はてなキーワード: 根付とは
デモを行なう中で動員数を誇示したり、街中で大声で怒鳴り散らかしたり、大通りを塞いだりすることは、多数者でなければできないことのまさにそれであり、社会に生きる人々の自由闊達な生活を妨害しようとする行為であり、およそ投票に並立する民主主義の権利の行使であるとは思えない。
デモとはこのような、議論を否定しようとするものとは正反対のものであり、数がものを言う投票では示すことのできない、多数派とは異なる有用な意見を持った少数の人々が自分の考えを発信する場であり、そういった有用な意見を政治に取り入れて民主主義を豊かにするための仕組みではないのか?
多分今まで俺が日本で言う「デモ」に違和感を感じてきたのは潜在的にこういうふうな考えをしていたからだろう
どうにか、ああいう風な「デモ」が続けられることも、デモの存在が否定されることもなくなって、デモが投票に並ぶ民主主義の柱として根付くようになってくれればいいんだけどな
http://anond.hatelabo.jp/20110602193012
福島は未だに復興されてなくてもはや避難先に根付いてしまった人たちもいるらしい
震災直後では火の海になった気仙沼が話題になったけど、こっちのほうは復興したのかな
って、調べてみたらインフラは概ね治ってきたみたいだけど産業は震災前の60%程度しか復興していないみたい
http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/608418.pdf
原発の方は、東芝が原発とLNGに大博打を張って結局半導体産業を日本から手放すという大失態をしたのが印象的だった
世界では再生可能エネルギーが続々とグリッド・パリティを達成しているのに何たる惨状
しかしネット社会ではこの状態になっても未だに「反原発は放射脳で疑似科学的」とか「再生可能エネルギーは役に立たない」とか悪評が目立つ
http://anond.hatelabo.jp/20170304120801
さて、前編では「何故俺が不幸なのか」を考察し、納得するところまでいった。
後編では「そんな俺が幸せになるにはどうすればいいか?」を考察したい。
・幸福に必要な要素は「自己実現と成長」「独立とマイペース」「つながりと感謝」「前向きと楽観」
・俺には「つながりと感謝」が圧倒的に足りていない。
・俺の「溢れる金と時間」を「つながりと感謝」と交換すれば解決!
⇒俺は幸せになるぜ。
最初に「何を持ってれば幸福感を感じるのか」をまとめておこう。
色々と記事や本に目を通していたところ、前野隆司さんの「幸せのメカニズム」という本が参考になりそうだった。
それによると、幸せを感じるためには以下の4つが必要だそうだ。
・自己実現と成長
・つながりと感謝
・前向きと楽観
一人で素晴らしいサービスを作っている俺としては上記の「自己実現と成長」「独立とマイペース」「前向きと楽観」は満たされていると実感している。
俺は「収入が上がれば、幸せになるだろ、普通に考えて」と思っていた。
そもそもなんでこんな勘違いをしていたんだろう?
この謎が氷解した。
実は俺以外の多くの一般人にとって、「収入が上がれば、幸せになる」というのはだいたい正しいのだ。
何故なら、日本人の大多数である会社員や公務員にとって「収入が上がる」というのは「昇進して地位が上昇する(つながり力アップ)」ことによって副次的にもたらされるからだ。
たとえば俺みたいに年収3000-4000万円といえば会社員であればそこそこ大きな企業の取締役レベルの収入になる。
そのくらいの地位になると、「可愛い部下が尊敬の眼差しで見てくる」だの「地域に顔が効くのでツテがある病院で好待遇を受けられる」だの「数百人の部下を持つトップとして君臨する」だのということがあり良い感じの「つながり」が大きくなる。
だから、多くの人にとって「昇進して地位が上昇する(=収入が上がる) ⇒ つながりが増える ⇒ 幸福感に繋がる」わけだ。
しかし俺の場合は「昇進とか無くて地位とか無いけど収入が上がる ⇒ つながりは増えない ⇒ 収入は高いが幸福には繋がらない」となるわけ。
なんでこんなことになったんだろうって思い返したところ、そもそも俺は次のような性質を持っている。
・自由が好き
・効率が良いのが好き
・個人プレーが得意
この性質を満たして仕事をしようと思うと「極力他人と関わらない」という仕事スタイルになってしまう。
一方で、自分に合ったスタイルで仕事をしていたため、能力を十二分に発揮することができ、仕事自体はうまくいき、収入は上がっていったわけだ。
逆に言うと、つながりを重視して「自由」「効率性」「個人プレー」という俺の性質を放棄すると俺は力を発揮できなくなり、「自己実現」「マイペース」「前向き」といった他の幸せ要素を阻害することになってしまう。
では、どうすれば俺の性質をある程度考慮した上で「つながり」を増やすことができるだろうか?
考えた。
俺には金と時間がある。
ついでに言うと、それなりの仕事力もあると思う。
では、この「金と時間と仕事力」を「つながり」に変換できないだろうか?
そもそも「金」というのは交換手段であり、色々なものと交換できる。では「つながり」と交換できないだろうか?
直接交換する・・・というのは難しそう。「お金あげるから友達になってください」「お金あげるから恋人になってください」っていうのは本当の意味で「友達」「恋人」ではないだろ。
せいぜい悪質な「つながり」ができるだけ。
ただ、「金 ⇔ 何か ⇔ つながり」というふうに間に何かを挟んでやれば、成立するのでは?
この「何か」をウンウン考えてたところ以下の観点から「訪日外国人×地方創成」のビジネスが良いのではないかと思った。
・その土地に根付くビジネスなため、事業パートナーとして地元の人々との繋がりができる。
・短期間で儲けるのは難しそうだが、他ビジネスで日銭は稼いでるため問題ない。
・グローバル感覚があんまりないけど、興味はある俺にとって、面白みがある。
ただ、「自由」「効率性」「個人プレー」という俺の性質を妨げないよう以下の制約を設ける必要はある。
・メンバーは超少数精鋭で。MAXは6人。できれば俺を含めて2〜3人程度のメンバーで事業を進める。
岡山理科大(加計学園)が愛媛県今治市に獣医学部開設へ 土地の入手方法について 高嶌さん解説(2017.3.1作成) - Togetterまとめ https://togetter.com/li/1086386
別に市政にツテなんてない、しがない一市民だけど、モニョった。一市民としてはモニョった。
https://twitter.com/uchida_kawasaki/status/837255423824543744
3月議会で上程が重要って言ってるけど、なんで重要なんだろう。そこんとこよくわからんなあと思う。
獣医学部新設予定地は https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E6%96%B0%E9%83%BD%E5%B8%82%E9%96%8B%E7%99%BA ここに記載のある第2地区。しまなみ海道開通を契機に計画されたんだから、まあ気の長い話だよ。解説がついてるけど、長年大学を誘致するっていうものの果たせずにいた土地やんね。
そもそも地元民的には少子高齢化モロに食らってる今治で新都心計画大丈夫なのって気持ちもずっとあったし、第1地区のイオンモールなんか、立派な4車線道路の交差点に隣接する造営地に数年来「イオンモール建設予定地」の看板と、ぽつんと置かれた動かないショベルカーだけが野晒しになってるという寂しい状態で。なんだったんだよあのショベルカー。一応計画死んでませんよってアリバイ作りかっての。「イオンは来るのか来ないのか」は長年今治市民の鉄板世間話ネタだったもんねえ。
それがここ数年、ついにイオンモールも建設され無事開店、なんだかんだ地元企業や消防署の移転なんかも始まり、第2地区もだいぶ住宅地らしくなり、無駄に広いアースランドもだんだん認知され始めて、って、ようやく新都心計画も根付いてきたかな、ってことの果ての今回の獣医学部新設決定。長年、獣医学部誘致してるらしいよって話はぼんやり市民の間に流れてたけど、大方夢物語扱いやったもんね……特区が取れた報道にはびっくりしたよ。
http://lite-ra.com/i/2017/03/post-2957-entry_3.html
確かに、この話読むと、なんらかあったのかなあって疑う余地があるのはわかる。わかるよ。でも、
https://matome.naver.jp/m/odai/2148838721932102801
https://twitter.com/takashima724/status/837188198883176448
市民が訴訟……するかなあ……。36億7千万の土地を無償譲渡って言われたらそりゃヤバく聞こえるけど、2003年に松山大学に蹴られてからずーーーーっと塩漬けで早14年の土地って聞かされたらどうよ。無償譲渡って聞いても、まあしゃーねーんじゃね〜建ててくれるだけありがたくねーーーくらいの気持ちにはなったよ。
獣医学部そのものの規模がやけに大きくて、それ日本全体の需給規模的に大丈夫なん? は思ったし、記事でもボロクソ書かれてて、だよなーーとは思った。ただ、四国に獣医学部が本当に不要なのかは、四国の畜産周りの人に聞いてみんとわからんのじゃないかなあ。四国、出て行ったら戻ってこんもんね……。
まあ疑惑がガチで、獣医学部が誘致できなくなったら、それはそれでもう仕方ないんやろうけど。ただ、異常な土地の譲渡って話を森友学園と同レベルに受け取られるとなんか違うと思うわ。今治から比べたらあんな大都会の、あんな立派な立地と同列で語られるとか勘弁してほしい。確かに広くて日当たりは良いけど、次の買い手なんてまず現れんだろうなーーー………。
オタクが一々フェミニストにつっかかってくるのって、男性特権を目に見えて享受できない立場にあるので、実際は男に生まれたと言うだけで差別的な立場にいるということが理解できないということもあるんじゃないかという気がしてきた。
恋愛弱者でもあるオタクは、未だに男女差別が根付いたままの恋愛市場からは男らしくデートプランを考えろとか男らしくあることを要求されて、一方フェミニストからは男であるということで(自分はメリットを感じてないのに)責め立てられる。
暴力ヒロインと言い「女に虐げられる可哀想な男」は笑って受け入れられやすい(今は過去形になるかもしれない)
男の言う「女怖い」は笑って言われるのに対して女の言う「男怖い」はシャレにならないのにも通じるだろう
これこそ男女の非対称性。前者は本気で脅威を感じていないネタで後者はガチなのだ。
今のネットで「男性差別」論がやたら広まっているのも、ネタとして広まった「女に虐げられて男はつらいよ」の延長と考えられる。
だが育ちすぎた男性差別論、男の被害者意識は、「女に虐げられるのがネタとして受け入れられる」ことに激しく抗議するに至った。
「ネタとして受け入れられたからこそ」ここまで女尊男卑論が広まったのだが、もう「ネタとして受け入れられる」ことは男性差別論において必要ないのだろう。ここまで育って、ネット中に根付いてしまったのだから。
「はてなはリベラルなのに男に厳しい!!」って喚くやつらは2chまとめにでも行けばいいのに。ネット中、基本的に嫌というほど女に厳しく男に甘々なんだから
私は昔から人見知りで、親の後ろに常に隠れている子だった。家族内でもそれが根付いてしまっていたと思う。人見知りでいなければいけないといつのまにか思ってしまっていた。だから、感情的にはバリバリ挨拶できるのに、わたしは人見知りだからと自分で自分を抑えていた。
幼稚園でも、みんなでやるお遊戯が恥ずかしくて出来なかったり。幼稚園でピアノを弾かねばならない時も自分の音がもしも違っていたらみんなはどんな反応をするんだろう、と思ってしまって弾けなかった。ひとりだと弾けるのに。人見知りの自分は行動を目立たせてはいけないんだ…と考えていた。
小学校でも人見知りがキャラみたいになっていて、好きな歌は何?とか、好きな芸能人は?とかよく聞かれたのだけど、こんなわたしがジャニーズがすきだとか、流行りのタレントが好きだなんて言ったら周りはびっくりして、なんで〇〇(わたしの名前)なのにこの人が好きなの!?なんてなるかと思うと言えなかった。だから、音楽の授業などで発表する「自分の好きな歌」が嫌いだった。自己紹介はまだ知り合ってまもない時に行うもののため、そこまで縛られることはなかった。
こんなんだけど、ハブられたりいじめられたりはしなかった。きっとわたしが何にでも「うん」と答えてしまうからだろう。嫌でも嫌と言えない。ハイカーストの子たちに従うしかなかった。いじめだとも思ってなかったし、今も思っていない。自分の意思や自我がなんて弱かったのだろうと思う。
あるとき、亀梨和也さんが人気になり(今も人気だと思いますが)クラスで流行った。当然わたしもテレビを見るわけで、かっこいいな〜なんて思ってた。でもクラスでは、〇〇は亀ちゃんなんて好きじゃないよね?と言われてしまった。また来たかと思った。
またそこで「うん」と言ってしまったのだが、さすがにここまでするのは自分でも嫌だし、変わりたいと思った。
中学へ上がると学年の人が増えた。そのため、小学生のときに仲の良かったハイカーストな子たちと離れることが出来た。本当に嬉しかった。
それからは自分がこんなひとなんだよって言うのを周りに出すことが出来た。どこまで自分のことを話していいんだろう、嫌だと思われてないかな?と思うことはあったけど、新しく出来た友達はしっかり聞いてくれ、逆に自分はこんな人なんだよというのを伝えてくれた。
しかし家族内は何も変わっていない。控えめで物静かで人見知りなわたしが根付いてしまっているから、好きなタレントが出ているテレビはもちろん見れないし(環境的には見られるけど、自分がタレントに興味を持っていると知られることが怖かった)雑誌は買っても部屋で読んで奥にしまった。かわいい服が好きだったが、親の中のわたしはいつまでもジーンズにシャツのような服装だったため、親の前でかわいい服を着ることが出来なかった。
自分はなんのためにこんなに制限をかけてビクビクして生きているのかな?といつも思っていたし、勇気が出ない自分が腹立たしかった。1歩踏み出すことが出来れば、きっと楽しい幼少期を過ごせただろうなあ。
高校へ上がってからは周りの子が色濃く、それに流されていったし、親もあまり自分にかかわらなくなったこともあり、徐々に自分を出すことが出来た。親の「もう高校生なんだから」という思いもあったのだろう。
幼少期は自己中心的な感情に支配されることが多いらしいが(医学的に)わたしは一切そんなことがなかった。これは今も変わらないが、親の顔色を見ながら発言したり、大人の機嫌を損ねないようにしなければいけない!と思ってしまうからだと思う。その奥には、怒られるのが怖いってのがあるからだけど(笑)だから、育児記録とかアルバムを見返すと、手のかからないわがままも言わない子、なんて書かれている。悲しい。がんばって人見知りな静かな子を演じるのだって辛かった。そんなこと親には言えないけど。わたしだって好きなものがあって、かわいい服がきたかった。それもこれも自分が悪かったんだろうね。甘えることが出来なかった。これが欲しいとか、これをしてもらいたいとか言えなくてなかなか辛い思いをした。言ってくれなきゃ親もわからないだろうからそんな子どもにイライラもするよね。
ずっと書いてたらどんどんふのほうこうへ
今は社会人で親元を離れてバリバリ働いているが、やっぱり初対面の人と打ち解けた後は小さい時を思い出してしまう。
だから子どもが産まれたら、思う存分甘えさせてあげたい。たとえ人見知りだとしても、何かあったらすぐに相談してもらえるような親になりたいな。
アメリカは元々キリスト教文化でボランティアが根付いている&子供の為に親が動くのは当たり前、って文化があるから
熱心にやりたがる人が多いってだけ。
んで、何だかんだで何もやらない=変な家庭と思われるから事実上強制だという話も聞く(つまり日本と変わらない)。
増田の家庭がそういう輪から外されてるとしたら、そりゃ「ガイジン」だからだよ。
日本のPTAだって「ガイジン」は最初から輪から外されている事が多い。
知り合いの、アメリカ人と結婚した日本人妻は皆熱心にやってるなあ。
ただでさえ母親がガイジン、子供がハーフで他より浮きがちなのに
更にアメリカ人社会に溶け込む努力もしないとなると孤立するんだってさ。
PTAだけではなくママ友付き合いなんかも日本より遥かに濃くて大変そう。
去年の電通の過労自殺の問題から、労働環境の改善が各方面で話題になっているが、
バローの様な中規模系や地元系チェーン店は、ほぼcloseだった。
やはり安売り店は休めないのかと妄想。只し,業務スーパーはcloseだった。
イオンやイトーヨーカドーの大型ショッピングセンターはopen。
ヤマダ、K's電気 close
と、会社によってまちまちだが、ヤマダは混乱期から脱却しつつあるのと、
顧客満足度が高いと言われているK's電気は、余裕があるのかもと妄想する。
・外食チェーン
全国規模のファミレスや回転ずし、牛丼店やファストフード店はほぼopen
そんな中、closeだった道とん堀とやよい軒は、飲食界の新しい労働環境を
構築しつつあるのかもと妄想。
元旦の需要は高そうだが、昔から元旦営業しているイメージはないので、
・アパレル
アパレル系は、ファッション好きな従業員の労働力の搾取の場なのかもと妄想。
・アミューズメント系
ゲームセンターやボーリング場、ネットカフェやパチンコ等はすべてopen
ディーラーや中古車販売店、買取店はclose。やはり正月から大きな買い物はしないのだろう。
自動車用品店は中古部品店はclose 全国チェーンのイエローハットもclose。
ただスーパーオートバックスはopen。車好きの従業員の労働力の搾取の場になっていなければいいが…と妄想。
・その他
ブックオフヤハードオフなどのブックオフ系列はどこもopenだった。
大型本屋やツタヤのどのレンタルDVDショップに需要があるので、
パソコン部品や家具、洋服の中古品店もオープンさせてしまうのは、
グループ店ならではの文化が、優先されてしまっているのではないかと妄想。
メガネ店では朝礼で、通りに向かて全員で大声で挨拶していたり、
もう一つ意外だったのはセリアやダイソーなどの100円ショップがclose
それでもサービスを提供しなければならないなら、その日は特別賞与を従業員に大いに振る舞おうよ。
そしてお客も割り増し料金を払おうよ。
正月くらい、客がそのサービスへの感謝を形にしてもいいんでないの?
元旦からクロネコの宅急便が届いて、驚いちまったのと同時になんだか申し訳なくて
思わず「すいませんでした」って謝っちまったよ…。
右翼側として北方領土は全島返還、現実ラインでもせめて二島返還確定が
望まれていたと思うが
お父ちゃんのやってきた日ソの平和条約に踏み込んだゾ!という安倍首相の感慨はさておき
右翼側からすると、アカに歩み寄り、金をバラマキ、北方領土は棚上げで、とくに褒めることはない
それどころかブチギレても良いはずだった
> 今回の日露首脳会談を受けて、北方領土問題が解決する前に北方領土で共同経済活動を行うことへの賛否を聞いたところ、
> 「賛成」との回答が59%で、「反対」の25%を大きく上回った。
> 今後の北方領土問題の進展に「期待する」は60%、「期待しない」は29%。
> 安倍内閣の支持率は11月の前回調査から3ポイント増の51%、不支持率は1ポイント増の32%だった。
バカ化だ
勝手に「保守の思想が根付いた」と好ましく思っていたのがバカらしくなる
思想なんてない、テレビで見てなんとなく良いと思えばなんとなく支持する
日本人の信念なんてないのかと
国民がここまでのバカの集まりとなると一体この国の何を保守すればいいんだ
経済協力で島が帰ってくるなら竹島・尖閣問題なんておきてないんだよ・・・
目を覚ましてくれよ
なんかマーティン・スコセッシ監督(人生で五指に入るほど好きな映画監督)が遠藤周作の『沈黙』を映画化したらしいので、積ん読していたのを読んだ。以下はそのメモ(間違ってるかも)。
どうもテーマは以下の3つらしい。
① 信徒がどんなに辛い目にあっても神が彼らを助けもせずに沈黙しているのは何故か(神はいないのではないか)
② クリスチャンと言えど、拷問に対する恐怖から、踏み絵を踏んでしまう心の弱い者もいる。これら弱き者は救われないのか。
③ 日本にキリスト教が伝来しても、それは日本特有の何かに変容してしまって、本来のキリスト教は日本に根付かないのではないか。
◇結論:神は沈黙しているのではなく、信徒に寄り添い、その苦痛・苦悩を分かち合って下さっている。
◇考えたこと:神がいるならなぜ苦悩に満ちた人生で何か声をかけてくれないのか、とは誰しもが考えたことだろう。それに対する卓抜な回答だと思う。辛い人生の慰めになる。
本作の元ネタの1つはヨブ記だろうけど、この解釈をヨブ記に逆照射すると面白いかもしれない。信徒に苦悩を与えるヤハウェと、それを分かち合ってくださる「仲保者」(=キリスト)ということになるか。
◇結論:弱き者も救われる。弱き者には弱き者なりの苦悩があり、踏み絵を踏むことを拒否して拷問を受ける信徒と変わりはない。
◇考えたこと:これも大変慰めになる。誰しもが踏み絵を拒否できる強い信徒ではないし、むしろ弱き者の方が大多数だろう。そんな中でのこの結論は心強い。
◇結論:書いてない?
◇考えたこと:神の存在が聖書というテキストで表されている以上、そこには解釈が入らざるを得ないし、解釈に際してはその人の人生観・世界観がそこに入り込まざるを得ない。
その意味で、西洋のキリスト教と日本のキリスト教は違うと言われても、そらそうだろうという感じだった。
おわり。一読目だし、『切支丹屋敷役人日記』がいまいち理解できてないしで、間違ってるかも。
日本の小説だけあって、論文がネット上にpdfでいくつか転がっているので、読んでみたい。
[追記]
本作にまつわる良いQ&Aがあったので貼っておく。
http://anond.hatelabo.jp/20161204095016
驚いた。全く真逆の感想だ。アメリカといっても、サンフランシスコのイケイケスタートアップからウォール街のクオンツからシカゴのコンサルまで、全く違うだろうけど、5年以上東海岸の米系企業に籍をおき、向こうの地でもそれなりに働いてきた自分からすると全く同意できなかった。あくまで個人的な感想であるけど、いくつか反論してみたい。
俺が米系企業の日本支社に就職したとき、最初に「会議で発言しないのは存在しないのと同じだ」と言われた。少なくとも俺の5年以上の経験で、会議に出て黙ったままただメモを取っているアメリカ人は見たことがない。
誰かが発言しない会議があると「君は何も喋ってないけど、この会議はそもそも必要なのか?」と言われる。真顔で。
これは、日本とアメリカのコミュニケーションの違いも大きい。例えば、日本人が「お世話になっております。表題の件ですが…」と書いているうちに、アメリカ人は「ok」の二文字だけで返信する。件名が「ok / EOM」で本文なし、なんてメールも多い。
必然的に報告だけの会議というのは少なくなるし、会議というのは発言をする場であるということが意識として徹底されている。
本国から来たマネージャーは、日本人が会議に出席していながら全く発言しないことに驚く。日本人は、会議という場が意見をぶつけ合う場にも関わらず異常に萎縮しているように見える。間違ったことを発言したら怒られるのではないか、と。俺自身はどんな馬鹿な質問をしても怒られた記憶はないが、発言しなかったらマネージャーに呼び出されてアドバイスされたことがある。
元増田はアメリカの大学のディベートを見たことがあるのだろうか?ディベートというのは、(悪い言い方をすれば)いかに黙らずに早口で屁理屈を言い続けるかを競うスポーツだ。イエールでもハーバードでもエリートが日々「どんな論点をどんな立場でも」ディベートに勝てるかを検査し続けている。(チョムスキーは、深い思索のないディベートがリーマン・ショックを引き起こしたと言っていた)アイビーリーグ卒業生が多い会社はそういうディベートの文化が根付いていて、会議のスピードが異常に早い。
アメリカ人はちゃんと主張する人を好む。給料上げてください」って言うと結構上がる。言わないと上がらない。大抵の企業では「1/1」という、マネージャーと一対一で話してアピールする場が設けられていて、そこの場でどれだけ自分が頑張ったかを語らされる。
それは、年功序列が薄いことと裏表だ。アピールできるやつはずんずん登っていくし、うだつが上がらなければそのままか、クビになる。だから、ボスにアピールすることはむちゃくちゃ重要なポイントだと考えられてる。
日本人のように「頑張っていたらいつか認められる」なんていうことは考えないし、キャリアというのは自分でアピールして掴み取るものだという意識が徹底している。
これはもう匿名ブログの宿命上、想像でしかかけないのだけど、元増田はあくまで「日本人」として接してもらっていたのではないかと感じた。それも日本人が多い多国籍企業の。
アメリカ人(特にサンフランシスコとかシアトルあたりの)は英語できないやつには慣れているので優しいし、日本人が入るような会社なら、シャイなのも知っているから話も振ってくれる。カリフォルニアなんか白人が4割しかいない。インド人の聞きづらい英語に四苦八苦し、イタリア人のコーヒーブレイクには付き合う。多国籍企業とはそういうものだ、と割り切っている。
そして、文化が違うこと、ネイティブじゃない言語で話す人との仕事の仕方をきちんとわかっている。だから、口ごもる人にはちゃんと時間をくれるし、わかりやすい英語を使おうと頭を捻ってくれる。それはポリティカル・コレクトネスに近い。(日本人だって日本語が下手な外国人がいたらじっと聞かないか?)
日本人が考えずに喋っているとは思わない。むしろもっと怯えずに発言すればいいと思う。どだい、会議というのは話すためにある。ただ単にボスの報告を聞くだけならメールでいい。わかっていないことがあれば空気を読まずに質問すればいいし、気になったことがあれば深く考え込まずに発言すれば良いのだ。
いささか乱暴な言い方ではあるけど、日本人はもっと適当でもいいからどんどん発言するべきだ、と言うのが個人的な結論である。発言することが時間の無駄になるようなメンバーが会議に居る事自体がおかしいのだ。
素晴らしく有能で深い思考を持っている日本人が、発言しないために低い評価に甘んじているのをよく見てきた。とてももったいないと思う。少なくとも、米系企業で働こうとしている人は、とにかく何でも良いから発言する癖をつけたほうが良い。わからないことがあれば聞く、考えていることがあったら意見を言う、適当でも良いから改善ポイントを言う。発言量を増やすだけでキャリアが変わる。
私はとても真面目だ。制服のスカートを折ったことも無いし、メイクをして学校へ行ったことも無い。課題は確実に出していたし、授業中自分から話したり、先生に横暴な態度を取ることも無かった。
私は母子家庭で育ったが、祖母と兄と母と一緒に暮らしていて、親戚同士の仲も良好だったため、たくさんの人に愛されて育ってきたと自負している。小学生の頃いじめられ、中学校に入ってから全く学校に通えなくなった時も、母が私のためを思い「どうして学校に行かないんだ」と怒られたことがあるこそすれ、無理やり学校へ行けと怒られたこともなく、なんなら「中学三年間なんてこれからの人生に比べれはちっぽけな時間なのだから、ゆっくり休めばいい。好きなことをしなさい」と言ってくれたおかげで、私は無事に高校へ進学した。
多少の家庭問題はあれど、それでも余るくらいに私は愛されてきた。ひきこもろうがどんなに反抗しようが、それでも常に私の心配をしてくれる人が周りにいて、私は本当に幸せ者だと思う。
だが、私は自己肯定感が低い。自分に自信なんて全くないし、取柄といえば真面目なところくらいだと思う。
こんなに愛されてきたのに、どうして私は自己肯定感が全くと言っていいほどないのだろうと、ずっと考えてきた。そして出た答えが、「真面目であること、そして正しいことを幸せだと思っている刷り込み式の考えにある」だった。
私たちは皆、努力すること、我慢すること、気を遣うことが美徳と学んできた。私も小さい頃からそう思って生きてきたし、うちはマナーにも非常に厳しい家庭だったため、それが当たり前だと思っていた。
確かにそれは素晴らしい考え方だし、共存に必要なことであると思う。けれど我々は、その考え方にとても苦しめられているのではないだろうかと、今となっては思うのだ。
私は言いたいことを言わないと気が済まない性格で、物事をはっきりと言っている。喧嘩をするときもそうなのだが、いくら怒っても、いくら自分の気持ちを吐露しても、なんだかすっきりしないことに気が付いたのだ。
言いたいことは言っているし、きちんと相手にも伝わっている。「私はこれが嫌で、こうだからあなたがどうしてそういうことをしたのかがわからない」と、自分の意思を伝え、相手も「そうか、わかったよ」と言ってくれているにも拘らず、気持ちが晴れない。伝えた直後はすっきりしていても、後々「あの時自分はこう伝えたけれど、本当に自分はそう思っているのだろうか」とまた思い直し、そうしてまた、相手が改善してくれたことも、「やっぱりそれは違う」となり、それを延々と繰り返し、問題が全く解決しないのである。
これについて私は、本当に長い間悩んでいた。「相手はちゃんと私が言ったことを受け止めてくれて、改善もしてくれたのに、どうして私は満足できないのか」と、常に自己嫌悪状態で、本当にこれだけで死にたくなるほど悩んだ。
悩んで悩んで、どうしたらいいのかと頭を抱えて悩んでいたある日、答えはふっと降りてきた。
「いくら気持ちを伝えてもすっきりしないのは、本音を伝えていないからだ」と。
そりゃそうだろう、と思われるかもしれないが、そこで出てくるのが、「正しいことを幸せだと思っている」なのである。
すぱっと言ってしまうと、私たちは常に正しさを基準に生きている。そしてそれこそが一番の問題なのだ。
本音というのは、自分の本当の気持ちのことだ。喧嘩をし、自分の気持ちを吐き出してもすっきりしないのは、「一般的な考えを踏まえたうえでの本音」だからなのだと思う。
私たちの中には、意識的にしろ無意識的にしろ正しさが基準として根付いていて、「本当はこう思っているけれど、それを言うことは正しくない」と、どこかで自然にセーブをかけているのだ。そのせいで、本音を言ってもすっきりしない、だって「本当はこう思っているけれど、それを言うことは正しくない。だからこう言ったほうがいいし、そのほうが幸せ」なのだから、という謎現象が起きてしまうのである。
そしてそれが起こる原因は、「真面目さ」にある。真面目な人は、全てのことを正しいか正しくないかで判断してしまう。それは、自分の気持ちですらその天秤にかけてしてまうのだ。
それはとても恐ろしいことだ。どんなに嫌なことでも、ただ「正しくないから」「正しいから」と、そのふたつで判断されてしまう。この恐ろしさを、私たちは皆持っているのではなかろうか。
真面目な人が鬱になってしまうのは、これが大いに関係していると思う。仕事を辞めたくても、どんなに体調が悪くても仕事をし、学校に行き、頑張ってしまうのは、それが「絶対的に正しいこと」と思い込んでいるからだ。かくいう私もそうだったので気持ちはとてもわかる。自分では気付かないうちに、自殺という選択肢しか残らないところまで自分を追い詰めてしまうのだよね。
だらだらと書いてしまったので結論を書くと、「正しいことが幸せなのではない。正しくないことが不幸せなのではない」ということである。
以前母と話したときに、私が「ホームレスを見ると悲しくなる」と言ったら、「案外あの人たちは幸せなのよ。縛られることもなく、気楽に生きていけるから」と言われ、そうかと思った。自分が思っているよりも、他人は不幸せなんかじゃない。本当に心の底から辛い人なんてそうそういないのだ。
「正しさを基準に判断し、他人を不幸と決めつける人」に言いたい。
正しいことが、必ずしも幸せではないということ。正しくない人が全員不幸なんかじゃないということ。自分の「幸せである条件、または物差し」――たとえば死に物狂いで頑張ることとか――から外れている人が不幸だなんて、そんなことは絶対にない。
そもそもSMAPという存在は後輩とあまり絡まない。中居の番組に出る(うたばん)くらいだった
『Jフレ』にSMAPが居ないのは、別に派閥どうのこうのという時期では無いことをはっきり言っておこう
紅白大トリ→CDTV特別ライブみたいなことをしていたので、ジャニーズカウントダウンライブにも出ていない
疎外されていたわけではなく、ただそうやって売っていたのだ
明らかに変わりだしたのは2010年くらいだったと思う
ファンの目の前に分かりやすく『派閥』が生まれた。ジャニーor飯島orジュリー。
細かいことは省くが、嵐の人気上昇などが影響していることは間違いない(それだけではない)
嵐がゴールデン番組を持ったので後輩や先輩と普通に共演していたが、今まで通りSMAPは積極的に行わなかった
SMAPと共演する人は、ほぼいつも決まっていた。しかもその共演者は、嵐とは共演しなかった
それで「おかしい」ことがバレはじめた
ただ、一つ言いたいのは、この『派閥』は当初は紛れもない『戦略』であったということだ
別のリーダーをもっている班同士が、別の人脈で仕事の幅を広げて、タレントを売り込んできた
まさか片方が独立しようと思っているなんてことは、考えもできなかったが
不仲なのは別に、最近始まったことでも無いと思う。不仲でもそのままやっていけたと思う、そういうグループだったはずだ
ジャニヲタとしてSMAPがなんか変だなと思ったのは、特典商法をしだした時だ。2013年か
複数買い推奨、バックヤード招待、ファン交流パーティー(イベントではなく、パーティー)を特典につけた
おかしい。SMAPはこういう商法をするグループでは無かったはずだ、というのがその時の印象
メンバーも流石にそこで、CD売上がかなり下がってきていることには気づいたんだと思う
そうやってメンバーの目に危機感を写すことは若手のアイドルには有効だが、SMAPの年齢だと引き際を考えるメンバーも居ただろう
あれから3年と考えたら、色々腑に落ちることもある
彼らの人気が絶頂時代の売り方は決して後輩に還元されるものではなかったし、SMAPその他みたいな売り方になっていたことも納得がいってないファンも多いと考えている
あげく現在SMAPのファンが後輩を叩いて叩いて叩きまくっているので、ますます避けられている感がある
SMAPを慕っていた後輩がかなり多いことだ
間違えないでほしいのは「SMAPと親しかった人が多い」というわけではない。関わりが無いので、親しい人は少ない
SMAP本人たちも後輩たちと接点が無かったので、いまだに後輩たちと接するのが全員ド下手だと思う(フォローしてくれないので後輩たちは緊張してしまい、ろくに喋れなかった)
でも多分どこかで「SMAPを目指そう」という意識が後輩たちにはあったのだと思う、もしくはジャニーに『目指せ』と言われていたグループもあるはずだ
ジャニーズは代々「アイドル意識せず正直なことも言いなさい」文化がマッチから根付いているので
派閥とか無視して「SMAPと共演したい」「SMAPみたいになりたい」という後輩たちはずっと居るし、騒動後もその声は止まっていない
現在の現状と、解散について感想は無い。無いというか、まったくまとまっていない。考えないようにもしている
でもこういうことも、終わってしまえば考えることも無いのかもしれない
今のうちに、と書いておいた
もし産まれる際に自分で性別を決められるなら男に生まれたかった。
メイクとかファッションとか清潔感とか、むしろ男のためというより女の世界で生きるためにあるよね。
そういいながらも私は、まだこの世界を捨てられないので世の慣習に寄り添っている。
でもなぜだか女の世界は怖い、というイメージが植え付けられている。
そのイメージは、ある一部の女性によって作られたものだと思う。
ねちねちとした噂話を笑いながらしていた。
もちろん本人には告げずに裏で。
むしろ対面で言われるほうが親切だと思った。
何か仲良くできない事情があるのだろうか。
ドラマとかで、意図的な女同士の対立を見てきたからそう思うのか。
こんな子いるわけないと思いながらも癒やされる。
男にだけ態度が変わる露骨な女の子はいっそ清々しくて、別の生き物を見ているようだった。
女の子、怖い。