件の漫画を読んだ。もう各所で言われてると思うが、あのラスト、やっぱり僕も例の事件を思い出した。
というのも、僕にも昔から仲の良い、絵を描く友人がいた。2人ともよく絵を描いては学校で見せあった。でも僕は下手糞なので、いつも、君はすごいなと、彼を褒め称えていた。僕はその後、下手は下手なりにもなんだかんだで美大に進んだ。彼は当然、美大に進んだ。だがそれぞれ違う大学に進んだのと、画材を買うために始めたバイトが忙しくなったのとで、その頃から彼とはもうそんなに連絡を取っていなかった。
それから、数年後、ある時間が起きた。クリエイターとして、同じクリエイターが凄惨な目に遭うのは辛い。人の笑顔を生み出す人たちが、どうしてこんな目に遭わないといけないのか。僕はそんなことを考えて、少し暗くなった。
連日、取り沙汰される実名報道の騒動を見ていてもむしゃくしゃする。どうしてそこまで躍起に実名を報道したがるのか。メディアはクソだ。そっとしておいてやればいいのに。
やがて、実名が出始めた。
そこで僕は友人の訃報を初めて知る。
昔はあんなに仲が良かったのに。疎遠になって、久々に名前を聞いたのが、こんな形。
あんなに憎んでいたはずの実名報道問題だが、報道されなければ僕は友人の死すら知ることはなかった。複雑な気持ちを抱えた。
僕は彼の家を知っている。彼が引っ越していなければ今もあの家だ。一言お悔やみ申し上げたかったが、だけども、今頃報道陣に囲まねている家にどうやって顔を出せばいい?
いや、僕も野次馬とそう変わらない。ただ、他人の死に興奮しているだけなんじゃないか?追悼して、自己満足を得ようとしているんじゃないか?疎遠になっていたのに。何を、今更。
そんな卑屈なことを考えて僕は一層暗い気持ちになった。
あの漫画のように、僕に彼を美大に進ませた影響力があったとは思わない。それこそ自惚れだ。彼の方がずっとうまかったから、もともと彼は美大に行っただろうし、良いところに就職しただろう。でも、肩を並べたから、もしかして、なんて考えたこともあったから、今回、ルックバックを読んで、僕が、例の事件を思い出さないはずはなかった。
そして、これが追悼なのか、それこそ、エンタメとして消費しているのか、僕には分からない。
自らの内に感情を抱いていれば良いのに、この文を誰かに向けて書いている今の僕は、やはりエンタメとして消費しているような気もする。
でもあの時、僕は確かに追悼したかった。それは追悼する自分への自己満足じゃないかと指摘されることを何故かあの時は恐れたが、今思えばそんな卑屈なことを考えるのは悲しみで少しどうかしていたのだと思う。今も僕が友人の死に感じる寂しさは嘘ではないし、この寂しさを1人で抱えるには苦しくて、誰かに聞いて欲しい気持ちも嘘ではない。
とはいえ、結局、僕が毎日することといえば、あの漫画と同じように、自分の仕事、創作とまた向き合う他はない。
ただ、その感情があまりにリアルすぎたので、僕は先生もご友人を亡くされたのではないかと思ったほどだった。
陳腐な表現になるが、その複雑な機微をこうして漫画に描ける先生は純粋にすごいと思う。
ご遺族のご迷惑となるといけないので、ほんの少しフィクションを混ぜたが、事件とその感情は現実のものであると最後に書き加えたい。
まだ花を供えに行けてなくてごめんな。