はてなキーワード: 救急車とは
「やだひとりィ…」という声が初めて入る。ここで母親が死体発見したらしい
その後20秒ほど「ひとりぃ!ひとちゃん!」と呼び続けるも母親が涙声に。
「やだちょっとひとり自殺しちゃった…。お願い、首つってるぅ」と母親が何者かを呼ぶ。恐らく家族
頃ここから約十五秒ほど「ひとちゃーん、ごめんよぉ。ひとちゃん、ごめんごめん」と懺悔の声
母親が泣きながら誰かに返答。口調から恐らく救急隊の電話と思われる
「重いんで」「待っててください」等の声が聞こえるが文脈は不明
再度母親が「ひとちゃん」と呼びかけ出す。「これもうだめだな」と小声で呟く母親
「重くて無理」と言っている為、死体の引き下ろしを試みた模様
2023年度の予算案で、新たに100か所の追加対策を実施することを決めた岡山市の道路港湾管理課に尋ねると、まず
「危険ですが、用水路が“かみつく”わけじゃないですからねぇ」
というユーモアのある回答が返ってきた。
「以前は、用水路に落ちた程度なら自分ではいあがっている人が多かったんです。しかし、高齢者が増加したことで、転落した際に救急車を呼ばなくてはならないようなけがを負ってしまう人が増えているのだと思います」
「岡山市内だけで約4000kmもあるので、全部に対策をするのは無理です。お金もかかりますしね。それに柵があっても落ちる人は落ちます。柵の隙間から落ちるんですよ」
「道路幅が狭いところも多いので、車が通りづらくなるから柵の設置はやめてほしいと反対されることも多いんです」
「自転車で転落して頭を打つ事故も多いんです。ちょうど自転車のヘルメットも義務化されましたので、かぶったほうがいいでしょう。やっぱりヘルメットは重要ですよ」
数年ぶりに夢に出た。
変わっているところもあったが、基本構造は昔と一緒だ。地元にあって今はイオンになってしまったSATYがベースになっているが、地上二十階くらいに巨大化している。
俺がよく歩き回るのは本屋とCDショップが一緒になった妙にサイバーなインテリアのフロア、そしてその上の3フロアくらいに渡って立体的に広がるゲームコーナーだった。薄暗いかわりにレーザー光と蓄光塗料でけばけばしく彩られたゲームコーナーに様々な時代のゲーム筐体が並ぶ。中央にあるコイン落としは3フロアぶち抜きの巨大なマシンで、いつも老人がまわりに張り付いている。体を使うアクティビティ系のアトラクションもある。スノーボードのハーフパイプが倍くらいの規模になったやつがあって、特殊なシューズをレンタルして遊ぶ。受付で300円払って履いている靴と専用シューズを交換する。このシューズは床にピッタリくっついてハーフパイプを登れるモードと、床との抵抗を限りなくゼロに近づけて高速で滑れるモードを任意に切り替えられる。これを駆使してトリックを決めたり、延々滑ったりして遊ぶ。現実の俺は自転車通勤くらいしか運動はしないが、ここでは自由に体が動く。周りを見ると俺の他には小中学生しかいない。しかし彼らが小さい子供だという気はせず、同年代だという感覚がある。これはこのアトラクションが生み出された時期、俺もローティーンだったからだろう。感覚も施設に紐付いている。
祖父が亡くなってからは、この夢のショッピングモールでたまに眼鏡屋に立ち寄ることがある。最後に祖父と話したのが眼鏡屋だったからだろう。今回もそのイベントがあった。祖父がそこにいた。祖父は視力を測る機械の前に座って、奥で店員が老眼鏡を調整するのを待っている。
そう言って祖父は自身の瞳を指さす。俺は吸い込まれるように瞠目する。祖父の瞳は薄いグレーだ。知らない人も多いかもしれないが東北にはそういう目の純日本人がたまにいる。虹彩の細かな模様がきれいだと思う。俺の瞳は左だけすこし色が薄い。しかしきれいなグレーというよりは薄茶色だ。視力も少し弱い。完全に祖父と同じ、グレーの瞳だったら良かったのにと思う。そう言おうと思うが、次の瞬間には祖父は消えている。喪失感だけが残って泣きそうになっている。
SATYは実家から遠かった。俺が家族に連れて行かれるのではなく一人でSATYに遊ぶに行くようになったのは高校生になってからのことだ。通っていた高校からは徒歩で行けたので生徒たちの放課後スポットとしては最適だった。でも俺は別にSATYが好きではなかった。一緒に行く友達がいたわけでも、豪遊できるほど小遣いが豊富なわけでもなかった。それでも当時の俺がSATYに通ったのは、SATYへの道が当時好きだったクラスの女子の帰り道とかぶっていたからだ。マッスン、と彼女は俺をあだ名で呼んだ。
そんな流れで俺は15分ほど、彼女と二人きりで話すことができた。彼女は小柄で色白で、顔だけは広末涼子に似ていた。だからここでは広末と呼ぶ。広末は教室ではいつも田中という女子と行動をともにしていた。田中は特別美人でも秀才でもない普通の女子だったが、どうやら俺のことが好きだったらしい。その関係で俺もこの二人と絡むことは少なくなかった。クラスの奴らからは3人組みたいに思われてたかも知れない。しかし俺は田中がいる限り広末の心がこちらに向かうことはなさそうだと考え、いっそのこと田中を殺そうかと思ったこともある。もちろん本気ではないが。広末の家は町の小さな和菓子屋だった。俺は彼女と別れ際、義理で大福をひとつ買ってSATYに向かった。もしかしたら俺が婿入してこの店を継ぐのかも、なんて夢想したこともあった。
高2のある日、たった一度だけだが、広末がSATYに用事があるというのでそのまま一緒にSATYに行ったことがある。画材屋で店のディスプレイの材料を買うとか、そんな用事だったと思う。俺は荷物持ちを申し出て、広末も断らなかった。買い物が済んでから、屋上の植物園みたいな庭でベンチに腰掛けて二人でアイスを食べた。いつも大福買ってくれるから、とおごってくれた。俺はヨーグルト味で、広末はぶどうシャーベットだった。広末は一口あげるといって自分のスプーンで俺の口にシャーベットを入れた。俺は興奮で死にそうだったがなんとか平静な顔を保った。こっちも食べる?と聞くと広末は俺の「あ〜ん」を待つわけでもなく超速でごっそり半分以上ヨーグルトアイスを持っていった。取り過ぎだよひどい、なんて言ったが俺は幸福のあまり死にそうだった。
夢の中ではこの庭が広大で深い植物園になっている。熱帯の植物がジャングルみたいに鬱蒼としている中を歩いていくと、アイスを食べたあのベンチがある。そこには広末ではなく田中がこちらに背を向けて座っていた。
高3になると俺と田中が文系、広末は理系を選択して、広末とは疎遠になった。ただ田中とも別に関係が深まったりはしなかった。田中は既にどこかの大学生と付き合っていて髪を染めたりタバコを吸い出したりして感覚が合わなくなっていた。
夢の中の田中は高校生ではなく、数年後に最後に顔を合わせたときの姿だった。大学を出たものの終活に失敗して東京の小さい葬儀屋で見習いをしていた俺を田中が呼び出した。高校を卒業してから連絡を貰ったのはそれが初めてだったし、高卒で地元に就職した彼女が上京していたこともこのとき初めて知った。葬式が増える真冬で、俺は翌日の葬儀のために付き合いのある花屋に頭を下げて花をかき集めたところで疲れ切っていたが、なぜか田中からの誘いを断れなかった。蒲田にある田中のマンションはゴミ屋敷一歩手前という状況で、冷蔵庫の半分がスミノフで埋まっていた。
夢の中の田中もスミノフをハイペースでのどに流し込んでいる。ふわふわした素材のジャージ上下姿で、底辺の女という感じがした。
「マッスンも飲みなよ。ねえ、あたしさあ、この間また手首切っちゃった。それで救急車来たんだけどなんで来たのかわかんない。別れた旦那がいたから、どっかで見張ってて通報したのかも。ほら手首見る?ねえ寒いよね一緒に寝る?」
田中の視線は定まらずふらついている。あのとき田中がなんで俺を呼んだのか、わからないようでわかるような気もする。歪な三角関係のバランスで三人組をやれていたあの時期が田中にとっては幸福だったのかも知れない。俺は田中を殺したいとさえ思っていたのに。
気がつくとベンチの前には棺が置いてある。遺族が手向けた白い菊の花が大量すぎてご遺体が見えないほどだった。どんな人なんだろうとすこしドキドキする。葬儀屋をやっていると死体を見慣れてしまうが、死に慣れるわけではない。白い花びらにぽたぽたと紫色の液体が垂れる。ぶどうシャーベットだ、と思う。しかし違う。隣で棺を覗き込んでいる田中がヘラヘラと笑いながら手首から紫色の血を流している。遠く幽かにゲームコーナーの喧騒が聞こえる。ハーフパイプでは子供の俺が今もまだ飛び跳ねているような気がする。遠くに来てしまったと思う。
目が覚めると泣いていた。
もう10年ほど職場の人間以外と話しておらず、久しぶりに田中と話せたのが嬉しいと思う。今の仕事はもう葬儀屋ではない。だから長く死体を見ていないが、でも今日もどこかで誰かが死んでいるんだと思うと落ち着く。
SATYに行きたいと思う。
もう20年くらい前の話だが。
ほんとーーーーーーーーーに嫌で、2年目くらいからたまに断りだして、3年目でほぼ断り、5年目で全く行かなくなった。
仕事の話ばかりだし、酒飲めないし、金もかかるし、めちゃくちゃ疲れる。
メリットが全くなく、デメリットがクソでかかったから、行かなくなった。
しかしある時。
俺は「たまにはしゃーない。。。」と、渋々参加することに。
俺はマジで焦った。
そんなこと、いまだかつてなかったから。
その後、数日は特に何事もなく過ごしてた。
しかし!
社長から直々に呼び出され「飲み会が嫌だからといって、嘘をつくのは辞めてほしい」と言われてしまった。
俺は「いや!あれは本当に子どもが!!!」と熱弁したが、社長は「まぁ。。。そんなに嫌ならいいんだよ。。。」と。
仕事は頑張っていたし、プライベートの時間を削って勉強してたし、それなりの成果も出していたし、そこそこ好きな会社だった。
でも俺は、この時から「いつか会社を辞めるだろう。。。」と考えるようになった。
その時は、ちょうど三人目の子供が生まれる寸前で、急遽実家から金を借りたりと、人生で初めて金のために奔走した。
なかなか良い子に育ってくれ、努力の末に某国立大に受かって、うれし涙というのを人生で初めて経験させてくれた。
俺はと言えば、退職後に個人事業主となり、その後法人成りして、今も細々とやっている。
それなりに楽しい。
これは飲み会がどうこうって話じゃない。
ストレスを避けるためには、一般的なレールから外れるかもしれない。
レールから外れる人生は、リスクもあるし、先が見えない恐怖もあるし、周りからの冷たい目線もある。
でも、俺がサラリーマンを辞めて思うのは、「自分がそれなりに楽に生きられる環境は、結構ある」もんだと思う。
いろんな経営者やフリーランスの人たちに会って、いろんな人を見てきたが、独立した人はなんだかんだ、自分が楽な道で食っていると思う。
新しい道に進みだした息子にもそうした道を見つけてほしいと思う
身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。
コメントで、築50年、1970年代に作られたマンションの様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。
このマンションは1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取りは3LDK。私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年、1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。
小学校に入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれが班長、レストランのせがれが副班長。スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋の社長、理工系の技術者、保育士、共産党員、福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋のおやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油や砂糖がないときは借りに行ったりというつきあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域の情報を過剰に共有していた。マンションが商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったかの情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。
おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者はほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり、住民がいぶかしがるような時代だった。独身者はアパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民がマンションに住むという構造だったのだと思う。商店街にコンビニやレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しかし資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館や集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズのコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京の未来を信じていた時代だったのだと思う。
その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人と同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由な暮らしを謳歌していた。文化的な地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブのファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線と私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。
そんな2000年代。わが地元のマンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化したからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンションの世帯は四方にあり、衛星放送のアンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたとき、マンションの理事会が開かれるという。私は屋上に衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき、長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話でインターネットに繋いでいた時代の話だ。
「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンションの構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下」である。エレベーターはマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段だけが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人は住み込みで管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心ついたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦で住民とは打ち解けている。数年前、管理会社の方針で住み込みでの雇用は打ち切るとなったとき、マンションの自治会が自治会費で管理人室を買い取り、管理人を雇用することになったとのことだ。そのときの声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込みの管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠に管理人に介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人の裁量で判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民も管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。
マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球やサッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターとしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭の大人は行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技は禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師の夫人が、先生の師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき、野球だサッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由な環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。
たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護が必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしをいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生は最近どうなのという話題は常にあがる。先生はスーパーや下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。
死ぬほど嫌い、、というか普通に一刻も早く死んでほしいGG(父親)が、
期待したね。ポックリ逝ってくれることを。
そんなわけで、私は期待する気持ちを抱えて母と病院に向かおうとしたわけだが、
酔っぱらって転んであばらを折っただけだったという…。
それでも一緒に飲んだ人が付いてくれてて申し訳ないから母だけは病院に行った。
(しかもよりによって、実家から1時間半くらいかかる場所に飲みに行ってた先で搬送されたから搬送されたから病院も遠い)
そしたらただの肋骨骨折ではなくてそれが肺に刺さって肺がしぼんで…とか結構大事だったらしいけど、
いつもそうなんだよあのGGは
ああ、腹立つからここで発散しようと思ったけど、なんかもう書いてるだけでイライラしてきたから
いったんここまでにする。
あーーーほんと死んでほしい。
そして2週間くらいは入院とかいう話だったのに、結局1週間で出れてしまってもう帰ってきたんだよ。
まじウッザ。
自分は人混み嫌いだから、宅配便が毎日来て、ピザのデリバリー配達地域に入ってる程度の田舎なら、めっちゃ住みたい。
この前提だとwifiさんも、そこそこ仕事できる環境だろうし。
人混みの中を摺り抜けて、やたら背の高いオフィスビルのエレベーターで高いところ怖いってガクブルする事と比べれば、救急車がちっとも救急な時間で来なくても諦めが付く。
やたらデカイ昆虫やネズミやハクビシンとの戦いにも従事できる。人間の波に飲まれる恐怖に比べれば。
ちなんどくと、ウチの実家はピザのデリバリー来なかったよ、最近まで。道一本挟んだ程度の隣の地区には来てたんで涙を飲んでた。
来てくれるようになったピザ屋も、いつ配達しなくなるか、閉店するかって動向を伺ってる。
うらやま。
別に映画の「ここはどこ!?わたしは誰!?」みたいな記憶喪失モノのような派手な展開ではないから期待しないで読んでほしい。
正確には、俺は車を時速34キロで飛ばしていた。その時のメーターが今も目に焼き付いている。
俺は盛大にビビった。だが別に大事故を起こすようなことはせずに、近くにあった吉野家の駐車場に駐車した。
そこで自分の状況を理解しようと試みた。今この状況の自分が理解できない、何をしようとしていたかが理解できない。だから身近な自分の情報から思い出してみることにした。
年齢、32歳。
妻の名前は○○。
全部覚えている。
だけどなぜ、さっき、俺が運転していたのかは全く思い出せなかった。
最後の記憶を思い出そうとしてもそこにある感じはあるのに、思い出せない。ド忘れの感覚に近い。
俺は震えた。生まれて初めての恐怖だった。意味がわからなかった。パニックになりかけて、呼吸ができなくなった。車の中というものが迫り来る牢獄のように感じて、あわてて飛び出した。
空は暗かった。
10年ぐらい愛用の時計(カシオの1000円で買えるやつ)を見たら、23時の土曜日だった。
なんとなく吉野家に入った。「らっしぇー」という吉野家の店員の馴染み深い声が聞こえ、とりあえず牛丼並卵付きを頼んだ。20秒ぐらいで牛丼が出てきて、とりあえず食べた。いつも通りの味。
牛丼を食べたことによって落ち着いたのか、俺は自分の状況を冷静に考えることに専念することにした。お冷をもらった。
確かにどこかの時点の記憶を喪失しているが、俺は記憶の大部分を覚えている。少なくとも俺はこの吉野家が家の近所にあることを覚えているし、ここから車で5分で家に着く。
そもそも「記憶喪失」なんてSF映画でしか見たぐらいの知識しかなかったから、正確な分析なんてできるわけはない。
俺は妻に電話をかけた。
「どうした?まだ帰ってこないの?」
という妻の馴染みのある声が聞こえてすごく安心した。俺はこう言った。
「いま近所の吉野家にいる。運転中に何が何だかわからなくなってここにいる。正確にはわからないが、数時間か、数十時間の記憶がない。でもお前のことは覚えているし、1週間前の仕事の内容すら覚えている。とにかく迎えにきて欲しい。あの吉野家だから」
と早口で説明すると、妻はチャリで吉野家に来た。理解が早いのは俺の妻の自慢のポイントの一つだ。
病院で徹底的な検査を受けたが、俺の脳にはなんの異常も見つからなかった。
突発的なストレスで記憶がなくなったのかもしれない、という診断だった。
妻と記憶を擦り合わせると、俺は好物のチョコボールをコンビニに買いに行く途中だったという。
記憶のもやが晴れてきて、最後の記憶は土曜日の朝に髭を剃る場面だと分かった。そこから逆算すると、おおよそ16時間分の記憶がすっぽりと抜け落ちたことになる。
なんとなく不安を覚えながらも、俺は日常生活に戻った。仕事を休むわけにはいかない。
だがおよそ2週間後、全く同じことが起きた。
今度は仕事中(リモートワーク)だった。俺はおそらくPCを休止状態にしようとしていたのだろう、マウスカーソルが休止ボタンにかかっていた。
俺はあの「吉野家事件」以来、iPhoneに日記を書くことにしていた。日記と言っても簡素なもので、何日に何々をした。とかそんなもんだ。
でもこれが役に立った。この日記を参照すれば、俺の記憶の欠落期間がわかるのだ。
もし記述の中で覚えがないものがあるとすれば、俺はそこの時期の記憶をなくしていることになる。結果としては、俺は火曜日の夜から記憶を失っていることがわかった。
俺は妻に報告し、また病院に行くことにした。だがいくら精密な脳検査をしても異常は見つからなかった。医者は「非常に珍しく、確定的ではないですが」と前置きしつつ「一過性全健忘」という病名をつけた。
これは原因不明の病気で、突如として数時間から数日の記憶が喪失する病気だという。まさに俺に当てはまっている。だが俺のように再発を繰り返すケースは珍しいらしい。ちなみに治療法も薬もないという。
確かに記憶が消えるのは不便だが、慣れればなんということはない。
おおよそ1ヶ月に1度は発症する傾向があることも繰り返しの記憶喪失で判明した。
昨日60手前の母が倒れた。原因は孤独感だったみたいで衝撃を受けたので徒然なるままにまとめる。
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父親はDVの挙句に早死にしたので、長いことシングルマザーとしてやってきた母。
DVの影響か鬱っぽいの続いている。
もともと責任感の強い人で、大学までは親の責任として学費を出すと言い、本当に出してくれた。
大学卒業したら親卒業だからと言って、老後は自分で面倒を見るから。迷惑かけない。と言って、年に数回スマホの使い方がわからないとかをLINEする以外で助けを求めることがない。母の実家は飛行機の距離で数年に一度帰るくらい。父親の両親(私から見て祖父母)の面倒も最近まで積極的に見てた。
昨日、母が朝から「めまいと耳鳴りで起き上がれない」と電話が来て飛び起きた。脳卒中かなと思った。
「救急車呼んだ方がいいと思う?」と聞かれ、この期に及んで人に頼りたくないかと思い、とりあえず迷うなら#7119で相談してみろと言って急いで身支度をした。
次電話が来た時は救急隊員で、病院探してるので決まったら教える。と言われた。
最近、実家の猫が危篤と言われ、実家に向かってる途中に亡くなってしまったことがあり、母も向かってる間に死んだらどうしようと思ってちょっと泣いた。
で、慌てて病院に行ったら原因はストレスだから帰ってもらって大丈夫だと言われた。脳も血液検査も大丈夫だったらしい。
ベットからまったく起き上がれない母を見て、そんなことあるか!?と思った。起きあがろうとすると胃の中のもの(もはや水しかない)を全部吐いてしまっていて、連れ帰ることすら厳しい。
このままだと連れて帰れないから入院させられないか相談したら、「別にいいけど原因がストレスだからオススメしない」と言われ、おすすめしないと言われてもいやだから連れ帰るほうが大変なんだけどと正直困った。
母にストレスのことを話を聞いたら、確かに最近は仕事と親族のことでストレスがすごいと。思い出すとここ2日はまともにご飯も食べてなかった。家に帰ると孤独感がひどくて体冷えて辛く、お腹が空いても食べる気が起きないと言う。いやそれ鬱やんけと思ったのと同時に、永田カビさんの漫画で「孤独感で体の芯から冷える。物理的に体を温めても温まらない(意訳)」と書いてあったがこのことかと思った。
医者曰く、「我慢のし過ぎ」だと。普通、食欲がなくなったりしたら普通は休むけど、この人は他人に弱いところ見せられないから無理するし休めない。入院しても他人ばかりの環境においたら悪化してずっと退院できなくなる。家に帰って休んだ方がいい。しばらくは娘さんに面倒見てもらいな、と。
いやーーーーー!医者ってすごいね。無理矢理連れて帰って寝かしたらその日のうちに歩けるようになった。
薬飲んだのもあるし足元はおぼつかないけど1人でトイレに行けるようになった。何より吐かない。
家の中に誰かがいると言うのが1番安心するらしい。母を寝かした後暇すぎるのでテレビ見ながらスマホいじってて、音がうるさかろうと寝室の扉を閉めたのに少し開けて欲しいと。
起きたら普通に会話するし、コーヒー飲みたいとか言う。流石に止めたけど代わりにコーヒーゼリーをパクパク食べた。
流れで最近のことを聞いたら、今まで楽しく見ていたアニメ、漫画、中国ドラマなどの娯楽が年々楽しめなくなっていて、ここ数ヶ月はテレビすらつけず。
仕事するか、寝るか。惰性で続けてるスマホゲームやるかという日々で、自分が発生させた音しかしないことに孤独を感じてたらしい。
人が家にいるだけで回復するなんてことあるのか…救急の患者みてる人たちはすごいぜ…。
マジで適当に診断されてると思った。申し訳なかった。ありがとうございました。
起き上がるのに時間がかかるのとふらつく以外はほぼ回復していて、母に寝てろと言うのに「これがここにあるから使って」とかもてなそうとしてくる。死ぬまで母親やらせてた方が元気に過ごせる人なのかもと思った。
あと、好きなことを好きなタイミングで会話できる人がいると言うのがよかったらしい。職場の人とかは気を使ってしまってダメみたいだった。
医者の言うとおりしばらく実家に泊まって様子見をするが、数日のうちに「娘を無理矢理留まってもらってる」のが辛くなって無理を始めるのが目に見えているので今週中にはサクッと帰ろうと思っている。
(すでに申し訳ないらしく、杖を注文して1人で生きる準備を始めている)
幸い電車で1時間半くらいの距離なので、しばらくは頻繁に様子見に行くけど、その後も1-2ヶ月に一度くらいは遊びに行こうと思った。1日遊びに行くだけで倒れないなら安い。
30代、プログラマ。体調が悪くなり、仕事を休み、様々な病院へ行った。
その過程で倒れて、救急車で運ばれたが、そこでは特になにもなく即日退院となった。
心療内科では、適応障害という診断がおり、休職したが、それからも私は仕事がまともにできなくなったと思い、結局退職することにした。
薬は鎮痛薬が処方され、それを飲み、横になる日々を送った。
よく考えたら、プログラムもめちゃくちゃ好きな人に比べたらそうでもないじゃないか。
横になっている時にそんなことを考えた。
私の内のサイコパス的な声が語りかける。
お前はもう頑張ったじゃないか。今死ねば保険金の条件もクリアしているし、何より働く必要もない、経済全体が良くなる展望もないじゃないか、と。
ない。ない。……ないはずだ。
そのせいで本を読んでも内容が頭に入らない。
だがボーっと釣り糸を垂れるような人生の使い方をするのは流石に勿体ないと感じてしまう。
美術館を巡って目玉の展示とやたら長い時間睨み合ったりするというのを思いついて実行に移したが、感受性も落ち着いてしまったのか第一印象以上の何かを見いだせたかさえ疑問に終わった。
こうもまともに生きれなくなってくると今度は「老人なりに自分の体を労ること」が趣味になってくる。
温泉に行くとかグルコサミンサプリをいくつも試すとかそういったことで「身体が改善されていると錯覚すること」が本当に楽しいので辛い。
学ぶ・観る・遊ぶといったことで得られなかった達成感が健康に関してだけは得られる。
年寄りの冷や水でジム通いをして救急車を呼ばせる迷惑な老人が産まれるのも納得の楽しさだ。
「ウンチ」は奥が深い。
主成分は食物繊維と腸内細菌であり、食事を減らして飲料中心の生活をしても細菌分のウンチは出てくる。
だがその量は通常よりも明らかに少ない。
では逆に食物繊維を取るとどうなるかというと、「取った食物繊維の分×(1+便の水分量)」が出てくる。
ウンチは水分含有率が高いので、大体5倍ぐらいになって出てくると思えば良い。
CMでたまにある食物繊維スティックで言えば、1本飲めば5本分ウンチが増えることになる。
1日3本飲めば15本分であり、スティックシュガー15本分ともなるとかなりのモリモリであることがわかる。
水溶性食物繊維だけをひたすら取りまくると、極めて危険なドロドロウンチを生み出すことが出来る。
少し力むだけでニュルニュル出てくるので、透かしっ屁をしようとしたときに直腸にあったら間違いなくアウトだ。
ただこれはその危険性が楽しいだけでウンチを出した時にメキメキと尻穴が広がりこの世界に新たな何かが飛び出していくあの感覚は味わえない。
やはり理想の「ウンチ」は「ちょっと硬めのごん太ウンチを漫画に出てくる💩の形が作れそうな一本勝負で出すこと」に他ならない。
尻穴を通っていつまでもいつまでもウンチが出続ける時の無限感に勝るものはない。
出し終わったあとの内蔵が一つゴッソリ抜けたような腹の物足りなさはサウダージさえ感じさせる。
これだけ大量に老廃物を出したのだから俺の体はどれほど綺麗になったのだろうかという達成感、これが今の渡しにとって人生最大のコンテンツだ。
今の私はある意味でウンコ製造機としての生を過ごしているのだろう。
それを少しでも納得の行く形にしてひり出すことが人生の価値となっている。
だが考えても見て欲しい。
誰に頼まれたわけでもなく、ただこの世界を汚すだけの存在として暮らし、むしろ自分が如何に世界に爪痕を残せたかを誇ってきたのが人類史ではないのか?
そこにようやく生まれた恥じらいが、子孫の世代に持続可能性を残すという立つ鳥跡を濁さずの精神なのだろう。
車の帰り道
有線車線走ってた
前の車が避けるような走りするから、避けるか〜って避けたら、人が倒れてた
でも少し走ってる間に怖くなってきて、110番通報
こういう場合は、離れないべきだったのだろうか
その後、救急隊の方から、電話があり状況がわからないことを伝えた
救急車も向かってくれたらしい
倒れていた人が一命を取り留めてることを願う…………