はてなキーワード: 絵画とは
そういう理論で行くならわかるんだよ
ただそれは「よその国にはカジノがあるからうちにも作ろう」「よそのメーカーがソシャゲで儲けてるからうちも参入しよう」といった「隣百姓」的発想と同じなのか、それとも何が違うのか、きちんと説明してもらう必要があるけど
ソシャゲで言えば駄作がいくつできて損してもFGO級のヒット作が出ればおつりが来るかもしれないけど、そこまでの長期的な損得とか、そもそもヒットする前に会社潰れないのかとか、そういうのちゃんと考えた上でモノ言ってるんだろうか
だいたい、バブルで絵画とか買い漁った連中や、ふるさと一億円で変なもの作った人らと何が違うのか、もういろいろと疑問に思わざるを得ない
実際そこまで考えてなくて、単に自分のお気に入りだから「基礎研究は今すぐ成果が出ないけど俺が必要だと思うからいくらでも予算ジャブジャブしろ」みたいな、単なる信仰の一種でしかないんじゃないのと言いたくなるわけ
げーじつをアートと言い換える時点で削げ落ちてはじめっから論点があさっての方向をむく大きな誤りがひとつあります
すごい絵画をどこで書いても1円にもならないというのはそれはそういうもの
ダイヤモンドも地中にうまっているものを価値をつけて流通なんてしてない
ダイヤモンドをだれが作ったかはしらないけれども それを掘り起こした人間や
表現の不自由展騒動がきっかけなのか、最近「アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。
とりあえずポリティカルなことや特定の展覧会や人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違いを淡々と正してみる。
文章が読めない人向けに繰り返すが、別に「表現の不自由展」など特定の展覧会や作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート・芸術」に対する先入観について語っている。
前史時代から近現代に至るまで、金銭や作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれた芸術作品や芸術家はいない。
「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族や王族の庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品がメディチ家の庇護のもと、もしくは依頼で作られている。
モーツァルトのようにフリーの音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。
現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。
こちらは王政・封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。
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政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位でアーティストを雇い、パブリックアートの制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である。
因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックやベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動がバンバン興った。
それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代の前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界のアート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本の美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。
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一方、プロパガンダ芸術で有名なのは、ソ連やナチスなど。政府の意向や政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品は政府の思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。
上述した政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。
ただ、これらの政府の体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。
あくまで個人的な見解だが、プロパガンダ芸術はその性質上大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。
なお、これらの国では、現代アート・前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧の対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストがアメリカに渡り、祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。
上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。
だが「20世紀を代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。
現代であれば例えばバンクシーは思いっきり政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。
文学・音楽・映画にだって、政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。
「政治色をもつ作品はアートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。
むしろ、現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族や王族むけに作品を作っていた。そもそもが一般大衆向けの芸術ではない。
同時代の大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人が酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎やケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術のほとんどは淘汰されている。
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今現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキーやジョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったことだってある。
これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆の感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展の花形だし、ストラヴィンスキーはバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさんは美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆の感覚はあてにならなくなる。自分の感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。
かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ。
この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドとキッチュ」っていう論文が分かりやすい。
この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆の感覚と芸術作品の価値の乖離について論じている。要するに、「大衆に迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。
80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話や聖書の出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。
実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実の女性の裸を描くなんて、淫猥である!不道徳極まりない!下品なメスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。
しかし、どちらの作品も今やマネの代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代の芸術家からはオマージュの対象とされるような絵画として扱われている。
一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象は枚挙に遑がない。
簡単にいえば、写真が実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真と絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。
で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌやピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法は写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画だからこそできる表現」というものが重視されていくようになった。
そして「じゃあ絵画の価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート。特に後者の現代美術への影響は色濃い。
もちろん、写真のようにリアルな作品に価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアル」であるかどうかとは別の土俵で表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。
分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。
文章中でも少し触れたが、アメリカや中国、欧州と比較すると日本の美術市場はかなりちっぽけだ。国内でアートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府が美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在のアメリカの立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。
アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。
懸賞に半年間応募し続けた結果 https://anond.hatelabo.jp/20170108040330
私も上の増田のように、実家で大量の切手やはがきを手に入れた。どうしても参加したい懸賞に少しはがきを使ってはみたが、懸賞が趣味の人レベルではがきを使うのは時間もはがきも切手ももったいないと思う。自分が心から「これは絶対に欲しいな」と思うものの懸賞に参加することには価値があるが、わざわざクロスワードパズルの雑誌を買ったりとか、懸賞がしたいがために欲しくもないものを買いだめしてしまうとか、そこまで欲しくもないものの懸賞に、はがきや切手を消費したいがために参加するのは無駄なことだと思う。
私は手紙を書くことが好きなので、切手は手紙で消費しようと思う。ゆうパックで使うのもいいと思う。はがきは手数料を払えば切手に交換できる。
家族がときどき切手が必要になるときがあるので、そういうときには私に声をかけてもらう。
私は切手が好きで、昔の切手や現代のグリーティング切手を眺めてニヤニヤすることが楽しい。しかし、切手は金券なのに消費せずに小さな絵画、小さな写真として鑑賞物にしてしまうのは強い抵抗がある。
昭和の時代から切手を収集する切手コレクターが、切手コレクションを遺したまま亡くなりそれを受け継いだ人がヤフオクや古物商に切手を出していることにアホらしさを感じる。あの世に切手を持っていくことができなくて、切手を売却することでしか価値を見いだせない人の手に渡ってしまった。
平成、令和の切手を集めている切手コレクターもいるが、切手をただ持っているだけというのは無駄なことだと思う。
私は切手好きではあるが、根本的には他人に手紙を送ることが好きなので切手はコレクションではなく消耗品として使いたいというこだわりが強い。
金券である切手を使わずにずっと手元に持ち続けるというのは本来の切手が持つ役割に反している。
郵便局としては、自社が発行した金券である切手を使わずに大事に保管してくれる消費者は都合の良い金づるだ。天皇陛下即位記念切手をたくさん発行して、切手収集目的のコレクターに買わせたり、アニメやゲームとコラボしてグッズ収集目的のオタクにはがきや切手を買わせたり、
切手を収集するのも、使用するのも、金券ショップに転売するのも、古物商に売り付けるのも、オークションに出品するのも、個人の勝手だけれども、
私はやっぱり切手は郵送料として使いたい。それが切手の本来の役割なんだし。郵便物が好きだから切手を封筒やはがきに貼ることで消費したい。かわいい切手や綺麗な切手を貼って、1人でほくそ笑みたい。
こんな私だが、実家から平成天皇陛下即位記念切手がシートで出てきたときには、動揺した。これは、もったいなくて使えない、と。切手商に持っていけば額面より高く売れるのではないかと思った。私も見返り美人レベルのむちゃくちゃレアな切手を手に入れたら普通に使うよりは売って現金化したいという俗な考えを持っている。
調べてみると、現代は切手の価値が下がっており、見返り美人や月に雁レベルの昔のレアな切手なら高く売れるが、平成に発行された程度の切手がものすごい価値を持つのはないとのこと。
これを売ったとしても額面より数百円、数十円高く売れるか、もしくは額面通りか。自分で買ったわけではない珍しい記念切手を前にして、葛藤したが、私はやっぱり記念切手も普通に郵送料として消費してしまおうと思った。
切手収集ブームの時代を知っている人、切手が好きな人に送る手紙に記念切手を貼って、「わぁ、珍しい切手を使っているね」とでも思ってもらえれば万々歳だ。まあ、何とも思われなくても別にいい。
今月にまた天皇陛下即位記念切手が発行されるので、切手好きとして欲しいなぁと思ってしまったが、手持ちの在庫の切手がたくさん溢れてるから新しい切手はもう買わない。切手が足りなくなれば、大量のはがきを切手に交換してもらえばいいし。
やっぱり切手は大事に保管しておくのではなく、封筒やはがきにはったり、ゆうパックに使ったりして、郵送料として消費していくのが一番いいなって思う。切手は金券として活躍してもらいたい。
とてもいい曲である
自分は熱心なファンではないのだが、この曲はとても心地よいメロディで気に入っている
以前知り合いに「エイリアンズってゲイのこと歌った曲なんだよ知ってた?」と言われ、へぇーそうなんだとなった
これを後日キリンジの熱心なファンの知人に「エイリアンズってゲイのこと歌った曲なんですか?」と聞くと激怒して否定された
お前な、そういうこと言うんじゃねえぞと
そういう意見はインターネットでよく見られるがお前のような浅いファンにキリンジの曲が理解できるのか?深く知らないくせに適当に仕入れた知識をファンにぶつけてくるな、こっちは何年もファンやっててお前よりキリンジを理解してるんだと言われた
はぁそうですかという感じでしかないのだが、何故そんな激怒するのかが納得いかなかった
自分の認識では音楽というものは芸術でありアーティストの自己表現だったりするので、例えば絵画を見た時に受け取る印象が人によってそれぞれ違うのと同じで、音楽もそうあることが普通だと思っていたので、堀込泰行さん本人から怒られたならどかく一ファンにそこまで怒られて解釈を否定されるのはなんとなく腑に落ちない
まぁ俺の持論でもないし人から聞いただけの解釈なので俺もそこまでなのだが、なんとなくやっぱり納得いかない
正解は別になんでもいいのだけど、こうやって熱心なファンが作品の解釈を決めつけて否定または肯定することにかなり違和感を覚える
うーん、、、単純にその知人がゲイに対して好意的でない人なのかもしれないなと思ったりしたが、そしたらそれはそれで差別的だしなあ
という感じです
一言でIQテスト、というが信頼性の高いきちんとしたものならWAISを受けているはず。なのでこれを前提に進める。
数字で170、とか最終的な結果が出るのでそれに踊らされがちだが、そこは重要ではない。
IQは言語性と動作性に分けられ、さらにそれぞれの中で細分化して評価される。
動作性の下位項目として絵画完成・行列推理・積木模様・符号・・・など
これらの結果を因子分析することで言語理解・処理速度・知覚統合・作業記憶の4因子が得られる。
この各項目や因子もそれぞれIQと同じように100を平均とする正規分布に則った数字で結果が得られるのだが、
各項目間や各因子間の高いものと低いものの差が20以上あると基本的に信頼性が無い。
つまり、「あなたは得意な苦手なものの出来具合の差が一般人レベルじゃないですよ」ということになる。
類推能力が凄まじいけども、赤信号を見て止まれ、とか危険とかイメージがピンとこない人だとか、
耳で聞いたことを覚える能力はすごく高いけども、数と数の関係がピン読み取れない人だとか、そういうバランスの悪い人だということになる。
そして、社会生活に不便さを感じて精神科や心療内科、カウンセラーなどの受診をしている人がこの検査を受けた時、各項目や因子間の差が30以上だったとき
IQ120以上の人のかなり多くは項目間や因子間に差がある。
元増田の170という数値も、各項目で見れば180のものと、130のものがあるかもしれない。
一般的な平均から見ると130も素晴らしいんだけど、社会生活に不便さを感じて受診する人であれば発達障害とされることがある数値なんだ。
いやだってお前、わからないんじゃなくて拒否してるだけって自分で言ってる
「こんな風に、皆がそう思っていることが、僕にはそう思えず、常識についていけないことがよくある。」
皆はそう思っている、というデータを提示されてもそれをストックする習慣がない
あと「何も考えずに常識通りに行動できる」という言いぶりに滲む見下しは、この先足を引っ張るなと思った。
お前みたいなやつほど大事にしなければいけない概念が「みんな そんなに バカじゃない」と「みんな けっこう 考えてる」だ。
「常識の箱」と「自分の意見の箱」をもっていて、おそらくお前よりも中身がたっぷりはいっていて
この場面ではどっちを使えばどうなるか、という結果もそこそこの回数試している。
(なんでそういえるかと言うと、相手の口の堅さや価値観を信用しあい、腹を割って話せるようになると
会話に後者の自分の意見の割合がどんどん増えるからだ。それをお前が経験で知る機会がないってい事はつまり、…と心配してる)
実際スポーツマンの友人とそうじゃない友人がどちらもちゃんと数がいて、おおまかな傾向を肌身で知っているから、サッカー選手は…と言うんだよ。
もちろんそんな傾向も国や時代でかんたんに変わる。
じゃあここではどうするかというのをみんな「常識」のほうから取り出して
「2019年の新卒採用において、」という条件を足して考えだす。
つまり日本の、自分の世代の経験できる範囲で答えていいことだって判断を最初に済ます。
お前はきっとそこで「国や時代でかんたんに変わるじゃん」から動けないんだよねえ…。
というように
お前は常識の箱に入れるべきものを価値がないって捨ててきたから中二なんて言われてしまうんだよ。
中二の特徴がそれだから。
自分の意見の価値を高めたくて、雑で楽な方法として、常識を価値を下げようとするんだよな。
「常識」と「自分の意見」をどっちも持っているけれど最後の最後に後者が捨てられないタイプなので覚えておいて。
ガリレオが天才なのは「常識(先人の知恵・知識)」を同時代のだれよりも叩き込んだ上で「自分の意見」を最後まで持ち続けたから。
ピカソが天才なのも「常識(その時代のセオリーの絵画)」を14歳でその道50年の人間より上回った上で「自分の描きたいもの」につきすすんだから。
前者を大切にする人を「何も考えず」という自分のほうが、実はそう思われてるかも、くらいの発想を、20になる前に持てたら、まだ希望はあると思う。
表現の自由界隈「リベラルは過去にオタク表現を批判したから、津田大介への犯罪予告は自業自得」→普段は「表現の自由は批判されない権利じゃない」と言っているのに、それってダブスタじゃないの?
https://togetter.com/li/1383977
ネトウヨが津田大介氏の挑発に乗って、例のイベントを潰して、逆に策略が成功して以来、ブサヨ側が頭に乗りまくっているね。
今回、晒上げられて、揚げ足を取られている方々は個人的にも嫌いな人間もいるけども流石にこの纏めた方自体、悪意を感じるし、このバッシングしている連中はオタクはエロコンテンツしか守らないとか表現の自由戦士とか煽って、見下していたからこそ、逆にオタク層に愛想つかされた事にも気づかないのは皮肉としか言いようがない。
オタクは票にならないとか当時、軽く見ていたのは当時の与党側だけではなく、野党側でもあったのは今彼らのこう言う行動をみても良く判るよ。
そりゃ口先だけではなく、地味に落選中も活動していた山田太郎氏に54万票を持っていかれるよ。
嫌な言い方だけどな。
エロコンテンツ等のバッシングの手法自体、それこそ自民党が当時行った児童ポルノ禁止法や都条例でのやり口で、彼らオタクがその手の嫌がらせを受けて、散々嫌な目を見てきたんだよ。
それは彼らが最も嫌がる行為だよ。
そして今まさにリベラル側がポリコレ棒をもって、それでどつきまわしている事にすら、このからかっている連中は気づいていないのだから救いようがない。
いや、今ポリコレ棒ぶん回している連中は判っていてやってそうだけどもな。
こんな嫌がらせの様な行為をしてきて、野党の票が伸びるとでも彼ら思っているのだろうか?
本気で愚かだと思うよ。
今表現の自由戦士と彼等を叩いている連中は悪意をもってわざとやっているのかもしれないがな。
どうせこれで今表現の自由はどうでもいいのか?と言っている連中は当時も今も表現規制に反対していませんでしたって言うオチが見えるのもなあ。
揚げ足をこのネタでとれるから、言っている風にしか思えないのが何とも。
それに今回の山田太郎氏の件は完全に津田大介氏やブサヨの因縁付けとしか言いようがない代物だったからなあ。
何故か山田太郎氏を炎上させたネトウヨ側の頭のおかしさは置いといて、言い方が悪いけど、ブサヨ側もある種の当たり屋的な行為そのものの事をしていたからな。
どこまでこいつら図々しくて、面の皮厚いんだ?と言うのが正直な感想だよ。
本当リベラル側の考えで、表現規制反対の活動を当時からしているまともな人間はこういうポリコレ棒ぶん回す様な人間の方が遥かに迷惑だし、扱いにも困ると思うけどな。
これ見たら逆にそういう人らも引くと思うわ。
立憲とかの議員とかで規制反対して下さる人も普通に困る行為だろこれ。
ただこの自称リベラルのこいつらをみていたら、それこそ立憲はリベラルではないとか言い出しそうだから怖いわ。
正直、こいつら敵に弾撃っているようで味方ごと誤射しているからな。
そして無駄に敵を増やして憎悪を煽っている行為そのものだからなこれ。
これ、本当は規制を普段推進している様な連中こそ暴れているんじゃないか?
だから与野党問わず、どっちの規制反対の人間を潰しにかかっているとしか思えん。
当時の経緯や表現規制反対界隈の苦労を知っていれば、表現の自由戦士はエロコンテンツどうのこうのなんてバッシングの手法なんて間違ってもするわけがないからな。
個人的にはどちらかと言うとリベラル寄りの考えの人間だったけど、流石に今回の一連の騒動はブサヨ側が被害者面して大暴れしているのはおかしいとしか思えないよ。
そもそも津田氏の声明見たら、この手の反対している人はイベント中止させてはいけないと言う事を織り込み済みでやらかしたのは目に見えるしな、本当。
だからこそ、こいつらブサヨが被害者面しているのが本当に気に入らない。
イベント潰させたのは確かにネトウヨだけど、こいつらブサヨは発端の加害者であるのにね。
一番の被害者はそれこそ、普段から表現規制に反対していた人達の界隈や創作界隈、そして絵画展やコンサートなどを行うイベンターの方々だよ。
お前らブサヨじゃないんだよ。
俺は都心のイベントに参加して、テレビで話題の飲食店に行って、森ビルで絵画見て〜、
みたいな東京ならではの余暇、文化資本?に一切の興味や価値を見出していない。
友人夫婦も同じ価値観を持っていて「温泉があって空気が美味しければ土地安い田舎に住みたいよ。仕事見つけるの大変だろうけどね」なんてよく言っていた。
それに同意しつつも「ふたりともパソコン?プログラミングの会社いるんだからその気になれば在宅ワークできねえの?」と思ってた。
世田谷に建てたら5億するぞみたいな、高級貸別荘と見紛うほどクソ綺麗で豪華な一軒家を2500万円で購入してた。
夫婦共働き在宅ワークで1000万円稼げる目処がたったから移住に踏み切ったらしい。
俺はド文系の中小勤めの昭和臭いことやらされてる営業マンだから会社勤め以外の稼ぎ方なんてできない。地方の低賃金なら会社勤めですら生きていける自信がない。
東京なんて都市に愛着も有り難みも感じていないのにただ、まともな待遇の企業の求人が集中しているというだけの理由でこの臭くて汚い土地にへばりついていないと生きられない。
在宅ワークで食えるスキルがないために友人夫婦のような生き方ができない。あの家に住めない。
東京から逃れて東京の平均年収以上の金を稼ぐスキルを持たないがためにとんでもない損をしている現実を突きつけられた。
友人夫婦の生活を東京で実現しようとしたら一体どれだけの金とどれほどのスキルや職歴が必要になるんだろう。
自家用車所有、あの豪邸、もっぱらの在宅ワークを認めてくれるほど進歩的な企業。
ユーザーベースとかメルカリみたいな会社でなおかつ年収3000万稼がないと実現できないだろ。
東京にブランドや愛情ない人間が東京に住むってこんだけコスト凄まじくてバカバカしいことなんだな。
汐留とか六本木とか神宮球場とかパンケーキ屋とかかき氷やとか近代美術館とか金もらっても土日に行きたくねえわ。死ね。
くだらねえよ東京。
https://www.asahi.com/articles/ASM853C9KM85OIPE008.html
>間違えてはいけないのは、税金は政府や行政に批判的な人でも納税しているものであり、それを再配分するもの。
>政府や行政に従順、ないしは意向に沿ったものにしか拠出しないということでは、決してあってはならないということ。
https://twitter.com/syunsuke_takei/status/1157789351419379712
今回の津田大介氏による、ある種の表現の自由に対する自爆テロみたいな行為は個人的にも本気で胸糞悪いけども表現の自由を尊重するならば、今回のイベントに対しても中止してはいけないとか言うしかなかったのよね。
だから山田太郎氏等や表現規制に反対する団体の人とかはイベントを止めさせてはいけないと言うしかなかったのは判るし、今回の津田大介氏の目的が見えていた以上、下手な行動もできないのも見ていてわかったしな。
それとどう見ても彼等冷静に指摘はしているけど、内心は今回の津田大介氏の件に怒っているのはツイートを見ていても判る事だよ。
そういう意味では津田大介氏はある種の挑発を行ったとも言えるし、今回の行為は表現の自由を人質に取ったと言っても良い。
彼らが中止してはいけないと言うしかない事を見越して、津田大介氏がやらかしたのは声明文読んでいても判った事だしな、本当に気分が悪いよ。
何もそれを判っているのはこの件は表現の自由を尊重する人だけではなく、議員にもその点を判っている人も多いし、そう言う人達はそれこそ表現の自由から攻めるのは不味いのも判っているからこそ、冷静な判断を求めて慎重に行動する様に言っていたんだろうよ。
ようは表現の自由の問題から中止で攻めるのは不味い事態起こすのは目に見えているから、他の方面を冷静に探れって話。
また今回残念な事にネトウヨさんや一部のお偉いさんの市長等の人は見事に津田大介氏の思惑通りに動いてしまった訳。
まんま策略にハマったからな。
そして良く言われている、ポリコレによる表現の弾圧の手法を今回ネトウヨの方が同じ行動で実行してしまったわけだ。
奴等はそれこそこれで次からもっと活動しやすくなると大喜びしているのが、目に見えて本気で腹が立つが。
何にしても今回の津田大介氏の行動は声明文の記事を読んだ限り、リスクを判っててやったとか悪意しか感じなかったし、まず多数の企業や業界、団体に大迷惑をかけている点。
そして以後、何もコミケ等のオタク界隈に限らず、絵画展等の展示や場合によってはバイクや自動車の展示、コンサート等のイベントにすら悪影響を与えかねない、広範囲に被害をもたらしかねない行為なので、本当に性質の悪い事をしでかしてくれたよと言う気持ちでいっぱいだよ。
あいトリ少女像撤去のニュースを見て父親が言った一言を聞いて、もう駄目だと思った。
アートに造詣がなく、YAHOOニュースぐらいしかソースのない父親はこのニュースをテレビで見ながら「人の嫌がることはやっちゃダメだよ」と言った。
この父親はつぶれそうな中小企業(1社はつぶれた)で総務のおじさんしかやったことがない癖に、家では母親を使用人扱いで、娘にはモラハラばかりの男尊女卑的内弁慶男である(院卒大企業勤務の息子には何も言わない。スペックで敗北しているから)。
最近「父親がネトウヨになった話」がネット上でシェアされているが、うちもそうなのだ。
昔からこの父親のことは嫌っていたが、大人になって分かったのは、彼は、今時流行りの「おっさん叩き」で叩かれている「おっさん」像そのものであるからだということである。
特に個人的なかかわりもないのに中国や韓国をバカにし、男には勝てないから女をバカにし、仕事でも人間関係でも相手にされない自分の自尊心を満たそうとするしょうもない人間である。
あいトリに話を戻せば、両手足を切断された裸の少女がほほ笑む絵画を芸術とあがめ、性被害を訴える韓国の衣装を着た女の子の像を排除しようとする日本の「おっさん」たちが「娘」たちから嫌われても仕方がない、というか当然である。
近年の「おっさん叩き」と「#metoo」運動は、かなり密接な関係があるように思われる。これは、搾取され続けた娘たちの、父親殺しの物語のように思える。
東京なんかに観光に行っても楽しくないよ。上海やニューヨーク、シンガポールと同じようにただ都市の生活があるだけだよ。
ショッピングやグルメに興味なければ行く意味ないよ。服なんか見ても買う気起きないし、混んでるだけで行ってもつまらないよ。
同上
というか、そういう公園なところ普段行かないじゃん。東京観光だからって無理していくことないよ。
ただの寺があるだけだよ。普段寺に興味がないのに無理して浅草行くこと無いよ
あそこ全体がショッピングモールみたいなところだよ。東京でしかやっていない企画展? 科学展? それ東京である必然性なくない?
それ東京である必然性なくない? ヨーロッパあたりの絵画を持ってきているだけだから、それならヨーロッパ行ったほうが良くない?
ショッピング興味ないのに無理していくことないよね。そもそも普段スーパーとかで乾物や魚買うのに無理して変なところで買う必要なくない?
リア充だけど空虚な日常送ってた主人公が絵に覚醒して美大受験合格目指すマンガ
期待を裏切られた
読む前は、絵柄とテーマと掲載誌から、めっちゃスカした意識高い系の雰囲気マンガだと思ってた
でも違った
絵柄に合わないわかりやすすぎる内容
美術テーマのマンガで文字で語りすぎてるのは、わかりやすくてありがたいけど、それってどうなん?逃げじゃないん?と疑問
キャラクターも序盤主要キャラっぽく出てきたやつが今後もよくからんでいくのかと思いきやずっと出なくなったりでバランスちぐはぐ
主人公は作中時間で長く関係つくってるっぽい話をしたりするけどついてけないし
時間経過が早いのはいいけど、あまりにも途中過程をすっとばしてるから、主人公の成長が都合よすぎるように感じられる
いやお前そんだけできててどこが凡人だよお前はすでにいっぱしの天才の一部だよとなんど鼻で笑ったことか
フィクションにそれ言っちゃおしめーよってなもんもあるかもだけど、
リアリティに準じた美大受験、絵画テクニックをうんちくとして具体的にレクチャーするくらいのマンガで、
リアリティに欠ける展開されたら、そりゃーおかしーんじゃねーのと突っ込みたくもなりますよ
あ、受験のときに主人公の鏡割っちゃった女の子はめっちゃかわいかったっす
ともあれするする読めはするけど、アオリにあるような熱さは感じないし、画力だけが大半を占めるようなマンガだったなあと
マンガ力が足りない・画力を活かしたマンガになってないなあもったいない
というのが感想
あ、あと気づいたとこでこまけーんだけど気になったとこ
受験のときにチャイムがわりにハンドベル?みたいなのをガランガランって何度も鳴らす描写が何度もあるんだけど、
スピーカーで録音したのを何度も鳴らしてるって設定ならそれでもいいけど、
それなら1回1回が違う「ガラン」になるだろう
それなら効果音の書き文字の違いでそれを表す、とかやってもいんじゃないの?
ページ半分の大ゴマをガランっていう効果音で埋めるのは面倒かもだけど、そういうとこ気がつかないんかなーと
同じ絵っていうならそういう気遣いしてほしい