はてなキーワード: 片端とは
評価軸を「献血」側だけに置くことは、議論の客観性を放棄することになりませんか。政治的には(要するに相手を〈ぶん殴り〉たいだけならば)そのやり方は正解かもしれませんが、議論をする上では間違いだと思います。
批判者に同調する訳では無いけれど、彼らはそもそも「性的メッセージを社会にあふれ許容させる世論作り」の一貫である、としてアレを批判しているわけで、しかもそれを個人の店でおっさんがやってるのではなく(それでも一定の公益性があれば彼らは批判するでしょうが)ある程度公共性のある団体が加担していることに厳しい目を向けているわけでしょう。その評価軸、つまり(彼らの思う)「自由な公共」性がより担保されるか/毀損されるか、という点を無視した議論は、議論としての有効性を欠くと思います。
自身で「宗教」と断言(自虐?)しておられるのですから、いいんだよそこは政治性なんだよオレは議論なんてしてねーんだよ、ということなのかもしれませんが、それなりに分析的な文章で、対話を目指して書いておられると感じたので一応。
なお、個人的には、「批判者の言うことも分かるが、方法論としてこのような『片端から噛みつく』というやり方は、主張としても不親切だし啓蒙手法としても成功しておらず、むしろ社会の分断と対立を深めるという観点で『私の思う公共性』を毀損している」と思っています。彼らは、分断と対立を深めるなかから新しい社会が誕生するという運動論に基づいて、むしろ確信犯的にそれを行っているつもりかもしれませんが、それって単なる腕力勝負だと思うんですよね。つまり「殴り合って勝った方の言うこと聞けや」ってことです。そりゃ短期的にはそれで一定の陣を得られるかもしれませんが、それで長期的に問題が片付くのかというと疑問ですし(バックラッシュなど)、あらゆる考えや立場の人が自ら発信できる社会ではそういう、ダイナミックに物事が変わることはもはや期待できないと思っています。批判者のやっているこのようなやり方もまた、仲間内に向けたある種の〈政治〉的行為だと言っては言い過ぎでしょうか。
私はそれよりも、次代のスタンダードを作るのに必要なのは、上野さんやその世代の人々がやってきたセンセーションではなく、あるいは誤解をおそれずに言えば"MeToo"のような魔女狩りでもなく、もっと落ち着いた対話と理解を行う姿勢であり、抑制の効いたオープンな議論だと思います。その意味で、批判者の現在のやり方は不適切だと思いますし、可能であれば、〈殴りかかられた〉側にも、あえて冷静な対応や議論の姿勢を求めたいと思います。
「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter
上記まとめにもある通り、杉村喜光という人は、以下のような発言をしている。
山田優さんの「天皇皇后両陛下 お疲れ様でした」発言が炎上中らしい。
この「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」は平成になってからマナー本などに登場した新ルールだよね。本来は上下関係なし。
それ以前に記事の「違和感を感じる」が…。 pic.twitter.com/axgcAGrS2c— 杉村喜光:知泉(三省堂辞典発売中 (@tisensugimura) 2019年5月5日
しかし、これまで「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」というマナーは、(そのよしあしはともあれ)聞いたことがあるものの、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」という言説は、少なくともマナー(マナー講師)関連において見聞きしたことがなかった。
※ただし、マナー講師ではなく芸能人(タモリ氏)や言語学者(園田博文氏)は、「お疲れ様」という言葉について以下のように述べているようである。
タモリが「お疲れ様です」は目上の者に使ってはいけないと指摘 波紋呼ぶ - ライブドアニュース
「子役が誰彼かまわず『お疲れ様です』といって回るのはおかしい」(タモリ氏)
「『ご苦労様です』『お疲れ様です』というのは、本来、人をねぎらう言葉。目上の人が使うのが伝統的で、目下の人が目上の人に使うのは失礼にあたります」(園田氏)
ならば、本当にマナー本は、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と主張しているのだろうか?
このことを検証するため、八重洲ブックセンター八重洲本店2Fの「ビジネスマナー」コーナーにあったマナー本を片端から当たってみた
……かったのだが、1段・56冊あり、全部を立ち読みするのは時間的にも労力的にも足りず、かつ、売り物の書籍を使って調べ物をするのが申し訳なかったので、20冊だけ抽出した。
(八重洲ブックセンターを選んだのは、会社から近く、また今日の仕事の関係で立ち寄りやすかったというだけであり、他意はない。図書館を選ばなかった理由は3つある。近隣の図書館が思いつかなかったこと、冊数としては八重洲ブックセンターの方が豊富だと判断したこと、古い、昭和の本も交じっていそうで、そうすると有効な冊数はさらに少なくなると考えたことからだ。八重洲ブックセンターさんには申し訳なかったが、普段も毎月1万円程度は購入しており、今日も本を買ったので、許してもらえたらうれしい)
なお、書籍はスミからスミまで見たわけではなく、「あいさつ」「言葉づかい」といった項目のところだけざっと流し読みしているので、漏れがあるとは思う。この件についてはご容赦願いたい。
さて、その20冊の中で、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と書いてある書籍は何冊あったか?
答えは0冊だ。
調べた限りでは見つからなかった。
ただし、「ご苦労様を目上の人に使うのはNG。お疲れ様を使いましょう」と推奨する書籍は、5冊発見した。もっと多いと予想していたので、案外少なかったが、精査していないため見落としもあるのだろう。
(個人的には、杉村と同じく、ご苦労様だろうがお疲れ様だろうが、目上の人に使っても、まあいいんじゃないのかな、とは思っている)
念のため、その書籍名を記しておく。
○新人の「?」を解決する ビジネスマナー100 または 社会人としての常識とマナーQ&A(メモのミスで、どちらか分からなくなってしまった。申し訳ない)
以上のことから、
○「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」とするマナーは、確かに複数の著者が主張している
○「『お疲れ様』を目上の人に使うのはNG」というマナーを主張する著者(マナー講師)は、少なくとも「『ご苦労様』NG」以下だろう
ということが確認および推測できた。
杉村は、どのような根拠をもって「この「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」は平成になってからマナー本などに登場した新ルールだよね。」などと断じているのか、また、そのようなマナー本がどこにあるのかを示してほしい。
加えるならば、「新ルール」とまで言うからには、1人のマナー講師・1冊の著書の主張では足りない。最低でも3冊は「お疲れ様はNG」と述べているマナー本を、杉村に限らないので提示してほしいところだが、どうだろうか。
※言っちゃあ悪いが、マナー本なんて、よくも悪くも似たり寄ったりだ。二重敬語のNG例など、同じ表現を何度見たことか…。だが、それは当たり前で、マナー本ごとに言っていることが違ったら、プロトコルとしてのマナーが機能しないからである。逆説的に言うと、本当に「お疲れ様はNG」というマナーが新たにできたというならば、上記の通りタモリ氏・園田氏の事例もあるし、20冊も拾い読みすれば、2~3冊は目に引っかかっておかしくないのであるが…。
改めて、杉村のtweetを見てみる。スクリーンショットだが、元ネタをたどると、
山田優、「両陛下お疲れ様でした」という投稿に批判殺到「皇室をなんだと…」(1ページ目) - デイリーニュースオンラインが出てくる。
デイリーニュースオンラインという段階で、取り上げるのもあほらしくなるのだが、ひとまずそこは置いておこう。
「会社の上司にすらお疲れ様と言うのは失礼と言われるのに。。」
と引用されているだけであり、どのような根拠、つまり、マナー本を読んだりマナー講師に教わったりしたのか、上司にそう注意されたのか、はたまた、自分個人の思い込みなのかは一言も書いていない。
(個人的には、元の発言者は「ご苦労様」と勘違いしているのではないか、という第一印象を持ったのだが、もちろん、定かではない)
それをいきなり、マナー本が~と言い出しているのは杉村である(だからこそ、典拠となるマナー本を提示してほしいのだ)。
実は最初、杉村も「ご苦労様」と勘違いしたんじゃないか、と思ったのだけど、その後別のtweetで、
ついでに「ご苦労様は目下からはダメ」も80年代後半ぐらいに登場したルールのハズ。バブル期の就職ガイドとかで最初読んだような記憶。それがついに「お疲れ様」までという感じ。
90年代初頭は謎マナーが多く登場し「徳利の注ぎ口から注いじゃダメ」「結婚式の引き出物にお茶はダメ」とかもそう。— 杉村喜光:知泉(三省堂辞典発売中 (@tisensugimura) 2019年5月6日
と述べているので、「お疲れ様は目上にNG」と主張するマナー本を数冊は読んでいるのだろう。ぜひ教えてほしい。本当にそう思う。
これまで述べた通り、一個人としては、
○「ご苦労様は目上にNG」というマナーは聞いたことがあっても、「お疲れ様は目上にNG」は見聞きしたことがない
○書店に並んでいるマナー本を抽出調査したが、「お疲れ様は目上にNG」とするマナー本が見つからなかった
ことから、
○「お疲れ様は目上にNG」だと主張する平成のマナー本は、あったとしても本当にごく一部で、「ご苦労様NG」ほどには広まっていない
○「平成のマナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張には根拠が薄い
と考えているが、はてなブックマーク
[B! 日本語] 「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter
において、「『お疲れ様は目上にNG』という謎マナーをマナー本(マナー講師)が広めた」というベースのもとでマナー本やマナー講師をののしっているブックマーカーは、
○実際に「お疲れ様は目上にNG」というマナー本を読んだか、マナー講師の指導を受けたことがある
のか、
○「平成のマナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張を鵜呑みにした
のかは、せめて教えてほしい。
と、あたかも、言葉遣いのマナーを追及している者も言葉遣いがなっていない、という含みを持たせた書き方をしている。
が、これは釈迦に説法だが、「違和感を感じる」は、話し言葉(引用したコメントの言葉)ならば別におかしな表現ではないし、書き言葉としても、許容範囲内だと考える。
その破堤基準を一つ挙げると、「○○感を感じる」の前半の「感」を取ったときの表現に違和感があるかどうかである。
※一種のジョークとして「○○を感じる、と表現しても(すると)違和感がない(ある)」という書き方をしている。読みづらくしていることは謝りたい。
それなのに、
自分の師匠と見込んだ人との関係を大切にするという話を前回書いたが、その人と対等に話ができる位の人間力(というようなもの)も必要である。知識、教養、気迫、覚悟。
人の相性というものもあり、これはもうどうしようもない。要は気質である。嫌な人間と嫌々付き合うようなそんな時間はこの短い人生の中においてない。自分の好き嫌いで付き合う人を選んで良い。仕事は己の好き嫌いで選んで良い。
そのためには自分自身を鍛えていくことが大事になってくるわけであって、その中で最も大切であり効果的だったのが本と旅であった。継続的な学習は必須である。学習とはいっても嫌なもの興味のないものを無理矢理勉強するというのは大人のやることではない。自分が興味のあるものを片端から読んでゆく。直感的に興味を抱いたテーマの本を手がかりとして、芋づる式に片端から読んで行く。
学習とは苦ではなく楽しいものなのだ。本を読むのは上質な娯楽なのである。その上好奇心を満たしてくれる良い本もたくさんあるのであって、本を読まない理由はない。
仕事のために必要な本、仕事に関わってくる専門書とは、本当に文字通り最高の投資対象であった。
仕事とは事前準備が全てであって、自腹でそれなりの価格の専門書を買い、それで仕事に必要な知識を仕入れ、その上で現場に臨む。
そういう風にしていけば、結構高いレベルのパフォーマンスを仕事の現場で見せることができるのだ。そうすれば次もぜひこの人に頼みたいと思われるわけで、そうすると途切れなく仕事が入ってくるものであり、もう引き受け切れないから断ると。そうしているとやがて値上げも容易になってくる。
そういうわけで、極めて有望な投資対象として本がある。得られる価値に比べて本の価格は安い。安過ぎるくらいである。
https://anond.hatelabo.jp/20180505233446
初投稿、下書き無しなので文に乱れがあったり読みにくかったりすると思うけど許して欲しい。
友達と「彼女がいるのにエロ本を買うのはダメか?」と言うことを話していて考えたこと。
個人的な性と半生の話が出てきてあまり公には話せないのでここに書くことに。もしかしたら似たようなこと考えている人がいるのかなって希望も少し。
性の目覚め
最近、どうもエロいので自分の中にあるエロのかたちを一つ一つ考えている。
その体験っていうのが幼い頃見た夢なんだけど、その説明のために一応当時のことを書いておく。
当時保育園の年長組だった僕は、おゆうぎかいで確かダンスを踊ることになっていた。男女別で、女子はモーニング娘。の「ラブマシーン」だった。衣装は黄色いフリフリの服だった。
夢の内容は、その「ラブマシーン」を自分が女の子に交ざって踊っている夢だった。
そしてそれを見る両親を僕が見ている夢だった。
「あれ、○○(僕)じゃない?」と母が言い「そんなわけ無いだろ。○○は男の子だよ。」と父が言う。それを僕が見ている。
そんな夢。
あまりに強烈だったので起きてからも夢の内容を覚えていて、そしてその事を考えているとなにかドキドキすることに気がついた。
何となく床に下腹部を擦り付けると言い様の無い快感があって、そこからは特に話すこともない。
ともかく、学校で性教育を受けるまで、僕のエロのすべてがその夢だった。というわけでもない。『ぷよぷよ』の「アルル」も、『ワンピース』の「ナミ」もエロい!と(感覚的に)思えたし、事実それらの女性キャラクターでオナニーもした。なんなら同人誌を調べるために新しいマンガに手を出した。乱暴だがその辺から性教育を受けたと言えるだろう。行為や言葉の意味はわからないけど何となくおっぱいはエロかった。
小学生のころ「オナニー」とか「セックス」の意味を辞書で調べるノリがあった。自分の「オナニー」とは違ったのでピンと来るのに時間がかかった。自分のしている(た)「オナニー」がおかしいと感じ、“あの夢”は悪夢になった。
時は流れて大学生の頃の話。
親元を離れて独り暮らしを始めた僕は、おそらく多くの童貞がそういう道を通っているように、ただれた性生活を始めた。片端からエロサイトを見て、pixivと2ちゃんねるとTwitterを行き来した。エロ本やオナホールを買ってきては友人たちにレビューを聞かせた。よくいるエロいやつだ。多分普通と少しだけ違ったことは、いくつかの特殊性癖にも精通したことだと思う。
ケモノ、男の娘、ペドフィリア、みたいなある程度メジャーな特殊性癖でヌけるようになったところで、大学の先輩から「なんでそんなもんでヌいてんの?」と聞かれた。
しばらく先輩の「なんで?」が引っ掛かっていた。先輩には悪いが、遅効性の毒みたいだった。最初はただの好奇心とちょっとした虚栄心だったと思う。自分の知らないエロの世界に触れて、粋がりたかったのだろう。男の子の世界には「面白いやつとエロいやつが強い」という不文律がある。特殊性癖は「エロくて面白くなる」上で大きな武器だった。
「なんで?」の毒が回りきった頃、自分の性癖の分析を始めた。その性癖を初めてエロい!と感じた画像や動画を覚えている限りもう一度インターネットから探してきた。そしてそれらの要素を抽出して、どこがエロいのか?を考察していった。
すると大学に入ってから意図的に開発した性癖に関して興奮のポイントに二つの共通点を見つけた。
・犯される側に感情移入している
・弱さ、危うさを無意識に感じている
心理学とかはやってないので精神分析とかではないけれど、当時はただドMなだけだと思っていた。
ふと思い出すと“あの夢”は女装と両親との関係の崩壊を“エロく”感じる夢だった。
「女体化」にであったときに強い憧れに似た興奮を覚えたのも、露出・赤面した少女の画像ばかり集めていたのも、当然の成り行きみたいにMに目覚めたのも多分深いところであの夢に繋がっているような気がした。
今思えばエロくなろうとしたのは仲間内の地位をあげるためじゃなくて、あの夢から逃げていたんだと思う。でも結局お釈迦様の手のひらの上で飛び回る孫悟空みたいに、僕は“あの夢”に囚われていた。良くも、悪くも。
まとめ
性癖に故郷があるなら僕は女装とか羞恥とかの村に生まれたんだと思う。少し一般から外れてはいるが“なんとかなる”部類だ。
これが食人とかスカトロの村だったら、多分とっても大変だったんじゃないかなって感じる。
最近は同性愛が認められててうれしいけど、性的指向と比べ性的趣向は未だに犯罪者枠だ。
性被害を受けた人や性癖を持たない人が訳のわからない性癖を気持ち悪く思うのも理解できるし、特殊性癖をもろ手をあげて歓迎しろ!なんて言うつもりはない。だって気持ち悪いし。
でも痴漢の村に生まれたおじさんはお金を払ってイメクラに行くべきだし、ネトラレの村に生まれた兄ちゃんはエロ本を買うべきだと思う。それだけじゃなくて彼らが村から出ようとするなら恋人がそれを助けてあげてもいい。でもその努力って絶対隠れてするし、なんなら持ってることすら気づかれたくないから「エロ本を買った」「風俗に行った」だけが表面に出て崩壊しちゃうんじゃないかな。
普通にグラビアのおっぱいで目覚めて、部活のマネージャーと付き合って、大学の後輩と結婚するタイプの友達には理解されない話だけど、僕みたい(いわゆる「普通」の)異性愛者の村に上京することができた、そこ以外の村の人ってけっこういると思うし、「彼女がいるのにエロ本を買うのはダメだ」という人は一夫一妻の異性愛者村に生まれた人の価値観なんじゃないかなぁ。
だから、そういうこと言うんだったら
見分けるスベを出せって言ってんだろうが。
なんで痴漢でもない、善良な男性がそんなことしなけりゃならんの?
まず、その「他人に負担を強いてもいい」という考えがおかしい。
あと、隣に殺人犯が座ってても気付かないように、そんなことは不可能だから。
不可能かつ義務でもないことができないからといって、権利を奪われる筋合いはない。
痴漢から逃げるのは勝手だが、ヒトの権利を奪わない方法でやってください。
ほかの犯罪は大抵みなそうなんだけど?
犯してもいない犯罪で権利を奪うのは、法治国家では許されていない。
現に、無実の(疑いもない)人間を片端から逮捕などしていない。
しかし、それでも予防として。歩哨に立ったり職務質問くらいはするだろうが。
一緒にできない。
あと2秒よく考えてから書き込めよ。
女性専用車両は庇うに値しない。
午前中ゆるゆる7時位に起きてゆっくり朝食をとる.
今日は何をしようかなと思いながら先日買ったスニーカーを履きたい気分になる.
そこで午前中は近所の駅前に行き本屋やセレクトショップでウィンドウショッピングをすることに決める,
10時になり実際に行ってみるといくつか欲しい本が見つかったので成果は上々だった.
同じ本がないかブックオフにも寄ったがやはり人気の本はなかなか売られないらしい,残念.
明日の朝に食べるパンを買いつつ帰宅し,ヒルナンデスを見ながら昼食を取る.
具体的には昔学校で使った参考書やノートを家中から掻き出し,ときめかないものを片端から捨てた.
ついでに先週買って2回位読んだ本もあまり心に響かなかったので捨てた.
その後はfocusmusic.fmでclassicalなchannelを聞きながら落ち行く夕日を眺めてる.
もし素人物AVが無かったら僕の人生はずいぶん味気ないものになっていただろう。
素人物AVには複数の女優が登場する。当たりもあれば外れもある。そこがいい。素人物AVは人生に似ている。
いや、むしろ人生そのものが壮大な素人物AVなのかもしれない。僕は本気でそんな風に考えてる。
たまに叫びだしたくなる。
その日は6時から漁り始め、すでに7時間が経過していた。僕は少し空腹を感じ始めていた。そういえばまだ何も食べていないことに気付いた。
とりあえず一本ダウンロード購入することにした。 食事は作品を鑑賞してからにしよう。
見終わった。
恋。
僕は恋に落ちてしまった。
完全に一目惚れだった。
この作品には5人の女優が出演している。そのうちのひとり、某エクササイズスクール講師(20歳)に僕の心は激しく揺さぶられた。こんな気持ち、初めてだ。
大抵の人は知ってると思うけど、素人物AVというのはほぼヤラセだ。本当の素人が出演していることなんてまずないといっていい。
僕はその点については何の不満もない。むしろその方が良いとさえ思う。求めているのはリアルではなく、あくまでリアリティなんだ。
大抵の素人物AVの出演者は、数多くの作品に出演している。中には単体作品にも出て人気を博している女優もいたりする。
好みの女優を見つけたら、当然他の作品も見たくなる。そうなった時は女優を特定する作業に入る。ここまでが僕ら素人物AV愛好家のルーティンワークなんだ。
安心して欲しい。女優を特定するのはそう難しいことじゃない。今はそのためのデータベースサイトがいくつもあるんだ。
僕らはほんの些細な情報の断片からでも女優を特定することができる。その能力はCIAと比較されることも多い。
僕はすぐに特定作業に入った。ちなみにこの「人間観察ドキュメント」シリーズは系列レーベルの「人間観察ドキュメントQ&A」シリーズと混同しやすいから注意が必要だ。
調査の結果が出た。出演者は5人。僕は女優名の欄を順番に確認していった。
「宮下真衣」
「華野梓」
3.某ウォーキングスクール講師
「前田由美」
「堤まほ」
ここまでは順調だ。そしてついに5人目。僕が恋に落ちた彼女。
「 」
ええええええええええええええええ??!
こんなこと初めてだ。ひとりだけ空欄なんて。
それから色々と手を尽くした。ネット検索はキーボードが粉々に砕けるまでやった。
レーベルにも問い合わせた。同系列の作品を片端から見まくって彼女の消息を探った。全国のDVDショップを探し回った。飛行機にも乗った。台湾や韓国にも飛んだ。
でも彼女は見つからなかった。僕はどしゃ降りの雨の中で獣のように泣いた。
僕は「某エクササイズスクール講師」としての彼女しか知らない。時間にして約40分。それ以外の彼女を永遠に見ることが出来ない。永遠に。
Amazonさんで、メーデーって航空機事故を主題に扱ったドキュメンタリーを片端から見てるのだけど、
事故調査の過程が、アプリ開発者として運用チームから報告が上がってきた障害表とバグ取りの関係に似ていて妙なところで共感。
番組冒頭の事故が起きるまでの小ドラマによる前振りやインシデント報告が上がってからの切り分け処理。
自分は運送会社で使われているポータブルデバイス( 玄関先で荷物を見ながら入力しているちょっと大きめのごついアレ)の
保守運用をしているのだけど、アプリ開発者として宅配するお兄さんがどんな操作をしたのか
同僚をお客さんに見立ててちょっとした演技をしながら問題が再現しないか確認することが多い。
汎用的なアプリやゲームなどでも、上がってきたログやエラーレポートで
そこに明確なシナリオを描く必要があるのは用途が固定された業務用ゆえだろう。
この段階だと、工場出荷時の単純ミスから1000台に1台のレアケースまで
ちょっと罪悪感を感じつつも推理番組のようで楽しくリラックスする。
さすがに、アプリが原因で人が怪我したことはないことも理由の一つだが。
しかし、番組後半からの原因究明真相パートでは結構辛いのは業務も同じ。
番組は、整備不良、しかも手順にルーズな社内風土や慢性的な人員不足による忙しさによるテスト漏れなど身に覚えがあることだらけで胃が痛い。
現実は、障害レポートの提出でごめんなさいと過失の割合をいつも考えて、次のシーズンで協力会社の席があるのか考えている。
東方Projectについては今さら触れる必要もないかと思われるのでざっくり。
同人界隈での活動の場として、ジャンルとして、東方は存在しています。その昔かなりの肥大化があったようで、ネットワーク外部性とでもいいましょうか、東方の文脈は参入者によって様々に強化されていったので、そのあたりの勢いは強かったのです。なんたら2.0という死語もありますけれども、まあそんな感じで、ラフな物語は創作性を残して語られるわけで、つまり東方とはそういうコンテンツだったのです。ここまで読んで意味が分からんと思ったらそっ閉じでお願いします。ご閲覧ありがとうございました。
同人をやる人の想像力というのはわりとチープなもんです。好きという気持ちだけでやってる人間が大多数だから、そう言ってもいいでしょう。感性的肉体的な表現というのは、具体性があるから替えが効くものです。どのキャラクターに性交させるかという目的で、欲望が噴出しては地を肥やし山を作っている。だから、要はなんでもよかったんです。東方じゃなくても、架空の女の子が沢山居て、セックスがあって、ラブコメがあって、キャラ萌えがあって、自分の手の届かない性器に刺激を与えうるものであれば、それは同人として多くの消費を呼ぶわけです。特に、不完全な物語。解釈という体の良い言葉で包んだ自己設定が許される場所。
それで本題ですが。何年も前から東方一本で表現をしていた同人作家が、あっさり艦これに乗り換えていたときの切なさとは一体なんなのでしょうかね。そうやって空になった燃料タンクは、片端から外れて落ちていくのだとしたら、一体ロケットとは。コンテンツとは。
お客さんと話してきた内容を人ごとのように聞いているのだが、
先日拾ったフルスタックエンジニアと何となく繋がったところがあったので
暇つぶしに書いとく。
DBの不備と拾いきれないぬるぽで正常系すら落ちまくるシステムへの不満と
画面の統一感がチグハグで分かりづらいという二点で、
そんなシステムをこの人数の規模(想定より遥かに多かったらしいw)でやられてたんですか?と
いう言葉までいただいてきた。
当然だよねーと思う。仕様書も統一されてなくて、画面のデザインガイドラインも一読しないまま
各工程で30%ずつ人員を入れ替えながら突き進んでしまったそうだから。
そのしわ寄せがプロジェクト後半になって鎮火のために投入された自分のようなところに来る訳で、
チームで古参と思われる人に画面仕様について片端から聞いても見事なたらい回し。
入力項目の不備について指摘したら、それjQueryのライブラリの仕様だから中に手を入れてまで直そうか
今の状況では微妙って回答を貰った後で、客先から同じ指摘→再テストの依頼が来たときはいらっとしたわ。
なんでこーんなことになってるんだろうって外野の目で見てると、分業しすぎたんだろうとは思う。
皆、JSPだったり、javascriptだったり、SQLだったり、どれか一つの言語しか出来ない感じで
フロントエンドすら、Ajaxとそれ以外(よくわかんないんだけどさ)で、二チームに別れてる感じ。
要するに、自分含めてスキルがしょぼいんだけど、そりゃ、画面のデザインもチグハグになるよねーっと思った。
フルスタックエンジニアのような、全てわかる器用貧乏で、でもチームリーダーとして仕切れるような人格者が
一人いれば、この状況はもっと違ってきたのかな、なんて。
フルスタックエンジニアがたくさんいれば、こんな分業制でわけわからない開発規模まで膨らんだプロジェクトの人数も
減らせたのかなぁ、なんて。
仕様の共通理解やそのためのツール(仕様書ね)に割くための工数もより少なくてすむわけで。
確かに、人数減らせばその分仕事も増加してブラック間違いなしなんだけど、
この状況を見ていたら、一つよりは二つ、二つよりは三つを持ったゼネラリスト的なスペシャリストがいらっしゃったら、
変われたのかもね。
お節介かも存じませんが、スマートフォン(Android、iPhone)をお持ちでしたら、
「Pulse」というニュースアプリをダウンロードされてはいかがでしょうか。
それの「Add Content」で記事を探されるのも手かと存じます。
自分はTechnology欄を片端からフォローして一年ROMった結果、先ほどの二つが残ったのですが、
他にも翻訳系紹介サイトのソース欄でよく目にするものばかりなので一通り読まれると
琴線に触れるものがあるやもです。お試しあれー
あはは、自分もよくあります。しかし、どこかでアウトプットしないと読んだ気がしないときもありますよね。
そんな時こそ増田ですよー。
面白いから紹介したいけど翻訳した内容•翻訳することに責任持ちたくないときに適当に書き散らすw
最強の書き逃げツールです。
1ヶ月程前に予約していた精神科に行ってきた。
院内は新設されたてだったようでとても綺麗だったし、待合室にいる間にコーヒーをサービスしてくれたりして、こうやって患者の緊張をほぐしてるのかな、と少し驚いた。
まず問診票の「どのような症状があるのか」という所で少しつまづいた。
私は自分の考えてることを片端から本当かどうか考えてしまうので、どう書くべきか非常に迷った。
とりあえず情緒不安定と書いておいたら案の定、具体的にどういうことか、と聞かれた。
たどたどしくも、出来るだけ、自分なりに恐らく、と整合性が取れる範囲で思いついたものを述べていった。
まぁ、ここまではよかった(これまでに問題があったのかもしれないが)。
「貴方はそれを治して何をしたいのですか」と聞かれた。
考えたこともなかった、というのは嘘で、私はもとより何もしたくなかった。
更に、私は治ることに恐怖を感じていた。
お前は何を言ってるんだ、じゃあ何故受診しているんだ、と思うだろう。
この感情はおかしい、と自分でも思うが、私が苦しくて治りたいと思うことと、それに対する怯懦とが両立することは私にとってはおかしくなかった。
ただ、それを相手が理解出来るように言葉にするにはまるで出来る気がしなかった。
しかし特に何もしたくないと言えば、何故来たのですか、と言われそうで怖かった。
わかりません、と言うしかなかった。
ここで先生に呆れられた。
「それだとこっちとしても治ったのか、治りつつあるのか判断のしようがない」
なるほどそりゃそうだと思った。
と聞かれこれまた答えに詰まって、とりあえず薬を処方して頂ければ、と言った。
私はパニック障害で心療内科に通院していてソラナックスやらジェイゾロフトやらを処方されていて(一応精神科と分けて考えていたので)、
「それならば出す薬はそんなに変わらない」
そうなのか。
もう限界だった。
なんだか更にわからなくなった。
病人には治りたい理由が必要なのだろうか。
だが事実として私は私の症状を伝えることができない。
ならばどうすればいいのだろう。
治りたいという意思が無い、というのは患者として致命的だというのはわかる。
しかしそのアンビバレンスに挟まれている状態で苦しんでいることは、どうしようもないのだろうか。
もっとも、私が何らかの精神病を患っている、ということは何も確定していないのだけれど。
いつまでもダダをこねているし、もう一生このあたまで生きていくんだろうな、とも考えている。
私のこの矛盾だらけの感情は、クオリアやらなんやらかもしれないが、結局相手が理解出来かつ許容出来なければノイズみたいなものでしかないのだろうな。