https://www.youtube.com/watch?v=tviCu14gwAo
歌詞の趣旨としては、「いまやおっさんになった我々は、新しい時代に適応していこう!」というところ。
なのだけれど、よくいう「価値観をアップデートしろ」というような乱暴さはなくて、むしろ「おっさん」の生きる実相をすくい上げようとするような歌詞になっている。
まず、冒頭の現状認識はけっこう厳しい。
「自分と向き合う力は衰えた」とあるように、この曲でいう「おっさん」の基本定義は「もろもろの認識を新しくしきれない人」という感じ。
それを自覚したうえで、サビでは「だからこそ更新」とか「素敵に歳をとりたい」という前向きな抱負が出てくる。
これ自体は古来「おっさん応援ソング」として常套句で、とくに岡崎体育が際立っているというわけではない。
この曲の力点は後半にあると思う。
まずこの部分。
蓋をして あの日に埋めていこう
心を込めた タイムカプセル」
「蓋をして あの日に埋めていこう」というのが効いている。
古いスタンダードを「捨てる」のではなく、「埋める」のだ。
この部分はどう読むか難しいけれど、古いスタンダードを「捨てる=放棄する」のではなく、「埋める=一旦保留にしておく」ということ言っているのではないだろうか。
つまり、もちろん新スタンダードの受け入れを推奨してはいて、一番のサビからずっと「更新」という言葉で表されているのだけれど、それは新しいスタンダードが正しいということを意味するのではないぞ、と補足しているのだ。
新旧どちらのスタンダードが正しいかはわからない(それは歴史が決めることだ、というのが「タイムカプセル」という言葉の含意だろう)が、とりあえず古いものは保留にしておいて、新しいものを受け入れようじゃないか、というわけ。
ここまで読んでも、やっぱり説教臭い理想論だなという感じを受ける人はいるだろう。
だが、岡崎体育という人はそのような理想論を理想から現実のラインに墜落させる名手であって、この曲もここでは終わらない。
好かれるような人でいたい
なるべく多くの関係者たちに
「関係者たちに惜しまれながら死ぬ」というのは訃報によくある定型文のようなもので、ここで言っているのは結局のところ「若者に相手にされたい」ということなのだろうけど、それをこの上なく卑屈な言葉で表せるのはすごいと思う。
さておき、PVで見ると最後の全員ダンスは、岡崎体育と同世代の私にとってはすごく懐かしい気持ちにさせられる動きだ。
「ジャカジャカジャンケン」のような動きとか、何歩が進んでハンドクラップとか、もちろん超絶ダサいのだが、思えばこういうアクションは、私たちが幼稚園とか小学生くらいのころには普通におゆうぎのなかに混入していたのである。
埋めておくべき「僕らの時代のスタンダード」のなかには、政治的・社会的な価値観という以外に、身体に刷り込まれてしまったこういう慣習的な動きも含まれているのだろう。
これらを私たちおっさんは「更新」しようと頑張りたいという気持ちはあるのだが、どうやっても追いつかない部分とか、古いものが顔を出してしまう部分があったりするのである。
そういうわけで、歌詞にもあるように、私たちはどうあがいても「明日はもっとおっさん」になってしまう。
前向きソングという体裁で作りつつ、こういうどうにもならない残念さをこっそり混入させてしまうところに、岡崎体育の巧みさがあると私には思える。
それさあ 「おっさんのくせに若いのに混ざろうとするのはキモい」って言われるやつじゃん あほらし
KKOは黙ってろよ 教祖様みたいな陰キャにシンパシー感じててうぜぇ出てけ