渡す中継役ではなく、自らの手で変化をもたらす主体となっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンと史実の違いは、これまでメディア等で描かれてきたタイピストや媒体役の職業人たちが受け身の存在と見なされてきた一方で、ヴァイオレットは周囲の人々の物語に積極的に関わっているという点にある。こうした活動を通じて人々の成長を助けていく中で、ヴァイオレット自身にも成長が見られるようになっていく。
第11話では、その成長がはっきりと見て取れる。過激派の部隊を立ち退け、銃弾に倒れ死に瀕している兵士、エイダンの最期の言葉を記録し、訃報の知らせと最期の言葉を家族の元へ届けに行くという、物悲しいエピソードだ。戦争の両側面への共感を要するこの仕事を全うしたことで、ヴァイオレットはようやく自分や他人に対して素直に悲しむことができるようになる。ギルベルト少佐の死をきちんと悼むことができるようになったのも、ここからである。
単なる道具でしかなかったヴァイオレットが、今や積極的に自らの心的外傷後成長を促進しようとしている。これは、従来の戦争物語や、シェルショックや女性タイピストにまつわる歴史に対する新鮮かつ現代的なアプローチといえるのではないだろうか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは第一次世界大戦に大きく影響を受けており、史実によるものから、文学から引用されたものまで多岐にわたる。PTSDに対する思いやりあふれる描写然り、「媒体としての女性」という定形表現に対する批判然り、この作品は、歴史上の極めて重要な時代—最後の退役軍人が亡くなり、徐々に記憶から忘れ去られつつある時代—との対話の上に成り立っている。
だが、家庭内の物語と戦争の物語をブレンドし、両ジャンルに共通する定番の展開を巧みにひっくり返したという点で、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのファンタジー世界は、オマージュ元の戦争物語と趣を異にしている。スチームパンクなファンタジー世界という舞台の上で、使い古された展開を別な角度から見つめ直すことで、進歩的な物語を紡ぎ出しているのだ。
退役軍人の描かれ方、精神疾患、女性の物語、こうした事柄を尊敬の念を込めて丁寧に扱うことで、戦争やトラウマにまつわる従来の物語をいかに語り直すか、その基準点をこの作品は確立したと言える。戦争やトラウマにまつわる物語も、より包括的で、健全で、私たちに活力を与えてくれる存在たりえるのだ。それが、従軍した兵士や亡くなられた方々に対する、せめてもの追悼でもある。
「戦争は決して変わらない」とよく言われる。だが、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが示してくれたように、その語り方を変えることができるのは確かだ。
#教師のバトン は教師を目指す人に、現役教師が働き方改革の様子を教えてあげる的なタグ。
https://www.mext.go.jp/mext_01301.html
しかしまぁもちろんそんな平和なタグになってくれるわけもない。文科省マターではなく防衛省マターでは?となるほど殺伐とした戦場の墓標となっている。未来の教師が死んでいる。
基本は教師クラスタ内で弔われていたこのタグだが、あの多浪界の名脇役「苦労してます九浪はまい」のツイートによって多浪界にも訃報が走った。
これでもう、学力の培養土たる多浪から教師が生まれることはない。
https://twitter.com/hamaishogo1111/status/1421266953625239553?s=19
教師のバトンはいいぞ。部活などを押し付けられて切実なブラック具合を嘆く若年教員。それをなってないと叱る「校長先生」なるアカウント(もちろん体罰を推奨している)。門外漢の俺が言っても頓珍漢だ。まずはTwitterを開きなよ。そして教育の、つまり未来の死産された日本の、墓標を読んでみてほしい。
事故死なのか自殺なのかは分からない、金曜日の残業中に商品倉庫のリフトから転落、病院に運ばれたものの助からなかった。
「皆さん、暑いと集中力が無くなり、ふとした切っ掛けで大事故に繋がります、気を付けましょう」
そう言って締め括られた朝礼は、故人を思うものではなく、厄介事を起こしてくれるなという釘を刺すためのものに思えた。
しばらく警察やスーツを着た真面目そうな人が度々会社を訪れていたが、しばらくすると落ち着き、リフトの周りに貼り紙とひどく乱雑に柵が作られていた。
彼の死はニュースにも新聞にもならず、葬式は親族だけで行われ、事務所にも落ち着きが戻ったようだった。
僕だけが「俺はもうダメかもしれない」と苦しそうに笑った同僚の顔を思い出しては、いつまでも既読にならない「飲みにでも行こうぜ」というLineの履歴を眺めて、一人拳を握り締めている。
件の漫画を読んだ。もう各所で言われてると思うが、あのラスト、やっぱり僕も例の事件を思い出した。
というのも、僕にも昔から仲の良い、絵を描く友人がいた。2人ともよく絵を描いては学校で見せあった。でも僕は下手糞なので、いつも、君はすごいなと、彼を褒め称えていた。僕はその後、下手は下手なりにもなんだかんだで美大に進んだ。彼は当然、美大に進んだ。だがそれぞれ違う大学に進んだのと、画材を買うために始めたバイトが忙しくなったのとで、その頃から彼とはもうそんなに連絡を取っていなかった。
それから、数年後、ある時間が起きた。クリエイターとして、同じクリエイターが凄惨な目に遭うのは辛い。人の笑顔を生み出す人たちが、どうしてこんな目に遭わないといけないのか。僕はそんなことを考えて、少し暗くなった。
連日、取り沙汰される実名報道の騒動を見ていてもむしゃくしゃする。どうしてそこまで躍起に実名を報道したがるのか。メディアはクソだ。そっとしておいてやればいいのに。
やがて、実名が出始めた。
そこで僕は友人の訃報を初めて知る。
昔はあんなに仲が良かったのに。疎遠になって、久々に名前を聞いたのが、こんな形。
あんなに憎んでいたはずの実名報道問題だが、報道されなければ僕は友人の死すら知ることはなかった。複雑な気持ちを抱えた。
僕は彼の家を知っている。彼が引っ越していなければ今もあの家だ。一言お悔やみ申し上げたかったが、だけども、今頃報道陣に囲まねている家にどうやって顔を出せばいい?
いや、僕も野次馬とそう変わらない。ただ、他人の死に興奮しているだけなんじゃないか?追悼して、自己満足を得ようとしているんじゃないか?疎遠になっていたのに。何を、今更。
そんな卑屈なことを考えて僕は一層暗い気持ちになった。
あの漫画のように、僕に彼を美大に進ませた影響力があったとは思わない。それこそ自惚れだ。彼の方がずっとうまかったから、もともと彼は美大に行っただろうし、良いところに就職しただろう。でも、肩を並べたから、もしかして、なんて考えたこともあったから、今回、ルックバックを読んで、僕が、例の事件を思い出さないはずはなかった。
そして、これが追悼なのか、それこそ、エンタメとして消費しているのか、僕には分からない。
自らの内に感情を抱いていれば良いのに、この文を誰かに向けて書いている今の僕は、やはりエンタメとして消費しているような気もする。
でもあの時、僕は確かに追悼したかった。それは追悼する自分への自己満足じゃないかと指摘されることを何故かあの時は恐れたが、今思えばそんな卑屈なことを考えるのは悲しみで少しどうかしていたのだと思う。今も僕が友人の死に感じる寂しさは嘘ではないし、この寂しさを1人で抱えるには苦しくて、誰かに聞いて欲しい気持ちも嘘ではない。
とはいえ、結局、僕が毎日することといえば、あの漫画と同じように、自分の仕事、創作とまた向き合う他はない。
ただ、その感情があまりにリアルすぎたので、僕は先生もご友人を亡くされたのではないかと思ったほどだった。
陳腐な表現になるが、その複雑な機微をこうして漫画に描ける先生は純粋にすごいと思う。
ご遺族のご迷惑となるといけないので、ほんの少しフィクションを混ぜたが、事件とその感情は現実のものであると最後に書き加えたい。
まだ花を供えに行けてなくてごめんな。
好きなことに文句言うんじゃねえよ
お前あれだろ、いじめられた側に感情移入するタイプのチー牛でしょ?
お前みたいな「○○やらかしたやつの作品は糞、それが好きなお前らも糞」っていうやつ、ひいては「○○という問題を起こしたとこに所属する人間全員同罪」って理論は見飽きたんだよ、ダボが
ってか同じでしょ?書いてる人、ねえ、いつかベルセルク作者訃報の不謹慎ネタ書いた出版社に漫画を一度でも書いたことあるやつは謝罪しない限り全員同罪って言ってたやつと
顔真っ赤の再追記、おまちしてまーーーす♡
言いっぱなしは雑魚だよ?
おいおい、俺は見ないふりかい?
小学校高学年の頃の話で、地味喪女のくせに好きになった初恋の相手は生徒会役員もしていたリーダーシップがありスポーツもできる、まあモテる典型的な男子だった。(以下Aくん)
特別仲が良かったわけではなくて、Aくんは私のことをただのクラスメイトとしか思ってなかっただろうし、告白することなんて一切考えなかった。5年生のときに隣の席になれたときはすごく嬉しかった。
6年生の時も同じクラスで、卒業までAくんと同じ教室で過ごせるなら嬉しいなぐらいの気持ちでいた。でもそこで事件が起きた。
ちょっと本題からそれてしまうけど、私は6年生の時クラス全員から無視されるいじめを受けていた。どうしてそうなったかというと、席の場所で決まる給食当番や掃除当番を決める班分けがあったんだけど、運悪く強気タイプの女子B子と男子C男たちに当たってしまい、地味喪女だった私はそのグループの中でパシリのような役割になっていた。今までも何度かこういうことはあったので席替えまでの辛抱だと思った矢先、飛行機の距離に住む祖父の訃報が入り、1週間ほど学校を休まなければいけなくなった。1週間後学校に戻ってくると、クラスメイトたちが私のことを無視したり、バイ菌扱いしたり、暴言を吐いてくるようになった。おそらくパシリの私が居なくなりいない間にB子やC男達が他のクラスメイトたちにあることないこと吹き込んだんだろう。私はクラスに1人も味方が居なくなった。
もちろんAくんも私のことをいつのまにか嫌っていた。クラスメイトからの毎日の扱いのほうがしんどくて好きな人に嫌われたショックなんてもうなかった。
それでも私はAくんのことが好きで、卒業なんてすぐだしと意地で学校に通い続けた。この気持ちは墓場に持って行こうとしていたのに、
あるとき私がAくんのことを好きという情報がAくん本人に流れてしまった。
いじめ被害に会う前、私は当時友達だったD子にだけ話していた。私は誰にも言わないつもりだったが好きな人居ないの?○○は?××は?と消去法で尋問されAくんの名前を出されてうそがつけずにバレてしまった。
D子はクラスが違うので、いじめを受けた6年生のときにはあまり関わらなくなっていたが、漏れたとしたらそこからだろう。
本人にバレたのは放課後だったけど、嫌いなやつ(私)に好意を持たれていたと知ったAくんはショックだったのか号泣しながら帰宅してた。そりゃ小学生だったらいくら男でもいやなやつに好かれてたら泣くよな、ごめんな私のせいで